第二章 隣街ニヒサスム

第一話 恰幅の良い若旦那


 ゾロイが外出先から店に戻ると、開け放した戸の向こうに客人の背が見えた。随分と肉付きの良い男である。

「おかえり。お客さん、待ってるよ」

 アジネが出迎えるなり、そう言った。ゾロイは首肯する。

「あなた、店主ですか?」

 男は振り返ってゾロイを見た。

 上から下まで全身に走らせた視線に、ゾロイは値踏みされているような居心地の悪さを感じた。

「ああ。俺はゾロイだ。よろず屋の店主で且つ雑用係も担当している」

 瞬間、真昼時だというのに、ゾロイは身震いを感じた。アジネの冷たい視線がゾロイに刺さる。雑用をこなしているのはアジネの方なので、すべてを一人でまかなっているような発言は聞き捨てならないのだろう。

 ゾロイがこうして軽口を叩くのは、依頼者の気分を冗談で落ち着けようという気遣いでもあったが、男の表情はぴくりとも動かずじまいである。

「店を開けておいて店主がいないんじゃ話にならんでしょう。まったく、客がこうして待っているというのに、あなたはどこをふらついていたんです?」

 店主であるゾロイが現れたと知るや、男は不満を口にした。細い目をさらに細くして、言葉だけで伝えきれない不平を漏れなく表現している。

「悪い、ちょっと野暮用でな。あんた、名前は?」

 男は逡巡した後、まだ晴れない表情を隠そうともせずに、名を口にする。

「僕はベド。ニヒサスムで呉服屋を営んでいます」

 ベドと名乗った男は、たいそうだらしのない身体をしていた。弛んだ肉をゆったりとした大きめの着物で包み、季節は春だというのに、夏真っ盛りかのような大量の汗を額や着物に滲ませていた。

 にっこりと微笑んだベドの顔を見て、心からの笑みではなく、商売人ならではの慣れた愛想笑いだとゾロイは感じた。口角は三日月のようにつり上がっているが、目元は少しも笑っていない。

「ベド、どんな用件でここに来た? それと、どこでこの店のことを知ったか聞かせてくれ。最近何かと物騒なんで、一応出所を確認しておきたくてな」

 ニヒサスムは、ここカーチムの隣街である。徒歩で半日ほどかかる距離を隔てた地にわざわざ足を運ぶというのは、よろず屋にやって来る客として別段珍しいわけではない。先日の依頼者も同じ街から来ていた。ニヒサスムに看板を出したりはしていないので、必然、誰かの口から伝達された情報だろう。可能性が高いのは情報屋であるが、それ以外なら注意を払う必要がある。

 普段ならゾロイもそんな確認などしない。いちいち確かめていたら、客が鬱陶しがって寄りつかなくなるからである。だが、最近は少し警戒しなくてはならないと感じていた。

「そんな怪しまないでくださいよ。僕は由緒正しい呉服屋の七代目。疑わしいなら、ニヒサスムの僕の店まで案内しますから。この店の話は常連さんから聞きました。カーチムに実家のある方なので、里帰りでもした際に小耳に挟んだのでは」

 肉厚の胸を張って、ベドは自慢げに答える。七代目、というところを強調していたので、己の身の潔白を述べるというよりも、疑いようもなく自慢ではある。

「なるほど。で、依頼の内容は?」

 ゾロイは軽く頷き、アジネが書いてくれた料金表をベドに差し出した。

「僕の妻の浮気調査をお願いしたいのですが、案外お高いんですね」

 ベドは自分の依頼内容を口にしながら、紙に書かれた値段に視線を走らせ、驚きの表情である。素のものではなく、値段交渉を見据えてのことだろう。

「この値段で不安が取り除かれれば安いもんだろ。自分で行う場合の労力や、目の当たりにする真実からの衝撃も緩和されるだろう」

「まあ仕方がないですね。ええと、これが妻です。ね、美人でしょう? 新婚なんですよ」

 ベドは妻の似顔絵を差し出してきた。

 浮気調査を依頼しに来ているというのに、またしても自慢を挟むベド。ゾロイははやくも辟易し始めていたが、横でアジネがにらみを利かせているので、この場を離れるわけにもいかなかった。

「たしかに整った顔立ちではあるな」

 ゾロイは素直に感想を述べた。

 紙に描かれたベドの妻は、長い髪を左後ろで結い、尻尾を肩に乗せて静かに微笑んでいた。絵描きの不要な気遣いによって誇張されている可能性もあるが、これが実物ならば相当な美人であることは間違いがない。

「でしょでしょ? 僕にはもったいないくらいのべっぴんでして、どうして夫婦になれたのか未だに疑問が残るほどなんですよ」

 ベドは満面の笑みで答えた。

 身を乗り出してきたあたり、今度は本当の笑みのようだとゾロイは思った。

「新婚だって言ってたが、見合いか?」

 ゾロイの問いに、ベドはぶんぶんと大げさに首を振った。

「侮ってもらっては困りますなあ。僕の見た目はたしかに万人受けしないものですが、それでもわかる人にはわかるんですよ。性格の良さが全身に滲み出ているって。恋ですよ、恋」

 キシシシ、とベドは心底嬉しそうに笑った。

 ベドには言うつもりもないが、ゾロイは、笑った顔が相手に不快感を与えることもあるのだなと、妙なことに感心がいった。

「出会いはどんなだったんだ? 呉服屋に来た客に、片っ端から声がけでもしていたのか? 店を構えているのなら、商いの関係も含め、出会う場は限られているだろう」

 ゾロイ自身、出会いの数は多いが、こと色恋に関してはからっきしである。訪れた客が女であるたびに、アジネには妻に娶れとからかわれるほどだ。

「着物の卸問屋で運命的に僕らは出会ったんです。ふた月ほど前ですかね、懇意にしている問屋に訪れたとき、彼女から僕に声をかけてきたんですよ。商売のいろはを教えてもらえますかってね」

 出会いの場面を思い出しているのか、ベドはにやついている。

 ゾロイはしかし、このだらしのない肉体の商売人を見て疑問を抱く。

「向こうから声をかけてきた? あんたに?」

 思わずゾロイは、ベドの全身を上から下まで視線を這わせた。客人に対して無礼であることは承知していたが、心を制御しきれず反射的にそうしていた。

 ベドはゾロイの視線の動きを見て、むっとした様子で腕を組む。

「ですから、わかる人にはわかるって言ったじゃないですか。それに卸問屋で僕に声をかけてくる人は多いんです。呉服屋の七代目として有名ですから。古くから付き合いのある業者も大勢いますし、この業界に参入して間もない新人の挨拶もひっきりなしで、まったくもう忙しいったら」

 ベドは眉根を寄せて困り顔を作っている。七代目という地位を理解しない一介のよろず屋風情に対して、敬えと訴えている様子である。

 どうやらこの男は、必ずどこかに自慢を入れないと気が済まない質のようだ。

「あんたの妻は、呉服屋を始めようとしていた新人だったのか。挨拶は七代目様へのご機嫌窺いってわけだ」

 どこの世界でもそうだが、古参の連中は新規の者に対して、必要のない自分勝手な礼儀を強要する場合が多い。挨拶だけならまだしも、その後もなんだかんだと上前をはね続ける。

 悪しき風習を苦々しく思いながら、ゾロイは眉根をもんだ。

「ゾロイさん、そんな態度とったら失礼じゃないですか」

 突然後ろから声がして、ゾロイは振り返った。イレスーーの姿をしたオリズスが、お盆の上に湯飲みを二つ乗せてやってくる。

「オリズス、余計なことはしなくていい。おまえはこの店の人間じゃないんだから」

「だって、わたしだけ何もしないなんて居心地悪すぎますよ。はい、お茶をどうぞ」

 にっこりと微笑んで、オリズスはベドに茶を差し出した。

「これはこれは、可愛らしいお嬢さんじゃないですか。ありがたくいただきます」

 礼を述べ、ベドは早速茶を啜っている。

 ゾロイは渋々、オリズスから差し出された茶を一口啜る。アジネの淹れたものとは違い、少し濃いめの味だったが、なかなかに美味いと感じた。

「おまえ、ベドのことを知っているのか」

 茶の礼も感想も言葉にせず、ゾロイはオリズスに尋ねる。

「知っているもなにも、わたしが最初にここへ来たときの着物、あれはベドさんのお店で買ったものですよ。呉服屋ベドといえば有名で、ニヒサスムで知らない人はいません。老舗でもありますが、最近とみに若者を中心に流行っています」

 衣服の流行りなどよく知らないゾロイにも、よく知っている事柄を口にしているとわかるほど、流暢に語るオリズス。

 オリズスの説明に気を良くした様子で、ベドは胸を張って己の地位を誇示している。

「で、この美人妻のどんな行動が怪しく見えて、あんたは浮気を疑っているんだ」

 またしても自慢が入りそうだと感じて、ゾロイは強引に話を戻す。

「ええ、それがですね……その、よく家を空けるんですよ。妻から、わたしは勉強不足だからあちこち出向いて着物について調べたい、と言われまして」

 本題に入ると、途端にベドはそれまでの勢いと自信をどこへやったのか、俯き加減で理由を述べた。

「よく空けるってのは、具体的にはどのくらいの時間と頻度だ」

 亭主が家の外に稼ぎに出る場合は、浮気妻は留守中に間男を呼ぶことがほとんどだ。しかしベドは店を構えているため、もしも妻が不貞行為を働こうとするなら、家の外に行くしかない。

 ベドの妻の場合、おそらくは商売人が忙しい頃合いを見計らって、真っ昼間になにかしらの理由をつけて出かけていたのではないかと、ゾロイは想像した。

「最近は、十日間ほど……ですかね。今日こうしてここへ出向いたのも、妻が家にいないからなんですよ。明日には家に戻る予定なんですが」

「十日間だって? あんたそれで黙って送り出しているってのか。もはや浮気が疑わしいって段階じゃねえぞ。調べるまでもなく、完全に黒だな」

 ゾロイはベドのあまりの放任ぶりに仰け反った。

 数刻ほどならばまだ怪しいと疑るくらいで済まされるかもしれない。だが、月の三分の一も家を空けるなど、もはやこのベドこそが浮気相手で、本命は別の誰かと考える方が自然に思えてくる。

 ゾロイの断定的な言葉に反論することもなく、ベドは俯いて黙ってしまった。

「ちょっと、調べもしないでそこまで言うことないじゃないですか。ベドさん、かわいそうすぎますよ」

 代わりにオリズスが猛烈な勢いで反論してくる。

「じゃあおまえは、この若旦那の妻が語ったことを鵜呑みにして、勉強熱心な奥様ですね、とか言って納得しろってのか? ここはよろず屋であってグチ聞き専門店じゃない」

 グチ聞きなんて求める客は、じいさん連中だけで充分だ。今でも、数だけでいえばここを訪れる客のほとんどがそういった愚痴こぼしである。ゾロイは、稼業とはいえこのような仕事を持ってこられると、どうしてもきつい言葉のひとつも言ってやりたくなる。

「なんでも請け負うからこそのよろず屋でしょう。わたしの依頼、ちゃんとやってくれているんでしょうね」

 オリズスは腕を組み、じろりとゾロイを睨む。

 しまったとゾロイは思った。相手を選んで仕事を引き受ける印象を与えれば、この先の信用に関わってくる。悪い噂が立てば、困るのはゾロイ本人だ。

「えっ、お嬢さんはここの従業員ではないんですか?」

 話題と矛先が変わったせいか、意外な食いつきを見せるベド。

「そうなんですよ。少しの間、ここに置いてもらってます。なにもしないでいるのも心苦しいですから、こうしてお茶くみをさせてもらっているんです」

「そうだったんですか。あまりに可愛らしいので、僕はてっきり看板娘かと」

 自分の依頼については口ごもるが、他人の内情については舌が滑らかだ。世辞なれしているベドを見て、ゾロイは鳥肌が立つのを感じた。

「いやあ、そんなあ。ベドさんてば、持ち上げたってなにも出ませんよ」

 手を振って謙遜しているようだが、オリズスはまんざらでもない様子で、隠しきれずに口元が綻んでいる。

 ベドはにこやかな笑みを湛え、ぱん、とひとつ柏手を打った。

「それにしてもちょうど良かった。僕、今夜の宿を決めていないんですよ」

 なにを勘違いしているのか、ベドは閃いたという風にゾロイを見る。この店に泊まるなど、図々しいにもほどがある。

「帰れ」

 オリズスの場合は例外中の例外、超特例の措置である。いくら幽体とはいえ、行く宛のない若い女子をひとり町にほっぽりだすのは、いくら他人に興味のないゾロイとて気が引ける。しかし、男なら話は変わってくる。それも図々しいベドのような商売人を泊めるなど、鬱陶しくて仕方がない。

「良いんですか、僕を敵に回しても。このままでは近い内、カーチムだけでなく、ニヒサスムでもこの店の悪評が立つやもしれませんねえ。あ、独り言ですが」

 松ヤニのような粘つきで食い下がるベド。

 他人には大きく出ることはできても、妻にはその態度が取れなかったのだろうか。なんだかんだと理由を付け、出かける妻を引き留めることなど造作もないように思えるのだが。

 逡巡した後、ゾロイは答える。

「仕方ないな。いいだろう」

 頷いてみせたのは、先ほどからアジネが横で睨みを利かせていたせいだった。

「本当ですか! あ、僕は羽毛たっぷりのふかふか布団でないと眠れない質でして」

 なおも図々しさをみせるベド。それにゾロイの言った言葉の意味を勘違いしている。

「ここに泊めるってことじゃない。いいだろうと言ったのは、依頼を受けるって意味だ。眠る場所は自分で探してくれ。幸い、まだ陽は高い」

 馴染みの宿屋に口利きすることも可能ではあったが、ベドの性格を考慮して、それは自分で決めてもらう方が良いと判断した。旅費をケチる吝嗇家であると同時に、贅沢を他人に要求する性質の者を紹介したとあれば、ゾロイと宿屋との関係が傾くはめになる。

「このあたりが落としどころですかね。いいでしょう、宿を探すことにします。先ほども言いましたけど、明日には妻が戻るので、僕もその前には店に戻ります。日の出前のニヒサスム行きの馬車で」

 ふうっと大げさに、これ見よがしのため息を吐き、ベドは渋い顔で頷いた。

「そうしてくれ。今日はカーチムを満喫していくといい。俺も明日、ニヒサスムに向かう」

 ざっと調査方針を説明した後、ベドの店を記したニヒサスムの地図、調査対象の似顔絵、前金をベドから受け取る。

 まだ何か話したそうにしていたが、ゾロイは昼休憩を理由にベドを店から追い出した。

 溜まった疲れも身体から追い出すべく、ゾロイが眉根をもんでいると、アジネが声をかけてきた。

「よくできました。まあこれでも食べて、午後を乗り切る英気を養ってくんなまし」

 アジネが差し出してきたのは、お茶と饅頭だ。ゾロイの好物である。

 饅頭を頬張り、お茶を啜って一息つくと、ゾロイはようやく人心地ついた。

「ゾロイさん、どうしてベドさんを泊めてあげなかったんですか? わたしがこんなこと言うのも失礼かもしれないですけど。アジネちゃんとわたし、ゾロイさんとベドさんで、ちょうど二間なので一晩くらい融通利かせても良さそうに思えます」

 世辞とはいえ、外見を褒められたことが、オリズスの言動に繋がっているようだ。明らかにベドの肩を持っている。

「冗談じゃない。あんな汗っかきの太っちょの隣で眠るなんて御免被る」

「いいじゃないですか。一生続くっていうんなら話は変わってきますけど、今晩だけですよ。袖振り合うも多少の縁って言いますし」

「俺とベドの縁は、請負人と依頼者って関係だけで充分だ。俺があいつの妻だったら、たぶんふた月と保たないだろうな。感心するよ」

「ひどいです、ゾロイさん! 結婚を決めた二人の間のことを、他人があれこれ口出しして良いはずがありません。それに今から調査するっていうのに、そんなに偏った見方をしているようでは困ります」

 まるで女房がひとり増えたかのようだ。

 まくし立てるオリズスの横では、うんうんと何度も首を縦に降るアジネの姿が見える。

「オリズスさんの言う通りだよ。邪推は調査を妨害するからね」

 二人の少女に責められて、ゾロイは一瞬言葉を詰まらせた。しかし黙ってはいない。

「だってさ、見た目はともかく、あの粘着質な性格だぜ? 日がな一日、あいつと一緒に過ごすことを想像してみろよ。なにも言葉にはしないで、じっと観察している様子が目に浮かぶようじゃないか。勝手な思い込みで、気がつけばある日突然に包丁で腹をずぶりだよ、きっと」

 依頼を引き受けるのは、正直言って気が進まなかった。けれどなぜゾロイが引き受けたのかといえば、アジネに関わることかもしれない、と思ったからである。

「残念ながらそれはゾロイの言う通りかも。内弁慶な性格みたいだものね。見ているけれど視ていない、聞いているけれど聴こえてはいないというか。ただ、偏見はだめ。色眼鏡をかけて物事を見ると、本当の色がわからなくなっちゃうからね」

 オリズスの訴えとは異なり、アジネの言い分は、完全に仕事に向き合うゾロイの姿勢に対して注意したらしい。

 これにはゾロイも頷かざるを得ない。

「それはわかってるさ。しかし正直な感想ではある」

「アジネちゃんもゾロイさんも、ベドさんの気持ちを理解してません」

 まっすぐにゾロイを見てオリズスははっきりと断言した。

「どういう意味かよくわからん」

「奥さんが好きで好きで、だからこそ家を空ける理由に疑いを持ってしまうんです。でも直接は訊けない。それをすれば、夫婦の関係にひびを入れかねませんからね。だからこそ、このよろず屋まで足を運んだんじゃないですか」

 熱のこもった弁を振るい、オリズスは目にうっすらと涙をためている。

「おまえ、ベド夫婦に、自分とイレスの関係を重ねて見てるのか? そういやあさっき、偏った見方をしていたら困るって言ってたが、この件はおまえの依頼とは関係がない。どうしてそんなに熱くなってるんだ」

 年齢も性別も関係も依頼内容も違う二組である。しかしオリズスはベド夫婦に、並々ならぬ感情を抱いている様子だった。

「奥さんとは話をしたことがないですけど、ベドさんは一生懸命な人です。わたしのことを覚えてはいなかったみたいですけど、何度か助けてもらったりしたこともあります。路地裏でやくざ者に絡まれていたとき、ベドさんはあっという間に相手を倒して、二度とこの界隈で迷惑行為をしない旨を一筆書かせてました」

「まあ力はありそうだもんな」

 ベドの風体を思い出しながら、ゾロイはさもありなんと感じた。あの肉厚の身体をぶんぶんと振り回せば、通常の人間が繰り出す拳の威力を遙かにしのぐだろう。

「たしかに、直接わたしが困るっていうことではないです。でもベドさんを悪く言うのは、恩がある身としては見過ごせません」

「ご、ごめんなさい、オリズスさん。あのお客さんを悪く言うつもりはなかったんです。ただ、ゾロイの偏見を正そうとしただけで」

 深々と頭を下げ、アジネは心底申し訳なさそうにしている。

「悪かった。ちょっと無神経だったな」

 ゾロイもアジネの素直さを見習って、オリズスに頭を下げた。

 オリズスでなくとも、恩義を感じている人間を悪く評価されたら気分が良かろうはずもない。たとえその人間の性質があまりよろしくないものであったとしても、である。悪く言うのにも、その資格が必要だと感じるのだろう。

「こちらこそ、ごめんなさい。ちょっと感情的になってしまいました」

 オリズスも、言い過ぎたと感じているのか、九の字に腰を折って見せた。

「いや、おかげで裏が取れたっつうかさ、却って信用に値する人物ではあると感じたよ」

 ぽかんとした顔でオリズスはゾロイを見る。なにを言っているのかわからないといった様子である。

「おかげでって……わたしの、ですか?」

「ああ、オリズスの熱弁のおかげ、だな。考えてもみろ、今までの情報は全部、あいつ自身がでっち上げた可能性だってあるんだぞ。もちろん、俺の目利きを侮ってもらっては困るが、それでも第三者の評価ってのは、本人が語る以上に、その人物の真実の姿を浮き彫りにするんだ。だから、おまえのおかげってわけ。少なくとも、ここに一人はベドに恩義を感じているやつがいるんだから、どっちかというと善人ではある。ひねくれてはいるだろうがな」

「役に立ったんですか?」

 ゾロイが頷いてみせると、こわごわとしながらも、オリズスは次第に緊張を解いて口元に笑みを浮かべた。

「それにもうひとつ、おまえが役に立った事柄がある」

「えっ、わたしなにかしましたっけ……」

 オリズスは腕を組んで、先ほどのやり取りを思い返しているようだ。

 アジネはもう気がついているらしく、ゾロイに視線を合わせるまでもなく、うんうんと首を縦に振っている。

「ベドは幽体に縁があるな。絶対に、とは断定できないが」

 オリズスは、ゾロイの解答を咀嚼していたのか、しばし黙っていた。が、すぐに思い当たる事柄にたどり着いたらしい。

「あっ、そういえばわたしとちゃんと会話してましたよね、ベドさん! もしかして幽体使いの才能がある人なんでしょうか」

「いや、それはおそらく違う。なぜなら、オリズスとは会話できても、アジネの存在にはまったく気がついていなかったらだ。その才能がある者なら、たとえ縁がなくてもアジネを視ることができるが、実際にはベドはアジネの方に一瞥もくれなかった」

「視えているけど黙っていた、とかもないよね、ゾロイ」

 オリズスが疑問を抱く前に、アジネが補足する。

「ああ、それこそオリズスのおかげだ。ベドは商売柄、金銭や物品の交渉には抜け目のない性格ではあるが、オリズスが熱弁を振るうほど信頼を置く相手だ。これまた断定はできないが、おそらくその手の騙し討ちはやるまい。アジネを視認しておきながら黙っておくことで生み出せる利益なんて、少なくとも今俺には思いつかない」

 ゾロイの説明に、オリズスは幾らかほっとした様子だった。自分とベドの両方に対して、ゾロイが悪感情を持っていないと理解したのだろうか。

「とすると、ひとつ疑問が残るんだよね。どうしてオリズスさんを覚えていないのか。もっと正確に言うなら、覚えていないはずのオリズスさんを視ることができたのか」

「アジネちゃん、それのどこが疑問なの? 幽体のわたしであっても、以前に知り合った人となら触れ合うことだって可能のはずでしょ?」

「可能ではあります。本人の状態や、相手との関係によりけりですけどね」

 今度はアジネに代わって、ゾロイが補足する。

「アジネが言っているのはつまり、先天的ではなく、後天的に幽体を視認する力を持ったんじゃないかってことだ。オリズス、おまえと同じでな」

「それってもしてかして……薬、ですか? そ、そんな……ベドさんがそんなこと」

「おまえだって同じようなもんだろう。本人が望んで摂取しているかは定かでない。誰かが食事にでも混ぜれば簡単に薬を服用させられる」

「そんなひどいことを、一体誰がするっていうんですか」

「……さあな。しかしこの情報は、ベドの件にはもちろんだが、おまえの依頼にも関係してくることかもしれない」

 オリズスの依頼である行方不明の友人イレス、及び自身の身体の捜索は、未だ継続中だ。幽体がらみの案件を辿れば、新たな手がかりとなる可能性は充分にある。特に、同じ地域に住む二人である。薬に関係した何かが、ニヒサスムで起きているのかもしれない。

「ゾロイさん、明日ニヒサスムに行くんですよね。わたしも連れて行ってもらえませんか? 助手としてお役に立ってみせますから」

 調査対象を尾行したり、場合によっては客を装って呉服屋に潜入したりもすることを考えれば、もちろん助手がいてくれた方が効率も上がる。けれどゾロイは気が進まない。

「おまえはただの客であって、助手でも従業員でもない。素人がついてきたって足手まといになるだけだ。だからここに残ってアジネとのんびりしてりゃあいい。果報は寝て待つもんだ」

 幽体化させる薬が関わっているのならば、この先に危険が待ちかまえていることは容易に想像できる。だからゾロイは、目の前にいる少女を連れて行きたくなかった。

「幽体のわたしがいれば、周囲に気づかれずにいろいろな場所に潜り込めますよ」

 真剣な眼差しでゾロイを見つめるオリズス。

 しばらくそうしてにらみ合っていたが、ゾロイは根負けして視線を逸らす。

「わかった。じゃあ頼むとするが、これだけは約束してくれ。決して単独で危険な行動を取らないと」

「ありがとうございます! わたし、一生懸命調査します」

 オリズスは拳を胸の前で揃え、やる気を漲らせているようだ。

「ほい、これ渡しておくよ。頼みにいくんでしょ」

 アジネが差し出してきたのは、人参だった。ゾロイはそれを受け取りながら、どこまで予想していたのかと、感心を通り越して半ば恐怖に似た感情を抱いた。

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