§1 その黒髪に幸あれ

1.渇望

 空の茜色がいよいよ深くなっていく中で、その泉はあくまで青いように思われた。強い、けれども静かな意志。この周囲を石で整えられた小さな泉の奥には確かにそういったものがある。

 しかし少年は泉の美を楽しむにはあまりに渇いていた。彼は芝生に腹這いになって水を貪った。顔を泉にうずめ、しばらくして上げたかと思うと、息だけしてまたうずめる。だから近付いてくる人があることに間近で声を掛けられてみるまで気付かなかった。

「ここで何をしているの」

少年はビクンと跳ね起きた。その拍子に咽せた。

「そ、その、喉がとても渇いていたので・・・」

咄嗟に弁明めきながら相手を見れば、それは三十歳ほどののんびりとした顔つきながらどこか理知的な雰囲気のある女性だった。

「あら、責めようというのではないわ。ただちょっと驚いただけ。あの柵を乗り越えてくるなんて身軽なのね」

そう言って女性は背後の高い鉄柵を指し示した。そう、少年は水に惹かれてあの柵を乗り越えてここに入ってきてしまったのである。

「うう、すみません・・・。この家の方ですよね。どうしても喉の渇きに耐えられなくて・・・」

少年の後ろには煉瓦造りの大きな館が堂々と建っている。その芝生の庭のちょうど真ん中が、彼らが今いる場所だった。

「だから謝ることはないわ。ここはね、学園なの。私だけではなくて大勢の生徒たちが住んでいるわ。私は学園長よ」

そう言って彼女はニッコリと微笑んでから続けた。

「せっかくだからちょっと上がっていかない?」

「あ、いえ、お気になさらず・・・じゃなくてすみません!すぐに帰りますから・・・」

「あらあら、でもあなたはお腹も空いているように見えるわ」

「空いていませんので!」

だがその言葉とは裏腹に、彼の胃袋は大声で肯定の返事をしていた。女性はクスクスと笑って

「ほら、上がっていきなさいな。温かいお風呂だってあるわよ」

「・・・はい、それではお言葉に甘えて・・・ありがとうございます」

少年は感謝と恥じらいで消え入りながら、館に向かって歩き出した女性に従った。疲労がもう耐え難いレベルに達していたのだ。それに、もしかしたらここが自分にとっての安住の地であるかもしれないという予感もしていた。まだ十五歳の少年。はたして、この先彼を待ち受けているものは——。

「そういえばお名前は?私はアンジャル・ジャネット」

不意に女性が立ち止まり振り返って問うた。

「えっ・・・その、ミクローシュ・・・・・・フェケテ・ミクローシュです」

少年は動揺してそのつややかな黒髪を揺らしながらも、咄嗟に答える。アンジャル学園長は暫く彼をじっと見詰めていたが、やがてふっと微笑んでまた歩き出したのだった。

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