第三章 マニグス

第一話 思わぬ訪問者


 昼を過ぎてから五人目の客がようやく腰を上げ、やっとのことでゾロイは休憩のひとときを味わっていた。

「おい、茶を淹れてくれ」

 いつものように眉根をもみながらゾロイは言ったが、しかし誰の返事も返ってこない。

(ああ、そうだ。アジネはオリズズと買い物に出かけているんだった)

 いつも部屋に閉じこもっているアジネに対して思うところがあったのか、オリズスは買い物と称して、アジネを外に連れ出すことを提案してきた。

 店内に広がる静寂が、ゾロイにその事実を思い出させた。ぐいと伸びをして、身体をほぐす。

 ゾロイがベドの依頼を終え、ニヒサスムから帰宅してから数日が経過していた。ニヒサスムの街外れにある店に訪れた後も、調査対象であるベドの妻、ウリアツラの姿を見ることはなかった。無論その後、数日間にわたって追跡したものの、その足跡が掴めず、調査を断念することにしたのである。

 当然、ベドはゾロイの調査打ち切りに納得はせず、調査の延長を求めてきた。

「ひどいじゃないですか、ゾロイさん。あなたにとっては数ある調査のひとつに過ぎないかもしれないけど、僕にとっては大切な、たった一人の妻なんです」

 手がかりは、あった。しかし、ゾロイはその先に待つだろう不穏な気配に、ベドの切実な申し出を素直に受けることはできずにいた。

「ベドさんの言う通りです。奥さんを見つけないことには、依頼が完遂したとはいえないと思いますよ」

 助手としてついてきたオリズスも、ゾロイの判断には納得できない様子で、ウリアツラの調査続行を提案してきた。

「……わかった。じゃあ、見つかったら報告する、ということでどうだ? これについては調査内容が違うから、料金についても変更する。浮気調査から、行方不明の人間を捜す、ということにな」

 本意ではなかったが、ゾロイは二人の押しに負け、渋々その提案を受け入れることになった。

 ゾロイはおもむろに、懐から石を取り出して眺める。これこそが、手がかりのひとつである。

 光石は、一般には装飾品として認識されているが、ゾロイのように幽体の才能を持つ人間にとっては、器としての感覚が強い。その才能を持つ者は、物体を見るときに、幽体があるかどうかがわかる。目利きの者が、一目で品の善し悪しを判断できるのと同じようなものだ。

 幽体の才能を持つ者はあまり多くはないが、確かに存在する。ゾロイの知る限りでは、両手で事足りるほどの人数で、そのほとんどが暮らしのため以外には使用しないような、ただ普通の住人である。

 例外として、ウリアツラという、ベドの妻と同じ名前の、ゾロイの幼なじみがいた。

 ウリアツラは、ゾロイにとって、姉というべき存在であり、同時に幽体使いの師匠のような存在であった。彼女は、幽体の使用について積極的だったため、様々な訓練と実験を繰り返していた。訓練や実験につき合うその過程で、ゾロイはある特殊な使い方を知ることになった。

 孤児院で暮らしていたゾロイとウリアツラは、ニヒサスムの中心へと足を延ばしていたある日、不思議な出来事に遭遇した。大勢の人でごった返す街中に慣れておらず、二人は行き交う人々にぶつかりながら歩いていた。そのとき、なぜかぶつかった人の記憶が流れ込んでくるような感覚があり、ゾロイはウリアツラにそのことを確かめてみた。

「やっぱりそう? あんたも感じた? ……孤児院ではこんなことなかったのに」

 当時はまだ幽体を使いこなせてはいなかった二人だったので、互いに気がつかなかったが、緊張によって無意識に幽体の力を強く発揮させていたのが大きな理由だった。

 幽体を強く意識すると、触れた人間の記憶を感じることができる。長時間触れ合えば、その人間の記憶のすべてを手に入れることも可能だろう。益が見あたらない限りそれを行う理由がないが、本能的な実感として、二人はそれを理解していった。

 手がかりのもうひとつが、このウリアツラという人物である。

 ウリアツラという名前自体が珍しいものではないが、幽体を含む光石を置く店に訪れていた事実と組み合わせることによって、ゾロイの頭の中に疑惑を残す結果となっていた。

 幽体使いの知り合いの中に、ウリアツラの名前を持つ人物は、ゾロイの幼なじみを除けば一人もいない。だからどうしても注意がそちらにいく。

 ベドの妻の名前がウリアツラだと聞いて、ゾロイは同じ名前の別人だと思っていた。しかし、調査をする過程で、幽体に絡んでいる可能性のある人物である事実から、かつての友人を重ねて見ずにはおれなかったのである。

 ウリアツラが孤児院を出ていってからかなりの年月が経つため、最初は本人だと気がつかなかったのかもしれないとゾロイは思った。しかし、幾ら長期間顔を見ていないとはいえ、最後に会ったとき、すでに互いに成人していたので、そうそう姿が大幅に変わるということは考えにくい。顔形は、完全に別人のそれであり、見間違えようもなかった。

 次に考えついたのは、名前を語ってなりすましているのではないか、ということだった。

 ウリアツラの知り合いで、もしかしたら悪巧みをする者がいて、その人物がなりすましを行っているのではと考えたのである。

 幽体使いという才能は、一般に広く知られたものではないが、知った者が良からぬ考えを持っていた場合、悪用することは大いに起こり得る。

 医術の道へ進んだウリアツラは、ゾロイの知らない交友関係を持っているだろう。その中に、あるいは幽体使いの才能を持っている人間がいても何ら不思議ではない。

 しかしながら、たとえその才能を持っていたとしても、わざわざウリアツラの名前を語って悪用する必要はない。当人の本名でなければ、つまり身分が明らかにさえならなければ、他の人間の名前でも結果は同じだからだ。たまたまその名前を使った、ということならあり得るが、その場合は考えても詮無いことである。

 ゾロイの幼なじみを知っていて、且つ、幽体使いもしくはそれを知っている者。

 それを考えたとき、ゾロイの頭には一人、思い浮かぶ人間がいた。

 その人物とはリヒサコニの施設で出会った。ウリアツラを姉と呼ぶなら、ゾロイにとって兄のような存在であった。

 施設が、煤や黒い獣の出現で混乱していた最中、ゾロイは年上の姉と兄の手引きで逃げ出した。

 その際、兄であるその人が、流行り病の影響か、投薬の招いた結果かはわからないが、煤化してしまったため、やむを得ずウリアツラが幽体を使って撃退した。完全に消え去ったかの確認をしてはおらず、ゾロイたちは振り返ることなく逃げ続けた。

 もしも、その兄が幽体として存在していたのなら、とゾロイは考えた。

 そうすれば事実としては納得のいくものである。しかし、仮にも兄と慕った間柄であり、人格を知るゾロイとしては、幾ら年月が経とうとも、ウリアツラの名前を語る理由が見あたらない。幽体である兄が、実体を乗っ取ることは可能ではあるものの、ゾロイの知る兄の優しい性格を考えると、素直には結び付けにくい。

 とはいえ、心情的に考えにくいというだけで、今のところ、ベドの妻を追う手がかりとして、光石と、ウリアツラという名前だけであることは間違いがない。

(恨まれていたとしたら……)

 ゾロイは顎に手を当てて考える。

 もしもそうならば、ウリアツラの名前を語ったのは、ゾロイへの当てつけということだろうか。

 撃退したのはゾロイではなく、ウリアツラの方だったが、生き延びた者すべてに恨みを抱いている可能性は捨てきれない。長年ウリアツラと会ってはいないため、もしかするとすでに彼女は始末済みなのかもしれない。

「ということは、今度は俺の番、なのか……?」

 ゾロイは思わず、誰もいない店内に言葉を放っていた。返事を期待して言った言葉ではなかったが、それに応える声がした。

「嫌です。ゾロイさんはひとりで出かけてください」

 考えに没頭していたため、ゾロイは焦点が合ってなかったが、元々向いていた店の入り口に、オリズスとアジネの姿が目に入った。手に持った風呂敷が膨らんでいる。

 オリズスの言った言葉を理解するのに時間がかかったが、ようやく合点がいった。

「俺は別におまえと出かけたいなんて一言も口にしてない」

 オリズスはどうやら、ゾロイの独り言を、勘違いしていたらしい。

「ただいま。ごめんね、ゾロイ。オリズスさんを独り占めしちゃって」

 謝罪を口にしつつも、表情はやけに楽しげなアジネ。

「アジネ、おまえなあ。妙な誤解を生むから、やめてくれ」

 オリズスはふくれっ面をさらして、ゾロイの方を見向きもしない。

 アジネを連れ出すという話を持ち出したとき、ゾロイが乗り気でなかったことを未だに根に持っているのかもしれなかった。

 ゾロイとしては、アジネを店の外に出すのはあまり気が進まない。本心としては、外に出してやりたいとは思っているが、アジネの特殊な体質を考えると、素直には頷けなかった。大人になってから幽体化した者ならば、たとえばオリズスのように知り合いとも触れ合えるが、生まれたときから幽体であるアジネには、実体として関係した人間がいないので、寂しさを味わうだけの結果になってしまうのではないかと思ったからである。

 それに、危険もある。

 アジネはその体質上、煤、黒い獣から狙われやすい。病にかかってしまった場合、ある程度の軽い症状ならばゾロイが治療を施せるが、医術師の手が必要となったときに、通常なら起こりえない困難が生じる。アジネを認識できないためである。

 幽体の才能を持つ医術師を見つけなければと、常々思っているゾロイであったが、なかなかそういった情報は得られない。情報屋のリックには、その類の情報が入ったら最優先で知らせてくれと頼んではいるが、今のところは入ってきてはいなかった。

「誤解ってなに?」

 アジネはにやにやと笑いながら、ゾロイの揚げ足を取った。

「いや、誤解は誤解だ。俺はオリズスと出かける気はない。それだけだ」

 その言葉を耳にするや、オリズスはより不機嫌な表情になった。

 ゾロイはアジネの誘導に乗るつもりはなかったが、強く否定したことが裏目に出てしまった。

「そうですか、いいですよ、別に。わたしもゾロイさんなんかと出かけるつもりなんてないですから」

「オリズス、今のはそういう意味じゃない」

 ゾロイは慌てて取り繕ったが、オリズスの機嫌は治らない。

「じゃあどういう意味ですか?」

 詰め寄るオリズスの勢いに押され、ゾロイはたじろいだ。

「だから、誤解だって言ったろ。おまえと出かけたくないわけじゃない。さっきのはただの独り言だ」

 すべてを詳らかに説明するわけにもいかず、ゾロイは困惑した。

 独り言は、ベドの妻の正体についての考察が漏れてしまった結果であるが、これ以上オリズスを巻き込むのは避けたい。

「ほら、ね? ゾロイはやっぱりオリズスさんとお出かけしてみたいんだよ。さっき話していた通りだったでしょ」

 アジネは嬉しそうにオリズスを見た。ここへ来る道中、なにを話していたかの想像はつく。おそらく、アジネがゾロイの独り身を案じて、そう仕向けたのだろう。

「余計なことを言うな。それこそが誤解だろうが」

 心遣いだけはありがたいと思っていたが、ゾロイは誰かと夫婦になるつもりはなかった。少なくともアジネの一件に片を付けない限りは。

「年齢のことなら問題ないよ。オリズスさんも言ってたよ、年上が好みだって」

「アジネちゃん、それはだめだって!」

 顔全体を真っ赤に染め、慌てふためくオリズス。

 ばたばたと手を振って、アジネの言動を否定しているオリズスの様子は、年相応に可愛らしいとゾロイに感じさせた。とはいえ、ゾロイのそれは色恋の類ではなく、彼女の身に起きている過酷な現実から、立ち直ってきているという感覚によるものだった。

「か、勘違いしないでくださいよ。年上ということ以外、わたしの好みにはひとつも当てはまらないんですからね、ゾロイさんは!」

「そりゃあどうも」

 ため息と共に、ゾロイは適当に受け流した。

 オリズスはなおも言葉を継ごうとしていたが、興奮のあまりか、わなわなと拳を震わせるだけである。

「それじゃあ、おいらはどうです?」

 唐突に、場に投げかけられた言葉に、店内にいたゾロイたちは一斉に声のする方へ顔を向けた。

 店の入り口に、白い毛並みの馬がいた。

「バナムさん!」「おっちゃん!」

「こりゃ珍しいな。図々しくもこの店まで来て、高級人参をもらおうって腹か?」

 ゾロイの軽口を無視して、バナムはオリズスとアジネに笑みを振りまいている。

「お嬢さんは先日ぶり。アジネちゃんは、久方ぶり。会えて嬉しいよ」

 ひひん、と短く鳴いて、バナムは再会の喜びを表していた。

「……おっちゃん? アジネちゃんもバナムさんと会ったことあるの?」

 意外だったのか、オリズスはアジネとバナムの顔を交互に見て言った。

「うん、あるよ。っていうか、ここに来る前はおっちゃんと暮らしてたんだ」

「えっ、そうだったの? わたしてっきり……」

 言い掛けて口ごもるオリズス。

 視線が向けられていることに気づき、ゾロイはオリズスの言いたいことを察した。

「俺が嘘を吐いているとでも思ってたのか?」

 ゾロイの一言が真実であったらしく、オリズスは目を丸くして驚いていた。

「よくわかりましたね」

「ここ何日か、おまえと暮らしていたから、見ればなんとなくな。たぶん、俺が離婚でもしたんじゃないかって考えていたんだろう」

「最初に言ったんだけどね。ゾロイとはなんの関係もないって」

 アジネの断言は、ゾロイの胸にぐさりと刺さった。

「でも、アジネちゃんを視ることができるのって、親子でもない限りできないんじゃないですか?」

「俺は幽体の才能が高いからな」

 ゾロイはそうオリズスに言ったものの、彼女の言い分は的を射ていると感じていた。

 幽体についてのことや、ゾロイとアジネの関係を、以前オリズスに説明はした。

 特殊な幽体であるアジネは、才能があっても視ることのできる人間は限られている。

「……そんなに見てくれていたんですか?」

 俯きながら、オリズスは言った。もじもじと、落ち着かない様子で着物の端を掴んでいる。

「そうそう、ゾロイってば意外と見ているんだよね」

「バナム、変な方向に話を持って行くな」

 注意を促したものの、バナムはひひん、と鳴くばかりで、話を止めようとはしなかった。

「変な方向ってなんですか。わたしが変って思っているんですか!」

 オリズスの叫びが店内に響く。目にうっすらと涙を溜めて。

「ひどいなあ、ゾロイは。そんなんだから、いつまで経っても独身なんだよ。おいらみたいにさ、女の子には優しく接するってことを覚えなよ」

「おっちゃんの言うとおり。ゾロイってば、女の子の気持ちなんてさっぱりわからない鈍感さんだから」

 口々に声を発するおかげで、先ほどまで静かだった店内は賑やかさで満たされている。

 ゾロイは盛大にため息を吐いて、眉根をゆっくりともんだ。

「……で、何の用だ?」

 バナムがこうして店を訪ねてくるのは珍しい。普段は人里から離れて暮らしている。幽体のバナムは、実体に触れて人々の記憶を盗み視ることを嫌がって、そうしていたはずだった。

「怖い顔するなよ、ゾロイ。まっ、久方ぶりにおまえと酒でも呑み交わそうかと思ってさ」

 バナムは明るく言った。

 ゾロイは瞬時にバナムの意図を理解して、腰を上げようとした。

 が、そのときオリズズの声がかかり、上げかけた腰を元に戻す。

「あれ、ゾロイさんてお酒呑めないんじゃ……?」

 不思議そうな顔をして訊くオリズス。普段の暮らしぶりを見ているのは、ゾロイだけではなかった。そう思うと、無性におかしくなって、ゾロイはくつくつと笑い声を漏らした。

「呑めないわけじゃない。常時酔っぱらってちゃあ、仕事に支障を来すからだ」

 情報屋のリックの顔を思い出しながら、ゾロイは言った。さすがにリックほどのざるではないが、嗜む程度ならばゾロイも酒を呑むことはできる。

 ゾロイの笑いの意図が理解できていないのか、オリズスはむっとして口を開く。

「馬鹿にしないでください。それくらいわたしにだってわかってますよ。でもそれにしたって、一滴も呑んでいないですよね。ベドさんの依頼も……とりあえずは一区切りしたわけなんですから」

 まっすぐゾロイを見つめて、オリズスは言った。

「悪かった。笑ったのは別におまえを馬鹿にしているからじゃない。むしろ逆で、よく見ているなと感心したから笑ったんだ。酒を呑む呑まないなんて他愛もないことを、よく観察して記憶しているってな。それこそよろず屋でも営んでいなけりゃあ、普通は役立てる機会もないだろう」

 素直に謝罪して、ゾロイは理由を説明した。

 ややあって、オリズスの顔が真っ赤に染まった。視線を逸らし、落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見回している。止まり木を探す鳥みたいに、しばらくそうして視線をさまよわせていたが、やがて良い場所を見つけたらしく、床の適当な部分で静止した。

「最初から素直にそうやって褒めればいいのに。ゾロイは自分のこと話したがらないから、今のでも珍しいんだけど」

 アジネはにやにやと笑いながら、オリズスに向けて補足説明をする。

「ふん、俺は不必要なことを口にしないだけだ。必要とあらば、幾らでも褒めちぎってやるさ。よろず屋稼業は弁も立たないとやっていけないんでな」

 言いながらゾロイは腰を上げた。

 バナムの方に視線を向ける。向こうもゾロイの意図を理解したらしく、かすかに顎を引くのが見えた。

「じゃあ、ちょっとばかしゾロイを借りていくんで、あとよろしくね」

 前足で器用にゾロイを指すバナム。

「あっ、もう出かけちゃうんですか? わたしもバナムさんとお話したいのに……」

「そうだよ、昼間っから酒をかっくらうなんて、ろくでなしのする行為だよ、ゾロイ」

 オリズスとアジネが引き留める。各々、理由は違うが。

「誰がろくでなしだ。俺はバナムに誘われて行くだけだ」

「ごめん、お嬢さん。ちょびっと喉を潤してきたら、すぐに戻ってきますので」

 早く伝えたい内容があるのか、バナムはそう言って動き出した。

「せっかく話したいことがあったのに……ねえ、アジネちゃん?」

「帰ったら聞いてやるよ」

 急いている様子のバナムが気になり、ゾロイはなおざりに返事をした。

「あのおじさん、良い着物を薦めてくれたよね」

 膨らんだ風呂敷の中身は、新しい着物だったようだ。

 背中でアジネの言葉を聞きながら、ゾロイは店の敷居を跨ごうとした。

「ね、お嬢さんたちに似合うと思いますって言われて、ちょっとのぼせ上がっちゃったけどね」

 その一言で、ゾロイは足を止めて振り返る。

 えへへ、とはにかむオリズスの、年相応の幼い笑みが見えた。

 その横で、にいっと顔中に楽しさを湛えたアジネの姿が見える。

「もう一度、言ってくれ」

 ゾロイは努めて冷静に、ゆっくりと言葉を放った。

「ど、どうしたんですか、ゾロイさん? ……何か変なこと言いましたか?」

「そんな怖い顔しないでよ。びっくりするから。着物を買ってきたのが、そんなに驚くことなの?」

 アジネの指摘で、ゾロイは自分の顔がひきつっていることを理解した。

「どこの店で買ったんだ」

 二人の疑問には答えず、ゾロイは質問を重ねた。

「えっ……これは……」

 不思議そうな表情をしながらも、ゾロイの形相に気圧されたのか、オリズスは店の場所を口にする。

 その後も、オリズスとアジネが声をかけてくるのに気がついてはいたが、ゾロイは黙ったまま答えなかった。

 お嬢さんたち。

 お嬢さん、たち。

 オリズスだけなら、まだ声もかけられるかもしれない。実体から離れて、そう月日が経過していない点が、その大きな理由である。

 もうひとつは、オリズスがある程度大人になってから幽体化したことだ。周囲との関係の築き方を学んでいると、幽体になった後も、当人が気がつかずに暮らしている場合もある。少なくとも、オリズスから声をかけて無視されることはないはずだ。知らない相手から声をかけられるのは希ではあるが。

 声をかけてくるとすれば、その相手が知り合いでない限り、幽体使いの才能を持っている者だろう。

 幽体の才能を持つ者はあまりいないが、それでも確かに存在はしている。カーチムの町にも数人いることを確認済みだ。その誰もが、善人の老人たちで、幽体をぼんやりと視ることのできる程度の才能だった。

 だがしかし、アジネは違う。

 特殊なアジネを認識できるのは、幽体そのものである存在である。つまり、ゾロイの身の回りで列挙するなら、オリズスとバナムだけだ。

 たったひとり、その親を除いて。

 ゾロイは、幼い頃に別れた、ある人物の顔を脳裏に思い浮かべていた。

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