せめて、夢ほど甘ければ

 彼女とはお昼を一緒にしたことがある。ランチじゃない、お昼だ。

 六月か七月始め頃だったか。矢鱈に雨の降る日が飛び飛びでやって来て、その合間は炎天下。その炎天下に歩き回る日々が続いていて、気が滅入る年だった。


 平日の昼間は外出していることの多かった僕が珍しく会社にいて、コンビニ弁当でも広げてみるかと屋上に登ったら彼女はそこにいた。彼女は手作りのお弁当をベンチで広げていた。名前も知らない白い花の発する甘ったるい芳香のせいで、暑さのせいだけでなく食欲が失せた。僕は痛む胃の事もあって食事をやめようかと思ったが、彼女の前のベンチに腰だけは掛けた。『どうぞ』と彼女がポットから差し出してきたお茶は熱い緑茶。嫌がらせかと思ったが、口にすると何故か汗が引き、僕の食欲は少し戻った。


 流行り物の好きだった父親が『エコだ』『屋上緑化だ』と騒いで作った庭は、『ガーデニングね』と喜び勇んだ割にすぐに飽きた母親が無闇矢鱈と植えた植物のせいで、センスの最悪な屋上庭園と化していた。この花だって少しなら甘やかな香りで済んだろうに、生け垣のように植えているから性質が悪い。ただ、工務店が仕事の父親が作っただけあって、水遣りさえしていれば何とかなる様にはなっていた。そして、飽きた母親の代わりに水遣りをしているのは彼女だった。


 僕が大学に上京して、そして他社で数年修行している合間に事務職として雇われていた彼女とは、いつか会社を継ぐために営業に明け暮れていた僕とはあまり接点がなかった。パソコンに打ち込まれた間違いのない数字の方が未だに印象深い。


 一度母親に事務職に水遣りまでさせるのはどうかと言ったことがあるが『雇ってあげてるからいいのよ』とブランドバックを手に、ハワイアンだかフラメンコか何かを踊りに行ってしまった。母親も一応社員のはずだと溜め息をついてから暫くしたら、新しい物好きの父親が新しい女と何処かに行った。とにかく手続きに追われて、会社を畳む為だけに社長になった僕は、半狂乱の母親にも何処に居るか判らない父親にも構う余裕は無かった。


 白い花。甘ったるい匂いの癖に金木犀の様に記憶の甘やかな部分を刺激することも無いあの花の名前を、僕は未だに知らない。彼女のその後と同じくらい調べる気も無いし、人手に渡ったビルの屋上がどうなったかも知らない。


 ただ、彼女の解雇を僕がしなければならなかった事だけは、父親を恨んでいる。

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