STEP
†
時は流れて――入学式当日の朝。
制服は学ランだ。俺自身学ランの方が好きなのでちょうどいい。
着替えてから妹達の弁当を作る。俺は入学式と少しの学校説明だけで午前で終わるので弁当はいらない。
料理は普段からしていたから困難ではないが、弁当はなかなか作るのが難しかった。
「おはよーお兄ちゃん」
純花が先に起きてきた。
「おはよう。やっぱお前はしっかりさんだな」
純花は制服をきちんと着こなし、長い髪はポニーテールでまとめている。
「へへーどんなもんだい。今日からお兄ちゃんも高校生だね。少し大人っぽく見えるよ」
「お前も大人びているよ。それよかこの弁当どんな? 量少ないか?」
「ううん、これくらいでいいよ。やっぱりお兄ちゃん器用だねー。昔からお菓子作ってくれたりしたもんね」
「けどこんなこと毎日やってたんだから、母はすごいよ。それで、優希は?」
「優ちゃんまだ寝てるかも……」
「あいつ朝弱いもんな。まあまだ余裕あるから、もう少し寝かせてやってもいいか」
純花は目覚めがいいが、優希は朝が苦手だ。
先に純花に朝食をとらせることにした。
「ご飯とパンどっちがいい?」
「ごはんとお味噌汁で!」
「あいよ。玉子焼きと鮭もな」
「いただきます……うん、おいしい。そういえばお母さん今日だけこっちに戻ってくるんだよね?」
「もう少ししたら家に寄るって言ってたな。終わったらすぐに親父の方に戻るって」
「そうなんだ」
「ちょっと優希起こしてくる」
「まだほっといた方がいいんじゃない? 優ちゃん寝相悪いし」
「起こす練習だ。いざってときに起こせないと大変だからな」
純花には音楽の才能が、優希にはサッカーの才能があり、二人とも部活に入っている。幼い頃からやっていたこともあり、見事に才能が開花したのだ。
「ねえ、お兄ちゃん……お兄ちゃんは本当に陸上やめちゃうの?」
「やめるよ。それが?」
「それがじゃないよ。お兄ちゃんずっとがんばってたじゃない!」
純花は確かめるように、強く訊いてきた。
「お前が気にすることじゃないんだよ。いいからとっとと食べろ。ゆっくり噛んでな」
それだけ言い残して優希の部屋へ行く。
†
親父が護身術だの柔道だの合気道だの、挙げればキリがないが、それらを優希は教えてもらっていた。
サッカーは遊びでやって、途中から火がついたらしい。
純花は親父とは傾向が合わなかったのか、母から親父とは違うことを教わっていた。その中の一つが音楽だ。
俺はといえば、親父と母の影響を半分半分ずつ。第一子であったこともあり、二人の領域を叩き込まれたが、その中で輝いたのは走ることと料理ぐらいだった。
適度に運動はできる、適度に音楽もできる、といったように器用貧乏な面が強くなった。どれもこれも並のレベル。突出したものは、走ることと料理だけだ。
そのことを考えれば一分野に秀でた純花や優希の方がすごいと思う。誰にも追い付けない所にいるのだから。
だから俺は二人をサポートしたい。陸上をやめられたのも、その想いがあったからだと思う。
優希は寝ているだろうが、一応ノック。反応がないので入ってみると、幸せそうな顔で寝息を立てていた。布団はベッドから落ち、腹も出している。
「おい優希、起きろ」
体を揺すろうとすると、腕を掴まれてそのまま寝技に持ってかれた。腕が固められた。次に足が顔面にとんできた。頬に痛烈な一撃が入り、俺は思わず手を引いた拍子に転んでしまい、腰を強く打った。
「んあ……」
優希が目を覚ました。
「あんれ、アニキ何やってんだよ……ふあ」
のんびりと欠伸している。
「おはよう。とりあえず起きて準備しような」
「はーい……おやすみ」
「こらこら寝るんじゃない」
俺は優希を抱えて、洗面台まで持っていった。こいつは筋肉もあるせいか、少し重い。
その騒がしさもあって、純花が俺たちの様子を見にきた。
「だからほっといた方がいいっていったのに」
蹴られて赤くなった俺の頬をみて純花がいった。
母はいつもこんな暴れ馬をどうやって起こしていたのだろう。
入学式前。
「――ふみき!」
「ん……って、おあ!?」
背中に柔らかな衝撃。誰かが飛んできた。
俺は恥ずかしい声を漏らしてから、後ろに取りついている何かを剥がした。
「おい、さやか!」
「はえ?」
とぼけてさやかは俺から飛び降りると、したり顔で笑った。
「お前、こんな日でも元気だな……」
「ふふー、びっくりしたでしょ?」
「心臓に悪いわ」
俺はそこで改めて制服のさやかを見る。新しい制服に身を包んでいる。
「どうしたの?」
「いや、変わるもんだなって」
「ふふー、さやかさんは少しばかり大人になってますよ」
「それで、さっきのあれかよ」
「む、嬉しくなかった?」
「恥ずかしいんだよ……ったく。大人になったんなら自重してくれ」
「ふふー、ドキドキしてくれたのならそれなりかな」
「何を言ってるんだか……そういや、お前髪伸びたか?」
「うん、髪長い方が女性らしくなるっていうじゃん? それでね、ちょっと伸ばしてるところ」
なぜそこで顔を赤くする。
「っていうか前からこうしてたのに気づかなかった?」
今度は不満げに見上げてきた。表情が忙しいやつだ。
「受験で必死だったんだよ……お前らみたいに賢くなかったからな」
「しょうがないけどなんかショック」
「あーはい、かわいいかわいい」
「適当すぎ」
「別にいいだろ。お前とはまた同じクラスな気がするし。そうなりゃお前の髪の成長過程なんか嫌でも見る」
「見たいんだ、ふみき~?」
さやかは意地悪な顔をして俺にくっついてくる。
「じゃあ見てやるよ」
さやかの髪に触れる。少しばかり癖があるので、さらさらというわけでもないが、綺麗な髪だった。
「ふみき、それセクハラ!」
さやかが脱兎の勢いで離れた。
「お前が煽ったんだろ」
「まさか本気でしてくるなんて思わなかったから……ちょっとドキドキしちゃった」
「まあいいや、早く行こうぜ」
「ふう、そうだね、行こっか」
俺とさやか、二人で向かう。
何の確信もないが、俺とさやかは同じクラスになると思う。
何の心配もなくやっぱり俺とさやかは同じクラスだった。
†
教員からの軽い説明を終えて解散。
「さ」から飛んで「せ」に行ったことで「斉藤ふみき」から「仙道さやか」の席順となり、さやかは俺の後ろだった。
「お前が後ろかよ……」
「何が不満なのよう?」
「こんなんならめいちゃんのが何倍もよかった」
「あ、ふみきめいちゃんにホの字なんだ?」
「違う。どうせお前のことだ。俺になんかちょっかい出してくんだろ? めいちゃんはそんなことしないからな」
「そんなことするわけあるじゃない」
「ほらな。……それよかさっきの自己紹介なんだったんだよ」
「まあふみきの顔ならしょうがないよ。私も出会ったときは怖かったもん」
「……」
先ほどクラスで自己紹介したわけだが、俺の顔を凝視する人が多くて、辛かった。
俺の次に自己紹介したさやかは持ち前の明るさと美貌で俺のとは違う視線を集めていた。
「それで、午後からどうする? どこか遊び行く? みんなで」
午後ならまだ晩飯まで時間がある。
「まあ、どっか行くか。寄り道も多分高校の醍醐味だろうからな」
「そうこなくっちゃ! それじゃ奈々ちゃんとめいちゃんに連絡する」
「じゃあ俺は司と勝にだな」
数秒後――
「二人ともいいって」
「こっちもだ、校門前に集合でよかったよな?」
「うん、それでおっけ。ふふー」
さやかが笑っている。
「……なんだよ?」
「私ふみきと同じクラスでけっこう嬉しかったんだけど、ふみきはそうじゃない?」
「嬉しいに決まってるだろ」
「え?」
さやかは意外だったらしい。
「俺のことを理解してくれてるお前がいるから、安心してるよ。お前がいなかったら初日から鬱々していた」
俺は真面目に言った。大事なことだからな。
さやかは少しぼーっとしていた。
「さやか?」
「へ、へー、そーなんだ。それじゃふみきは私に感謝しなきゃだね?」
「なんだよ……何を要求するつもりだ?」
「ふみきの作ったクッキーちょうだい」
「あれなあ……最近作ってなかったな」
「私にとってはいい思い出のクッキーだからね。大好きなんだ、あれ」
「わかった、今度作ってくる」
「ふふー、よろしく! それじゃ行こ!」
さやかは元気よく俺の手を取って、歩き出した。
「お、おい、恥ずかしいだろ、はなせ」
「ふみきにもちゃんと友達がいるってこと、みんなに教えてあげなきゃ」
「流石にそれは傷つくわ……」
「ごめんごめん、でもいいじゃん? 私とふみきは今までクラスも一緒、委員会も一緒、級長も一緒。ふみきとは一緒づくしだもんね」
「それが?」
「私は恥ずかしくないから」
「まあな、言われてみれば俺の中学生活は俺とお前がセットみたいな扱いだったもんな」
「そうそう、夫婦とか言われてさ。でもみんな酷くない? ふみきの方がいい嫁になるとか言っちゃって。女の子の面目丸潰れだよ」
「今まさに俺の手を引いて歩いてるお前は、嫁の手を引く旦那って感じで、逞しく見えるんだろうな」
「……ふみきのそういうとこなんとかならない? けっこうショックなんだけど」
さやかは渋い顔をする。
「気にすんなよ、冗談だろ? さっきからお前に見惚れてるやつは何人かいたぞ?」
「え、ほんと?」
「ああ」
さやかはかわいいからな。
「ふふー、そっか。ならいいや」
「果たして俺が何人の男の恨みを買うのか」
「存分に買っちゃってくれてもいいよ」
「そういう尊大な態度は同性の恨みを買うぞ?」
「何かあったら守ってくれるんでしょ?」
「あたりまえだ。俺とお前は相棒みたいなもんだからな」
「相棒、ねえ……」
さやかはその言葉に納得したようで、してないような曖昧な声音だ。
「いいえて妙だろ? もしお前が級長になったら、俺はお前の補助に回るよ」
「ふふー、その言葉忘れないでよね?」
「ああ」
「ふみきのこと、信じてるから」
そんなことを言われては裏切れるわけないだろ。
最初から裏切るつもりはないけれど。
逆に、お前が俺から離れていくことの方が怖いよ。
†
校門の前で待ち合わせ。
俺たちが行くと既に集まっていた。
「ふみき、仙道さん、お疲れさま」
少女のような顔つきの星司(ほし つかさ)。背も低い方で、髪も肩にかかるくらいある。彼は女子に人気で、一部の男子にも人気だ。女装したらかわいかったことを覚えてる。
「噂の夫婦のご登場だな」
背が高く、俺ほどではないが厳つい顔つきの佐藤勝(さとう まさる)。髪は短めにしてあり、スポーツ推薦でこの学校に入った。学力はアレだが、多趣味で何かと頼れる男だ。
「様になるわね。まあ……斉藤くんがさやかの嫁って扱いだった気がするけど」
羽柴奈々(はしば なな)。俺は奈々さんと呼んでいる。女子にしては背が高く、細身である彼女はさやかとは別の意味で男女から人気がある。いつも長い髪を一つに纏めている。あと少し小言が多いけど、俺たちのストッパーを担当する苦労人でもある。
「ふたりは、一緒の、クラス、だったんだね」
確かめるように話す桜めい(さくら めい)。俺がさっき、いたずらするさやかよりも安心するといった少女だ。引っ込み思案であまり話す方ではないが、とても健気で気遣いができる、本当はとても優しい女の子だ。
「ふふー、これで私とふみきは通算4回目のクラスメイトなのだ、ぶい!」
さやかはVサインを作った。
「災難ね、斉藤くん」
奈々さんはからかうように言った。
「なによう、奈々ちゃん。あ、もしかして私とふみきが一緒だから拗ねてるの? あれ、でもそれだとどっちに嫉妬してることになるんだろ?」
「相手にしなくていいぞ、奈々さん」
「ええ、この子も少しは成長したと思ったのだけどね」
「ふふ、さやかちゃん、変わらないね」
めいちゃんは上品に笑う。この子は普段オドオドしてる分、こうやって笑うと本当にかわいいんだよなあ。
「でも僕らはバラバラなのに、ふみきと仙道さんだけ一緒ってのは羨ましいかな」
「全くだぜ。宿題写せなくなっちまうからなあ」
「お前はスポーツ推薦なんだから、どうあっても俺たちとは別のクラスだろうよ」
「それでも勉強しなきゃいけないんだろ? まあ、最低限のことはやらあな」
勝は発言自体はときどき適当みたいだが、手を抜くことはない。真面目だ。
「でも私たち6人が同じところに入学するなんて思いもしなかったねー」
「その点、勝以外のみんなには感謝しなきゃな」
「ああ、ふみきは一番大変だったからね。僕らは君が受かってるか本当に心配だったよ」
「司は俺の先生みたいだったもんな……ん?」
さやかは私は?と自分を指差している。
「お前にも世話になったけど、科目によって教え方が雑だったな」
「ふふー、さやかさんはフィーリングでいけちゃうので」
「奈々さんとめいちゃんのはわかりやすかったな」
「なんであれ、受かってよかったじゃない」
「そもそもお前も陸上で推薦もらえたのになんで一般で受けたんだ?」
「それは、まあ、ちょっとな」
本心を言えば、スポーツ推薦で入学したら時間が厳しくなるからだ。零ちゃんと接する時間が減るのは嫌だったのだ。
「けど俺は部活はやらないから、ちゃんと勉強に専念できる」
「「「「「え……?」」」」」
5人が一気に俺を見る。俺は思わずたじろいで、言葉を一瞬失った。
「な、なんだよ。俺が勉強するっていったらなんかおかしいのかよ?」
「違うよ! ふみき陸上やめちゃうの!?」
さやかが真面目に問い詰める。俺は静かに頷く。
「別にいいだろ? 両親が家にいない状態になるから俺がその代わりをするんだ」
普段から飄々としている勝も真面目モードで、
「それで、本当にやめられるのか?」
「そうだよ、ふみきは陸上は本気でやっていたじゃないか」
「斉藤くん。あまり外野が口を出すことではないかもしれないけど……信じたくないわ」
「ふみきくん、がんばってた、のに。なんだか、寂しい」
みんな俺が陸上をやめることにそこまで考えてくれるのかと嬉しくなった反面、ばつの悪さも感じた。
みんなが納得していないことは目を見れば明らかで、俺の問題に俺以上に悩んでいるのだ。
「みんながこんなことに悩む必要なんかないって。本当にもう陸上はいいからさ」
その言葉にやはり納得はできないらしく、俺は、
「とっとと遊びに行こう。俺は夕方くらいまでだからさ」
みんなに背を向けて歩き出した。
後ろに続く音が段々と増えて、誰もその話題から離れようとしたのは、めいちゃんの一言だった。
「……お腹、空いたね」
そういえばもう昼だった。
†
さやかたちと夕方まで遊んだ後に自宅に帰る。
一度家に帰ってから、夕飯の買い物に出かける。
「――ふみき」
「零ちゃん、どうしたんだ?」
零ちゃんは制服のままだった。
「別に何てことはないけど……ほら、せっかくの入学式なのに、話できなかったから」
「ああ、それでわざわざ来てくれたのか……」
零ちゃんは俺に近づいて、採点するかのように、俺を、下から上へと目線を走らせた。
「制服は中学とあまり変わらないのに、……やっぱり高校生っぽくなってる」
「そうか? 俺はそこまででもないけど」
「ううん、変わるのよ多分。男子三日会わざれば刮目して見よ、なんてあまり信じてはいなかったけどね」
俺はそれが嬉しかった。零ちゃんに近づいているとわかったからだ。
「ところで、おでかけ?」
「ああ、夕飯の材料買いに行こうと思って」
「お母さまは今日はいらっしゃらないの?」
「今日っていうか、親父の単身赴任についていってるからいないんだ。入学式には来たけど、すぐに帰った」
「そうなの、大変ね」
「別にいいよ、これくらい」
「ね、私も一緒に行っていいかしら?」
「いいよ。でもあんまりおもしろくないぞ」
「構わないわ、一人で行くよりはよっぽどおもしろいと思うわ」
「手伝った代わりになんかしろとか言わないよな?」
「あら、何をしてくれるのかしら?」
「……墓穴を掘ってしまったか」
「まだまだね、ふみき?」
綺麗な指で俺の頬をつんつんしてニヤニヤする零ちゃんはそれはそれは楽しそうだった。
彼女のこの接し方がどうも俺を未だに弟扱いしているように感じる。
「それより、行くぞ。純花たちが帰ってくる前に夕飯作らなきゃいけないからな」
「ええ、行きましょう」
共に肩を並べて道を行く。
誰よりも近くにいたはずなのに、距離はいつまで経っても変わらない。その焦りには気付かないフリをした。
†
買い物の途中、零ちゃんは俺に言った。
「あなた、部活はどうするの?」
「やらない」
「やらないって……陸上はどうするのよ?」
俺が何の気なしに返すものだから零ちゃんは何かを不安に思ったのか、咎めるように俺に問う。
「別にいいんだ。純花や優希は俺よりもすごいからさ」
「そうじゃないわよ。あなたはそれで後悔しないの? 簡単に捨てられるの?」
「……俺は兄だ。親父や母がいない以上、純花や優希のことを優先するのは当たり前だ。そして、俺はそれを望んでやってる」
「……」
零ちゃんはそれを言うと何も言えずにいた。
俺は笑いながら言った。
「だからさ、いいんだよ」
「……わかったわ。もう、何も言わないわ」
「ありがとう、零ちゃんは優しいな。だから俺は零ちゃんが好きなんだよ」
「誉めても何も出ませんー」
「うん。いちいち口に出さなくても昔からわかってるよ。俺は零ちゃんばかり見てたからな」
俺の口からすらすらとそんな言葉が出てきた。
「……そ」
零ちゃんは素っ気ない反応で、顔を逸らした。
俺は自分の言葉に顔を赤くする結果となった。
やらかした。変に思わせ振りなことを言ってしまった。
少ししたら零ちゃんも元に戻ったので、俺も安心して買い物に専念できた。
実際、友達がいなくて零ちゃんぐらいしか話す人がいなかったもので、嘘はついてない。ついてはいないのだけど……。
こんなことで零ちゃんに誤解を与えてしまうのは都合が悪い。
もう少し考えて発言しよう。
†
夕食は零ちゃんに手伝ってもらったこともあってスムーズに進んだ。
別れ際、玄関で零ちゃんは振り向いて言った。
「もしだけどね、……私がお裾分けとして晩御飯を毎日持っていくって言ったら?」
「ありがとう、気持ちだけもらっておくよ。毎日そんなことしてもらうわけにはいかないだろ?」
「でも……」
「どうして俺のことなのに俺以上に悩むのさ」
俺は苦笑する。
零ちゃんは不満そうに、
「あなたが、強がってるように見えるからよ」
「……そうか。零ちゃんには俺がそう見えるのか」
「あなたは昔から本当に言いたいことを言わないような人だったじゃない。だから心配してるの。おわかり?」
じと、と見つめられて俺は難しい顔をした。
「それとも、こんなことを言う私はあなたにとっては迷惑なのかしら? ええ、すみませんね、口うるさくて」
零ちゃんはツンとした、少し怒ったような態度だ。
「迷惑じゃないよ。なんだってそんなことを言うんだよ」
「あなたがハッキリしないからでしょう」
「だから陸上のことはもういいって言っただろ」
俺も零ちゃんもイライラし始めている。
これはマズイと思いつつも俺は言葉を止められない。
「だいたいなんだ。いつまでも弟扱いしてんだ。あんたから見たら俺はそこまでガキなのかよ」
「あんた、って何よその言い方。その態度が子供じゃなくて何だと言うの?」
「うるさいよ。陸上はやめたって言ってるだろ! 零ちゃんには関係ないだろ! なんなんだよ、どいつもこいつも!」
俺は感情に任せ言い放った。
「……関係、ない?」
零ちゃんが俯く。彼女は怒ったのだろう。次に来るのは怒声だろうか。
「……帰る」
そう呟いた後に、振り返らずに零ちゃんは言った。
「私はね……、全力で、けれど楽しそうに走るあなたの姿が好きなのよ」
「……」
「あなたがいう、どいつもこいつも、っていう人達は、あなたのその姿を知っているから引き止めたいんじゃなくて?」
そして零ちゃんは帰っていく。見送った方がよいのだろうが、余計なことを言った手前それも躊躇われて、結局悩んでる間に零ちゃんの姿は見えなくなった。
†
夕食後、妹たちに正座をさせられた。彼女らは俺の前に立っている。
「あのね、お兄ちゃん、どういうことか説明してもらえるかな?」
純花は穏やかな声だったが目は笑っていない。
「さっき姉ちゃんと会ったとき落ち込んでたんだよ。ウチの方から歩いてきたから、アニキが原因だよな」
優希は正直なので、俺に対しては遠慮がない。
「はい、そうです、私が悪いんです。おしまい」
まさかお前らが間接的な原因になっているなんて言えないので俺は適当に切り上げようとした。
「ストップ。理由を教えて」
「姉ちゃんには世話になってるんだから、変なことしちゃダメじゃん」
「なんだよ、変なことって……。第一お前らには関係……」
そこまで言いかけて、言葉を飲み込みそうになる。それでもこの言葉を言い続けなければならない。
「お前らには関係ない。あんまり他人の問題に口を挟むべきじゃないと思う」
「何言ってんの。アタシら兄妹じゃん」
「そうだよ。それなのに、関係ないなんて言わないでよ」
妹達の真摯な姿勢に俺は口を閉じてしまう。さすが母の子というべきか、物言いはしっかりしている。
「それでも、言いたくないんだ」
俺は目を逸らしてしまった。二人を直視できない。
「まさか、お兄ちゃん。私たちのことじゃ――」
「……黙れ」
俺はどんな声だったんだろう。妹達は黙ってしまった。
二人は耐えるように俺を見つめている。目を逸らした俺と違って、何かを確かめようとしている。
「ごめんな……怒っているわけじゃないんだ。なんとかさ、零ちゃんとは仲直りするから」
「お兄ちゃん……」
「うん、お前たちの言う通りだよ。俺のせいだよ……全部」
妹達は静かに俺の言葉を待っている。けれど俺は大したことも言えなかった。
代わりに二人の頭に手を置いて、
「お前たちに心配かけるなんて、俺は兄失格だな」
なんとか、言葉を捻り出した。
「けど、零ちゃんとのことはなんとかするからさ」
俺は強がって笑った。妹達は不器用に微笑んだ。
俺はこどもなんだろうな。
†
翌朝。
いつもより早く起きて、三人分の朝食と弁当を作って家を出た。早すぎるのだが、妹達と顔を合わせたくなかった。
結局、ちょうどいい時間まで公園で時間を使うことにした。
人気はない……わけではなかった。
最近見かけた銀髪の少女が立っている。
制服で俺と同じ学校であることがわかった。学年はわからないが、最初会ったときから、彼女は俺よりも年上に見えた。
彼女は俺に気づくとにっこりと微笑みながら会釈した。
「おはようございます、ふみきさん。どうしたんです、朝早くに?」
「いや、その、なんていうか……」
好きな人と喧嘩したとか、家族や友達に心配されているとか、この人に言ってもなんの意味もない。
そのせいかパッといい言葉が思い付かなかった。
「俺は、その……気晴らしですよ。ここに来るとなんだか落ち着くから」
「そうなんですか」
「あなたこそなんでこんな時間に?」
「私が引っ越してきたことはお話しましたよね? それでこの街の景色を見たくなったんです」
「だったら別に朝早くじゃなくても」
「今この香りと景色は朝だけのモノだと思うんです。……でも、少し早く起きてしまっただけなのかもしれません」
彼女ははにかんだ。上品さを漂わせる笑みだ。それは素直に素敵だと思えた。
「可憐だなあ……」
口から思わずそんな言葉が出た。
俺の周りにはいないタイプの女子だったので、どうにも見いってしまう。
「せっかくなんで少しお話ししませんか?」
「はい」
二人でベンチに腰かける。俺はあまり感じたことのない珍しい感情に戸惑っていた。
「先程気晴らしにここに来たと仰っていましたが、何かお悩みでも?」
「いや、悩みといえば悩みですけど……大した悩みじゃないし……」
「昔ある人に言われたことがあります。悩みを打ち明けるだけでも気は楽になると。私とあなたはそこまで言い合える関係ではありませんが、話してみませんか?」
「いや、でも……」
「私はあなたにこの髪が綺麗だと言っていただけて、嬉しかったです。どうしてこんなに優しくしてくれるんだろうって」
彼女はそういって微笑んだ。
俺はあのときこの人の悩みを聞いた。その悩みに答えたことが良かったのかはわからない。
けれど、それを喜んでもらえて俺は嬉しかったのかもしれない。
「実は……大切な人と喧嘩したんです。お互いに意見を譲らないから、言い合いになっちゃって」
「どのようなことで言い合いになったのですか?」
そこら辺の事情も含めて彼女に色んなことを吐露した。
彼女は零ちゃんやさやかたちのように咎めたりはしなかった。
俺が言ったこと一つ一つに深く考え込んでいた。
「とても健気で素敵な方なのですね、あなたは」
「どうだろう……。もしかしたら意地っ張りなのかもしれません。でも俺は妹達の為に強がっていたいんです。いや、強がらなければいけないんです」
「その利他的なことこそ、あなたの美徳であると思います。多分、人には自分のことを二の次にしなければならないことが必ずあるのだと思います。だからあなたのように、家族の為にがんばれることは素敵なことだと思います」
「そんな立派なことじゃないんです。俺はただ、妹達が思いきり自分のことに打ち込めるようにと思って」
「いいえ。けれど、私は妹に言われたことがあります。『私の為に頑張るのはいいけど、それでお姉ちゃんが倒れたらこっちかが悲しい』と。私は妹に対して過保護過ぎたようです」
彼女は眉毛を八の字にして笑った。苦い想い出なのだろうか。
「こちらが一方的に想いを届けるだけではいけない。それは度を越せば自らのエゴになってしまう。そういうことなのではないでしょうか」
「それなら俺のやってきたことは一体……」
俺はエゴで、自分が満足するために零ちゃんや家族に意地をはっていたのか?
「――それが悪いなんて一言も言ってませんよ?」
「え……?」
彼女は俺を柔らかな瞳で見つめている。どこか慈愛を感じさせる。
いつの間にか距離も近くなっていた。
「例えそれが自己満足だとしても、あなたが自分を犠牲にできるのは純粋に家族を愛しているからでしょう?」
家族は大切だ。だからこそ俺は彼女の言う通り、自分を犠牲にした。
「大丈夫、あなたは間違っていません。私はそう信じています。だからふみきさんも無理をするあなた自身を信じてみましょう」
彼女は大輪の花のように美しくも儚い笑みを見せている。
俺はその笑顔につられて、一緒に笑っていた。
「ふみきさん、少し無理をしましょう。……あなたが出来る限りの無理を」
「俺はどのくらい無理をしてるんだろう?」
自分では平気なつもりだ。
「言葉にするのは憚られますが、おそらく身の丈以上に無理をなさっていると思います」
「やっぱりそうなのかな……」
「こんなにも自分達を想ってくれるお兄さんが苦しんでいる姿を見てしまえば、きっと妹さんたちは悲しんでしまいますね。だから、今はあなたが望むように、少しだけ無理をしましょう」
否定され続けてきた俺には頼りになる言葉だった。
後押しされるなんて思わなかった。
「ただ、辛くなったらいつでも言ってください。話を聞くだけになるかもしれませんけれども」
「ありがとうございます……助かりました」
「いいえ。ところどころ至らぬところがあって、すみませんでした」
「とんでもない。俺はバカだから……多分みんなわかっているんだ。俺が無理してるって。そんな中でこうやって励ましてもらえて、俺すごく嬉しかったです」
彼女は微笑んでくれた。自分のことのようにあれこれ考えてくれるこの人は本当に素敵だ。
「どういたしまして。さて、そろそろ学校に行きましょう。同じ学校ですよね?」
彼女は俺の襟に付いてる校章を見て判断したらしい。
「ええ、時間的にはちょうどいいですしね」
俺に続いて腰を上げた彼女は三歩歩いて、
「あっ……」
躓いた。
俺は直ぐに手を引いて自分の方へ引き寄せた。彼女は俺の腕のなかにおさまった。
「大丈夫、ですか?」
「ええ。ただ、その、手を離していただけると……」
「ん?」
俺は彼女の手を握りっぱなしだったのだ。その滑らかな肌とほっそりと整った指は女性らしさを見事に表していた。
「あ、すみません」
俺は手を体ごと離した。
彼女は少し顔を赤くして、言った。
「申し訳ありません。実は私は男の方と全く触れ合ったことがなくて。だから、と言いますか、思いの外男の方は固いのですね」
恥ずかしそうにちらちらとこちらを一瞥する様が小動物チックで可愛らしい。
この人が色んな意味で綺麗なんだなと思った俺は最低なんだろうな。
けど、この純粋さを見てると、なんだか落ち着く。
周りは俺を弄ってばかりだから、こうやって初々しい人を見ると本当にかわいいと思う。
「それで、もし私の言うこと為すことに問題があったり、不快に感じたりしたら教えてくださいね?」
「あまりないとは思いますけど……、わかりました」
「ありがとうございます」
そのままの成り行きで二人で学校に向かう。
途中自己紹介を兼ねて雑談していた。
「俺は斉藤ふみき、一年です」
「私は二年の皐(さつき)・メルティーザ・真理亜(まりあ)です。真理亜とお呼びください」
名前が独特だった。ミドルネームか。
「ふふっ、名前も珍しいですか?」
俺の顔に疑問符が浮かび上がっていたことに皐さんは気付いた。
「別にそういうことじゃ……いや、そうなのか。やっぱり気にしてるんですか?」
「奇抜な視線を向けられるのは不安になりますが、ふみきさんなら色眼鏡を掛けずに見てくれるでしょう?」
「そりゃあ、まあ……」
俺の目付きに比べたら天と地ほどに差があるわけだしなあ。
「メルティーザ、か。不思議な響きだ」
「母がつけてくれた名前なんです。真理亜は父が。だから私はこの名前を大事にしたいんです。奇異な目で見られても、ふみきさんだけは私を真っ直ぐに見てくれます」
「……」
「怖くないと言ったら嘘になります。けれど、そのおかげでがんばることはできます。それこそ、私ができる範囲の無理なのかもしれません」
「俺の言葉にそんな力は……ありませんよ」
この人の言葉に嘘は感じない。けれど俺の言葉を前向きに解釈し過ぎている。
あまり知らない人間が、盲目に他人の言葉を受け入れる。それは危ういのではないか。
「では私の言葉に力はないのでしょうか?」
「それは……」
俺はこの人に悩みを打ち明けて、認めてもらえたことが嬉しかった。みんな俺の意見に反対したけど、この人だけは違った。
だけどそれも他人としての距離があるからなのではないか。
「なくて当然でしょう」
「……え?」
「あなたのことを好きな方は、あなたが幸せであることを望んでいるはずなのです。それなのに、あなたが幸せになれる道を行かないから、もどかしいのだと思います」
「俺は、家族の為にがんばれることを幸せに感じる」
そんなこと言われたって。この人も零ちゃんやさやかのように俺に間違っているとでも言うのだろうか。
それを考えると、この人の言葉を素直に受け取れなくなる。
「ふみきさんは、家族の幸せを願っていますよね?」
「それは、そうですけど」
「お父様やお母様の幸せは恐らくふみきさんが自由に陸上をやることなのだと思います」
「でも、妹たちのことを考えればそんなこと言えない」
「ふみきさんにとっての幸せが他の人にとってはそうじゃない……だから、こんなにふみきさんもあなたを想う人も苦しいのではないでしょうか?」
「……」
零ちゃんの言葉や、妹達の察し具合、さやか達のあの驚きよう。
その全てが頭に去来する。
「ふみきさんは無理をし過ぎているのかもしれません。けれど、先程も言ったように、無理をしましょう。本当に辛くなったらいくらでも助けを求めましょう。あなたが愛する人達は必ず力になってくれるでしょう。無論、微力ながら私も」
「……ありがとう」
いまいち釈然としないのは、この人の言葉の意味を咀嚼することに時間がかかっているからだ。
けれど、ゆっくりと飲み下すと、その一つ一つが俺を認め支えてくれる。
彼女は当然のことをした、というように、穏やかに笑った。
その笑顔にすがりたい想いがあった。
そして、見惚れていたんだ。
俺が赤くなって、それを見てさらに笑う彼女の笑顔に。
†
「おっはよう、ふみきー」
机で突っ伏していた俺にさやかがのしかかってくる。
そこそこ胸の大きいさやかの接触はこれまた刺激的だ。
「……とりあえず、少しでも大人になったとかいうなら、そのスキンシップをやめよう。年頃の娘がはしたない」
「なにそれ、親父くさーい」
さやかは俺から離れると、真剣な顔で言った。
「クッキーは?」
「あ……忘れてた」
「ぶー」
さやかは残念、と眉尻を下げた。
「ごめん。昨日ちょっと」
「何があったの?」
「別に……お前には」
――関係ないですって?
零ちゃんの言葉が思い出される。
さやかも零ちゃんも関係なくないのだ。
「……たいしたことじゃないんだ。夏だけど冬のこと、というか」
「何を言ってるの。どうせ、陸上のことでしょ」
「……」
黙秘が図星であることを示していた。
「昨日ふみきだけ先に帰ったじゃない? あのあとみんなふみきのこと心配してたよ。怪我したんじゃないか、何か大変なことがあったんじゃないかって」
俺は真っ直ぐなさやかの瞳から目を逸らしてしまった。
「ねえ、教えてよ」
「……」
「どうしても言えないの?」
「……後でさ、二人だけで話せないか?」
「うん、いいよ」
さやかがみんなにはどう話すかを聞かなかったのは彼女の優しさだったのだと思う。
†
夕方、夕日が見える時刻に放課後の屋上で俺はさやかに事情を伝えた。
親父の単身赴任、妹達の現状など。
「……そっか、だから陸上をやめるなんていったんだ」
「お前は、俺の走る姿は好きか?」
「好きだよ」
間髪入れずにさやかは答えた。何の迷いもなかった。
そこで彼女は俺に背中を向けた。
「走ってるふみきは正直な話、すごくかっこいいよ。だから、本当は陸上続けてほしいな」
「……やっぱり」
誰かはそう想っている。これこそ皐先輩が言っていた相互の苦痛か。
「でもね」
「ん?」
「――今のふみきの方がかっこいいから問題ないかな」
今度は笑顔でそんなことを言った。
「誰かの為にがんばるふみきは何よりもかっこいいからね。……私の時だって無理しちゃってさ。あのときのこと、本当に心に沁みたよ」
「あのときのはまあ……」
馴れ初めの話だったか、あまりいい話ではなかった気がする。
「だから、ふみきがしたいようにしなよ。私はそれでいいと思う」
「そっか……ありがとう」
さやかはこれ以上俺に求めなかった。俺が自分で思い違いをしていたんだ。決めつけて、話をしようとしなかったんだ。だから零ちゃんも怒らせてしまった。
「俺、お前にこの話をしたら止められるんじゃないかって……覚悟が鈍りそうでさ」
「もう、私たち地味に付き合い長いでしょ。ふみきのこと、少しはわかるよ。……今でもかなり無理してるでしょ?」
「本当は陸上を続けたいんだ。でも、妹達の為だって思ったら諦めることを選べたんだ。矛盾してるか?」
さやかはゆっくりと首を振った。
「矛盾とか何が間違いとかじゃなくて、ふみきが自分の答に納得できてないからそんな風に考えちゃうんでしょ?」
「実際どうしようもないんだ。悔しいけど、俺にはこんなことしか思いつかない」
他の道を探す……残されたものは自分が楽になれる道だけだ。逃げるということだ。
「――僕たちのことをもっと信用してよ」
ギィ、と屋上の扉が開いた。その向こうから出てきたのは司に勝に奈々さんにめいちゃんに……。
きょとんとした顔の俺にさやかは言う。
「ごめんね。こうでもしなきゃ、みんなふみきのことを誤解しちゃうと思って。みんなに隠れてもらっていたんだ」
「まったく、水くせえな。今更黙り決め込む関係じゃねーだろ」
「本当にね。信頼されてないかと思ったわ」
「ごめんね、ふみき、くん。でも、ふみきくんの、気持ち、ちゃんと、わかって、良かった」
各々が好きなことを言う。その言い分に俺は驚いたのか脱力したのかはわからず、ただ呆然としてしまった。
「ふみきの走る姿を見れないのは残念だけど、僕はとてもふみきらしいと思う」
司は残念そうに、けれども俺を励ますように笑ってくれた。
俺はそれに後押しされて口から言葉が出てしまう。
「俺……妹達のこと言ったら、それを言い訳にしてしまうんじゃないかって思えてきてさ。だから、あんまり言いたくなかったんだ」
「それがあなたらしいということなのよ。だからみんな心配していたのよ」
奈々さんは年下の子を叱るような口調だった。
「だって、いつか俺が妹達に言ってしまうかもしれない。お前達のせいで俺は何もできないって」
普段大人しいめいちゃんが、しっかりと俺の目を見て、
「ふみきくんは、そんなこと、言わない。ううん、多分そんなこと、考えたりしないと思う」
めいちゃんは揺るがない瞳で伝えてくる。しかし段々とめいちゃんは自分の言葉に顔を赤くしていた。いや、俺はそういうこといってもらえて嬉しいよ。
「……」
「ま、お前は多分、妹達に気を使わせてることに更に悩んで駄目になるな。間違いねえ」
「勝……」
「いいか、妹は宝だ。泣かせたら承知しねえ。だけどな」
勝は俺の胸に拳を軽く当てながら、
「お前が泣く未来も許さねえ。だから」
「もっと私達を頼れってこと!」
「あ、おい、仙道。人の台詞取るんじゃねーよ」
「ふふー、佐藤くんが言うよりは私の方がヒロインぽくていい感じじゃない?じゃない?」
「…………」
さやかの投げ掛けに答えられなかった。
「……ありがとう」
少しだけ、涙目だったかもな。
†
時刻は夜7時、妹達が帰宅。夕食を作って二人を出迎える。
「疲れたぁ……お腹空いた……」
優希は髪と制服の乱れが彼女の疲労を表していた。
「うーん、私も疲れたなあ」
純花は外にはその様子を見せずに、苦笑していた。
「ご飯出来てるよ。それとも先に風呂入るか?」
「うん、アタシ今汗でベタついてるからな。一緒に入るか純花」
「そうだね。お兄ちゃんも一緒にどう?」
純花は冗談でそんなことを言った。だがいつもよりキレがない。歯切れが悪かった。
「ティーンエイジャーに入った生娘がそんなこと言うんじゃありません」
「でも、今日くらいはいいんじゃない?」
ふと純花と目線が合った。真剣な目差しで俺を捉えていた。
妹達は何かを俺に伝えたいのだとわかった。でも俺は無理をしなければならない。俺が決めた、俺ができる限りの無理を。
「お兄ちゃんの背中流してあげるからさ。だから今日は一緒に入って」
「お前、そういう柄じゃないだろ……」
冗談を言うだけで何もそこまで本気になるなよ。と言いたくもなる。
「アニキは黙って入ればいいんだよ」
「んなバカな」
優希は俺の腕を強く引いていた。
「おい、やめろ。俺はお前らと風呂になんか入らない。高校生が妹と風呂に入るなんて……」
俺は渋る。当たり前だ。胸も膨らみかけてきた妹だ。倫理的にマズいに決まっている。
「いいから、なにも言わずに入って。それと、絶対に逃げないで」
純花の強い瞳に固まってしまい、優希と共に背中を押されて風呂場へと向かった……向かわされた?
†
妹二人は俺の背中を洗っていた。タオルを巻いていてくれたので安心した。
「やっぱアニキの背中って大きいよな。身長どのくらいだっけ?」
「確か……178だったかな」
「ふーん、お父さんまでもう少しだね」
「親父はデカいな。185近くあったよな」
「お兄ちゃんはもう少し大きくなるよ。そのせいで顔の怖さに拍車をかけちゃったみたいだけど」
「お前は俺に対しては辛辣なこというよな……」
純花の毒舌は俺に対して発揮される。というか俺にしか言わない。
「お前らしいけどな。まあ、そういうところも嫌いじゃない」
「やだ、お兄ちゃん。ヘンタイ」
純花は微笑みながら毒を吐いた。親父も母も毒を吐く人ではないけれど、何がどうなってこんな妹になったのだろう。しかして可愛いところもあるので、俺はいくらしょっぱい対応をされても愛している。
「それでも、妹だからな」
それはともすれば冗談に聞こえて純花なんかは馬鹿にしてくるだろうと思った。しかし彼女は意外にも俺にくっついてきた。肌が触れる。
「そういうところがあるから、私がお兄ちゃん離れできないんだけど」
「なんだよー純花ばっか。アタシだってアニキのこと大好きなのにさ」
「知るかよ。俺にとってはお前らは大事な妹だ。それ以上も以下もない……だからさ、いいんだよ」
「……何が?」
「お前らが俺に気を遣うなって言ってるんだよ。俺が陸上をやめることで無理をしてるって言いたいんだろ?」
「……そうだよ」
意外にも優希から口を開いた。
「顔で誤解されてたアニキが陸上で活躍して段々と色んな人に注目されて、アタシはアニキが自慢のアニキだって、誇りだって思った」
「……」
「そんなアニキがアタシ達のために陸上やめるなんて、……嫌なんだよ」
優希は落ち込んでいた。素直な彼女の言葉は、嬉しかった。けれど俺の走る姿を優希は俺以上に求めていたのだ。
「俺はさ」
「――私は絶対に嫌」
純花の声音は怖いほどに真剣だった。
「お兄ちゃんは、私たちのヒーローなんだから。……私たちの為って、何を格好つけてるの? それが本当に正しいって思ってるの?」
毒舌ではない、率直な言葉だ。けど背中から投げられた言葉に俺はどこか安心した。
「正しいかどうかはわからない。けど俺はそうしたいからそうする」
「それが嫌だって言ってるの。お兄ちゃんは昔からそう。私たちがいじめられたら、ボロボロになっても決して下がらなかった。やっと自分のために頑張れることを見つけられたのに。また私たちの為にって。バカじゃないの?」
「じゃあ誰が飯を作る? お前らには無理だろ」
「そんなの、……なんとかする」
「お前が根性論なんて珍しいな。図星だろ」
「……」
何も言わなくなった純花を俺は嬉しく思った。強がってるけど、やっぱり俺の方が年上だ。
同時に、ここまで想ってくれる妹たちに感謝を。
「正直、無理はしてるよ。でも俺は陸上選手じゃなくて、お前たちの兄であることを選べたんだ。お前達が元気で自分のしたいことをしてくれるなら、それ以上は望まない」
「どうして……そんな、綺麗事を」
「だって綺麗事の方がいいだろ」
「アニキは幸せなのかよ?」
「幸せだよ。お前たちがここまで俺を想ってくれるじゃないか」
二人はそこで何も言わなくなった。
俺から体を離して、
「優ちゃん、諦めよう」
「いいの? 純花の方が嫌がってたじゃん」
「お兄ちゃんはこれ以上言ってもダメ。寧ろ逆効果」
「よくわかってるな」
「だってさっきも言ったけど、譲らないところは本当に譲らないんだもん。こと今回に関しては余計にね」
はあ、と一息吐いて純花は苦笑した。そして直ぐに微笑んだ。
「私、お兄ちゃんの自己犠牲みたいなところ大嫌い。すごくイヤ。滅べば?」
散々な言われようだ。けれどそれが俺と純花らしいとも思う。
「もうやめなって純花。それよか聞いてよアニキ。純花のやつアニキが陸上止めるって言ったとき、めちゃくちゃオロオロしてたんだぜ?」
「ちょっと優ちゃん、あんまりふざけたこと言うとぶっとばすよ」
「へへーんだ、インドアブラコンなんか軽くいなしてやるもんね」
「……この脳筋ファザコンが」
「やめないか、お前ら」
「「黙っててよマザコン」」
「ふざけんなこのくだりだと普通シスコンだろうが」
「うわキモ」
もうやだこの妹。
泣きそうな顔で優希に目線を送る。
「なあ、アニキこれでも純花のこと好きなの?」
「それは……」
俺の躊躇いを感じ取ったのか、
「ふふふ」
純花が黒く俺に笑いかけた。この、選択肢を間違えたらしばらく口を利いてくれなさそうな挙動は母に通じるものがある。
親父が選択を間違えたときは気の毒に思うほどに母は急勾配でご機嫌ななめになる。
「まあ一つだけ確かなのは、俺はお前達とはいつまでも兄妹だってことだ。だから、悩みがあったりどうしようもないことがあったら俺に言え」
「私達の悩みはお兄ちゃんが陸上やめることだけなんだけど」
「お前さっき、もういいって言ったじゃん」
「いいっていったけど、納得はしてませんー」
べーと舌を見せつける純花。引っ張ってやろうかと思った。あんまりにも生意気なんで。
「アニキ」
「うん?」
「ごめん……アタシたちの為に」
改まった態度で優希は言う。
「こら、謝るんじゃない。謝るくらいなら感謝してくれ」
ぽん、と軽く優希の頭を叩く。優希は笑って、
「へへっ、アニキ」
「なんだよ」
「大好きだからな……!」
俺の背中にくっついてくる。
「……知ってるよ」
「……」
純花は何か言いたげだったが、何か余計なことをして毒を吐かれるのが嫌だったのでスルーした。
純花と優希は湯船に浸かり、俺は全身を洗い終わって二人と入れ替わるように湯船に浸かった。
†
風呂から上がって飯を食ったあと、俺はさやかへ渡すために作ったクッキーの一部を包んで澪ちゃんの家に向かった。
メールで呼び出した時は返信がくるかどうかわからなかったが、結局「わかった」とだけ帰ってきた。
一番疑問だったのが、送信してからすぐに返信がきたことだった。
「――それで、一体何の用なのかしら?」
今は零ちゃんの家の前。
零ちゃんは軽い服装で髪をほどいていた。普段のビシッとした姿もいいんだけど、この弛んだ格好も思わず、
「素敵だなあ……」
とか口から出てしまうのだ。
「いやまあ、その、あの時はごめん。俺が悪かった」
「……あなたは何を悪いと思っているの?」
零ちゃんはむすっとしている。
「関係ないとかあんたとか言っちゃったこと。零ちゃんは関係もあったし、あんたって言うのは流石に失礼だなって」
「……」
「だから、謝りにきた。零ちゃんと口が利けなくなるのは正直辛い」
「……そう」
零ちゃんはどこか憮然としていた。まだ不満があるらしい。
しかし俺にできることはもうないので、
「あとこれ、クッキー作ったからよければ食べてくれ。じゃあ」
早々に帰ろうとしたところで、
「ねえ、……あがっていかないの?」
零ちゃんは視線を逸らしながら、俺にそう言葉を投げてきた。
「許してくれるのか……?」
「あなたが私と話せなくて寂しくて寂しくてしょうがないって言うのであれば、許すしかないじゃない」
「話を改竄するな」
「あら、少しはそう思っているのではなくて?」
「かなり思ってる」
「あらら」
零ちゃんは俺が好きないつも通りの笑顔になった。
それを見て俺の心は確かに安堵を感じている。
「俺、やっぱ陸上やめるよ」
「そう」
「何も言わないのか?」
「今のあなたを見れば何も言えないわ。無理をしてるんでしょうけど」
「そう、俺は俺に出来る限りの無理をするよ。だからさ、俺が倒れそうになったら叱ってほしいんだよな。しっかりしろって」
「ふうん。私はけっこう厳しいわよ。それでもいいなら」
したり顔の零ちゃん。
「そんなこと言ってなんだかんだ甘いよね零ちゃん」
「こら、調子に乗らない」
零ちゃんは俺のほっぺたを引っ張る。
「おい、やめろって」
本当は零ちゃんにこうされるのは嬉しい。
「まあ、何はともあれ解決したみたいね、色んなことが」
「うん。友達のおかげで色んなことが吹っ切れた」
「そう、良かったじゃない」
「零ちゃんもありがとう」
「私も?」
零ちゃんは意外だとでもいうような顔だ。
「だって零ちゃんちゃんと叱ってくれたじゃん」
「それだけ?」
「うん、それだけ。だからありがとう」
きょとんとした顔が少し経ってから笑顔に変わる。
「そう、あなたには私が必要ってことでいいのね?」
「そこまでいってないけど、そうだよ」
零ちゃんは満足そうだった。
俺は満足だった。
「それで、あがっていかないの?」
「おじゃましたいけど、今日は帰るよ。帰らないと純花がさ」
「ケンカしたの?」
「ケンカというか、やっぱり陸上のことで揉めた。純花は納得しなかったけど納得したような」
「そう。ならしょうがないわね。家に戻って純花ちゃんのご機嫌とりしないとね」
「ああ、じゃあな。また明日」
「ええ、また明日」
†
翌朝。
今日もいつもより朝早く起きた。あの銀髪の人に会うために。
腰かけて靴を履いてると、
「お兄ちゃん……」
「おわ……ビックリした」
純花だった。
俺は振り向かなかった。
「私、まだ諦めてないから」
「そうか」
「料理だってお兄ちゃんよりうまくなって、掃除だって手際よくやってみせるから」
「……」
「だから……だからね……」
そして言葉ではなく、次に来たのは柔らかな衝撃だった。俺は一瞬だけとまどった。
「少しくらい頼ってくれたっていいじゃん……」
寂しそうに言って、純花は俺の首に手を回した。
その不器用さたるや、かわいくてしょうがない。
「昨日もそれくらい素直だったらよかったのに」
「……うるさい。優ちゃんがいたから嫌だったの」
不機嫌な声を漏らしてから純花は俺の首を軽く噛んだ。というか唇で軽くつまんでいる。
「……なにやってんの?」
「知らない。でもしたいからした」
「カマトトぶってんな……お前彼氏とかいんの?」
「お兄ちゃんいるからいらない」
さらっと、そんなことを言った。
「そう……なのか? お前兄貴で満足しちゃうって、色々と損してるんじゃないのか?」
「さあ? お兄ちゃん以上の男の人知らないし。それよかお兄ちゃんに彼女できるかどうかの方が心配」
「ほっとけ……今はこれでいいよ。零ちゃんがいて、友達がいて、お前らがいる。そんな今が好きなんだ」
「ふうん、そっか。じゃあ何も言わない」
「そうしてくれ。それと……いい加減離れてくれ」
「なんでこんな朝早くに学校行くの?」
「……ちょっと用事が」
俺の言いきりの悪さに目敏く純花は切り込んでくる。
「へえ、新しい女の人?……へえ?」
「なんだなんだ……」
「べっつにー? よかったねえ?」
純花は黒い声音を含んでいた。なんでだ。焼き餅か。
「――アニキなんだかんだモテんじゃん。純花が妬いちまうぞ」
優希はふわあ、とあくびしながら俺たちの後ろにいた。それと手にはパンケーキ。
「……優ちゃん、いつからそこに?」
純花は普段通りにしようとしていたが、声の震えを隠しきれなかった。顔が赤くなりつつある。
「お前がアニキに抱きついたときからずっと。いやあ、アニキこれ出来立てでうめーな」
「まあこうすればお前も早く起きるかと思ったからな。バナナを入れて炊飯器でやってみたんだ」
「へー、やっぱアニキすげえな。この匂いで簡単に起きられたわー」
純花はわなわなと震えながら、俺の首をぐっと掴む。
「ど・う・い・う・こ・と? ……余計なことしてくれちゃって」
「いや、優希なかなか起きないから、匂いでなら起きるかなって。まさかほんとに起きるなんて」
「……ふん!」
「いたあ!?」
純花は割と本気で俺の首を噛んできた。
「ちょ、純花、それはマジで痛いから!」
「ふふはい(うるさい)、ふふはい、ふふはい!」
「あー!!」
「それにしても純花可愛かったなー。アニキと二人のときはあんなにデレデレしちゃってさ。普段からあんなだったらいいのに」
純花はその一言で俺から離れると、優希に向かって、
「優ちゃん、ちょっとツラ貸してよ? さっき見たもの忘れさせてあげるから」
「へへーん、純花の『かわいい』ところなんて滅多に見られないからね。忘れてやんないよーだ」
「この……!」
それから二人はお互いに押し合い始め、暴れだした。
その隙をついて俺は家を出た。早くしないとあの人に会えなくなりそうだ。……今日もいるかどうかわからないけど。
†
結局公園にあの人はいなかったので、早く学校に着いた俺は教室で一人机に突っ伏していた。
「…………ん?」
なんか気配を感じる。誰かが忍び足で近づいてくる。
ばっと勢いよく振り返る。さやかだった。
「おはよう、早いな」
「ちぇ、狸だったかー」
「またお前俺にいたずらするつもりで?」
「当たり前じゃん。こんなに無防備なふみきを襲わない方がおかしいって」
「お前そんなに俺のこと(友達として)好きなの?」
「……へ?」
さやかの真顔。
「いや、だってこんなの好きじゃなきゃしないだろ?」
俺は零ちゃんを弄るのも、零ちゃんに弄られるのも好きなのだ。つまりそういうことだ。
「まあ俺は構わないけどね。お前のこと大好きだし(友達として)」
「……ううむ」
さやかは視線を泳がせた。
俺は別に嘘は言ってない。
「おい、どうした。ブレーキかかってんぞ」
「いやね、ふみきからそんなカウンター入れられるなんて思わなかったから。照れるなあ」
「俺はお前のこと(友達として)大好きだよ。お前はどうなの?」
「そりゃ、まあ、……苦楽を共にしてきた中だし。付き合い長いし……信頼してるけどさー」
なかなかレアなさやかの表情だった。彼女の照れは普段とのギャップで思わず、
「……かわいいなあ」
とこっそり漏らしてしまうほどだ。さやかかわいいよさやか。
「あーあ、昔は冗談でも『ふみきのこと愛してる』って言ってくれたのになー。ああー寂しいなー」
「うぐっ、……それは若気の至りというものですよ。さやかさんは少し大人になったので、そういうのは軽々しく言わないようにしてるのです」
「余裕なくなってるぞ大人」
「なんか冷静すぎてムカつく」
とか言って俺の頬を指で突いてきた。
零ちゃんとは違う気持ちよさがあった。
さやかはそれからくるっと身を反転させて、何かを呟いた。
「もう冗談じゃ言えないんだよね……」
†
そして放課後。
「ふみき、先生が私たちのこと呼んでるよ」
「あ? 俺とお前をか? なんで?」
「さあ? 知らない」
「早く帰りたいんだけど……」
「しょうがないよ。今ここで行かないとふみきの立場が悪化するかもしれないからね」
「それどういうこと」
「ふふー、自己紹介のときにしくじったふみきが先生の言うことを聞かないなんて、よくないからね」
「嫌になるよ、全く」
「でもでも、私達まだ高校始まったばっかなんだから、いくらでも変えようがあるじゃん。ここが正念場だよ」
「そうはいうけど……いや、そうだな。行くか」
「そうそう、前向きにね」
さやかが俺の背中を軽く叩いて先を行く。それに続いて、俺も歩調をあげていく。
†
「――君たち二人に学級委員を任せたい」
担任の蘓芳(すおう)先生はそんなことを言った。歳は30近くの、厳つい顔をした男性だった。年齢の割に老成した雰囲気を持ち合わせて、長くも短くもない髪を適当に纏めている。
「それは、いったいなぜです?」
「君たち二人は入学時の課題作文で興味深いことを書いていた。俺……私の独断で決めさせてもらった」
「いや、それでもそんな簡単に」
「済む話だ、斉藤」
力強い目付きで俺を見る先生。視線をうまく逸らせずに俺は先生と目を合わせていた。さやかはハラハラとしていた。外から見るとメンチ切ってるように見えるのかもな。
「私は君や仙道のことをまだ詳しく知らない。これが最も手っ取り早い方法だ。取り合えず、半期を担当してほしい」
「ううん……さやか、仙道さんが適任なのはわかりますが……」
「端から見ても君たちは仲が良い。それならばと思ってな。頼まれてはくれないか?」
「頼まれては……って。俺にも都合が」
「わかりました、やります」
さやかが何の曇りもなく引き受けたもんなんで、俺はアホみたいにポカーンと口を開けた。
「そうか……斎藤、君は都合があると言ったな。どんな都合かを教えてはくれないか? 無論、それで学級委員がどうのこうの言うつもりはない」
あまり人前でするような話ではないと思うけど……。
「両親が仕事の関係で家にいなくて、俺が妹達の世話をしなきゃいけないくて。仕事によっては迷惑をかけることがあるかもしれないので……」
先生は静聴の後、
「そうか、それは簡単に頼めることではなかったな。済まない」
「いえ……」
「それでは仙道、君は彼がいなくても学級委員をやってくれるか?」
この質問に俺が何故かドギマギする。答えによってはへこみそうだ。
「はい、やります」
「……だよな」
ちょっとへこんだ。
けどさやかは確かにリーダー気質で俺も彼女が学級委員になることに異論はない。
ちょっと拗ねた俺にさやかは袖をつかんで笑った。
そして、小声で、
「や・く・そ・く、は?」
そうだ、……俺はさやかと約束したんだ。
『ふみきのこと、信じてるから』
さやかは俺を信じているのだ。俺が言ったことに責任を持つと。
そうだな、約束したもんな。
よし、ここが俺の無理をするところか。
「それでは別の誰かに頼むことに」
「――先生、俺やります」
先生は確かめるように俺を見た。
「無理をする必要はない。俺……私は君の事情を知ったからな。知らぬ振りはできない」
「いいんです。俺がやりたいんです」
「どうしたんだ急に……」
「さやか……仙道さんがいるからやりたいんです」
「…………」
先生はさやかに視線を向けた。さやかは窓の外を眺めていた。顔を赤くしたことを悟られないようにしたのだろうか。
「だから、仙道さんが俺でも良いというなら、俺はできるかぎり仕事をします」
「わかった。それでは君たちに任せよう」
「って、あれ?」
「なんだ、確認する必要があるのか?」
言われてさやかを見ると、彼女は俺たちに背を向けたままだった。
その姿を見て俺はクスッと声を漏らした。
「何はともあれ、ありがとう。二人とも。これからもよろしく頼む」
「はい、わかりました」
「よろしくお願いします」
教員の部屋を出てからさやかが一言。
「ねえ、ああいう恥ずかしいこと臆面もなく言えるってすごいね」
お前は真顔でそういうことを言うのか。
「だからなんだ、約束しただろ?」
「ふみきがパートナーで嬉しいけど、良かったの?」
「いいのさ。なんとかする」
「ふうん、それがふみきの無理ってやつ?」
「そうだな、俺が望んでやる無理だ」
「ごめんね、煽った私が言えたもんじゃないけどあんまり安請け合いしない方がいいよ? ただでさえふみきは無理をするんだから」
「心配してくれてありがとな。でも俺はこれでいいと思ってる」
「ふうん、そっか」
「ところで、お前作文何書いたんだよ」
「お題が将来の夢だったからねえ。思ったことをそのまま書いただけだよ」
「答になってないぞ」
「そんな知りたい?」
「まあな」
「じゃあ、ひみつ!」
「なんだよー」
「女の子の秘密はそんな簡単に教えられるものじゃないからねー」
「今日の下着の色とかも?」
「そうそう。ふみきさんはほんとにスケベなんだから」
その言葉を発してからさやかの肘鉄が腹部に炸裂した。
「なかなか、いい肘してるじゃないか……」
「とりあえず、今みたいなこと奈々ちゃんやめいちゃんに言ったら、ダメだからね!」
「言うわけないだろ。お前になら通じる冗談かと思って」
「私も女の子だってこと忘れてない?」
「どっからどう見ても美少女じゃねーか……」
苦痛を伴った声で、伝えてみる。
「ふふー……ふん!そんなことでごまかされないもん」
さやかは上がりそうになる口角を無理してへの字にしようとしていたが無理みたいだった。おかしな顔だ。
「昔から思ってたけどお前裏表無さそうだな」
「それがさやかさんの良いところでもあるからね。オープンに行った方が良いと思うんだよね。どう、クローズ気味のふみきくん?」
ニヤニヤとさやかは俺を弄る体勢に入った。
「そうだな……」
立ち止まり真剣に考える(素振りを見せる)。
「え? え?」
さやかは戸惑う。
「やっぱり……」
「は、はい」
「俺はお前のそういうとこに魅力を感じるから、多分そういうことなんだろう」
「ふふー」
「俺にはそれが難しい。だから誤解を解くのにも骨が折れるんだろうけど……」
少し俺にも思うことがあって、もっと愛想よくできればもっと生きやすかったのではないかと。
「ふみき」
さやかは爪先立ちして、俺の左右の頬を指で摘まんで引き上げた。
「おい、何を」
「ぷっ。変な顔」
さやかは指を離すとこう言った。
「ぐだぐだ考えてるみたいだから言ってあげる。ふみきが愛想よくなんて、無理かもね」
「むう」
「でも裏を返せば真面目な人に見えるかも」
「そうか?」
「それなら私のポジティブさ、というのは能天気に映ることだってあるはず」
「それは、なんとなく」
「でしょ? ……って簡単に納得されるのは嫌だけど、今みたいに他人からの見方は様々なんだよ。だからさ、今のままでいいじゃない」
さやかの今の明るさは能天気ではなく優しさか。
この落として上げる、というやり方は考えなしにやっているんだろうけど、無自覚な辺り、ズルい。
「お前が大人っぽく見えたよ」
「え? ホント? ホントに?」
さやかは子どものように喜んだ。
「……そこさえなければな」
「ふむ、私はもう少し落ち着きを持つべきかー」
「いいんじゃないの? 俺は今のお前のが好きだよ」
「そう、ならもういいや。……ちょっと背伸びしたかったのかも」
さやかは感慨深そうに言ってから、
「ふみき、忘れないでね。ふみきには私が付いてること」
上目遣いで、扇情的な雰囲気をさやかは放っている。その視線に囚われて、顔が熱くなっていくのがわかる。
「いきなりなんだよ」
照れでぶっきらぼうに返してしまう。さやかはそんな俺を包み込むように笑った。
「パートナーの私がふみきをいつでも支えてあげる」
胸を張ってえっへんと威張った。上から目線なのは、ちょっとした理由があるのだけど今はスルーで。
「だから、心配ご無用~。どーんとさやかさんを頼りなさいな」
屈託なく笑う声に、不安は消えていた。
「帰るか。お前今日は?」
「大丈夫、一緒に帰ろ」
俺達が玄関を出ると、
「――あら」
「零ちゃん」
「お疲れさま。どう? 新しい学校には慣れた?」
「まあ、そこそこにな」
「そちらは?」
零ちゃんはさやかへ顔を向け、ほほえんだ。
「この娘は、仙道さやか。俺の中学の頃からの友達」
「そうなの、はじめまして。棚橋零です」
「はじめまして」
さやかは笑顔で返してこそいたが、少しぎこちないように見えた。
それと、わざとらしく、
「あ! ごめん、私用があるんだった」
「用?」
「うん。だから先に帰るね! じゃあね! 先輩もさよなら!」
「あ、ああ、じゃあな」
「……」
俺はとまどい、零ちゃんは手を振って見送った。
「……あの娘に悪いことしちゃったかしら」
「なんの話だよ?」
「いいえ、でもあなたにちゃんと友達がいて良かったわ」
「まあな。さやかとは中学の最初からずっと一緒のクラスだし、二人で級長もやってきたし。今回も一緒のクラスで級長になりましたとさ」
「あなた忙しいのにそんなことして大丈夫なの?」
「なんとかするよ。少しくらいの無理なら承知だ。それにさやかと約束したんだよ」
俺は誇らしげに語っている。さやかとの関係は俺の中では特別なんだ。
「……約束って?」
零ちゃんが心持ち真剣な顔つきになっていることには気付かなかった。俺はただ楽しんで話している。
「さやかが、そういう立場になったら俺が彼女を支えるっていう約束」
「ふうん、素敵じゃない」
零ちゃんが素っ気なくなって来ていることにすら俺は気づかない。
「そうか? そうだな。俺もあいつが級長やるからやるって決めたようなもんだし」
そのことを本当に誇りに思っていたのだと思う。
「だから、俺はさやかのパートナーであり続けたいんだよ。あいつもそう言ってくれた」
「……なんだか、夫婦みたいね」
零ちゃんは少し顔を固くしていた。
「そうなんだよ」
「そう……ってどういうこと?」
零ちゃんがぐっと顔を近づける。顔が赤い。なんか勘違いしてるんじゃないか?
「……」
間近で見るとやっぱりかわいい。思わず、
「……照れ顔も最高なんだよなあ」
と言ってしまいそうだ。
「いやね、さやかは昔から俺を引っ張ってくれてたから、まるで旦那みたいだなって。それに比べて俺は引っ張られてばかりだったから、なんだか夫婦みたいって周りが言ってた」
「ほっ……なーんだ、そういうことか」
零ちゃんは深く息を吐く。
「で、零ちゃんはどんなことを考えていたのかな?」
その一言で、緩んだばかりの零ちゃんが再度固くなる。
「べべ、べっつに?」
今度はすました顔。少し綻びが見えるけどね。
零ちゃんは表情豊かで、もしかして彼女のこんな姿を知っているのは学校で自分だけなのではないかと思うと凄まじい優越感を感じる。
「あなたが爛れた交際をしているなら、姉としてなんとかしようと思っただけよ。それだけ……本当にそれだけだからね!」
「はいはい」
俺はもう零ちゃんがかわいくてしょうがない。絶対この人エッチなこと考えたに違いないよ。
しかし、姉かあ……。
「むう、なにようその顔。偉そうに」
「いや、ただ単純に零ちゃんはどんなこと考えたんだろうなって」
「別に変なことなんか考えてないわよ!」
「変なことって?」
「それは……! その、あれ、なんというか……知らないわよ!」
零ちゃんが羞恥に耐えかねてポカポカと叩いてくる。少し涙目なのがまたかわいいんだけど、やりすぎたかも。
「ごめん、ごめん。ちょっとからかいすぎた」
「別に、泣いて、なんか、いないんだから……!」
半ベソかいて取り繕う。年上の威厳とは。
零ちゃんだから俺も冗談言えるけど、他の子にはこんなことできない気がする(さやかは知らん)。
「ふん、許さない……許さないんだから」
「じゃあさ、今度の休みどこか行かない?」
零ちゃんは目を逸らしながらも、
「どこか、ってどこよ?」
「それはこの後考えるけどさ。たまには二人で出かけてみない?」
内心すごい緊張してる。口に出してないだけでこれデートの誘いだからね。
「まあ……それで私を頼ませてくれるならさっきのことチャラにしてもいいけど……?」
顔を下に少し向けてこちらを窺うようにして見上げてくる。上目遣いに近い。
これは無自覚に煽られているような気もする。
「あ、じゃあ、一緒に行ってくれるんだ」
「ふん、あなたが何がなんでも私と一緒じゃないとイヤっていうんだからしょうがないじゃない」
「そんなこと言ってないけど多分そう。それじゃ今度の休みに出掛けよう」
「私が採点してあげるわよ。ふみきがどれだけ女の子を楽しませることができるか」
「零ちゃんは採点厳しそうだ」
「当たり前じゃない。もしあなたにお付きあいする相手ができた時のためにも、私は鬼になります」
零ちゃんが調子を取り戻してきたのか、えっへんと胸を張る。
そうなりたい人は目の前にいる。
そしてなんやかんやいって、俺に微笑んでくれる彼女は鬼というよりは天使らしかった。
心スライド 敦賀八幡 @turuga
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