第二話 再会


 リヒサコニの森の入り口。黄昏時の眩しい光も、森の奥までは届かない。

 カーチムで借りた早馬は、その俊足を遺憾なく発揮してくれた。礼を言う代わりに、ゾロイがバナム用にと持参していた高級人参を差し出すと、早馬はそれをくわえて来た道を戻っていった。

「今日は、煤が出ませんように……」

 オリズスの祈りを聞きながら、ゾロイは別のことを考えている。

 よろず屋を名乗った短髪男は、アジネの母親である依頼人に引き合わせる目的で、ここに来ているのだろうか。

 この森には、ゾロイとその周辺の人間を除けば、長らく人の出入りがない。森の隅々まで見たわけではないが、人が文化的に暮らすにはいささか不便な場所であることは確かだ。鬱蒼と生い茂った木々が、人間を拒絶しているようにも思える。

「さ、行くぞ」

 答えは出ないが、アジネが残した記憶によれば、ここにいることは間違いない。ゾロイは決意を胸に、森へと踏み出した。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、ゾロイさん!」

 独り残される恐怖からか、オリズスは慌てた様子で追ってくる。

 目的地は、かつてゾロイが収容されていたことのある、隔離施設跡だ。今は使用者がいないため、手入れも行き届いておらず、廃墟となっている。

 しばらく歩くと、視線の先に、夕暮れの光が差し込んでいる場所が見えた。

「ほら、もう着くぞ」

 ゾロイの後ろで、おっかなびっくりしながらも、賢明についてくるオリズスに言った。

「ふうっ……」

「ここはまだ入り口だぞ。なんなら戻っても構わないが……」

 軽口を途中まで言い掛けて、ゾロイは口を噤んだ。

 見覚えのある人物が一人、ゾロイたちに背を向けてそこに立っていた。

「どうしたんですか? あっ、誰かいますっ」

 オリズスの疑問に答えることもせず、ゾロイはただ、目の前にいる人物の後ろ姿見つめていた。見覚えがある女だと、即座に理解した。

 一陣の風が、吹き抜けた。森の匂いが、懐かしさを連れてくる。

 朱い髪をなびかせ、女が振り返る。

 やはり、とゾロイは思った。

 朱い髪の女に視線を合わせ、ゾロイは言う。

「……久しぶりだな、ウリアツラ。変わってないから、一目でわかった」

 ゾロイの投げた再会の言葉に、朱い髪の女は口角を上げた。

「この朱い髪を見て、変わっていないとは……くくく、それこそおまえも変わっていないな、ベネッド」

 ベネッド、という言葉に、ゾロイは少し寂しさを感じた。

「その名前は、もう俺のものじゃない。今はよろず屋のゾロイで通ってる」

 ゾロイはまっすぐに、朱い髪の女を見つめる。

「それを言うなら、現在の私も同じだ。イアネルクと呼んでもらおうか」

 笑みを湛えたまま、ウリアツラも視線を外そうとはしなかった。

 しばらくそうして互いに睨み合ってから、ゾロイは長年抱いてきた疑問を口にした。

「どうして、何も言わなかった」

 ゾロイが何を問うているのか、それだけでウリアツラには伝わったらしい。ウリアツラはくくく、と笑い声を漏らす。

「私の身体の変調に気がついていたのか。……だとしても、泣き虫ベネッドに出来ることは何もない。ならば告げる必要もないだろう」

「泣けないあんたのすがりついた先が、医術の道だったのは理解できる。けど、相談くらいしてくれたって良かったんじゃないか?」

 奥歯を強く噛みしめる。苦い思いが、ゾロイの胸に蘇る。

「相談したところで、私の身体は元には戻らない。医術師でさえ解析のできないことを、おまえみたいな一介の民が、どうにかできたとでも言うつもりか? 私は精神的な支えを必要としていたんじゃない。完全な解決策を見つけるために、医術師に……いや、魔術師になったんだ」

 ウリアツラは、まるで自分に言い聞かせるように言った。笑みはなく、寂しげな空気を纏っているように見える。

「それが、たとえ人道を外れた行為であってもか」

「そうだ」

 躊躇いを露ほども見せず、ウリアツラは即答する。

「ゾロイさん、あの人がアジネちゃんを連れていったんですか?」

「なんだと? 娘、貴様何者だ?」

 突然、ウリアツラは叫んだ。オリズスはびくっと身体を震わせる。

「幽体なんだよ、こいつは」

 アジネは、半幽体であるため、通常は誰の記憶にも残らない。ウリアツラの強い言葉は、それを疑問に思って警戒した結果だろう。そう考えて、ゾロイは説明した。

「こいつって、わたしにはれっきとした名前があるんです! オリズスっていう、大切な名前が」

 ウリアツラのこめかみがぴくりと動いた。

「……イレス、という名前に聞き覚えはあるか」

「イレス! 彼女のこと、知っているんですか!」

「どういうことだ? 私の知っているオリズスとは、姿形が違う……」

 ウリアツラは腕を組み、何やら自分の考えに没頭している様子だ。

「おい、ウリアツラ、どうしてイレスのことを知っている?」

 ゾロイの言葉は、しかしウリアツラには届いていないらしく、表情から考えを窺うのは難しい。

 長い間、ウリアツラは黙って何かを考えていたが、思い当たる節が見つかったのか、ようやく視線をゾロイに合わせた。

「ベネッド、おまえはどういった経緯でここへ来たんだ?」

「俺はよろず屋として、依頼人から請け負った仕事をこなしにきた。それだけだ。あんたこそ、どういう目的でこんな辺鄙な場所へ?」

「カーチムで知人を見かけて、だ。追いかけているうちに、気がつけばここに立っていた」

 嘘は吐いていない。だが、手の内全てを晒す時ではないとゾロイは感じていた。ウリアツラも、おそらくは同じだろう。ねじ伏せるような威圧もなく、昔よく見た彼女の面影がそこに感じられたからである。

「そうか、あんたはゲーブを追いかけてきたのか。自分の娘を連れているところを目撃したなら、尚更追いかけずにはいられなかっただろう」

「自分の、娘……? 誰のことを言っているんですか、ゾロイさん」

「アジネは、ウリアツラの娘だ」

 はっとオリズスが息を飲んだ。

「いつ、気が付いた?」

「俺の目は節穴じゃない。最初こそ気がつかなかったが、これでももう長いこと一緒に暮らしているんだ。アジネが成長していく度、昔のあんたに似てきていると感じたよ」

 正直にゾロイは言った。

「そ、それじゃあ、この女の人が、アジネちゃんを探すよう依頼した張本人ということですか」

「いや、それは違うだろう。まともなよろず屋ーー少なくとも俺なら、依頼人への報告を先に済ませる。対面はそれからだ。それに、オリズスの言った通りなら、どうしてウリアツラの傍にアジネがいないんだ」

「それは……」

 オリズスが言い淀んでいると、旧隔離施設の建物から、ぎい、と扉が開く音がした。

 音源に視線を向けると、そこにはアジネを連れていった短髪男が一人、立っていた。

「久しぶりだな、ベネッド、ウリアツラ」

 短髪男は、ゾロイとウリアツラを交互に見て、柔和な笑顔を見せた。

「ゲーブ……」

 呟いたのはウリアツラだった。彼女はふらふらと、覚束ない足取りでゲーブに近づいていく。まるで、魔術にかかったように虚ろな表情で。

 驚きで硬直したまま、ゾロイはふと、ゲーブの足下を見た。

 瞬間、戦慄が走る。

「待てっ、ウリアツラ! そいつはゲーブじゃない」

 ゾロイの発した大声の制止に、ウリアツラはぴたっと足を留めた。

「長いこと会っていなかったから、僕のことを忘れたのかい?」

 ゲーブは両手をお広げて、おどけて見せた。

「ゲーブのことを忘れるわけがないだろう。だが、おまえはゲーブじゃない。ウリアツラ、足下を見ろ!」

 ゲーブの姿をする男の足下に、煤が蠢いている。

「これは失敬。獣に直接触れ過ぎたかな」

「こ、これはどういうことだ……? ゲーブ、説明してくれ!」

 ウリアツラは煤を見て、顔を歪めた。

 苦しげなウリアツラの顔を見て、ゾロイは胸が締め付けられた。

「どこから説明すれば良いのかな」

 対照的に、ゲーブの姿をする男は笑っている。

「おまえがゲーブの幽体を乗っ取ったあたりから話してもらおうか、クート」

 ゾロイは、その名前を口にする。

「く、クート、だと……? だが、この姿は紛れもなく、ゲーブのものだ。記憶を見ることはできても、幽体を乗っ取るなど、できるはずがない!」

 朱い髪を振り乱し、ウリアツラはゾロイの言葉を否定した。

「ウリアツラ、よく聞いてくれ。俺は昨日、マニグスに行ってきた。研究施設の中にあるクートの部屋に忍び込んで、あるものを見つけたんだ」

「……ある、もの?」

「ゲーブの身体だよ。どういう理由でそれを行っているのかはわからないが、ゲーブの身体がクートの部屋に保管されていたことが、この男がクートだという証拠だ」

「無断で人の部屋に入るなんて、誉められたことじゃないなあ」

 ゲーブの姿をした男の身体を、煤が覆った。

 顔の輪郭が、腕が、胴体が、足が、次第に変化していく。

 身体を覆っていた煤が徐々に溶けると、その中から金髪の男が姿を現した。

「き、貴様、クート! しかし、そんな芸当が可能だったのか……? 私の研究では、幽体を他の人間の身体に移すことさえ、まだ成功例がない」

「成功例? それならほら、目の前にあるじゃないですか」

 正体を現したクートは、にやついた顔でオリズスを指さした。

「え……わたし?」

 血の気が引いた顔で、オリズスは言った。

「覚えていないかい? 君は無意識にお友達の姿になっているみたいだけれど。ええと、なんて言ったかな……、そう、イレス、という名前だったかな。君たちがマニグスから逃げるから、仕方なく僕が始末したんだよ」

「オリズスがこうなったきっかけは、やはりおまえだったのか、クート!」

 ゾロイは、自分の全身に怒りが満ちているのを感じていた。

「しかし、僕は君たちに感謝しなくちゃいけないね。こうして新たな実験ができるんだからさ」

 クートはそう言い残し、踵を返して隔離施設へと入っていった。

 扉の向こうには、闇がぽっかりと口を開けている。

 ゾロイは一人で建物に乗り込むつもりだった。が、周辺の木々の間に蠢く煤を見つけたため、オリズスをここに一人残していくのは危険だと判断した。

「ここは危ない。どうやら奴の策にまんまとはまってしまったらしい。この建物の周りは煤だらけだ」

 建物の中には、おそらくアジネもいるだろう。たとえ罠とわかっていても、ゾロイに選べる道は他に見あたらない。

「私も一緒に行こう」

 ウリアツラは正気に返ったらしく、表情にも生気が戻っている。

 ゾロイは少し迷ったが、肯き、闇へと続く一歩を踏み出した。



 隔離施設に足を踏み入れるのは、ゾロイにとって心地の良いものではない。

 かつて暮らした施設の中は、ゾロイの想像よりも狭かった。手元の灯りで、充分に周囲を把握出来る。

 収容されていた頃には、行動範囲が限定されていたため、全ての部屋に入ったことがあるわけではなかった。それ故にゾロイは、アジネの居場所の特定が難しいと感じていたが、ご丁寧に建物の中には光石による灯りで道が示されていた。

「見せたがりの性質があるようだな」

 マニグスにあるクートの部屋も、施錠がされていなかったことを思い出した。

 その道を、警戒しながら歩く。

「なあ、どうしてカーチムへ来たのか教えてくれないか」

「ニヒサスムで黒い獣を倒した男がいると聞いて、私の脅威になるかどうか確かめておきたかった。そうして探ってみた結果、おまえだったと知ったから、気まぐれに立ち寄ったということだ」

 ふてくされたように、ウリアツラは言ったきり、黙った。

 煤けた匂いを嗅ぎながら、クートの誘う道に、こつんと足音が響く。

 ふいに、廃墟に似つかわしくない、爽やかな香りがすることに気が付いた。

「この匂いって、わたしの着物の……」

「これはおそらく、おまえが幽体化するきっかけになった薬から発せられた匂いだろう。ニヒサスムでの一件も、クートの仕業だ」

「でも、あれはベドさんの奥さんがやっていたんじゃないですか」

「だから、それがクートなんだよ。かつらか何かで髪の色は隠していたんだろうな。流行りの着物をやたらと広めようとしていたのも、お香に詳しいのも、全部同じ行き先にたどり着く。幽体化を大規模に行うため、という人道外れた行為のな」

「い、一体なんのために?」

「それは直接聞いてみればわかるだろう。何せ、見せたがりのようだからな」

 光石が誘う道は、重々しく鎮座する扉の前で途切れている。

 躊躇なく、ゾロイは扉を開ける。そこには広々とした空間が、壁に備え付けられた灯りでほのかに照らし出されていた。記憶にはないが、かつては大部屋として使用されていたものだろうと推測した。

 部屋の奥に、台座があり、そこに横たわる人影がある。

「アジネ!」

 ウリアツラの叫んだ声がこだまする。

 返事はない。しかし胸が上下するのが遠目にもわかった。どうやら無事らしい。

 その台座の傍らに、クートが立っている。その手はアジネの身体に添えられていた。

「ご心配なく。お嬢さんは無事ですよ、魔術師様」

「その名で呼ぶなと言ったはずだ、クート。貴様、アジネに何をするつもりだ」

 薄明かりで照らされた朱い髪が、壁で揺れている。

「おっと、近づかないでくださいよ。せっかくの実験を邪魔されてはかなわない。あなたたちには、別の実験を手伝ってもらうとしましょうか」

 クートは空いている方の手を宙にかざして、何やら詠唱を始めた。

 ゾロイはそれを止めるために、駆け出した。が、ずしん、と地響きがして、足を止めた。

 静寂が、耳に痛い。身体が硬直して、皆一様に動けないでいるようだ。

 と、その時、天井から何か、大きな影が降ってきた。

 ちょうどこの部屋の真ん中あたり、ゾロイたち三人とアジネとクートの間に、その影ーー黒い獣は立っている。

「く、黒い獣っ!」

 大きな体躯に似合わず、黒い獣は、まるで重力を感じさせない。着地時にも、さほど大きな音はしなかった。

 先日ゾロイがニヒサスムで倒した獣と、ある一カ所を除いて見た目に相違はない。

「ちょっとこれで遊んでいてください。僕はお嬢さんに施術せねばなりませんので」

 にやりと不適な笑みを残して、クートはアジネを連れて闇に溶けた。

「待てっ、クート! くそ、早くこいつを始末して追いかけなくてはっ」

 瞬時に戦闘態勢を取るウリアツラ。全身が青白く光り出す。

「やめてくれ、ウリアツラ。この黒い獣は……俺が、何とかする」

「……ふん、いいだろう。私の目的はこの隻腕の獣ではない」

 言うなり、ウリアツラは素早い動きで黒い獣の横をすり抜けて、闇に溶けたクートを追った。

 ちらり、と視線をウリアツラに向けはしたものの、黒い隻腕の獣は、依然としてゾロイたちを見下ろしていた。

「な、なんかこっちを見てませんか?」

「下がっていろ、オリズス。……くるぞっ!」

 隻腕の獣は、地を蹴って走り出した。

 ゾロイは鞘から剣を抜いて身構える。力を込め、柄の根本から青白い幽体の剣が、刃の形になっていく。

 猛烈な勢いで向かってくる隻腕の獣。しかし、その方向はゾロイではなく、オリズスのようだった。

 ゾロイは素早くオリズスの前に移動し、攻撃を繰り出す獣の腕に、一閃を放った。

 すぐに後方に跳んで、獣はゾロイとの距離を取った。

 隻腕の獣は、唯一の腕を傷つけられた怒りがあるのか、うなり声を上げている。

 にらみ合う、ゾロイと隻腕の獣。

 互いの呼吸音が、廃墟の大広間に吸い込まれていく。

「ゾロイさんっ、あの光石は持ってないんですか?」

 静寂を破るオリズスの声を合図に、再び獣が駆け出す。

 繰り出される隻腕。ゾロイは幽体の剣でそれを受け止めた。

 力比べでは、ゾロイに分が悪い。

 怪力に押しつぶされそうになりながら、それでもゾロイは耐え続ける。

「どうして、ニヒサスムの時みたいに、攻撃しないんですか!」

 ゾロイの背中に、オリズスの叫び声が突き刺さった。

「一つ確認しておきたいんだが、おまえは見つけた捜索対象者と、何も話さなくても構わないのか?」

「ど、どういう意味ですか。アジネちゃんのことですか」

「こいつ、片腕になっているだろう。さっきウリアツラが通り過ぎても攻撃しなかったのは、そういう理由だ。おまえだけを狙っている」

「そ、そういえば……ずっとこっちを向いていますけど……それが一体なんだと言うんです」

 隻腕の獣の力が一層強くなる。ゾロイの身体が、じりじりと後ろへ下がる。

「……こいつは、イレスだ」

「そんなこと、あるわけないじゃないですか。どうしてこの黒い獣が、イレスだとわかるんです」

「投薬で人工的に幽体使いを作り出す過程で、どうしても失敗が出てくる。元々の適性に差があるからかはわからんが、失敗例の多くは煤化していく。煤化を乗り切った者は、さらに次の段階である黒い獣の姿へと変貌するんだ」

「……なんの話ですか、突然」

「黒い獣になった者は、理性の大部分が失われる。そして本能だけで行動するようになる。ニヒサスムで遭遇した獣も、おそらくはあの近くに住処があったんだろう。長年積み重なった記憶が、獣の行動原理になるんだ。姿形も、自らの記憶による創造だ。そして、親しい人間や馴染んだ場所に会いに行こうとする。俺やウリアツラよりも、オリズスに強い関心を示しているのは、つまりこいつがイレスだっていう何よりの証明なんだ」

 ガアアアア、とうなり声を轟かせる隻腕の獣。

 じりじりと怪力で押され続けて、ゾロイの後ろには壁が迫ってきていた。

「イレス、なの?」

 隻腕の獣がオリズスに注意を向ける。

 力が弱まった一瞬の隙をついて、ゾロイは剣を素早く振った。

「このまま切り捨てることはできる。放っておく手もなくはない。決断は、おまえに任せる」

「他に方法は、イレスを元に戻すやり方はないんですか!」

「……それはできない。たとえばおまえの場合は、運良く幽体化に成功した例なんだ。だから元の身体さえ無事な形で見つかれば、元に戻る。だが、一度黒い獣になってしまった者は……幽体そのものが汚染されているから、な」

「じゃあ、私がイレスのためにできることは、何もないって言うんですか」

 顔は見えなくても、震えた声で、オリズスが泣いているのがわかる。

 どうにかしてやりたい。そうは思ったが、ゾロイも初めて遭遇する状況で迷いが生じていた。

 獣に、かつての自分を強く自覚させてやれば、あるいは……。

 と、そこまで考えて、ゾロイはあることを思いついた。

「おまえが被ったイレスの記憶を、この隻腕に戻してやれば、少しの間くらいは人だった頃を思い出すかもしれない」

 それは、薄氷の希望かもしれない。

 しかし、それでもやってみる価値はある。

「かまいません! このイレスの身体が必要というなら、私は喜んで差し出します。教えてください、そのやり方を」

 獣との距離を取るため、ゾロイは相手の足下近くの地面に光石を叩きつけ、爆発させた。

 煙が上がる。それを好機と、オリズスの手を引いて壁際から脱出する。

 獣は攻撃対象を見失っているのか、煙の中でぶんぶんと腕を振り回している。

「恨むなよ」

「えっ、どういうことーーーーーー」

 最後まで言わせることなく、ゾロイは自分の唇で、オリズスの唇を塞いだ。

 どん、と胸を押して、オリズスはゾロイから離れた。

「んなっ、なにを、ゾロイさんっ!」

「だから恨むなっつったろ。本当はやりたくなかったが、俺とオリズスの幽体の一部を繋いだんだ。これで、おまえが隻腕に取り込まれても、乖離させてやることができる」

 口づけをしたのは、オリズスとしての記憶を強くこちら側に残してやることが目的だった。黒い獣に取り込まれて融合した場合、これが唯一の綱となるはずだ。

「でっ、でも……今は不問にしますけど、後できっちりとお返ししてもらいますからね!」

 煙が霧散すると、隻腕の獣がゾロイたちに気が付いた。

「俺が隻腕の攻撃を食い止めている間に、獣に抱きつけ。取り込まれるが、俺がおまえだけは助け出してやるから安心しろ」

 向かってきた隻腕の獣の攻撃は一本調子で、ゾロイにとっては軽くいなせる動きだった。

 振り下ろされた腕を、先ほどと同じく幽体の剣で受け止める。

「今だ、オリズスっ」

 ゾロイの合図で、オリズスが隻腕の獣に飛びついた。

 ずぶずぶと、オリズスが獣の身体にめり込んでいく。完全に飲み込まれる前に、オリズスは叫んだ。

「ちゃんと助けてくださいよ!」

 オリズスの声が途切れると、隻腕の獣の動きがぴたりと止まった。

 ややあって、獣の姿が変化し始めた。黒い煤が輪郭を覆い、しばらくすると徐々に人の形へと変貌を遂げた。

 横たわる少女は、見慣れたオリズスーーイレスの姿形をしていた。

『オリズス……わたし、思い出したよ……』

 目は閉じたまま、イレスの口元が言葉を紡ぎ始める。

「イレス、わたしがわかる? ちゃんと聞こえる?」

 口調で、後者がオリズスのようだと、ゾロイは判断した。

『聞こえるよ……ありがとうね……今まで、わたしを探してくれていたこと、ちゃんと伝わったよ……』

「……う、うん。だってさ、イレスはわたしの家族だもん。探すのなんて、当たり前でしょ」

 同じ身体を使って、二人は会話をしている。短い間に表情が、泣いたり笑ったりと忙しない。

『なんだろうね、わたし、オリズスに会ったら話したいこといっぱいあった気がするのに、思い出せないや……』

「うん、うん……わたしもだよ。色んなことがあったんだけど……」

『なんだかほっとしたら、眠くなってきちゃった……』

「も、もっと話そうよ、イレス。ほ、ほらわたしさ、今はよろず屋に弟子入りしてがんばってるんだよ。だからさ、イレスのことを治してーー」

 言い切らなかったのは、イレスの意思が強く作用した結果だろう。

 イレスは目を開け、身体を起こすと、ゾロイを見た。

『ゾロイさん、ですよね。ごめんなさい、オリズスを借りちゃって。今、お返ししますね』

「ちょっと待って、イレスっ」

『ごめん、オリズス……。わたしが眠ってしまう前に、あなただけはちゃんと分離しておかないと……』

 ゆっくりと、それでも確かな歩みで、イレスはゾロイの元まで近づいた。

『オリズスのこと、よろしくお願いします』

 そう言うと、イレスはゾロイに口づけをした。

 イレスが青白く光ると、その身体は二つに分離した。

 ゾロイの目の前に立っているのは、見覚えのない少女だった。

 その後ろには、イレスが優しい笑みを湛えて立っている。

 見覚えのない少女は、意識が戻ったのか、目を開いて自分の後ろを振り返った。

「イレス、わたし…………忘れないよ、絶対!」

 イレスの身体から、煤が漏れ初めている。宙に霧散しているようだ。

『……ありがとう。わたし、いつでもオリズスの中にいるからね』

 煤が勢いよく、方々へと散らばっていく。

 さらさらと、ただ宙へと舞っていく。

 にこやかな笑みを残して、やがてイレスの幽体は見えなくなった。

 オリズスに掛ける言葉も見つからず、ゾロイは手持ちぶさたに俯いて地面を見ていた。

「……ゾロイさん、早くアジネちゃんを追いかけないと」

「ったく、おまえに気を遣われるとはな。……よくやったな、オリズス」

 ゾロイはオリズスの頭を荒っぽく撫でて、それから、強く抱きしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る