挿話 紅の魔術師 その三


 イアネルクは自室にこもって、国に提出するための書類を整えている。

 虚ろな段階に入った被験体であるオリズスは、先日目覚めた後、一度も意識を取り戻してはいなかった。これについては経過報告を待つことにしていた。

 逃亡しているイレスについては捜索を命じたが、これといった成果は出ていないらしく、発見には至っていない。

 イアネルクは、目的達成まで後一歩のところまで来ているというのに、そこから先に進むことができないことにもどかしさを感じずにはいられなかった。

(ああ、報告が待ち遠しい)

 一刻も早く、被験体を最終段階まで進ませたい。そのためには、意識を取り戻した原因の究明が先決である。誰も到達していない実験であるため、不安材料を挙げればキリがないとはいえ、現段階で実験を進めるのは危険が大きすぎる。せめて、オリズスの覚醒条件は把握しておきたいとイアネルクは思っていた。

 報告といえば、ここのところクートの姿を見ていない。元々あちこちに飛んで、ひとっとことに留まらない人間ではあるが、それにしても間隔が開きすぎている気がした。最後にクートの姿を見たのは、逃亡者であるオリズスとイレスの件を調べるためにマニグスへ向かうと報告を受けたときだ。兵士を通じて報告自体は入ってきているが、これは少しおかしい。

(イレスさえ捕縛できれば問題はないか……。想定外の出来事はあったが、私の目的の達成まであと少しだ)

 イアネルクの身体に起こる変調。それは魔術を使うことの反動からくるものである。正確には幽体を酷使することの、だ。

 そもそもの発端は、幼い頃にリヒサコニの森で起きた事件だった。

 孤児だったイアネルクは、医術師から疫病の疑い有りと判断されてリヒサコニの隔離施設へと移送された。

 移送先の施設のことは、今でもはっきりと思い出せる。周囲に広がる森が壁となり、人の目の届かない場所に、その施設はあった。一歩外に出れば豊かな自然を眺めることのできるところではあるが、内部は白く無機質な壁に囲まれて、閉塞感で息が詰まりそうな、そんな場所だった。

 イアネルクはそこで毎日、投薬による治療を受けていた。周りは発症した患者ばかりだったが、イアネルク自身は感染のみで、平常時となんら変わらぬ体調を維持し続けていた。病を拡散させないためにと、外出は禁じられていたが、治療を受けること以外することもなかったイアネルクは、医術師たちの目を盗んでは度々外の森へと遊びに出かけていた。自分一人きりで森の奥へと足を踏み入れることに、別に恐怖は抱かなかった。ただ、寂しさを感じていただけである。

 ある日、いつものように一人で外に出かけると、同じように医術師の言いつけを破って施設から抜け出そうとしている人物を見かけた。イアネルクと同じくらいの背丈の男の子である。声をかけると、その子も感染してはいたが発症はしていないらしく、その点もまたイアネルクと同じだった。

 ゲーブ、と名乗ったその男の子と仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。施設内には大勢人が収容されていたが、自分と年の近い子供を見かけることは少なかったことが理由の一つである。

 最も大きな理由は、それまでイアネルクだけが感じていた世界を、ゲーブという男の子も感じることができたことだった。

 最初がいつの頃だったか、それはもはや思い出すこともできないが、気がつけば他の誰にも視えないものを、イアネルクは視ることができたのである。

 後に施設で起きた騒ぎの原因である煤のことを周囲に話していたが、子供の空想だと決めつけられて誰にも相手にされなかった。

 初めは、煤がなにを意味しているものかはわからなかった。しかしその煤を発した人体は、その後決まってなんらかの症状が出ていたことから、イアネルクは煤と疫病は関連していると理解した。

 ゲーブも同じく煤が視えていた。それを知ったとき、イアネルクは喜びを覚えた。不謹慎かもしれないが、病の原因を視覚的に捉える共通の才能が、二人の距離を縮めたのだ。

 それからは森へと抜け出す回数も増えた。投薬による治療も好きではなかったが、施設内の閉塞感が嫌だったから、そして何より、ゲーブと遊ぶことが好きだったからである。

 そんなある日、ゲーブは話を切り出してきた。

「ねえ、僕らの他に、もう一人煤が視える子供がいるんだけど、連れてきちゃだめかな?」

 イアネルクは仲間が一人増える気がして、一も二もなく頷いた。それまで感じていた寂しさが、まるで嘘のようだった。

、紹介されたのは、イアネルクよりも背丈の小さい男の子だった。ゲーブの後ろにしがみついて離れようとせず、名前を訊ねても口を開こうとはしなかった。代わりにゲーブが、その男の子の名前を教えてくれた。

「平気だよ、ベネッド。僕らは三人とも同じものが視える仲間だ」

 諭すようにゲーブが言うと、ベネッドはおそるおそる口を開く。

「ほ、ほんとう? 僕を、嘘吐きって呼んだりしない?」

 べそをかきながら、ベネッドが初めて声を発した。

「ああ、私もそうやって嘘吐き呼ばわりされてきたから、よくわかるよ。これからはお姉ちゃんとお兄ちゃんが大人から守ってやる」

 ベネッドの抱いた気持ちは、イアネルク自身も持っていたものだった。だから、一人で抱える寂しさは、よく理解しているものだった。

 周囲には黙ったまま、イアネルクたちはいつも三人で森へと遊びに出かけた。皆発症もしておらず、感染者の自覚もないままでそうして日々を平穏に過ごしていたが、森で煤に遭遇したときに、自分たちは普通の人間ではないことを実感した。

 煤は蠢き、イアネルクたちの存在に気づくと、はっきりとした意志を持って近づいてきた。本能的に触れてはならないと感じていたイアネルクは、ゲーブとベネッドに逃げるよう指示を出した。しかし、煤は人間の足では逃げ切ることが容易ではない速度で、イアネルクたちに襲いかかった。

 このままでは煤の餌食になってしまうと悟ったイアネルクは、とっさに落ちていた木の枝を拾い上げ、ゲーブとベネッドに言った。

「いい? あんたたちはそのまま後ろを振り向かずにまっすぐ施設まで逃げるんだよ」

 怖くなかったと言えば嘘になる。けれど、天涯孤独のイアネルクにとって、ゲーブとベネッドの二人はかげがえのない家族だった。二人を煤に取られてしまうくらいなら、自分一人が囮になった方がましだ、と思ったゆえの言葉だった。

 追いかけてくる煤の前に立ちはだかったイアネルクは、手に枝を構え、雄叫びを上げた。

「来るなら来い、私がおまえの餌になってやる!」

 必死だった。とにかく、少しの間であっても、二人を逃がす時間を稼がなければ、と。

 その状況が生んだのか、握っている枝はほのかに光を帯びて、イアネルク自身の顔を照らし出した。

 叫びながら、イアネルクは煤に向かって勢いよく駆け出したーーーーーー

 その後のことを、イアネルクはよく覚えていない。気がつくと、地面に横たわり、森の天井を眺めていた。自分が生きていることさえ、現実として受け入れるのに時間がかかった。遠くにゲーブとベネッドの声が聞こえて、ようやく実感できた。

「姉ちゃん、それ、どうやるの?」

 ベネッドの指摘で、イアネルクは自分の手を見ると、枝がぼんやりと光っているのがわかった。イアネルクは不思議に思いながらも、冷静になって自分の手を観察した。そしてすぐに理解した。

「これ、たぶん枝に私の幽体が流れたんだよ。もう一度やってみるから、ちょっと見てて」

 幽体、という呼称は、施設内で耳にしたものだ。

 言葉それ自体はどう表現しても良かったが、口にしてみると、先ほど枝を光らせた経験も相まって、身体と頭の両方で理解に結びついた。

「すごい……そんなことができるなんて……」

 鳥が空を飛ぶように、魚が水の中を泳ぐように、それはまるで最初から備わっていた力みたいに、イアネルクは使うことができた。

 ゲーブとベネッドも枝を光らせることには成功したが、イアネルクのように自在に扱うことはできなかった。

 現在のイアネルクからすれば、この差が生まれた理由も説明できる。相性も才能もあるが、これは投薬の量におおむね比例する差である。施設に収容された期間が最も長かったのはイアネルク。次いでゲーブ、そして最年少のベネッドと続く。

 煤が次々と黒い獣へと変貌を遂げ、施設から逃げ出したイアネルクは、ゲーブとベネッドを連れて、森の中をさまよっていた。そのとき、ゲーブは黒い獣の餌食となった。逃げ延びたイアネルクとベネッドは、道ばたで倒れ込んでいるところを拾われ、そのまま助けてくれた主がニヒサスムの一角で営む孤児院で暮らすことになった。

 孤児院での暮らしは穏やかであった。しかし、ゲーブのことを忘れるには至らなかった。ベネッドにしてもそれは同じだろう。互いにその話題に触れるのを避け、傷が瘡蓋になっても、心に痣として刻まれていた。

 数年が経った頃、イアネルクは一人、あの事件に真相を探るべく、再びリヒサコニの森にやって来た。ベネッドを連れてこなかったのは、この森でで起きた忌まわしい出来事が、真実になってしまうような気がしたからである。

 誰もいない施設に足を踏み入れ、何か手がかりはないかと捜索していると、物音が聞こえてイアネルクは身構えた。

(ここには誰もいないはずなのに……国の人間か?)

 少し前までは国の見張りが森の入り口や施設の周辺にいたが、自警団らと小競り合いを経て、今は人の気配のしない地域であるはずだった。

 その音の原因を確かめるべく、イアネルクは息を潜めて音源に近づいていき、ある部屋の前まできて確信を得た。

(人の気配がする。証拠隠滅に来たのなら、私が幽体を使って始末してやる)

 覚悟を決め、部屋の扉を勢いよく開ける。そこには、男が一人、背を向けて立っていた。

「誰だ。何のためにここへ来た」

 イアネルクの声が、白い壁に吸い込まれていく。

 男が振り向く。イアネルクは瞬間、警戒を強めたが、すぐに矛を収めた。

 その男の顔に見覚えがあった。

「やあ、久しぶりだね、ウリアツラ」

 男は微笑み、穏やかな口調で言った。

「ま……さか、ゲーブ、なの?」

 イアネルクは驚きを隠せなかった。

 黒い獣の餌食になったはずのゲーブが、今イアネルクの目の前にいる。

 男はゆっくりと頷いて、まっすぐにイアネルクを見た。

「また会えるなんて、ここにいた甲斐があったよ」

 ここに来た、ではなく、ここにいた。その些細な言葉が、しかしイアネルクの心に波を立てた。

「ここに、いた……? あれからずっと……、ゲーブ、もしかして全部幽体に?」

「まあね。でも不自由はないよ。ちょっと寂しいってだけで」

 数年の月日を、ゲーブはどうやって過ごしてきたのだろう。イアネルクは幸運にも孤児院という帰る場所ができた。しかしゲーブは違う。イアネルクは、その歳月を思うと、胸が張り裂けそうだった。

 後々に研究から知ったことではあるが、幽体化した者は基本的に、それ以前に知り合った人間としか関わることができない。

 こうしてゲーブと再会したことで、イアネルクは心のより所を見つけた。孤児院には感謝の気持ちはあっても、やはり他人の家であるという感覚はいかんともしがたかった。

 イアネルクは自然と、ゲーブに心惹かれていった。幼い頃とは違い、異性として、連れ添う伴侶として、その意識を向けた。ゲーブもまた、イアネルクの気持ちに応えた。極めて希有な例だったが、実体と幽体の二人の間に子もできた。

 イアネルクは幸せを感じていた。しかし、我が子が誰の目にも映っていないという事実に気がついてからは、焦燥感を覚え始めた。

 ちょうどその頃、イアネルクは自分の身体に起きる異変を感じていた。幽体を使用し過ぎてしまったからか、投薬の影響か、意識が不確かになることがあったのである。

 そうした理由から、我が子の行く末を案じ、イアネルクは医術の道を志した。

 実体と幽体の間に生まれたことで、周囲の目に映らない我が子に、普通の暮らしを与えようとイアネルクは思案した。そして思いついたそれは突拍子もなく、また人道を外れる行為であった。

 幽体と完全に適合する身体を発見し、中身を移し替えをする。これがイアネルクの計画である。

 オリズスという被験体は、限りなく目的の身体を持っている。後はオリズスから幽体を追い出せば計画は九割方達成されるはずだ。

 無論、未だかつて誰も行ったことのない実験であるため、その最初の被験者に我が子をあてがうのは危険が高すぎる。しかし、幽体の才能を開花させる人物が周囲に現れないので、イアネルク自身の身体をを実験に使用するつもりだった。我が子用にと、もう一体は密かに保存してある。

 それに成功すれば、我が子の未来が開ける。イアネルクはそう信じて今まで辛酸を舐め続けてきたのだ。

 目的の達成のため、不安材料は取り除かねばならない。

 オリズスの覚醒条件。イレスの行方。

 クートの不在にも疑問が残る。

(仕方ない。私が直接出向くとするか)

 学術研究施設で可能な準備は、すでに整っている。もはや報告を待っていることはできない。焦る気持ちが、イアネルクを支配していた。

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