2.足跡

 それはまるで王族専用かと思うほど広い浴場だった。その大浴場を今は少年が独り占めしている。

「はあ〜」

湯の心地良いことといったら溜息をもらす他ない。滑らかに、優しく、肌を撫でるように包み込んでくれる。ミクローシュは一体自分が何週間風呂に入ってなかったかなど、そんな余計な考えを全て忘れてしまった。そして静かに目を瞑る。

 館内に入ったあとアンジャル学園長は彼にまず風呂に入るように勧めた。そして彼が風呂を使っている間に適当な服を見繕っておこうとも言った。何しろミクローシュが着ていた服は原形をうかがい知ることができないほど傷んでいたのである。折しも季節はこれから寒さを厳しくしていこうというところだ。学園長の申し出は素直にありがたかった。

 どれぐらい浴槽の中で寛いでいただろうか。脱衣所の方から声が聞こえたような気がしてミクローシュは目を開けた。女の子と思しき声が一人、二人、三人。おや、これは少々まずい状況ではないかと彼は気付いた。

「私たちが一番乗りか?」

凛とした声が言う。いや、違うんですけど、とミクローシュは思わず呟く——いや、呑気に呟いている場合ではない。

「かもねー」

陽気な声が応える。ですから違うんですけど。ミクローシュの焦りは募った。浴場の出入り口は一カ所しかない。

「あら、先客がいるようだわ。見て、ここに服が置いてある」

と涼やかな声。助かった、とミクローシュは思った。恐らく脱衣所に男性用の服があることに気付いた彼女たちは引き返していくことだろう。

「ほんとだー。この肩章、私らと同じ高等部一年だね。でも大胆な下着だなー。ほら、黒のレースだよ。上も下も!一年でこんなの持ってそうな子いたっけ」

ところが陽気な声の指摘でミクローシュは再び穏やかならざる気分になった。察するにアンジャル学園長は既に服を取り替えておいてくれたようだが、黒のレースの下着とはどういうことだろう。

「そうね。というか結構大きいわね。リーズあたりかしら」

「こ、こら、ヴィオラもエメシェも、二人ともはしたないぞ!」

涼やかな声と、恥じらいを含みつつ凛とした声が続く。というか「結構大きい」とはどういうことだろう。

「まさか・・・!」

ミクローシュは一つのあまり嬉しくない可能性に思い当たった。そういえば、服を用意すると言ったときの学園長は少し笑っていたかもしれない。

「えー、アーグネシュは相変わらず恥ずかしがり屋さんだねー」

そうこうしているうちに三つの声は次第に近付いてくる。もはや悩んでいる暇は無い。ミクローシュは息を大きく吸い込むとざぶんと湯の中に潜った。次の瞬間、浴場の出入り口が開く音が微かに聞こえた。間一髪である。

「おや、誰もいないわね」

エメシェと呼ばれた涼やかな声の少女が訝しげに言う。ミクローシュは苦々しく思った。潜って姿を隠したは良いものの、脱衣所に服がある以上誰か入っていることはわかっているのだ。まさか服を着忘れて出て行った人間がいるとも考えまい。

「まーとりあえず入っちゃおーよ」

ヴィオラ——陽気な声の少女はどうも大雑把な性格のようだ。遠慮無くざぶざぶと浴槽に入ってくる。ミクローシュは思わず後ずさった。だがそれが致命傷になった。

「おや、今あそこ、水が動いたな。誰か潜っているのか」

すかさずアーグネシュの凛とした声が指摘する。そしてアーグネシュとエメシェも浴槽に入る音。もはや状況は完全に詰んでしまった。しかし人間このような場合はとりあえず事態を先延ばしにするように動くものである。ミクローシュはもはや何も考えずにただあとに後ずさった。

「そこにいるのは誰だ、なぜ隠れるのか。私は高等部一年のバゴイ・アーグネシュだぞ。君は私の同級生ではないのか?」

事実同級生ではないのだからしかたがない。

「えーい、こうなったら——」

ヴィオラの声が聞こえたかと思うと、バシャバシャという音と共に肌色の塊が近付いてくる。それはそれは水中から見上げても綺麗なフォームのバタ足で・・・・・・。ミクローシュが見るべきではないものをハッキリ見てしまい動揺のあまり湯を呑んで慌てて水面に顔を出したのと、ヴィオラが彼の肩を捕まえたのとは同時だった。少年と少女の顔が至近距離で向き合う。

「ひ、ひやああぁぁぁ!」

素っ頓狂な叫び声を上げてアッシュブラウンの少女が尻餅をつく。そのためミクローシュは今度は彼女の後方にいた太陽のようなブロンドの少女と目が合ってしまった。

「な、な、な・・・変質者っ!」

蔑むような目でミクローシュを睨みつつ厳しい声で叫ぶと彼女は素早く湯の中に体を隠した。

「あらあら」

どこか面白がるような調子を含んだ涼やかな声に視線を少し横にずらせば、完全に銀といって差し支えないプラチナブロンドの細身の少女が、見るからに凹凸の少ない肉体の隠す所は隠しながら泰然として立っている。しばしの気まずい視線の交換ののち、先に目を逸らしたのはミクローシュの方だった。

「・・・・・・すみません!」

彼は大声で謝罪すると大慌てで浴槽を飛び出し脱衣所に走り、着るものも着あえずただ手近にあったバスタオルだけを体に巻き付けて、裸足で石畳の廊下を逃げていったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る