挿話 紅の魔術師 その一


「報告します、イアネルク様。ニヒサスムの住宅密集地にて、逃亡者を発見しました」

 暗い自室の中、イアネルクは研究員の報告に耳を傾けていた。

「煤か、それとも獣の段階へと変化を遂げていたのか?」

 魔術師の、矢を射抜くような視線に、研究員はたじろいだ。

「獣に変化していた、と聞いております。昼間だったこともあり、勤め人が在宅していなかったために、被害は最小限に留まったようです」

 イアネルクがちっ、と舌打ちをして苛立ちを露骨に表すと、研究員はいっそう身体を硬くした。

「被害だと? そんなことを訊いてはいない。肝心なのは、どれほど多くの者が目撃したのかということだ。煤とは違い、獣は幽体の才能のない一般の者にも視認可能になる。妙な噂が立てば、この学術研究施設の存続が危ぶまれるのだ」

 軍の密命を受けて新薬の研究が進められているとはいえ、騒動が民の間に広まれば、国としても何らかの処置を取らねばならなくなる。特に、頭のすげ替えは必要不可欠な事案だろう。そうなれば、イアネルクの目的の達成が遠ざかってしまう。

「申し訳ありません。後始末は済ませましたので、ご安心ください」

「他に報告はないのか?」

「特には……ああ、ゲーブは使用しなかったので、棚に戻しておきました」

「ゲーブを使用しなかったとはどういうことだ。後始末は済ませたと聞いたが、私の理解が間違っているのか」

「被害を受けた家々の修復作業だけで後始末は完了しました。ゲーブを使用するまでもなく、私たち研究員が現地に到着したときにはすでに獣の姿はどこにも見当たらなかったのです」

「では周辺の聞き込みから得た情報ということか」

 直接目撃していないというのならば、当然誰かの目や耳を経て入手した情報だろう。

「はい。なんでも、年の頃三十くらいの男が、剣を使って獣を退治したとか」

 ぴくり、とイアネルクのこめかみが動く。

「それは剣、なのか?」

 イアネルクの質問の意図がわからないのか、研究員は小首を傾げる。

「はい、そのようです。ただ、その剣は……」

 言い掛けて口ごもる研究員の姿を見て、イアネルクはもしや、と思うことがあった。

「見えない剣だった……のか?」

 イアネルクが言葉にしたのは、なにも知らぬ者からすれば意味不明の事柄である。しかしその言葉を聞き、研究員は驚きの表情を見せた。

「は、はい。柄の部分はたしかに見えたということですが、刃に関しては見えなかったと。おそらくは目撃者の恐怖からくる勘違い、もしくは振り回す切っ先がよほど素早くてそう見えたのかと思われます」

 戸惑いながら答える研究員。それも致し方ないとイアネルクは感じた。

 が、それよりも。

「その剣を振るった男の風体だが、もう少し詳細な情報が知りたい。目撃者のところへ絵描きを連れて向かえ」

 想像が当たっているのならば、その男はイアネルクの知っている人物だ。昔、共に施設で暮らしたことのある、古い友人である。

「了解しました」

 研究員は一礼し、部屋を出て行った。

 イアネルクは幼かった日に思いを巡らせる。

 施設にいた頃、イアネルクは近い年の友人ふたりを連れてよく遊んでいた。その内ひとりは早くに出て行ってしまったが、残るもうひとりとは随分長い間同じときを過ごした。

 泣き虫で、いつも誰かの後ろをついて回るような、引っ込み思案の友人の誕生日に、イアネルクは剣を送った。その時の友人の顔を、今でもはっきりと思い出せる。

 新品の物は値が張るため、中古品を購入したせいもあって、二、三度振り回しただけで刃に亀裂が入り、間もなく破損してしまった。責任を感じ、新しい剣を購入してやるとイアネルクが言ったのにも関わらず、友人はその必要はない、と答えた。

 どうしてか、と理由を尋ねると、友人はにっこりと微笑んで答えた。

「だってせっかく姉貴が買ってくれたんだし、柄さえあれば剣っぽく見えるだろ」

 このとき、友人は気がついていなかっただろう。単に振り回して壊れたのではなく、剣を破壊したのは、現在イアネルクが研究している魔術の才能を発揮したためだと。

 もしもその剣を今でも使っているのならば、研究員の報告の中に登場するのは、友人ではないか。いや、むしろそう考えない方が不自然だ。刃のない剣など、通常は持ち歩かないのだから。

「ニヒサスム、か」

 ひとりごちて、イアネルクは忘れることのできない、その友人の名を思い浮かべる。

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