冷たいだけの雪
三枝 敦
第1話
いつもより早い時間に目覚ましが鳴る。昨夜は緊張による胸の高鳴りのせいで寝付きが悪く、何度も目が覚めてしまった。けど、肌を刺すような寒さのおかげで視界ははしっかりとしていて、ぼやけることはない。
カーテンを開くと重苦しい鈍色の空が広がっていて、どこか僕の気分を憂鬱とさせる。太陽はまだ出たばかりなのか、東の空はわずかに明るくなっているだけだ。その光がこの町中を照らす事はあるのだろうか?
朝食もそこそこに身支度を整える。今、何をしようとこれから待つ未来が変わる事はないだろうが、どうにも時間をかけずには居られない。
玄関を開けると一層厳しさを増した寒さが学校指定のコートの襟元を突き抜けて、僕の身を引き締める。残念ながらマフラーは持っていない。帰りにでも買おう。
駅までの道を歩くと、ちらほらと僕と同じよう格好をした人達が歩いている。彼らにとっても、僕にとっても今日はとても大事な日だ。今後、彼らと会い見える事があるかわからないけど、これからの幸せを祈っておこう。
慣れない改札と、慣れない階段を降った先に止まっていた電車に乗り込む。この一連の動きがこれからの僕の日常になる。なれば良いな。
流れる景色を眺めながら、来年度の事に想いを
そんなこんなを考えているうちに、目的の駅の名前を告げるアナウンスが車内に響く。早く降りなければ。
転がるように電車から降りる。こんなんでこれからやっていけるだろうか? いきなり不安になって来た。
コートをより強く体に巻きつけながら改札を出る。その先には僕と同じような格好。だけど、どこか
目的の場所は駅のすぐそばにある。そこには既に長蛇の列が出来ているので、僕もその後ろに加わる。
緊張して来た。これから起こる出来事。それによって変わる事。考えれば考えるほど不安が募る。それが限界に達しようとした時に、前にいた人が横によけた。
僕の前に並んでいた人は、A4の封筒から取り出した一枚の用紙を見て、手のひらを握りしめて天に高く突き上げている。なるほど、彼は勝ち組だな。
早速僕も鞄から取り出した、証明写真付きの紙切れを目の前に座っている壮年の男性に渡す。それをしっかりと確認した男性は僕にA4の封筒を渡して来た。
「ありがとうございます」
礼儀に従ってお礼を言ってからその場を去る。
落ち着け、僕。この封筒の中身を確かめるだけでいいんだ。心臓の拍動がおさまらない。抑えろと自分の心臓に言い聞かせるが、それどころかどんどん高まってきて、心臓発作を起こすのではないかと、思えるほどだ。
恐る恐る封筒の口を開く。中にはたった一枚の紙が入っている。その取り出す速さと紙が
全ての音が消えた。周りの喧騒と自らが隔絶するかのように。そして景色の色彩がどんどん欠けていく。紙を握る手に思わず力が入ってしまって、文字にしわが寄る。けど、そこに書いてある文字が消える事はない。
紙には自分の名前、あと目に飛び込むのはたったの三文字だけだ。いや、正確にはその頭にある一文字。それは後に来るものを打ち消す文字。同時に僕を否定する文字。その一文字から目線が離れない。
そんな事をしても、消えるはずがないのに。
その文字で自分と周りの関係が、負け組と勝ち組に変わった。周りの景色の鮮やかさがどこか遠いものに感じる。周りに満ち満ちている歓喜の叫びが、抵抗なく僕を突き抜ける。
紙を握りしめた手の甲に、柔らかい何かが当たる。それはあまりにも冷たい雪だった。冷え切った手では融ける事もない。
結局、空に光が差す事なんてなかった。
人々の流れに
僕とは反対方向に歩いている人達がいる。その胸中はきっと期待と希望で満ち満ちているのだろう。十数分前の僕のように。
「そんなもの、砕け散ってしまえ」
自然と出た声だった。平生ならきっと考えない事なのに、なぜだかこの言葉が出てきた。
僕の行き先は駅のホームだった。いや、違うか。行き先なんてないから、帰るしかないんだ。
そうだ、忘れてた。お母さんに電話しないと。と、思い出したので鞄から携帯電話を取り出す。そのボタンを感覚のない指で、押していく。何度も打ち間違えた。そして、最後に発信ボタンを押して耳にあてる。電子音が三回ほど繰り返した後「もしもし」という、母の声が聞こえてきた。
けど、声が出ない。喉に何かが詰まってしまったかのように。ことばを紡ぐ事ができない。嗚咽も出てこない。電話の向こうは沈黙している。そうして一分ほど経ったあたりで
「帰っておいで」
やさしい声だった。すぐに電子音に戻ってしまったが、その声が僕の中をこだました。通話を切るのも忘れてポケットに携帯電話を突っ込んだ。
けたたましい音を立てて電車がホームにさしかかる。僕を迎えにくるかのように。
そうだ……死のう。
迫り来る電車を見てそう思った。そうすれば何もかもが終わる。さっきの結果が意味をなさなくなる。それが今の僕にとって、たった一つの救いに思えた。
何も難しい事じゃない。たったの二歩、前に進めば良いだけなんだ。最初は怖いかもしれない。けど、それだけで現実が崩壊して、僕には死という救いが差し伸べられる。なら、何も恐れる事はないじゃないか。
それに電車なら、きっと痛みもほとんどない。この情けない肉体が、バラバラになって地に帰り、僕という存在に終止符が打たれる。ただそれだけなんだ。
自殺に意味はない? 無駄だからやめろ? 馬鹿を言うな。そんなはずがない。この苦しい現実から解放される。それだけで十分だ。たとえ地獄に落ちたって良い。今以上に酷い環境が存在するなんて思えない。虐められている人も、きっと似たような事を考えるのかもしれない。
右足を一歩まえに出す。すると電車がクラクションを立てて、僕の行く手を阻もうとする。けど、止められるものか。今の僕はもうそんな物では止まらない。
さぁ、次は左足だ。と、踏み出そうとした時、さっきのこだまが戻って来た。「帰っておいで」という響きが。
その声が僕の動きを止めた。なぜだか身体が強張ってしまって、どうしても最後の一歩が踏み出せなくなってしまった。その声に自殺を引き止められてしまった。
耳を
頬に手を当てると手のひらが濡れる。きっと雪が溶けたものではないだろう。そんな僕を目の前にいるカップルが訝しげに僕を見て来る。笑いたければ、笑え。今の僕に嘲笑うほどの価値があると言うのなら、教えて欲しい。
「保険も、滑り止めもないのにな……」
ポケットからティッシュを取り出して窓の外を眺める。流れる景色の中で、ただ冷たいだけの雪が降り続けていた。
冷たいだけの雪 三枝 敦 @678705
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