挿話 紅の魔術師 その二


 学術研究施設の地下、その際深部の階層に、イアネルクは足音を響かせる。

 虚ろな段階に入った研究対象の様子が変化したと報告を受け、直接出向くことにしたのである。

 空間それ自体は広いというのに、両脇を囲む煉瓦の壁はイアネルクに閉塞感を抱かせる。等間隔で壁際に備え付けられた蝋燭の灯りは、周囲全体を照らすには弱く、必然、闇を遊ばせている結果を招いていた。そうした状況が、息の詰まる感覚を呼ぶのかもしれない。

「イアネルク様、お待ちしておりました」

 目的の研究室に到着すると、研究員たちが慌てた様子でイアネルクの元に駆け寄ってきた。

「被験体の意識が戻ったと聞いたが、それは今もそうなのか?」

 虚ろな段階に到達した者は、当事者の感覚は不明なものの、第三者から見ればほとんど意識のない状態が普通である。以前にもこの断崖に達した被験体が存在したが、投薬の分量がよくなかったのか、肉体が腐り始めてしまった。それではイアネルクの目的の状態ではなく、仕方なく破棄するに至った。

「断続的に、ではありますが、はっきりと言葉を口にすることもありました」

 その報告を聞き、イアネルクは眉をしかめた。

「それでは逆戻りではないか。どうしてそうなったか、思い当たる原因はないのか」

 最終目標として、虚ろな段階の先に見据えているのは、被験体から意識を、つまり幽体のみを切り離すことである。ある程度の幽体を残していなければ、身体が先に腐って使い物にならなくなってしまう。調整の難しい部分であった。

「ええ、それが……どうにも……」

 研究員は語尾を濁しているが、それでも充分に内容は伝わった。

「ふん、まあいい。私がこの目で確かめてみよう」

 イアネルクはさらに奥へと歩を進める。

 煉瓦の壁にめり込むように、大きな扉が二つ、立ちはだかる。向かって左側に被験者が収容されている。

 見るからに重い鉄製の扉が、研究員たちの手によって開かれる。ぎぎぎ、と耳障りな音だけが、周囲に響いた。

 部屋の中央に椅子があり、そこに錠で手足を括り付けられた被験体の姿が見える。目を閉じてはいるが、意識がないとは限らない。

「ほう、若いな」

 初めて被験体を見たイアネルクは、内心ほくそ笑んだ。自分の目的のためには、できる限り若い方が都合が良いと考えていたからである。

「マニグスで捕らえた者ですからね。あの辺りは実験材料を探すにはうってつけの場所ですよ。こんな若い材料が得られたのは幸運でした」

 だが研究員はイアネルクの真意に気づくことなく、まったく別の意味で答えた。

 マニグスで、というのは、労働者の町であるため、身元不明になっても騒ぎの起きにくい人材が豊富、という意味である。

「しかし、どうしてこの被験体だけが虚ろな段階にまで……。何か理由があるのだとは思うが、今はなんとも言えない。おい、マニグスの資料はあるか」

 魔術師の肩書きに怖れを抱いている様子で、研究員は打てば響く速さで資料を差し出した。それを受け取り、イアネルクは改めて目を通す。

 記載されているのは、マニグスでの被験体の履歴と素性だ。戸籍を売り買いしている商売人もいるため、本名とは限らない。それはイアネルク自身が体験から知っていた。しかし、その中には労働者に扮した軍の兵士が配備されており、諜報活動を常に行っているため、ある程度の信頼を置いても良い情報だといえる。

 被験体の番号の欄を開き、記載されている情報を見ると、イアネルクは見覚えのある孤児院の名前を発見した。

「ニヒサスム出身か。名前はーーーー」

 イアネルクが被験体の名前を読み上げようとしたそのとき、研究員たちの短い悲鳴が聞こえた。

「イアネルク様っ、ひ、被験体が、目を覚ましています!」

 資料から目を放し、顔を上げると、椅子に括られた被験体の目が開かれているのが見えた。

「うろたえるな、騒々しい。おまえ、記憶はあるのか」

 虚ろな段階に入った被験体に対して、イアネルクは訊いた。

「……イ、レス……を……ど、こに……やった……」

 被験体は瞬きひとつせず、まっすぐにイアネルクだけを見て言った。

「イレス……?」

「そう……イ、レス……」

 未だ完全に意識が戻ったわけではないようだとイアネルクは思った。こちらの言葉は聞こえているようだが、答え方が辿々しい。

 この虚ろな段階で口にする名前ならば、おそらくよほどの親しい間柄だろう。身寄りがないのならば、施設の友人か。

 念のため、資料を研究員に手渡し、その中からイレスという名前を持つ人物に該当する者がいないか確かめさせた。

「イレス、発見しました! 同じ孤児院出身のようです」

 研究員は叫ぶように報告した。耳だけを傾け、イアネルクは被験体から目を切らない、いや、切れないでいた。研究員の声が聞こえていないのか、被験体は周囲に目もくれず、ただまっすぐにイアネルクだけを凝視し続けていた。

「……友人か」

 絞り出すように、イアネルクは言った。口の中がからからに渇いているのを感じる。

「そ、そう……ど、……どこ、………へ」

 突然、被験体はぷつん、と意識が途切れた様子で、頭をぐらつかせた。

 周囲の緊張は、未だ辺りに漂っている。

 しばらく誰も動けずにその場に立ち尽くしていたが、被験体のすーすーという呼吸音が聞こえて、ようやく皆ため息を吐いた。

 手持ちぶさたを解消するためか、ひとりの研究員が資料をぱらぱらとめくる音が聞こえる。

 すると、その研究員は目を大きく見開き、何かを発見した様子を見せた。

「イアネルク様、資料によると、イレスという被験体は先日、マニグスで脱走した二名のうちの一人のようです」

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