挿話 紅の魔術師 その一
イアネルクはひとり、ニヒサスムにやってきていた。
クートの行方を追ってマニグスへ足を延ばしたものの、その姿を見つけることはできなかった。現地に派遣していた研究員からの報告によると、数日前、すでにオウイコットへと出発したらしい。オウイコットへの道は複数あるため、入れ違いになったのかとも思ったが、イアネルクはどうせならと、学術研究施設から逃げ出した黒い獣が出現した場所を、この目で見ておくことにした。
マニグスの隣街であるニヒサスムは、かつてイアネルクが暮らしていた孤児院がある。数年は訪れていないが、当時と比べて著しく街が変化したというふうには見えない。
歩く速度で、ゆっくりと流れていく街の風景を眺めながら、イアネルクはしばらく忘れていた安堵を感じていた。
(事件の現場に向かっているというのに、なぜか心が落ち着く)
くつくつと笑いがこみ上げてくる。すれ違う人々から奇妙な視線を寄越されても、イアネルクは不快な気持ちにはならなかった。この晴天の日差しを、身体ごと浴びているせいだろうか。それとも、珍しい紅い髪の毛のせいかもしれない。普段ならば頭部を覆う布を被って出かけるが、しばし解放されたような気分を味わっていたくて、今はそうしていなかった。
研究所は常に暗い。昼夜問わずに業務に追われる生活を続けているイアネルクは、自ら室内を常時暗くしていた。陽の光が、人の道を踏み外そうとせんばかりの研究をしているイアネルクにとって、後ろ暗く感じるせいだった。
賑やかな街中をこうして歩きながら、イアネルクは、本来ならば隣にいるはずの二人について考える。
一人は、我が子。
もう一人は、夫だ。
夫、とはあくまで便宜上の呼称であって、正式に婚姻届を提出した、つまり国に認められた夫婦ではなかったが。
元々、イアネルクも夫も、戸籍を持たない孤児だった。今はイアネルクと名乗っているが、当時は別の名前があった。イアネルクはウリアツラ、夫はゲーブという本当の名前が。
ゲーブは幽体である。リヒサコニの事件後、同じ場所でイアネルクと再会したとき、彼は幽体となっていた。
イアネルクがゲーブとの間にもうけた子供は、実体と幽体の混血という理由からか、周囲に認識されることはなかった。我が子に普通の暮らしをさせたいという願いが、イアネルクの暗い情熱に火を灯し続けている。
ゲーブと我が子が今、隣にいてくれたら。イアネルクは、ただそれだけを思っていた。
ゲーブと最後に会ったのは、もうかれこれ数年前になる。リヒサコニで逢瀬を重ねていた二人だったが、ある日、唐突に別れを告げられた。
「僕は幽体だ。だから、本当はこんなふうに話をしていることの方がおかしい。どうして消えないのかはわからないけど、ひどくあやふやな存在だから、いつか君の前から消えてしまうかもしれない」
イアネルクは、ゲーブの別れの言葉に納得せず、反論した。きっとその言葉を言うのに、長い間ひとりきりで考えていたのだろう。その時間の重みを思うと、軽々に反論をすべきでないとも感じていた。しかし、イアネルクは自分の気持ちを抑えることができなかった。
なんと言って説得を試みたのかは、イアネルクは覚えていない。ただ、ひたすらに別れを拒んだだけだった。
結局のところ、ゲーブの意志を曲げることはできず、またイアネルクも折れるつもりがなかったため、言葉だけが宙に浮いた状態のまま、数日が経過した。
そうして、イアネルクが折りを見て説得をしにリヒサコニへと出向いていたある日、ゲーブは何も告げず、その姿を見せなくなってしまった。彼に預けていた我が子とともに。
行方を追って、イアネルクは思いつく限りのありとあらゆる場所に出向き、ゲーブを探し続けた。しかし、数年の歳月が流れても、ゲーブとの再会は果たせなかった。
同時に、その頃のイアネルクは、自身の体調の変化にも悩まされていた。血液への異常なまでの終着である。
医術師の道へと進んだのは、我が子と自分の身体のためであったが、もうひとつ、その過程で手に入れたい知識を見つけた。ゲーブが不安に思っていただろう、幽体の期限についてである。
イアネルクとしては、相手が幽体であろうとなかろうと、それは大した問題ではなかった。イアネルクには幽体を認識する能力が備わっていたし、触れ合える喜びは、実体だからではなく、相手がゲーブだからこそだ。
ゲーブが、幽体の期限について悩んでいるのなら、それを解決することで、彼が再び自分の元へ戻ってきてくれるのではないか。イアネルクはそう考えて、日々の実験に没頭していたのである。
幽体の期限。それについては長い間なにもわからなかったが、オリズズという被験体のおかげで、少し理解が進んだ。
学術研究施設でその身を拘束されているオリズスの身体からは、幽体の大部分が抜け落ちていた。意識が切れ切れになっていたのも、おそらくそれが原因だと思われる。
初めは、なぜオリズスの意識が覚醒したのか、という疑問に、答えを出すことはできなかった。しかし、逆に考えてみたところ、一筋の光明が射した。
オリズスの身体に意識が覚醒したのではなく、眠っている間にこそ覚醒があるのではないか。つまり、抜け落ちた幽体の方に意識の大部分が集中していて、今もどこかに存在しているのではないかということだ。
もしもその仮説が正しければ、ゲーブの不安材料である幽体の期限について、より理解が深まる。
(ゲーブの身体も、きっとまだどこかにある)
身体が存在している限り、幽体は存在し続けることができるのかもしれない。器があればこそ、その中に水を入れることができるように。
希望を胸に、イアネルクは、勝手知ったるニヒサスムの街を力強く歩く。
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