挿話 紅の魔術師 その三


 首都オウイコットのはずれにある実験施設へと誘う隧道を歩きながら、イアネルクはふと昔の出来事を思い出していた。

(そういえばあの場所と似ているな、ここは)

 幼い頃、友人二人を連れて施設から抜け出そうとした経験が、イアネルクの脳裏に浮かぶ。

 記憶の中の景色は、今歩いているような隧道ではなく、薄暗い林道だった。得体の知れない存在に追われ、夢中で逃げ続けた。当時はわからなかったが、魔術師として学術研究施設に籍を置く今になって、ようやくその存在の正体を理解することができた。正体とは皮肉なことに、現在イアネルクが指揮を取って進めている新薬の開発結果がもたらす副作用に他ならない。

 実験中のゲーブ、ウリアツラ、ベネッドは、イアネルクが作り出した劇薬である。

 まさか自分が携わる分野の先で、過去と再会するなど、露ほども考えたことはない。イアネルクはただ、医術の道を志す一介の民に過ぎなかった。己の身に起こる異変を感じるまでは。

 身体の変調に気がついたのは十年ほど前、イアネルクが二十歳を迎えた頃のこと。生来、勝ち気な性格ではあったが、ふとした瞬間に自分では制御しきれないある衝動を覚えた。思い当たるきっかけはあったものの、医術の知識に疎い当時のイアネルクでは、それらを変調の原因と結びつける確証を得ることはできなかった。医術師の診断を受けたこともあったが、明確な理由を手に入れることが叶わないまま、ただ日々を脅えて過ごすだけであった。

 自分の身体のことを知るために、一念発起して医術の道へ足を踏み入れ、見習いとしての修練を三年ほど続けたある日、イアネルクは人生の転機を向かえる。

 あちこちの町で疫病が流行り、その原因究明に追われていたときである。

 師事していた医術師が持ち帰ってきた疫病患者の血液を見て、イアネルクは今までにないくらいの衝動を感じた。一言で表現するならば、強烈な飢え、である。そして己を止めることもできず、心の感じるままにその血液を飲んだ。するとどういうわけか、イアネルクの衝動は抑えられ、久方ぶりの安堵を覚えるに至ったのである。

 異常だと思ったが、イアネルクはことあるごとに血液を接種し続けた。ささくれだった心を落ち着けるためにと、手を止めることができなかった。

 同時にそれは、イアネルクの求める結果に繋がるであろう研究でもあった。自身を被験体とし、日々の体調や衝動をつぶさに記録した。医術的な原因が不明であることと、自分で異常性を理解していたことから、イアネルクは周囲の人間にこの研究の内容を明かすことができないまま、さらに数年の月日を過ごすことになる。そうしていくうちに、日を追うごとに耐性がついたせいか、入手した血液の濃度では物足りなく感じ始めていた。

 不安を覚えたイアネルクは、血液濃度を上げて生成した錠剤を作った。これが効果を生み、再び心の安寧を手に入れたが、それが一時のものだとも自覚していた。その上、それまで秘密裏に行っていた血液の研究を、同僚のクートに知られてしまったのである。

 研究に使う血液の減りに感づいたクートは、連日研究室に泊まり込みをしていたイアネルクの動向を探っていたらしく、言い逃れのできない投与の瞬間を見計らって室内に乗り込んできた。

 クートは、しかしイアネルクを咎めはしなかった。あまつさえ、協力したいと申し出た。混乱したイアネルクだったが、受諾することに決めた。協力者もいないまま、孤独に研究を続けてきたイアネルクにとって、初めての理解者と感じたことが大きな理由である。

 加えてもうひとつ理由があった。

 血液の採取には、疫病が蔓延する場所へ直接赴かなければならず、その者が感染する危険が伴う。多くは外部に委託してこれを行っていたため、どうしても入手する量や時期にムラがが出る。クートはそれを解決できる案があると述べ、事実成し遂げてみせた。不定期だった実験材料が安定して手に入ることは、イアネルクにとって必要不可欠なものだったのである。

 どういう方法をとっているかは尋ねなかった。訊けば、恐ろしい答えが返ってくるだろうという予想もあった。

 その安定した供給がもたらしたのか、イアネルクの研究は思わぬ幸運を呼び込んだ。

 在籍していた医術研究施設内で疫病感染者が現れ、イアネルクを含む医術師と見習いが事態の収拾にあたっていた際に、クートが血液錠剤を患者に投与した。あってはならない人体実験ではあったが、その結果、危篤だった患者は驚くべき速度で回復をみせた。ただ、その錠剤の副作用なのか、幻聴や幻覚といった症状を訴える患者が多く、公に使用するかどうかの議論が持たれた。

 ともあれ、事態を収拾した功績を称えられたイアネルクとクートは、首都オウイコットの学術研究施設に招かれ、特別医術師として勤務することになった。特別、というのは、それまで医術師が施した治療は、主に草を煎じ詰めた薬や身体の指圧などで、血液錠剤自体が珍しい治療法であったからである。その上、錠剤の生成に関しても、イアネルクが全てを明らかにしなかったために、通常の医術師では成し得なかった。

 これを知った首都オウイコットは、魔術師、という号を新たに設立した。イアネルクを筆頭に研究部隊を作り、軍備の強化を目的に多額の費用を投じた。魔術師イアネルクの誕生である。

 一方クートは魔術師の号を受け取らず、あくまでも補佐としてイアネルクの下で働くことを申し出た。これには何かしらの思惑があると感じたイアネルクだったが、血液の調達と同様に黙っておくことにした。勘ぐっていると受け取られれば、自分に不都合な動きを見せる可能性があると踏んだためである。今のところは、すべてイアネルクの思い通りになっている状況なので、わざわざその土台が揺らぐことをする必要もなかった。

 大量の人員を確保し、そのための費用も首都オウイコットから出ている。しかし肝心の部分、つまり血液錠剤の生成は、最終的にイアネルク自身が行う必要があるため、作業が楽になったとはいえなかった。それどころか管理する情報が増え、以前よりも格段に忙しくなったといえる。

 そうして様々な薬剤と血液成分の合成を行った結果、軍備の強化にもイアネルクの目的にも最適だと思われる錠剤を作り上げることに成功した。それが先に挙げた三種類の薬である。

(ベネッド800の経過報告が待ち遠しい)

 一足、また一足と近づくたび、イアネルクは高揚と焦燥を感じる。

 長く記憶に浸って隧道を歩いていたイアネルクは、施設の出入り口を視認し思考を現実に戻した。近づいてみると、中から騒がしい音が聴こえてきた。

 扉を開けるや否や、二十人ほどいる研究員たちがぴたりと話を止め、一斉にイアネルクを見る。

「どうしたのだ、騒がしい。何かあったのか」

「いえ、それが、その……」

 言葉に詰まる研究員を見て、苛立ちを隠さずにイアネルクはその場にいる全員を睨みつけた。

「さっさと言わぬか」

「実は、ウリアツラを投与した被験体が脱走しまして……」

 恫喝に脅えた様子で、研究員はイアネルクの目も見ずに答えた。

「どういうことだ。クートからの報告ではウリアツラは投与後に人体を保てないと聞いているぞ。脱走したということは煤への変化があったということではないか。どうして報告しなかった。いつそうなったのだ」

 煤は投薬後の変化の第一段階である。続いて獣という第二段階に至るのだが、動物を使ったウリアツラの実験では希な結果だった。

「三日前のことです。被験体を収容していた部屋の人数確認を行ったところ、一名不足していたことがわかりました」

 三日前ならば、クートはこの事実を知っていた、ということに他ならない。

(もしやこの件でマニグスに向かったのか?)

 全てを報告しているとは限らないが、黙っていた事実がイアネルクの胸をざわつかせた。

「その一名はどこの出身だ」

 脱走したというのならば、被験体にまだ人としての意識があったのだろう。とすれば向かう先はその者に関連した場所ということになる。

「資料によれば、ニヒサスムのようです」

 ニヒサスムは、クートが向かったマニグスの隣の街である。近いというだけで証拠はないが、時期から考えても関連付けて考えない方が不自然に思えた。

「よし、今から数名、ニヒサスムに向かえ。もし被験体に煤以外の変化があれば可能な限り観察し、記録しろ。観察後は速やかにゲーブで打ち消し、後始末を忘れるな」

 指示を出し、イアネルクはクートがなぜ報告しなかったのか、思考を巡らせることにした。

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