挿話 紅の魔術師 その一


 首都オウイコットの中央に位置する学術研究施設の一室。部屋の中を照らすのは月明かりだけで、四方の壁は闇に融けてその境目を曖昧にしている。簡素で彩りもない室内には、棚と机、それと椅子がそれぞれ一つずつあるだけだ。

 唯一の椅子に深く腰掛け、報告を待つ人物の影が、廊下に人の気配を感じてゆらりと揺れた。

 扉を叩く音を聴き、紅い髪の女は閉じていた瞼を開く。

 許可を出すと、銀の甲冑を身に付けた男が部屋に入ってきた。

「イアネルク様、マニグスの工場からの連絡が入りました。脱走者が二名出たようです。、うち一人は既に捕縛済みですが、もう一人の行方が未だ掴めていない状況です。いかがなさいますか」

 紅い髪の女、イアネルクは兵士の報告を聞き、口元を歪め不快感を露わにした。

「さっさと捕まえて始末しろ。捕縛した人間もだ」

 イアネルクは吐き捨てるように兵士に命令を下す。

「わかりました。すぐにマニグスへ連絡します。しかし、もう一人の方はもう少しお待ちいただければと」

 兵士はイアネルクの苛立ちを理解していないのか、平然と言った。

「どういう意味だ?」

 声を一段と低くして、イアネルクは兵士を威圧する。

「連絡によると、もう一人は現在、虚ろな段階にきているようです」

 兵士の追加報告を聞き、イアネルクは薄く笑みを浮かべた。

「ほう。それを早く言え。よし、その人間はそのまま拘束しておけ。経過も逐一報告しろ」

 命令を受けた兵士は一礼して部屋を後にした。

 イアネルクはひとりほくそ笑む。どうやら自分の計画が最終段階に入ったと感じたからである。本当の目的を周囲に知らせてはいないので、この喜びを分かち合う者もいない。

「ご機嫌ですね、魔術師様」

 扉を開く音も気配もなく、声が唐突に部屋に響いた。

 イアネルクは声のする方へ瞬時に視線を飛ばす。その先には男がひとり、闇に紛れて立っていた。

「クートか、驚かすな。それからその呼び名で私を呼ぶなと何度言えばわかる」

 動揺を隠すように、イアネルクはクートをねめつける。

 クートは金髪細面の青年である。年の頃は三十を越えているはずだが、美少年といった表現がぴたりと当てはまる男だ。口元には常に笑みを湛え、青い瞳でどこか相手の心のうちを見透かしているような態度を取るこの男が、イアネルクは少々苦手だった。

「申し訳ありません、つい。しかしイアネルク様、先ほどのお顔はとてもお美しかったですよ。あなたの心ときめかせる何か、それを僕にも教えていただけませんか」

 イアネルクの視線にも一向に動じることなくクートは軽口を叩いた。

「どの口が言っているのだ。笑わせるな、クート。おまえの方はどうなっている。そんな冗談を言いにここへ来たわけではあるまい」

「いえ、あなたのお顔を拝見したく参上したのですよ。それこそが僕の目的です。後は二の次三の次、報告などここへ参る言い訳に過ぎません。僕としてはイアネルク様との仲を周囲に怪しまれても構わないのですが、これでもあなたに気を遣っているのですよ」

 好むと好まざるに関わらず、魔術師の肩書きは色々な場所で効果を発揮する。他の者相手ならばイアネルクもそう呼ばれることに不快感はない。しかし、クートは別だった。彼から魔術師と呼ばれると、全身に悪寒が走る。まるで蛇に睨まれた蛙のようだと、イアネルクは思っていた。

「黙れ、クート。私が訊いていることに答えろ。例の新薬の実験結果についてだ」

 イアネルクに言われて、初めてそのことに思い至ったという風に、クートは大げさに驚いてみせる。

「そのことでしたか。てっきり僕の顔をご覧になりたいとばかり。くくく、失礼しました。残念なことにゲーブ260やウリアツラ390については失敗のようですね。それぞれの実験の報告によると、どの被験体も投与からごく初期の段階で融解してしまうようです。濃度等を変えてもう一度試してみますか」

 笑顔を絶やさぬまま、クートは報告書も見ずにすらすらと実験結果を述べた。

「いや、それ以上濃度を下げては完成したとしても我々の役には立たない。幸運なことに先ほど受けた報告によれば、ベネッド800は期待が持てそうだ。虚ろな段階まで到達した者が現れたらしい」

「ほう、それはそれは。ではベネッド800の実験報告を待って、その結果が良いものであれば生産体制に入って構いませんか」

 口の端を一層吊り上げてクートは笑みを強調した。

(嫌な笑みだ。こいつ、何か知っているのか?)

 イアネルクの目的が漏れ伝わっている可能性は否定できないが、今この場で確認のしようがないため、感情は心のうちに留めておくことにした。

「ああ、そうしてくれ。それからクート、私の部屋に入るときはまず扉を叩いて知らせろ」

「御意。では僕はマニグスに向かいます」

 クートは胸に手を当て、一礼して踵を返した。

 イアネルクは彼の背中に向かって声をかける。

「待て、クートが行く必要はないだろう。現地にも所員は派遣してある。まずはその報告を聞いてからだ」

 行く手を制止したのは、無論クート自身を欲していたからではない。イアネルクに必要なあるものを定期的に入手するには、この男の仲介がやむを得ず不可欠だからだった。

「ご安心ください、イアネルク様。後で部下に持ってこさせますが、例のものならば既に入手済みです」

 クートはイアネルクの思いを悟ったように、振り向きもせずにそう言った。

 扉が閉まる音を聞きながら、イアネルクは改めて油断のならない男だと自らを戒めた。

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