第1話 緑化実験都市


 2027年、春。何もかも辛くて、考えることを投げ出した日々。


 朝。

 目を開ければ、閉め切ったはずの東向きの窓のかすかなカーテンの隙間から侵入してきた眩しい陽光が、部屋を漂う夥しい量の埃の粒子にきついスポットライトを浴びせている。

 忌々しいことに、今朝は珍しく晴れているようだ。さっさとまた雨が降りだせばいいのに。

 何しろこの島では、梅雨前の今の時期でも月に300ミリを超す異常な降水量があるのだ。おかげでほったらかしの替えのパジャマもスリッパも湿気でかびてしまっている。

 身体が重くて、布団から出る気にならない。

 目元でがびがびになった目ヤニが気持ち悪いけど、顔を洗いに起きあがる覇気も無い。

 もう何日、寝たままなんだろう。覚えていない。

 枕元には、充電ポートに置きっ放しの携帯。その震動音で目が覚めたことに僕は気付いた。着信履歴は見なくてもわかる、一日に一回「クラス委員・御所浦ごしょうら深月みつき」という登録名が不在着信に並んでいる。

 もう、止めてほしい。僕という人間の存在は忘れて、放っておいてほしい。

 いつだったか、まだ電話に出て喋る気力のあった頃にそうくぎを刺したはずなのに、クラス委員だからか何だか知らないが、お節介なモーニングコールはまだ続いている。

 起こされても、また目を閉じて眠るだけのこと。眠って、そして運よく夢を見ずに済めば、その時間だけは胸の痛みから解放される。


 ピーンポーン。


 携帯を切ろうと手を伸ばしながらそう思っていると、不意に部屋のチャイムが鳴った。

 続いて、玄関の扉がノックされる音。

 携帯の方はいったん沈黙したかと思うと、再び震動し始めた。

 全く、なんて騒々しい朝なんだ。

 僕は小さく舌打ちしながら、玄関は無視したまま、携帯を掴むと画面を目に近付ける。

 「クラス委員・御所浦深月」じゃない? 見たことのない、未登録の番号だった。

 玄関の方では、扉を叩く音が、徐々に大きくなっていく。


 うるさい。出前は頼んでない。

 うるさい。ゴミみたいな新聞は要らないんだよ。

 うるさい。テレビは無いからNHKの受信料は払わないんだよ。

 うるさい。大陸から粒子が飛んできて汚染された外気は吸いたくないんだよ。

 うるさい。いい加減諦めろよ。留守なんだよ。


「うるさいっ!」


 声に出して怒鳴ったのと、玄関の方からドカン! という破砕音が響いたのは、ほぼ同時だった。


糸川いとかわみのるね」


 流れ込む外気とともに、硬質の声が投げつけられる。

 絶句して万年床と化したベッドから上半身を起こすと、ワンルームの玄関扉は金属の蝶番が千切れ飛んで、部屋の中に向かってばったりと倒れている。

 その扉の残骸を無遠慮に踏み越えて、声の主は緋色の瞳で僕を見下ろしていた。


「お、お前は……?」

「私はさくら。製造番号ND-623。今年度から貴方と同じ屋久島大附属志戸子しとこ学園高等部の一年に入学した、中島技研製第3世代型DOLLよ」


 高飛車に名乗った不法侵入者の正体は、見覚えのある学園の制服に瞳と同じスカーレットの髪を肩まで伸ばした少女だった。背の高さは僕より少し下だろうか。

 少女? いや、自己紹介に偽りが無いのなら、彼女はヒトでは無い。そして、僕はそれが何なのか、もう知っている。

 DOLL。人型機械だ。それも完全自律型の。

 機械でありながら自我を持つ、往年の手塚治虫漫画から抜け出してきたようなそれは、この5年間で急速に世界に普及し、とりわけ少子化・過疎化に対する抜本的な手だてを未だ見出せないこの国で、社会の新たな担い手として、今日あらゆる分野で活躍している。生活、ビジネス、教育、エンターテイメント、医療介護、防災レスキュー、治安維持、そして国防。

 だが、僕の知る限り、平時に民家のドアを破壊して侵入する役割は求められていないはずだ。


「不良品か? メーカーに通報して……」


「いいことみのる。私と契約して、探偵部員になりなさい」


 通報してやる、と叫ぶはずだった僕の声は、さくらと名乗ったDOLLの涼しげな命令口調にかき消された。

 この状況には不似合いな落ち着きに、どこか気品というより自惚れの混じった、鈴を転がすような声だ。


「探偵部員?」


 何かの誤作動か、はたまた犯罪者に人格ソフトを不正に書き換えられて強盗に来たにしては、妙なことを喋っている。

 そう思っていると、DOLLは僕の呟きに反応したのか、緋色の前髪を気障に払うしぐさをした。


「そう、探偵部。私が新たに創設した、高度で先進的な部活動よ。ところが、公式な部活として認められるには部員数が足りないの。しかも既に公認された部活でなければ、オリエンテーション期間の勧誘イベントにも参加させてもらえない。部活動の成果が卒業単位となるこの学園では、ほとんどの生徒がオリエンテーションでどこかの部に入部させられてしまう。これでは新規参入は不可能同然よ。そこで、何か手が無いかと職員室の端末を覗いていたら、中等部の三学期から登校拒否している貴方を見つけたというわけ。あ、ちなみにさっき貴方の携帯を鳴らしたのは私だから、『名探偵桜様』と登録しておくと良いわ」


 僕に説明しているつもりなのか、一方的にわけのわからない自身の都合を語ったDOLLは、最後には自己陶酔の境地に至ったらしくうっとりと目を細めた。


「わかったから。燃えないゴミの日に出直してきてくれ、どうぞ」


 どこから突っ込んでいいかわからなかったので投げやりにそう返答すると、布団から出した足に痛撃が走った。DOLLの逆鱗げきりんに触れたらしい。

 僕に蹴りを入れたDOLLは、冷たく燃えるフランベのような視線を埃の堆積たいせきした部屋の隅々までスキャンするようにゆっくりと動かした後、再び僕の顔に照準を合わせる。

 人工物から発せられているとは到底信じ難いその怒りのオーラに背筋が粟立ち、思わず僕はのけぞった。


「汚い部屋。不潔な人間。人生日陰街道まっしぐらって感じね」

「よ、余計なお世話だ」


 小声で逆らうが無視される。


「ミジンコの方が食物連鎖に組み込まれてる分、生きる価値があるんじゃないの。悔しかったら光合成でもして酸素を吐いてみなさい」


 腹が立つ。うるさい、うるさい、うるさ――


「……そんな貴方でも」


 だから、それは唐突だった。桜という名のDOLLは顔を寄せて、真剣な眼差しが正面から僕を覗きこむ。僕は息を呑んだ。


「そんな貴方でも、私には必要なの。お願い、実」


 お願い。

 柔らかそうな唇が、ゆっくりと言葉を紡ぎ、ダージリンティーのマスカットの香りのような甘い吐息が鼻にかかって、僕の苛立っていた脳内に、魔法のように染み透っていく。

 刹那、彼女がDOLLであることを忘れた。


「では入部申込書にサインを。この紙の上の欄に氏名を書いて、後はこの入りますか入りませんかという選択肢の入りますかを丸で囲んで契約完了よ。まあ書きたくなければ私が貴方の筆跡を真似て書くから問題ないわ。それより今から学園で部活動新設願いの提出に立ち会ってもらうから、40秒で支度して」


 魔法は一瞬で解けた。


「うるさい! よくわからないけど、部活動だか何だかは出まかせで、どうせ松島先生かクラス委員の御所浦にでも、僕を学校に連れて来いって頼まれたんだろ! 大体何だよ、高校生にもなって探偵ごっこでもする気か? 言っとくけど僕は絶対にあの学園には行かないんだからな! …っておい、何する放せ!」


 再び足に蹴りが入り、続いて恐ろしい腕力でベッドから引きずり出される。


「予報では正午から雨が降るわ。濡れたくないから走るわよ、実」

「あーもう放せ! 後さっきから実って馴れ馴れしいぞ!」

「あら、実は実でしょう? さあ、行くわよ」


 破壊された扉から、まばゆい太陽の光が差し込んでいる。

 それが僕と桜との出会いで、騒がしい日々の始まりだった。

 ベッドから引きずり出されて必死で抵抗しながら、そのとき僕は、胸の痛みがつかの間消えていることに気が付かなかった。




 視界いっぱいに空を見るのは、久しぶりだった。

 長い間身動きすることを忘れていた身体に、容赦無く太陽が眩しい。

 みっともなくふらついて、植物性プラスチックと竹炭ちくたんで編んだネットにツタが鬱蒼うっそうと生い茂っている建物の壁に手をついてしまい、じっとりと湿った感触に慌てて手を離す。

 さっき無理やり引きずり出された僕の住むアパートも含めて、この街の建物の壁はどこもツタで覆われている。全く、壁面緑化へきめんりょくかとかいえば聞こえはいいけど、おかげで僕の部屋は湿気だらけカビだらけだ。

 しかし、本当に太陽は眩しくて熱い。吸血鬼のように、身体が光に焼かれて灰になってしまいそうだ。

 なんて、しょうも無い妄想にふける間も無く西の空から重い鉛色の雲がやって来て、太陽と淡い空の色をたちまち覆い隠した。

 空気中に水気を感じたかと思うと、つかの間の晴天に乾いた路面がぱちぱちと拍手をやり始める。

 レンガのように見えて、実は稲の収穫後の籾殻もみがらを固めて不燃処理したモミガライトを敷き詰めている歩道が、瞬く間に水玉模様だらけになり、やがて雨の色一色に染まる。


「ちょっと、何でもう降りだすのよ。予報では後12分37秒は降らないはずだったのに!」


 桜とかいう名のDOLLが、僕の横で頬を膨らませて怒っている。反対に、野蛮な太陽が姿をくらましたおかげで灰になりかけていた僕の思念は徐々に冴えを取り戻していた。


「お前馬鹿か? 亜熱帯地域の小さな島の局地的な天候を、天気予報がコンマ1秒精密に予測できるはずないだろ」


 眼鏡をくいっと持ち上げて当然のことを指摘してやると、即座に足首を手加減もとい足加減なく蹴られた。


「いてっ」

「元はといえば貴方がぐずぐずしてるからいけないのよ! さあ走るわよ、実」


 反射的に蹴られた足首を押さえてぴょんぴょん跳ねてしまう僕に鼻を鳴らすと、高慢ちきな人形は自分だけ傘をさしてさっさと駈け出してしまう。

 僕も折り畳み傘を濡れながら出してひろげながら追いかけようとして、そういえば僕はこいつに腕を掴まれて無理やり連れてこられたのであって、自分から追いかける義理は無かったのだと我に返る。

 空から落ちる雨は、正に天幕てんまくが破けたような凄まじい勢いに変わりつつあった。それに応える大地の反響も、もう拍手なんてお上品なものじゃない。

 まるで爆弾のように、投下される激しい大粒の雨が家々の屋根を打ち鳴らす。

 まるで、爆弾のように。


「――ねえ、聞こえてるの、実!」


 気がつくと、傘を落として立ち尽くしていた僕の手を、戻ってきた桜の手が握っていた。


「……どのくらい、こうしていた」


 頭も服もぐしょ濡れだが、僕はそれすらも気にならなかった。


「30秒くらいかしらね? 急にぼーっと突っ立って。雨に当たり過ぎると、人間は風邪を引いて使いものにならなくなるそうよ。さあ早く」


 桜に手を引かれて豪雨の中を再び歩き出す。

 道路の向こう側、桜が僕を引っ張る先で、ゴウンゴウンと地鳴りを上げて金属の柱がせり上がっている。

 降りしきる雨の中、柱の先端から傘が開き、大きなパラソルができあがった。

 あの傘の表面にコーティングされた圧電あつでん素子そしは、雨粒が落ちる振動を電圧に変換する。この街に特有の亜熱帯性の激しいスコールの勢いを利用した、雨力うりょく発電はつでんだ。

 そこから流れ落ちた雨水も、路面の下に張り巡らされたハイドロスタッフシステムに受け止められ、地下の小水力発電設備に集められてさらにエネルギーに変換された後、バイオエヌキューブによる微生物処理で浄化されて、中水ちゅうすいとして再利用される。


「助かった。あの傘の下に、ケーブルカーの停留所があるわ」


『学園前行き』と表示された停留所の液晶掲示板を指差して、桜がほっと息をつく。


「っておい、学園には行きたくないって何度言ったらわかるんだ? それと僕の家の玄関、あれ弁償しろよ!」

「契約通り探偵部に入ってくれたら、あんな吹けば飛ぶ扉いくらでも弁償してやるわよ」


 ここまで半ば犯罪と呼ぶべき手段で連れてこられた僕の精一杯の抗議にも、目の前に立つ緋色のDOLL様は変わらず涼しい顔だった。


「うわ、なんかむかつく。しかも契約なんてした覚えない。いい加減メーカーに通報するぞ、この暴力人形」

「身の程をわきまえていない部員には躾けが必要ね……」

「いてっ、だから足首はやめろって!」


 外観だけはレトロなケーブルカーが水しぶきを上げて近付いてきて、僕達の口論の音をかき消した。




 りょく実験じっけん都市とし、または緑化都市。このまちはそう呼ばれている。

 正式には、屋久やくしま行政特別区域。

 日本国九州南部、大隅おおすみ半島沖の南南西およそ60キロメートル。東シナ海に浮かぶ屋久島の北岸、旧市街地跡を区画整理してつくられた計画都市だ。

 戦争の翌年に戦災復興を後押しするため成立した改正総合かいせいそうごう特区とっくほうの認定を受けて、本格的な建設が始まった。

 最先端の科学技術、とりわけ2040年に予定されている国際こくさい排出権はいしゅつけん取引とりひき市場しじょうの始動を見据えた環境技術の研究開発及び技術・人材の集積を目的として、潤沢な補助金の投入、税制上の優遇措置、さらに法規制の大幅な緩和が行われた結果、2027年現在、300を超える企業や大学が拠点を構え、環境関連の国際機関も多数誘致され、約12万人の人口の実に8割を研究者と学生が占めている。


 最先端技術の成果は、何も研究施設の奥深くでしか見られないものではない。

 生活空間での実証実験を兼ねて都市の中で運用される技術は、都市の外のそれと比較して10年以上は開きがあるといわれる。

 わけても象徴的なのが、建物の屋上・壁面の緑化や高気密こうきみつ高断熱こうだんねつによりエネルギー使用効率を高め、また市民生活の環境かんきょう負荷ふかを低減する様々な工夫を凝らすなどして徹底した低炭素化を実現すると同時に、都市で使用される電力を全て再生可能エネルギーによって賄っていることだ。

 島の近海には波力はりょく発電船はつでんせんが停泊し、沿岸には風力発電機、街中には毎日のように降る雨を利用した発電傘はつでんがさが林立する。

 山の斜面には水力発電所、そして太陽光発電を効率良く行うよう計算されてソーラーパネルと採光鏡さいこうきょうが配置されている。

 世界をリードする環境技術の見本市、それが緑化実験都市だ。


 そして、この都市のもう一つの目玉が、今まさに僕が連行されている先にあった。

 志戸子しとこ学園高等部は、ヒトとDOLLが共に学ぶ、世界で唯一の学校なのだ。




「えー、従って経産省ガイドラインでは、いわゆる『次世代ロボット』を、どう領域りょういきを人間の存在領域と共有するロボットと定義することで、従来の法規制を受けて工場などで使用されてきた『産業用ロボット』と一線を画した。経産省ガイドラインとは正確には、経済産業省の製造産業局せいぞうさんぎょうきょく産業機械課さんぎょうきかいかがロボット関連業界への指導として2007年に出した『次世代ロボット安全性確保ガイドライン』のことだ。テキストの巻末資料にあるから各自読んでおくように」


 すり鉢状の階段教室の底、立体りったい投影とうえいディスプレイの横で男性教諭が講釈している最中だった。桜に引きずられて無理やりこの教室まで入らされた僕は、気付かれないように身体を低くしてこっそりと最後尾の空いている椅子を探すと、桜と並んで腰を落ち着ける。

 そういえば今月はまだ、新学期のオリエンテーション期間だった。今は学園のあらましから施設の利用方法まで、新入生達にレクチャーする時間なんだろう。学園に行くのが嫌だった僕には、本来関係ないはずだったのに。


「……このように、行政のガイドラインはあったものの、明確にロボットについて定めた法律は存在しなかった。しかし2010年代の後半になると先進国の人口減少対策として人間を模したヒューマノイドロボットが徐々に普及し始め、人間社会がロボットを受け入れるための法令等の整備も含めた社会システムの見直しが必要だという声が国際的に高まる。そして、2020年に日本の探査機たんさきはやぶさⅡが小惑星から持ち帰った新元素イザナミウムを原料とし個性や感情を発現させる半導体はんどうたい素子そしと、これを中央ちゅうおう演算えんざんそうに使用した完全自律型ロボットDOLLが発明されると、その知性の尊厳を認め、もはや単なる物ではなく人権に準ずる権利を付与すべきだとして、『自律人型機械の人格に関する条約』通称DOLL条約が国連総会で採択された。日本でも人工じんこう知性ちせい特例とくれいほうが施行され、プログラミングによって基礎的な知識を習得した状態で製造されるDOLLが、人間との暮らしに順応する一定の義務教育を経て社会進出するための制度がつくられた。具体的には、人間の高等学校教育にあたる3年間がDOLLに義務教育として課せられる。高校を卒業したDOLLは住民票に登録され、最終的には参政権など一部を除き日本国民と同等の権利・義務が与えられる」


松島まつしま先生、相変わらず話が長いな……」


 全部テキストに書いてあるのに。ジャージ姿の見知った男性教諭の長広舌に思わずうんざりして呟いてから、改めて周囲を見回す。

 階段教室に集まった新入生達のどれがヒトでどれがDOLLかは、本来DOLLがヒトを模して造られた存在であるにも関わらず、一目瞭然だった。

 すなわち、教諭の長ったらしい講釈に退屈して横と私語を交わしたり、ノートPCでテキスト以外のページを開いて遊んでいたり、机の下の手で携帯をいじくっていたり、こくりこくりと船を漕いでいたり堂々と突っ伏して睡眠学習したりしている男女は、例外なくヒトの新入生達。半分以上は僕と同じ中等部から上がってきた内部生で、見知った顔もちらほら見える。

 一方で、ぴんと背筋を伸ばして姿勢正しく真面目に教諭の話に耳を傾けている、顔に一点の歪みもそばかすも無く端麗な『女子』達がDOLLの新入生だ。

 勿論、DOLLの性格がみんな生真面目な優等生キャラに発現するわけではない。性格は個体差があり、桜のような破天荒ぶりはさすがに規格外だと思うが、その桜でさえ、今は横で大人しくしている。プログラムされたDOLLとは、そういうものなのだ。

 ちなみに、DOLLの思考中枢であるイザナミウムが個性や感情を発現させる条件は、何故か人格ソフトに女性型思考形態をプログラムした場合に限られている。

 DOLLとは、正式にはDiversified Optimal Learning Labor(多角的高度学習作業機械)の略だったのだが、最後のLをLaborでなくLadyに置き換えて表記するメディアが増えているのはそのためだ。女性の人格でしか発現しない理由は、未だ解明されていない。


「本学園には、DOLLを受け入れている他の教育機関と大きく異なる方針が二つある。一つは理系・文系で分けられがちなカリキュラムを、講義ごとに自由に選択できる独自の教育方法を採用していることだ。DOLLは人間と異なりほとんどは発注者の都合に合わせ製造時に用途が決まっているものだが、そこを敢えて本来の用途に必要ない分野も学べる選択肢を示す事で、柔軟で独創性のある才能を育てたいと考えている。もう一つは、人間とDOLLの共学制を前提としたクラス編成で、これは世界でも初の試みだ。DOLLにとって、本来、初期プログラムでは習得し切れない生身の人間とのコミュニケーションの機微を実地で学習するための義務教育期間なのに、実際に人間と身近に接する機会が少なかったら本末転倒だと我々は考えている」


 松島教諭の長い講釈も、いよいよ佳境に差し掛かってきたようだ。ヒトの生徒達のだらけた態度にさすがに気付いたのか、声をひときわ張り上げた。


「人間の生徒諸君にとっても、DOLLとの共学は有意義なものになるだろう。少子高齢化に歯止めがかからず国力低下の一途をたどる日本で、社会を維持するためDOLLは欠かせない存在になりつつある。行政サービスも経済活動も、DOLLを筆頭とするロボット無しではもはや成り立たない。この現実を直視し、DOLLに対する受け入れ態勢を構築し持続させていくには、人間側の意識改革が不可欠だ。そのためには、まずDOLLのことをよく知らなければならない。……諸君がこれから本学園で共に生徒として過ごす3年間が、人間とDOLLとが共存する社会の礎となり、そして諸君が生きる未来の日本が、再び平和で希望に満ちた国になることを願っている」


 松島教諭がそう締めくくり、真面目に聞いていたDOLL達を中心に拍手が起こる。僕の横で、桜も手を叩いていた。


「学年主任の私からは以上だ。続いて学生生活について、生徒会の各委員から説明がある。まずは生徒会長から」


 松島教諭と入れ替わりに、上級生が1人すっと立ち上がり、どこか優雅な足取りで教壇に上がる。


「ようこそ志戸子学園高等部へ。私は生徒会長を務めるMD-188瑠璃るり。皆さんを歓迎します」




 生徒会・各委員会からのオリエンテーションがひと段落する。

 図書館や保健センターの利用方法、部活動に関する説明ばかりか、講義の履修りしゅうなど学事がくじに関する説明までも松島教諭ではなく上級生の担当委員から説明が行われたのが印象的だった。

 生徒による高度な自治が許されているのも、志戸子学園高等部の特徴の一つだ。


「……さあ、こんなところに長居は無用だ」


 休憩時間に入り、生徒達が教室を出るために立ち上がり始めると、僕は人目に付かないよう真っ先に外に抜け出そうとして、がっしりと腕を掴まれた。


「貴方を連れてきた理由を忘れたの、実? これからが本番よ」


 視線は前に向けたまま、桜が険しい口調で言う。


「これからが本当の地獄だ、の間違いだろ」


 ぼやきながら桜の鋭い視線を追いかけると、先ほど登壇した生徒会長が、松島教諭や他の委員達と言葉を交わした後、退出するためこちらへ向かってくるところだった。

 その生徒会長の周囲には、どう見てもここの生徒ではない、サングラスに黒服姿をした大人の男達が複数つき従っており、新入生達の間からかすかなざわめきが伝わってくる。


「……おい、一体なんなんだ、ありゃ?」


「MD-188瑠璃るり、高等部2年。新興コングロマリット、ミサキグループ総帥の令嬢として特注された最高級DOLLよ。量産化や商品としての採算性は完全に度外視して、お金を湯水のようにつぎ込んだミサキグループの歩く広告塔。私達中島技研の第4世代型よりも前に設計されたはずなのに、その驚異的な演算能力は現在開発中の第5世代型と互角かそれ以上と言われてるわ」


 さっきと同じ険しい口調のまま、桜が語る。

 僕はようやくこの高慢ちきなDOLLが、柄にもなく緊張しているのだと気付いた。

 つまりは、あの黒服のSPに囲まれた生徒会長がそれだけの相手だということだ。


「後、これは極秘の情報なのだけれど。彼女、起動時試験では海自と米海軍の模擬戦に参加して護衛艦『ながと』のCICを単独で制御した上、指揮決定システムの処理速度を30%以上も短縮してみせたらしいわ」

「そんな恐ろしい奴がこの学校にいたのか……って、お前はなんでそんな極秘情報を普通に知ってるんだ!」

「嫌だわ実、今のはほんの冗談よ」

「今更信じられるかっ!」


 自衛隊とミサキグループに繋がりがあるのは、僕も知っている。

 今日あらゆる業界に進出しているミサキグループの出発点でありグループの中核であるミサキドール社は、防衛用DOLLの開発・生産を一手に担っているのだ。


「グループ総帥のさき会長は、目に入れても痛くないくらいあの子を溺愛しているそうよ。卒業後はミサキドール本社で総帥の片腕になるか……あるいはミサキインダストリーかミサキバイオニクスか、有力傘下企業のどこかの経営を任されるのは間違いないでしょうね。……ここでの生徒会長という役も、あの子にとってはリーダーとなるべく作られた己の性能を試すための実証実験に過ぎないのかもしれないわ」

「奇麗にまとめたところで、本人のご到着だぞ」


 階段教室の出口前に立ち、必然的に立ち塞がる格好になっている僕と桜の前に、志戸子学園高等部の生徒会長にしてミサキグループ総帥令嬢のDOLLが、取り巻きの黒服を引き連れてゆっくりとのぼってくる。予め桜の話を聞かされたせいか、僕も思わず背筋を伸ばした。

 雪のような白銀はくぎんの髪を大財閥のお嬢様に相応しくゆったりとウェーブさせ、花のつぼみかたどった洒落た眼帯を左目につけている。まさか光学センサーのレンズが故障しているわけではないだろうから、恐らくはファッションなのだろう。

 眼帯の付け方が、まるで昔ヨーロッパの上流階級で流行したモノクルのような気品を醸し出していた。


「生徒会長、話があるのだけれど」


 桜の呼び声に立ち止まると、眼帯をしていない方のラピスラズリの瞳が、すっと僕達に向けられた。

 同時に黒服の男達が、無言のままさりげない身のこなしで間に割って入ろうとする。よく訓練された動きであることが、僕にはわかった。


「……良いのです」


 瑠璃るりがかすかに手を上げる。

 それだけで黒服達は、出てきた時と同じようにあっさりと音も無く後ろに退いた。


「ND-623、新入生の桜さんでしたね。どういったご用向きでしょう?」


 美しい乙女の造形をした滑らかな繊維の下で人工筋肉じんこうきんにくが絶妙な調整を施し、柔和な微笑を作り出す。そして優しくも凛とした声色。

 正に、模範的な生徒会長の応対だった。


「見ての通りよ。この前の話は覚えているでしょう? 言われた通り、部員を用意したわ。これで部活動の新設に必要な条件は満たしたから、承認をして頂戴」


 一方の桜は、勿体ぶったやり取りが苦手なのか、僕の背中を乱暴に叩いて本題に入った。

 こちらは正に、模範的なジャイアニズムだ。同じDOLLなのに、何故こうも品格に歴然とした差が生じるのだろう。

 なので一瞬、瑠璃が眉根を寄せる仕草をしてみせたのは、この高貴な令嬢が桜の無粋さに婉曲的えんきょくてきな不快感を示しているのかと錯覚したが、次に彼女が発した言葉で、その関心が別のところにあるのがわかった。


「……糸川実さんを、連れてこられたのですか」


 こちらをじっと見つめながら、瑠璃が僕の名前を口にする。

 高等部に今日初めて来た僕は、瑠璃にとって初対面のはずだ。大方おおかた、生徒会長の務めとして新入生全員の顔と名前を調べた上で記憶しているのだろう。

 これがヒトであればちょっとした才能だが、電子頭脳を持ったDOLLなら別に不思議なことではないと僕は思い、深く考えなかった。

 桜は瑠璃の質問に対し偉そうに腕組みをして、ろくに無い(こればかりは設計者の好みだが)胸を張った。


「ええ、確か規約では入部希望者が最低2名は必要だそうね。私と実がいるから、問題ないわ」


 いや、問題は大ありだろ。ジャイア……もとい自称名探偵桜様のあまりの剛腕ぶりに、突っ込みを言葉にできない。

 僕の記憶がおかしくなったのでなければ確か、『部員数が足りない』から来いということだったはずだ。だが今の話を聞いている限り、僕と桜以外に入部希望者がいる気配が全く無い。『部員数が足りない』と『部員がいない』では大きな開きがある。

 どうやらこいつは、19世紀の英国海軍が港町で足りない船員を補充するようなやり方で人攫い同然に連行してきた僕だけを当てに、規約で定められた最低の頭数で新しい部を発足させるつもりだ。

 唖然として沈黙していた僕に救いをもたらしたのは、生徒会長の冷静な指摘だった。


「それについては、私が判断することではないのですが、あくまで一般論として申し上げると、残念ながら問題があるように思います」


「……何ですって?」


「自主研究活動に関する規約を、ご自身でよくお読みになって下さい。活動内容が、この緑化都市の目指すところの『環境ビジネスの活性化に資する技術等の研究、集積及び発展』に関するものであれば、おっしゃる通り部員もしくは入部予定者が2名でも設立・存続を認める特例条項がありますが……」


 瑠璃の話に、桜はきょとんとしている。一足先に結論に辿り着いた僕は、内心でほくそ笑んだ。


「特例条項の適用を受けて新規に部を設立するには、審査を受けなければなりません。ちなみに『環境ビジネス』とは、環境省の総合環境政策局環境経済課がOECDの基準に基づき分類するところの『水、大気、土壌等の環境に与える悪影響と廃棄物、騒音、エコシステムに関連する問題を計測し、予防し、削減し、最小化し、改善する製品やサービスを提供する活動』を指します。しかし桜さんのお話をうかがった限り、探偵部という活動の内容が環境技術と関係があるのか率直に申し上げて疑問があります。仮に関連性が認められない場合、特例条項は適用されませんから規約の原則に立ち返って部の新設には4名以上が必要になります」


 瑠璃の小気味良いほど淡々とした説明を聞くうち、桜の表情がみるみる固まっていく。


「……ちょ、ちょっと待って。探偵部が環境ビジネスと関係ないだなんて、か、勝手に決め付けないで頂戴。いいこと、探偵とは事件の推理をするものよ。エルキュール・ポアロやミス・マープルのことは貴女も知っているでしょう? そう。彼や彼女のような本当の名探偵は推理をするとき、安楽椅子に座って『灰色の脳細胞』を使いじっくりと考え事をするの。そして、推理のために長時間椅子に座っていれば、当然だけど呼吸の回数が減って、二酸化炭素の排出を通常より抑えることができるのよ。つまり。私は、人間の部員である彼を被験者にして、事件の推理をしている最中の探偵が地球温暖化を防ぐという私のこの仮説を実証するために……」


 聞くに堪えない桜の屁理屈を、生徒会長はやんわりと途中で遮った。


「ですから、その判断をするのは私の役目ではありません。審査と許認可は生徒会ではなく、自主研究活動管理委員会の管轄です。現委員長は三年のれん先輩ですが、蓮華先輩のところにはもう行かれましたか?」


 ちなみに桜が具体例として挙げたエルキュール・ポアロもミス・マープルも、アガサ・クリスティの推理小説に登場する架空の探偵だ。


「……っ、蓮華委員長からは門前払いされたわ! 生徒会長なら委員長よりも位が高いのだから、私の話を聞くよう貴女から委員長に命令してよ!」


 桜がとうとう声を荒げる。


「そうでしたか……。生徒会長といえども、所管委員会の長である蓮華先輩の判断は尊重しなければなりません」


 瑠璃は、悲しげに目を伏せてみせた。


「お力になれず、残念です」


 会話の終了を告げる言葉。

 背後に控えていた黒服のSP達が、再び進み出て無言のうちに桜にプレッシャーをかけ、道を開けさせる。

 慇懃な会釈をして瑠璃はしずしずと通り過ぎて行き、僕と桜が残された。

 ざまあみろと快哉を叫ぶことも本気で考えたが、その場で棒のように立ち尽くす桜の悲哀に満ちた後ろ姿に、さすがにそこまでは興が乗らなかった。

 桜が規約の勘違いをしてしまったのも、同情の余地が無いわけではない。

 前に聞いた話によると高等部では、運動系を除いては大半の部が、環境技術関連活動の特例条項の適応を受けている。そもそも『自主研究活動』というこの学園の特殊な制度は、普通の学校の課外活動とは似て非なるものなのだ。

 桜がやろうとしている探偵部という活動がどんな内容なのか僕も皆目見当がつかないし、内容があるのかも怪しいが、それがもし同好会のようなものなら、この学園では想定されておらず、仮に部員数を揃えたとしても正式な活動として認められるのは難しいだろう。

 だから僕は桜の肩に手をおいて、なるべく優しく声をかけてやった。


「気が済んだなら、そろそろ行こうか」


 ぴくり、と桜が反応する。


「……行くって、どこへ?」

「決まってるじゃないか。僕のアパートの管理人室だよ。今朝壊した僕の部屋の扉、名探偵桜様が弁償して下さるんですよね?」


 ひきつった笑みを浮かべながら、肩においた手に力を込める。


「……わけがないでしょう」


 小声でぼそぼそと桜が何かを呟いた。


「んん? よく聞こえないなあ」

「納入前で義務教育中のDOLLがっ、お金を持っているわけがないでしょうっ! 部活動交付金から弁償しようと思っていたのよ! 何も問題無いはずだったのに、どうしてこんなことに……はっ、そうだわ、貴方が悪いのよ。貴方が無愛想なせいで、生徒会長の不興を買ってしまったのよ!」


 とうとうやけくそになったのか、開き直って責任転嫁を始める桜。


「随分と勝手な理屈だな。変なゴシップや個人情報にはやたら詳しいくせに、肝心な規約はろくに読まずに、探偵部とやらが認められると舐めた勘違いをしていたお前に全責任がある。挙句、部活動交付金だと? 獲らぬ狸の皮算用どころか、獲れぬツチノコの皮算用もいいところだ。ふざけるな」

「ちょっと待って、ツチノコは実在するわよ! 現に全国で目撃情報が」


 よりにもよってそこに反論するのかよ。駄目だこいつ、早くなんとかしないと。


「はあ……もういい、わかった。お前を不良品としてメーカーに突き出す。弁償はメーカーにして貰うさ」

「……!」


 息を呑む桜。


「まあ、お前の異様に自己中心的な言動をみている限り、間違い無く電子頭脳に不具合があるから、いっぺん初期化して、プログラムし直してもらうのが世の中のためだ」


 先ほどの松島教諭の長ったらしい講釈の中で、省略されていたことが一つある。

 確かにDOLLは、プログラムに従って入力された情報を処理するだけだった従来のロボットを超越した感情を有する存在であり、最終的には人権に準ずる権利が付与される。

 だが、あくまで『最終的には』だ。国が定めた義務教育期間を修了し、メーカーから発注者に引き渡され、発注者がメーカーに支払った高額な代金を月々の給与から天引きされる形で返済して、完済するまで無事に稼働し続けたDOLLに、初めて与えられるものなのだ。

 それまでは全く権利が無いわけではないが、移動や職業選択の自由は当然の如く制限されている。DOLL条約も人工知性特例法も、製造された瞬間から無制限にDOLLの権利を尊重するものではない。その点が、生まれた瞬間から(相続権など一部の権利は胎児の段階から)天賦の人権が発生するヒトと、どこまでいっても結局はヒトに作られた精密機器に過ぎないDOLLとの違いだ。


「初期化? そ、それだけはっ!」


 桜の緋眼が恐怖の色に染まり、ジャイアンとのび太の関係が逆転した。じたばたと抵抗する桜の襟首を掴んで、どこか罪悪感を覚えつつも僕が歩き出そうとした時だった。


「何の用ですか? 私があなた一人にさける時間は限られています、ゆう


 階段教室の外の廊下から、誰かの言い争いが聞こえてきた。

 今聞こえた片方の声は、生徒会長の瑠璃。


「……頼む、君の助けが欲しい。このままじゃ、園芸部の部室が無くなってしまうんだ」


 僕と桜がさりげなく廊下に身を乗り出すと、瑠璃と口論をしている相手の姿が見えた。


「それが、何か?」

「瑠璃……君は本当にそれで良いの? ボクらの思い出の場所が無くなってしまうんだよ? 君だって本当は……」


 ゆうと呼ばれた相手が、何やら必死に瑠璃を説得している。生徒から生徒会長への陳情というより、友人として瑠璃に何かを訴えかけているようだ。

 一方で瑠璃の態度は、桜に対しては政治家が有権者にするように振る舞っていたのが、こちらははっきりと冷淡だった。


「思い出? 随分と情緒的ですね。部室の使用には、4名以上の団体である事と、監督する顧問が付いている事が必須だと自治規約で定められています。今月末までのオリエンテーション期間中に園芸部がこれらの条件を満たせなかった場合、規約に則り立ち退きのための措置を粛々と行うよう指示するつもりです。学園創立時からの歴史があろうと、例外扱いにはしませんよ」

「せめて幸村こうむら先生の容態が安定するまで、待ってくれてもいいじゃないか。昨日朝菜あさなとお見舞いに行ったけど、退院したらまた園芸部の顧問をやりたいっておっしゃってるんだよ。君だって幸村先生にお世話になったのに、見舞いにも来ないで……」


 どうやら、あっちも部活絡みらしい。生徒会長も大変だなと思う。

 しかし、口論の内容よりも気になったのは、夕菜と呼ばれている人物のことだった。

 オリエンテーションの時に教室の中にいなかったから、恐らく上級生なのだろう。

 瑠璃の肩越しに顔が見える。短く整えられた栗色の髪に、ヘーゼルの瞳。桜の緋眼もそうだが、こんな目の色をしたヒトは日本にはいないし、恐らくDOLLなのだろうが……。


「自分のことボクって言ってるけど、まさか男子のDOLL?」


 思わず呟くと、いつの間にか僕の手から抜け出していた桜に、脇腹を小突かれる。黙っていろということだろう。

 廊下では、瑠璃が冷淡な口調で、夕菜の訴えを切り捨てにかかっていた。


「私は生徒会長として、万人に対して公正であろうとしているだけです。本校では自主研究活動を行う団体数に対して、慢性的に部室が不足しています。放課後の教室や食堂での不便な活動を余儀なくされている団体が、一体いくつあるか知らないとはおっしゃいませんよね。規約に基づく抽選を辛抱強く待っている彼等に、同じことが言えますか? 『自分達だけ特別扱いしてもらうから、君達は待ってくれ』と。私にはできません。それに、幸村教諭はどの道来年には定年ですよ」


 厳しい言葉を突き付けられ、夕菜がうつむいて黙り込む。

 瑠璃は、不意に口調を緩めて訊ねた。


「ここへはあさに頼まれて来たのですか、夕菜?」

「……違うよ、ボクの独断だ。朝菜に言ったら、反対されるだろうから」


 夕菜が首を横に振る。


「でしょうね。あの子は私を否定し、自分が信じる既成概念の殻に閉じこもってしまいました。残念なことです」


 瑠璃の背後に控えていた黒服の1人が瑠璃に近付き、「お嬢様、次の会合が始まります」と囁く。瑠璃は無言で頷いた。


「園芸部の部室が無くなって研究に困ったら、いつでも私の生物部に来るよう朝菜に伝えて下さい。私のところには学園一の設備と予算、それに優秀な人材が揃っています。DOLLであるなら、己の価値を最大限有効に活かせる場所を選ぶべきでしょう。取るに足らない植物の世話と土いじりをさせておくには、彼女の才能は惜しい」


 最後にそう言い残すと、瑠璃はその場を去っていく。


「瑠璃、一度でいいから朝菜と話し合ってくれないかな。……君達が争い合うのは、ボクにはもう耐えられないよ」


 夕菜がそう呼び止めたが、瑠璃はもう振り返らなかった。

 彼女達の間に、一体何があったのだろうか。残された夕菜の背中を眺めて僕が思いを巡らせていると、隣から忍び笑いが聞こえてきた。


「……今の場面のどこに笑いの要素があったんだ?」


 ついに思考回路が故障したか。真面目に次の燃えないゴミの日はいつだったかなと思いながら、僕は笑っている桜を振り返る。


「ふふふっ……これが笑わずにいられて? 神様は私達をお見捨てにならなかったのよ」

「その私達ってのは、誰と誰のことだ?」


 わかっていても確認せずにはいられないが、桜の耳には入らなかったようだ。


「いいこと実、無理にゼロから部を新設する必要なんて無かったのよ。あんな風に廃部寸前になってる既存の部活を乗っ取ればいい。今なら部室までおまけで付いてくるわ」


 桜の欲深な視線の先では、廊下に立っている夕菜がこちらに気付いたのか、きょとんと首を傾げている。


「園芸部、必ずや我が手中にっ!」


 昔の戦隊ものに出てくる悪の組織の中ボスみたいな台詞を吐くと、桜は足を一歩前に踏み出したのだった。

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