実務終了
いったいなにが起きたのか、たぶん、だれもすぐには理解できなかっただろう。
マコロペネスを倒したばかりのおれが、不確かな感覚器官の助けを借りて、最初に感じたのは不愉快な浮遊感だった。
次に背後からの唐突な衝撃、さらに視野の狭窄と、あまり歓迎したくない状態に連続で見舞われた。
一瞬なのか、寸時なのか、それ以上か、ともかくおれの意識はどこかに飛んでいたらしい。
視界全体に広がる大きな黒い布の正体が、背中に折りたたんだ翼を広げた火竜であると気づいたのは、それら一連の出来事が起こり、さらにもう少し経ってからのことだ。
大きな翼だった。
翼長はこの広い洞窟の奥行き半分ほどもある。
もっともその巨体を飛ばすためにはそのくらいの大きさは必要だろう。
ともかく、おればかりか洞窟内にいる人間はすべて、その翼の羽ばたきで引き起された突風に吹き飛ばされたのだった。
宙を舞ったおれは洞窟の石壁に激突し、背中と後頭部を強打したらしい。
痛みは感じなくても肉体はひ弱な人間のままだから、気絶したり動けなくなったりするわけだ。
『哀レなリ、我の羽バたきひトツでフきトブ、ひしョウなモノどモヨ』
火竜は勝ち誇ったように天井を仰いで、笑い声の代わりだろうか、ヒューヒューと甲高く呼気を出した。
あたりを見回すと、洞窟内の人間は、そのほとんどが突風に吹き飛ばされたようで、ぴくりとも動かない者、もぞもぞと動きを見せている者など、いずれも壁際や床に倒れ伏し、二本の足で立ちおおせた者は皆無だった。
『めッせヨ、神に愛されルモノたち! なンじらに与えられたオンちョウヲ、ウらみながらヨみにクだルべし』
鳴き声とも叫び声ともつかぬ大声を上げ、火竜は口から炎を噴き出す。
やつに一番近い弩の架台は猛烈な勢いで発火した。
架台周辺の石床にいくつかの炎溜まりも発生する。
おれはふらつきながらも、火竜の進行方向にある次の架台めがけ走った。
その少し先の石床に、突風で投げ出されたヒルガーテが転がっている。
このままでは火に巻かれるのは時間の問題だし、踏みつぶされる可能性もあった。
『ドらゴれス。さいきョウノしュゴけンしめ。なンじでノロわれた血スじはさいゴであロウ。我のぜンにン者モ投げ出したなンじにしョウりし、長かッたトウソウに、ヨウやクひトクぎりできヨウゾ!』
火竜の前方にはディトワもいた。
ドゥーリガンを石床に突き立て、それを支えになんとか立ち上がったという様子に見える。
頭部から黒い体液が顔を伝い、首もとまでしたたっていた。
「火竜よ。
ふらついた身体でそううそぶいても、説得力には乏しい。
と、夕立のようなざあっという音が洞窟内に響き、直後に矢の雨が降り注ぐ。
「撃て、撃てっ!」
声に振り向くと、洞窟の入り口からせまい階段の壁ぞいに並んだ衛士たちが、火竜に向け、ちょうど矢の第二射を放ち終わったところだった。
――いかん!
ヒルガーテのもとへ駈け寄ると、その身体を隠すようにおおいかぶさる。
火竜を外れた矢は頭上から落ちてきて、数本、おれの身体にも突き立った。
『しゃらクさい。矢なド効かヌわ!』
火竜は首を背後にもたげ、火炎を吐いて衛士たちをなぎ払った。
たちまち炎に包まれる数人の衛士たち。
悲鳴を上げながら階段を転がり落ちる者もいる。
「ひっ! 退け!」
あの声は、シグルトだろう。
幾人かの勇敢な衛士たちはまだ弓を引き絞り、火竜めがけ何度も矢を射かけた。
おれは気絶しているヒルガーテを肩に載せると、ひとまず炎の影響のいちばん少なさそうな壁際まで後退し、そこに彼女を寄りかからせた。
衛士たちの多大な犠牲のおかげで、時間を稼ぎ、なんとかディトワも体力を回復した様子だった。
衛士に気をとられている火竜の隙を突き、ディトワとおれは合流した。
「どういう原理だ? 火を吹ける生き物なんて!」
攻略の手だてを思いつかず、いらだつおれに、簡潔な回答が帰ってきた。
「やつは口の頬袋から燃える液体を噴射する。それが合わさり、発火するんだ」
なるほど、ノヘゥルメに効く火槍は、火竜の頬袋からそれを取り出して作るのか。
「上空から炎を吹きかけられては勝てない。やつの頭を手の届く所まで下げないと」
おれのことばに彼は首肯する。
「わかってる。あれを使おう」
ディトワの指さす先に巻き上げ機のついた、例の台車があった。
打ち合わせ通り、おれはドゥーリガンで台車の四方に鉄杭を打ちつけ、さらに石壁にあった金具と太綱でつなぎ、二方向から強力に台車を固定した。
衛士たちは全滅しかけている。
遠目に洞窟入り口の隅で立ちつくすシグルトの姿を捉えた。
目前の虐殺におののいているのか、なんの指示も出していない。
ディトワは足早に火竜へ近づき、巨体に突き立つ大矢の端を手がかりにして、巨体をよじ登りはじめた。
その動きに気づいた火竜は、両腕で彼を払い落とそうとした。
しかし、背中にまわったディトワには届かない。
やつは大きな翼を広げたりたたんだりし始めた。
巻き起こる風の圧力と身体への振動とで彼を払い落とそうという魂胆だろう。
ふたたび洞窟内に生じた強風をこらえ、おれはまだ壊されていない弩に取りついた。右方の壁際にある滑車経由で曳いてきた太綱を、大矢の後半部に結わえる。
徐々に身体を登りくるディトワを振り落とそうと気を取られ、火竜は、おれの動向にまだ気づかない様子だった。
太綱のついた大矢を弩に設置し慎重に狙いをつける。巨体とはいえ、やつの首は他の部分よりも細い。失敗は許されない。
とうとうディトワは背後からやつの首もとにたどり着いた。
背中に突き立つ大矢の端にドゥーリガンと空いた腕をがっちりからませ、しがみついている。
――いまだ!
発射した大矢は猛烈な勢いで直進し、長い首の中央部付近に命中した。
火竜は咆哮しながら首を大きく揺らし、両手でそれを抜こうとする。
ディトワは首の背後へ突きだした大矢の矢じりに、用意していた太綱を巻きつけ、背中へ突き立っている別な大矢に手早く結びつける。
そうすることで、首に刺さった大矢が抜けないようにするのだ。
おれは急いで巻き上げ機まで駆け戻り、大きな取っ手を力一杯まわした。
『なに! なンじら、いッたいなにヲッ!』
大矢に結わえられた太綱に引っ張られ、火竜の長い首は右方向へかしいだ。
あらん限りの力でまわされる巻き上げ機の歯車は耳障りなきしみ音を発しはじめる。壁際に取りつけられた滑車のある右下方へどんどん引っ張られ、首と同時にやつの頭部も下降していった。
「マーガル、早くまわせ! もっと早く!」
『ちからクらべノツモりか?』
そう人語を発すると、火竜は首を上方へ大きく振り上げる。
太綱はびんと音を立てて張り切り、巻き上げ機の歯車に噛ませてある歯止めも働く。おれの持つ取っ手はぴくりとも動かなくなった。だが、竜が噛みちぎるにも苦労するという丈夫な綱だけあり、引きちぎれることはなかった。
矢じりには抜け止めの返しもあるし、ディトワの結んだ綱もあるから、火竜の首に刺さった大矢は抜けることもないだろう。
「そんな程度じゃ切れないぞ! おまえら専用の太綱だ!」
火竜の背中でディトワは怒鳴った。
やつは今度は、左に――ぴんと張った太縄とは反対方向に――首を振った。
その勢いに、台車を止めてある鉄杭は音を立てて石床から飛び出した。
こすれる太綱の摩擦熱で壁際の滑車から白煙も上がっている。
火竜はにやりと笑ったかのように見えた。大きく首を右方へ下げると、巨体を傾け、左方向へ勢いよく首を振り上げた。
反動をつけて太綱を切るつもりなのだ。
おれは巻き上げ機の歯止めを開放し、走り出す。
ディトワは手に持った短刀で火竜の首に巻きつけた太綱を切っていた。
巻き上げ機の歯止めと、補助的な太綱の抵抗を失ったため、火竜は振り上げた首の勢いに自ら姿勢を崩し、地響きを立てて左側方に倒れこむ。
頭部を石床に打ちつける強烈な音がした。
おれの接近するより早く、ディトワは横転した火竜の頭部付近にたどり着いた。
ドゥーリガンを振り上げ、頭上の急所を狙う。
火竜の反撃は予想以上に速かった。
やつは横に首を動かし、頭部で直接ディトワをなぎ払う。
強烈な打撃に、彼は宙に飛ばされた。
体の側面からの着地と同時に、石床を滑るように転がっていく。
回転が止まると、うつぶせのまま動かなくなった。
「ディトワ!」
『新たなしュゴけンしヨ、なンじモオノが運命ヲクいルがヨい!』
首をもたげた火竜は、おれの頭上から、託宣のことばを降らす。
ディトワを気にして、やつのふところ深くはいりすぎてしまったのだ。
振り仰いでみると、火竜の頭はおれの真上にあった。
顔を下に向け、おれを見ていた。
やつは上部から獲物をひと呑みにしようと、大きく顎を開き、そのまま一気に頭部を降下させる。
はじめから狙っていたわけではない。
禍々しい火竜の顎を振り仰ぎつつ、せめて一矢報いようと、おれは渾身の力でドゥーリガンを振り回したのだった。
目視と手に伝わる衝撃とで、大顎のちょうつがいあたりを振り抜いた、そんな手応えを感じた。
すぐ周囲を闇が包む。
やつの口の中だろう。
つまり喰われたのだ。
一瞬遅れ、ごうと音を立て、赤と黄色のまばゆい光が視界を満たす。
――おれは……死んだのか?
意識はそれきり途切れてしまった。
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