心スライド

敦賀八幡

もしもあなたにあわなければ


俺の顔はどうやら恐怖の対象らしい。誰もが忌避するような、そんな面をしているようだ。


昔から他人に強面とされ、次第に自覚し始めた途端に、俺は他人と話をすることが出来なくなった。


けれど俺にはいくつかの出会いがあった。それが俺に安穏をもたらし、成長させてくれた。





小学校からの帰り道。複数人で下校する生徒が多い中、俺は一人寂しく帰っていた。


俺が道を通れば、嵐の前の静けさを感じた人々が道を勝手に作ってくれた。畏怖の対象としての視線を含みながら。



それは慣れっこだったし、気にしないようにはしていたけれど、やはり轍に続くように、空気が僅かに震える程の声が聞こえるのだ。



──こわい。


俺にはそう思われることの方が恐かった。何も悪いことはしてないはずなのに、どうしてこんな目にあっているのか。


段々とモチベーションは下がっていき、遂には学校に通うことも苦痛になりかけていた。


そんなくさった毎日を送っていた。


ある日、家に帰ると、お客さんがいた。

俺の母親と誰か知らない女性が談笑している。その端では双子の妹と誰か知らない女の子が一緒に遊んでいた。


やがて俺の存在に気づいた母親が、おかえりと言い、客の女性は朗らかに微笑んで俺に挨拶してきた。


目を合わせずに会釈した。あまり顔面を晒すのも理由なく嫌に感じていたのだ。


母はそんな俺の態度に失礼と感じたのか、不満な目付きで俺を戒めたあと、軽く客に謝った。


「ごめんなさい、この子人見知りが激しくて」


そう説明する母親は俺を近くまで呼び、お客さんの紹介を始めた。


まず、妹達と遊んでいる、俺よりも背の高い女の子について。


「この子は『棚橋零(たなはし れい)』ちゃん。学年はふみきより一つ上、かわいいでしょう?」


「……」


確かにかわいいと思った。優しさと気の強さが混じったような目に、少し大人っぽさを持ち合わせた顔の造り。髪は地毛で少し茶がかった、僅かにクセが入った長髪。それを左右に分けていた。

妹達は彼女にすっかりなついたようで、甘えるような笑顔を浮かべている。


「そしてこの方が澪ちゃんのお母さん」


「初めまして」


「……………はじめまして」


優しい顔つきの少女のお母さんに対して、俺は無愛想に返した。母はやはり、面白くない表情を浮かべたが、たった一瞬。説明を続けた。


「この人達はね、最近この近くに引っ越してきたんだよ。お父さん同士が友達なの」


母がそう補足してから、零と言ったか、その子が俺の正面まで歩いてきた。恐くて、俯いた。しかし意外にも、


「あなたも一緒に遊びましょ」


「……え?」



彼女の言い分にただ困惑した。



何の恐れなしに、彼女は俺に向かって笑った。

それがあまりに不思議で、なぜ自分にそれが向けられているのか、頭は混乱するばかりで、


「…………」


俺はその場から、段々と退いていき、やがてある程度の距離を数秒保った後自分の部屋へと逃げ出した。

諌めるように母が声を上げたが、構わずに階段を駆け上がって自室に飛び込んだ。


胸の動機が激しく、息がまともに行われなかった。取り敢えず深呼吸。



今頃は母がきっと何かを謝って弁解していることだろう。しかしそんなことはどうでもよくて、思うことはただ一つ。

いい意味も悪い意味も含んで、彼女の姿が頭から離れない。


あの笑顔が本当に無垢で他意なく俺に向けられたことが不思議で、だけど嬉しかった。


反面、自分に話しかけてくれることに対して戸惑っている。もしかしたらどこか変に思われているかもしれない。


「……ふぅ」


ようやく落ち着いたところで、脱力感を得た俺は床に伏した。



──ドンドン。



ドアを叩く音が響いた。


誰だろうか。母だろうか。


「──おにいちゃん?」


この少しゆったりとしたマイペースな声は、純花。双子の姉の方である。


「アニキー、いるんだろ!? 出てきなよ」


続いて、節々に元気が溢れている声の、優希。妹の方。



「……」


しばらく黙っていたが、次第にドアを叩く音が大きくなっていき、為す術なく妹達に負けた。ゆっくりとドアを開ける。


妹達がいた。二人はなぜ俺が逃げたのか訊きたいような顔をした。


そして、目を逃がすようにして、視線を少し上方にスライドすると──


「──!?」


あの子がいた。


「──お話しようよ」



零だ。さっきも見た、きれいな笑顔。今度もまた、ただ純粋に微笑みかけている。彼女は手を伸ばしてきた。


少しは見慣れて安心もするが、しかしたまらなくなってドアノブを思い切り引いた。


一心不乱に、何も考えずに引いた。


──ぐりっ。


「? …………!?」


閉めたはずのドアになにかつっかえて、歪な音がした。かと思えば、妹達が急に叫んだ。


「アニキ、ドアを開けて!」


「早く、おにいちゃん!」


彼女らの声に示されて、そこでやっと気がつく。


「!!」


零の手が挟まっている。俺はすぐさま解放した。


彼女はその手をもう片方の手でおさえながら、痛みに耐えている。


しかし、苦痛に歪むはずの表情はぎこちないながらも笑顔である。気丈に振る舞っているのか、涙も流れていない。



「あ、あの……、ご、ごめ」



「──だいじょうぶだよ」


かなり焦って覚束ない俺の謝罪を遮って、彼女は俺に安心させるように笑んだ。

それを目にした瞬間、罪悪感が沸き上がってくるのがヒシヒシとわかった。


妹達は気が動転しているのか何度も零に調子を訊ね、返答として彼女は大丈夫を連呼した。



そして俺は母親が談話している場所へと脱兎の如く駆け出した。とにかく彼女を助けたくて。


到着した瞬間、叫びに近い声で、


「──助けて!」


──二人は目を丸くしてから、妹達が騒ぎ立てる二階へと上がっていった。





罰として、ゲンコツを一発母親からもらった。なかなか力の乗ったいい拳だった。


しかしながら、別にそんなの大したことなく俺は部屋でぼーっとしている。痛みもあったかもしれないが、考え事に夢中で痛覚が仕事をしなかったらしいのである。

なんともありがたい。



──ドンドン。


誰かがノックしている。今度は誰だ。多分母だ。怒っているに違いない。元を辿れば元凶は俺なのだ。


仕方のないことだと思うし、実際俺が零に過剰に反応しすぎたせいも多分に、というか全部。罪悪感は募るばかりだ。


そんなわけで少し億劫に感じながら返事をした。


「……だれ?」



「あ、私だよ」


予想外れの零だった。ドア越しに少しくぐもった声が届く。


「…………」


俺は黙っている。あんなことをした手前、彼女に向かって何を言えと言うのか。


黙秘を続けると、


「あのね、……お話しよう?」


今日で三回目の勧誘。


この子のそれは、俺が誰かに言いたかったこと、言ってほしかったことでもある。


彼女は──零は、自分を見てくれる。

それはきっと幸せなことなのだと思う。


「でも……僕、君にひどいことしたんだ……」


それがさっきから喉に引っ掛かり、ひどく気が重い。


「あんなの大丈夫。だからお話しましょう?」


耳に馴染んだその心地よい声が、安堵を与えてくれたお陰か、思うよりもすんなりと手が動く。


緩慢な動作で扉を開けた。


まるで──知らない世界に飛び出すように。


「やっと開けてくれたね」


目だけを彼女へ向ける。怒りも皮肉もない、純粋な笑みを浮かべていた。


「…………」


俺は緊張していた。

なにより、彼女は本当に怒っていないのか、それが気がかりだった。


零は手を自身の後ろに手を回し、俺の視界からは見えないようにしている。


隠れた手を透視するかのように、凝視する。


「手は……?」


「なんともないよ」


そう言って、手を出した──怪我のある手とは反対の。


俺は本当に負傷した腕を掴み取って、


「あっ……!」


「……」


腕には包帯が巻かれていた。

怪我の証拠を目にした瞬間、罪悪感が沸いてきた。自分がやったのだと、暗い空気が心の中を塞ぎ混んだ。



「──怒らないの?」


「別に、きみのせいじゃないもの」


再度、手を後ろに回した。

俺はなにも言えず、なにも出来ず、立ち尽くした。


やがて、どちらからともなく、俺の部屋に入った。

零がドアを閉め、二人の空間が出来上がった。

男子の為に誂えられていたその部屋では、零は不思議な存在感を醸し出している。

この部屋に入るのは、家族ぐらい、他人など入れたことがない。



二人で床に座る。


それから零は室内を見渡してから一言。


「ふぅん、……きみの部屋ってこうなってるんだ。思ったよりきれいだね」


と言うよりあまりものを置いていない。学習机にベッドとタンス、あとは箱の中には雑多な物物が入っているだけだ。



その中を零は覗きこんで、ある物を見つけた。


「これは……」


彼女が手に取ったものは、


「サッカーボール?」



そう、ボール。サッカーの。



「僕、スポーツが好きなんだ……」


しかし、好きとは言ったものの、共に汗を流すような友人はいない。


「サッカー好きなの?」


「スポーツは、みんな好きだよ」


「そっか。私も運動は好きだよ!」


「君も……?」


「うん、走るのが好きなの!」


「そう、なんだ……。僕も、速くないけど走るのは好き、だよ」


「じゃあ走りに行こう! 鬼ごっこ、優希ちゃん達も一緒に!」


「う、うん……」


零は俺の手を引っ張り、無理やり起立させてから先導する。俺は初めて他人から、しかも女の子から手を握られてどぎまぎしていた。

なぜか気恥ずかしい、こそばゆい。そんな思いが沸き上がり、顔が何だか熱い。


そして、四人が外へ出た。快晴の空の下、俺達は駆け出す。

鬼は俺からだった。

俺は新鮮な気持ちで追いかける。


他人と交わることが、こんなにも気持ちのいいことだったなんて想像もしていなかったのだ。



──不思議なこともあるのだった。



勢いでこんなことになってしまったのに、心地がいい。


今は、零と一緒に何かをしていたい。


そして、零と話をしたい。なんでもいいから聞いてほしい。

なんでもいいから伝えてほしい。


もしかしたら……、それは願いと同義であったかもしれない。






夕陽が見え始めた。


妹達は騒ぎながら俺達の何メートルか先を歩いていた。


「あの」


「なに?」


「その、……楽しかったよ」


それだけ言うと、顔を反らした。

照れ臭いのだ。


「私も! すっごく楽しかったよ!」


耳に張りのある心地のよい声が届く。

嬉々としたその声は、俺に安堵を与えていた。口角が自然と引き上がる。


「僕、友達いないから、他の人とあんなに……遊んだことないんだ」


「そうなんだ」


不思議そうに零は俺と目を合わせていた。じっと俺の顔を覗きこんでいる。


「だから、きみが話してくれたり……一緒に遊ぼうって言ってくれたのが、……すごく嬉しかった」



「──違う!」


何かを否定された。



「え……?」


「私は『きみ』じゃなくて、『れい』っていうちゃんとした名前があるの」


「え、え……?」


「きみさっきから私のこと、『きみ』って言ってるけど、名前で呼べばいいじゃない」


ぷぅ、と頬を膨らませて怒っている。怖い。だけど怖くない。


「……零、……ちゃん」


「うん!」


今度はほっこり笑顔。



コロコロと表情が変わる女の子。その無邪気さに惹かれて、笑顔を見つめる。あまりにもキレイで眩しい。

素直に、かわいいと思った。


「──ふみき」


「え……?」


唐突に自分の名前を呼ばれて、驚く。


家族じゃない、新しい声が俺の名前を呼んだ。


「きみ、ふみきでしょ?」


「う、うん……」


「珍しい名前だよね」


「うん……、でも優ちゃんや純ちゃんは女の子みたいだって。僕は……あんまり好きじゃない。それに顔だってこんなだし」


親父がなぜこんな名前にしたのかはわからないが……、せめて漢字にしてほしかった。

そして顔はどうしようもない。


「私はきみの名前も顔も好きよ」


「え、……なんで?」


「だって、すぐにあなたってわかるじゃない」


「?」


どういうことだろう。首を傾げる。


「私がふみきという名前の人に一番最初に巡り会ったのはきみ。そしてきみの、その顔はきみだけのものなの。個性なの。否定することなんてないのよ」


「……」


彼女の言葉に嘘偽りはない。ような気がする。優しさに溢れていた。それは本人の


「あの……零ちゃん」


「なぁに?」


「その……」


「ん?」


「あ、あの……」


伝えたいことがうまく言えない。

尻込みして、声が段々と萎んでいく。


「…………ごめん。やっぱりなんでも──」



「ああ、もうっ!」


膠着した俺に業を煮やしたのか、零は声を荒げて俺を叱った。



「ハッキリ言わせてもらうけどね。ちゃんと口に出して言わないと、なんにも伝わらないの!」


「…………」


まさしくその通り。俺は図星、なにも言い返せない。


なんだか弱い自分が嫌だった。醜く、見るに絶えない自分の姿が、心を絞める。


「だから──」


零が俺の手を両手で握った。片方は負傷している。


「がんばって私に伝えよう、きみの言いたいことを。ね?」


その柔い笑みに促されて、俺は口を動かそうと尽力する。


「……僕と」


「うん」


「……僕と」


「うん」


胸が早鐘のように鳴る。それを押さえつけて決心する。


覚悟を──決めた。


「──友達になってほしいんだ」


「え……?」


「…………」


やけに静かだった風がよく聞こえる。静寂の中で俺は顔が熱くなるのを感じていた。


「なに言ってるの?」



その聞き返しは純粋な疑問ではなく、拒否の意に聞こえた。拒絶……されたか。まあ、しょうが──


「──私達もう友達でしょ?」


「な……い? ──え?」


「だから、もう私達はとっくに友達なんだよ」


さも当然のように澪はいい放った。



俺は数秒唖然とした後、喜びが沸き上がってくるのを感じはじめていた。


「本当に!?」


喜びによるこの胸の動機が、嘘みたいに思えて聞き返す。

零にとってはくどい質問のハズだが、彼女は嫌な素振り何一つ見せずに、


「本当だよ。よろしくね、──ふみき!」


屈託のない笑顔が、瞳に映る。網膜に焼き付けておきたい程に眩しい笑顔。


口角が上がってるのがよくわかるが、それを止められなくて、止めたくなくて、止める必要もなくて──



「…………」



そんな幸せバンザイな気持ちを惜しげもなく顔に表している俺を、零はなにか新鮮なものを見る目付きで凝視していた。



「なんだ……」


零はどこか呆けたように、



「ふみき、ちゃんと笑えるんじゃない」



「え……?」


指摘された瞬間顔が熱くて、俺はそっぽ向いて黙りこくる。

その後追随する形で、妹二人が零に加勢し、三人で俺をからかいつづけた。


三人とも角がなくなったように俺をイジって楽しんでいた。


俺も三人にささやかな抵抗を繰り返したが、勝てなかった。



──こうして俺の生活は、強かな幼なじみと共に進みはじめたのだった。





家に帰って、しばらく経つと親父が帰宅した。


いつも出迎えるのは妹達の役目なのだが、今日に限っては俺を加えた三人で親父を待っていた。


「……おう、ただいま」


どこか違和感を感じたのか、親父は首を傾げながらも帰宅の挨拶をする。正直俺も妹達に無理矢理連れてこられたので、若干腑に落ちなかったのだが、それでも明るく答えようとした。


「「おかえりなさい!」」


と元気のいい妹達とはうってかわって、俺の挨拶はというと。


「……おかえり」


声量控えめだった。しかし親父は気を悪くすることなく、しゃがんで俺の頭を掻き回した。


「どうしたお前、いつもより声が弾んでんぞ?」


「……別に、なんでも──」


ない、という部分は言葉にはならなかった。親父が俺を遮ったせいだ。



「好きな女の子でもできたのか?」


「……い、いや、そんなことは──」


ない、という部分は声にならなかった。妹達が邪魔したせいで。


「アニキ顔まっか!」


「やっぱお姉ちゃんのことすきなんだー!」


「ち、違うよ。零ちゃんは友達だよ……」


しかし俺の言い分はやはり弾かれて、親父は妹達と悪ノリして俺に何度も何度も言及する。


俺は恥ずかしさから黙っていたが、彼らが一向に攻撃の手を緩めることはなかった。




──それから日が過ぎて俺は中学生となり、そして最終学年──受験生になった。


志望校は二年の最後にはもう決まっていた。



『時雨青蘭高等学校』



偏差値が高く、また設備が充実していることで有名な学校だ。


なぜこの高校にしたのかだが、それはあの人がいるからだ。

彼女は俺と違い、努力家な上に天才肌という最強のスキルを持った少女であるので、合格は余裕だったらしい。



彼女とは天地の差程ある俺は度々くじけそうになったが、そんな時はある人の言葉を何度も思い出して自分を元気付けた。



『──待ってるから』



俺が彼女に対して、志望校を告げたときにもらった言葉だ。期待されてるかどうかはわからなかったが、かなりの活力になったのは間違いない。


それを支えに俺は挫ける度に、すぐにまた立ち上がった。



そして、結果発表当日。少し寒さが残る三月上旬。


逸る気持ちをなんとか沈めて、静かに番号が発表されるのを待つ。

既に人が何人もいて、不安なのか集団で来た人達は互いに励まし合っている。

俺は友達とは別々に結果を見ることにして、一人でいた。


しびれるような待ち時間を経て、遂に番号が公開される。受験票をグッと握りしめた。


結果は──





『──おめでとう』



俺は合格したら一番に伝えろと言った両親より早く零ちゃんに結果を報告した。電話越しの声でも、彼女も喜んでくれているのがわかって、いっそう嬉しくなる。


俺は手続きの書類を片手に、携帯電話をもう一方に、帰路を歩いている。


「まさか受かるなんてな……」


今でも信じられなかった。


『なに言ってるのよ、私があなたに勉強教えてあげたんだから、受かってなかったらタダじゃすまないわよ』


「はは、……手厳しい」


苦笑しながらも、ゆっくりと歩みを進める。



『でも、……おめでとう。よくがんばったわ』


その声は電話から聞こえるのに、すぐ近くからも聞こえるようだった。


「ああ、……ありがとう」


そして振り向く。


顔を後ろに向けた瞬間、細く白い指が俺の頬を突いていた。


「ふふっ……、偉いぞふみき」


零ちゃんの指だった。

彼女は買い物に行ってきたのか、片手に袋をぶら下げている。電話を切って、向き直った。


「どうしたんだ。家にいたんじゃないのかよ?」


「買い出しの帰りよ」


「ふぅん。そうか」


「それじゃあ、行きましょ」


「どこにだよ?」


「決まってるでしょ。私の部屋よ」


「なんで?」


「お祝いに決まってるでしょ。かわいい弟くんのために、ささやかだけどちょっとした催しでも開いてあげる」


「それはありがたいけど……」



弟……か。


昔は俺より背の高かった零ちゃんを今は俺が見下ろす形になっている。零ちゃんよりも背は高いが、彼女も背の高い方なのであまり大きくは離れていない。

と言っても澪ちゃんの瞳には俺がまだまだ子供に見えるんだろう。


だけど同じ立場の高校生になるのだから、土俵は同じだ。

情けないとか頼りにならないなんて言わせないくらい強くなってやる。


それが俺の目標だ。


「そう言えば……」


零ちゃんがなにか大事なことでも思い出しように呟き、訊ねた。


「あなたまた陸上やるの?」


「多分な」


実は俺は中学時代陸上部だったのだ。

これでも結構走ることに自信はある。


「確かにあなたは有能だったわね。部内の短距離最高記録を上塗りしちゃったぐらいに」


「なぜか足は速くなっちまったんだよなぁ……」


「長距離だって割とできるくせに」


「いや、それでもやっぱり長距離組には勝てなかったよ。専門が違うしな」


「あーあ、昔は私が勝ってたのになぁ……」


楽しそうに、いや、ちょっぴり寂しさを挟んで、溜め息を吐いた零ちゃん。たいして気にすることでもないと思うけど。


「女子の中じゃ零ちゃん速い方だろ? 中学のときだってよく運動部の助っ人やってたし」


「そうだけど……、やっぱり男女差ってあるものなのね。残念だわ」


「それほどまでに俺達が成長したってことだろ。いつまでも子供のまんまでなんかいられないんだから」


「あら意外、ふみきが生意気に正論を説いているわ。成長したっていうのはあながち嘘じゃないみたいね」


あんたの中身は変わったようでかわらないな。

だが外見は変わる。


彼女の容姿について言及するならば。


相変わらず顔の造形は美しく(詳しく言えば、目大きいうえに二重だし、顎鋭利だし、以下略)、長い薄茶色の髪は地毛だ。零ちゃんはクォーターなのでほんの少しだが日本人離れした顔つきだ。


後ろ髪は二つにわけてリボンで止められている。スタイルは背のたかさもあって良好である。


特に、……胸はいい形状だ。大きさも問題ない。充分ある。


「……どこ見てるのよ?」


ジト目で俺を軽蔑するような視線を向けられた。彼女は空いている片方の手で胸を隠している。


「ん、いや、零ちゃんもちゃんと成長したんだな……って」


俺の失言に零ちゃんは顔をほんのすこし赤らめてから、じろりと睨まれる。


「……ヘンタイ」


そして、すぐさま零ちゃんは歩調を上げた。

マズイと感じて俺も歩調を上げる。


「ごめん、悪かったよ。不埒な目で見てさ」


「…………」


「おい、……」


「……」


返事がない。


「わかったよ、なんかいうこと一つ聞くから」


意外とへそ曲がりな零ちゃんはこうでも言わないと一向に折れない。昔からこんな感じだった。


効果があったのか、ピタッと足を止める。俺もある程度の距離を保って、歩を止める。零ちゃんが振り返ったその瞬間──足を滑らせてこけた。


「いた……」


「おい、大丈夫か?」


「大丈夫、……ッ!」


どうやら足を捻ったらしい。痛所をさすりながら零ちゃんが俺を見上げる。


「おんぶ……して」


それが彼女のお願いとなった。

妙にクールな零ちゃんにギャップを感じてしまいついつい笑ってしまう。


素直に零ちゃんにお願いされるのはどんなことであれ、嬉しい。


「いいよ、わかった」


気軽に了承する。零ちゃんは多分そんなに重くないと信じている。


俺は前に出てしゃがむ。


「ほら、乗れよ」


「……」


言い出しっぺの零ちゃんは何か躊躇っていたようだが、俺の肩に手を置いてゆっくりと身を預けてくる。

柔い重みを背中に感じながら、立ち上がり、歩き出す。



「ね、ねぇ?」


「なに?」


「私、……重くない?」


背中から聞こえる、呟きにも近い声に俺は苦笑しながら、


「重いって言ったら」


「ウソっ……!?」


「うん嘘」


「…………」


暫時の間口を閉ざしていた零ちゃんだが、


「──ふんッ!」


「ぐえっ……」


からかわれたことに怒りを感じて、俺の首に腕を回して絞め始めた。

同時に体がより密着する。


「ぎぶ、マジでキツイって……!」


「ふんっ! 乙女の純情を傷付けた罰よ!」


気にしてるぐらいなら訊くなって話だ。

零ちゃんいい体してるのに、そこまで気にする必要なんかないだろうに。


「というか、乙女って柄じゃないだろ……」


「なにか言った?」


「いや、別に」



危ない危ない。また失言を漏らすところだった。いや、漏らしたんだけどさ。聞こえてなくてよかった。


「それはそうと、あなた結構成長したのね。なんだか背中が大きく感じるわ」


「それでも親父には勝ってないんだ。相変わらずデカイんだよな、あの人」


父親の身長は俺よりも高い。体格は中肉中背と、バランスが良い。


「確かにおじ様は大柄よね。それでも愛嬌があるから、親しみやすいのよね」


「耳が痛いな……」


親父は顔も強面な方ではあるが、角度を変えれば二枚目にも見える。それに冗談を言うにもそつがない。

大柄と言ってもそれらの理由から相手に恐怖感を与えることもあまりないのだ。


「不公平だ……、不幸だ」



「もう、ふて腐れないの」


零ちゃんは俺の頬にまた指を刺してくる。変に心地良いのはなぜだろう。


「全く、……いつまで気にしてるのよ。先天的に持っちゃったものはしょうがないじゃない」


「そうだけどさ……、零ちゃんはいいよ。綺麗に生まれてきて」


「でも中味が伴ってなければ最悪でしょ」


確かに零ちゃんは綺麗で天才肌である。だけど何より、俺は彼女の内面が好きだ。


「俺は今の自分が好きだ。そう思えるのは零ちゃんのおかげだ。俺の初めての友達になってくれた澪ちゃんのおかげなんだ」


言ってからなんかクサイセリフに思えてきた。あざとい彼女はきっとこれ見よがしに俺をからかうだろう。


「…………」


しかし予想外に、返事がない。


「……おい?」


「そっか。……私のおかげなんだ」


零ちゃんはなにか呟いたようだが、わずかに空気を震わせただけで俺の耳には届かなかった。


「ふふっ……」


今度は笑いだした。なんだなにがあった。


「大丈夫か……?」



「至って平常よ?」


その癖ニヤニヤは止まらないらしく、ふふっと笑い声が漏れていた。


「いや、そうじゃなくて」


「え、じゃあなにが?」


「そんなにサービスなんかして」


零ちゃんは気付いていないが、やがて、


「このっ……!」


その何かに気付き、再度首を締めた。


その際、また体が密着したのは、黙っておこう。胸が程好く背中に当たっていたことも。


寧ろご褒美だった。





「いらっしゃい、ふみきくん。合格おめでとうね」


零ちゃんのお母さんは、若々しく綺麗な笑顔で出迎えてくれた。美しく長い髪と整った目鼻立ちの良い面輪は娘の零ちゃんにも受け継がれている。


恥ずかしい話、昔から今でも向かい合うとドキドキしてしまう。おばさん、と呼んでも何も差し支えないのだろうがそれさえ躊躇われる。


その様子を知るや、零ちゃんはムッとして、


「行こ、ふみき」


「お、おい……」


「そういえばふみきくん、お家には帰らなくていいの?」


「ええ、連絡はあとで適当にメールしておきますよ。俺が受かったなんて知ったら親父が騒ぎだすので」


「ふふ、そうなの?」


そのような談笑の外で零ちゃんが袖を引っ張り続けていることに、そろそろ気を向けた方がいいんだろうなぁ。


「すみません、お邪魔します」


「どうぞ。後でお茶を持っていくわね」


「わざわざありがとうございます」


「いいわよ、お母さん。私が自分で持っていくわ」


「やっぱり、自分で渡したいのね。用意しておくから取りにきなさい」


「お母さん! 余計なこと言わないでよ!」


零ちゃんが顔を赤くする一方、その母はまるで姉のように意地悪になる。


普段クールな零ちゃんも母親の前ではタジタジである。

おどおどする澪ちゃんはそれはそれは可愛いのだ。


ところで、零ちゃんは何かを俺に渡したいらしいが……。


推察する暇もなく、俺は零ちゃんに手を引かれていた。


お前足痛いんじゃなかったのかよ。





零ちゃんの部屋は、今も昔も整頓されている。生活感など感じさせない、完璧主義らしい零ちゃんの部屋だ。思春期男子の部屋と違ってすごくいい匂いがする。


「適当に座って待ってて」


と言い残すと零ちゃんはすぐに部屋を出ていった。

言われた通り、そこら辺に座る。


部屋を見渡すと、懐かしいものが目に入った。棚の上のそれに徐に手を伸ばす。


「こんなもの……まだ持っていたのか」


俺が昔零ちゃんにプレゼントしたときの熊のぬいぐるみだ。

当時の俺は女子のことなんてさっぱりだったので、妹達に意見を求め、最終的にこうなった。


数年前の物だが手入れがされているのか、ところどころ修繕の跡がある。こんなに大切にしてくれるのならこいつも幸せだろう。


しかし、こうやって女子の部屋に入れるというのは得しているんだろうが……。


彼女が普段使用するであろうベッドや、ハンガーに掛けられている制服を見て邪な気分を抱いてしまう。


零ちゃんは大人っぽいが、エロいネタにはかなり弱く、すぐに顔を赤くしてしまう。その可愛さも俺を悩ませることになった。好きな子をいじめたくなるようなアレだ。


零ちゃんを意識したのは、彼女が中学に上がってからだった。

制服に身を包んだ彼女は大人っぽく見えて、俺はただただ顔を赤くした。


零ちゃんが中学生となってからは会う回数こそ減ったが、完全に縁が切れたわけでもなかった。


そして俺が中学三年に上がったときに彼女に「志望校を零ちゃんと同じ学校にした」と伝えると彼女は驚いてから、嬉しそうに笑った。


『――待ってるから』


その一言で俺は必死に勉強した。することができた。

今にして思えば俺は単純な男だったのだ。


そこで携帯がなった。


相手は同じ中学の「仙道さやか」だった。彼女も俺と同じ高校を受けたのだ。


『ちょっと、ふみき! 今どこにいるの!』


「ああ、ちょっと」


『ちょっとじゃないよ! 普通先帰る!? みんなふみきのこと探してたのに!』


「ごめん、……用事があって」


誰より先に零ちゃんに伝えたかったというのがあったのでそこら辺は考えなかった。


『まあいいけどさ。ふみきは……どうだった?』


慎重にさやかが訊ねる。


「俺は受かったよ」


『ほんと!?』


「ああ、みんなは?」


『みんなオッケーだよ! ていうかふみきが一番危なかったじゃん!』


「そうだな。俺が受かっていればみんな受かるだろ」


『ま、なんだかんだみんな受かったんだし、これからもよろしくね、って言いたかっただけ。それじゃ!』


「ああ、ありがとうさやか。一緒のクラスだったらいいな」


『そうだね、私たちずっと同じクラスだったもん! これからも多分一緒だと思う!』


「だな。みんなにもよろしくって言っといてくれ」


『うん、それじゃあねふみき』


「ああ、またな」


携帯をしまう。さやかはとても元気な女の子だ。中学で知りあい、クラスはずっと一緒で、いわゆる腐れ縁というやつだ。

ムードメーカーで他の人の気持ちを盛り上げるのがうまい。

かくいう俺も彼女の明るさに支えられた1人だ。


そこで、零ちゃんが部屋に入ってきた。お盆の上にケーキを紅茶を乗せていた。


「はい、お祝い」


「わざわざ悪いな」


「謝罪より感謝の方が個人的には嬉しいわね」


「ありがとう」


零ちゃんはケーキを切り分けて皿に分ける。

彼女はフォークで一口分救って自分の口に運ぶかと思うと俺の口の方へ持ってきた。


「はい、あーん」


俺はその誘いに乗るかどうか迷う。多分この場合、零ちゃんは簡単には食べさせてくれないだろう。

でも流石に今回くらいは……。


「はい残念♪」


口を開いた瞬間に澪ちゃんは自分の口に放り込んだ。


零ちゃんは平常運転だった。祝え。


「わかってたよ……」


俺は憮然として自分のものを食べる。

零ちゃんはそんな俺を微笑ましく見ていた。


「そんな顔しないの、ほら、あーん」


今度こそ、相手にはしないと思いつつも澪ちゃんの手元を一瞥してしまう。

……流石に二回目はないだろう。口を開く。


「はい時間切れ~」


またも自分の口に入れてしまった。流石にここまでやられるとムっとしてしまう。

調子に乗ってきたのだ。彼女は楽しんでいるが、それがまた釈然としない。


「……帰っていいか?」


「ほらほら、あーん」


今度はケーキの上のイチゴを摘まんだ。もうこの手には乗らないと思いつつも、零ちゃん自体はかなり楽しんでいる。

結局零ちゃんはそれも自分で食べた。

零ちゃんは苺をつまんだときに指についたクリームを見せつけてきて、


「舐める?」


などと煽ってきた。


……本当に舐めていいのか?」


俺は真剣な顔で言った。していいなら全力で行くぞ。

何時にもない真面目な声に、零ちゃんは顔を赤くして、


「……そ、それは、その、やっぱりダメー!」


直ぐ様その指を引っ込めた。


「そうか、ダメか」


もちろん本気で舐めるつもりはなかったけど、少し残念だ。


「と、ところで、そのケーキおいしい?」


「ん、ああ? うまいよ。甘すぎないし、俺好みの味だ」


「そっか、良かった」


嬉しそうに笑う。


「ああ、ごちそうさま……どうした、随分ご機嫌だな」


「至って平常よ?」


平常という割にはどこか綻びが見える。



後は駄弁るだけだった。


ちなみに、食べたケーキが零ちゃんが一所懸命作ったものということを彼女のお母さんが俺の帰り際に明かしてしまい、零ちゃんの顔はみるみる赤くなったとさ。




零ちゃんの家を出るときには夕日が出ていた。


寄り道していこうかなと思ったけど、今日ぐらいは真っ直ぐ家に帰ろうか。


しばらく歩いていると、公園に出た。昔からよくここで遊んでいた。その記憶もほとんど零ちゃんで埋め尽くされている。それぐらい彼女と過ごした時間が多かったのだ。


その公園に一人、銀色の長い髪をした女子がいた。顔つきは少し日本人離れしている。ハーフのようだ。少し日本人離れしているが、どこか儚げで、そんな魅力があった。


その人と目があった。俺は逸らすこともできなかった。けど逸らさないと相手が怖がるのではないかと思い、何もせずに立ち去ろうとして声をかけられた。


「あの……」


「……はい?」


俺ですか?


「この街は良いところですね。この公園の桜も、とても綺麗で……」


そう言って桜の雨にさらされている彼女は美しいというより他ない。


「そうですね。俺もここの桜は綺麗だと思います」


「いきなりおかしなことを訊ねてすみませんでした。ふふっ、昔この街で過ごしていたことがあったので」


「そうなんですか」


「はい。この街に戻ってこれて、とても嬉しいんです。ここは、私にとっては思い出の場所なんです」


彼女は懐かしむように語った。

何を思ったわけではないが、ここが思い出の場所というのが、見ず知らずの人なのに共感してしまう。


彼女の雰囲気のせいもあるのか、初めて会ったようには思えずにじっと見つめてしまう。

その視線に気付いた彼女が訊ねてきた。


「どうしました?」


「いや、その……」


いきなり、初めて会った気がしないというのはナンパしているようで嫌だったので、ごまかしの意味も込めて。


「いえ、すみません。綺麗な髪だと思って……」


不意に口から出たが、嘘ではない。間近で見ればその輝きは増す。


「この髪は母から譲り受けたものなんです。やはりこの髪色は見慣れませんか?」


「初めてだと……思います」


デジャブなのか、初見ではない気分だ。クォーターの澪ちゃんの地毛は薄い茶髪なので、日本人離れしているとも思えない。


「私はこの髪が好きです。けれどこの国はほとんどの方は髪が黒いです。それなのに、私の髪はこんな色で、顔も日本人に近くて……それが少し気がかりでして」


その人は少し困ったように笑った。彼女の生い立ちはわからないが、他者との違い、大多数の中から漏れる異分子、という認識が自らにあるのではないか。

ある意味俺もそれに近いのかもしれないな。


「生まれつきなのはどうしようもないと思います」


「そう、ですよね」


彼女は何を言っても納得はしないだろう。生来的なものは否定の仕様がない。


「あなたのそれは否定するようなものではありませんよ」


「……」


「あなたのその髪は、あなたがあなたであることを示している。その顔も髪もあなたの個性なんだ。……と思います」


過去に俺が零ちゃんに言われたことだが、俺が言うとどうにもしまらないな。

そもそもが受け売りみたいなものだし。


「それに、俺はあなたの髪が綺麗だと言ったでしょう? 俺みたいなやつだっているんです。あなたのことを綺麗だと思う人は必ずいます。俺がその証拠です」


彼女は目を点にして、俺を見つめていた。俺はどこかばつが悪くて目を逸らした。

彼女は静かに笑ってから、


「ふふっ、そのようなことを言ってくれたのはあなたが初めてです。ほとんど会ったことのない私にもそんなに優しく、熱く励ましてくれたのは」


上品な笑い方だった。


「いや、その、俺もよく顔が怖いって言われるから……その、少しは気持ちがわかるというか」


俺は照れてしまって頬を掻く。

この人がとても綺麗だったのだ。


「あなたのように素敵な人がいるなら、安心してこの街にいられます。ありがとうございます」


頭を下げられる。


「どういたしまして。それじゃ、俺行きます」


「はい、それでは。また、どこかで会うかもしれませんが、その時はゆっくりとお話できたらいいですね」


「ええ、その時はどうぞよろしく」


俺は会釈して帰路に就く。




家に帰ると妹二人と母に出迎えられた。


「お兄ちゃんおめでとう!」

「おめでとー、アニキ!」

「ふみき、おめでとう」


妹たちがくっついてくる。俺は二人を抱えながら、


「ただいま。それとありがとう」


「がんばったものね。よくやったわね」


頭を撫でられる。

母は晩飯を作っている最中だったのか、長い髪をまとめて、エプロンを着けていた。

妹二人を置く。


「これでお姉ちゃんと一緒の学校だね」


「だってアニキが学校選んだ理由って……もが!」


優希の口をふさぐ。当たっているが言うな。


「まあ理由がなんであれ、あなたが努力して入ったんだからいいのよ」


「母……」


母の言葉に俺は嬉しくなった。

母は次にこう言った。


「で、零ちゃんとは何か進展あった?」


「何いってんだ」


「だって零ちゃんの家に行っていたのでしょう? なんかなかったの?」


それは女子トークを楽しむ女子高生のようだった。何を期待しているんだこのおばさんは。


「ないよ。お祝いって言われてケーキ食わせてもらっただけだ」


「あら残念。でも、零ちゃんがふみきとなんて、ねえ?」


母は妹二人に問う。


「お姉ちゃん昔もだったけど、今すごく綺麗だもんね……お兄ちゃんに勝ち目ある?」


「アニキの顔も悪くはないけど、やっぱ怖いしな。しかも年下だし」


「うるさいよ」


どうして俺の家族は俺をいじることが好きなのだろう。兄貴の威厳はどこへ行った。


そこに親父が帰ってきた。

親父は後ろから肩を組んでくる。


「……ったくお前、受かったらすぐに連絡しろっつったのによお」


親父はそう言って俺の頭を掻き回した。


「悪かったよ」


「どうせ、零ちゃんのとこに行ってたんだろ。ったくこの色男が」


なんでこうも簡単にばれるんだろうな。


「そうは言うけど、親父だってその顔で母みたいに綺麗な人を捕まえられたじゃないか」


そういうと母が笑顔で俺の頭を撫でた。


「ばっか、ちげえよ。こいつが俺に惚れたんだよ」


「は? 冗談でしょ。あなたが私に迫ってきたじゃない」


「いやちげえよ」


「違わないわよ」


とそれを皮切りにあれこれぐだぐだと言い合うのがこの夫婦なのだ。俺たち兄妹はこのやり取りに慣れていた。


ある程度落ち着いてから親父が、


「お疲れ、よくがんばったな」


親父にも頭を撫でられる。


「ありがとう……受かったのはみんなのお陰だよ」


「そうそう、それくらい素直なのがいいんだよ、お前は。顔のことなんか気にすんな。寧ろ俺の遺伝子をちゃんと受け継いでるのはお前だけだからな」


「そんな気にしてない」


気にしないようにしてるだけで、内心気にしている。

親父は多分申し訳ないと思っている。

それはわかるから、あまり顔に関しては触れないようにしているのだが。

新たな環境で俺が躊躇わないようにと、背中を押している。


「ふみきって名前はお前が迷わずに踏み切れるようにと願ってつけたんだ。お前は女っぽくて嫌だと言っていたが、俺は間違いじゃなかったと思っている」


「そんな意味だったのか……」


「もっとも昔は名前負けしそうだと思ったが、今はなかなかどうして男の面構えになってきてるな。俺にはまだまだ及ばないだろうがな」


「はん、いつか追い越してやるよ」


「はん、そんな簡単には抜かせねえよ」


母は俺と親父を見比べながら、


「この親にしてこの子ありだわ」


呆れつつもそれを見守るのがうちの母なのだ。

妹たちは年に比べて賢いので母の目線に合わせて俺たちを見ることが出来るようで、


「昔はお兄ちゃんこんなじゃなかったのにね」


「父さんと似てきちゃったのかな?」


「血は争えないのよ。ごめんなさいね、ふみき」


母に抱き締められる。


「おいこら、希純(きすみ)。それは暗に俺が害悪だっていってんのか?」


希純とは母の名前である。親父は母を母さんやママなどと呼称しない。


「あら、そこまでは言わないわよ。茂樹の悪いところもふみきにうつったら嫌だっていってんのよ」


茂樹とは親父の名前である。こちらも父さんと呼称したりしない。


「ああ? 何が悪いって?」


「変な冗談かましたり、短気だったり、まだまだあるけどね」


「ふざけろ。お前だって変なところで拗ねたり、やたら構ってちゃんだったり、いい加減にしろし」


俺のことで言い争いを始めた両親を妹たちが制す。


「お父さんもお母さんもこどもの前でみっともないよ」


「まったく、もう少し大人になれよな」


俺よりも小さい妹二人にそんなことを言われて、二人とも黙った。俺はどうすりゃいいかわからずに母の胸の中でじっとしている。


「……悪かったよ」


「ごめんね……」


二人とも視線を合わせづらいのか、憮然としていたが、親父がはあ、と一息吐いてから俺を巻き込んで母ごと抱き締めた。


「愛してるからな、希純!」


「ちょっと、やめてよ、苦しい」


と言いつつ母は満更ではないようで、怒りながら笑っている。どんな茶番だ。

俺は母の柔い胸と親父の厚い胸板に挟まれてただただ苦しい。


「あーあ、また始まった」


「うちの父さんと母さん、ほんとバカップルだよな」


俺は無理矢理二人の間から抜け出した。この人たちがいくらでも言い争えるのはお互いを信頼しているからで、気分的には若いときの延長であるらしい。名前で呼ぶのはその絆の表れだ。


「俺はともかく、どうしてお前らみたいに良くできた妹が産まれたのか俺は今とても疑問だ」


「それはお兄ちゃんがいろいろ吸ってくれたからかもね」


純花の言葉には毒がある。その言い分だとマイナス要素が俺に集約しているわけだよ。


「でもこういうの見てるとアニキっていうほど父さんたちに似てないよな。顔は父さんに似てるけどさ」


「顔は余計なお世話だ。しかし、どこが似ているんだろうな」


「お兄ちゃんが地味にいたずらとか意地悪好きなのは多分お父さんの影響だよね」


「少し拗ねやすいのはお母さんの成分だよなー」


「……思いの外似ているんだな、俺は」


二人はようやく離れて、


「それじゃあ、ご飯にしましょうか。ほら、みんな準備して」


今日は俺の合格を祝うためか、食事は豪勢なものだった。




夜中に目が覚めた。


起きてトイレに向かうと、リビングが明るかった。



「――それ本当なの?」


「まあ、しょうがない。金はちゃんと入れるから安心しろ」


「そうじゃなくて、一人で生活できるの? 茂樹はそこら辺スボラだし」


「何とかするしかねえだろ。お前を連れていく訳にはいかねえんだし」


「それはそうだけど……」


どうやら仕事の話らしい。しかも親父の単身赴任みたいな感じか。

それで母は親父を一人で行かせるのが心配だと。


「そんな気にすんなって。毎日メールくらいは送るさ」


親父はわははと笑ってから母の頭を撫でた。母は少女のように顔を赤くした……うちの母は若く見えるが少女と比喩するのはキツかった。訂正。顔を赤くした


そしていつの間にかキスしていた。親の生キスを目前に見せられて俺はなんとも言えない気分になった。しかもこいつらフレンチまで行ってるから余計に。もうベッド行けよ。


俺はわざとらしく欠伸をしてからトイレに行き、帰りに二人のリビングに入った。二人はばつが悪い顔で取り繕うように笑った。


「どうした、寝れねえのか」


「いや、さっきの話聞いてたからさ」


「ああ、気にすんな。希純は連れていかねえよ」


「いや、母も行きなよ」


「え? なにいってるのよ」


「だから母も付いていきなよ。うちの家事は俺がやるからさ」


「お前……陸上どうすんだ? ずっと好きでやっていたんだろう?」


親父が真剣な目で見つめてくる。俺はそれを受け止める。


「家族のためなら構わない」


それを言うと母にデコピンされた。


「子が親に気を遣うんじゃないの。かっこつけちゃって」


バカップルだが、こういうときはちゃんと親の顔をする。真面目に取り合ってくれてるから、俺も話ができる。


「俺は別にいいんだ。親父が稼いでくれるから学校にも通えるわけだし。なにより稼ぎ頭を支えてやるのは妻の役目だろ」


「お前が金を気にする必要なんかない。お前はやりたいことをやれ」


「俺のやりたいことは親父と母を支えることだ。忙しくなる親父には母が必要だと思う。だからさ、母も一緒に行きなよ」


「……でも」


母はまだ渋っている。


「親父は料理できないしな。母がいなかったら連日コンビニ弁当でメタボになって倒れるだろうし。そんなんで理想の親父像が壊れるのも嫌だしなあ」


親父も母も俺がそこまで言うものだから、言葉を継げなくなっている。


二人とも俺の力が必要であると自覚しているのだろう。

ケンカはするけど、お互いとても愛し合っているから本当は離れたくもない。親が子のために無理をするなら、子が親のために無理をしてもいいはずだ。

そんなことを言ったら親父も母も怒るだろうけど、それでいいと思う。


「子供にそこまで言われちゃまだまだだな、俺も」


「いや、私達がね」


「ふみき、俺の次の職場は大分遠くてな……情けない話、一人じゃ不安ではある。だが、お前から大事なものを奪ってまで希純を連れていこうなんて思わない」


「違うな。親父が奪うんじゃない。俺が捨てるんだ」


「それが許せないんだろうが。お前が昔友達が一人もいなくて、俺が代わりに走り方やスポーツを教え続けたのはな……走るお前がとても楽しそうだったからだよ。だからお前に陸上を止めさせたくないんだ」


「大人のわがままはみっともないぞ」


「子供の意固地はかわいくないだけだ」


「何かあってからじゃ遅いだろ。母は付いていくべきだ」


「うるせえ、一人でもなんとかならあ」


「だから無理すんなっていってんだろ!」


「無理なんかしてねえよ!」


「親父が一人で暮らすなんて無理だ! 大学の時だって、母と同棲してたからなんとかなってたんだろ!」


「少しは家事ができたわ!」


「飯も掃除もまともにできたことないだろ!」


「ちょこっと練習すりゃなんとかなるわ!」


こんな不毛な言い争いが朝まで続き、最終的に親父が根負けして、


「わかった……最初の数ヵ月は希純を連れていく……だがいいか。お前に無理が生じたり、陸上に対しての想いが抑えられなくなったら、すぐにでも希純を送り返すからな」


「ああ、……わかった」


それでこの話は片がついた。


お互いぐったりとしたまま床についた。

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