ローリー・ウェーブ・ガール

敦賀八幡

月が見ている

要という男は三十代間際の二十九歳で、政府の特務組織の一員だ。要人警護と暴徒撲滅、対テロ行為を主な生業としている。死と隣り合わせのこの商売は、出勤が少ない代わりに見返りが大きい。一ヶ月に仕事があるかないかで、給料も日数に見合わないほど口座に振込まれる。今回も上司の命令を受け、三日の間豪華客船でガードを勤めてきた。何事もなく済んだのは幸いで、この仕事が終われば長い休暇がもらえることになっている。

 現在要は帰路を急ぐ。腕時計を見る。十二時を回っている。月明かりの下を出来る限り走る。十二時十五分になってようやく帰宅。家の玄関と一室は灯りが灯っていた。

 なるべく息を荒くしないように自分を落ち着かせてから家に入る。リビングでは食卓に肉を焼いたものが乗っけられている皿がラップ掛けしてあった。そしてそれを用意した少女が腕を枕にテーブルで眠っている。長い金髪がテーブルの上に散らかり、すやすやと寝息をたてていた。

少女は『サエリア』という。要はリアと呼称している。十年ほど前に要が任務の際に保護した少女で、上からの命令により同居を命じられた。もう十年来の付き合いになる。

リアはとある非合法組織の被検体だったらしい。どのような体験をしてきたのはわからないが、調査の結果酷な扱いをされていたことがわかった。同時に信じられないことも発覚。このリアという少女の生まれが百年以上も前だということだ。リアは成長が常人と違い異様に緩慢で、見た目は十四歳なのに実年齢は百と数年。要の何歳も年上だ。それはとても人間離れした話だったが別段気にするような話でもなかった。

「起きろ。風邪をひく」

「うん……あ、おかえり、要」

「おかえりじゃない。帰りが遅くなるから先に寝ていろといっただろ」

目を擦りながら、リアは欠伸をしてから答える。

「だってご飯は一人で食べたら寂しいよ。私は先に食べちゃったけど、一緒にいてあげるね」

「……」

その言葉が彼女自身のことを示しているのだということはすぐにわかった。仕事で三日も家を任せっきりにしてしまったのだ。リアが孤独を嫌うことは要も長い付き合いから知っている。彼女はそのようなことをおくびには出さない。それに自分が甘んじていることを良しとはしたくなかった。だが生活していくには今の仕事をこなしていくしかない。

「……わかった。なら俺が食い終えたら、とっとと寝ろ」

「うん、じゃあお味噌汁温めるね」

嬉々として米をよそる姿に要は少し安心している。機嫌は悪くなっていないらしい。リアを一人にするとひどい時は癇癪を起こす。大声で泣かれて、あやすのに相当骨が折れたのもいい思い出だ。最も、それが頻発したのは同居してから三年目までだが。

「はい、お待たせ」

夕食が並べられる。リアは仕込んでもいないのに料理含め家事をそつなくこなす。そういう事に無頓着な要にはありがたかった。

「ああ」

箸を手に取り、茶碗を持とうとしたら、

「ダメだよ要、ちゃんといただきますって言わなきゃ」

「……いただきます」

渋々彼女の言に従い、手を合わせる。それを確認すると、まるで母親のつもりなのか、「うん、召し上がれ」と鼻高々に微笑む。それに大した興味も示さずに要は箸をすすめる。肉を一口噛んでから、米を口に運ぶ。疲れが溜まっていたのか妙に箸が進む。リアの作る料理は要の作るそれよりも味が良い。手際も良く、飾り方も雑ではない。報告書のまとめのために本社へ赴いた時に持って行かされた弁当を食った際には、同僚から「夫婦なんじゃないか」とよくからかわれたものだ。

「……」

リアがこちらを見ている。その柔和で穏やかな視線が気になって、一度箸を止めた。

「なんだ、何が言いたい?」

「ねえ、今日のごはんはおいしい?」

リアは食事の際にはいつもその確認を忘れない。要にとっては鬱陶しいが、裏を返せばリアは要の好みの食事を作ろうとしているのだ。悪いところをはっきり指摘してもらい、次こそは喜んでほしいと。

リアは要に尽くすという喜びを感じたいのだ。褒めてもらい、頭を撫でてほしいと、少女のように甘えたい。少女どころか女の気持ちすら察することができない男がそこまで勘付くはずもないのだが。

「うまい」

どこが、は言わない。正直ある程度腹に入ればいい、というのが正直なところで物相飯でなければ何でもよかった。

リアはその一言を聞かせれば喜んでそれ以上は言及してこないのだが、最近はそうでもない。

「どこが、どこがいいの?」

これを訊かれるのもわかっていたのだが若干面倒臭かった。しかしへそを曲げられるのも嫌で、なんとか言葉を紡ぐ。

「肉の味付けだ。醤油を元にソースを作ったと思うんだが」

「そう、そうなの! 醤油にみりんとお酒を混ぜて焼いたんだよ」

嬉しそうに解説を始める。リアは料理が好きで、ひとつ屋根の下で暮らすことになった当初、要の美味くも不味くもない料理を二人で食っていた。しかしどうにも味が気に入らなかったのかいつしかリアがキッチンを独占するようになっていた。別にそれに対して文句や不満はなかったが、料理の経験がないリアが厨房を汚すというある意味必然的な大惨事を味わってからは一人で厨房に立つことは禁止にした。無論包丁だって握っていいのは要が横にいるときだけだった。流石に五年も過ぎたあたりからは目を離しても安心できるようになった。

「ねえねえ、ごはんは? おいしい?」

期待に満ちた視線。リアは要がやや硬めの白米を好むのを知っているので、自信があるのだろう。その好みの通りの飯を食っている要には頷くことしかできない。

「じゃあ、お味噌汁も飲んで!」

「待て、俺は――」

「大丈夫、要は猫さんだからそんなに熱くしてないよ」

「……そいつはどうも」

――これじゃ本当にまるで夫婦だ。要は自嘲気味に目を伏せる。出会った当初はこんな関係になろうと誰が予測できただろうか。三十代に迫るというのに食卓を共にするのは妻ではなく、謎の居候。全くもってどういうことだ。銃を持てば百発百中、刀を持てば鬼のよう。しかし同僚の女からは色気がないと言われ、一時は男色家ではないかという噂までたった。要は戦い以外の物事にかなり疎い。それしか知らないのだから、仕方がないと言えば仕方のない話だ。

要は家族というものを知らない。気づいた時には組織に所属していたし、それに疑問を抱くことなどなかった。

――ただ、父親のような人間はいたがな。

その人が全てを教えてくれた。戦い方、生き方を。その人はとある任務で帰らぬ人になってしまったけれど。

要とリア。二人が住まいを同じくしてからは、それはもうとても温厚な家庭とは言い難かった。とりあえずリアは要と口を利かず、殺意を孕んだ視線を向けるばかりであった。要はそれをわかってはいたが、だからと言って何ができたわけでもない。とりあえず組織のお偉方が面倒ごとを自分に押し付けてきたのだとすぐにわかった。

――まあ、やむなしか。テロ組織を叩き潰した際に拾ってきたのが運の尽きだったな。

組織を叩けという命令を受け、その際にリアを保護したが、それは任務外であった。一応一般人の保護も考慮する組織ではあった。そのはずだったのだが、調査の結果リアは複雑な少女であったせいか処理に困った上層部が家内が居ない要に白羽の矢を立てたのだ。

諜報部からの報告によれば、リアは非合法の研究機関をたらい回しにされたようだ。扱いは最早人間に対するものなのかどうかもわからなかったらしい。彼女の憎しみに染まった瞳を目にすれば誰もがどんな仕打ちを受けたか容易に想像できるだろう。ただ、程度は予想できるだろうが、何をされたかまでは難しい。他人事とはいえ、さしもの要も嫌悪感を催した。幸いなことに、非合法組織は同業者の手によって壊滅したらしい。同居するうえで闇討の心配がなくなったのには大いに安堵の息を漏らした。かといって物騒な同居人とのこれからを考えるとそんなことは些事だった。

同居した日にいきなり肉を持っていかれそうなほど噛み付かれたときは、職業柄反射的に殴り飛ばしてしまった。そして動かなくなった少女を介抱して、一応保険として、腕を拘束しておいた。その対応がなければもう少し早く関係を良好なモノにできたかもしれない。

――今となっては後の祭りか。

今は目の前で人の気苦労を知らずに微笑む少女を守ることだけを考えた。



  ※



同居してから一ヶ月経った頃。リアの腕を拘束し続けたところ、流石に襲い掛かってくることはなくなった。調教のようで気が引けたが、安眠を得るためにはそうするしかなかった。

「いいか、刃物は持つな」

「……」

ある程度上下関係を理解したのだろうか、最初ほど厳しい目付きではなくなった。しかし、だからといって簡単に安寧が訪れるわけではない。いつだって危険と隣り合わせのこの空間で過ごしていくのは、強盗犯に遭遇した時よりも肝を冷やされる。とりあえず上司に相談したところ「しばらく休め」と言いくるめられてしまった。それはつまり自分でなんとかしろということなのだが、こればかりは無頓着な上司を呪った。とりあえず食卓には付かせることはできたが、要ができたことはその程度だった。要が作る料理は決してうまいとは言えないが不味くもない。手順は悪くない。ただ余計なことが多い。

要の育ての親であり師匠である人物が教えてくれた料理を再現したいのだが、うまくいかない。育ての親父の手順じゃなければ、もう少し美味になるのかもしれない。リアは黙って咀嚼を続ける。何も言わないが、飯を食っていると時々目から殺意が消えるのを垣間見る。

「…………!」

「どうした?」

そんなときは一応訊いてみるのだが、返事はない。聞いていないのか、黙々と食べる。要も静かに口を動かすが、視線は常にリアを捉えていた。何時箸が飛んでくるのか予想ができない。誤って目をやられれば仕事に支障を来たす。戦う以外に稼ぎ方を知らない要には大きな痛手となる。さすがにそれは勘弁願いたい。



寝るときはリアを仕方なく拘束する。部屋を別にして鍵をかけ、保身を図る。抵抗する意が薄くなっているとしても、警戒は怠れない。油断を見せたら殺されるかもしれない。

「悪いな……許せ」

それでも詫びを入れるのは罪悪感が多少なりあるからだ。両腕を紐で緩く縛る。しかし簡単には外せないようにした。

「……」

反応はない。じっと厳しい目付きで要を凝視するだけだ。

例えリアが失禁しようが糞を漏らそうが、自分の命に比べればその後片付けなど安いものだ。気遣いかどうかはわからないが、オムツはつけてやっている。いや、苦痛に感じているかもしれない。屈辱も感じているだろう。

しかしリアが何も言ってこないのだから、気持ちを尊重してなどやれない。

「なにかあれば呼べ。俺が来なかったら叫べ」

これは要なりの妥協だ。本来なら全身をベッドに押さえつけるべきである。

「…………」

そのような言いつけは最初から伝えてある。一度も要が起こされたことはないが。

脱走を図りはしないらしい。自殺もしないようだ。別にリアが死んだところで要の生活が元に戻るだけで、何も悪いことはない。だが朝目覚めて、最初に目にするものが少女の死体だったら、決していい気はしない。このままの関係も嫌だが、勝手に死なれても夢見が悪い。

――全く、人の気も知らずに勝手に死にやがって。

今は空よりも高い場所で惰眠を貪っているだろう親父に独りごちて床に就いた。



翌朝、リアの部屋を確かめるとリアがベッドから、落ちていた。ぐったりと体を横たえ、活力がないようだった。

「大丈夫か?」

腕の拘束を解く。息が荒く顔が赤い。額に手を当てると、

「風邪か……」

体もぐっしょりと汗に濡れ少し震えている。タンスから替えの寝間着と下着、タオルを出す。下着を残し、全てを脱がせると白い肌が露出する。日に当たらないのか、健康的な白さとは言い難い。今にして思えば家に置いてから一度も外出していない。服装も同僚や自分の使い回しのものを与えていた。あまりにも無頓着だったか。

「うう……」

リアが呻く。思考に耽けてしまったせいで服を脱がしっ放しだった。体をタオルで拭き、下着を脱がす。全裸を目にしたからと言って劣情を催すことはなかった。流石にリアの体は綺麗ではあるが幼すぎる。体は年相応に肉がついているが、胸の膨らみと腰のくびれがない時点で、肉欲が沸かない。同僚で妙齢のいい肉付きの女とその場の雰囲気で寝たことがある。朝起きたときは、そういうことが初めてだったせいか頭の整理ができずに呆然としていた。まあだからと言って関係が変わったわけではなかったが。

昼になってから粥を作ってやる。朝から何も与えていない。自分の分も含め多めに作る。部屋の扉を無用心に開ける。恐らく動けないはず。

「……」

やはり、何もなかった。バットで襲ってくることも、ゴルフクラブで殴りかかってくることもなかった。ベッドの上で完全に伏している。

「おい。体を起こせるか? 飯を持ってきた」

「……」

顔だけを向けてくる。辛いのか切ない表情。要は同情して、手を貸す。リアは上半身を起こすと、頭に手を当てて、眉根を寄せる。頭が重くてどうしようもないのだろう。

これはまいった。座椅子でもあればよかったのだが、ない。考えた末に自分が背もたれとなり、後ろから手を回して粥をすくってやろうという結論に至った。リアの体をずらす。背後に周る。その間リアは一切の抵抗を見せなかった。

リアの長い金髪が邪魔くさかった。シャツの合間の肌に触れてこそばゆい。

レンゲを持ち、

「口を開けろ」

無抵抗。口に粥を入れた瞬間、リアは顰め面になる。

「どうした?」

味を確かめる。問題はない。というより粥がうまいものであってたまるか。多分、熱かったのだろう。舌を出してのびていることを見ればそれが原因だと理解した。

「すまんな、気をつける」

口でフーフーと熱をとばしてからリアの口へ運ぶ。飲み込んだのを確認してから次の一口を持っていく。そうして不思議な座位を保ったまま、なんとか食欲を促す。

食後に、薬を飲ませる。服用しないほうが早く回復はするのだが、思いの外熱が高いのでやむなく、ということだ。そのおかげかさっきよりも安らかな表情だった。すやすやと上下する胸を見れば少しは安心する。

要はどこか、変な気持ちだった。一人で生きていたはずなのに今はこうして人の世話を焼いている。問題はそこではない。なぜだか、それを面倒だと思っていないことがあまりにも不思議だった。リアと出会い生活が変わっていく。前よりも気苦労が増え忙しくなった。正直、任務よりも大変かもしれない。それでも今はこれでいいのかもしれない。要の商売は人を守ることだ。この少女の世話を焼くことが本懐に繋がるのであれば。ただ、見返りが得られないのは仕方の無いことだ。無一文の女にそこまでのことを求めはしない。

そうして暫くゆったりしていると、眠気に襲われて要は何時の間にやら横で眠ってしまった。



  ※



要がまだ十にも満たぬ頃に父親と呼んだ男が自分に言ったことがある。

『いいか、お前はいつか誰かを守るこの職に就かなければならない。何時死ぬかわからない。それでもお前はやっていけるか?』

そのことを否定はしなかった。それが当然だと思っていた。教えられていることの大半が武芸に関したものだ。その道を歩んでいることに疑問は抱かなかったし、何より父親と一緒なのだと、心のどこかでそれを誇っていた。

いつも父の背中を見つめ、追ってきた少年の目は子供特有の輝きを持っていた。そのような可愛げを失ってしまったのは、父親が任務で命を賭してこの世から消えたときからだ。

父は何を考えて散って行ったのか。断末魔の叫びを聞くこともなく要はただ、泣いた。今までで一番素直に感情を発露できたのはこの時だけだ、と数年経った今でも思い出せるほどに強烈に心に刻み込まれた記憶。

偉大な男に仕えて、役に立っているという実感を得るために戦っていた要は目的を失った。自分を肯定してくれる人間を失って、気力を失った。

それでも剣を捨てなかったのは、人を守るために殉じた父の意思を継ぎたいと願ったからだ。少年が背負うには重荷で、いつか壊れてしまうのではないかと不安に見える背中に同僚は誰もが口を揃えて可哀想だと言った。しかしそのように自分を憐れんだ連中を、研磨された技量と同じ人間を討つことが出来るという悲壮な覚悟で黙殺してきた。あとは簡単だ。周りから注がれていた同情は、恐怖へと変わった。それもいつしか仲間と任務を重ねるうちに信頼へと変わる。年を重ねることで命を預け合う関係を築くこともできた。

視界が開けて思う。

ああ、自分は親父を追い抜くことは出来ないのだなと。




  ※



要が目を覚ますと、夕方だった。夕日が窓から差し込み、目を眩ます。

「……寝てしまったか」

つい、気を抜いてしまった。任務中であれば大失態だ。

リアは未だに眠ったままだ。眠ったまま泣いている。

これはどうしたことだ。悲しそうに顔を歪めて、うなされている。口が何かを呟いているが、うまく聞き取れなかった。

「……おかあ、さん」

「母親のことを思い出しているのか……?」

――そうだな。こいつも人の子だからな。

それならば親はどこへ行ったのだろうか。リアは一人で実験台として様々な研究機関を転々とたらい回しにされていた。その中で心は病んでいき、甚振られた末に、今に至る。本来ならもっとマシな家に拾われるべきなのだろうが、彼女をたらい回しにした原因がそれを許しはしなかった。

常人より遥かに成長が遅い。様相は少女であるのだがその実百歳を超えた老婆とも言うべき存在。いや、ここまで来ると子や老人という形容はどれもその範疇から外れている。もっと、何か別の何かが良いのかもしれない。

リアのその身体異常は先天的か後天的化は知らないが、人間であるならばどちらの可能性も正しい。人為的に――人の手で得た延命手段ならば、それはとても哀れなことだ。自分という人間を曲げられたのだ。楽には死ねず、永い年月を孤独を抱いたまま一人で歩いていかなければならない。下手をすればまたどこかに目をつけられて実験に使われてしまう。

――死ぬよりも辛いかもしれない。

それでも未だに死を選ばないリアは何を想うのだろう。死に方を知らないだけなのか、それとも――

そんなこと、十代の男が推し量るには、経験と知識が浅すぎた。

「……げほ」

何やら今度は要が風邪をひいてしまったらしい。

――そういえば……同じ蓮華に口をつけていたか。

立ち上がると、体が重く、億劫。力が入らない。面目ない。木乃伊取りが木乃伊になるとは。リアを一瞥する。

「……」

ようやく悪夢から解放されたのか、また穏やかな表情に戻っている。それがわかったので早々に部屋を出る。要自身も寝なければならないようだ。残っていた粥を少量口にぶち込み、強引に飲み込む。不味い。こんな味のないものの何がいいのか。発明した奴には色々な意味で舌を巻く。要は風邪だろうがなんだろうが、病床に就くときは飯は必ず通常の米を食う。粥は喉を通りやすく摂取するには最適だろう。だが普通食に戻した瞬間、粥に順応していた胃がそれに対応しきれず、胃の回復が遅れるといった事態になる。任務中では食事を摂る機会が多くないせいもあって、様々な簡易食に適応できるように日々胃は鍛えておかなければならない。

今回ばかりはリアがいるので仕方なく粥を作ったが。二度と食いたくない。味にこだわるわけではないが、無味はやはり厳しい。



夜、目が覚めた。夕方から完全に移行したようだ。そして要の部屋の前に誰かいる。扉一枚挟んで誰かいる。身構える。

「リアか……?」

彼女が自分に用があるとすれば。やはり……。

――俺が弱っていると踏んで遂に殺しに来たか。いいだろう、受けてやる。

熱が復帰を拒ませるが、右手には重い鉛、トリガーに指をかける。ノックもなしに無遠慮に開けられる。視線を投げる。リアが持っているものは包丁――なんかではなく、鍋だった。要が自分とリアのために作り置きしておいた粥が入っている鍋だ。何故リアがそんなものを持っているのかは知らないが、敵意がない。リアはそれを枕元に置くと早々に消え去った。窓から差し込む月明かりに照らされたリアの背中を見届けて要は一息ついた。

そして要の意識は現代へと戻る。



  ※



「――ねえ要、どこか遊び行こうよ」

夕食を終えて、タバコの代わりに茶を飲んでいた。リアの前では煙たがられるので、吸えない。

「どこに行くと言うんだ? 海外なんて勘弁だからな……」

仕事で散々世界を回っているのだ。今も行って帰ってきたばかりだ。

「遊園地がいい!」

「……それはそれで面映ゆいな」

要は渋い顔をする。三十にも近い男が娘にも見える女と共に遊園地に行くなどとんでもないことだ。羞恥の極みだ。

「いいじゃん、行こうよ!」

「確かに、今まで行ったことはないが……、かと言って」

「じゃあ決まり!」

「お、おい。まだ行くなんて一言も」

「じゃあお風呂入ってくるねー」

話を聞いていない。嬉々とした足取りで去っていく。楽しみらしい。そんなに期待されても困るのだが。

「……」

携帯を取り出してネットを巡る。

「……近いところは、車で一時間か」

リアを寝かせた後でそれとなく楽しそうな場所を探していたら、朝になっていた。



  ※



リアと要が風邪から復帰すると、今までリアから感じていた殺気が見えなくなったことに驚いた。要は不思議と心を許していた。いや――油断していたと言うべきだ。結果としてそれは悪い方へ物事を進めた。



今ならば普通にリアを連れて買い物に出かけられる、と要は何も疑わなかった。それは前述のように、自分に対しての敵意が薄れたことに対しての安心と、今彼女が服の採寸に何の抵抗も見せないことに依る。リアはよくわからないらしいが、要はリアの服を購入しようとしていた。

女子にしてはあまりにも服が少ない。十四歳(見た目が十四歳。実年齢は百と少し)の少女は大体マセていて、服装には気を遣うはずではないか。それは要の主観なのだが、本心では女子がそういうものであると思い込んでいるので、着飾ることができないのはリアに負担をかけさせているのではないかと懸念していたのだ。

――全く、この女が居なければもっと楽だろうに。

それは嫌味ではなく自分に対しての確認だ。そんなことを自問するのは、このままでもいいかと思っているからだ。一人退屈で空虚な時を過ごすのではなく、こうやって知らない人間を知っていくことのほうが面白いと思うからだ。よくよく考えてみれば他人に執着したことなどない。唯一、負傷した際に看てもらう医者とは腐れ縁が出来上がっているが、歳の離れた女(年上)と暮らすことになろうとは、数奇な人生だ。

「しかし、どんな服がいいんだろうな……」

さっきから適当に服を合わせてはいるが、要はやはり無頓着であった。無駄にティーシャツをカゴに放り込んでは、それしかない。リアの意思をいささか無視している。バツが悪くなってリアに訊ねる。

「お前、どんなのがいいんだ? 別に金は気にしなくていいから、好きなのを選べ」

「……」

そう言うと、小首を傾げてから、フラフラと店内の中を回り始めた。彼女の興味の赴くままに要は付き従う。正直、店員に任せるのが一番なのだろうが、それを訊くことも要には躊躇われた。組織内では最強と囁かれている男がよりにもよって他人の女のためにあれこれ試行錯誤する姿はあまりにも滑稽で情けない。そんな変なプライドが邪魔してなかなか口に出せない。

思い知らされる。同僚に言われた、「お前は女に興味が無さすぎる」まさしくその通りではないか。

リアが一着を掴む。それを手に取ると試着しに個室へと入る。試着室のカーテン正面で待機する要。なぜか周りは女ばかりで要の巨躯はやや浮いていた。こちらに向けられた視線が鬱陶しい。頼む、早く出てきてくれ。その場から離れようとした瞬間、シャツの裾を掴まれた。中を覗くとリアが伏し目がちに要を見上げていた。

リアの服装は白いインナードレスに黒のワンピースを合わせたものだった。若干、マセてはいるが、ありだろう。ただ、自信があるのかないのか、照れくさそうにしているだけでうんともすんとも言わない。

――しょうがない。ここは衆人に判断を仰ぐか。

要はバッとカーテンを開ける。次の瞬間、人々の目がリアに集まった。その中の大多数が手を止め感嘆の息を漏らした。元来リアは美少女の類だ。それに少々の味付けでこんなにも良くなる。

しかしリアは顔面蒼白になって、フラフラと倒れ込んでしまった。ひと目に晒されるのが苦手だったらしい。

「お、おい」

失神したようだ。これには参ってしまった。まだまともに服を買っていないのに。しょうがないので着衣しているものを脱がさずにリアを担ぎ、あとは適当に服を購入して店から出た。



「……」

ベンチに座り要はリアに膝を貸してやった。筋肉でゴツゴツした枕は決して気持ちのいいものではないだろうが。

自販機で買った茶を飲みながら、リアの表情を確かめる。今日は何故か幸せそうな顔をしている。それを目にした瞬間自分の口角が上がったと要は自分自身で気付かなかっただろう。

「しかし……こうしてみれば餓鬼でしかないんだがな。こんな形で俺よりも年上だと思うと……」

いろいろと面白い。世界は広い。リアと触れ合うことで要が知らないことがよくわかる。スリリングな日々ではあるが、見返りは中々なものだ。

「……!」

「起きたか」

リアは体をゆっくりと起こすとベンチに凭れる。要とは距離を置く。ジト目で要を見つめていた。

「なんだ、怒っているのか? 大丈夫だ。誰もお前のことを笑ったりはしていない。むしろ羨望の眼差しを向けられていたぞ」

「……」

要の言い分を理解したのかどうかは不明だが、そっぽ向いてしまった。要は後ろから冷えたアルミ缶を頬に当てた。リアは何事かと要に向き直る。

「ほら、飲め」

リアの手に無理やり缶を持たせる。プルタブ方式を知らないらしく、缶を持ったまま硬直した。要が開けてやる。それを恐る恐る啜ると、目を輝かせた。中身はオレンジジュースだ。どうやらお気に召したようで、要もリアの好きなものを覚えていようと思った。

その日は何事もなく終了した。



そして要はもう大丈夫かと思った。組織と連携している病院にてリアを診てもらおうと思ったのだ。体の状態を確かめる必要があるし、何よりリアの異常も気になる。後者は、拾った際に医者に問い合わせたところ、そんな症状は聞いたことがないと一蹴され、面倒だの一点張りで検査を拒まれていたが、頼み込んだ末にリアを診てもらえる運びとなった。それでも得るものはごくわずかなものだろう。最低でも生きていく余裕があることがわかればそれに越したことはない。

リアを車の助手席に乗っけて、病院に向かう。この病院は一般向けに設立しているかのように振舞ってはいるが、実際は要の属する組織の一員が負傷した際に運び込まれる施設となっており、全国に転々と存在している。要が目指しているのは、最も信頼を寄せる相手がいる病院だ。その人物の名は『那由多』といった。この時の要は十九歳。那由多は二十五歳と、要の六つ上だった。いつも白衣を着用していて、長い髪は後ろで一本にまとめてある。やや野暮ったい女だ。那由多は要と向かい合って開口一番に、

「なんだ、まだ生きていたのか」

と、けらけら笑いながら要の肩を叩いた。要は黙殺した。要が女を訊かれたら開口一番に出てくるのは那由多だ。それほどまでに要の交友関係は女性の面において過疎っているのだ。ちなみに女――女性は那由多だが、少女はといえばリアだ。年齢的に言えば婆でしかないのだが。

「んでこっちのお嬢ちゃんが例の」

「そうだ」

「へえー……」

那由多がリアにずいと顔を近づける。リアは要の後ろに隠れてしまった。

「おい、こいつは他人には慣れていないんだ。怖がらせないでくれ」

「そうかい、そりゃ失敬。まあ一つ言わせてもらうなら、現代の技術じゃ嬢ちゃんの異状はどうにもならんだろうね」

「別に今回は体に問題がないか確かめに来ただけだ」

「本心はどうだか。あんたが何を求めて嬢ちゃんの体を心配しているかは知らないけどね。こればかりはどうにもならないんだ。どんなに頑張ってもあんたがこの嬢ちゃんと一緒にいられるのはたったの一瞬だけなのさ。まあ嬢ちゃんにとっての、って意味だがね」

「……別に、俺は」

要が言葉に詰まる様を那由多は楽しんではいたが、笑いはしなかった。那由多と要の付き合いは長く、要にしてみれば邪険に扱うものの、姉のように考えてきた。

だからなのか、そのことを那由多自身知っているからなのか、見放すような真似はしてこなかったつもりだ。

――そう、見放すことは出来ない。

要の世間への疎さ、無関心は裏の世界に慣れ過ぎたからなのだ。それに自分を含め周りの大人は幼い要にそれを教えようとはしなかった。その点を見れば要の親父であり続けたあの男の功績は湛えるべきものである。

そこで、那由多の部屋に白衣に身を包んだ人間が数人入ってきた。

「ああ、私が呼んだんだ。検査するなら念入りにな」

「そうか、頼む……おい?」

「う……あ」

リアの様子がおかしい。両腕で自分の体を抱くようにして、歯をがちがちと鳴らしている。瞳孔が開かれ、焦点がぶれている。

「おい、どういうことだ。要」

異常は一目瞭然だ。

「わからん……とりあえず落ち着かせなくては」

リアへと手を伸ばす。

「――!」

思い切り弾かれた。

次の瞬間リアは部屋から逃げ出した。

「おい、待て!」

それを要が追う。取り残された那由多たちは呆然としてその場で硬直していた。



リアは屋上へ逃げ込んだ。過去のことを思い出していた。

先ほどの白衣の集団。あれはきっと自分の体を実験に使うつもりなのだろう。昔からそうだった。何故か自分は怪しい人間に捕まっては痛い思いをさせられる。もう嫌だ。こんなことなら死んでやる。どうして今までそんな簡単な発想が思いつかなかったのだろう。眼下に見える街並み。人が小さい。ここで死ねば母親の元へ行ける。もういいではないか。死んでしまおう――

「ここにいたか」

要が現れた。だからなんだ。この男は結局自分を組織に売り渡そうとしていたのではないか。少しでも信じた自分が愚かだった。大人など所詮こんなものだ。飄々と善人を気取っておきながら、裏では醜い顔をしているのだ。汚い、下劣、卑怯。

これこそ悲劇だ。幾つもの歳月を歩んできた少女には自分が生きた記憶がない。被験体となった瞬間にときは止まっていた。全ては初めから終わっていたのだ。自分を捨てたのだ。意識を、心を閉じたのだ。だから彼女はマッド・サイエンティストの好餌となってしまった。

「戻れ。何も悪いことなんてない。体を調べるだけだ」

そんなのは嘘に決まっている。この男は甘言を用いて、自分を支配しようとしているのだ。

リアは殺意を込めて要を睨む。要は改めてその殺伐とした視線を向けられることに気後れしていた。それとは別にショックを受けた。ある程度まとまってきたかと思えた絆は、あまりにも脆弱だった。

自分がどこまでも甘かったのだ。自分の意見を押し通した結果がこれだ。

――何をリアに求めたんだ? どうなってほしかったんだ?

この疑問を今まで自分に抱かなかったことは、哀れであったのだろう。要にはそんなこと、何の興味もなかったのだから。ただ、自惚れていた。どこかでリアを救えると思いあがったのだ。

どこまでもリアリストを気取り続けた自分へ罰が来たのだと思った。

そのようなもの――青少年の想い、心情などはいつの時代も身勝手で、ともすれば暴走してしまうのもやむなしといえよう。自分が特別だと思い込んで馬鹿を晒してしまうのも、当然の若気の至りだ。

「もう、嫌……!」

それは、要が耳にした初めてのリアの声。どこまでも透明な声。そしてそれが心に剣を刺突する。怒りを、憎悪を、悲しみを。

全てを要に向ける。

「なんで、……私ばかりこんな目に遭わなきゃいけないの? 私が何をしたって言うの?」

それは叫び。数年分の怒りの念。それはどこまでも赤く、またどこまでも純粋だった。

「お前、何を……?」

「――みんな、私の体を弄って、何が楽しいの?」

それで要は完全に理解した。リアのトラウマになっているものは、医者――というより白衣をきた人間だ。恐らくそんな奴らにいい様にされて来たのだろう。

何年もの間を一人で頼るものもなく実験台として生きてきたのだ。心は廃れ死んでいき、生きることに希望を持てる道理などありはしない。リアの嘆きは最もだ。なぜリアがそんな目に遭わなきゃならない。

――理不尽だ。

要は激怒した。今すぐにでもリアを苦しめた連中を一人残さず弾丸で打ち抜いてしまいたくなった。

「よく聞け。俺はお前を実験台にしようなんて考えてはいない」

「うそだ! みんなそう言って、何回も騙された!」

言葉の一つ一つが重い。彼女の悲しみは計り知れない。それでも要は諦めずに説得する。

――俺は決してお前を苦しめたやつらとは一緒にならない!

「俺はお前を――」

「もうやめてよ……! 何も、聞きたくない……!」

リアが要を遮る。その鬼気迫る表情には何も言わせない狂気がある。

「あなたのこと、信じられるかもしれないって。あなたは今までの人たちと違ったから……」

要と居る間は――人間だったのだ。

「お前……」

リアは落涙した。力が入らないのか、尻を地面に付けた。

「初めてだった。温かいご飯を食べさせてくれて……、お世話してくれて、服も買ってくれて……楽しくて、うれしくて、ちゃんと……生きているんだって」

「……」

要は静聴。リアはわかってくれていた。要があれこれと世話を焼いていたことに。

リアは喜んでくれていた。こんな状況でなければ素直に喜びを感じられたかもしれないのに。

だから次の言葉は要の心を打ち砕いた。

「でも、結局は、……あなたも一緒だった。大嫌いなあの人たちと!」

「違う! 断じて違う、信じてくれ!」

「どうやって……? どうやって信じろなんて言うの……?」

それを実証する手段は、ない。言葉だけでしか方法がない。その言葉もリアの耳には届きはしない。

「ほら……何も言えない」

「……」

要は自分の無力を呪った。やれ銃の取り回しがうまい、やれ剣戟が凄まじいと評されても、今、この場においてそれらが少女の心を救う事などできはしないのだ。

「もう疲れたの。どうして、今まで死ぬってことを忘れていたのかはわからないけど……死ぬ」

リアはよろよろと立ち上がり、屋上の端へと歩き出す。その背中は一片の迷いなく死に向かっている。今ここで引き止めないと間違いなくリアは死ぬ。要を呪ったままに、死んでいく。もう既に死の絶壁にいる。

「ダメだ!」

要が走り出す。なんとしてもリアを死なせたくはない。死なせてはならない。今までの日々をなかったことにしてはならない。

「来ないで!」

その声に影を縫われたように動けない。リアの叫びが、あまりにも悲痛で。そして何も出来ない自分が本当に情けない。歯噛みして、自分を責める。

「……そんな、馬鹿な」

――最強と呼ばれた俺が、人を守るはずの俺が、ただ一人の少女も救えないというのか!






















「――サエリア!!」



























思わず叫んでいた。なぜそうしたのか。わからない、わからないなりに六感が機能したのだ。震える声音、風の色、匂い、全てが今は要に味方した。

リアはハッとして振り返る。

「うそ、……なんで私の名前……」

この時初めて要はリアの名を呼んだ。今まで呼ばなかったのは意識しなかったからだ。

「私は、……サエリア。サエリアっていう素敵な、母さんがくれた大切な名前……」

初めて名前で呼んでくれた。要という男は、サエリアと確かに呼んでくれた。

――大嫌いなあの人たちは一度も呼んでくれなかったのに。

少女の胸が早鐘を打った。それは、止まっていた時間が進み始めた合図だ。

「か、な、め……」

――私の名前を呼んでくれる、とても優しい人。

「来い、サエリア!」

名前を呼ばれるたびに希望が満ちていく。もっと呼んで、なんなら叫んでくれたっていい。この名前は尊い存在の証明だ。そして証明してくれる人は目の前にいる!

「かなめ……!」

リアの体が要の方に向き直り――足を滑らせた。体は宙に向かって投げ出される。




「え……」




「リア!」

呪縛が解かれ、全力で走る。足の筋肉に物言わせ爆発的な加速でリアの元へ。脱兎のごとく駆け抜けてなんとかリアの腕を掴むことに成功した。

しかし勢いは殺せなかった。だからその腕を掴んだあと、すぐにリアを引っ張り、入れ替わるようにして要が宙に投げ出される。

「……しょうがないか」

後悔はない。自分は人を救ったのだ。心には欠片も卑しさや生への執着などない。とても晴れやかな気持ちだ――

「要……」

要が落ちていく。どんどん小さくなっていって、米粒くらいの大きさになった瞬間、何かが弾ける音が響いた。耳にその破裂音に近い何かが触れた時頭が真っ白になった。

「ああ、かな、め……!」

寒気がする。吐き気がする。

リアは混乱して戦慄し、失禁し、嘔吐し、駆けつけた那由多に鎮静剤を打ち込まれ、意識がなくなった。本当に絶望を抱きリアの心は壊れてしまいそうになった。

要の意識が現代へと戻る。



  ※



「今日晴れてよかったね!」

リアが嬉々とした足取りで要を先導する。

「全く、まさか本当に来ることになろうとはな」

要たちは平日を狙い遊園地に訪れていた。人は少ないだろうと踏んでいたのだが、世間でも人気なのか、平日にしては客が多い。そもそもが、上司に無理を言って取らせたチケットであり、急場しのぎで用意してくれてこの待遇だ。感謝する余地はいくらでもある。

「要、あれ、あれ乗ろう!」

リアが指差したのは、馬の乗り物がぐるりと回るあれのこと。

「メリーゴーランド……勘弁、見ててやるから一人でいけ」

「むう、一人じゃやだよ! 一緒に来てよ!」

「そんな恥ずかしいことできるか。俺を何歳だと思っている」

――まあ、こいつは百と何歳だが……。思ったより精神的な成長は遅いのか。十年たった今でもそんなに変化はないな。

「いいから行くの!」

「お、おい……くそっ、今回だけだ」

「わかってるって! だから大好き、要!」

グイグイと腕を絡むように引っ張られつつ、リアにはバレないように要は口角を上げた。



リアはすべてのアトラクションを制覇しようとした。ジェットコースター、コーヒーカップ等々。付き合わされる要の方が疲れていた。体力差では圧倒しているのに、どういうわけかリアは活力が衰えていないようだ。どうやら、好きなものに向かうと彼女はとても活発になるらしい。残すは観覧車のみ。日も落ちかけてきている。締めにはいいだろう。

乗り込むとリアは要の対面ではなく、側面――隣に付いた。そしてすぐに目を閉じる。気づけばリアは可愛らしい寝息を立てながら、要の肩を借りて眠っている。心が穏やかになる程安らかな寝顔は夕日を浴びて普段よりも艶やかだった。金髪に光が反射し、輝く。それは一種の芸術とでも表現しようか。慈しむように見つめる。

「女とは化けるものだな……」

普段はあどけなさしか感じられない少女にこんな魅力が内包されていようとは。女に対して非常に鈍感な要にも、リアの容姿が類まれなるものだと理解できる。まあ小学生並みの体型なのが玉に傷か。

観覧車は半分を回った。リアは今も眠っている。堪らなく暇になってきた。タバコを吸いたいが、リアがいるのでやはり吸えない。ジャケットの裏側に隠してあるタバコは実を言うと、封を切ってはいない。リアはとことんタバコを嫌がる。副流煙があーだこーだ言っては、小姑のようにやかましい。それならば外でこっそり吸えばいい、と試してみたが結局匂いでバレた。厄介なことに嗅覚も優れている。要は望む望まないに関わらず禁煙を達成しているのだ。吸いたいが吸えない。徹底的に証拠を隠滅すれば吸える。だが面倒だ。とんだ二重苦に苛まれることになってしまった。正直手間暇かけてまで有害物質を摂取することに意味はあるのだろうか、と最近は余計なことまで考えるようになった。それもこれも皆この少女のせいだ。

「!」

殺気を感じた。本能で、直感的に凶弾が迫っていることを悟るとすぐさまリアの体を抱き寄せ、伏せる。その判断が一瞬でも遅れていたら間違いなく要の脳を弾丸が貫通していたことだろう。代わりに強化ガラスをいとも簡単に貫いた。このタイプのガラスは穴は空くが亀裂が走らないようになっているので、穴は空くが割れはしない。

「ほあ、なに!?」

リアが眠りから覚める。

「いいから、伏せていろ!」

リアの頭を掴み下げる。少しでも生きている素振りを見せれば追撃が来るだろう。

――弾丸はリアを避け俺だけを狙っていた……つまり、目的はリアか!

スナイパーの位置は、弾丸の飛んできた方角からから推測するに、西か。これは逆光を利用した狙撃でもあった。手馴れている。本物の殺し屋か。

「要……何があったの?」

恐る恐るリアが訊ねる。要は気づかぬうちにすごい形相だったらしい。

「リア、いいか、よく聞け。お前は降りたら人ごみに紛れろ。後で迎えに行く」

「え、え?」

要はリアの返答を待たずに無理やり扉を開けて、十メートルはあるだろう高さを一気に躊躇なく飛び降りた。着地の瞬間体を回して衝撃を和らげる。

「要!」

振り向かずに要は走り出した。敵を、殺しに行く。



園外で最も近い西方面のビルディングに向かい、非常階段を利用して屋上まで一気に駆け上がる。要が予想した通りスナイパーライフルを構えた人影。それはライダースーツに仮面を被った怪しげな女だった。

その狙撃手はまるで要が来るのを歓迎しているように、ゆったりとしていた。その所作が自分を軽んじているようで要には不快だった。

「どんな理由であいつを狙ったかは訊かん。どうせ理由などたかが知れてる」

遠慮なく銃を抜く。腰に装備されたホルスターの二丁のうち、リボルバーをとる。走りながら照準を合わせる。右の腕を取りに行こうと、発砲。かわされたので、さらにもう一発。しかしそれも外れる。要が次弾を放つ際に生じる照準合わせが隙となっている。先ほどの二発は大きなタイムロスとなった。三段目を外した瞬間、敵はもう眼前にまで肉薄していた。コンマ零秒が致命的となる。

右手には何時の間にやらナイフが握られている。

「ちっ!」

それをリボルバーのシュラウドに手を添えて受け止める。拮抗する力と力。要は力を解き、後ろへ軽くステップする。敵は前のめりにバランスを崩した。と思った。だから次弾は必ず当たる。そう信じてやまなかった。

結果として、要の判断は――間違っていた。

敵は要が発砲するよりも早く、蜘蛛のように地面に這った。それは要が予測していた軌道よりも更に低く、かわされてしまった。常人には捉えきれぬスピードで、姿勢の急激なチェンジが行われた。先ほどの倒れるような動作は要の予想の上を行っていた。

要は咄嗟にリボルバーを構えるが、蹴り飛ばされてしまい、徒手空拳の構え。ナイフを出そうにも、構えた隙に殺されるだろう。要は力こそあるもののスピードでは敵わない。ナイフをあの手この手で凌いではいるが保たない。劣勢が続き要は遂に押し負けて足を払われた。押し倒され、間髪入れずに腹部にナイフが差し込まれた。半端ない激痛に呼応するように、血が溢れ出す。

「がっ……!!」

声にならない叫びが上がる。声を殺して苦痛に耐える。ぐりぐりと抉ってくる。容赦ない。

『――さて、あの少女を渡してもらおうか』

ようやく聞けた声は変声機を使用しているのか無機質な機械音声に聞こえる。不快な雑音だ。

「こと、わ、る……!」

『そうか』

次の瞬間、左肩を抉られた。瞬く間に広がる鮮血。肩口を濡らす真紅の液。どこまでも鮮やかな赤だ。

「ぐぅ……!」

耐える。奥歯を思い切り噛み締めて虚勢を張る。

『なぜあんな化物に執着できるのか……』

――違う。あいつは化物なんかじゃない。人間だ。

「貴様こそ、なぜあいつを狙う……!?」

『世界のためさ。あれほど衰えの知らぬ生命力は人の生存率を高めるかもしれぬ。その秘密がわかれば大事な人間と共に過ごせる時間がもっと手に入る……』

「大義名分は大したものだがな……」

相手の言葉には、どこにもそんな本心はない。善意など欠片も含まれてはいない。自分達のエゴでリアを利用しようとしている。やはり、案の定そんな理由だったか。

肩に入れられているナイフは力が強くなっている。まだだ、まだ耐えるのだ。力を入れ過ぎれば、ナイフを抜くときに隙が生まれる。コンマ0秒が決定的となる!

『!』

敵の腕を掴み取る。

敵は仰天して腕を取ろうとするが、要の腕力は屈しない。ナイフを引き抜こうとするが、動かない。一ミリも動かない。

『これほど傷を負っているのによくやる』

「俺はスペシャリストだ……倫理に背くような奴らには鉄槌を下す」

右手と血に染まった左手を用い、相手の腕を折った。敵はその苦痛に耐え切れず、ナイフを手放してしまう! 要は飛び起き、脱兎の勢いで銃を拾い、容赦なく発砲。腕の負傷により体幹が狂っていたのか的は動作が鈍くなっていた。

一発、二発――

薬莢が全て落ちるまでには、一体の肉塊が出来上がっていた。合計六発。これで打ち止めだ。

「……待ってろ、すぐに行く」

リアを狙う連中は壊滅したものだと思っていたが……。それとも新しい組織か。わからない。しかし、壊滅したとはいえ、いくらか残った端末から蜘蛛の糸のように拡大し、リアの存在は完全には秘匿できないだろう。こうなってはもうリアを常時監視しなければならないほどに警戒する必要がある。

息が苦しい。裂かれた部分は痛みというよりは、壮絶な熱を持っていた。元来た階段を降りきったところで要の意識は過去へと向かう。



  ※



目が覚めると、白亜が視界に映った。首を軽く横に振ると、二人の女をなんとか確認できた。一人は静かに外を眺める妙齢の女――那由多。その女は要が目覚めたことに気づくと、静かに笑って、

「やはり死ななかったか。まあ然しものお前も一ヶ月はお寝んねしていたわけだが」

――そうか。俺はリアを助けようとして、落下したんだったか。よく生きているな。

「……」

口を開けなかった。麻酔を打たれたらしい。そしてもう一人の女――少女の方が正しいか――リアに目を向ける。リアは今にも泣き出しそうに要を見つめている。

「嬢ちゃんは足繁くここに訪れていたよ。いくら心配は要らんといったところでわかっているのかいないのか、一日中あんたに付きっきりだ。まったくよくやるよ」

「……」

要は返事として軽く頷く。

リアの両手が要の左手を包む。不安に満ちた表情を要は正面から捉える。

「さて、私は出ていこうかね」

白衣を翻して那由多が出て行く。その後ろ姿は微塵も要への情愛など無いかのように冷静だった。

――そうだ、お前はそういう人間だったな。

それよりも今はリアの方が問題だった。触れたら今にも壊れそうな少女をどう宥めればいい? 

その答えを探すより早く――リアは泣き出した。本当に子供のように、素直に、純粋に、無垢なまま、ありのままで、泣いている。

泣き止む気配は一向にない。要の手に縋り付いては、頬を濡らす。

要は、唯一動く右手で彼女の頭を撫でた、ただ、撫でた。要が唯一リアに示せるサインは、これだけだ。その手に込められた要の願いはただ一つ。



――生きろ。



  ※



目が覚めると、白亜が視界に映った。首を軽く横に振ると、一人の女を確認した。白衣を纏った妙齢の女。その女は夜景を眺めながら月明かりに照らされていた。今はもう夜だった。

「那由多……」

体を起こす。

「ぐ……!」

激痛が走る。左肩と腹部にべらぼうに半端ない苦痛が満ちる。

「無理するな。傷はそこまで深くはないが、かと言って無事な訳もあるまい。まあお前のことだ。どうせすぐには死なんのだろう?」

皮肉にも当てこすりにも聞こえるのだが、何よりも恩着せがましい。

「……ジャケットは?」

「ほら」

血に染まったジャケットが投げ渡される。

「もうそれは着ないほうがいい。不衛生だし、何よりも汚い」

「悪かったな……」

ジャケットからタバコを取り出す。ビニールが掛かっていたおかげで、血糊は付着しているが中身には影響がない。

「おいおい、ここは病院だ。いくらお前だけの部屋だといっても、それは控えてもらおうか」

「堅いことを言うな」

「タバコはやめたんじゃなかったのか?」

那由多は含みを持ちながら要に面白おかしく問う。その気色が見えて要は黙殺した。

ライターを出し、火をつける――

「――要!」

部屋のドアが勢いよく開く。リアだ。すぐさま枕の下に引っ込める。

「ああ……」

「ああ……じゃないよ! 心配したんだからね!」

「ここは病院だ、静かにしろ」

「うるさい!」

「さて、夫婦喧嘩は犬も食わないというし、邪魔者は消えるとするかね」

呆れも何もなく去っていく那由多を見送ると、静寂が支配した。要もリアも口を開かない。

「……」

「……」

「……」

「……ねえ、要」

「なんだ?」

「要が怪我したの私のせいなんだよね?」

「那由多から聞いたのか?」

リアは首を横に振る。

「私が那由多に聞いたら教えてくれた。もしかしたらそうなのかもしれないって。那由多は気にするなって言ってたけど」

「……」

リアは要の知らない顔をした。自責の念を感じている、罪悪感に満ちた面輪だ。要は今まで目にすることがなかった、新しい顔だ。リアは常に無邪気に笑い、悲しみなど無縁なのではないかと思っていたが……。

――個人差はあれど……人間は日進月歩だからな。いつまでも同じ状態が続くわけにもいかないか。

今のリアなら、事実を打ち明けても大丈夫だろう。

「リア、お前は普通の人間とは違う。異常なんだ」

「……」

「お前は心身共に常人よりも成長が遅い。それはつまり長生きするということだ。比喩でもなんでもない。お前は長い時間を生き続けるんだ」

「……」

リアは静聴している。きっと、色々なことを考えているのではないかと思う。それでも意識は要に傾注している。

「俺の一生はお前にとっての一瞬でしかない。俺はお前よりも先に死ぬ。ずっと面倒を見てはやれないんだ」

「要、私わかってたよ。だって……私は変わらないのに、要の姿はどんどん変わっていくんだもん。自分がおかしいってなんとなくだけど、わかってた」

「そうか……」

「要、お願いがあるんだ」

「なんだ?」



「――私を殺して?」



「なん、だと……?」

要は我が耳を疑った。敵地ではどんな些細な足音でも捉える筈の自分の耳を全力で疑った。

「私のせいで要が傷つくなら……私はきっと死ぬべきだと思う。だから」



「――ふざけるな」



それは、それだけは全力で許せない。是が非でも許せない。散々人に迷惑かけておきながら、言うに事欠いて今度は殺してくれだと? 何様のつもりだ。

「お前はどうしたいんだ……?」

眉間に皺が寄る。要は激怒した。

「私が生きてるせいで要が――」

――違う、そんなことを言ってほしいのではない。

「俺のことなんざどうでもいい! お前は、お前自身はどうしたいんだ!」

「私が……どうしたいか?」

「そうだ。命は簡単に投げることができる。だがそれで終わりだ。死んで楽になるなんてのはよくある話だが、死後の世界があるかどうかなんて死者にしかわからん。それなのに死んで楽になれるなんて、おかしいんだ」

死人に口無しとはよく言ったものだ。本当に死んだ奴しか、人間の行く末を知らないとは。だから要には天国と地獄という概念もない。三途の川? ――バカバカしい。そのような類の話で人を惑わすような奴らには一瞥もくれない。

「でも、私は要に傷ついて欲しくないよ……」

それはリアにとっては願いと同義なのだ。リアにとって要は何物にも代え難い存在だ。だから本音を言ってしまえば、今の仕事を辞めて、もっと平和で安全な職に就くことを望んでいる。もし要が死んでしまったら自分は理性を保てるだろうか。そんなの無理に決まっている。

リアの言わんとする事は要だってよくわかっている。リアは寂しがり屋で甘えん坊で、何よりも孤独を嫌う。そんな少女を悲しませることはできない。

「俺はとある男に拾われて組織の一員となった。そしてその為に費やした努力は、この仕事でしか発揮されない……俺はな、こんな生き方しかできないんだ。誰かが危険にさらされたなら、蛮勇でも助けに走り、必要があれば人を殺す」

「……」

「だからリア、俺はお前が生を望むなら、命を賭けて守ってやる。どんな奴らからでも守ってみせる」

それは要の誓いに似た願望でもある。命を賭してでもリアの安息を守ろうとしているのだ。

なぜそこまでするのか――

そんなものは決まっている。口に出さずとも、いつも胸に秘めている。

唯一の懸念は要がすぐに死んでしまうことだ。彼が死ねばリアは、この先一人で人生を歩かなければならない。それは彼女にとって死ぬことよりも辛いかもしれない。

「ただ、俺はすぐに死んでしまうが……お前の選択は、どっちだ?」



リアの長考。それが終わると澄んだ顔で――



「……うん」



「――私、生きたい」



「――短くてもいいから、要とずっと一緒がいい」



それは純粋な想いだ。リアは寂しい顔で要を見つめて……、そして笑った。運命は変わらない。奇跡も起こらない。要はいつか死ぬ。リアよりも先に。理不尽で、納得のいかない結末だとしても。

――その全て、受け入れよう。

要の人生はリアにとっての一瞬。それでもいい。その一瞬が永遠よりも輝けるように、願う。

「ねえ要、私要が思ってるよりも成長してるんだよ?」

「どうだかな」

要はせめて成人したリアを見届けてから死にたいが、それも叶いそうにない。未練がましいが、それだけは本当に無念だ。

「えいっ――」

リアが飛び込んでくる。要は押し倒される形となった。リアは枕の下に手を突っ込んで、

「これはダメだよ! 寿命が縮まるってテレビで言ってたもん!」

「ちっ……」

「それに、チュウが美味しくなくなるって、テレビで言ってた!」

「お前は一体どんな番組を見てるんだ……って、お、おい」

リアが顔を近づける。静かに目を閉じて迫ってくるその表情には一端の女の顔を備えていた。認めてしまうのは癪だが――イイ女だ。

「あいつがもどってきたら来たらどうするんだ……!」

「だいじょうぶ――」



「うさぎさんしか見てないよ」



そして二つの影が重なる――

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