挿話 紅の魔術師 その二
「ここか、あいつがいた店というのは」
イアネルクは、中央通り沿いに位置する呉服屋の店の前に立っている。
夕暮れが街並みを朱く染め始め、店内にいる人の姿は外からではよく見えない。しかし、店に出入りする人数を見る限り、この通り同様に賑わっている様子が窺えた。
「はい。この店はニヒサスムでも指折りの名店且つ老舗ですから、お探しの着物も見つかると思いますよ」
先ほど出会ったばかりの若者は、そう言ってにこりと笑顔を振りまいた。
数刻前、黒い獣が出現したという場所に赴いたイアネルクは、幽体の能力を使い、周辺住民に触れて、当時の記憶を持つ者を探していた。その際、直接目撃したという人物に遭遇した。それが今、イアネルクの隣に立っている若者である。
事件の現場にいた人物を、この若者の記憶の中に見つけたイアネルクは、行方を追ってここまでやってきた。道案内を頼むと、若者は快諾してくれた。
体調に異変が起こることを危惧して、幽体を使うことは可能な限り避けたいとイアネルクは思っていた。万全のときならば、道案内など頼まなかったが、少しでも力を温存しておくべきだと考えた。
「世話になった」
イアネルクは短く礼を言った。自分でも思いがけないほど素直に、心から自然に出た言葉だった。以前に暮らしていたニヒサスムというこの街が、あるいはそうさせたのかもしれない。
「いえいえ。ここら辺の道は詳しいですから」
イアネルクも、かつてはニヒサスムの地理に詳しかったが、それはもう随分と前の話だ。それに住んでいた当時も、衣服に向ける興味よりも、医術に関しての知識を手に入れるために執心していたため、そういった店の情報には疎かった。
案内を頼んで正解だったと感じ、イアネルクは懐から取り出した金貨を若者に差し出した。
「もう夕刻だ。これで何か食べるといい」
しかし若者はそれを受け取ろうとせず、首を横に振った。
「僕はそんな大層なことをした覚えはありませんよ。それにそんなことをしたら、院長先生にお説教をされてしまいますから」
「院長先生?」
若者の険のない笑顔に影響されて素に近い心境だったイアネルクは素直に訊いた。ニヒサスムという土地柄で思い当たる人物がいる。
「ここからほど近くある孤児院に住んでいるんです。……って初対面の方に何を言っているんでしょうね、僕。なんだか近い空気がしたので、ついつい話しちゃいました」
ニヒサスムで、ここから近い孤児院と言えば、イアネルクの暮らした場所である。
「私から孤児院の匂いでもしていたか?」
普段、イアネルクが部下たちにする詰問の口調ではなく、子供に接するような穏やかな態度で聞いたつもりだった。
しかし若者は慌てた様子で、訂正を入れる。威嚇と受け取られてしまったのかもしれない。
「し、失礼しました! ええと、そういう意味ではなくって……」
若者は、ざんばら髪をわしゃわしゃと掻いて、詫びの言葉を探しているようだ。
その様子がおかしく、イアネルクは自分でもわかるほどに、笑顔になっていた。
「いや、いいんだ。事実、私も孤児院出身だからな。もしよければ、どうして私に身の上を話したのか教えてくれないか?」
「そうなんですか?」
目を丸くして、若者は驚いた表情をしている。
隠すつもりはなかったが、それでも言い当てられたことに、ある種の感動を覚えた。これが学術研究施設で、相手がクートであったなら、感動ではなく、恐怖の感情を先に覚えたことだろう。
「どうしてだろう……強いて言うなら、あなたの髪の朱い色ですかね」
自分でもわからないのか、若者は疑問符を顔に張り付けている。
「これか? 珍しいというならわかるが、この色が、君自身の身の上を話すきっかけになったというのは、今一理解ができないな」
九割を布で覆っている頭部から覗く朱い髪が揺れた。
「ああ、それはですね、僕の暮らす孤児院に伝えられている話でして」
そう前置きをしてから、若者は語り始めた。
途中、幾度も話の本筋から逸れたり、詳細についてうろ覚えな箇所があったりと、決して流れるように語ったとはいえなかった。しかし、それは却ってイアネルクに、若者の話が真実であると感じさせる理由になった。一度も躓かずに語れば、あるいはあらかじめ用意していたかのように思っただろう。芝居がかった雰囲気も、少なくとも今のイアネルクには見つけることはできなかった。
逸れたところや曖昧な部分を除けば、若者の語った内容は概ね次のようなものだった。
若者が暮らす孤児院には、以前、朱い髪をした女の子がいた。その女の子は、孤児院で暮らす他の子供たちにとって、姉のような存在だった。院内では年長者という立場もあって、皆に生き方の手本を示したという。
曰く、自分が欲していたとしても、人のものを奪ってはいけない。
曰く、悪事を働く輩に対して、同じような手段で戦ってはならない。
曰く、困っている人を見つけたなら、率先して助けになれ。
曰く、その助けに対して、見返りを要求してはならない。
朱い髪の少女が孤児院に残した様々な教えは、若者が言うには、今も確かに受け継がれているらしい。
「……と、まあそんな伝説、というと大げさかもしれませんが、とにかく、孤児院で暮らす僕らにとって、唯一信じる対象なんです」
語り終えると、若者は誇らしそうに胸を張った。
「なるほど……。この朱い髪が、君の正しさをくすぐった理由が、なんとなく理解できたーーいや、思い出したよ」
若者が語った孤児院の少女。それは、疑いようもなく、かつてのイアネルクそのものだ。
目の前に立つ見知らぬ若者を介して、当時の自分の言葉が今になって、自分に突き刺さろうとは。
「思い出した、とは?」
「昔の自分のことをだ。大人になるにつれ、子供の頃に信じていたものから裏切られる。次第に忘れていくんだ」
朱い髪をした少女が、実はイアネルクなのだと伝えたら、若者はどう思うだろうか。正しさを示した人物のなれの果てが、今ここにいる自分なのだと。
自嘲気味に笑ったイアネルクに、若者は穏やかな笑みを返した。
「いろいろ、ありますよね。僕みたいな若造がそれを言うなって怒られそうですけど。いつか、僕の信じる正しさが問われる日が来るのかもしれない。そのとき、気持ちが揺らいでしまうかもしれない。それでも僕は、今日までその正しさを信じて生きてきたんです。だから……」
言葉を途切れさせ、若者は少し俯いた。言うのを躊躇っているようでもあるし、自らの行いを省みて思うところがあるのかもしれない。
「……だから?」
先を促す言葉を、イアネルクは無意識に口にしていた。
「だから僕は、その教えを残した方に、感謝の気持ちでいっぱいです」
黄昏時のせいだろうか、イアネルクには、若者の顔が眩しくて、直視できなかった。
それでも、若者が笑顔だと感じることはできた。
「……そう、か」
信じていたものを裏切ったのは自分なのかもしれないと、イアネルクは感じた。
忘れていたのではなく、忘れてしまいたかったのだろう。いかに自分と、その家族のためとはいえ、人道から外れた行為を繰り返してきたのだから。
「ちょっと格好良く言い過ぎましたかね」
照れくさそうに視線をイアネルクから逸らし、若者はざんばら髪を揺らした。
しばらく考えてから、イアネルクは口を開いた。
「金貨のことは申し訳なかったな。しかし、せめて礼はさせてくれないか? 君がどんな仕事を生業としているのかは知らないが、扱っている商品でもあれば、買わせてほしい」
イアネルクは本心からそう言った。くったくのない笑顔の若者に、血で汚れた自分ができることなど思いつかない。しかし、たとえそうであっても、何かしら役に立ちたいと思った。それが自分の中にある、やり場のない気持ちの矛先を探すだけの行為だったとしても。
それでも若者は首を横に振って答える。
「ではこういうのはどうでしょうか。僕、今は装飾品を作る仕事をしているんです。といってもこの間弟子入りしたばかりのひよっこですけどね。毎日、親方からは怒られてばかりですけど、最近になって認められたのか、重要な細工の仕事を任せてくれるようになりました」
若者は懐に手を入れて、なにやらごそごそと探し始めた。
「ええと、これです。これ、僕が細工したんですよ」
探し物を見つけ、若者は手を差し出して、イアネルクに見せた。
「指輪か。見たところ、細工などないようだが」
イアネルクは、指輪を手に取り、矯めつ眇めつしてみる。しかし、これといった特徴のない、ただの指輪のように見えた。
「指輪の内側に、店の名前が入っているでしょう?」
若者が指摘した箇所を注意深く観察してみると、そこには確かに文字が刻まれていた。
「ほう。私はこういうものに疎いが、なかなかによくできているな、これは」
イアネルクの感想に気を良くしたのか、若者は笑顔をより輝かせた。
「でしょう? って自分で言うのもなんですが、親方からは、筋が良いって言ってもらえます。……まだまだ未熟ですけど」
「これを購入するわけにはいかないか?」
「この指輪は僕が練習した品で、売り物としてお渡しすることはできません。親方に知られたらお説教じゃ済みませんし、何より、自分が納得できないですからね。なので、もしよければ、依頼してもらえませんか? 気持ちが向いたときで構いませんので、いつでもお待ちしてます」
若者は、自分の勤めている店の場所を口頭で説明した。
「……ああ、そうさせてもらおう。今は私も優先しなくてはならない事柄があるから、それが落ち着いた頃合いを見計らって、いずれ店に寄らせてもらうとしよう」
了解の意志を示し、イアネルクは指輪を若者に返すために、手を差し出した。
そのとき、若者がイアネルクの手に触れたことで、制御していた幽体の力を無意識に使ってしまった。
映像が、記憶が、イアネルクの脳内を駆け巡る。
直前まで話していた指輪が呼び水になり、思いがけない形で、見覚えのある人物を、その映像記憶の中に発見した。
(オリズス……!)
その少女は、若者の店に訪れていたらしい。若者が応対していたおかげで、強く印象に残っていたようだ。
見間違いなどありはしない。この少女は、オウイコットにいるオリズスそのものだ。足取りを追っていたが、よもやこんなところで発見するとは。
肩を上下させ、呼吸を乱しながらも、イアネルクは冷静に、若者に対してすべき質問を、頭の中に思い浮かべていた。
「つかぬことを尋ねるが、最近、君の店に訪れた二人連れの少女はいたか?」
「はい、よく覚えてますよ。若いお客さんは大勢いらっしゃいますけど、僕が直接応対したのはごく最近ですから……ど、どうかしましたか?」
若者がイアネルクに心配そうな視線を向けてくる。
「平気だ。持病があってな……それより、その少女を最後に見たのはいつか、詳しい日付を教えてもらえないか?」
若者はイアネルク質問の意図を計りかねている様子で、しばらく考えていた。
「ええと……たしか、あの獣騒動があったときですね。そうだ、あの獣を倒した男と一緒にいましたよ。間違いないです」
ぜいぜいと息を荒くしているのは、幽体の力を使ったからだけではない。イアネルクは、自身の幸運に、興奮していた。
獣騒動があったときにオリズスを見たというのは、つまり、幽体のオリズスがそこにいたという証だ。研究のために、是が非でも捕らえねばならない。
それに、若者の映像記憶は遠目ではあったものの、獣騒動の渦中にいた男の風体から、イアネルクはその人物の素性を察することができた。
(生きていたか、ベネッド……)
オリズスは、ベネッドと行動をともにしている。どんな経緯があって出会ったのかはわからないが、間違いない。おそらくは幽体になったことを自覚したオリズスが、実体を取り戻すためにベネッドと行動をともにしているのだろう。
クートの行方は未だわからないままだが、オリズスの足跡を発見したことで、イアネルクの胸に希望が灯った。
そのためには、まず栄養の接種が最優先であると、イアネルクは考える。
通常の食事ではなく、他者の血液を手に入れねばならない。
目の前の若者から接種してもよかったが、心情的に、避けたいとイアネルクは感じていた。幸い、まだ禁断症状が出ていないので、猶予はある。
とりあえずはここを離れ、人気のない路地裏辺りで、餌となる人間の物色をすることに決めた。
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