第四話 黒き獣


「それじゃイレスさん、また会いましょう」

 ニヒサスムに到着した後、バナムは踵を返して来た道を走り去っていった。イレスは律儀に手を振って応えている。

「ゾロイさん、さっきのこと説明してくださいよ」

 街に着く直前に目を覚ましたイレスがゾロイに詰め寄ってきた。

「歩きながら話そう。イレスの家まで案内してくれ」

 すぐに答えなかったことに不満顔を見せたが、イレスは素直にゾロイに従って歩き出す。

「まずはあの煤について聞かせてもらえますか?」

 ゾロイの顔も見ずに、イレスは尋ねてきた。

「あれは疫病の原因だよ。抵抗力のない輩があいつに触れたりすると、病を発症する。一度人に感染すれば、その身体を媒介にしてどんどん広がるんだ。程度の差はあるけどな。ちょっとした流行り病だって本を辿ればあいつが原因だ」

「聞いたこともないですよ、そんな話。わたしだって流行り病にくらいかかったことがありますけど、見たこともありません」

 馬鹿にするな、と言わんばかりにイレスは反論する。ゾロイはそんなつもりは毛頭なかったが、知らぬ者からすれば無理もない話だと思った。

「バナムだって似たようなものなんだぜ? あいつを視認するには特殊な才能が必要なんだから」

「バナムさんと、あんな煤みたいな気持ちの悪いものを一緒にしないでください。大体、さっきから煤のことをあいつ呼ばわりしてますけど、どうしてなんですか。まるで知り合いか何かのようですよ」

 わずかな刻ではあったが、心の距離を近づけるには十分な時間であったらしく、イレスはバナムのことを庇っている様子である。

「気分を害したなら謝る。だが見える者と見えない者がいるってのは事実だ。あくまでこの幽体の件については、後天的に見える輩もいるだろうが、多くは先天的なものといえる。イレスのもおそらくそうだろう」

 ゾロイは真実を全て伝えてしまおうかとも思ったが、今はそのときではないと判断して、必要なことだけを口にする。

「わたしですか?」

 顎に手をあててむうっと考え込むイレス。しかし思い当たる節がなかったのか、首を横に振ってみせた。

「先天的なものってのは、まあ生まれついての才能だ。多くは代々続く医術師の家系に見られる。その才能で施術法がわかったりするんだ。ちょっと強引な喩えになるが、走るのが速いやつってのは親もたいがい速い足を持ってる。それと同じで、血筋ってのが重要な部分になるんだ」

「鍛えれば誰でも速くなりますよ。現にわたし、小さい頃は足が遅い方でしたけど、孤児院のみんなと駆けっこで遊んでいるうちに段々と速くなって、あそこを出るときには一、二を争うほどに成長しましたから」

 胸を張って自慢げにイレスは語った。

「そういう類のものじゃない。技術は他人に伝えられるけど、才能は親から子にしか受け継がれないって話。配慮に欠ける言い方かもしれないが、きっとイレスの足の速さは親から伝わった才能なんだよ。それを訓練で磨いたってだけ」

 身も蓋もない表現だが、他に言いようもない。

「努力が無駄だって言うんですか、ゾロイさんは」

 案の定、イレスは食ってかかってきた。

「そうは言ってない。今の喩えが気に食わないなら、鳥でも良いし魚でも良い。俺たち人間がどんなに努力しようとも、鳥のように翼が生えてくるわけでもなけりゃ、魚のように水中にずっと潜って生活できるわけでもないだろう。逆も然りで、やつらも人間にはなれない。それと一緒だ」

「なんとなく理解はできますけど……じゃあ、後天的っていうのはどういうことですか? 努力で身につけられるということじゃないんですか?」

「色々あるが、その前に腹ごしらえしないか。もう昼だ」

 蠢く煤との一戦からくる疲労もあり、ゾロイは腹の虫が騒ぎ立てるのを感じていた。

 というのも、辺りは少し前から食べ物屋が立ち並んでいて、ゾロイは思考のほとんどを食欲に奪われていたからであった。

「人が真剣な話をしているときに、よくそんなことが」

 ぐう、と音が鳴り、イレスは言葉を止める。

 ゾロイは自分の腹から聴こえたものだと思っていたが、イレスの真っ赤な顔を見て理解が及んだ。

「ほら、イレスだって同じじゃねえか。腹が減ってはなんとやらだ、まずは飯にありつこう。遠出する楽しみっていえば、これに限る」



 食事を挟めばイレスの気分転換にもなるだろう。ゾロイはそう思っていたが、当てがはずれた。店を出てもイレスの頭の中は蠢く煤の謎でいっぱいらしく、結局目的地に到着するまで質問責めにあった。うまく説明する自信もなく、ゾロイがはぐらかし続けていたためかもしれないが。

 イレスの住まいは賑やかな商店街から路地に入り、入り組んだ道を進んだ先にあった。

「着きました。ここの二階を間借りしてます」

 木造二階建ての家屋は、見たところかなり老朽化が進んでおり、全体的にくすんだ色合いだ。周囲を見渡してみると、同じような住宅が並んでいる。さして珍しい建物ではないようだ。

「おい、この階段、ミシミシ音がするぞ」

 注意を促しながら、路地に面した外階段を上がると目の前に扉が見えた。

「わたしたちの家にようこそ、ゾロイさん。適当に腰掛けて舞っていてください。今、お茶を淹れますから」

 イレスに促されるまま、ゾロイは部屋の中に足を踏み入れる。

 見渡してみると、部屋の中はゾロイが想像したよりもかなり広い印象だった。道側にある窓の傍に置いてあるちゃぶ台が、所在なさそうにぽつんと佇んでいる。他に目立った特徴のないところが、逆に特徴となっている部屋だ。二人で暮らしている点、物が少ない点を考慮しても、違和感が残る。

 ちゃぶ台の近くに座り、剣を床に置いてゾロイは窓の外に目をやる。向かいの家々も同じ高さの建物で、景色が良いとは言い難い。

 視線を部屋の中に戻し、何気なくちゃぶ台の上を見ると、指輪が置いてあるのに気がついた。手にとって矯めつ眇めつしてみると、輪の内側に文字を見つけた。

「なあイレス、そういえばおまえ指輪してたよな」

 茶の支度をするイレスの右手に、鈍く光る指輪が見える。

「はい。これ、オリズスと一緒に作りに行ったんです。この近くにある店で、内側に名前を入れてくれるんです。なかなか技術がいるらしくって、他のお店ではできないそうですよ」

 茶の準備をしながら、イレスは背を向けたまま答える。自慢げであるのは、ゾロイの気のせいではないだろう。装飾品にはまったく興味のないゾロイだったが、想像することは容易だった。一点物とあらば、本人たちにとってなお格別なものに違いない。

「よほど仲が良いんだな、イレスとオリズスは」

「もちろんです。同じ釜の飯を食べて育ったせいもあるかもしれませんね。性格は違いますけど、不思議とウマが合うんです」

 同じ性格など存在したとしても会いたくもない。ゾロイはそう思ったが、イレスの機嫌を損ねないよう配慮して、適当な相づちで返す。

「まあ、わからないでもない、かな」

「だから番の細工も施してもらったんですよ。わたしが着けている方には凸、オリズスが持っている方には凹が、それぞれ指輪の外側にあってはまるようにできてます。二つをくっつけるとできあがるその形に、恒久という意味合いがあるみたいで、それがお気に入りです」

 茶を淹れた湯飲みと付け合わせのたくあんを器に乗せ、イレスはちゃぶ台までやってくる。

 ゾロイは咄嗟に、指輪を手の中に握り込んだ。

「どうしたんですか、ゾロイさん。そんな怖い顔して」

 急変したゾロイの態度に、イレスは身構えている。

「静かに。聴こえないか」

 耳を澄ますと、遠くに悲鳴が上がっているのがわかった。声色が複数ある。

 イレスは顔色を変えて窓の外に身を乗り出す。

「商店街の方です。何かあったんでしょうか。もしかして、あの煤がまだ追ってきていた、とか」

「いや、あいつは俺がしとめた。見てただろ、霧散していく様子を。それに煤は誰にでも見えるってもんじゃないから、あれだけ多くの悲鳴があるのはおかしい。たとえ触れてしまったとしても、すぐには気がつかないはずだ。病の発症という形であれば、早くても一日くらい経過しなけりゃわかりっこない」

 ゾロイは説明しながらも、耳は声のする方へと集中させていた。

 ふいに、ずしん、と大きな音がした。地響きを感じ、建物が倒壊した音のようだとゾロイは推察する。

「おかしな人が暴れ回っているとか、軍がやってきたとか」

 脅えた表情でイレスが尋ねてくる。

「おかしなやつならまだわかるが、どうして軍なんて物騒な発想になるんだ? ニヒサスムはそんなに治安の悪い街なのか」

 イレスは答えなかった。

 ゾロイが知る限り、この街の治安は悪くはなかった。繁華街ゆえの、若者や荒くれ者の小競り合いなどは日常茶飯事だろうが、軍が介入するほどの大きな事件には発展せずに収まっているはずだった。

 イレスの着想にはいささか疑問が残ったが、今は身の安全を優先すべきだろう。

 また、ずしん、と音がした。先ほどよりも大きい。近づいているのかもしれない。

(近づいて……?)

 ゾロイの頭の中で、散らばっていた欠片がひとつの形を成していく。

 その速度に比例して、地響きが間隔を狭めている。

「イレス、ここにいるのはまずい。出るぞ」

 返事も待たず、イレスを抱え上げて、ゾロイは窓から路地に飛び降りた。

 音のする方へ目をやると、砂煙が上がっていた。何軒もの家屋が破壊されているのだろう。

 ゾロイたちが立っている路地に曲がる手前の角の家が崩れた。破壊の主はすぐそこまで近づいている。

 イレスを抱えたまま、ゾロイは反対方向へと駆け出した。が、少し先にこちらを向く壁が見える。行き止まりの袋小路だ。

 歯噛みしていると、一際大きな音がした。振り向くと、破壊の主の姿が目に入った。

「な、なんですか、あれ!」

 巨躯の怪物が、そこにいた。

 所狭しとその身を路地に押し込んでいるようだ。二階屋根とほぼ同じくらいの背丈で、全身は黒い毛で覆われている。その瞳は赤く、口元には鋭い牙も見えた。

 二本足で大地に立つ巨体は、鼻をひくひくと鳴らして辺りを見回しており、何かを探しているように窺える。

「餌だな。餌を探してる」

「え、餌って、もしかして、わたしたちのこと、ですか」

 イレスは驚きと恐怖で声を震わせた。

「頼まれてくれないか。あいつは俺が気を引いておくから、イレスは剣を取りに戻ってくれ。

さっき部屋に置いてっきちまってな。ははは」

 ゾロイは笑顔を取り繕ってみせたが、イレスは笑ってはくれなかった。

「冗談じゃないですよ! どうしてそんな大事な物忘れてきちゃうんですか」

「今更言っても始まらないだろう。大事なのは過去に何をしたかじゃなく、これから何を為すかだ。頼むぞ!」

 言い終えるや、ゾロイは駆け出して黒き毛並みの怪物に近づく。怪物は探し物に夢中なのか、ゾロイには気がついていないようだ。

 一人なら策は選ばない。石も剣も手元にはないが、やりようは幾らでもある。

「おい、そこのデカぶつ! よく聴け、そこのおまえだ、おまえ」

 まずは注意を引く。

 怪物は動きをぴたりと止め、顔だけゾロイの方に向けた。

 ゾロイはおもむろに尻を怪物に向け、手で叩いて見せる。

「おまえなんてただでかいだけで、俺のことなんか掴まえられないだろう。やーいやーい、悔しかったらここまできやがれっ」

 人相手の挑発ならいざ知らず、怪物相手に通じるのかどうかは、ゾロイにもわからなかった。が、思惑通りに怪物は全身をこちらに向け、わなわなと拳を震わせていた。

「ごああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 耳をつんざくような叫び声を上げ、怪物は怒りを露わにした。

 上から振り下ろされる岩のような拳の連打を、ゾロイはひらりひらりと身を交わして避け続ける。予想よりも速い動きではあったが、避けられないというほどではない。

 少しの間、そうして怪物を食い止めていると、ゾロイの後ろから声がした。

「ゾロイさん、ごめんなさい! この剣、鞘から抜いて渡そうと思ったんですけど、柄だけ取れちゃって」

「言い訳はいいから、早くその柄を投げろ!」

 まだ何か言いたげではあるが、イレスは黙ってゾロイの言う通りに刃のない剣を宙に放った。

 好機を見計らって怪物と距離を取り、イレスの放った柄を掴んだ。

 後ろから怪物が拳を繰り出そうとしている気配を感じる。

 ゾロイは全身に力を込めて、それを柄を握る手に集中させた。

 柄が青白く光り、そこから宙を伝って刃の形状を成していく。

「危ないっ、ゾロイさん!」

 振り向くと同時に、ゾロイは身体の回転を利用して、怪物めがけて青白い刃を振り抜いた。

 一閃、怪物は胴体からまっぷたつに千切れ、地面に落ちた。

 苦しそうに唸る怪物を見て、ゾロイは早くとどめを刺してやろうと、青い刃を向ける。

 しかしその刹那、怪物は両手で大きく跳ね上がり、ゾロイの頭上を越えて、イレスの目の前に着地した。

「しまった! 逃げろイレス!」

 自分の愚かしさを呪いたい気分になったが、今はそれどころではない。

 怪物から一瞬遅れてゾロイ駆け出す。

 ゾロイは怪物の背中に刃を突き出した。が、半分になったことで身を軽くしたのか、怪物は驚くべき速度で身を交わし、またも宙に跳んだ。

 一瞬、イレスが狙われているかと思ったが、どうやら怪物の目的は違うようだとゾロイは感じた。目の前にいたイレスに一瞥もくれず、目指す場所が明確な者の動き見せたからである。

 ゾロイはイレスの前に立ち、怪物の行く先を観察する。

 怪物は、体当たりで目当ての家屋の壁を壊し、中に入っていった。

「イレスはここで待ってろ」

 ゾロイは怪物の後を追って、家屋に入る。中では怪物が何かをくわえて横たわっている。

 差し損なったとどめの一撃を与え、ゾロイは怪物が動きを止めるのを確認した。

「やはりな……」

 ゾロイは怪物がくわえた物を見つめながら、自分の想像が正しかったことを知った。

 後ろからみしみしと音がして振り向くと、崩れた入り口からイレスが顔を出す。

「こ、これ、一体どういうことなんですか」

 イレスは怪物の亡骸を見て言った。

 次第に怪物の身体は煙のように変化し、そして見えなくなった。

「ここでおまえの依頼に関する俺の仕事は打ち切りだ。諦めろ」

 ゾロイは努めて冷静を装い、イレスに告げる。

「意味がわかりませんよ、そんな突然言われても。もう半額分は支払ってるんですから、ちゃんと仕事してください。それとも怖くなったんですか?」

「ああ、怖い。怖くてたまらん。だけどな、それでも俺はおまえに言わなくちゃいけないことがある」

 ゾロイが素直に言うと、イレスは却って面食らった様子でまくし立てる。

「わたしにわかるように説明してください! オリズスの捜索を諦めるなんて、わたしには絶対にできません。たとえどんな危険な目にあったとしてもです」

「家がこんなになってもか?」

 通り沿いの壁は崩れ、印象は変わっても、ここはイレスの家だとわかる。簡素で物が見あたらない部屋の中を、風がびゅうと吹き付ける。

 言葉もなく、黙って頷くイレス。その表情から、硬い決意が窺えた。

「一つ訂正しておくがな、俺はオリズスの捜索は遂行したつもりだ。だから、ここで打ち切りだと言ったんだ」

「それって、何か手がかりを見つけたってことですか?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」

「煙に巻かないでちゃんと答えてください。わたし、オリズスを見つけたいんです」

 今にも泣き出しそうな勢いで、イレスはゾロイに詰め寄ってきた。

「もう見つかっているんだよ、オリズスは。ほら、そこを見てみろ」

 ゾロイは先ほどまで怪物がくわえていた物を指さして言った。

 しばらくはわからなかったようだが、イレスは理解が追いついた途端に短く悲鳴を上げる。

「これ、人の腕、ですよね。……もしかして、オリズスが見つかったって……」

 さすがに最後まで言葉にすることはできない様子で、イレスはそれきり黙ってしまった。

「何か勘違いしているようだが、その腕はオリズスのものじゃないぞ、別人の腕だ。それもこの件に関してはかなり重要な手がかりになっている証拠品だ」

「え……? オリズスのじゃないとしたら、一体誰の腕だって言うんですか」

「これはイレスの腕だ」

 ゾロイは断言する。

「ば、バカなこと言わないでくださいよ。わたしの腕はここにちゃんとあります」

 イレスはぶんぶんと両腕を振ってみせる。しかしこの先にゾロイが述べようとしている真実を予期しているのか、強ばった動きである。

「俺は大真面目だ。よく聞け、俺はイレスの腕と言ったんだ。おまえのとは一言も口にしてない」

「じゃあわたしは誰だって言うんですか」

 ゾロイは決意を胸に、イレスの目を見て答える。

「おまえの名前はオリズス。おまえが行方不明の張本人だ」



 街はずれに移動中、イレスは一言も口をきかなかった。

 人気のない場所に来たのは、これから説明する内容を人に聞かれては困るからである。正確に言うならば、見られては支障をきたすからだ。

「さて、まずは幽体のことから話すとするか」

 ゾロイは柄を握り、鞘から刃のない剣を抜いた。そして先ほど怪物と戦ったときと同じように力を込めて、柄の先端から宙に向けて青白い刃を作り出した。

「これが幽体。刃の形をしているのは俺の描いた想像だからだが、本来は決まった形状はない。使う者の意思が投影されているってだけだ。ただしこれは誰でもできることじゃない。前にも言ったが、幽体を使うことはもとより、見るだけでも特殊な才能が必要だからな」

「それがわたしとどういう関係にあるんですか。わたしが訊きたいのは」

「まあ待て。順を追って話す。この幽体使いの才能は、先天的に備わっている他に、後天的に開花させる方法がある」

 ゾロイはいったん言葉を切って、イレスの表情を窺う。視線を逸らさずにゾロイをまっすぐに見つめている。動揺はしていないようだ。

「それは、投薬だ」

「投薬? 薬でそんなことが可能なんですか?」

 イレスはいぶかしんでいる様子だ。

「普通は無理だ。というよりも病状を回復させるのが薬の主な目的だから、そんな薬がたとえ研究の途中で発見されたとしても、人体に使用することはしない。あったとしても、副作用が強過ぎれば公に投与されることもないだろうし、噂にもなる。医術師連中だって、そうした風評がたてばおまんまの食い上げになっちまうさ」

「でもゾロイさん、才能だって言いましたよね。才能っていうのは、元から持っている能力で、努力云々では変えられないって」

「ああ、たしかにな。少し説明を補おう。生きることそれ自体の力、とでもいうのか、そもそも誰でも持っている力なんだよ、幽体を扱う能力ってのは。ただ個人差もあるし、成長過程で必要がないとそいつ自身の命が感じたなら、その才能は歩みを止める。聞いたことはないか? 赤ん坊が母親を見分ける識別能力は、大人のそれを遙かに凌駕するって」

「使わなければ退化する、ということですか」

「そういう感じだな。だから最初は誰でも持っている力なんだそれを薬で強制進化させるって方法がある。おまえみたいにな」

「わたし? わたしが薬を使っているっていうんですか」

 イレスは叫び、怒りを露わにした。

「おまえが俺の店に来たとき、妙にさわやかな香りがした。あれはおそらく薬の影響で、おまえの身体から発生していたものだろう」

「そんなもの使っているはずないじゃないですか。大体、どこで手に入れるのかも知りませんよ」

「自覚があるかどうかは別の話だ。たとえば、マニグスに行っていたということだが、そのとき食事に混入でもしていたら?」

「それは……わからないですけど。でもそんなことをして誰が得をするっていうんです」

「さあな、それはわからん」

「わからないって、じゃあどうしてそんな……、そんな発想になるんですか。薬の影響でさわやかな香りがするなんて、どうして知っているんですか」

「昔の話だ。以前に嗅いだことのある香りだった。それでぴんときたんだよ。はじめは気がつかなかったけどな。遠い記憶の中にしまい込んでいたから、なかなか結びつけられなかったが」

 懐かしい友人の顔が、ゾロイの脳裏に蘇る。そしてそれは同時に封印した過去でもあった。思い出すと、少し胸が締め付けられる気がした。

「じゃあバナムさんは?」

 ゾロイが憂いを顔に表したせいだろうか、イレスは話題の矛先を少し逸らした。

「あいつは生まれつき幽体らしい。俺と出会った頃にはすでに人語を話していたから、今みたいに人嫌いじゃなかった過去があったのかもしれないな。詮無いことだが」

「人嫌いって本当ですか? わたしにはあんなに優しく接してくれたじゃないですか」

「バナムは女の子が好きっていうか、美人が好みの面食い野郎だからな。俺なんて最初は取り合ってくれなかったぞ。馬を探しにリヒサコニの森へ入ったときに、何度も逃げられたもんだ。あの通り、足だけはやたら速くて難儀したよ」

 くすくすと、イレスの口から笑い声が漏れる。少しは強ばりが解けたのだろう。

「相手がゾロイさんだからじゃないですか? だからきっとお店にも来ないんですよ」

「どういう意味だ。あいつが町や里に寄りつかないのは、俺たち人間に気を遣っているからなんだよ。悪用されると困るから言わなかったが、幽体を扱える者は、ある条件下で触れた者の身体や記憶を乗っ取ることができる。人が大勢いる場所に足を踏み入れれば、どうしたって接触は避けられない。バナムが他人との距離を取るのはそういう理由があるからだ」

「わたしはどうなんですか。ここに来るのにバナムさんの背に跨がって来ましたよ」

「それはおまえが幽体そのものだからだ。俺がおまえをオリズスだと言った理由はそこにある」

「どういうことですか?」

 話を本題に戻したことで、イレスは再び身構えた。

「そもそも幽体はどうやって発生するのかって話だ。この才能を持った者が事切れると、希に身体を捨てて幽体のみで生きていたときの姿を保つことがある。一言で表すなら、幽霊だ。幽霊同士はその範疇にない」

「ゾロイさんの言っていることが本当なら、わたしは幽霊ってことですか?」

「そうだ」

「それっておかしいですよ。だってわたしはこうしてここに存在しているし、話だってしているじゃないですか。それにいつ事切れたっていうんです。自分で気がつかないわけがないでしょう」

「証拠を見せよう。手を出せ。指輪をしている方だ」

 疑わしさを隠さずに、それでもイレスは右手をゾロイに向ける。

「この指輪がなにか関係あるんですか?」

 イレスの指輪の細工を見てから、ゾロイは隠し持っていたもう一つの指輪を取り出した。

「たしかこの指輪、外面に凸と凹の細工がしてあって、凸の方がイレス、凹の方がオリズスの物だったよな」

「それ、オリズスの! どこにあったんですか。いやどうしてゾロイさんが持っているんですか?」

「これはおまえの部屋のちゃぶ台の上にあった。二つの指輪をくっつけてみろ」

 言われるがまま、イレスはゾロイが差し出した指輪を受け取り、凸と凹を合わせようとした。

「あれ、ど、どうして……? くっつかないなんておかしいよ」

 だが二つの指輪は一つにはならなかった。

「もう一度細工をよく見ろ」

「ふ、二つとも凸……」

 細工を自分の目で確かめたイレスは、顔を真っ青にしている。

 怖い、とゾロイが言った理由はここにある。真実を、それも相手にとって根底を覆すような衝撃を与えうる内容ならば、伝える側にも相応の勇気が必要だった。

「この指輪は世界に一つずつしかない。それなのにどうして同じ物がここに二つあるのか。自然に考えれば、片方は偽物ということになる。その細工を施した職人なら作ることは可能だろうが、益に繋がる直接の理由としては考えにくい。細工それ自体は他の指輪にもあるかもしれないが、内側の文字がそれを否定している。このままではどちらが本物かは見分けられない。そこであの腕だ」

「わたしの家の中に転がっていた、あれですか」

「ああ。さっきの怪物は、あの腕に染み着いた幽体の匂いを嗅ぎつけてあそこに来たんだ」

「幽体の匂いだったら……わたしにだって、あるんじゃないですか。それにゾロイさんだって注意を引いていたとはいえ、襲われていたはずです。目の前にある幽体よりも、腕を探して回るというのは非効率な気がしますけど」

 イレスが言い淀んだのは、まだ自分が幽体であるという事実を完全には受け入れられないからだろう。

「さっき言い忘れたが、幽体になった者は、基本的には生前に付き合いがあった者としか言葉を交わしたり直接触れたりできないんだ。縁のない相手とたとえ接触できたとしても、記憶には留まらない。擦れ違う他人の顔のように、すぐに忘れてしまう。幽体使いの才能があれば別だがな」

「ゾロイさんは才能があって、わたしは幽体としてあの怪物と付き合いがなかったから、あの怪物は腕を探していたということですか」

 ゾロイはイレスの理解の早さに感心した。自分自身の存在が危ういというのに、強烈な理性が心の不安を打ち消しているのだろう。

 言葉の代わりに一つ頷いて、ゾロイは話を先に進めることにする。

「あの腕は実体だ。怪物は霧散したが、腕は残っていただろう? 普通に考えて、腕が転がっていること自体おかしいんだが、それについて思い当たる節はないか」

 間髪を入れず、イレスは首を横に振った。

「わたしにそんなことわかりませんよ」

「たぶん、押入かどこかに隠してあったんだろう。怪物が嗅ぎつけたってことは相当に幽体の匂いが強烈だった証拠に他ならない。幽体として新鮮だったってことだ。これは生身の身体から幽体が分離してまだ間もないということを意味している。あの部屋にあった腕だから、イレスかオリズスが持ち込んだものだろう。断定はできないが、幽体の匂いが残っていたことから、二人のうちどちらかの腕だと推測できる。通常の人間は幽体の匂いなんてしないからな。その証拠に、怪物は建物を壊しても、人を食らったりはしなかった」

 家屋の損壊は甚大だが、人への被害は少なかったに違いない。ここへ来る途中に怪物の通ったであろう後を歩いたが、泣き叫ぶ声もなくけが人も見受けられなかった。皆無ではないだろうが、最悪の事態は免れたといえる。

「もしもそうだとしても、それだけじゃ腕の主を特定できませんよ。どうしてもわたしがオリズスだと言うんなら、孤児院の院長先生に会ってもらえば違うと証明できます」

 苦しい言い訳だと自覚があるらしく、イレスはゾロイから視線を逸らして言った。

「姿形はイレスそのものだろう。それに記憶も一部受け継いでいるはずだ。だからそれはあまり意味がない。だが考えてもみろ、もしもイレスが幽体になったのなら、この凸の細工がしてある指輪がどうしてあの部屋のちゃぶ台にあったんだ。いやそれ以前にどうしておまえに腕がある。この指輪が幽体でないと証明する方法なら、それこそその辺りにいるやつにでもぶつけてやればわかる。幽体なら縁のない物には反応しないからな。つまり、おまえのしている指輪が偽物で、あの腕と俺が持ち出した指輪が本物だということだ」

 ちゃぶ台の上にあった指輪には凸の細工があったため、必然的に指輪の主はオリズスに限定される。

 薬によって強制的に幽体化させられた者は、投薬後の記憶に混濁が見られる。この事実はゾロイの体験によるものだが、今述べることではないと判断して黙っておくことに決めた。

「実体の腕と指輪の他にもおまえが誰かを示す証拠はある。イレスのことをよく知っているのは、本人と、同居までしている仲の良いオリズスだけだ。他人ではあり得ない。さっき幽体は身体と記憶を乗っ取ることができると言ったが、おそらくおまえはイレスの記憶を被ったんだ。それでイレスの記憶と身体を形作っている」

 鏡をのぞき込めば自分の姿を見ることもできる。しかし、一日鏡の前に張り付いていない限りは、通常、時間を共有する家族や親しい友人の姿の方が多く目にしているはずである。それもイレスの姿形をしている理由の一つだ。

 幽体で居続けるのにも力、それも怨念と呼べるほどの強烈な思念が必要だ。記憶の混濁があるとはいえ、ここまで自覚なく他人として存在しているということは、探し相手がいかに大切な存在なのかを物語っているといえる。

 名前を語っているという疑いもあった。親しい者同士だからこそ起こる擦れ違いから、強烈な殺意を育てるといった例もあると、仕事を通じてゾロイは知っていた。指輪は亡骸からオリズスが持ち帰り、指輪職人に依頼すれば同じ物は作れるだろう。ここまでは理屈が通っているが、それならばゾロイに捜索を依頼する理由が見当たらない。当人が黙っていればそれで済む話だからだ。ばれなければの話だが。

「ゾロイさんの言っていることがすべて事実だとしたら、オリズスは……いいえ、イレスの身体と本当のわたしの身体はどこかにあるということですか」

 強いな、とゾロイは思った。イレスは自分が偽物であることを受け入れつつある。ならばここで嘘を吐いても、彼女にとって良い結果にはならないだろう。

「幽体としてどこかに存在はしているだろうな。おまえがイレスの意識を被ったということは、何かしらの原因によって実体から分離した可能性が高い」

「分離した後、実体の方はその場に置き去りになったままなんですか?」

「いや、蠢く煤やさっきの怪物のように変化して、どこかをさまよっているはずだ。希に虚ろになってその場に留まる者もいるが、それはよほど幽耐性の強いやつだけだ」

「なら、依頼を変更します。イレスと、それからわたし、オリズスの身体の捜索に」

 イレス、いや、オリズスははっきりと、断言した。

 ゾロイはこの件に国が関わっているような気がしていた。かつて自分が経験した悪夢を、どこかの誰かが再び起こそうとしている。

 関わらない方が賢明だ。本能がそう警告していた。しかし、目の前の少女を放っておくことはできない。偽物の記憶に惑わされながらも、友人に会いたい一心で動くオリズスに、ゾロイは以前の自分自身を重ねてしまっていた。商売を重要視するならばここで手を引くべきだが、ゾロイにとってもまた、この事態の先に求めるものがあるように感じていた。

「了解」

 ゾロイは胸の奧でたぎる思いを隠すように、素っ気なく頷いてみせる。

 オリズスは目に涙を溜ながら、それでも決して泣かないと決めているのか、口を真一文字に結んで静かに首を縦に振った。

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