挿話 紅の魔術師 その三


 夜のニヒサスムは、昼間とはまた違った賑わいを見せている。

 中央通りに軒を構えた店の灯りが地面を照らし、行き交う人の誘導を促しているようだ。

 路地裏に入ると、飲食店が立ち並び、昼間の労働の疲れを癒そうと、勤め人でごった返していた。

 イアネルクは、人の波をかき分けながらぶらぶらと歩いて、餌となる人間を物色していた。

 贅沢を言えば若くて健康な女が良い。その方が血としても新鮮で、イアネルクの発作を長時間抑えることが可能だからだ。男の血も試してみたことがあるが、その場合、興奮状態が増して攻撃性を抑えることが難しくなる。

 その理屈から言えば、子供の方がより新鮮で相性も良いはずだった。しかし、イアネルクはそれを本能的に拒んでいた。娘のことを、無意識に思っていたせいだろう。

 昼間でも問題はなかったが、イアネルクがこうして夜に徘徊しているのは、単に餌として適当な人間が今のこの時間まで見つけられなかったからである。

(なかなか手頃な餌が見あたらない……この際、鮮度は無視して数を取るか)

 夕暮れ前から街をうろついている人間のほとんどが、決して健康とは言い難い人種だ。床に臥せているほど悪くはないが、人間の暮らしにどっぷりと浸かっていると精神的な歪をもたらす。それは肉体的にも影響を及ぼしており、結果として血液も上質なものではない。仕事で外に出る者、住処に引きこもっている者、良からぬ考えで他人と接触を試みる者、そのどれもが例外ではない。

 夜になれば、店番や畑仕事等を終えて街に繰り出す若者も増える。未だ、歪の少ない若者は、その血液も新鮮で、イアネルクの発作を抑えるのに適しているだろう。

 しかし、問題もある。

 夜に街に繰り出す若者は、大概一人ではなく集団でいる。相手が数人程度ならば、イアネルクの敵ではないが、幽体が使えない今は危険も増す。血液を補給するまでは、出来る限り周囲に悟られないことが重要だ。

 となると、餌として相応しい人間は、そうそういない。

 当て所もなく、大通りと路地裏を行ったり来たりしながら、イアネルクは根気よく餌を探す。

 と、そこでイアネルクは気づく。

 イアネルクの後方、幾人かを挟んで、誰かがついてきている気配を感じた。

(私の後をついてくるとは、不届きな輩だ。身の程知らずが)

 街の警備隊だろうか。昼間にも巡回している人間はいるが、夜では数が違う。酒が入ると、客同士のもめ事に発展することもままあるため、あるいは酔っぱらった人間の介抱を装って悪事を働く輩の取り締まりのためか、曲がり角や四つ辻等の要所には必ず一人は警備隊の人間が配備されている。

 イアネルクは足を留め、店を探すふりをして後方をちらりと見て、その気配の主を探る。

 背の低い女だった。外見は幼いが、この時間帯に一人で街をうろついているところを考えると、年齢は若くはないのかもしれない。身なりは、どこにでもいる町娘といった感じで、取り立てて目立つところはない。

 そのことが、イアネルクに違和感を抱かせた。

(印半纏を着ていないということは、警備隊ではないな。では誰だ?)

 ニヒサスムの警備隊は、街の有志を募って結成された自警団である。他の幾つかの街や村では、国の手が入っており、軍が配備されている場所も多い。しかし、以前リヒサコニの森で起きた諍いから、ニヒサスムは自治の意識がより強くなり、今も独自の体制を採っている。

 イアネルクの見た目が目立っているために、相手の興味を惹いたのだろうか。

 普段の格好、つまり朱い髪を晒して、研究施設に所属していることを示す刺繍の入った羽織を着用していれば、確かに人目につく。しかし、幾らこの街を離れて久しいイアネルクとて、街の事情に疎いわけではなく、無論、物色するために目立たぬよう着替えてある。

 つい数刻ほど前、装飾職人を志す若者に道案内され、この辺りで有名だという呉服屋で、適当な着物を見繕って購入した。店主の男のだらしのない肉体は、イアネルクに不快な感情をもたらしたが、何代も続いているという名店を自負するだけのことはあり、着物の見立ては確かだった。

 最初、店主は流行り物を薦めてきたが、イアネルクが、目立たぬような服装をと注文したところ、それに見合う着物をすぐに用意してきた。ベネッドやクートの足取りを辿ってきたはずだったが、思わぬ買い物になった。

 女が、目立ってはいないはずのイアネルクを尾行する理由。それを幾ら考えてもわからなかったが、イアネルクは、この女が餌として相応しいと判断して、路地裏の人気のない場所に誘い込むことに決めた。

(国の人間でないのなら、私の所業とは気がつくまい)

 あくまで自然を装い、イアネルクはゆっくりと人気のない方向へと移動する。

 大通りは縁がなかったが、裏の入り組んだ路地ならば、子供の頃によく馴染んだ通りだ。餌を喰らうのに適した場所にも、心当たりがある。

 慎重に、焦りを表に出さず、イアネルクは少しずつその場所に近づいていく。

 中央通りから遠ざかるたびに人波も去り、いつしか周囲は、静かで暗い場所に変わっていった。

 後方の足音は、途切れることなく、イアネルクについてきていた。

 目当ての場所へと続く最後の角を曲がると、イアネルクはすぐに壁に背を付けて身構えた。

 足音が、近づいてくる。

 音を出さぬように注意を払っているようだ。

(もう少し……あと数歩近づいてくれば……)

 尾行者が姿を現したその瞬間、イアネルクは手を伸ばした。

「うっ!」

 尾行者のうめき声が、路地裏に反射する。

 イアネルクは、尾行者の首にかけた手に力を込める。幽体を使って動けないようにするためだ。

 蛇が蛙を飲み込むように、餌を幽体で縛ってから、イアネルクはおもむろに、尾行者の首もとに牙を突き立てる。

 ごくり、と喉を慣らして、血液を取り込む。

 一口飲み込むその度に、渇いた身体が潤っていくように感じる。

 胸に広がる安堵と同時に、不快さも流れ込んでくる。

 幽体を使うがゆえ、対象の記憶が入り込んでくるからだ。

 知らぬ者とはいえ、他人の記憶を見るのは心地の良いものではない。

(堪えろ……!)

 今までもそうしてきたように、イアネルクは目を瞑って、血液の補給に集中した。餌の心情など知る必要はない。

 その時、尾行者の女が、声を発した。

「……ぐっ、あ、あなたは……どうして、……ぞ、ゾロイのことをっ……!」

 イアネルクは驚いた。普段ならば、対象の意識が覚醒することはない。

(くそっ、幽体の力が弱まってしまったか)

 前回に摂取してから時間が経過し過ぎてしまったせいか、あるいはこの女に幽体の耐性があるのか、縛りから半ば意識が解放されつつある。

「ううっ!」

 腹に一撃を喰らい、今度はイアネルクがうめき声を発した。

「はあっはあ……、……あなた、一体何者なの?」

 女の一撃は、思ったよりも強く、イアネルクは丸まった身体を起こせずにいる。

 女はイアネルクに対して追撃を行うつもりはないらしく、代わりに質問を寄越してきた。

「ど、どうして……、私を、尾行、していた……?」

 呼吸を整え、かろうじてそれだけ口にすることができた。

「こっちの質問に答えて。どうして、ゾロイのことを追っていたの?」

 乱れた襟元を直そうともせず、女は目を吊り上げて、質問を繰り返す。

「ゾロイ……それがあいつの、ベネッドの名前なのか」

 牙を立てた際、入ってきたこの女の記憶の中に、イアネルクのよく知る人物がいた。

 ベネッド、という言葉に、女は強い反応を示した。

「ど、どうしてその名前を!」

「ほう……おまえは、ベネッドとかなり近い距離にいるようだな。昔に捨てた名前と、現在名使用している名前の両方を知っているくらいだ」

 イアネルクは、摂取した血液が身体に栄養として吸収されるのを、ただじっと待っている。女との会話は、時間稼ぎに過ぎない。

 狼狽している女は、イアネルクの求める情報を持っている。もう少しすれば、身体が回復する。その時を待って、もう一度牙を立てるつもりだった。

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