POISON&FOREST ―神なきDOLLの探偵団―
如月真弘
プロローグ
あの朝、テレビは何も知らせてくれなかった。
2022年、冬。
福岡県
日曜日の朝。
姉がとんとんと包丁でまな板をたたく音を聞きながら、僕は寝ぼけ眼で食卓に突っ伏している。台所の壁にかかったテレビは、民放のバラエティー番組を流している。
〈今日のぉ『博多☆グルメ天国!』ではぁ、ここ中州で今が旬! 天然ふぐ料理のぉ超高級老舗店を紹介しちゃいまぁす! まずはぁこちらのお店ぇ!〉
無意識にテレビを見やると、ネジの緩んだ喋り方をするリポーターの女が、「突撃!」マーク入りのマイクを振り回しながら、どこかの高そうな店の敷居をまたいでいる。
〈うわぁ~、すごぉい老舗ってフインキですね~?〉
「ふぐ? 中州といえば屋台があるのにねえ」
コンロの上で煮立つ手前の味噌汁に刻んだネギを落としながら、姉が訝しげに呟く。
「屋台って、おでんかラーメンばっかじゃん……」
眠くて半分興味の無い僕は、あくび混じりに反論する。昨日も9時まで塾だった。
「もう。
「中学生の姉ちゃんに子ども扱いされたくないよ……」
屋台というと、仕事帰りの大人が熱燗をやっているイメージしか湧かない。まだ小学生の僕に良さを力説されても困る。
テレビでは、皿の模様が透けて見えるほど薄切りにされ
「ふぐ刺しか。そういえば一度だけ食べたことあるな……」
この街に越してきたばかりの頃、両親に連れられ家族四人で博多のふぐ料理屋に行った時のことを僕は思い出していた。今テレビに映っているような高級老舗店でもないし恐らくは天然でもない、量で勝負のチェーン店だったが、家族で囲んで食べたふぐは美味しかった。僕がふぐ刺しを欲張って食べ過ぎるから、他の三人の分が無くなってしまわないように、姉がふぐ皮の湯引きと薬味で皿の上に「国境線」なるものを作っていたっけ。
あれから、ふぐ料理はおろか家族で外食をした記憶がほとんど無いのは、家計が苦しいわけではなく、両親の都合がつく日が無いからだ。
〈うまかー! こげんうまかもん食べたことなかー!〉
ゲストの中年男性タレントが「てっさ」を一切れ口に入れ、女子リポーターに感想を促されて、ご当地弁で感激してみせている。夫婦ともに研究者である両親の転勤に伴ってあちこちを転々とするのには慣れたが、地方ごとの方言というのは、いまいち馴染めない。一応基本は日本語だから聞き取れはするのだが、自分で操ることは多分今後もできないだろう。どこの学校でも余所者扱いだ。
「うーん、ふぐ刺しも美味しいけど、お姉ちゃんが思うにふぐコースの醍醐味はてっちりかな。それで最後にそのお汁で雑炊を作って、残ったポン酢をかけて食べるのが最高かな」
僕の呟きに反応したのか、姉が持論を展開する。
「姉ちゃんは最後に雑炊さえできれば何鍋でもいいんだろ……」
後、ポン酢をかけて食べるのは邪道だと思うぞ。雑炊は塩だろ? 心の中で僕の持論を付け足すが、面倒なので口には出さない。
最近わかったことだが、姉はいわゆる鍋奉行である。我が家の夕食は冬になるとほとんど毎日が鍋だ。この前は水炊きだった。確かに鶏がらのスープが染み込んだ雑炊は美味い。
「ふふっ、雑炊は正義♪ さあ、朝ごはんできたわよ」
朝食はさすがに鍋ではなかった。塩鮭、大根のぬか漬けとほうれん草のおひたし、焼き海苔、ご飯と味噌汁。
「実君、ちゃんといただきますっていわないと駄目よ?」
「へいへい……」
姉が作ってくれた朝食を食べる。食後、二人揃って家を出る。
電源を落とすまで、テレビはリポーターと芸人のグルメ探訪を流し続けていた。
空は青く澄みきって、細い雲が天頂を漂っていた。風も心なしかやわらかだ。
じきに桜が咲いて、鍋の季節も終わるだろう。
春日駅への途中、コンビニのある交差点の前で、僕と姉は別れた。
僕は一駅先の学習塾へ。姉は近所の春日公園へラクロスの練習に。
「それじゃあ実君、勉強頑張ってね!」
点滅しかけた横断歩道を駆けながら、姉が振り返って僕に手を振る。
姉の肩にかかったラクロスのスティック入れのバッグが揺れる。予報では今日は大陸からの風が吹かない日だから、屋外でスポーツもできるし、僕もマスクをしていない。
「姉ちゃんも怪我しないように気をつけろよ~」
そういえば姉は、前の学校でも女子ラクロス部に所属していて、家にも部活の友達がよく遊びに来ていた。今度の学校でも、やはりラクロス部に入っている。僕にも何か他人と共有できる趣味や特技があれば、方言が喋れなくても新しい学校に馴染めるのだろうか。姉のように。
姉に手を振り返しながら、そんなことを思った。
姉を見送って、改めて駅を目指す。一直線で近いように見えて、結構遠い。
日曜日の朝の街は静かだった。まれに車の走る音、二本で千円の物干しざおを売る住宅街では聞き慣れたアナウンス。
いや。
不意に僕は、それに気付いた。
何かおかしい。
何かが混じって、このいつも通りの日曜日の朝に違和感を加えている。
硬い表面を何かが滑り落ちてくるような、聞いたことのない音が彼方から響き、やがて幻聴でないとわかるほど大きくなって、ふっつりと途切れた次の瞬間。
空気に衝撃が走り、凄まじい爆発音が轟いた。
僕は地面に叩き付けられていた。
目蓋を開けると、目の前の、一階にコンビニの入ったマンションが、途中で無残に吹き飛んでいた。建材が崩れて鉄骨がむき出しになり、破砕口から紅蓮の劫火と共に真っ黒な煙が噴き上がる。
通行人達は最初凍り付き、やがて悲鳴を上げた。
混乱の中、転んだ時の常で、僕は眼鏡が無事か咄嗟に確認しようと顔に手をやった。
僕は近眼で、今は視界が鮮明なのだから冷静に考えれば眼鏡はかかっているとわかったはずだったが、とにかくそうした。
耳にかかった眼鏡のつるを触った時、どろっとした何かが指についた。
指を見る。赤く濡れている。血だ。
飛んできた破片で、頭のどこかを切ったらしい。
まだ痛みを感じないから、どの程度の傷かわからない。
さっきまでコンビニだった場所は、煮え滾り火の粉を散らす地獄の竈になっていた。
中から逃げ遅れた従業員や客の悲叫び声が上がり続け、やがてごうごうと燃える音がそれをかき消す。辺りに煤煙が広がり、僕は逃げるため立ち上がろうとする。
足が動かず立ち上がれない。
足は怪我をしていないはずなのに、動かない。
それが恐怖で足がすくむという現象だということさえ、僕は動揺してわからなかった。
再び遠くから音がした。
上空にすうっと白い筋が走るのが見えたかと思うと、今度は、僕がこれから電車に乗ろうと向かっていた春日駅の駅舎が爆発するのが見えた。地面のアスファルトが割れるのではないかと思うほどの震動が迫る。
不意に誰かに掴まれたかと思うと身体がふわりと宙に浮き、僕の視界はグレーに染まる。
「しっかり掴まってろ、少年!」
そんな声が聞こえた気がした。
灰色の覆いが消え、視界が戻る。
僕がさっきまで座り込んでいた地面に倒壊したマンションの瓦礫が崩れ落ちるのが一瞬だけ見え、それらが暴力的な速さで遠ざかっていく。北九州のスペースワールドで乗ったジェットコースターの感覚を僕は思い出した。
「少年、名前は何という? 歳は?」
さっきの声が、再び呼びかけてきた。ハスキーな女性の声だった。
「
反射的に答えてから、僕は我に返った。
暴力的な加速は止んでいた。代わりに視界いっぱいに、航空写真で見るのと同じ俯瞰した街が広がっていた。
重力の法則で眼鏡がずり落ちそうになり、自由な左手で慌てて抑える。
僕は、空を飛んでいた。
「……うわあああああっ!」
「こらこら、暴れるな少年」
思わず取り乱した僕の身体がぎゅっと強く締め付けられる。息苦しかったが、この圧迫感が無くなった瞬間に自分が落下すると思うと逆に息苦しさが救いに感じられた。
「こちらXP-N-001、負傷した民間人一名を保護。10歳男性、頭部から出血、意識レベルはイエロー。トリアージはカテゴリーⅡと認む、収容可能な施設を回答されたし」
独り言かと思ったが、どこかと通信をしているようだ。
僕は、勇気を出して顔の向きを変え、彼女を初めて覗き見る。
長く艶やかな黒髪を風になびかせ、瞳は幾つもの異なる光彩を宿してきらきらと輝いている。綺麗だが、どこか人間離れした女性の横顔だった。
そして、彼女の横顔の向こうには、信じられないことに翼が拡げられていた。
背中から生えた翼は、一枚一枚の羽根からできていて鳥のそれに似ているが、飛行機並みに大きくて、陽光を反射して銀灰色に輝いている。彼女が僕を助けてくれて、そして僕を抱えて飛んでいるのだ。空を。
同時に、僕を抱える腕の下で、ヒトの関節ではなく、確かに機械のようなものが蠢く感触に気付く。
「ヒューマノイドロボット?」
思わず口に出してしまいながら、前に関東のつくば特区に住んでいた頃、校外学習で行った工場のロボット製造過程を思い出す。セラミックのフレームを樹脂とカーボン製の皮膚で覆って人体を模し、無数のアクチュエーターでヒトとそっくりの細やかな挙動ができる機械。もっとも、つくばの工場で作っていたヒューマノイドロボットに、翼があって空を飛べるものなど無かったが。
「ふっ、惜しいな少年。あの類と私とでは器は似ているが、中身が違う。私はDOLL。個性と感情をもった、より先進的な人型機械さ」
DOLL? 聞いたことがない。今のご時世、ヒューマノイドロボットに限らず車のカーナビから炊飯器まで、音声で会話できる家電製品は珍しくない。だが、彼女の紡ぐ会話はとても流暢で、プログラムではない生の感情がそこにはあった。
「何? 自衛隊福岡病院も連絡不通? 対策本部の設置、警報伝達、要避難地域の指定と避難指示、全て未着手……関係機関への協力要請も含めて県知事からの発令通知待ちの状態だって? 市内に重要防護対象が2箇所もあるのに、ここの国民保護計画はどうなってるんだ……ああ、市役所が真っ先にやられたのか。どうして基地の真横に建てるかな」
DOLLと名乗った彼女が低い声で呟いている間にも、空を白い筋が何本も走り、下界に落ちては大きな爆発が起きていた。
遠くの方で大きな煙を上げている場所に気付いて、僕は息を呑んだ。僕が通う塾のあるJR西福岡駅と駅前の街が、立て続けに爆発して炎と煙に包まれている。
「あれは第4師団の駐屯地を狙ってるつもりか? 酷い……半分以上市街地に着弾してるじゃないか。誤爆ってレベルじゃないな」
「あの、一体何が起きてるんですか! テロとか?」
混乱する僕は、事情を知っていそうな彼女に尋ねる。
「テロより性質が悪い。いわゆる武力攻撃事態だ」
「ぶりょくこうげきじたい?」
「そう。この国は外国から武力攻撃を受けている」
「せ、戦争ってことですか? でも、そんなことテレビでは何も」
僕がそう口走ると、彼女は少し驚いた顔をした。
「テレビ? 少年、君はネットとかは見ないのか?」
僕は首を振った。携帯は通話機能のみだ。パソコンは中学に上がったら買ってもらえることになっている。
「じゃあ、ひょっとして何も知らないのか? 海保の巡視船が沈められたことも、東京のデモも、
彼女の言葉が、頭に入らなかった。耳には入ったが、理解することを脳が拒絶した。
彼女が言っているのは、どこか別の世界の話だ。そうでなければおかしい。
少なくとも、僕が生きている世界……下らない民放のバラエティー番組に呆れて、偏差値の高い中学に受かるために予習復習をして、塾へ通って、帰りにコンビニで漫画を立ち読みする、そういう僕の世界の話であるはずがない。
これは夢だ。
きっとじきに目が覚める。だって、ついさっきまで、僕は普通の世界にいたんだから。
真下から、ひと際大きな爆発音が響く。僕の家の、通りを挟んで真向かいにある建物が直撃を受けていた。
「どうして、こんな」
僕はかすれ声で呟いた。
「どうして? どうしてこの街がピンポイントで狙われているかという質問なら、それは開戦と同時に敵の頭を潰すのは、戦術の基本中の基本だからさ。南西日本の防空の要だった空自の西空SOCは、今私達の足元で炎上している。これで各飛行隊は横田からの指示待ちで致命的な初動の遅れが生じる。悔しいが、制空権は完全に奪われてしまった」
彼女の言葉も彼女の悔しさも、僕には何一つ理解できなかった。足元で燃えているという「西空SOC」が何なのかも知らなかった。
だが、思い出したことがあった。僕の家の真向かい、あれは航空自衛隊の基地だ。引越しの時に誰かがそう言っていたのを覚えている。基地といっても、かっこいい戦闘機を飛ばす飛行場があるわけでもなく、灰色の塀の向こうに事務所のようなビルとアンテナがあるだけの地味でつまらない施設だ。誰かに言われなければ住んでいても気付かないような。
そして、姉がラクロスの練習をしている春日公園は、その航空自衛隊の基地に隣接している。
「姉ちゃん!」
公園は見る影もなかった。テニスコートや野球場は、何箇所も大きく抉れて煙を上げている。樹木は途中から折れたり根元から抜けて、巨人が草むしりをしていったみたいに無造作に散らばっている。
「お姉さんがいるのか?」
「姉がラクロスの練習であの公園に行ってるんです! お願いします、姉を助けて下さい!」
一度だけ、姉の忘れ物を届けに行ったことがある。
姉が部活の仲間と借りて練習していた球技場と、休憩所。目で懸命に探す。
「……駄目だ、見るなっ!」
先に何かに気付いたDOLLが、鋭い声で制止する。
それでも、僕は見つけてしまった。
姉がラクロスの練習をしていた、球技場を。
球技場には、月面のようなクレーターができていた。
休憩所はなぎ倒されていた。
そして、ヒトが散らばっていた。
僕は叫んだ。
言葉にならない叫びだった。
最初に飛び立った時と同じ、灰色の羽根が僕の視界を優しく覆い隠しても、僕は叫び続けて、そして気を失った。
死者47,837人、行方不明者66,327人を出した
今から5年前の出来事だ。
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