終章 リヒサコニの森で

第一話 アジネの行方


 ニヒサスムの病院、その一室にゾロイはいた。

 ゾロイの目の前に敷かれた布団に、情報屋のリックが横たわっている。

 昨夜、マニグスを出たゾロイは、バナムの背に跨がってニヒサスムまで移動した。到着したのは今朝方、まだ陽も昇らぬ未明の時刻。その時、行き倒れた女を発見した。

 最初、ゾロイは酔っぱらいかと思ったが、近づいてみると、それが知り合いだったことに気づいた。リックである。

 幸いにも、つてのある病院が近くにあったため、ゾロイはリックをそこに運び入れた。時間が時間だけに、知り合いの医術師の眠りを妨げてしまうのは心苦しくもあったが、陽が昇るのを待っていることはできなかった。

 医術師が診る限り、過度の貧血以外は別状はなく、少し休んでいれば回復するだろうとのことで、ゾロイはほっと胸をなで下ろした。

 もうすでに外から光が差し込んで、部屋の中は明るい。陽光は部屋の中だけでなく、リックの顔も、はっきりと照らしている。

(こんな顔で眠るんだな)

 誰かの眠る顔というのを、ゾロイは孤児院を出て以来、見ていない。だから、親しい間柄のリックの休んでいるところを見ていると、落ち着かない気持ちになった。

 こういう状況でもない限り、ゾロイとて部屋に居残ってはいない。しかし、リックの首もとに見える歯形と、行き倒れた経緯を聞かないことには、より落ち着かない。

 昨夜から一睡もしていないため、ゾロイも眠気を覚えていた。こうしてリックの寝息を聞いているからなおさらである。

 うつらうつらと、舟を漕ぎながら、ゾロイはリックの目が覚めるのを、ただひたすらに待っていた。

「……おおい、ゾロイ」

 その声に、ゾロイの眠気はどこかへと吹き飛んだ。

 ぱちりと開いたリックの目は、起き抜けのものではない。ゾロイは、自分が少し眠っていたようだと悟った。

「……具合はどうだ。痛みとか、吐き気とか、めまいとか、そういうのはないか」

 リックの表情からは、身体の異変を感じ取ることはできない。ゾロイは、医術師の診断の通りだったことに、心の底から感謝した。

 と、ふいに目頭が熱くなるのを感じた。

「痛いよ、どこもかしこも。……あれれ、ゾロイ、目が潤んでいるけど、もしかして心配して泣いてくれていたのかな?」

「うるさい。睡眠不足だからに決まっているだろう」

 にひひ、といつものように笑って、リックは自身の無事を報告する。

 ゾロイは、昨夜リックを発見してからのことを、要所をかいつまんで話して聞かせた。

「それにしても、どじったなあ」

「一体、何があったんだ? 情報屋にこんなこと尋ねるのは禁句かもしれないが、今日くらいはいいだろう。介抱してやった礼ももらわなくちゃならないしな」

「がめついなあ。それに介抱してくれたのは、ゾロイじゃなくって医術師さんじゃないのかな」

「それは治療だろ。俺が介抱してやったんだ」

「……まあ、仕方がないか。うん、話すよ。でもその前にお願いがあるんだけど」

 リックは上目遣いで、甘えたような声を出した。

 珍しく、殊勝な態度のリックを見て、ゾロイは妙な気持ちになった。

「今なら多少のわがままなら聞いてやってもいいぞ」

 そう言うと、リックはぱあっと顔を輝かせた。

「本当? じゃあさ、お酒を一升頼むよ。喉と舌が渇いてちゃあ、話せることも話せないからね」

「……わかった」

 酒を要求する冗談を言えるほどには、身体が回復しているらしい。ゾロイはリックに言いたいこともあったが、とりあえずは要求を聞いてやることにした。



「くーーーーーーーーーーーーーーーっ、うまいっ! 八面六臂に染み渡るなあ……」

 ぐい、と瓶ごと酒をあおるリック。もうすでに瓶の中身の半分ほどは、リックの身体の中へと入っていった。

 リックの場合、酒を呑むと勢いがつくため、舌は滑らかになる。それを期待して、ゾロイは病み上がりのリックに酒を振る舞ったのだが、当てが外れた。

 話はするものの、間にいちいち酒の感想を入れるために、どうしても時間がかかってしまう。これでは、素面の方がまだましだったかもしれないと、ゾロイは後悔していた。

「……それを言うなら五臓六腑だろうが。で、その朱い髪の女から逃げて、それで、その続きは?」

「続き? そこらへんで記憶が途切れちゃったんだよね」

「手がかりは、俺を探っていた朱い髪の女ってことだけか」

「だけってなにさ。充分でしょうが」

 ぶうたれるリックを横目に、ゾロイは深く考える。

 昨夜、リックは、朱い髪の女を尾行していた。正確には、夕暮れの頃からつけ回していたらしい。

 そもそもどうしてリックが尾行していたのかというと、ニヒサスムに現れた黒い獣の調査を続けていた結果、ある装飾品店にたどり着いたからだった。

 その装飾品店とは、オリズスが身につけている指輪を作った店である。リックは、黒い獣を退治した男と一緒にいた少女を追って、周囲に聞き込みを行っていた。そこから判明した店が、件の店だった。

 リックは頑固な職人の口を滑らかにしようと試みたが、客を売るような真似はできないとけんもほろろに断られた。

 そんな折、店に出入りする若者を見つけ、リックは声をかけた。幸運なことに、その若者は最近弟子入りしたばかりで、オリズスを客として知っていた。

 オリズスを探る目的で若い職人と接触したリックは、その情報の糸をたどって、朱い髪の女に行き着いた。

 朱い髪の女は、リックと同じく、黒い獣の足跡を追って、情報を集めているらしかった。リックは最初から、この女が同業者だとは思わなかったという。羽織に学術研究施設を示す印があったという目撃情報から、国が何かしらの動きを見せ始めているのでは、との考えに至ったようだ。

 リックがこの件をゾロイに尋ねなかったのは、情報屋の礼儀と、弟のような存在に危険な目に合わせないといった心遣いがあったからだろう。今も、肝心な部分、たとえば名前等の情報は伏せて語っているあたり、無意識にそうしているのかもしれない。調べればわかることではあったが。

 考えに耽っていたゾロイの頬に、ふいにリックの手が触れた。

「あんたもすっかり大人になったねえ……ねえ、ベネッド」

 病み上がりのせいか、いつもよりも酒の回りが早いようだ。リックの顔が赤く染まっている。声も、心なしか甘えたような雰囲気がある。

「……その名前は、もう俺のじゃない。今は他の誰かの名前になってるはずだ」

「ベネッドはベネッドだもん。いいじゃん、今は誰もいないんだし。昔みたいにさ」

 そう言うと、リックはゾロイの頭を撫でた。

「酔っぱらってんのか、リック。酒はそのへんにしておけ」

 ゾロイは、リックの手を掴んで、頭から離した。

 しかし、リックは再び手を伸ばしてくる。ゾロイは諦めて、リックのなすがままになっている。

「昨日も……あれ? 誰かがベネッドの名前を口にしていたような……」

「本当か! 一体、誰がその名前を口にしていたんだ?」

「ええと……、誰、だったかなあ……」

 リックはゾロイから手を離し、腕を組んだ。

「頼む、思い出してくれ」

 ゾロイは焦る気持ちで、リックに詰め寄った。

「そ、そんなに急かさないでよ。ちょっと待って……あ、そうだ、その朱い髪の女が言ってたんだった」

 心ごと、身体が強ばる。ゾロイの頭の中に、ある人物の姿が浮かんだ。

「一応訊いておくが、それは女、だったんだよな」

 リックは首を傾げ、ゾロイの言葉の意図を計りかねている様子だ。

「ん……言っている意味がよくわからないけど、あの人は確かに女だよ。情報屋の目利きを侮ってもらっちゃあ困るな。先入観を持って、調査対象を観察してはいけないって、昔から言ってるじゃない」

 胸を張って、リックは誇らしげな表情をしている。ここまで自信を持って断言するのならば、おそらく間違いはないだろう。ゾロイはリックの目利きを信じることにした。

「リック、俺は店に戻るが、平気か?」

 一瞬、リックはきょとん、とした顔になり、それからけたけたと笑い出した。

「真剣な顔して何を言うのかと思えば、平気かだって? 誰に物を言ってるんだよ、ゾロイ。こう見えても、身体は丈夫な方なんだから。弟が姉の心配なんかしなくっていいの。ほら、行った行った」

 片手で顔を覆い、空いたもう片方の手を振って、リックはゾロイに出発を引き留めるつもりのないことを示してきた。指の隙間から、きらりと光ものが見えたのは、気のせいだろうか。

「……すまん。本当は看病してやりたいが、一刻を争う」

「良いって言ってるでしょ」

 リックは、ぐい、とゾロイの身体を押す。

「俺の考えていることが正しければ、おそらくーー」

 ゾロイの唇に指をあて、リックは顔を隠したまま口を開く。

「説明は必要ない。後でたっぷりと聞かせてもらえば、それでいいよ。その代わり……」

「その代わりに?」

 言いよどんでいるリック。先を促すために、ゾロイは聞いた。

 しばらく躊躇っている様子だったが、リックは一つ頷くと、ようやく俯いていた顔を上げた。

「くれぐれも気を付けてね」

 リックの優しい笑顔は、出会った頃をゾロイに思い出させた。

「ああ、肝に銘じておく」

 短く答え、ゾロイは部屋を後にした。



 バナムの俊足のおかげで、ゾロイは真昼時に店に戻ることができた。

「ここで待っていてくれ、バナム」

 店の中に人の気配はなく、嫌な予感がゾロイの頭の中に過ぎる。扉を開けると、オリズスの姿が目に入った。

「おかえりなさい、ゾロイさん」

 いつもの溌剌とした笑顔はそこになく、オリズスの表情は、どこか暗い。

「どうした、何かあったのか?」

 尋ねるが、オリズスは俯いて、すぐには答えなかった。少し間を置いて、決心した様子で語り始めた。

「……実は、ゾロイさんが出かけている間に、お客さんが来たんです」

「俺がいない時は、客の応対をする必要はないと言っただろう」

 焦る気持ちを抑えることができず、ゾロイは、責めるような口調でオリズスに言った。

「ごめんなさい……わたし、どうしたら良かったのか……今でも、わかりません」

「すまん、おまえを責めたいわけじゃないんだ。教えてくれ、その客のことを。ああ、それから、アジネはいるか?」

 努めて明るく、ゾロイは訊いた。

「ご、ごめんなさい」

 しかし、オリズスは謝罪の言葉を口にするばかりで、要領を得ない。

「だから謝るなって。俺が訊きたいのは、そういう言葉じゃないんだ」

 オリズスは、視線を宙にさまよわせて、落ち着かない様子である。

「アジネちゃんは、ここにはいません」

 そう言うと、オリズスは今までため込んでいた感情を吐き出すように、嗚咽を漏らし始めた。

 堪えきれない涙をぽろぽろとこぼし、オリズスはしゃくりあげている。

 ゾロイは、オリズスの肩にそっと触れ、落ち着かせようとした。かつて、自分が誰かにそうしてもらったように。

 しばらくそうしていると、オリズスの荒かった呼吸が治まってきた。

「……もう平気です。ちゃんと、離しますから」

 鼻を啜り、目を真っ赤に染めながらも、オリズスの表情は、ゾロイに強い意志を感じさせる。

 オリズスの話をまとめると、次のような出来事があったらしい。

 今日、陽が昇り始めたその頃に、よろず屋の戸を叩く客があった。店の外に看板を出していないにも関わらず、その客はいつまで経っても立ち去ろうとはしなかった。

 あまりにもしつこく戸を叩くため、オリズスはその客に事情を説明して帰ってもらうつもりで、店の戸を開けた。

 そこには、昨日呉服屋で声を掛けてきた男が一人、立っていた。

 男は、アジネに用があると言った。自分はよろず屋を営んでいて、依頼を受けてカーチムまで出向いてきたのだと。

 訝ったオリズスは、誰の、どんな依頼で、ここに来たのかを問いただした。

 少しは言い渋った様子ではあったが、男はオリズスの詰め寄りに観念して、依頼者の素性を明かした。

 依頼者は、アジネの母親であると言った。行方不明の、我が子を探すよう命じられてここへやってきたと、その理由を添えて。

 証拠はと尋ねると、男は、こうしてアジネを認識していることがその証明にならないか、と不適な笑みを浮かべた。幽体使いであるとも述べた。

 オリズスは、自身の判断できる範疇を越えたと感じて、アジネの表情を窺った。まっすぐに男を見つめていたアジネの胸中は計り知れないが、逡巡した後、オリズスに、ちょっと店を空けると断りを入れてきた。

 そこまで状況の説明をすると、オリズスは深くため息を吐いた。

「黙って行かせるべきではなかったんでしょうか……。わたしは、アジネちゃんが会いたいなら、と思って……」

 再び、オリズスは目元に涙を浮かべている。

「行き先は聞いていないのか?」

「はい……、守秘義務、とかで。ただ、アジネちゃんが出かける際、変なことを言ってたんですよね」

「変なこと、だと?」

「リックさんに、例の件、頼んでおいてってゾロイに伝言お願いします、って……。ねえ、ゾロイさん、何か頼みごとをしていたんですか?」

「いや……」

 リックに頼みごとなどしていない。ゾロイ自身は、それをよく知っている。もしそれがあるなら、今朝リックに会った時にしている。

 第一、アジネはリックのことを知っていても、その逆は成立していない。ゾロイがアジネを紹介していないということもあるが、そもそもアジネは半幽体であるために、幽体の才能がない者が認識できない。

 アジネは何を伝えたかったのだろう。

「前もって、よろず屋の暗号か何か決めておいたりしていないんですか?」

「もちろん、決めてある。が、それはあくまで緊急避難場所を指定するものでーー」

 そこまで口にしてから、ようやく、ゾロイはアジネの言いたかったことを理解した。

「ゾロイさん?」

 怪訝な顔で、オリズスが訊いてくる。

「そうか……わかった。暗号だ」

「一人で合点がいったようなことを言わないでくださいよ。ちゃんと説明してください」

「リックが使う暗号だ。以前に、それをアジネに話したことがある。アジネはおそらく、リックの暗号で、自分の居場所を示しているはずだ」

 情報屋のリックは、仕事柄、自分の居場所を知られないように、様々な暗号を使う。その内の一つは、ゾロイがリックを探すために使用しているものだ。壁や地面に、使用者だけがわかる印が刻んである。

「それって、あの爆発する石とか、何かを使うんですか? だとしたら、アジネちゃんと一緒にいるはずのあの男にばれてしまう危険があります。途中でそれを知られたら……」

「そんなヘマを、あの強かなアジネがすると思うか? それに、そんな物騒な石を使って、一体どんなことをしようってんだ」

「ゾロイさんが使っていたじゃないですか」

「あれは煤を撃退するためだろうが。用途が違うんだよ」

「用途?」

「今はそれを説明している時間が惜しい。すぐに出発するぞ」

 言うや否や、ゾロイは扉に手をかけた。



 ゾロイとオリズスが、アジネが残しているだろう行き先を示す印、もしくは暗号を探し始めてから、すでに数刻が経過していた。

 店を出ると、待機していたはずのバナムの姿はそこにはなかった。無断で移動するにはそれなりの理由があったのかもしれないが、今はアジネの捜索が最優先であるとゾロイは判断した。

 オリズスが二手に分かれて探すことを提案してきたが、ゾロイはそれを断った。情報屋の暗号を見つけるには、それなりに慣れもある上、一人になったところをオリズスが狙われでもしたら尚のこと息詰まってしまう。

 目の届く範囲内でという条件付きで、アジネの捜索に、オリズスを参加させた。。

「ゾロイさん、これはどうですか?」

 幾度目になるだろうか、オリズスがめげずに、ゾロイに見つけてきたものを報告する。

「いや、これはただの石だ。中身の幽体もずっしり入っている」

 ゾロイの言葉に、しかしオリズスは落ち込む様子は見せなかった。拾ってきた石を捨て、すぐに辺りに視線をさまよわせる。

「おい、そんなにかかり過ぎると、見えているものも見えなくなるぞ。もっと肩の力を抜いて、自然体を心がけろ」

「わかりましたっ」

 一瞥もゾロイにくれることなく、オリズスはただひたすらに、あるのかどうかもわからない印を見つけるべく、視線をあちらこちらに這わせている。

 オリズスを連れていくのに、躊躇がなかったというわけではなかった。ゾロイは、彼女が依頼人であることを、決して忘れてなどいない。しかし、店に一人置いていくのも気がかりであったし、何より、ことアジネの残しただろう暗号探しに関しては、オリズスの力が必要だと判断した。

 幽体使いのゾロイとて、万能の力を持っているわけではない。オリズスは注意深くはなかったが、それでも一人よりは格段に作業能率が上がる。そしてこの暗号捜索には、幽体の才能があるものでなければならないと、ゾロイは感じていた。

 アジネが何の考えもなしに店を空けることは考えにくい。希望的観測も大いに含まれてはいるものの、ゾロイには、アジネが幽体使いならではの暗号を残しているような、そんな気がしていた。

「オリズス、場所を変えよう。これだけ探しても見つからないってことは、この辺りには印はない」

 そうは言ったが、確証はない。ゾロイの額に、じっとりと汗が滲む。

「……はい、わかりました」

 オリズスが顔を上げると、その動作で、ぽたり、と地面に汗が落ちた。

「少し、休むか? 疲れただろう」

「いえ、アジネちゃんの安否が確認できなければ、落ち着いて休んだりなんかできませんよ。それより、早く見つけましょう」

 ゾロイは考える。

 アジネが一人で店を出た理由は、おそらくそうしなければオリズスの身に危険が降りかかると感じたからだろう。短髪男の来店は、想定外の出来事だったはずだ。ならば、予め準備できたとは考えにくい。きっと暗号は、手持ちの何かを使うか、あるいは、必ずゾロイに伝わるような方法でどこかに記してあるものと思われる。

 では、それはどこか。

 よろず屋の店内ではないだろう。その時点で行き先はわかっていない。とすると、やはり道中、どこかに残すと考えるのではないか。どこかの店に立ち寄ることも可能ではあるが、アジネを認識できる人間はこのカーチムにはいないため、その方法を採った可能性は低いようにゾロイには感じられた。

 焦る気持ちが、考えを鈍らせる。

「ねえゾロイさん、バナムさんは一体どこに行ったんでしょうか」

 唐突に、オリズスが言った。

「わからんが、あいつなら心配いらん。アジネと違って、いざとなればあの俊足が役に立つだろうからな」

「そうじゃなくって、どうしてこんな時に、ゾロイさんに何も告げずにいなくなってしまったのか、わたしには疑問なんですよ。バナムさん、良い人じゃないですか」

「馬だけどな」

「茶化さないでください。今、バナムさんにとって最も重要なことって何か、それを考えれば、アジネちゃんに繋がる手がかりになにませんか?」

 ぽたり、と滴が落ちる。汗ではなく、それは涙だった。

 オリズスの言う通り、バナムがこんな時に黙っていなくなるのはどう考えてもおかしい。ゾロイの事情だって知っているというのに、である。

「バナムがいなくなった理由、か……」

 考えてみれば、昨日からバナムの様子は、普段のそれと違っていた。クートを追って、マニグスに行った後辺りからーーーーーーーーーー

 と、そこでゾロイは思いつくことがあった。

「あいつ…………くそっ!」

「ど、どうしたんですか」

「おそらくだが、バナムは一人で追いかけたんだろう」

「えっ? で、でも、アジネちゃんが店を出てから結構な時間が経ってますよ? わたしたちだって、この辺り一帯を、目を皿のようにして探したじゃないですか」

 オリズスは、バナムが追いかけた対象が短髪男とアジネだったと思っているらしい。

「バナムが追ったのは、アジネじゃない。朱い髪の女だ」

「朱い髪の……? 誰のことですか?」

 ゾロイは、昨日仕入れた情報の中で、朱い髪の女の部分だけをオリズスに説明した。

「あの馬鹿、昨日俺に触れていた時に、幽体を使って記憶を盗み見たんだ」

 オリズスに対してではなく、ゾロイは、バナムの勝手な行動と、自分自身の迂闊さに怒りを覚えた。

 朱い髪の女が、ゾロイを追っていたこと。

 バナムが無断でいなくなっていたこと。

 アジネが、短髪男に連れて行かれたこと。

 それらは、別々の事柄だと考えれば形を成し得なくても、同じ出来事を背景にしていると仮定すれば、一つの解にたどり着く。

「町外れの馬車屋だ。そこにきっと手がかりがある」



 顔なじみだったこともあり、馬車屋の主は快く早馬を一頭、ゾロイに貸してくれた。

 暮れかけた陽が照らす道に、軽快な足音が響く。

「本当に、リヒサコニの森にいるんですか?」

 振り返り、手綱を握るゾロイを仰ぎ見るオリズス。

「ああ、おそらくな。さっき見つけた、アジネの記憶の入った光石を読みとる限りは」

 先ほど、ゾロイとオリズスは、町外れの馬車屋に立ち寄った。その際見つけた光石を手に取り、そこに入れられていたアジネの記憶を見たというわけだった。

 ゾロイの推測はこうだ。カーチムの町を出ていない場合、立ち寄る場所は限られてくる。どこかの店というのもあるが、短髪男がよろず屋で、母親からの依頼を請け負っていると口にしていた以上、それは除外しても良さそうに思えた。もしその名目から外れた行動を取ったのならば、アジネは黙っていまい。印を残すまでもなく、幽体の力を使って、攻撃なり逃亡なりをするはずだ。しかしその痕跡は見つからなかった。

 つまり、短髪男はアジネを連れて、カーチムを出たということだ。オリズスの話を信じるなら、男は馬を店にまでは連れていなかった。一番近い街であるニヒサスムであっても、歩いて移動することは考えにくい。それも子供を連れて、だ。ならば、自然に考えて、馬を使っただろう。カーチムには馬を扱う店は幾つか存在するが、一頭借りをすることは通常できない。一見の客なら尚更である。複数人を一度に運ぶことのできる馬車の方が、一頭で少ない人数を乗せるよりも、益が見込める。一頭借りをするのは、信頼を勝ち得てこそ可能な芸当なのだ。

 しかし、何事にも例外はある。この町外れの馬車屋は、中心地から離れているという悪い立地から、通常の店ならば承諾しない一頭借りを、条件付きで受けるのである。どうやってその店を知ったかというのは、情報屋が源だろうと思われる。短髪男がカーチムに精通していたかは計り知れないが、偽って名乗るほどによろず屋に詳しいのであれば、情報屋とは何かしらの絡みがあるのだろう。

 そうしてたどり着いた馬車屋で、ゾロイはアジネの残した石を発見するに至った。

 ゾロイはこの先で待ち受けているだろう出来事を思うと、気持ちの整理がつけられそうになかった。

 バナムの態度の急変は昨日からだ。昨日、ゾロイに触れて手に入れた記憶といえば、クートの部屋、ゲーブの身体、朱い髪の女、それからアジネと短髪男、である。普段から常習的に幽体を使って、ゾロイから記憶を抜き取っていたのだろうか。だとするなら、互いの不文律を越えてまで入手したい情報が以前からあったということになる。それは一体、どんな情報だったのか。

 アジネを連れて行った短髪男を追って、というのは考えられるが、これはオリズスが先刻述べた推測通りだ。よろず屋の近くで件の男を見かけたなら、ゾロイに声を掛けられるはずだ。追っていく対象が変わっても、これは同じことが言える。

 ゾロイに一言、それさえできない状況とは何か。

 単純に、物理的な距離を隔てていたのか。だとすれば、離れた地点に届ける合図や暗号を、何かしら残しておくのではないだろうか。しかし、それらしい痕跡は、見つけることはできなかった。

 これらのことから、ゾロイは、ある結論にたどり着いた。

 バナムは、ゾロイに伝えたくない何かがあるからこそ、黙っていなくなったのではないだろうか。

(こんなことなら、バナムの記憶でも盗んで見ておくべきだったな)

 その記憶の中に、あるいは手がかりになる出来事が見つけられるかもしれない。

 しかし、ゾロイは頭を振って、その考えを捨てた。たとえ可能でも、それを行うべきではない。築き上げてきた信頼を壊してしまうばかりか、自分の生き方そのものを否定しかねない。

 バナムの人柄を考えても、ゾロイにはどうしても腑に落ちないように感じられた。

 もし仮に、自分の生き方を否定してまで手に入れたいものがあるとして、それは一体どんなことなのか。友人を手放しても欲する情報とは何なのだろう。

「わたし、アジネちゃんに会いたいです。バナムさんにも。あの二人がいないと、なんだか火が消えたみたいに、静かになっちゃいますね」

 思考の海にどっぷりと浸かっていたゾロイの意識を、現実に引き戻したのはオリズスの唐突な言葉だった。

「騒がしいのが唯一、取り柄の二人だからな」

「そういえばアジネちゃんとバナムさんて、なんだか似ていますよね」

「そう……だな」

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