第三話 ゲーブの身体


「本当に平気なのか? こんな場所に勝手に入っちゃってさ」

 バナムの声が、無機質な煉瓦の壁に吸い込まれる。

「平気だろうとそうでなかろうと、ここにあいつがいる可能性がある以上、前進あるのみだ」

 ゾロイは小声で、しかし引き返すつもりがない意志を、バナムに示した。

 ここはマニグスの実験施設の地下通路だ。四方を煉瓦に囲まれた狭い道は、等間隔で設置されている松明の灯りで、足下がかろうじてわかるほどに照らされている。

「ここにクートってやつがいるのは確かだろうけど、それにしても、もっと他の方法はないものなの?」

 バナムは、自分の立てた足音にさえびくつきながら、ゾロイの横を並んで歩いている。

「おまえもさっき見ただろう。クートは、ただものじゃない。魔術師様なんて呼ばれていることも、その性質の一端を表している」

 ゾロイは、バナムの協力を得て、マニグスにいる人々から、様々な映像記憶を入手していた。クートを探すことが、ひいてはアジネとオリズスに繋がると信じているからである。

 その記憶を集める過程で、クートという人物が、どういった存在なのかを、ゾロイは知ることとなった。

「ろくでもないやつではあるよ。それが素直な感想だ。でもさ、一応、研究員として働く、国のお役人なわけでしょ? 正規の手続きを踏めば、面会だって可能なんじゃないのかな」

「おまえ、行きたくないなら外で待っていても構わないぞ」

 研究施設に潜入したのは、ゾロイの強制があったわけではなく、バナムの意志によるものだった。にも関わらず、バナムは道々、ぐちぐちと不満を口にしていたのである。

「そんなこと言ってないよ。たださ、やりようは他にもあるんじゃないかって、そう提案しているんだ」

 むっとして、鼻を鳴らすバナム。

「俺だって正攻法がいちばんだと思っているさ。でもな、正規の手順をすっとばしても、早く探し人が見つかる方が良いだろう。それに、俺には、クートが素直に会ってくれるとは、とても思えない」

 調査した結果、クートは周囲に魔術師などと呼ばれ、恐れられている存在だ。そのような人物が、たとえば正面から正規の手順で乗り込んだ場合、自分を訪ねてくる相手が、好意を持っているなどと都合良く思うだろうか。こちらの存在を相手に知らしめるだけで、却って危険を高める恐れもある。

「周囲の評価が必ずしも正解ってわけでもないと思うぞ」

「それはそうだろうな。色眼鏡をかけて物事を見ると、真実が見えなくなってしまう。アジネからいつも言われていることだ。だから、あくまでも情報の一部として頭に叩き込んでおくだけだ」

 周りからどう思われているのかは、友人として付き合うのなら、それはさほど問題ではない。当人同士が判断すれば良い。

「ところでさ、クートってやつを追うことが、どうしてアジネちゃんに関わってくるんだ?」「今のところ俺の勘の域を出ない話だが、カーチムの呉服屋で、アジネとオリズスに声をかけてきた男は、おそらくクートだろう」

 ゾロイは答えにもなっていない答えを述べた。当然、納得できないといった様子で、バナムが反論してくる。

「それってちょっと強引な気がするけどなあ。だってさ、カーチムの呉服屋の店主が見たっていうその男は黒髪で、さっき探した映像記憶の人物は金髪なんだよ?」

「かつらっていう手もある」

 そう言ったものの、ゾロイ自身、かつらではないだろうと思っている。

「可能は可能だろうね。でも、それをする意味ってあるのか? もしかつら等の変装だとしてもさ、その場合は誰かから見つかりたくないってことでしょ。でも、見つかりたくないって気持ちが前提になっているはずなのに、マニグス出身だなんて話をしたりする。これって前後で矛盾してない?」

 バナムの言っていることは、ゾロイももちろん疑問に思っていた。

「おまえ、誰かの身体と名前を奪って、実体を手に入れたいと思うか?」

「突然なんの話? ……そりゃあまあ、一度も思ったことないって言えば嘘になるけどさ。今、おいらが幽体である事実が、そのまま答えになっていると思う」

 幽体であるバナムは、その気さえあれば、実体を乗っ取ることも可能だ。ゾロイ自身が試したことは一度足りとてないが、それでも幽体の力を使って人の記憶に触れる度、その行為の延長線上に、実体を乗っ取ることが可能であると感じてはいた。いわば、魂の入れ替えだ。

「それを願う奴がいたとして、それは一体どういう理由なんだろうな」

「ゾロイの言っていることがさっぱりわからないよ。もう少し段階を踏んで説明してくれないと」

 不満げに鼻を鳴らすバナムに、ゾロイが説明をしようとしたそのときだった。

「誰だっ、そこにいるのは! ここは関係者以外、立ち入り禁止だぞっ」

 ゾロイが歩く闇の先に、兵士が一人、その姿を現した。槍をこちらに向けている。

「ああ、すまん。道に迷っちまって」

 悪びれることもなく、ゾロイは口先だけで謝罪をした。

「なんだと? こんなところにまで入ってきて、そんな言い訳がーーうっ」

 兵士がすべて言い切る前に、ゾロイの拳が鳩尾あたりにめり込んだ。

 うめき声を上げ、兵士はその場に崩れ落ちる。

「兵士を配備しているってことは、やはりこの方向で間違いはなさそうだな」

 ゾロイは倒した兵士の身体に触れ、幽体の力を使う。

「どう? 今度はなにかわかった?」

 バナムがおそるおそる尋ねてくる。今度は、というのはここへと辿り着くまでにも、幾人かは同じ目に遭わせてきたからである。結果は芳しいとはいえなかったが。

「……クートの部屋が、この先にある」

 短時間で相手が持つすべての記憶を探ることはできない。しかし、探したい人物の記憶を強く意識することで、ある程度の情報は入手可能だ。

「場所がわかったってのに、あんまり良い表情じゃないけど」

「……ちょっとばかし疲れただけだ。気にするな」

 怪訝な顔をしながらも、バナムはそれ以上ゾロイの表情について追求はしてこなかった。

 しばらく歩くと、映像記憶の示した通りの場所に、クートの部屋はあった。その間、幾人か兵士が現れたが、先ほどと同じように、一撃で気絶させた。

「表札にクートって書いてあるね」

 魔術師という思いこみから、重厚な扉を想像していたゾロイだったが、それはどこにでもあるような簡素な木の扉だった。その気があれば、幽体の力ではなく、筋力でこじ開けることもできそうな、扉である。

「まあ、内部で秘密にする意味がないからな」

 扉を軽く叩き、ゾロイは部屋の中に動く気配があるか、耳を澄ます。

「ちょっと、いきなり何をやってんのさ! 中にクートがいたら、どうすんの」

 バナムがぎょっとした様子で、ゾロイの行動を非難する。

「扉を強引にこじ開けたら、それだけで敵意を示すことになるだろう。あくまでも好意的に、話し合いをしにきただけなんだぞ」

「ここに来るまで、一体何人の兵士をなぎ倒してきたと思ってるんだよ。あれが話し合いの態度なの?」

「向こうの話し合いの礼儀に則ったってだけだ。俺は言葉でのやりとりを望んでいたんだが、残念ながら相手はそれを理解しなかったらしいな」

「……まあ、いいけど」

 バナムはまだ何か言いたそうな表情をしていたが、クートの部屋の前でこれ以上、ゾロイとのくだらない言葉の応酬を続けるつもりはないようだった。

 中からの応答はない。しばらく待ってから、ゾロイはもう一度、扉を叩いた。

「どうやら中には誰もいないみたいだな」

 言い終えるや否や、ゾロイは扉に手をかける。鍵がかかっていると思っていたが、扉は抵抗もなく、がらりと開いた。

「し、失礼します……って、本当に誰もいないね」

 律儀に挨拶をするバナム。

「それにしてもすごいな、この本の量」

 ゾロイが部屋の中に入ってまず驚いたのが、本だ。壁がすべて本でできているのではないかと錯覚させるほどである。狭い部屋だと感じたが、本をすべて撤去すれば、ゾロイの営むよろず屋よりも広いかもしれない。

 四方を本棚に囲まれている上、部屋のあちこちには本が堆く積み上げられている様は、ゾロイに異様な圧迫感を与えた。

「本でできた蟻塚って感じだね」

 バナムが漏らした感想に、ゾロイも思わず肯いた。

 適当に本を一冊、手にとって見てみる。積み上げられた山ごとに、一応は区分けされているようだ。整理されているとはお世辞にも言い難いが、部屋の主からすれば、どこに何が置かれているのかがわかる程度には整頓されているのかもしれない。

「ざっと見たところ、全部専門書の類だな。この山は医術書で……こっちは、生態系に関連している書物だ」

 研究施設であることを考えれば、これらの書物に違和感はない。

 しかし、とゾロイは思う。研究施設には図書室があるため、わざわざ自室に運び入れる必要はないのではないか。施錠をしていないことから、単にずぼらだということもあり得るが、系統で区別して山を作っているところを見ると、ちぐはぐな印象を受ける。

「これは薬に関する書類みたい。でもこれ、一冊にまとまった本じゃないね。なんだか書き殴ってあるように見えるから、覚え書きかな」

「ちょっと見せてくれ」

 薬、というバナムの言葉が、ゾロイの注意を引いた。

 半ば強引に奪い取るように、ゾロイはバナムが口でくわえていた書類を引ったくった。

「なんだよ、まだおいらが見ている最中なのに」

 文句を身体に浴びながらも、ゾロイは覚え書きに目を通す。

「こ……これは……」

 ゾロイは全身が強ばるのを感じた。

「ど、どうしたっていうのさ。何が書いてあったの?」

「抹消された史実……いや、実験の成果だ」

 血の気が引いていく。ゾロイが目にしたのは、遠い過去、自分自身に起きた出来事そのものだった。

 横からバナムが書類をのぞき込む。

「と、投薬実験だって……?」

 そこには、かつてゾロイが身を置いたリヒサコニの隔離施設で起きた事件の顛末が書かれていた。

 覚え書きだろうと思われるこの書類には、リヒサコニでの事件が、人の手によって意図された出来事だということが記されていた。

「疫病は嘘だったんだ。俺たちを集めたのは、感染被害を食い止めるための隔離ではなく、投薬による実験材料としてだ」

 ゾロイには医術の知識はない。だから、たとえば医術師がこの書類に目を通したとして、その中身を把握できるかどうかの判断もできない。しかし、この書類に記されている内容は、実体験した者なら理解できるものだと感じた。単語が切れ切れに書かれているだけであっても、ゾロイの中で未だくすぶっている苦い記憶と結びつけて考えない方がおかしい。

「これがこの部屋の中にあったってことは、クートはそれを知っていたの?」

「知らなければ、これだけの分量の本を一カ所に集めたりはしないだろうな。詳しいことはわからないが、この部屋に鍵がかかっていないのは、これを医術師が見ても理解のできない内容だからかもな」

「この事件を、白日の下に晒そうとしていたってこと? 国のお役人として」

「それは……どうだろうな。役人なら、国を脅かす行動は慎むんじゃないか? 自らの食い扶持を放棄する行為かもしれないんだ」

 国に楯突くような行動を、国の機関に身を置く者が、果たして取るだろうか。

「正義感から、国の闇を暴こうとしたのかもしれないよ」

 バナムの言葉には答えず、ゾロイは書類を差して言った。

「ここまで詳細に調べてあるが、一体どうやってそれを手に入れたんだと思う。俺には、この書類を作成した奴こそ、リヒサコニでの事件を起こした張本人のように感じるがな。暴こうというよりも、見てほしくて仕方がないって感じだ。子供が親に、なにかできるようになったことを自慢するみたいにな」

 ゾロイは自分で言いながら、先ほど感じた違和感の正体はこれだと思った。扉を開け放っていたのは、秘密が漏れる心配がないからではなく、むしろ誰かに見せたい思いがそこにあったと推測したほうが自然だ。

「それはそう、かもしれないけど……。でもさ、思い込みは調査に偏りを与えるから、情報のひとつとして持っておこうよ」

「アジネみたいなこと言うなよ。俺だってそれくらい理解しているさ」

 性別や年齢、果ては生物の種類を跨いで、ゾロイには女房のような存在が周囲にたくさんいた。孤児院を出てから、ずっと一人で過ごしてきたように感じていたのは、ゾロイの思い過ごしなのだろう。

 姉のように慕った、ウリアツラ。

 ウリアツラと引き合わせてくれた、兄のようなゲーブ。

 孤児院では院長に、よろず屋の開業には情報屋のリックに世話になった。

 依頼者でありながら、時にはゾロイの行動を諫める相棒のようなオリズス。

 リヒサコニの森で出会った、昔からの悪友、白い幽馬のバナム。

 そして、アジネ。

 アジネは最初に会った時、ゾロイと目を合わせようとさえしなかった。会話が成立するまでしばらく時間がかかったが、ゾロイはそのことを密かに喜んだ。

「ところでバナム、アジネとはどんなきっかけで会話するようになったんだ? 出会いのことじゃなく、話し始めというか」

 バナムは普段、饒舌だが、アジネのこととなると途端に口を閉ざす。断りを入れたのは、ゾロイが訊きたいことがバナムとアジネとの関係ではなく、警戒心の強いアジネとの打ち解けた瞬間であるからだった。

「随分と唐突だなあ。……まあ、おいらは誰かさんと違って人が好いからさ、初めから打ち解けてたよ。柄の悪いゾロイと違って」

「名前を伏せるなら、最後までちゃんと伏せてろ」

 ひひん、とバナムは笑みを漏らす。ゾロイも釣られて笑った。

 ごまかして答える気はないようだったが、ゾロイはそれでもある種、満たされた気分だった。二人の間にどんな出来事があって、リヒサコニで暮らしていたのかはわからなくても、互いが相手のことを話す時、自然と笑みがこぼれるのならば、それはきっと良いことなのだろう。

 ゾロイが笑って振動が伝わったせいか、バナムの鼻息がいつもより荒かったからか、本の山が一つ崩れた。足の踏み場もない地面が、さらに分厚くなる。

「ゾロイ、なにやってんだよ」

「俺のせいじゃない。おまえの息がかかって本が崩れたんだろ」

「そうやってすぐ人のせいにするのが、ゾロイの悪い癖だよ」

「それこそおまえのことだろうが。ちょっとそこを動くなよ」

 いつものやり取りのつもりで、じゃれ合うために、ゾロイはバナムに近づいた。そのとき、地面に蹴躓いて、派手に転ぶ。本の山がさらに崩れ、さながら地面は本の海である。

「ああ、また崩しちゃって。ゾロイってば、結構鈍くさいね」

「うるさい。こんな風に本ばかり置いてあるから、それに躓いたんだ。ったく、それにしても硬い本がある……おい、バナムっ、ここを見ろ!」

 ゾロイは自分が蹴躓いた地面を指差した。

「ん、随分と変わった形状の本だね。背表紙かな」

「そうじゃない。こんな鉄制の頑丈な本があってたまるか。これは取っ手だ、よく見ろ」

 足下に広がる本の海をかき分け、地面を露わにすると、そこには取っ手の付いた鉄製の扉が現れた。

「本当だ……なにこれ、下に収納できる空間でもあるのかな」

「どうだろうな。それは開けてみればわかることだ」

 ゾロイは取っ手に触れ、力を込めて引いてみる。しかし、その鉄製の扉はギギ、と擦れる音を立てるだけで、開く気配を見せない。

「ちょっとそこ退いて。おいらがやってみよう」

 見かねたのか、今度はバナムが口で取っ手をくわえて踏ん張った。

 最初はゾロイと同じようにギギ、と擦れる音を立てるばかりで扉は開かなかった。しかし、それでもバナムが諦めずに力を込め続けた結果、扉は開いた。本の海の真ん中に、ぽっかりと穴が空いた。

「さすが馬鹿力、と言うべきか」

 灯りをかざして穴をのぞき込むが、底が見えない。しかし、降下用の縄梯子がかけられており、下へと進むことは可能なようだ。

 階下までの距離を確かめるため、手近な本を手に取って穴へと放り込む。瞬く間に本が地面に着く音がした。

「さほど深くはないみたいだな」

「梯子が備え付けられているということは……」

「どうやらこの下には、部屋があるらしい。よし、バナムはここで誰か来ないか見張っていてくれ。俺が降りて確認してみる」

 ゾロイは口に灯りをくわえ、縄梯子に片足を乗せて強度を確かめる。いささか不安はあるが、今は先に進むしかない。

 慎重に、一足一足、ゆっくりと下へと降りていく。本を落とした時に深さの確認をしたはいても、この先に何があるのか知らない状況が、ゾロイに無限の闇を感じさせる。

 階下の地面に足が着くと、ゾロイはくわえた灯りを手に取って、辺りにかざしてみる。地下室は手元の灯りで、四隅がわかるほどの広さだった。中央には椅子があり、それだけで狭い地下室の空間を圧迫しているようである。

「おおい、どう? 何かあった?」

 バナムの焦ったような声が、頭上から聴こえてくる。しかし、ゾロイはそれに答えることができなかった。

「おおい、ゾロイってば。聞いてるの?」

 くぐもったバナムの声は、確かにゾロイの耳に届いていた。返事をしなかったのは、目の前に鎮座する人物の姿を目にしているからだ。

 その人物は、中央の椅子に腰掛け、目を閉じている。闖入者がいるというのに、微動だにしない。

 ゾロイは近づいて、その人物の肩に触れた。しかし、感じられるはずの鼓動や幽体が、そこにはなかった。

 少し強く肩を揺らしてみる。身体が揺れるばかりで反応はない。

「……おい、どうしてこんなところにいるんだよ……」

 ゾロイは、目の前の人物が答えないとわかっていたが、それでも尋ねずにはおれなかった。

「返事をしろ、ゾロイ! 何があったんだよ! もしかして、クートがいたのか?」

 椅子に鎮座したまま動かないその人物は、短い黒髪だった。カーチムでアジネとオリズスに声をかけたのと同一人物だ。ゾロイは一目見たときに、それを理解していた。

「……ああ、たぶんな。そしてどうやらクートのやつは、とんでもないことをしでかしている。やってはならない、人道外れた行為をな」

 クートが何を目的としているのかは定かではなかったが、目の前にいる人物の存在が、魔術師の狂気を示している。

「久しぶりに会えたってのにな、ゲーブ」

 ゾロイは、再会した兄の身体に声をかけると、踵を返して縄梯子を強く握りしめた。

 揺れる心に、決意を湛えて。

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