第二話 マニグス
「バナム、ここで待っていてくれ」
ひひん、とひと鳴きして、バナムは了解の意志を示した。
ここはマニグスの町外れである。陽が傾きかけており、辺りは橙色に染まっている。行き交う人々の表情には仕事を終えた解放感が窺え、まだ明るいが、すでに夜の気配が漂っている。
ゾロイは、オリズスとアジネが声をかけられたという呉服屋に足を運んだ後、そこで得た情報を元に、マニグスまで足を延ばすことにした。
バナムを町に連れて入らなかったのは、目立たぬよう配慮した結果だ。
幽体を視ることのできない者相手ならばともかく、オリズスやアジネさえ視認可能な、能力の高い人物相手だ。注意しすぎて困ることはない。
カーチムの呉服屋で聞いた、オリズスとアジネに声をかけた人物の風体は、年の頃三十の男で、短い髪の優男とのことだった。これだけでは特定は難しいが、この優男は幽体の才能を持つ人間であるため、いざというときの判断にはゾロイが能力を使えばいい。
優男がどこに向かったのかはわからなかったが、見かけない顔だったことから、呉服屋の店主がどこから来たのか尋ねたところ、マニグスで暮らしているということだったらしい。
(それにしても、変わらない町だな)
マニグスは、工場町だ。ここに根をおろして暮らす者もいるが、多くは外からの出稼ぎ労働者たちである。かつてゾロイも、一時ここに住んでいたことがある。
吸い込む空気は、お世辞にも清々しいとは言い難い。この町の工場が巻き上げた粉塵のせいか、空全体には常にうっすらと煙が覆っている。
優男がここで暮らしているのが本当ならば、知っている者もいるだろう。本当のことを口にしているとは限らないが、今のところそれしか手がかりがないので仕方がない。嘘を吐くにしても、その理由が思い当たらない。
マニグスには後ろ暗い事情を持つ者も少なくないため、知り合った相手の素性を根ほり葉ほり訊くのは掟破りの行為に該当する。周辺の町でも、マニグスに対する印象はあまり良いわけではない。そういったことから、もしも嘘を吐くとしても、マニグス出身だということを隠すのならまだしも、マニグス出身だと偽るのは少々疑問が残る。誇りを持っているため、ということも考えられないではないが。
普段のゾロイならば、似顔絵を作成してから、現地の人々に訊いて回るという手順を踏む。しかし、今は手段を選んでいる場合ではないと判断し、幽体を駆使して情報を集めるつもりだった。
カーチムの呉服屋の店主から、優男の情報を話で聞いた後、ゾロイは念のため店主の幽体に直触りした。もしも店主がはっきりと優男の姿を記憶していた場合、幽体に触れた方が理解が早い。話を先に聞いたのは、店主の記憶を窺い知るためであるのと同時に、本来ならゾロイが自分に禁じ手としている行為だったからである。
結論から言えば、店主の記憶の像は、優男のぼんやりとした輪郭と後ろ姿だけだった。どこかで見たことがあるような気もしたが、ゾロイは思い当たる人物を、自身の中の記憶から探し出すことはできなかった。
この情報を、行き交う人の幽体に直触りして、店主の記憶の像と一致する人物を探す。これがマニグスにやってきた目的であった。
人々の幽体に触れるというのは、あまり心地の良い作業ではない。ゾロイがどうして禁じ手としているのかといえば、他人の詮索を、それも当人に知られぬ形で行うからだ。ただでさえ、よろず屋稼業はそうした秘密を暴く行為である。その上、この能力を行使するのは、人として道を踏み外しているように感じて、あくまで仕事としてやらなけらばならない他人の素性探りを遂行する以外、幽体を使うことは極力避けていた。
幾人もの記憶に触れながら、ゾロイは不快さを堪えて、優男の像を探す。
女房子供と離れて、ここで出稼ぎをしている者。
都会の生活に疲れて、流れ着いている者。
様々な記憶を視ているうちに、気になる人物の像を発見した。
声をかけたのは、疲れた雰囲気をまとう中年の男た。自分の顔を隠すように、猫背で下を向いて歩いていたところ、ゾロイが酒を差しだして注意を向けた。
記憶の中にいたのは、金髪の男で、整った顔立ちをしている。年齢は、若く見えるが、落ち着いた雰囲気から、もしかしたら案外、ゾロイと同じか年上かもしれない。
(この男、どこかで……)
今度は自分の記憶を探る。なかなか該当する人物を思い出せなかったが、金髪であるという情報が、ある人物のそれと結びついた。
「こいつか、クートってのは」
ゾロイは思わず声を発していた。
その名前に反応したのか、触れていた記憶の主の身体が、びくっと動いた。猫背が、まっすぐに伸びる。
「あ、あんた、そがなこと口にしたら……」
記憶の主は、辺りを忙しなく窺いながら、怯えた様子で言った。
「ん? なにかまずいことでも言ったか?」
「魔術師様のこと、呼び捨てになんかしたら、なにされるか……」
「クートのことか?」
「声が大きいよ、あんた。魔術師様のことを知らんのかい?」
猫背の男は、ただでさえ丸い背をさらに丸く縮こまらせて言った。
「悪いが教えてくれないか? ただでとは言わない」
ゾロイは男の手を取り、この辺りでの数日分の稼ぎと同等の金貨を握らせた。
幽体を使って記憶の中から情報を探すことも可能ではあったが、それでは時間がかかる。記憶が整理されている人間もいれば、乱雑に置かれている人間もいるからだ。他人の部屋の中から、目的のものを探すのは、当人の方が手っ取り早い。
目を丸くした猫背の男は、逡巡した後、ようやく決心がついたようで、口を開いた。
「お、俺が言ったって言わないでくれよ」
断りを入れてから、男はたどたどしくも、ゾロイに必要な情報を伝えてくれた。
金髪の男は、クートという。情報屋のリックから聞いた話と一致した。
クートは、首都オウイコットの学術研究施設から派遣されてきた、研究員の頭であるらしい。魔術師というのは通称で、人ならざる術を使うところから、そう呼ばれているようである。おそらく、幽体使いだろう。
中年男がクートと出会ったのは、ある薬を配布していた工場だった。投薬実験と銘打って、被験者を集めていたようである。一般に、たとえばニヒサスムやカーチムなどの町ではそういった危険な仕事は見受けられないが、ここ、マニグスでは比較的よく行われている。ゾロイがかつて暮らしていた頃も、そうした仕事は確かにあった。それは人道的な観点から見れば胸を張れる内容ではないかもしれないが、場所柄を考えれば別段、引っかかる点ではない。
引っかかったのは、学術研究施設という場所だ。ゾロイの知り合いで、ひとり、そこに籍を置く人物がいる。ウリアツラだ。
孤児院でともに暮らした姉のようなウリアツラが、学術研究施設に籍を置くと聞き、ゾロイはとても嬉しく思った。それは今でも記憶に強く残っている。自分たち孤児が、国に認められたような気分で、誇らしかった。
だが同時に、寂しくもあった。ウリアツラが孤児院のあるニヒサスムから離れていくこともその理由のひとつだが、彼女がゾロイに隠してたことを、ついぞ話さないまま、遠い場所に出向く決心をしたことだった。
ウリアツラは気がついていない様子だったが、ゾロイは彼女の身体の異変を知っていた。
すでにそのときはウリアツラは孤児院を出ていたが、時折ふらりと帰ってきては、子供たちに食べさせるための食材を置いていった。
その際、子供たちの誰かが怪我をしていたりすると、彼女は積極的に治療を行っていた。それ自体はなんの違和感もないものだ。医術師として邁進するウリアツラが、怪我をしている人に接するというのは。
ウリアツラが子供たちに治療を施すとき、ゾロイは彼女の異常な視線に気づいた。子供たちも気がついていただろう。最初、それが何を意味するものなのかはわからなかったが、彼女の治療の熱の入れ方が、病ではなく、主に怪我、それも真新しい傷口に注がれていたことが、後々判明した。
できることなら、自分も力になりたい。ゾロイはそう思っていた。医術の知識もなく、またウリアツラのように頭が良いわけでもないが、自分を助けてくれた姉の力になれるのなら、どこまでもついていくつもりだった。
相談してくれる日を待っていたゾロイは、しかしその瞬間を迎えることはできなかった。
このときの感覚が、よろず屋を開く一因だった。大切に思っている人から頼られるには、それなりに力の証明がいる。
(ウリアツラはクートのことを知っているのか)
人物のことではなく、行為のことだ。投薬実験を先導するクートのことを、ウリアツラは知っているのだろうか。
学術研究施設でのウリアツラのことを、ゾロイは知らない。おそらくは、自分の身体の変調について調べるために入ったのだろうが、そのことを考えると、リヒサコニでの事件を思い出さずにはいられない。
ウリアツラと初めて出会ったリヒサコニの疫病隔離施設で、煤が人々に襲いかかる事件が起きた。当時は逃げることに精一杯で、どうしてその事態が起きたかはわからなかったが、今考えれば、施設内で行われた治療がその一因ではないだろうか。
投薬による治療が主であったことから、身体に変調を来す理由として、それが考えられる。
(あるいは、血液採取がなにかの疫病の感染経路だったのか……?)
これといった解にたどり着くこともできず、ゾロイは気分を切り替えるために顔を上げて、ふと辺りを見渡す。
ゾロイが考えに没頭している間に、猫背の男はいなくなっていた。
代わりに、バナムが目の前にやってきていた。息を切らせている。
「ぞ、ゾロイっ、煤が出た!」
「なんだと? どこだっ」
瞬時に身構え、ゾロイは臨戦態勢を整えた。
「町の入り口のところ……っていっても、煤はすぐにいなくなったから、周囲に影響はないと思うんだけどさ」
「驚かせるなよ、バナム。それならどうしてここまで来たんだ」
ゾロイは力を弛め、握っていた剣の柄から手を離す。しかし、周囲への警戒は怠らない。
「町の入り口でゾロイを待っていたらさ、行き倒れのお人を見かけて。おいらが駆け寄ろうとしたら……」
「煤化したってわけか」
ゾロイは、途切れたバナムの言葉の後を継いだ。
煤化はさほど珍しいことではないと、ゾロイは知っていた。問題は、その煤がどれほどの生命力を保持しているのか、という点にある。宿主である感染者の体質等によって、煤の活動期間に差が生まれる。この場合、あまり驚異に感じるほどではなかった。
その事実は、バナムも知っている。しかし、バナムは異常なほど、煤が苦手であった。自身が幽体であるというのに、幽体そのものに精神的な耐性がない。
そうした弱気を責めるようなゾロイの視線に、バナムはあたふたと釈明を始めた。
「前にも言ったことあったけどさ、ゾロイと違って、おいらは幽体だからあいつらから狙われやすいんだ。実体っていう隠れ蓑がないんだから、煤の方からも発見しやすい。これがどんなに怖いか、ゾロイはわかってない」
「いい加減に慣れろって。おまえの言い分も理解できるが、煤の性質を知っているだろう。放っておいても、長くても幾日か、短ければおまえがさっき見たように一瞬で、煤はいなくなる。心配するようなことじゃない。……感染者を気の毒には思うが」
ゾロイの説明が感情を逆撫でしたらしく、バナムは鼻息を荒くしている。
「そんなこと、おいらだってわかってるよ! でもさ、頭では理解できていても、心がついていかないことだってあるんだ。誰がなんと言おうと、怖いものは怖い!」
勢いよくまくし立てるバナム。
「それで今日も、俺の店まで来たんだろう。わかってるさ」
バナムが今日、よろず屋に訪れた理由は、リヒサコニの森に出現した煤を退治してほしいというものだった。
リヒサコニの森を、バナムは主な住処としている。幽体であるため、人々に触れて記憶を盗み見たりすることを嫌がってというのもあるが、最大の理由としては、そもそも煤や黒い獣のような存在をあまり見かけないことであった。煤に関して言えば、そのほとんどが人を媒介にして発生している。つまり、人里にさえ近づかなければ、滅多と遭遇しないのである。
「わかってないね。その証拠に、すぐに森へは出かけなかったじゃないか。……まあ、アジネちゃんのことがあるから、このマニグス遠征の一件については不問にするけどさ」
ぶつぶつと文句を口にしながらも、バナムの呼気も大分落ち着いてきた。こと、アジネに関わることだけは、昔から誰よりも優先する。
「ったく、おまえは昔っからアジネにだけは甘いもんな」
ゾロイがアジネと初めて会ったのは、リヒサコニの森である。
まだよろず屋を開業して間もない頃、人ならざる存在を調査してほしいとの依頼を受けて、ゾロイはリヒサコニの森へと足を踏み入れた。かつて自分が収容されていた土地へ出向くのは、いささか気が進まなかったが、受けた依頼を断っては店の存続が危ぶまれるとの危惧から、仕方なく足を延ばしたのである。
結論から言えば、人ならざる存在の正体は、バナムだった。
幽体使いの才能がある者が、人里にやってきたバナムを見かけて、噂になったのだろう。
そのときバナムが連れていた少女が、アジネだ。
「ゾロイ、それについては……」
口ごもるバナムの様子を察して、ゾロイは自分の配慮のなさを恥じた。
「……悪い、詮索するつもりはないんだ」
アジネと暮らすことになったのは、バナムの依頼によるものだった。
バナムとアジネがどういう関係なのか、ゾロイは当然尋ねた。しかし、バナムはそれを聞かないでほしいと懇願してきた。了承しかねていたゾロイだったが、アジネが特殊な幽体であると知り、ともに暮らす決断をした。かつての自分と重ねて見ていたのが、その理由だった。
バナムが、アジネとの関係を説明することはなかったが、それでもおおよその想像はつく。幽体の性質として、基本的に近しい者としか接することができない。ということはつまり、肉親である可能性が高い。自然に考えれば、家族だろう。
しかし、依頼者が口にしたくない事実を、ゾロイはわざわざ明らかにするつもりはなかった。誰しも、話したくないことはある。
頭では理解できても、心がついていかない。バナムが先ほど口にした言葉は真実だが、その逆もまた然り。本能で理解していても、理性がそれを拒むこともある。
ここマニグスで、後ろ暗い経験をしてきたゾロイは、前者も、後者も、実感として心と身体に深く刻み込まれている。
仕方ないと言いたくはないが、違法な薬でひとときの安堵を得ようとする者には、それなりの事情がある。ゾロイのように、戸籍を手に入れるため、誰かの捨てた名前を買う者にも、それなりの経緯がある。
国のせいと嘆いたところで、何も暮らしは変わらない。
ならば自分が変わらなければならない。それを自らの体験から、ゾロイは学んでいった。黙ったままでいるのは、バナムもおそらくそうだからだろう。
気まずい沈黙が、二人の間に流れていた。
「……ところでさ、件の人物のあたりはついたのかい?」
先に口を開いたのはバナムだった。話題を変えようと、意図的に探した内容だとゾロイは理解した。
バナムの問いに答えようとしたとき、ゾロイの脳裏に閃光が走った。
「クートの正体がわかった」
「えっ、クート? それがアジネちゃんとお嬢さんに声をかけた人?」
首を傾げるバナム。
「頭で理解できても、心がついていかない。そうだったよな」
バナムに、というより、ゾロイは自分自身に言い聞かせるように、そう言った。
「まだその話を引きずってたの? それともそれがなにかを示すのかな」
それに答える代わりに、ゾロイは提案をする。
「バナム、悪いが記憶探しの手伝いをしてくれ。クートの足取りをつかむことが、俺の目的の人物につながるかもしれない」
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