5章 恥ずかしいけどお兄さんになら

「ねぇお母さん」

「どうしたの? せりか」


 ある平日の夕食時、せりかは料理を作っている母親に声をかけた。いつもののへーっとした顔ではなく、少し神妙な面持ちであったため、母は料理の手を止め、せりかを見た。


「えーっと、その、ね。あはは」

「そんなんじゃ言いたいこと伝わらないわよ。ほんとどうしたのよ」


 せりかは言い出せないでいる。いつも周りを巻き込むタイプのせりかといえど、さすがに切り出しづらい話もある。


「えーっとね、お母さん。私、私ね。そのー、えっとー……」

「はっきりしなさいよ。せりからしくない」


 せりかがこんな状態になっている。あまりにも不自然で違和感がある。母親が察せぬはずはない。それでも口に出しにくいことだが、せりかは思い切り息を吸い、叫ぶように言った。


「あのねお母さん。私、カートやりたい!」


 母親はそれを聞いてせりかのそばへつかつかと寄り、頭をひっぱたいた。


「うるさいわよ。ここはマンションなんだから大声出さないでって言っておいたでしょ」

「へうぅ、ごめんなさい……」


 急に真顔になり自分のもとへやって来、頭をひっぱたかれたせりかは恐怖で涙目になりながら両手で頭をおさえつつ謝った。


「それで、なんでカート?」

「えっと、その……こないだ乗ったら楽しくて……」

「どこで? 1人で行ったわけじゃないわよね」

「あの、あのね。内淵さんのお兄さんと……」

「あら! あらあら! 才覇ちゃんとね! ゆきちゃんの息子さん! いいじゃない!」


 母親は一瞬で笑顔になった。


「う、うん。そんでね、お兄さんが教えてくれるから、私やりたいの! ……駄目?」

「いいに決まってるでしょ! そっかぁ、せりかがねぇ」


 うれしそうにせりかの頭に手を乗せ、うんうんとうなずいた。


「いいの? でもほら、お父さんが……」

「せりかはほら、レースのせいでお父さんが死んだと思っているでしょ。でもこうやってお父さんが命をかけていたレースの世界に入ろうとしている。お母さんはそれがうれしいのよ」

「う、うん。でもさ、危ないとか思わないの?」

「世の中どこで何をやったって危険なものは危険よ。そんなことじゃ街も歩けないわ」


 おおらかなのか大胆なのかわからないが、思いのほか快諾してくれた。


「ありがとうお母さん! 私、がんばるから!」

「それはそうとゆきちゃん元気だった?」

「あ、えっと、会ってないんだ」


 母親にばれるのを恐れ、会わないようにしていた。才覇もそれを察しており自分の母には黙っておいた。


「てかお母さん、こっち引っ越してから会ってないの?」

「あー……そういえばいつも話しているから会うのすっかり忘れてたわ。じゃあ今度また一緒に行こうか」

「うんっ!」


 肩の荷が降り、軽い足取りでせりかは部屋へと戻った。



 ☆



「それじゃあそろそろ本格的に始動しようか」


 週末の午後、いつものように集まる3人へ僕は告げた。


「えっ! 今までのは遊びだったんですか!」

「そうだよ」

「私、一生懸命がんばっていたのに!」


 これを言ったらせりかちゃんがどうなるかはわかっていた。予想通り大憤慨している。


「まあまあ、これからちゃんとするから。その前にやって欲しいことがあるんだ」

「へぇへぇ、なにをすれぶぁいーんですかぁー」


 せりかちゃんはとても投げやりモードになってしまった。今までがんばってきたのが遊びの延長と言われたら仕方のないことか。


「えーっとだね、まずB級ライセンスを取ってきてほしいんだ」

「なーんですかぁーそれぇー」


 ふてくされたまま、やさぐれた感じでせりかちゃんは聞いてきた。


「ライセンスを正しくはモータースポーツライセンスといってね、レースに出場するには必要なものなんだ。レーシングドライバーは必ず持っているものなんだよ」

「あっ、それ本にも書いてありました! じゃあそれを取ればレーシングドライバーなんですか?」

「まあそういうことだね」


 プロではないだけで、レーシングドライバーと名乗っても差し支えないだろう。


「と、取ります! すぐ取ります!」


 途端に目を爛々と輝かせた。なんて現金な子なんだ。


「とりあえず3人の年齢を教えてくれるかな」

「こないだ言いましたよ。14です!」

「あの……私15です」

「あたしも15だよ」

「同級生で14と15 ってことは中3か……受験とか大丈夫なの?」

「うちは一貫教育なので、特に成績が悪くなければそのまま上がれるんです」

「へぇ。じゃあ3人とも問題は無いわけだ」

「う~~、まぁ~……はっはっは」


 せりかちゃんから無気圧ほどに渇いた笑いがした。


「せりかちゃん、ちょっとギリギリなんですよ」


 そんな気はしていた。試験前は控えたほうがよさそうだ。


「じゃあせりかちゃん、誕生日はいつ?」

「10月8日! プレゼントはカートがいいです!」

「あはは……」


 あと半月か。近くてよかった。これであと半年とかだったら叫んで暴れていただろう。


「じゃあまず西條さんと風連さんはB級ライセンスを取りに行ってもらうね」

「わ、私は!?」

「カートのライセンスは15歳からなんだ。だから──」

「そ、そこをなんとか!」


 あとちょっとで15なのに、ジュニアのライセンスを取らせても意味が無い。

 僕程度でできるものならしてあげたいが、これはどうにもならない類のものだ。


「まああと少しの辛抱だよ」

「ぶうぅぅぅっ」

「それはどうやって取得すればいいんですか?」


 ふくれているせりかちゃんを放っておくように西條さんが聞いてきた。少しわくわくしているように見える。


「えーっとね、講習に行ってからJAFで登録するだけだよ。講習はビデオを見るだけだからカートショップなら大抵やってくれるかな。JAFには親と同伴で行ってね……っと」


 ここで僕は気になった。せりかちゃんはどうしよう。

 娘がレースをすることに賛成してくれるだろうか。JAF会員になると家に会報が届くから、色々と偽証してもばれてしまう。


「せりかちゃん、えっと、家は大丈夫なのかな」

「お母さんのことですか? 大丈夫です!」


 僕の悩みは杞憂で済んだのか。


「あの、ショップってどこにあるのでしょうか」


 西條さんが不安げに聞いてきた。確かにこの辺りにはカートショップなんて無いし、それに突然知らないところに行って講習を受けるのも心細いだろう。


「そうだねぇ……じゃあ僕が入っていたチームのショップに頼んでみるよ」

「私は! 私!」


 必死に自分をアピールするせりかちゃんは申し訳ないが少し滑稽だ。


「講習を受けるだけなら誕生日前でも大丈夫だよ。一緒にやったほうがいいでしょ」

「はい! ところで講習って何をするんですか?」

「ええっと、入門書は持ってるよね?」

「はい! 今持ってます!」


 そう言ってせりかちゃんはカバンから一冊の本を取り出した。別に今持っているかを聞いたわけじゃないのだが、まあいいか。

 しかしなんだこの本、ボロボロじゃないか。擦り切れ具合からして相当読み込んでいる状態だ。


「古本屋で見つけたの?」

「新品で買いました! もうほとんど暗記してます!」


 こんなになるまで読み込んだのか。最初はやる気あるのか不安だったが、これだけ熱心に勉強しているのなら大丈夫だ。


「講習の内容はそれに書かれているのと大体同じだよ」

「じゃあ受ける必要ないんじゃないですか?」

「ライセンスの取得に講習は義務だからね。内容を知っていればいいってものじゃないよ」

「わかりました! 受けてきます!」


 せりかちゃんは話していて本当に気持ちのいい子だ。


「決まりだね。じゃあいつがいいかな……」

「明日! 明日でいいですか!」


 またこの子は……。先方にも都合というものがあるだろうに。

 とはいってもカートショップだってそれも仕事のうちだ。言えばやってくれるだろう。

「後で聞いてみるよ。連絡するから今日はこれで解散しよっか」



 ○



「こんちわー」

「おぉ内淵君、待ってたよ。その子たちが?」

「ええ、お願いします」

「よろしくお願いします!」


 3人は僕に続き店長のタカさんに頭を下げる。


「じゃあみんなこっち来て椅子に座って。ビデオ流すから」


 勝手知ったるチームのショップ。僕はビデオと椅子を用意しみんなを呼んだ。


「講習ってどれくらい時間かかるんですか?」

「ビデオ見るだけだから30分くらいだよ。どうして?」

「えっと、お店! お店の中もっと見たいです!」


 さっきから挙動不審だったのは不安だったからじゃなく、色々と見たかったからなのか。

 このショップはさほど大きくないが、パーツの種類は豊富に揃っている。始めたてに見せるのはいい勉強になる。


「はは、見終わったらね」

「はーい!」


 せりかちゃんは大きく手を振ってささっと椅子に座った。

 映像が流れている間、僕はタカさんに話を持ちかける。内容はもちろんあの3人のことだ。マシンやパーツの購入から保管、メンテナンスの段取りまで色々と決めないといけない。


「内淵君、だったらあの子らをうちのチームに入れなよ。そのほうがキミも楽でしょ」

「うんまあ、それは考えておきますよ」


 出資者は上川社長とはいえ、あまり余計なお金をかけたくない。

 ショップ直属のチームに入ることは、カートをやっているうえでこれ以上無いくらいに魅力的なものだ。

 保管やメンテナンスの費用を割り引いてくれたり、移動も他の仲間とまとめて持って行ってもらえるから割り勘にもできる。なにより情報をやりとりできるから、レースではかなり有利になる。

 だからといって────多分せりかちゃんは反対するだろう。このチームだけは絶対に嫌だって。


「こんにちは」

「ああ花蓮ちゃん、いらっしゃい」


 その原因である花蓮ちゃんが運悪くこのタイミングで来てしまった。


「あぁーっ、内淵さん来てくれたんですかぁー」

「うん? えっと……」

「私のことが心配になっちゃったりしてます? 大丈夫ですよぉ」


 心配? なんのことか話が見えない。


「えっと、何の話かな?」

「明日私のレースだから応援に来てくれたんじゃないんですか?」


 やはり勘違いされていた。その情報は初聞だ。


「いや、僕の教えている子たちにライセンスを取らせるためにね……」

「あぁん?」


 やっぱり聞き違いではなかったようだ。明らかに不機嫌そうな声で3人を見る。

 更にタイミング悪くビデオが終わったらしく、にこやかな顔でこちらを向くせりかちゃんは花蓮ちゃんを見るや否やガタッと立ち上がり指をさし、


「で、出たなダレン・シャン!」


 叫んだ。


「誰が奇妙なサーカスよ! 私の名前は花蓮ちゃん!」


 自分で花蓮ちゃん言うかなぁ。

 僕はその話題はわからないのだが、この会話だけで2人が意外と気が合いそうだと思ってしまう。


「あんただけには絶対に負けないんだからね!」

「ねえ内淵さん。あの子は一体何を言っているのかしら」


 花蓮ちゃんは不思議そうな顔で僕を見ている。


「なんか個人的な恨みがあるみたいだよ」

「恨み……? 思い当たるふしはないんだけど」


 眉をしかめて記憶を探っているようだ。


「なんか夏に花蓮ちゃんが走っているのを見かけたんだって」

「私は知らないわよ」


 本当に知らないといった感じの表情だ。せりかちゃんの勘違いじゃないだろうか。


「そういえば呼びかけたら見下されたとか言ってたなぁ」

「……ああ、あの時ブァッカみたいに手を振ってたの、あなただったのね」

「むっぎいぃぃぃ!」


 せりかちゃんは怒りのあまり地面を踏みつける。

 それより花蓮ちゃんにも思い当たるふしがあった様子。せりかちゃんの思い違いではなかったようだ。


「これからライセンスを取るんでしょ? 私はもう何戦もレースをしているのよ。勝てるわけないじゃない」

「や、やってみないとわからないし!」

「あっそ。じゃあそう思ってなさいな。タカさん、明日よろしくお願いしますね」


 それだけ言って花蓮ちゃんは帰ってしまい、せりかちゃんは床をガンガンと踏みつける悪い子になってしまった。

 それにしても、やたらとせりかちゃんは花蓮ちゃんを敵視している。出会いが酷かったのは知っているが、だからといってつっかかりすぎだ。

 勝負の世界だし、ライバルがいるのはいいことだ。だけど何か違う気がする。


「ねえせりかちゃん」

「なんですか?」

「なんでそう花蓮ちゃんとぶつかるのかなって」

「前にいいました。私がカートを初めて見た時──」

「僕が見てるとさ、なんか無理して当たっている気がするんだよ」


 少しの沈黙があり、何でも話してくるようなせりかちゃんが口篭ってしまっている。何か他に事情があるのだろうか。


「あはは……お兄さんにはかなわないですね」


 俯いてしまった。西條さんらを見ると事情を知ってか知らずか複雑な表情をしている。


「いつか……いつかきっと話せると思います」


 そう言うせりかちゃんは、いつもと違った雰囲気をかもし出していた。何か少し悲しそうな、それでいてそれを隠そうとする無理な笑顔。

 僕が踏み込んでもいい領域なのだろうか。



 ○



「随分遅かったね。どうしたの?」

「えっと、じゃん!」


 せりかちゃんがうれしそうに取り出したのは、B級ライセンスだった。

「あれ、今日誕生日で……」

「そうですよ! だから早速取ってきました!」


 相変わらずせっかちな子だな。

 前回会ってから2週間ほど経ち、せりかちゃんの誕生日にみんなで集まろうという話になっていたわけだが、ここに来る前にJAF へ向かったのだろう。


「ああそうだ、誕生日おめでとう」

「ありがとうございます! プレゼント期待してますね!」


 まったくこの子は……。


「あはは、期待してていいよ。こっちおいで」


 僕が呼ぶとうれしそうについて来た。そして目の前にある一台のカートを目にする。


「えっ……こ、これ……」

「欲しかったんでしょ?」


 スポンサーがついてくれた以上、売って金を工面する必要もなくなった。それだけじゃなく、せりかちゃんのおかげで僕はレースをできるようになったと言ってもいい。ならばせめて僕ができる精一杯のものを贈ってあげようと思った。

 フレームはそのままで、カウルとノイズボックスを新品に交換。見栄えだけは新品みたいに仕上がった。


「で、でも、いいんですか?」


 正直よくはない。

 中古だからという理由だけではない。このフレーム『アルバ』はもう既に販売されていないものだ。マシン自体のクセが全くといっていいほどに無いのが強烈なクセとなっているような代物だ。

 中級者でもなかなかまともに走らせられないが、1回走り方がわかればどんなラインでも速く走れるというマシン。

 初心者にはかなり難しいものだから、できればそれなりに走っている人に譲りたかった。

 だけどこの子ならひょっとして……なんてな。


「ところでせりかちゃん、2人は?」

「…………ああ~~っ! 忘れてました!」


 慌ててせりかちゃんは2人を携帯で呼び出す。到着するまでに僕は車にカートを積み終えていた。それから3人を車に乗せ、ランクへと向かう。



「3人ともライセンスを取得したことだし、これでようやくきちんと動けるわけだが」

「わけだが?」

「うん。そろそろチーム名とかつけてもいいかなって」

「チーム名! いいですね!」


 せりかちゃんはかなり興奮気味に目を輝かせている。自分たちで決める自分たちのチーム。やっぱり楽しいもんだよな。


「何かいい案があればなぁって」

「はい! はい! 猫レーシング!」

「な、なんで猫……?」

「だって猫かわいいじゃないですか!」


 意味がわからない。


「だっさぁ……。あたしはもっとかっこいいのがいいな」

「僕としてもそっちのほうが……。風連さんは何かいい案あるの?」


「えっ、い、インフィニティ・レーティング?」


 なんだその中二っぽい……和訳すると青天井か? どこのヤクザ麻雀だよ。


「えっと、どういう意味かな?」

「さあ? なんかいいかなって」


 ちゃんと意味を調べてつけて欲しい。


「西條さんは何かある?」

「わ、私ですか……その……にんじんレーシングで……」

「に、にんじん? にんじん好きなの?」

「いえ、特にそういうわけでは……」

「うん?」

「カートの上がフォーミュラで、その最高峰がF1、ですよね?」

「そうだけど、それがどうしたの?」

「えっと、その、にんじんにはF1種という種類があるんです」


 そ、そうなのか。てっきりエンジンとにんじんをかけているのかと思った。


「にんじんいいね! かわいいじゃん!」

「ええ~っ、あんたらセンスなさすぎ!」


 青天井に言われたくないと思う。


「じゃあ……キャロットでどうですか?」

「キャロット! 猫っぽくていいね!」


 あまり猫っぽくないと思うのだが、キャットにかかっているのだろうか。

 散々言い争った結果『CTキャロット(仮) 』ということになった。CTはカートチームの略らしい。しかも(仮)ということは今後変更があるということになる。


 そんな話が終わった頃にはランクの地下駐車場に到着した。


「ここどこですかぁ!」

「ここ、私のお父さんの会社だよ」

「でっか! あんたのお父さん何者よ!」


 結局会社の地下駐車場の一部を保管場所として借りることにした。あそこだとまたせりかちゃんと花蓮ちゃんがぶつかるだろうし、かといって他のチームのお世話になるのも気分的にできない。

 僕は一番奥に車を停め、積んでいたカートを下ろして既に用意してあった2台のマシンの横に並べた。


「というわけでこれからフレームの説明をしたいんだ」

「私はさっき頂いたのがあります!」


 うれしそうにせりかちゃんは手を振っている。


「うん、せりかちゃんはそれでいいよ」

「えーなんかのけものにされた気分ー」


 自分で言い出しておいてそれはないだろう。


「フレームにも色々あって、それぞれ特性というものがあるんだよ。だから自分に合ったフレーム選びをしないといけないんだ」

「えっと、その……どれを選べばいいのかわからないです」


 西條さんは不安そうな顔で僕を見ている。


「大丈夫だよ。2人のフレームはもう既に決まっているんだ」

「おっ、いいねぇ。面倒なことしなくていいわけだ」


 慣れてくるとフレーム選びはとても重要になるんだけど。


「まず西條さんはこれ、ティアラだよ。強オーバーステア……ハンドルを少し切っただけでも凄く曲がるマシンだから気をつけてね」


 ドリフトさせようとすると簡単にスピンしてしまう車体だ。ちょっと強引だがこれに慣れてもらい、すぐリアを滑らせようとするクセを無くしてもらう算段だ。


「それじゃあこれがあたしの?」

「そう、これはコスモっていうんだ。以前乗ったからわかるよね」


 ティアラとは逆に、カートでは稀なアンダーステアのフレームだ。走れるラインは極端に狭いが、きちんと乗れば気持ちいいくらい速く走れる。

 少々扱いづらいが、アンダーな分スピンしにくいから怖がりな風連さんには丁度いい。


「なんかあたしだけ中古みたいな感じなんだけど」

「いやいや、使い込んでいるといったらせりかちゃんのアルバのほうだし」

「そういえばそっか。あたしのが新しいんだ」

「まあね」


 そうは言っても、嫌な言い方をするとコスモはスペアカーで、誰でも乗れるつもりで用意したんだ。これからひょっとしたらまた増えるかもしれないし、その時に使うつもりだ。

 せりかちゃんのは僕があげたといえど、自分のカートだ。そして西條さんはスポンサーだし、彼女用のマシンの予算までもらっている。

 だけどそのうち風連さんに合ったマシンを見つけたい。


「こうやって3台並べると爽快ですね! ……あれ、私のだけエンジン違う?」

「よく気付いたね。せりかちゃんのだけダイレクトなんだ。2人のはクラッチ付き」

「どう違うんですか?」

「ダイレクトはそうだなぁ……タイヤとエンジンの回転が常に直結しているんだよ。クラッチ付きは自動遠心クラッチといって、一定以下の回転になると解放される。まあスクーターみたいなものかな」

「スクーターわからないや」


 そうだよな、まだ15才だから乗ることはできない。


「そうだ、せりかちゃんはダイレクト一度乗っているよね。押して飛び乗らないといけないんだよ。それでクラッチ付きはその必要がないんだ」

「あっ、止っていてもエンジンがかかっているやつですね!」

「そうそう」

「どっちがいいんですか?」

「一概にどっちがとは言えないかなぁ」


 KT エンジンは、入門者向けあるいは遊びで乗る人用のエンジンだ。このクラスにそこまで飛び抜けて上手い人はいないから、どちらでも大差ない。


「だったらクラッチ付きのほうが楽でいいんじゃないですか?」

「確かにそうなんだけどね、上を目指すなら絶対にダイレクトだよ。チューニングクラスとかにクラッチ付きはないからね。本気でやるならダイレクトじゃないと」

「あ……はい! さすがお兄さん!」


 3人はそれぞれ自分の乗るカートをじっくりと見回している。自分用のマシンが手に入ったということがとてもうれしいんだろう。


「そろそろいいかな。それじゃあ──」

「走るんですね!」


 せりかちゃんは目を輝かせているが、当然これから走りに行くつもりはない。それにちょっと厄介な話をしなくてはいけない。


「えーっと、非常に聞きづらいことなんだけど……」

「なんでも聞いてください!」


 うれしそうに僕を見上げる少女は、質問にどう答えてくれるのだろう。


「それじゃあ、えっとだね……全員の体重、教えてくれるかな」

「はい! ……え?」


 笑顔が凍りつくというのはこういうものなんだな。初めて見ることができた。しかもそれが3人分。まずお目にかかれることではない。

 そしてその笑顔はだんだん赤みを帯び、その熱のせいで解凍されていく。


「こ、このバカ! 変態!」

「あのぉ、それはさすがに私でも……」

「信じてたのに! お兄さんのこと信じてたのにぃ!」


 予想通り罵詈雑言の嵐だ。体重はやはり年頃の女の子に聞いてはいけない質問ワースト3に入る。


「ちょ、ちょっと3人とも落ち着いて聞いて欲しいんだ」

「なんだよセクハラレーサー」


 勘弁してください。

 敵を見るように注ぐ僕への視線は、放っておいても納まる様子はなさそうだ。


「レースに出るには規定重量っていうものがあるんだよ。マシンとドライバー……もちろんレーシングスーツやヘルメットとかも合計した重量が、規定以上じゃないと失格になっちゃうんだ。3人とも確実にそれより軽いからウエイトを積まないといけないよ」

「そんなの適当でもばれないでしょ」

「完全にばれるよ。レース前と、あと入賞したらレース後にもカートと一緒に体重計に乗らないといけないんだ」

「ま、まじ?」


 途端にひきつった顔になる風連さん。気持ちはわからないでもないが、これを乗り越えないとレースなんて絶対に出られない。


「まじだよ。さらにその重量にはガソリンとかも含まれるから、最初の重量が規定ぎりぎりじゃ駄目なんだ。それに走ると体重が落ちるからその分も考えないと……」

「あ、あの! レースってそんなに体重落ちるんですか!」


 急にせりかちゃんが食いついてきた。


「え? ああ結構落ちるよ。F1なんか1レースで5キロくらい落ちるらしいし」

「ご……5キロも!?」


 それだけハードだという話をしているのに、何故か3人とも目を輝かせている。


「ま、まあカートじゃそこまで落ちないけどね。耐久レースでもない限り……」

「耐久レース! それに出れば落ちるんですね!」


 やばいぞ、だんだん方向が変わりつつある。僕は彼女らのダイエットのためのコーチを引き受けたわけじゃない。

 といっても耐久レースはいつか出場させるつもりだ。せっかくのチームだし、長時間走ることは色々と勉強になる。

 その後彼女らは目の前にいる僕にメールをし、体重を伝えてきた。こればかりは友達にも知られたくないわけか。

 まあ僕もこういうことさえなければ知ろうと思わなかったんだけど。色々怖いから。


「それじゃあまた聞いていいかな」

「もうなんでも大丈夫です! 聞いてください!」


 体重以上に聞かれたくないものはない。そんな感じで強気に言ってきた。


「んじゃ遠慮なく。みんなの体のサイズを教えて欲しいな」


 まただ。一瞬で周囲が化石のようになった。


「ふっ……」

「ふ?」


 突然息を吹き返した風連さんが震えながら声を出した。


「ふっざけんじゃねぇ、このエロリコン変態セクハラレーサー!」

「内淵さん、酷いです……」

「お兄さん! 私はまだ信じないといけないんですか! もう限界です!」


 ごめんなさい、僕だって聞きたくて聞いているんじゃないんだ。


「話をね、話を聞いてくれないかな……」

「あんたが死んだら聞いてやるよ。クソが」


 なんかもう色々辛い。


「えっとね、みんなの、ね。ねえ聞いてる?」

「お兄さん……お兄さんはレーサーとしては凄いかもしれないですけど、男としては最低だと思います……」


 なんで僕はこんな目に合わないといけないんだ。


「いいから聞いてよ。みんなのレーシングスーツやシューズ。それにグローブも揃えないといけないでしょ。だから聞いたんだよ」

「そ、それに胸囲とかウエスト必要なんですか!」


 ああ、この子たちはやっぱり女の子なんだな。


「いや、そこまではいらないよ。身長と足のサイズ、それと頭回りだけでいいからね」

「それならそうと先に言えよ。あやうく社会的に殺すところだったぞ」


 物理的に殺されたほうがマシなこと言わないで欲しいよ。


「でもそれなら私たちで買いに行ったほうがいいんじゃないですか?」

「本来ならそうしたいところなんだけどさ、レーシングスーツとかってかなり特殊なんだよ。2輪用はあっても4輪用のは扱ってないって店も多いし」

「その2つはどう違うんですか?」

「2輪用は転倒するから、怪我しないように肘や膝を守るパットがついているんだ。4輪用は燃焼を防止するために耐熱素材でできているんだよ」

「なるほど……」

「カートショップでも置いてない場合が多いから、取り寄せてもらう必要があるんだ……て、西條さんどうしたの?」


 さっきからスマホをいじり、何かを調べていた西條さんが画面を差し出してきた。


「えっと、この店ならここから近いです。これからでも向かえますよ」


 画面を見せてもらうと、確かにここから車ですぐの場所だし、レディース用もある。レーシングスーツにそんなものがあるなんて初めて聞いた。それにジュニア用もあればオーダーメイドも受け付けているらしい。こんな店もあるんだな。


「せっかくだし、これからみんなで行こうか」

「はーい!」


 途端にいつもどおりの元気になったせりかちゃん。よかった……。

 車に乗り、3人はスマホでカタログを見ながら楽しそうに話している。



 ショップに着き、店内に入ると何やら場違い的なほどおしゃれな雰囲気があった。

 なるほど、レディース用が売られているだけあって女性をターゲットにしている。

 通常のスーツもあるのに男性客が皆無だ。


「お兄さん、いっぱいありますよ!」

「そうだね。自分のサイズに合うやつで好きな色を探せるね」

「はいっ! ええっと、レディース用は、と」

「せりかはレディース用じゃなくてジュニア用だろ」

「ちっ……違うもん! レディース用だもん!」


 冷やかし笑いをする風連さんに、必死な顔で否定するせりかちゃん。僕もせりかちゃんのサイズはジュニア用だと思う。

 だけどやはりそこは年頃の女の子。認めたくはないのだろう。


「とりあえず試着してみてから考えてみたら?」

「そっ、そうですよね! 絶対にぴったりなのあるはずです!」

「じゃあ適当にぶらついているからゆっくり探すといいよ」


 僕としても珍しいから珍しいから色々と物色する。カートとは関係のないアクセサリ類や、おしゃれなものが置いてある。なかなか面白い。

 さっきからせりかちゃんがいそいそと試着室に入り、悲しそうな顔で出てくるのを繰り返している。サイズ、合わなかったんだなぁ。

 西條さんはレディース用ではなく通常のスーツを探している。風連さんは……何やら思いつめたような顔で一ヶ所に立ちつくしている。

 しばし眺めていたら、打ち合わせたかのように3人ともこちらに戻ってきた。


「お兄さん、私、これがいいです!」

「どれどれ? これはまたずいぶん赤いね」

「燃える赤なんです! 真っ赤に燃えるんです!」


 なるほど、せりかちゃんらしい。


「なんだ、やっぱジュニア用じゃないかよ」

「ちっ、違うもん! 気に入った色がこれしかなかったんだもん!」


 言い訳がましいが、確かにレディース用はパステルカラーが多い。

 いや逆にパステルカラーが欲しかったが合うサイズがなかったからこれにしたとか。

 物惜しげにちらちらと目線を他のスーツに向けているし。


「もしなんだったらオーダーしてみたら?」

「だってオーダーだと2週間かかるんですよ! 明日着られないじゃないですか!」

「風連さんは決まったの?」

「え? あ、ああ。ま、まだ」


 そう言いながら、風連さんは離さないぞと言わんばかりにがっしりと1着のスーツを握り締めている。ピンク地に白いラインの入った、とても女の子らしい感じの色だ。


「これが欲しいのかな」

「ちっ、違うって。これはたまたま手元にあったのを持ってきただけだよ」

「これでいいんじゃないかな。風連さんかわいいんだし絶対に似合うよ」

「は、はぁ? ん、んなわけないし!」

「あーっ、えみちゃんのかわいいー!」

「なっ、なんだよ見るなよ!」


 顔を赤らめる風連さんはほんとうにかわいい。これで口が悪くなければかなりモテるだろうに残念な子だ。


「西條さんは……もう決まっているんだね」

「あの、はい」

「これはまたずいぶん真っ白だね」


 これだけレディーススーツがそろっているのに、持っているのは普通のスーツだ。


「白だと汚れ目立つけどそれでいいの?」

「はい、これでいいんです」


 僕が洗うわけじゃないから本人の好きなものでかまわないか。それに西條さんと白ってなんだか合う気がするし。


「じゃあ次はシューズとグローブだね。色はスーツに合わせたほうがいいかもね」

「なあ、スニーカーとどう違うんだよ」


 売り場に置いてあるシューズを見ながら風連さんは聞いてきた。


「よく見てごらん。アクセルやブレーキの感触がわかりやすいように、底が薄くて固いんだよ。実際に履いてみるとスニーカーよりスリッパや上履きに近いかな」

「なるほどね。じゃあこれでいいや」


 スーツさえ決まっていれば、その色に合わせたシューズやグローブにすればいい。さすがにこれは選択肢が狭く、みんなすぐに決まったようだ。


「スーツにシューズ、グローブが揃ったから後は──」

「あの、その……」

「どうしたの? 西條さん」


 突然西條さんが珍しく僕の言葉を遮るように話しかけてきた。


「えっと、ヘルメットなんですけど……」

「ヘルメットならそこにあるけど、気に入ったのなかった?」

「あのっ、このお店に行きたいんです……」


 西條さんが自分の意見をぶつけてくるなんてまずないことだ。どうしても欲しいメットがあるんだろう。場所は──なんだすぐそばじゃないか。


「僕と西條さんはヘルメットを買いに行くけど、2人はどうする?」

「はいはーい! 行きまーす!」

「あたしももっといろんなの見てみたいからいいよ」

「よし、みんなで行こうか」

「それで西條さ──」


 いない。

 いてもたってもいられないといった感じで、もう既に店から出ていた。


「僕らも行こうか」

「はーいっ」


 外にでて目的の場所に行く。店内を見たら、西條さんは目的のものがあるのだろうか周りに目もくれずツカツカと歩いて行っている。

 2人を連れて店内に入ると、つい声が出そうになった。そんなに広い店ではないが、専門店だけあって品揃えが凄い。これは……1日いても飽きないかもしれない。


「ヘルメットはどういうのを選べばいいんですか?」


 たくさんありすぎるのも選ぶのが大変になってしまうか。せりかちゃんがきょろきょろしながら聞いてきた。


「そうだねぇ、まず頭にしっかりフィットしていることと、視野角が広いことかな」

「なんだそりゃ?」

「かぶってみて見える場所があまりさえぎられないやつかな。見ての通り目の部分しか出ていないフルフェイスはけっこう視野が狭いんだよ。試しにちょっとかぶってごらん」


 近くにあった特に穴の小さそうなものを手に取り、風連さんに渡した。


「どれどれ……ああうん、確かにこれじゃ横や上下が見えないな」

「わかったかな」

「ああ。色や形だけじゃだめってことだな」

「そうだね。あとは僕個人の好みなんだけど、フリップアップがいいかな」

「それってどれですか!」

「えっとね……ああこれだこれ」


 僕は近くにあったメットを1つ掴んで2人に見せた。


「なんだこれ、フルフェイスと一緒じゃん」

「これは顔の部分を覆っていないジェットヘルとフルフェイスの中間って感じかな。普段はフルフェイスだけどロックを外して上に持ち上げると顔が出せるんだ」


 実際にボタンを押しロックを外し、上げてみせた。


「へぇー、これいいな。かっこいいじゃん」

「じゃあ僕も見てまわりたいから、また後でね」

「はーい!」


 2人がヘルメットを楽しそうに選んでいると、これまた嬉しそうな顔で1つの真っ白なヘルメットを抱えやってくる西條さんがいた。

 形状的にはバイク用だろう。女の子がかぶるにはあまりにもいかついデザインだ。


「また凄いものを持ってきたね。これが欲しかったの?」

「はいっ。イギリスで有名な自動車番組のドライバーがつけているんです」


 西條さんは思いのほかミーハーなのかもしれない。

 せりかちゃんたちはまだ決まっていないのかな。 


「ねえねえ、これ耳みたいでかわいい!」

「面白いけど完全に色物じゃん」

「いやいや、これはちゃんと意味があるんだよ」

「へえ、どんな?」

「空気の流れを作って負圧を発生させ、中の熱を引っ張り出すんだよ」

「な、なるほどな。ほぉーふあつかぁ」

「えみちゃん、負圧ってなに?」

「そ、そんなのもしらないのかよ。それは……あっ、このメットいい!」


 逃げたな。


「そういえばお兄さん!」

「どうしたの?」

「お兄さんがカートやってた時はどんなメットかぶってたんですか?」

「あー、そうだねぇ。えーっと……おっ、これだ!」


 赤のラメが入った国産のフリップアップだ。そしてバイザーを鏡のように反射するミラーバイザーに交換すれば僕が使っていたメットになる。


「私もこれにします!」

「なんか適当っぽいけどいいの?」

「じゃあなんでお兄さんはこれかぶってたんですか?」


「んーと、やっぱりデザインかな。あと色もけっこうよかったし。それと上下の視界はあまり良くないけど左右はしっかり見えるところとかだね」

「お兄さんは適当に選んだわけじゃないじゃないですか! だからこれにします!」


 不思議な言葉で押し通されてしまった。

 でも僕にとってこれが一番良かったから、人にすすめるとしたらこれだろう。

 2人決まり、風連さんはどうしたのかと思い振り向いたところ、丁度こちらへ小走りでやってきた。どこが発売しているのかわからない、桜の花の柄がちりばめられたかわいいメットを大事そうにかかえ、うれしそうな顔をしながら。



 ○



「さあ着いたぞ」


 昨日あれからカートにウエイトを積み解散し、今日に備えた。今回からはしっかりと教えないといけない僕はかなり大変だろうが、色々と勉強になるだろう。


「わぁい!」


 車を停めた途端せりかちゃんは飛び出し、コースが見えるところへ向かった。


「あ、こらこらせりかちゃん」

「なんですか?」

「自分のマシンは自分で出さないと駄目だよ」

「えっ、でも」

「これからレースをやりたいっていうんだから、自分のマシンの管理は自分でできるようにしないとね」

「あ、はい。すみません!」


 せりかちゃんは慌ててトラックの後ろへ走っていった。

 走る前、ドライバーはやらなくてはいけないことがたくさんある。スプロケットをリアシャフトに固定させ、応じた位置にエンジンを固定させてチェーンを張る。そしてエンジンのエキゾーストマニホールドにマフラーをつける。その後ガソリンをキャブレターに吸出し、タイヤの空気調整。

 突き詰めるとキャブのニードルの調整や蛇腹の長さの調整などきりがないが、今は別にそんなことをやらせるつもりはない。だけど必要最低限は自分でやってもらう。それがカートだ。


「なあ、このキャブレターってなんなんだ?」

「キャブレターはアクセルで空気の量を調整して、ガソリンと空気の混合ガスをエンジンに送るものだよ。空気が多く流れると、負圧でガソリンがより多く──」

「ま、また負圧か……」


 昨日の今日でやってきた負圧という言葉にたじろぐ風連さん。レースをやっていると負圧はいろんな場面で出てくるから知っておいて欲しいな。


「あの、ガソリンをキャブレターに送るにはどうしたらいいのでしょうか」


 西條さんがタンクから伸びるホースをぷらぷらさせながら悩んでいる。


「ああ、ホースを口でくわえて吸えばいいんだよ」

「く……口で?」

「そうだよ。あ、口の中にガソリンが入ったら吐き出してね。毒だから」

「ど、毒……!」


 毒といってもちょっと飲み込んだくらいでは大事にならない。せいぜいおなかを壊す程度の話だ。

 だけど少し脅しすぎたかな。3人ともびくびくしながらやっている。風連さんはちょっと口に入ったらしく、涙目で死んじゃうと繰り返し言っている。

 手洗い場で口をすすがせ、中和剤を飲めば問題ないよとラムネを舐めさせると落ち着いてくれた。


「マシンの準備は終わったし、そろそろ着替えておいで」

「あの、更衣室とかはないのでしょうか」

「そういうのは多分無いんじゃないかなぁ」


 あるという話を聞いたような気がするが、僕らは基本的にこの場で着替えてしまうから実際にあるのかは知らない。かといって女の子にそれはさすがにまずい。


「トラックの中でいいかな。とりあえず明かりもあるし、外から見えないから」


 荷台を開けると3人はそそくさと入っていきハッチを閉めた。


「うああぁぁ、暑いいいぃぃ!」

「こりゃとっとと着替えないと! おい西條、もっと離れろ!」

「す、すみません……」


 冷房が備わっていないパネルトラックの中は超高温になっていることだろう。さっさと出ないと熱中症になってしまう。


 ドガッガガガがガッ


「ふ、ふびゃああぁぁぁっ!」


 突然トラックの後ろから何かが崩れた音、そして大絶叫。やばい、何かあったかもしれない。


「大丈夫か!?」


 思わずドアを開けると、倒れた工具箱と……下着姿の3人が。


「きゃ……きゃあああぁぁぁっ!」

「しっ、死ね! 死ねぇぇぇ!」

「ふびゃっふびゃっふびゃぁ!」

「ご、ごめん! だからいろんなもの投げないでくれ!」


 ──僕は悪くない、悪くないんだ。

 なんで3人とも下着からスーツを着ようとしていたんだ。Tシャツとか着ればいいのに。

 Tシャツはいいぞ、汗を吸い取ってくれるから……はぁ。


 みんなが投げたものを拾い終わったころ、かなりご立腹な顔をしてトラックから出てきた。

 平謝りしたうえで、帰りになにかおごることでようやく機嫌を直してくれた。


「つーかさ、トラックん中狭いんだよ。あんなにたくさん必要か?」


 予備のタイヤ1セット、そしてレインタイヤ1セット。リアシャフト2本。カウル1セット。その他交換用部品多数。これが1人分で計3人分。この中で着替えるなんて想定していなかったからかなり圧迫している。

 棚を作って整理したほうがいいな、これは。


「次までになんとかしておくよ。それよりも走らないと時間が無くなるよ」

「そうですね! みんな早く行こうよ!」


 こういう時にせりかちゃんのせっかちな性格がありがたく感じる。


「とりあえず目標を立てよう。ここの初心者SSクラスのコースレコードは40秒ちょっとだから、43秒を切れるようにしてみようか」

「その目標はなんですか?」

「これくらいで走れないとレースに出られないってことだよ」

「じゃあそれくらいで走れればレースに出られるんですね!」

「そういうことだね」


 SSクラスのコースレコードなんて実際大したものではない。中級以上の連中はその上のチューニングクラス、あるいはミッションカートに移るからだ。

 そして最初に出るレースは上位と下位の差が大きく、5秒くらいはある。中間くらいのタイムが出せればそこそこの順位になれるはずだ。


「よし。じゃあ2人はもう走ってきていいよ」

「あ、あの……、行ってきます」

「よ、よぉっし、が、がんばるぞ!」


 風連さんの空元気よりも、不安げな西條さんのほうが安心感を得られるのは気のせいじゃないはずだ。


「お兄さん! 私はなんで残されてるんですか!」


 不満を隠さず顔に表しせりかちゃんが僕を恨めしそうに見上げる。


「せりかちゃんには押し掛けを教えないといけないからね。レースをやり続けるんだったらこれくらいできて当たり前だから」

「そうですね! 本気でやるなら自分でできるようにならないといけませんよね!」


 言い方は悪いがチョロい子だ。ちょっと不安になってしまう。


「まずマシンの左側に立つ」

「右じゃ駄目なんですか?」

「右はエンジンとかがあるからね。必ず左だよ」

「わかりました!」


 せりかちゃんはカートの左に立ち、次の言葉を待っている。


「それで左手はハンドル、右手はシートの後ろ……ここのレバーに手をかけて」

「このレバーはなんですか?」

「これはアクセルヘルパーっていって、ワイヤーがアクセルに繋がっているんだよ。これを握ることでアクセルを踏んでいるのと同じようになるんだ」

「なるほど!」


 わかっていないけど元気に返事してみました、という感じだ。まあ理屈はわからくても握ればいいとわかっていれば問題ない。


「それでもっと体を低くしてみて」

「こうですか?」


 せりかちゃんはクラウチングスタートのような姿勢をとった。


「うん。実際には押しているからね。自然と体は低くなってしまうんだ」

「わかりました!」

「飛び乗ったら真っ先に右足をアクセルへかける。それまでアクセルヘルパーは握ったままだからね」

「はい!」

「じゃあ飛び乗る練習をしてみようか」

「はい!」


 低い姿勢から腕を支点に飛び乗る。その際体を持ち上げようと腕に力が入ってしまう。


「だめだめ、左手がぶれてる。それじゃ飛び乗るとき壁に突っ込んじゃうよ」

「はい!」


 飛び乗ること自体はそんな難しいことではない。せりかちゃんも当然のようにハンドルがぶれないよう飛び乗れるコツを早々に掴んだ。さすが運動神経は抜群だな。


「よしそれじゃ次は押してみよう」

「わかりました!」


 せりかちゃんはさきほどの低い姿勢を取り…………動かない。


「どうしたの?」

「お……押せませぇん!」

「ははは、だろうね。後ろを持ち上げて押しながら地面に落とすんだ」


 エンジンと直接つながっているため抵抗のあるリアを持ち上げる。そうすることで車体を動かすことができ、ゼロからよりもかなり楽に進ませることができる。

「おぉぉもおぉぉいいぃぃっ」


 そこまで言う程……って、せりかちゃんのマシンはウエイトのせいで今は90キロくらいある。しかも重量が集中しているリアを片手で持ち上げるのはしんどいだろう。確実にせりかちゃんよりも重いのだから。

 だけどそれくらいのパワーがなければレースは厳しい。

 カートは最大3Gという重力が横方向にかかる。それは自分の体重の2倍ある荷物を背負うのとはわけが違う。体の全てに重さがかかるわけだから、全身を鍛える必要がある。


 色々試行錯誤をして、まず右手でバンパーを持ち上げて、車体が動いてからシートに手を戻すのが最善であるということがわかったみたいだ。


「エンジンが始動したら今度は逆にマシンから進もうとするから、そのタイミングで飛び乗ってね。そうじゃないとマシンだけ先に進んで転んじゃうから」

「わかりました!」


 言われた通り押していき、ババババッとエンジンがかかる音がした。そのタイミングでうまく飛び乗り、アクセルを軽く踏み加速していった。

 一発で成功か。なかなかやるな。

 せりかちゃんはそのままコースへ出、アクセル全開で走っていった。


 さて厄介な仕事がやってきたぞ。3人をそれぞれ見て別々に指示を出す。とても大変だ。

 僕はパドックの上へ行き、それぞれの弱点がよく現れる場所に注目した。


「西條さん、リアを滑らせないように。もっとグリップさせて」

『はぁい!』


 元気良い返事が返ってきた。本当に性格が変わるなぁ。

 だけど返事をするだけで実際にそうしてくれない。なかなか困った子だ。


「風連さん、もっとブレーキを遅らせて。ヘアピンに突っ込む感じで」

『へぁ!? が、がんばります……』


 風連さんは逆で弱気になってしまう。まるで2人が入れ替わっているようで面白い。

 それにしたって……。

 風連さんはマシンに乗ると臆病になるが、性根が負けず嫌いのおかげでがんばっている。そのため今のところは3人の中で一番速い。

 マシンを操る技術は西條さんのほうが圧倒的に上だが、カートとしての運転は絶望的だ。一度ついたクセを抜くのは並大抵のことじゃない。

 しかし想定外だった。ただでさえオーバーステアが強いフレームで、さらにオーバーステアがでるようにセッティングをしたあのマシンで、スピンせずリアを振り回せるなんて。普通の人が乗ったらハンドルを切った瞬間スピンするぞ。西條さんはある意味天才なんじゃないか?

 あと問題は……。


「せりかちゃん、もうちょっと手前でブレーキ踏んで。エンジンが止るかと思うくらいにまで減速して、それからアクセル全開で曲がるんだ」

『はい! やってみます!』


 アルバフレームはこのブレーキが厄介なんだ。だけどこれをマスターできればアンダーもオーバーもないナチュラルステアでどんなラインでも走れる。

 僕も正直手間取った。だけどあれを乗りこなせるようになったから勝ち続けてこれた。そんなマシンをどう彼女は扱うんだろう。

 それから10周ほど指示をせずに全員のタイムを計測し、無線で戻るよう伝えた。

 3人ともメットを取ると物足りなさそうな表情をしている。


「じゃあタイムを言うよ。風連さん44秒133。西條さん44秒742。そしてせりかちゃん……46秒114」


「や、やった! あたし一番じゃん!」

「え……ええぇ! なんでですか!」


 ガッツポーズをとる風連さんに、納得いかない感じでふくれるせりかちゃん。だけど僕はそれよりとても厳しい現実に頭を痛めそうだ。

 恐ろしい。何が恐ろしいって西條さんだ。

 究極とも言えるほどにリアが滑るセッティングをしているんだ。自分からリアを滑らせようものなら一瞬でスピンして吹っ飛んでしまう。いや、吹っ飛ばないほうがおかしい。

 そうならないためにはグリップさせて走らなくてはいけないが、かなり減速をさせゆっくりとアクセルを踏まなければならない。

 なのにこのタイムはありえない。僕の想定タイムは48秒台に入ればいいかな程度だ。多分僕が走らせても46秒台が精一杯だろう。

 とりあえず遅くなってもいいからちゃんと走れるようになってもらわないと。


「じゃあエクスプラネーションを始めようか」


 僕はコース図を広げ、みんなを呼んだ。


「はい」


 返事をしたのは西條さんだけで、2人は挙動不審になっている。


「どうしたの?」

「あの、多分意味がわからないんだと思います」


 なるほど、そんな顔をしている。


「ごめんごめん。速く走れるようになる説明をするよ」

「最初からそう言えよ……。いらない恥をかいただろ」


 風連さんは顔を赤くしてぶーたれてる。


「まず西條さん。ハンドルはコーナーに入る辺りから切ってね」


 コース図でハンドルを切る位置を示すと、西條さんは不安そうな表情をした。


「その……遅くないですか?」

「いやいや、リアを滑らせないならここが正解だよ。スピードはかなり抑えてね」

「はい……」


 多分走り出したら忘れてしまうんだろうな。悲しいことに。


「風連さんは……特にないかな」

「なんでだよ! コーチなんだからしっかり教えなよ!」

「それじゃあ言うけど、風連さんには教えているよりも走っていてもらいたいかな」

「走っていれば速くなれるって?」

「そうだよ。風連さんの欠点は恐怖心だからね。とにかく走って自信を持つことが今は重要だよ」

「あ、うん……。そうだよな」


「自信がつけば余裕をもって走れるから、ハンドリングやブレーキがよくなるよ。タイムを見ればわかるけど今のところ風連さんが一番ちゃんと走れるんだから、まだ余計なことを言うつもりはないよ」

「そ、そうだよな。今んとこあたしが一番速いんだからな」


 風連さんにはとにかくそれしかない。今速く走れるようアドバイスをしたところで、怖くてできませんでは話にならないから。


「最後にせりかちゃん」

「はいっ」


 真剣な表情で僕をじっと見る。それだけ結果に納得いかなかったということだ。


「もっとブレーキをきっちり……ここからここまで」

「そ、そんな短い距離で減速しないといけないんですか!」


 コース図でブレーキ範囲を教えたら、少し怖気ついている。


「そうだよ。これができなきゃこのフレームじゃ速く走れない。どうする?」

「や、やります!」


 今度は力強い顔で返事をした。

 せりかちゃんは言い方が悪いが愚直だ。だけど、だからこそできることもある。彼女の才能を計ることは僕にできることじゃない。


「相当さっきのタイムが納得できなかったみたいだね」

「それはそうですよ! このマシンで遅いってことは私自身がすごい遅いってことになるんですから!」

「マシンのせいにしないのはいいことだけど、自虐的すぎないかな」

「日本一になったマシンだもん。一番速いはずだからです!」

「あー、僕はこいつで日本一になったんじゃないんだ」

「な……なんですとぉ!」


 僕がチャンピオンだったことで勘違いしていたようだ。

 僕が日本一になったのはミッションカートだ。だけどこいつがあったからそこまでの道を作れたといってもいい。僕にとっては一番思い出深いフレームだ。

 ミッションに移る前は5台乗り継ぎ、アルバはこいつで3台目。もう手に入らないところをイタリアまで問い合わせ、なんとか新品で手に入れた。乗り潰すつもりだったが、その前にステップアップできるチャンスが訪れた。

 他のカートは全部手放したけどこいつだけはなるべくなら手元に置いておきたかった。そういうマシンだ。


「さてそろそろさっき教えたことを頭に入れて走ってみようか」

「はーい!」


 2人は元気よくカートに乗り走っていった。せりかちゃんも少し遅れたが押しがけを1回で決めコースへ出て行った。

 けたたましく鳴るスキール音に苦笑いをしながら、僕はパドックの上へ行こうとした。


「内淵さんっ」


 階段を登ろうとしたところで花蓮ちゃんに呼び止められた。


「おっと花蓮ちゃん。どうしたの?」

「えっと、次のレースはここでやろうかと思って」

「そうなんだ。がんばってね」

「はい! そういえばここにいるのって、まさか」

「ああ、先日の子たちに教えているところなんだ」


 花蓮ちゃんは嫌なものを見るようなじと目をコースに向け、1つため息。そして何か思いついたような顔をし、メットをかぶった。


「ちょぉっと私も走ってこようかなぁ」

「お、おい花蓮ちゃん……」


 僕との話も打ち切り花蓮ちゃんはバイザーをおろし、走り去ってしまった。

 何か嫌な予感がする。


「みんな気をつけて。今、花蓮ちゃんが出た」


 無線で3人に伝えた。一体何をやろうとしているのか。

 コースに出た花蓮ちゃんの前には西條さんがいる。今は距離があるけど1周すれば追いつくだろう。

 予想通り次の周回でホームストレートからの高速コーナーで後ろにぴったりと張り付いた。

 西條さんが第1 ヘアピン手前でハンドルを切り、滑らせながら突っ込む。それに対し花蓮ちゃんはインをつき並走する。


 上手い!

 ヘアピンの入り口、リアを流している西條さんのインからサイドを軽くぶつけた。相手をスピンさせずにコース端まで吹っ飛ばしてしまう攻撃的なコーナリングだ。西條さんも飛ばされたとはいえさすがのコントロール技術。コース内で立て直し、走行に戻った。

 この程度のチャージなら黒旗は出ない。F1と違い、カートは接触による競り合いはよくある。

 だけどこれはまずい。花蓮ちゃんは全員に当ててくるつもりじゃないか?


「風連さん、早くピットに戻るんだ!」

『え……でも』

「いいから早く!」

『は、はい!』


 カートでチャージはよくある。それを知るにはいい機会だ。だけどまだ時期が悪い。風連さんにはまだカートをもっと楽しんでもらいたい。

 残るはせりかちゃんだが……。


「せりかちゃん、聞いてる?」

『私、逃げませんから!』

「わかってるよ。だったら尚更僕の言うことを聞いて欲しい」

『なんですか!』


 口調が臨戦態勢であることを告げている。この状態ではやはり僕の制止を聞くつもりはなさそうだ。それならば逆に走らせる方向で話そう。


「花蓮ちゃんは多分第2 ヘアピンで追いつく。わざと大回りして抜かせるんだ」

『いやです! 負けたくないです!』

「これは負けるための作戦じゃない。勝つためのだよ」

『……どうやって勝つんですか』


 よし、うまく食いついた。


「一度抜かせてからついて行くんだ。離されなければ勝つ見込みはある」

『わかりました!』


 と言っても今は花蓮ちゃんに勝つことは無理だろう。

 だけどせりかちゃんは後ろから見て相手の走りを学ぶことに長けている。


 今日は負ける。だけど次に勝つため、今はその武器を手に入れることが大切だ。せりかちゃんは右いっぱいに寄り、左手で地面を指差しする。後続車に道を譲る際にやるサインだ。さすがにこれを出されては花蓮ちゃんとしても強引に抜くわけにはいかない。

 サーキットで走る者として、マナーを通されたらマナーで返す。それができないならば走る資格はない。花蓮ちゃんは無理をせずパスし、軽く手をあげる。


『行きます!』


 せりかちゃんは叫び、食らいつこうとする。しかし追いつくことはできない。じりじりと離されてしまう。タイムを見ると花蓮ちゃんは41秒フラットで安定している。

 対するせりかちゃんはだんだん走りが雑になっている。少しでも近付こうとしすぎてブレーキを遅らせ、結果的には立ち上がりのタイミングが遅れることになる。完全に惑わされている状態だ。

 初心者に最もありがちな行為。それはヘアピンでの突っ込みすぎだ。ヘアピン手前では極端に速度を落とさないと曲がらないため、前走者と一気に距離が縮む。だけどそこはチャンスではない。無理矢理距離を縮めた代償は立ち上がりに現れる。


「せりかちゃん、ブレーキのタイミングが遅いよ。もっと手前で──」

『追いつけない……追いつけない! あいつに、あいつに!』


 完全に頭の中が沸騰している。


「せりかちゃん、せりかちゃん!」

『なんで!? なんで届かないの!』

「せりかちゃん……楽しい?」

『たの……』


 やっと少し我に返ってくれたみたいだ。興奮しやすいのは短所だな。


「いいかせりかちゃん。そんなに必死になったってカートは速くなれないんだ」

『じゃ、じゃあどうすれば……』

「やるべき仕事をしっかり行い、カートを感じるんだ」

『やるべき、仕事?』

「走っているときにやることは主に3つ。アクセル、ブレーキ、ハンドリング。どれが欠けてもちゃんと走れない」

『それをやれば追いつくんですか?』

「もちろん」


 僕らとせりかちゃんたちの決定的な違い。それは経験値だ。

 レーシングドライバーはどんなにカッとなっても、長年染み付いた走りの技術が無意識に的確なアクセルやブレーキを行ってくれる。だけどせりかちゃんたちにはそれがない。

 熱くなればなるほど全てのタイミングが狂い、結果遅くなってしまう。それならばいっそ楽しんでしまったほうが気持ちを楽にして走れる。

 かといって今のせりかちゃんが花蓮ちゃんのレベルに到達できるものじゃない。地力が違いすぎる。後で文句言われるんだろうな……ははは。


『あはははははっ』


 突然せりかちゃんが笑い出した。何か壊れてしまったのだろうか。


「どうしたの一体?」

『楽しむんです! 楽しむにはまず笑うことです!』


 この子……本物だ。何の本物かは言わないが。

 だけどその本物はかなりの武器だ。現に今こうやって走りが良くなっている。ブレーキのタイミングやラインも元に戻ってきている。


 戻る? とんでもない。徐々に進化している。

 まさかあれだけ離れた花蓮ちゃんの走りを……吸収している?

 確かに今は花蓮ちゃんのほうが総合的に上だ。だけどそんなものは全く無意味だ。

 何故ならせりかちゃんは……格が違う。

 いろんな人の走りを見て試して自分の物として取り込む。


 そして来た! あの走りだ!

 まるで一本の直線のように走り抜けていく感覚。

 だけどそれが速さに繋がるのかはわからない。あれは一体どういうものなんだ。

 タイムは……40秒783!?

 まさか……速すぎる。

 レコードタイムにコンマ5秒は足りないとはいえ、カートを始めて間もなくの少女だぞ。

 しかもまだブレーキのタイミングで四苦八苦している状態だ。

 これでちゃんと走れるようになったら……コースレコードが変わるかもしれない。


 くそ、嫌な感じが渦巻いている。

 せりかちゃんの成長は異常だ。これは完全に才能なんだろう。

 自分が教えている子が上手くなっていく。これはうれしいはずなのに、素直に喜べない。

 そうさせているこの嫌な感じの正体…………嫉妬だ。

 あの才能は正直羨ましい。

 僕だって才能を認められ、そしてがんばったからここまでこれた。でもそれを更に上回る才能があるなんて思ってもみなかった。

 光凌選手の血がそうさせているのだろうか。

 これからどんどん彼女は上手くなっていくだろう。それがうれしくもあり悔しくもある。


 それは……多分いいことなんだろう。

 僕だってレーシングドライバーだ。他人が速くなってよかったで済ませられるはずない。

 もっと速く、もっと上を目指さないといけないんだ。


 おっと、余計なことを考えていてはいけない。今は見ることに専念……って花蓮ちゃんが戻ってきてしまっている。勝負はお預けになってしまったな。

 丁度いいから花蓮ちゃんに言っておこう。西條さん──というか、初心者相手に少々えげつない行為は見過ごせない。注意しないと。


「花蓮ちゃん、えっと」

「内淵さん、一人引っ込めましたよね。もっと私を信用してくださいよぉ」


 少しむすっとした感じで僕を睨んでいる。


「どういうこと?」

「私だってあんな初心者に何かしようなんて思いませんって」

「でも西條さんにはぶつけたよね」

「えー、ティアラフレームのリアトレッドをあそこまで引っ込めたマシンでスピンしない子が初心者なわけないじゃないですかぁ。私だってあんな走り無理ですよぉ」


 だよなぁ。正直僕だってあそこまで走れる気がしない。あれほどのマシンコントロール能力を持っているのにグリップさせて走れない。本当にもったいない子だ。

 つまり花蓮ちゃんはただ単に走りの差を見せ付けるためにやっただけで、西條さんのことはベテランレベルだと勘違いしただけだったわけだ。

 ぶつけたのはわざとというよりも仕方なくだろう。あんな走りをするカートの相手なんて初めてのはずだ。下手に抜こうとしてクラッシュに巻き込まれるより自分ができることでなんとかするのが一番安全だからだ。


「えーっと、まあほどほどにね」

「あ、えと……ごめんなさい」

「いいって。なかなかのものを見せてもらったし」

「え?」

「いやこっちの話。それじゃあまたね」

「はっ、はい。また……」


 こう言うのもなんだが、せりかちゃんにはいい勉強になったはずだ。メンタルコントロールは走りにとても重要だ。確かにある程度は無意識に行える。だけどそれだけでマシンを扱えるほど便利なものではない。あくまでもある程度だ。

 今後はこれを課題に走ってもらおう。


「あ、あの! お兄さん!」


 いつの間にか走り終わっていたのか戻ってきたらせりかちゃんがいた。


「どうしたの?」

「タイム! 43秒切りましたよ!」

「そうだね。思ったよりも早く出せたね」

「じゃあこれでレースに出られるんですよね!」


 そういえばそんな話をしていた気がする。

 正直なところまだ早いとは思うんだけど、こんなところで約束を反故にしたら信頼関係が築けない。


「約束だし……次のレースに申し込むよ」

「やった!」


 あんなことがあったのに3人とも楽しそうにはしゃいでいる。

 次にあるレースまで2、3回は走れるだろう。それまでにどこまで仕上げられるかな。

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