4章 経験豊富だから

「お久しぶりです、お父さん」


 1人の少女が、とある会社の一室……社長室にてそこに座る男に声をかけた。

 男は飛び降りるように椅子から離れ、少女のもとへ向かった。

 離れて暮らしていた親子の、実に1年と半年振りの再会である。


「どうしたんだ急に。元気だったか? 苦労はないか?」


 心配そうに声をかけている感じからして、親子の仲は悪くはなさそうだ。


「あの、突然ですみません。お父さんにお願いがあって来ました」

「そんなかしこまらなくても、かわいい娘の頼みだ。何でも言ってごらん」


 この男は子煩悩……親バカだ。何でも叶えるつもりのようだ。

 とはいえこの男は大会社の社長だ。金で解決できるものならば大抵叶えられるだろう。

 もちろんそれだけでは解決できないこともある。例えば──離婚。

 この親バカぶりが災いし、妻と別れることになってしまった。


「えっと、お父さんは今でもモータースポーツ、好き?」

「ああもちろんだ。今でも休みには色々乗ったりするぞ」

「あの、あのねお父さん。私、カート始めようと思うの」

「カートか! いいじゃないか! それでなんだ? カートなら何台でも買ってやるぞ。それともコースでも作るか? ははははは」


 なかなか豪快なことを言う父親だ。コースの建設に一体何億かかると思っているのか。いやそれでもできるだけの力がこの男にはある。


「私ね、学校の……友達と……したいの」

「友達と!? 内気で友達ができるか心配だったお前が……友達と……」


 半泣きだ。この男、バカを通り過ぎて狂ってしまったのかもしれない。


「うん。それでね、お父さん……」

「よし……よしっ! わかっているよ。その友達もまとめて面倒をみてやろう!」

「えっとね、それだけじゃないの。教えてくれる先生が欲しくて……」

「大丈夫だ、心配するな。誰がいいだろうなぁ。元F1ドライバーがいいか、それとも名門チームの監督とか? 他には──」

「あのねっ、どうしても教えてもらいたい人がいるの。駄目かな?」

「よくないわけないだろ。それで誰なんだ?」

「去年のカートチャンピオンの人です。今はプロで走っていて……」

「任せろ。名前を教えてくれ。色々調べておくから」


 とても嬉しそうに男はノートPCを開き、検索をし始めた。



 ☆



「えっ! ほ、本当ですか!」


 思わず声を荒げてしまうような大事件が起きた。

 早々にチームマネージャーからの電話を終わらせ、僕はベッドへ横になった。

 夢うつつといった感じで天井を見上げ、暫しぼーっとしてしまう。


「やっとか……」


 やっとだ。念願のスポンサーがついたんだ。

 今年はもう無理としても、来年から参戦できる。とてもうれしい。

 チームとしては来年用のマシンを手に入れ、本格的に動けるようになるのは年末くらいからだろう。そうなると……あの子らにかまっていられるのはあとちょっとかもしれない。

 少し残念なところもあるが、僕には僕の道がある。彼女らもカートを手に入れたら自分達の道を歩むだろう。

 まあそれは僕の気にすることではない。それよりもやらないといけないことができた。

 どうしたものかなぁ。



 ○



 スポンサーが直接会いたいだなんて、かなり緊張する。

 しかも先方の会社に出向いてだ。これは別に問題はない。先方にわざわざご足労をかけてはいけないものだから。だけどできれば喫茶店などがよかった。

 さらに条件として、僕1人で来るよう言われていた。これはつらい。


「お客様、本日はどのようなご用件でしょうか?」


 カウンターへ行くと、受付の人が僕に話しかけてきた。


「あの、えっと……社長とお会いに……」


 日本語がおかしくなっている気がする。完全にてんぱっている。


「アポイントメントはございますでしょうか?」

「あ、はい! 15時からなんですが」

「15時ですか……お名前をどうぞ」

「内淵才覇と申します」

「内淵様ですね。少々お待ち下さい」


 受付さんは内線をかけ、恐らく秘書の方と話している様子。無駄話をすることなく簡潔に話をし、通話を終えた。


「それではこちらでお待ちください」


 言われて受付横にいると特に待つこともなく秘書さんが来、応接室へ僕を通した。

 ソファーにかけるよう言われたが、なんとなく立って待つこと5分、奥の扉が開いた。

 50歳ほどの、背が高く細身だがしっかりした体つきの紳士風の男性が入って来た。この人が僕のスポンサーを受けてくれた上川社長か。


「やあ、きみが内淵君だね……ずっと立って待っていたのかい?」

「え? いや、は、はい! 立っているの好きなんで!」

「ははは、面白いことを言うね。じゃあ嫌かもしれないが座ってよ」

「い、いえ! 滅相も無い!」


 立っていたほうが好印象なのかなと思っていたが、おかしな奴だと思われたかもしれない。

 僕は慌てて座ろうとしたが、上川社長が手を差し出してきたのでそのまま握った。


「じゃあ改めて。私がこの会社を営んでいる上川です」

「は、はい! 僕は内淵才覇です!」

「知っているよ。こっちが名指しで進めた話だからね。何か聞きたいことある?」

「いいえ、何もありません」


 スポンサーと話すときにはいくつかのタブーがある。そのひとつが『余計な質問をしてはいけない』だ。

 僕らが一番知りたいこと。それは『何故スポンサーになってくれたのか』だ。

 しかしこういう質問を嫌う人は少なくない。こいつは根掘り葉掘り聞くような奴だという印象を持たれる可能性があるからだ。


 クレバーな馬鹿になれ。これが会話に重要な点だ。

 タブーを知り、それを回避しつつ相手の質問には、馬鹿かと思われるほど素直に答える。

 あなたのことは詮索しません。でも自分のことは全て話します。きちんと上下関係を築いて話をする。


 なんてことを今のチームメイトである先輩に教えられた。彼もスポンサー探しには結構苦労したらしく、そういったところをみっちり叩き込まれた。


「ふむ、思っていた通りの好青年だね。それに戦歴もなかなかいい。去年ミッションやってたんでしょ? だったらフォーミュラに移ってもやっていけそうだね」

「は、はい! がんばります!」


 ミッションカートのことを知っているということは、結構モータースポーツに精通しているのだろう。そういった方にスポンサーをしていただけるのはありがたい。

 よく知らない人は、ちょっと成績が振るわないからってすぐ切ったりするらしい。詳しい人ならばある程度様子を見てくれる、という話だ。


「それで、スポンサーをやるには一つ条件があるんだが……」


 条件? 一体なんだろう。

 普通スポンサーにつくという時、個人に対して条件を出すことは滅多に無い。

 全戦優勝とか? 確かにレーシングドライバーのスポンサーをやるのだから、当然勝って欲しいとは思っているだろう。だけど条件というにはハードルが高すぎる。

 もちろん勝つ自信はある。そうじゃなければこの世界はやっていられない。でも何かトラブルとかがあるかもしれないし、それでスポンサーを打ち切られるのは厳しい。


「えっと、僕にできることならば……」


 つい口に出してしまった、少し弱気とも受け取られかねない発言。ちょっとやばかっただろうか? ここは『はい、任せてください!』くらい言っておいた方がよかったか?


「そうか。じゃあ娘たちを頼みたいのだが、いいかね」


 娘……頼みたい……まさか結婚とか? いや待て、『たち』と言っていたじゃないか。それに会ったばかりの僕にそんな大事なことをさせるはずがない。

 じゃあ一体何を頼もうというんだ。全くわからない。


「もういいぞ」


 困惑している僕に苦笑いを見せ、上川社長は隣の部屋へ向かって声を発した。


「はい、お父様」


 そう言って現れたお嬢さんは────


「さ……西條さん!?」

「えっと、その、こんにちは、内淵さん」


 上川社長の娘が西條さん? あれ、西條って苗字だよな。

 いや駄目だ。詮索してはいけない。


「あの、それでは頼むというのは……」

「お察しの通り、キミには娘たちにカートを教えて欲しいんだ」


 西條さんが出てきた時、そんな予感はした。


「で、でも自分の娘にカートをやらせるってどうなんですか?」

「私はモータースポーツが大好きでね。子供にも幼少からそれとなくやらせていたんだ」


 だから西條さんはグラスバギーをやっていたのか。


「それにしたって──」

「妻と別れ、連れて行かれた娘がこうやって私の愛したモータースポーツをやりたいと言っているんだ。少しでも力になってやりたいと思うのは駄目なのかね」


 なるほど、そういった理由で苗字が違うのか。


「いえそんなことは……いいことだと思います」


 人は自らの力で人を殺せる。モータースポーツはそんな人の力を軽く上回るものだ。現にカートでも何人もの死者が出ている。決して安全なスポーツではない。自分が好きだからといって子供にやらせてはいけないんだ。


 でも走り終わった後の西條さんはとても楽しそうだった。いつも内気な彼女が本当の自分になれる場所、なのかもしれない。多分僕が断ったところで彼女は走るだろう。ならばある程度責任を取るといった意味で僕が教えたほうがいい。

 だけどなんとも言えない気分だ。別にこうなりたいがために彼女らへ話したわけじゃない。ただいつものクセで素直に話してしまった、というだけのこと。


 でもこれはチャンスだ。

 中学生の少女に気を使わせてしまい情けなくもあるが、勝負の世界にプライドなんて邪魔だ。むしろ普段から積み上げていた人脈の一つが自分を助けたと思えばいい。


「わかりました。是非引き受けさせていただきます」

「費用は当然こちらで負担するから気にしないで欲しい」

「そういうことでしたらこちらとしましても……。それじゃあ西條さん、よろしくね」

「あの、はい。私も内淵さんに教えて頂けるのがうれしいです」

「はは、僕でよければいいんだけどね。それじゃあ早速来週から始めようか」

「あの」

「ん? どうしたの?」

「せりかちゃんは来週まで待てないと思います……」


 確かに……。せりかちゃんならばそうだろう。


「わかった、それじゃあ日曜の朝だね。それでは上川社長、いきなりで申し訳ありませんが、色々と準備をしたいのですが──」



 ○



「おはようございまーっす!」

 元気に手を振るせりかちゃんと、横に並ぶ西條さん。その後ろにはもう1人。


「おはよう……っと、風連さんも来たんだ」

「わ、悪い?」


 目を逸らせながら風連さんは気恥ずかしそうに言った。


「いいや、来てくれて嬉しいよ」


 あんなことがあったのに、まだやろうと思ってくれている。

 今日来るのだって勇気が必要だっただろう。あれだけ悪態をついていたカートをまたやろうというのだ。馬鹿にされる可能性もある。それとせりかちゃんに対するライバル心が、一緒に来るようなことを拒むかもしれない。


「おにーさん、今日もプレイングカートですか?」


 僕の車の上に何も積んでいないのを確認したせりかちゃんが、少し物足りなげに聞いてきた。


「じゃあちょっとついてきて」

「あ、はい」


 近所のコインパーキングへジャージ3人衆を連れて行く。少し不安げにしている様子が伺える。


「今日はレーシングカートに乗るよ」

「やった! 久しぶりだぁ」


 手を叩いてせりかちゃんは喜ぶ。


「それってどう違うのさ」


 風連さんはまだ余裕を見せていられるようだ。


「そうだね、こないだ乗ったやつの倍の排気量。パワーは3倍以上あるよ」

「えっ……あれよりも凄いの……」


 一瞬で青ざめる風連さんの反応は、ちょっとかわいい。


「大丈夫だよ。これから行くコースはこないだよりも長くて幅が広いからね」

「うんうん、すっごいんだよ! 広いからヘアピンでも大きくライン取れるし! その分高速で抜けられてね!」


 私は知っているんだと言わんばかりに話しているせりかちゃんに、ちょっといじわるをしたくなった。


「そうそう、以前行った時はせりかちゃんが気を失って──」

「そ、その話はダメぇぇ!」


 僕に抱きつくようにせりかちゃんは話を遮った。わかっていたが、あまり触れられたくないことなんだろう。


「それであの、このトラックはどうしたんですか?」


 とっとと話を進めようとするように西條さんが話題を変えにきた。


「ん? みんなのコーチを正式にやることが決まったから用意してもらったんだ」


 元々なんのつもりで所有していたかわからないらしい、上川社長の会社にあった6人乗りアルミパネルトラック。会社から社長にレンタルという形で使わせてもらっている。


「そ、そうなんですか!?」

「え? え?」


 なんでせりかちゃんは知らないんだ。不安げに西條さんを見ると────


「すみません、言うの忘れてました」


 なんでそういう大事なことを教えておかないんだと責めたいところだが、いたずらっぽく笑う西條さんを見て、そんな気は失せた。

 わざと詳しい話をしなかったんだろうな。多分友達とかにはこういう感じの子なんだ。少しは僕に気を許してくれたのかと思うと、とても嬉しい。


「まあ今から言っても問題ないから気にしないでね。えっと、生徒は3人でいいかな?」

「はいっ」

「いいでーす!」


 西條さんとせりかちゃんが笑顔で返事をする。


「あ、あのさ」


 風連さんがおどおどした感じに小声で話してきた。


「どうしたの?」

「あたしもいいのかなって」

「多分いいんじゃない?」

「多分ってなんだよ。あんたのことだろ」


 けっこうずけずけと物を言う子だと思っていたが、遠慮みたいなこともできるんだな。


「いや、これに関しては西條さんのお父さんがスポンサーなんだよ。だから僕の一存でどうこう決めていいものじゃないんだが……」


 西條さんと上川社長の間でどのような会話がなされていたかは知らない。だけど上川社長は確かに娘たちと言った。それは間違いなく西條さんとせりかちゃんのことだが、風連さんのことについてはわからない。

 今現状で上川社長の代返ができる人物、西條さんに顔を向けると、


「私はその、できれば風連さんと一緒に走ってみたいです」


 とのことだ。きっと風連さんも娘たちのうちに含まれているのだろう。


「だってさ。だから後はきみ自身が決めるんだ」

「わかった。あの、えっと……ありがとう、西條」


 照れくさそうに目を逸らしながら西條さんにそう言った。


「よしじゃあさっさと行こう。話なら車の中でもできるからね」


 せかすように3人を乗せ、車を出す。バックミラーを覗くと後部座席に用意しておいたコース図を西條さんが眺めている。


「コースの形はプレイングカート場に近いんですね」

「そうだね。だからアクセル全開で行ける場所も似ているんだよ。例えば最終ヘアピンから第一ヘアピンまで。それに追加してそこから第二ヘアピンまで」

「でもかなり広いんですよね? 高低差とかもあるのでしょうか……」

「詳しくはせりかちゃんにでも聞いてみるといいよ。実際に走っているからね」

「でもこいつ、気絶したんだろ?」

「だああぁぁかああぁぁらぁぁぁっ! んもおぉぉ」


 3人とも楽しげだ。風連さんに苦手意識を持っていたような西條さんも、2人のやりとりに笑顔を見せている。僕がいないところでも3人でカートの話をしているんだろうな。こうやって仲間でありライバルである友人同士が切磋琢磨し、成長していくんだ。

 みんなはどういう方向に育つのかな。



 ●



「わぁい、久々だぁ!」


 到着するなりせりかちゃんは飛び出し、コースのそばまで駆け寄った。それに続いて風連さん、西條さんも車を降り、周囲を見渡している。


「へえ、ここがレーシングカート場かぁ」

「す、凄いですね……」


 風連さんと西條さんは呆気に取られている。ここはカート専用サーキットではトップクラスの広さを持つところだから仕方ない。


「どう? これだけ広ければ気持ちよく走れるでしょ」

「で、でもその分速いんだよな……」

「そうだね。プレイングカート場であったホームストレートからの直角コーナーがわかりやすいかな。レーシングカートでは中速コーナーに当たるから、減速しないと曲がれないくらいの速度は出るよ」

「へ、へぇ……」


 完全にびびっている。だけどこのコースは全開区間がとても長く、走っていて気持ちいいから初心者に向いている。少しは慣れてくれるはずだ。


「初心者時間は1時間半だからね。3人で20分ずつくらいでいいかな」

「はい!」

「じゃあせりかちゃん、カート降ろすの手伝ってくれるかな」

「はーい!」


 トラックの後部を開き、固定していたカートを外して地面に置いたカートスタンドへ乗せる。


「あっ! このカート新品じゃないですか!」


 せりかちゃんは目敏く僕のカートとの違いに気付いたようだ。


「そうだよ。今日のために用意しておいたんだ」


 せりかちゃんの声につられてか2人も寄ってきて嘗め回すように見つめる。


「前のとあんまかわんないな」

「そうですね」

「見た目は一緒だよ。フレームやぶつかった時に衝撃を吸収するカウル、タイヤはレーシングカートもプレイングカートも同じものだからね」

「つまりあれに倍以上のパワーのものを乗っけたわけか」

「そういうこと」


 少し風連さんが震えた。トラウマみたいになってしまったか。

 風連さんは後に乗せたほうがいいかな。どちらかが先に乗ってもらい、安全であるということを確認させよう。


「んー、それじゃまずは……」

「はいはーい! 私が先に走りまーす!」

「おっ、さすがだね。じゃあ行こうか」


 せりかちゃんは嬉々としてカートに乗り込み、走っていった。


「さて、2人はパドックの上に行こうね」

「あの、せりかちゃんに何も教えなくてもいいんですか?」

「ああうん。せりかちゃんには大体教えているからね。それに今日は走っている時に余計なことを言うつもりはないから」


 それから2人に基本的なルールと走行ラインの説明をした。その際の見本として走っているせりかちゃんも、プレイングカートの経験が活きているのか思い切った走りをするようになっている。

 それでもやはり色々足りないな。次回からはしっかり教えないと。



 20分はあっという間に経ち、無線で呼び戻しつつ僕らも戻りせりかちゃんを迎えた。


「ただいまぁ!」

「おかえり。どうだった?」

「足りないです! やっぱり私はこっちのほうがいいです!」


 いくらパワーがあるからといって20分じゃさすがに短いか。とはいってもジュニアと初心者は午前の部と午後の部の中間の休憩時間しか走れないから仕方ない。


「じゃあ次は西條さんでいいかな?」

「あ、あの……。がんばります」


 西條さんは遠慮がちに、おどおどしつつ乗り込みコースへ出て行った。


「なあ、西條ってほんとに凄いのか?」


 風連さんは腕を組み、西條さんを見送りながら僕に言った。


「ん? ああ、見ていればわかるよ」


 西條さんは第一ヘアピンに近付き減速……せずハンドルを切りリアを滑らせ突っ込んだ。


『うはぁぁ! なにこれすっごおぉい! あはははははぁっ』


 スピーカーから西條さんの叫びが聞こえる。相変わらずの変貌ぶりだ。プレイングカートと圧倒的に違うパワーが楽しくて仕方がないという雰囲気を感じる。


「あ、あれ? 西條ってあんな奴だっけ?」


 初めて聞く西條さんの声に風連さんが困惑した。


「ああ。西條さんはハンドルを握るとあんな感じになるんだよ」

「そ、そうなんだ……」


 上りの第1 ヘアピンを抜け、下りの中速コーナーへと向かう。スピードが乗ってきたところでまた車体を滑らせ曲がっていく。


「ね、ねえ。カートって横にも走るの?」

「いや、あれは西條さんだけだよ……」


 酷い言い方だが、西條さんの走りは頭がおかしいとしか言いようがない。どうやったらヘアピンのかなり手前からあんな横に車体を向けられるのか、僕にも理解できない。

 しかもそのうえでコーナリングは確実にクリップポイントを捉えている。タイヤがどこまで滑り、その最中どうアクセルをコントロールすればいいか完全に理解できていないと不可能だ。


 トップドライバーはいかれている。そんなのは素人の意見だと思っていた。

 本当に速い人は一般人に到底理解できないような速度で走っていても、ちゃんとコントロールができるだけの余裕をもっているものだから。

 理屈は簡単。普通の人は恐怖のせいで、自分の限界でしか走れないからだ。しかしレーシングドライバーというものは、タイヤの限界で走れる。この差がけっこうでかい。

 だけど西條さんを見ていると、僕もまだ一般人なのかなと思い知らされる。


 散々振り回し、たった20分でタイヤをボロボロにした西條さんはとても満足そうな笑顔でマシンを降りた。


「つ、次はあたしの番かぁ。あはははは……」


 ひきつった笑顔が痛々しい。


「風連さん、怖かったらアクセルを緩めてもいいからね」

「大丈夫。あんたが行けるって言うなら行けるんだから」


 意を決した感じにバイザーを下げ、カートに乗り込み走っていった。


『大丈夫、大丈夫。いける、いけるいける!』


 呟くように何度もそう繰り返している。怖いのを必死に堪えているんだろう。

 それでも何周もアタックし、危険は無いとわかったのかだんだん自信を持ててきている。

 呟くこともなくなり、心なしか走りにも固さが無くなっている。


「2人とも、風連さんの走りはどう思う?」

「えっと、その、速い……でしょうか」

「うーん、それなりに踏めてると思うよ!」


 意外と辛口だなこの2人。

 だけど周回ごとにタイムを上げてきている。いい感じだ。


 少しずつ良くなっているところでもったいないがもう時間だ。本人も不満だろうが呼び戻さなくてはいけない。

 風連さんは戻って来、少し憔悴した感じの顔を外したメットから覗かせた。


「お疲れさん。どうだった」

「あ、えっと、カート……カート凄い! 凄い! 面白い!」


 これ以上無いというほどに目を輝かせ風連さんは嬉しそうに話す。彼女の限界をさらに越えたところにあったカートの性能は、自分を新しい世界に導いてくれるものと認識してくれたらしい。


「はは、最初の時と言っていることが違うね」

「あ……うぅ」


 途端気まずそうな表情になってしまった。


「だって、こんなに凄いものだなんて知らなかったし」

「そうだね。知らないものを批判したりバカにしてはいけないってことがわかっただけでもいいと思うよ」

「……あんたさ、けっこう意地が悪い?」

「どうだろうね。でも僕は昔、こいつで世界を目指すって決めていたんだ。それを知らない人間にバカにされたら誰だっていい気はしないだろ?」


「……ごめんなさい」

「いいよ。キミにはわかってもらえたからね。こいつの面白さが」

「う、うん……。面白かった」

「今後は面白いだけじゃなく、くやしかったりつらかったりも経験することになるよ。それでも続けられる?」

「そんなの勝負しようっていうんだからわかってるよ! だから続けさせてよ」

「前にも同じことを言ったけど、続けるかどうかは自分で決めるんだよ」

「じゃ、じゃあ続ける。もっと走る! あたしはその……カートが好きだから」

「そっか。じゃあ僕も手伝うよ、風連さんのことを」


 そう言った僕を見上げ、風連さんは照れくさそうに笑う。

 色々きつく言っている。正直自分でも嫌な奴だなと思う。だけどこれは必要なことなんだ。

 何故なら風連さんは昔の僕に近いから。


 僕が初めてレースを見たのは母がもらってきた光凌選手のDVDだ。時速300キロで戦うドライバーたちがとにかくかっこよく感じ、僕も将来これに乗るんだと決めていた。

 光凌選手が亡くなった後は更にその思いは強くなり、彼を継ぐのは僕だと言い張っていた。そんな僕を父が連れて行ったのはプレイングカート場。

 でもそれはDVDで見たマシンと比べればとても小さく貧弱で、おもちゃ以下の存在に見えたものだ。

 僕がやりたいのはこんなおもちゃじゃないと言ったとき、豊西さんに同じようなことを言われたんだ。

 そして乗り込んだプレイングカート。正直怖いと思うほどの速さ。そして体がバラバラになるかと思えるほどのG。一瞬で虜になった。そしてへし折られた。


 本気でやりたいと思ったら、何を言われたってやる。カートは別に殺し合いをするわけじゃないが、実際に何人も亡くなっている危険なスポーツだ。馬鹿にしていると自分が死ぬか誰かを殺してしまうことになる。

 できればきちんとした覚悟を持って挑んでもらいたい。


「じゃあみんな帰るよ。そろそろ午後の部が始まるからね」


 午後から走る予定の車がちらほらとやってきた。走りもしないのにコース横に車を停めておくのは迷惑になるから撤収したほうがいい。

 カートを積み車に乗ろうとしたとき、少し離れたところにやってきた車に目をやった。

 そこから降りてきた人物は……。


「あっ、あいつは!」「おっ、あれは」


 僕と同時にせりかちゃんが声を出した。


「どうしたの?」 

「あ、いえ……お兄さんこそ」

「ああ、ちょっと知り合いがいたんだよ。挨拶してくる」

「は、はい」


 何かひっかかる感じがしたが、僕は少し駆け足気味に向かった。


「あれ、内淵さんじゃないっすか」

「やぁ久しぶり」


 僕が以前いたチームのメンバー、日進君。

 金髪で派手、というか軽い感じの見た目だが、その実真面目で努力家だ。


「どうしたんっすか? フォーミュラに行ったはずっすよね」

「まあそうなんだけどさ、その件で来ているんだよ……おや?」


 日進君の背後へ隠れるようにしている影がちらほらと見える。


「ん? ああ妹っすよ」

「確か花蓮ちゃんだよね? 久しぶりだね」

「え!? あっ……な、名前、覚えててくれたんですか……」


 今度は日進君を押し退けるように前へ出てきた。


「少し見ないうちに綺麗になったね」

「ほ、本当ですか!?」


 笑顔で僕のほうをじっと見つめる花蓮ちゃん。この年頃は成長が早く、1年近く会っていなかっただけなのに大人っぽくなった。


「お前昔っから内淵さんに惚れぐぼぁっ」

「な、なんでもないです! 内淵さんはどうしてここに?」


 何故かうずくまり悶えている日進君をスルーし、花蓮ちゃんが尋ねてきた。


「ちょっとね、カート教室みたいなのをやっているんだ」

「ええーっ、プロになったのになんでそんなことを?」

「スポンサーさんのお願いでね。ほら、あそこにいる子らに教えているんだ」

「へー……あぁ?」


 なんか後半にやたらとドスのきいた感じがしたが、気のせいだろう。

 僕たちがいつも集まっていたチームのショップへたまに遊びに来ていて、みんなに気を使えるとてもいい子だったのを覚えている。

 きっとくしゃみかなにかを耐えたに違いない。


「えっと……そういえば花蓮ちゃんと同じ歳くらいなんだよ」

「ふーん、女の子ばかりなんですねぇ」

「ああうんまあ。そうだ、紹介するよ。花蓮ちゃんも友達がいたほうがいいでしょ?」

「あ、別にいいです」


 何か冷たい言い方だな。思春期の女の子はよくわからない。

 ストイックなのかな。ライバルと馴れ合いたくないという人もいるし、強制はできない。


「そっか。じゃあ2人ともまたね」

「またっす」

「あ……はい……」


 そういえばせりかちゃんの言葉にひっかかっていたんだよな。往復でひっかかってしまった。

 戻ってみると窓に顔を押し付けこちらを睨んでいるせりかちゃんにちょっとたじろいだ。


「ごめんごめん、前にいたチームの後輩が来ていてさ」

「そうなんですか……。横にいた子は?」

「ああ、そいつの妹で花蓮ちゃんっていうんだ」

「花蓮……ちゃん?」

「そうだよ。どうしたの?」


 聞いてきたせりかちゃんが急に黙り、ぷるぷると震えだした。


「あいつ……あいつあいつ! あいつだよ! 私を見下したように見た奴!」


 と思ったら突然怒鳴りだした。

 せりかちゃんがカートを始めるきっかけになった出来事か。


「あー……そういえばそんなことを言っていたね。でも花蓮ちゃんは強敵すぎるよ」

「なんでですか!」

「日進君はそんなに上手いほうじゃないんだけどさ、教えるのは僕よりもずっと上手いんだよ。名コーチがみんなトップレーサーってわけじゃないからね」

「お兄さんより……うぅ~」


 コーチをするのは才能があまり無い人のほうがいい。彼らは才能のある人間と渡り歩くための努力をたくさんしてきているから。前のチームの監督がそう言っていた。


 僕のカート時代のコーチもそんな人だった。僕のほうがずっと上手かったし速かった。だから僕はコーチを少しなめていたんだ。

 だけど全日本出場が決まり、コーチが変わった時に知ったんだ。あのコーチはとても凄い人だったんだって。

 地方戦でのレースは、彼のセッティングで僕の求めていたものが全て満たされていた。

 全日本で同行してくれたコーチは、元全日本優勝者だった。だけどその人のセットでは何か足りない。僕が欲しかったのはこれじゃない。そんな感じだった。

 自分でセットし直しても、どうもピンとこなかった。それで前のコーチに連絡して、それから全部優勝できるようになったんだ。


 プロのレーシングドライバー。それは努力が才能を凌駕できるような甘い世界ではない。

 何故なら才能がある人間が努力して、それでもなお一握りしかなれないからだ。

 だけどコーチは違う。才能が無い人は才能が無いなりの努力の仕方があり、それを教えられる人が重要になるんだ。

 そんな日進君がコーチする花蓮ちゃん。僕が教えて勝てるのだろうか。

 いや、僕が弱気になってどうするんだ。信じないと、せりかちゃんのことを。

 それに目標は高い方がいい。だけど最初のハードルはそこそこのほうがいい。花蓮ちゃんはそのラインには丁度いいかもしれないな。

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