6章 初体験再び
「ねえお母さん」
夕食を終え、食器を片付けている母に、せりかは声をかけた。
「何? せりか。もうお風呂あがったの?」
「あ、うん。それよりもさ、寝袋どこにあったっけ?」
「寝袋? 廊下のクローゼットに入ってるけど、何かに使うの?」
「んー、えーっとね。あはは」
母が手を離せないのをいいことに、せりかはこそこそと荷物を集めている。
「そんなことより明日早いんでしょ。寝なくていいの?」
「あ、うん。もうちょっとしたら寝るって」
がさごそとクローゼットを漁り、目的のものを見つけると満足そうに抱えた。
そしてジャンパーを着込み、肩にでかいバッグをかける。
「ちょっと出かけてくるー」
「出かけるってせりか、あなた寝巻きのままじゃない」
「上着きたからだいじょうぶーっ」
せりかのネグリジェは腰をベルトで止め、上に何か着ればワンピースにしか見えない。だからといって年頃の少女が寝巻き姿で外を歩き回るのははしたない。
「そういう問題じゃないでしょ。すぐ帰るの?」
「え? う、うんー」
とても怪しい。口調がそう告げている。
母は早々に片付けを済ませ、せりかの後をこっそりつけようとした。
☆
「やっべぇ、忘れてた!」
明日レースだというのに、大切なことを忘れていた。
トラックをこっちまで持ってこなくてはいけない。
明日だと、きっと早朝すぎて会社の地下駐車場は閉まっているだろう。そうなったら開くまで待たなくてはいけなくなり、レース出場自体が危ぶまれる。
時間は……よしっ、まだ間に合う。
慌てて車に飛び乗り、ランクへ向かう。
そこまで夜遅くというわけではないが、道は空いていて割と早く到着した。
駐車場の奥からは、言い争う声が聞こえる。一体何事だ?
声から察するに、1人は大人の女性。もう1人は……せりかちゃん!?
なんでこんな時間にこんな場所でせりかちゃんが?
いや、今はそれよりもよくわからないが止めないといけない。
「あっ、あの!」
「お、お兄さん!」
「せりか、そんなことより……えっ?」
せりかちゃんと言い争っていた女性は僕に振り向き、ツカツカと近寄ってきた。
「あら! あらあらあら! もしかして才覇ちゃん? やっだーもうこんなかっこよくなっちゃってぇー! 久しぶりぃ!」
誰だ? なんて考えることもなくわかっている。せりかちゃんのお母さんだ。
「あの、お久しぶりです」
「ほんとよねぇー。ごめんね、仕事が忙しくって遊びに行けなくってぇー」
なぜこんなところで親子喧嘩をしているのかわからない。それを解決させるほうが先決だ。
「それよりも一体どうしたんです?」
「そうそう、聞いてよ才覇ちゃん。この子ったら絶対に遅れられないからってここで泊まるんだーって寝袋かかえちゃって大変なんだから」
ほんと大変だな、それは。
練習はいつも午後の部からで、朝もそんなに早く集合していなかった。しかしレースは早朝から始まるから、集合時間は5時半。
西條さんと風連さんはうちから近いからいいが、せりかちゃんはちょっと遠いもんな。タクシー代を渡しているが、5時前には家を出ないといけない。
「せりかちゃん、気持ちはわかるけどトラックはうちに持っていかないといけないんだよ」
「そ、そこをなんとか!」
なんでこの子はいつもどうにもならないことを通させようとするんだ。
「ごめん、それは無理なんだ──って、おばさん何してるの?」
「ちょっと黙っててね。……もしもーし、私よ、私。ゆきちゃんおひさー」
……母さんに電話しているようだ。おひさって3日前電話してるの知っているんだがよくわからない。
「……うん。……そうそう。それでね、これから泊まりに行っていい? わかった。ありがとうねーっ。それじゃあとでー」
え? え?
「あ、あの。おばさん?」
「さあ才覇ちゃん、車出して。せりか、行くわよ」
お願いだから事情を話して欲しい。
「──ただいま」
「おかえりー。きゃー智恵ちゃーん。よく来たわねーっ」
「やだーゆきちゃん変わらないーっ。ほらせりか、挨拶しなさい」
「お、お久しぶりです」
「やだぁせりかちゃんこんなにかわいくなっちゃってぇ。何度もうちに来ていたなら挨拶していけばよかったのにぃ」
「す、すみません……」
あのせりかちゃんですら押されている。駄目だ、おばさん同士のマシンガントークについていけない。しかも母さんは既に酒臭い。これは口を挟むとロクなことにならない。
「あのさ母さん。積もる話は玄関でしなくても……」
「あらやだ、そうよね。さっ、上がって上がって」
母さんは嬉々としてスリッパを用意し、2人を招き入れた。
「じゃあ僕は部屋に戻ってるから……」
はあ、なんかとんでもなく疲れた。明日も早いことだし、さっさと寝てしまわない……と!
なんだこりゃあ!
僕の部屋の床に僕のまくらと布団。ベッドの上には来客用まくらと布団。なんでこうなった。
「ちょっと、母さん! 何してんだよ!」
慌ててリビングに戻り、事情を問いただした。
「何ってあんた、まさかお客様を床に寝かせるつもり?」
違う、僕が聞いているのはそこじゃない。
「そうじゃないって! 隣にも部屋あるだろ!」
「あんなほこりかぶった半分倉庫みたいな部屋にせりかちゃんを寝かせるつもりなの? 私はそんな息子に育てた覚えないわよ!」
「あぁーもうわかったよ。僕がそこで寝る」
「才覇、ちょっとそこに座りなさい」
「な、なんだよ」
「いいから座りなさい」
酒臭く真っ赤な顔の母さんは、無駄に真面目な表情で床を指差した。
「座ったけどなんだよ」
「あのね才覇。よぉーっく聞きなさい」
「聞いてるよ。なんなんだよまったく……」
「あなたもせりかちゃんも同じ部屋で寝なさい」
「だからなんでだよ!」
「予行練習よ」
「ぜんっぜん意味がわからん!」
「あなたたち結婚するんだから、今のうちから慣れておきなさい」
「「はあぁぁ!?」」
僕とせりかちゃんは思い切りハモった。
「何よあんた、せりかちゃんのこと嫌いなの?」
「そういう問題じゃないだろ」
「そういう問題よ。ねぇせりかちゃん」
「えっ!? あの、その……」
突然振られてせりかちゃんが焦っている。
「せりか、お母さんに言ったわよね。カートはお兄さんが教えてくれるからやりたいって」
「う、うん」
「お兄さんが教えてくれるからしたい。お兄さんとじゃなきゃやだ。お兄さんと一緒がいい。お兄さんにれろれろされたいって」
「そっ、そんなこと言ってないもん!」
「あー、そういえばさ、この子昔動物園に連れて行ってもらってぇー、買ってもらったぬいぐるみに才覇って名前付けて毎日大事そうに抱いて寝てたっけぇー」
「おっ……お母さんなんて大っ嫌い!」
「きゃーっはっは。赤くなっちゃってこの子かわいいー!」
「早くうちの娘になって欲しいわぁー!」
この酔っ払いばばあどもめ……。
「部屋、行こうか……」
「う、うん……」
何度目かわからぬ乾杯をする酔いどれから逃げるように、僕はせりかちゃんを案内した。
「あの、なんかごめんね。僕の母さん酔っ払うと狂うんだよ」
「うちのお母さんだって……ううぅ」
せりかちゃんはベッドに腰掛け、あまりの事態にうつむいてしまっている。僕もかなり気まずく、せりかちゃんを直視できない。
下からは酔いどれ共の叫びが聞こえる。さて、どうしようか。
「とりあえず……寝ようか。明日早いし」
「そ、そうですね!」
せりかちゃんが布団に入ったのを確認し、電気を消し僕も自分の布団へ入った。
「────あ、あの、お兄さん。もう寝てます?」
少し時間が経ち、せりかちゃんが話しかけてきた。
「いや、まだ起きてるけど……寝付けない?」
「はい……。あの、少しお話しませんか?」
実際のところ、さっさと寝ないと明日がつらい。でも明日のことを考えると興奮して眠れないんだろう。何か話して気持ちを落ち着かせたほうが楽に寝られるかもしれない。
「いいよ。じゃあ何を話そうか」
ここで少しの沈黙。何か話したいことがありそうな雰囲気のせりかちゃんが、何か言い出すのを暫く待っていた。
「えっと……前にお兄さん言いましたよね。私があいつに対して無理に敵視してるって」
「そんなこともあったね。それで?」
「私、大人の男の人、嫌いなんです」
突然の告白。
一体何がどうなっているのかわからないが、黙って聞くべきだろうと思った。
「うん」
「私は小さい頃からお父さんの周りの人に、息子じゃなくて残念だね、とか、娘さんじゃ跡を継げないなぁとか言われていたんです」
周りの人の言いたいこともわからないでもない。最近ではそうでもないが、昔はとにかく女性ドライバーなんてまともに活躍した試しがなかった。
だけどそれを冗談でも本人がいるところで言うなんて……最低だな。
「それで私は大人の男の人が嫌いなんです。そんな人たちに負けたくなかったんです」
「そっか」
「だけど私みたいな小さな女の子が大人の男の人に勝てるわけないじゃないですか。どんなにがんばったって、届くレベルじゃないんです……」
せりかちゃんがまっすぐがんばっていたのは、ただ単に性格だったからじゃなかったのか。
大人の男に勝ちたくって、ずっと努力していたんだ。
「なるほどね。それを花蓮ちゃんがやってのけたわけだ」
「そうなんです! 半分諦めていた私の目の前で、あいつは!」
ようするに花蓮ちゃんは周りへの、そして自分への言い訳だったんだろう。
「じゃあ……負けられないね」
「はいっ!」
「それじゃあ早く寝ないとね」
「はいっ!」
せりかちゃんは元気に返事し、布団をかけなおした。
○
「おはようございます!」
「あ、う、うん。おはよう」
今日はせりかちゃんたちの初めてのレースだ。いつにも増して気合が入っている……のだが、なんというかまあ……。
「ねえせりかちゃん」
「はい!」
いつも以上に元気だ。そしてなんだこの格好は。
「なんでその、そんなにおしゃれしているのかなって」
「勝負服です!」
勝負服って……。
リビングで酔いつぶれているおばさん2人を尻目に、時間丁度で玄関を開けると西條さんと風連さんは既に待っていた。
そして2人も……勝負服。
3人ともとてもかわいらしい、いかにも女の子といった服装をしている。これがデートとかなら確かに勝負服と言ってもいい。同学年くらいの男子だったら確実に落とせるだろう。
気合の入り方が明後日の方向に進んでしまったのだろうか。
それにしてもちょっと意外だな、せりかちゃんの勝負服は。柄物のブラウスと三段フリルの下着が見えそうなくらい短いスカートにニーソックス。元気印のイメージがあまりしない。
後の2人は感じ通りといったところか。膝丈まであるワンピースの上にボレロを着ている西條さんは、いかにもお嬢さんだ。風連さんはだぶだぶのトレーナーにデニムのショートパンツでボーイッシュな感じ。
まさか僕に対して勝負を……挑むはずもないよな。彼女らにとって僕は先生みたいなものだし、僕にとっても彼女らは生徒みたいなものだ。
せりかちゃんだって多分……そう、だよな?
「とりあえず行こうか」
「行きます!」
3人は元気よく乗り込み、僕はトラックを走らせた。
「レースってどういう感じなんですか?」
高速にさしかかった時、せりかちゃんが聞いてきた。
「簡単に説明すると、まずタイムアタックで順位を出し、その成績で予選グリッドが決まるんだ。それで予選をしてその成績で決勝……という感じかな」
レースによっては予選ヒートが2回あったり、決勝ヒートが2回あったりする。
今回のレースでは予選も決勝も1回ずつだ。
そもそもこれはJAF公認ではあるが、正式なレースと言えない。せりかちゃんに言ったら怒るだろうが、いわゆるレース気分を体験できる程度のものだ。
大人も子供も入り混じっているが、初心者ばかりだ。
とはいえこれでレースというものがどういうものかを学べるから、本格的なレース活動をするために必要不可欠といってもいい。
「これにあの、あいつ出るんですか?」
「あいつ? ああ花蓮ちゃんのことか。さすがに出ないんじゃないかな」
「な、なんでですか!」
もう何戦も出場している子が今更こんなところに出るはずがない、なんて話をしたら絶対にせりかちゃんはぶち切れてしまう。
「なんでって言われても……なんとなく、かな」
「でも出るかもしれないんですよね?」
「まあ……そうだね」
「よぉっし!」
無駄な気合に終わりそうだな。
といっても別に出てはいけないという制限は無いから絶対に出ないとは言い切れない。例えF1ドライバーでも、去年チャンピオンになった僕でも出場は可能だ。
「そういえばせりか。なんでお前、家にあがってたんだ?」
「え!? そ、それは……」
「ちょっとトイレを借りてたんだよ。ねっ」
「は、はい! そうそうトイレ行きたくてねー」
なんとか気転を利かせ、この場をごまかそうとしたが疑いの目をしている。完全に話を逸らさないと後々まで響きそうだ。
「それよりも到着までみんなにやってもらいたいことがあるんだ」
「なんですか?」
「3人で走りについて話し合って欲しいんだよ」
「それなら普段からしてるんですよ!」
うれしそうに話しているところから察するに、授業の休憩時間とかもそんなことをしているんだろう。学校で浮いてなければいいな。
「じゃあさ、3人で勝負したらどんな感じになるのかな」
「どういうことですか?」
「例えばせりかちゃんが走っていて前に風連さんがいたとするよね。どうやって抜く?」
「えーっとですね、えみちゃんは普通にアウトインアウトで曲がるから……アウトアウトインとか?」
「それだと多分遅くなっちゃうと思うの……」
「そう? じゃあどうすればいい?」
「あたしならこう、ブレーキを遅らせてガツーンとインに突っ込むね」
「あの、それじゃ更に遅くなるんじゃ……」
「でも前に出られればなんとかなるだろ?」
「そっか! 前に出れば相手のコースを塞げるし!」
「進路妨害で黒旗が出ちゃうんじゃないかな……」
「うーん、難しいね!」
3人で盛り上がっている。今まで話していたのは恐らく1人で走っているときのラインなどの共有だろう。今まではそれでよかったかもしれないが、今回はレースで競り合いがメインだ。1人で走っているのとはワケが違う。
今日はそこらへんを学んで欲しい。
●
「うわぁ、凄いですね!」
せりかちゃんがとても驚いている。無理もないか、普段はここまで人が集まらないから。
チームありプライベートあり。駐車場もやがて全部埋まるだろう。
僕らのチームにも一応スペースは確保してもらえているが、さすがにパドックは大きいチームでないと使わせてもらえないらしく、屋根の無いフリースペースだ。
到着してすぐ3人は車から降りるが、周囲の人々が一斉に注目する。確かに3人とも飛び抜けてかわいいが、あまりにも場所的に似つかわしくない格好のせいもあるだろう。
もとより女性がとても少ないところだし、みんなが注目してもおかしくはない。
しかしその中に男は僕だけ。とてもやりづらい。
「3人とも早く着替えてね」
「え? でもまだ時間ありますよね?」
「準備は早いほうがいいでしょ。これから戦いに行くんだから」
「そうですね! わかりました!」
うれしそうにトラックの荷台へ乗り込んでいった。何でもはいはいと言うことを聞いてくれるのは楽でいいんだけど、本当に将来が心配になってくる。
「あ、あの……」
話しかける声に振り向くと、3人の少年が僕をみていた。まさかせりかちゃん達に一目ぼれとか? 彼らの表情はまるで好きな人に手紙を渡す前のようだし。
彼女らは親御さん預かっている大切な子だ。僕が気を引き締めて彼女らを守っておかないといけない。
「何かな」
「あの、えっと……、な、内淵選手ですよね!」
「え? あ、ああ。そうだけど」
少年達はとても目を輝かせて感激している。そうだった、ここはそういう場だ。
彼らにとって僕はいわゆる目標の存在。自分でこういうのも恥ずかしいが、憧れているのだろう。
変な勘違いをしてしまい、彼らを貶めるように見たことに罪悪感を覚える。
「去年の全日本、見ました! 凄かったです!」
「どうやったらあんな風に走れるんですか!」
この子たちはカートをとても楽しんでいるいい子らだ。自分が情けなく感じる。
「おにーさん、着替え終わりました!」
せりかちゃんは荷台から飛び出してきた。
「な、なんだよおめー」
会話を邪魔された少年は恨めしそうな顔でせりかちゃんを見た。
「この子は僕の監督しているチームの子なんだよ」
「えっ……ええーっ! いいなぁー!」
羨ましそうに見ている少年に最初きょとんとしていたせりかちゃんだが、すぐ事情が飲み込めたらしく少し自慢げな表情をした。
「あはは、きみ達もがんばってね」
「は、はい! 失礼します!」
ちらちらと振り向きながら少年たちは自分のスペースへ戻っていった。プロとしてはファンサービスというか、もう少し気の利いたことを言えるようにしないといけない。今のうちに多少練習はしておいたほうがいいな。
「ところでおにーさん、あいついないですか?」
「そんなことよりカートを下ろす準備しようね」
「あっ、はい!」
せりかちゃんはまた荷台へ乗り込んでいった。全くこの子は……。
「内淵さん、こんにちは」
「ってうぉあっ」
うわさをすれば影とは言うが、まさか本当にそんなことがあるとは思わなかった。
スーツを着ているからチームメイトの応援というわけではなさそうだ。
「ど、どうしたの花蓮ちゃん。今更このレースに……」
「私が内淵さんだったら、自分が教えてるのに最初出すとしたらこのレースだからかな」
「うんまぁ、その通りだったわけだけど……何か企んでる?」
「あ、でも無茶なことはしませんよ。信じてください」
「わかってるよ」
「本気で走っている人の速さってものを教えてあげるだけですから」
馬鹿にしている風でもなく、花蓮ちゃんはそう言い去って行った。
あの走りがいつでも出せればタイムだけならせりかちゃんの方が上だ。だけどレースは単に速ければ優勝できるほど甘くない。レース中のファステストラップは1位や2位ではなく、団子状態から外れている中堅辺りが出すことが多い。
それほど競り合いというのはタイムが落ちる。そしてそんな状態を経験したことのないせりかちゃんには勝ち目は薄い。
「内淵さんちわっす」
「おっと日進君、おはよう」
さすがに日進君も走るというわけじゃなさそうだ。向こうにチームのトラックが停まっているから付き添いで来ているんだろう。
「あー、あの子らデビューさせるんっすね」
「うん、とりあえずね。ところで日進君は今日のセットどう見る?」
「そうっすねぇ……今日は気温が低いんで燃料は
「え? なんでまた」
「うちのチームから出るのは花蓮だけじゃないっすから。敵に情報は流せないっすよ」
「て、敵ってそんな大げさな」
「ははは、でもま、自分で考えてくださいよ」
くっそぉ、聞きそびれた。
燃料は実際に走行させていじればわかるが、空気圧のセッティングだけはそうもいかない。走り出す前にある程度ヤマをはらなくてはいけないんだ。
今まで人任せにしていたツケが回ってきたな。
「おにーさん、準備できました!」
「おっとそうだった。じゃあ3人で降ろしておいてくれるかな。僕は行くところがあるから」
「はーい!」
僕は早足で受付に行き、手続きを済ませた。戻ってきた時には全台降ろし終わっていた。
「ゼッケンもらってきたよ」
「これ、どうするんですか?」
「貼るんだよ。マシンの前後左右に」
「へー、こんなもの貼るのか」
「せりかちゃんが24番、西條さんが25番。そして風連さんが26番ね。数字を逆に貼らないように気をつけてね」
番号の書いてあるステッカーを受け取ると、3人は嬉しそうに自分のカートへ戻り早速貼り始める。
裏紙を剥がさず一度位置を合わせ、角だけ剥がし再度位置調整。空気が入らぬよう慎重に貼っていく。
「そんな丁寧に貼らなくてもいいんだよ。確認ができればいいものだから」
「えー、でもでも、せっかくなんだから綺麗に貼りたいし!」
ちょっとふくれた感じで、まるで邪魔をするなと言いたげにせりかちゃんは言った。
──ああそうだな。僕も初めての時はそうしていた。
これを貼ってあるということは、レースに出たという証になる。レースに出る前はそれを貼りたくて仕方なくて、貼ったことを誇らしく思っていた。
自分はレースに出場したんだぞ、遊びじゃないんだぞって。
彼女らは今そんな気分なんだろうな。
数分後、ようやく満足いく貼りができたようで3人は嬉しそうに自分のマシンを見ていた。
「じゃあみんな、グローブとメットを持って。車検に行くよ」
「車検?」
「前に言ったよね。重量を測ったり不正防止をしたりするんだよ」
「あっ、でもこないだと体重変わっているかもしれませんし!」
「大丈夫。ウエイトはそれなりに持ってきているからいつでも調整可能だよ」
「え……計測して駄目だったら失格じゃないんですか?」
「出場前だったらいくらでもやり直せるよ。とりあえず量っておいで」
「じゃあこないだは別に体重教えなくても今日量ればよかったんじゃないですか……」
自分の体重を知られたことが未だに尾を引いているようだ。少しむすっとした顔になる。
「いやいや、普段からレースと同じ状態のマシンで走っていれば、レースに出た時でも同じように扱えるでしょ。レースのコンディションを作らないとそれはいつまでも遊びと一緒だよ」
「そ、そうですよね! さすがお兄さん、わかってるじゃないですかぁ!」
本当にせりかちゃんは愚直……素直な子だ。教えていて気分がいい。
2人でマシンを体重計の上に載せ、その上にドライバーが乗る。3人とも少し余裕があるところでパス。あまり体重は変わっていないようだ。
体重計からカートをスタンドに戻したとき、係員がエンジンにスプレーで線を引いた。
「これは何をしているんですか?」
「検査した後でエンジンを交換したり開けるのは不正だからね。そうさせないようにこうやって線を引いているんだ」
「私のエンジン、いろんな色で引いてあるんですけど……」
「僕の使っていたエンジンだからね。レース毎に色を変えるからこんな感じになるんだ」
このマークはエンジンの高熱にも、そしてレインコンディションでも耐えられるものだ。だからちょっとやそっとじゃ落とせない。
「今更なんですけど、中古のエンジンってどうなんですか? 新品の方が速かったりするんじゃないですか?」
「そんなことはないよ。きっちりオーバーホールしてあるし、中古の方が速かったりするんだよ」
「へぇー、そうなんですか!」
何度も使い込んだエンジンはそれだけオーバーホールを行い、磨耗したピストンやボアを何度も調整している。規定ぎりぎりまでボアを広げたエンジンは、それだけ多くの空気とガソリンを中に入れることができる。
ほんのちょっと、パワーとしては0 . 1馬力も違わないだろう。それでも最後の最後、少しでも力が欲しいところに届いたりする。
そのうえこいつは特にスペシャルなやつだ。
エンジンは所詮量産型。決まった行程で決まった作りをしている。
それでもたまに何故か理由もわからないが、他と違っているものがある。いわゆるアタリとハズレというやつだ。
そしてこいつは大アタリだ。他に1万基持ってきてもこれ以上のは無いだろう。
「よし、フリー走行が始まるよ。えーっと、2人とも用意して」
「はいっ! ……って2人?」
「うん。出走台数が多いとレースが2つに分けられるんだ。今日は特に多いらしいから、25番までが最初に走るんだよ」
「じゃああたしだけ別レースになるってこと?」
少々不満気に風連さんが僕を見る。
「この後のタイムアタックの成績に応じてバランスよく分けられるんだ。結果によっては3人とも同じレースになるかもしれないよ」
「なるほど、運次第ってことか」
2人をクラッチ付きにした理由の1つ、同じレースに出た場合だ。
スタート時の押しがけはドライバーだけでやらなくてもいい。というかなるべくドライバー以外がやったほうがいい。
少しでもスタートミスを減らせるし、それによる精神的負担も減らせる。
「まず私とキャミちゃんだね! 行ってきまーす!」
西條さんとせりかちゃんのマシンをピットロードに置き、西條さんのエンジンをかける。開始の合図と共に僕はせりかちゃんのマシンを押し、コースへ送り出す。
「風連さんはよく見て流れを勉強してね」
「あいよ」
フリー走行といってもレースの練習になる。特に追い越し──パッシングの練習にいい。
『内淵さぁん! 大変ですぅ!』
「ど、どうしたの西條さん」
何かトラブルがあったのだろうか、西條さんが叫んだ。
『どうしよぉ、このマシン曲がりませんー!』
今日はトレッドを目いっぱい、限界まで広げてみた。そのせいでリアが突っ張り滑らなくなっているんだ。
今まで散々滑るマシンを走らせてきたんだから、いざグリップが強くなると同じように走れないのはわかっている。この土壇場でかなりの荒療治だが、西條さんなら乗りこなせるはずだ。
「今までよりも奥で……そうだ、自転車で曲がるようなラインで走るんだ」
『自転車? やってみますぅ!』
やろうと思ってできるのなら、今までの僕の苦労はなんだったのだろう。いくら西條さんのコントロール能力が飛び抜けているからといって今すぐそれを修正するなんて無理だ。
ほら言わんことではない。完全に……できてるよ……。
なんなんだ本当にあの子は。
『内淵さぁん大変ですぅ!』
「こ、今度はどうしたの?」
『このマシン、よく曲がりますぅ!』
「あ、ああ、そう……」
西條さんは別に滑らせたいわけじゃなく、ただグラスバギーのクセでそうしてしまっていただけだ。
今のセッティングでも滑らせて走ることはできる。だけど今まで練習してきたタイミングと大きく外れているから、わざとやらないとできない。
『それよりもぉ、この曲がり方だと辛いですぅ!』
グリップ走行にかかるGは相当なものだからそれは仕方ない。
ドリフトというやつはグリップの限界を無理矢理越えてGが抜けた状態にするから、耐える必要があまりないからな。
「それがカートだよ。耐えないと」
『はぁい!』
やれやれ。どうなることかな。
さてせりかちゃんはどこかなっと……あれ、旗が出ている。黒地にオレンジの丸、俗に言うオレンジボールだ。車両に危険があると判断された場合に表示される。カートでは滅多に見られないものだが、一体誰だ?
こういう場合は旗と同時に車両番号も表示されるが……24番!?
「せりかちゃん、せりかちゃん!」
『はい! 何かありましたか!』
「オレンジボールが出ているんだ。すぐピットに戻ってきて」
『え!? あ、は、はい!』
せりかちゃんはピットロード入り口の近くにいたらしく、手をあげて飛び込んできた。
「ピットロードは減速して!」
『は、はい!』
よほど慌てていたみたいだ。僕も若干焦っているが当人じゃない分まだ落ち着いている。
せりかちゃんはゆっくりと僕らのいるスペースに入り、マシンを降りた。
「な、何があったんでしょうか……」
「わからない……ちょっと聞いてくるよ」
僕は駆け足で係員のいるところへ向かう。もしトラブルが深刻だった場合、ひょっとしたらこのレース自体に出られなくなってしまう。直せる箇所は早く聞いておかなくてはいけない。
「すみません、24番なんですが何があったんですか?」
「ああ、実は──」
…………はあ。
とても単純なミスだ。早く戻って教えてあげたほうがいいが、足取りが重い。
「ど、どうでしたか?」
心配してか途中までせりかちゃんは来ていた。
「えっとね……、メットのストラップ……ベルトがちゃんとついていなかったんだよ」
「そ……それだけ?」
「んー、まあ安全のためだから仕方ないよ。さっさと行っておいで」
「はい! 行ってきます!」
せりかちゃんはストラップがきちんと留まっていることを確認し、走り出していった。
しっかしこのロスは痛い。たかが2、3分のことだが、練習走行の時間はさほど長くない。タイムアタックの前に少しでも走って感覚を掴みたいのだが、こんなつまらないことで削ってしまった。というかあれでオレンジボールが出るんだな。
それよりも重大なことになっていると今気付いた。
せりかちゃんはあまり冷静になれるタイプではないせいで、今のロスを取り返そうと走りが雑になってしまっている。
「せりかちゃん、そんなに慌てても失った時間は戻ってこないよ。それよりも今できることをしっかり──」
『やります! がんばります!』
駄目だ、わかってない。
結局乱雑な走りのままタイムアウトしてしまった。西條さんは……よく見ていられなかった。
「どうでしたか!」
「うーん、50点」
「やった! 先週の英語より点数高いです!」
「こらこら」
僕が学校の先生でなくて本当によかった。
「あ、あの、私はどうでしたか……」
「えっ、あ……いや、うん。あの感じでいいと思うよ。ブレーキポイントは間違えないでね」
「はい、わかりました」
ごめん西條さん。とても適当なこと言っちゃってる。
「さて気を取り直して……次は風連さんの出番だね」
「そ、そうだな。大丈夫、1番になってくるから!」
全然大丈夫じゃなさそうだ。フリー走行に1番なんてない。
だけど周りは皆敵という状況は風連さんに今まで以上の不安を与えてしまうだろう。
走りだした風連さんに続々コースへ飛び出すカートの群れ。見ているのと実際に走るのでは威圧感が全然違う。
ピットロードからコースへ出、ちょっとした直線の後の第1 ヘアピン。風連さんが曲がろうとしたところで2台がインへ突っ込む。
『こ、怖……っ。きゃふぅ!』
ちょっと強引に抜かれ、萎縮してしまっている。
「風連さん、多少はぶつかることもあるけど大丈夫だから怖がらないでね」
『は、はい……』
これだけの数が一斉に走っている状況を体験していなかったせいか、怯えてしまっている。
「あ……ああ~~~っ!」
突然せりかちゃんが叫んだ。
「い、一体どうしたの?」
「あれ! あのカート!」
どれどれ……って花蓮ちゃんじゃないか。
やばい、前に走っていたのでスーツとメットを覚えていたようだ。
「いや、あれはきっと同じものをだね……」
「おにーさん! あいついますよ! よおおぉっし!」
駄目だ。完全に花蓮ちゃんと認識している。
「でもね、今回は2レースに分かれるから必ず当たるわけじゃないよ」
「今は別じゃないですか! でも本番では一緒になるかもしれないですよね!」
「あ、ああ。そうだね」
なんてポジティブに変換する子なんだ。
しかし一緒に走ったらまた変に意識してしまい、暴走してしまうのではないだろうか。
前回は立て直せたからまだいいが、今回は他にたくさん走っているから取り返しがつかない状況になる可能性もある。どうするかなぁ……。
「あの、内淵さん」
「え? ああどうしたの?」
「フリー走行終わりましたよ」
やばいやばい、余計なことを考えていたら終わってしまった。結局風連さんにはロクなアドバイスをすることができなかった。
「なんとか無事にフリー走行を終えたね。じゃあ次は──」
「タイムアタックですね!」
せりかちゃんが手を叩くように胸の前でぐっぐっと力を入れている。気合充分だ。
「タイムアタックのコツは、前を走るマシンとの距離をある程度空けることかな」
「えっと……クリアラップ、ですよね」
「そうそう。よく勉強しているね。走行時間は短いけど、1周捨ててもいいからわざと速度を落として次の周には全開で走れるようにしよう」
「はいっ」
3人ともよい返事をした。
結果次第でもしかしたら3人同じレースに出られるだろう。
その場合、せっかくチームなんだからチームランで走ったほうが本来ならばいい。だけど僕自身が嫌いというのもあるけれど、彼女たちには好きに伸び伸びと走って欲しい。
それがたとえ勝利に結びつかなくとも、あの3人には何か残してくれるだろう。
「よし行こうか。まずせりかちゃんと西條さん」
「はいっ」
2人は早速乗り込み、西條さんが先に、そして僕が押してせりかちゃんも走り出した。
「風連さん、僕が2人に伝えることをしっかり聞いて、そして2人の走りをよく見てね」
「わかってるって」
性格が入れ替わるといっても走っている時の西條さんより返事に安心感がある。
「せりかちゃん、もっと前との距離を空けて」
『でも後ろから来てませんか?』
「これはレースじゃなくてタイムアタックだからね。抜かれちゃってもいいよ。それに抜かれれば後ろはかなり空いてるから次のラップでアタックできるよ」
『了解です!』
「西條さんも次アタックしかけちゃっていいからね」
『はぁい!』
「ふぅん」
「風連さんどうしたの?」
「やー、ちゃんと見てるんだなぁって」
「まあ一応ね」
「それにしてもけっこう時間厳しくないか?」
「そうだね。まともにタイムアタックできるのなんて1周か2周あればいいと考えたほうがいいよ。後は次の周でアタックかけられるよう調整するのに使うんだ」
「へぇ。難しいもんだな」
「そうだね……あ、ほら西條さんのアタックが始まるよ」
タイムアタックはコントロールラインから始まるわけではない。その手前、このコースだと最終ヘアピンからだ。
これをうまくクリアして脱出速度を一番いい状態に持っていく。そうすることでコントロールラインを最も速いスピードで抜けられ、タイムを縮められる。
つまり1周のタイムを計るわけだが走る距離はさらに長い。
西條さんの最終ヘアピンのコーナリングはぼちぼちといったところだ。だけどヘアピンを曲がるたびに上手くなっている。本当になんなんだろうこの子は。
そして1台挟んで次はもうせりかちゃんの番だ。ヘアピンのコーナリングは……意外といい感じだ。できればあと2 mブレーキを遅らせたいところだが、アタック手前だから今は影響ない。だけど1周で3度あるヘアピンで毎回これだと確実にタイムが落ちる。
かといって今すぐどうにかできるものではない。黙って見守ろう。
「2人のブレーキポイントってさ、あたしと違うんだね」
「そうだね。風連さんのはアンダーステアだからもっと奥……普通の車と同じ感じになるよ」
「普通の車ってそうなのか?」
うーん、説明しづらいな。僕のカート時代にアンダーステアのマシンに乗ったことが無いから、うまい例えを聞いたことがない。
「まあ覚えておく必要はないかな。それよりも2人を見ておこう」
「はぁいはい」
しかし2人は思い切りよくアクセルを踏んでくる。意地でも離さないようだ。ラインもだんだん良くなっているし、あとはブレーキと競り合いだ。
このタイムアタックはベストに近い状態でできた。しかしレースでは無理だ。
こればかりは経験を積むしかない。
「おっ、タイムアタック終わったみたいだ」
「そうだね。じゃあ次は──」
「わ、わかってるって。言われなくってもさ」
完全に固くなってしまっている。これ以上余計なことを言ってさらに縮めてしまったらもうまともな走りができなくなるだろう。
「ただいまぁ!」
「あの、どうでしたか?」
「そう焦らないで。風連さん、行くよ」
「お、OK っ」
2人を遮り、僕は風連さんを送り出した。
「ごめんね2人とも」
「いえ! 今はえみちゃんのほうが重要ですから!」
ちゃんとわかっているみたいだ。僕らはあくまでもチームなんだから走っている人が優先させる。せりかちゃんはけっこう自分中心に考えている節があるが、友達思いでもあるからな。
「あの、内淵さんはどう見ますか?」
「風連さんのこと? うーん、正直厳しいかな」
フリー走行ならみんな普通に走っているが、タイムアタックは必死だ。少しでも前の順位が欲しいからかなり強引な抜き方をしてくる。
風連さんは……耐えられるかな?
「えみちゃん、もっと踏んで!」
『で、でも前にもいるから……きゃんっ』
「ほら抜かれたぁ! それじゃだめだよ!」
『うぅ……でも……』
「せりかちゃん、僕が話すからね」
余計なプレッシャー与えてどうするんだ。完全に空回りしている。
「風連さん。さっきと一緒で抜かれても全然問題ないからね。むしろ抜かせて自分のタイミングを作っていこう」
『は、はい』
風連さんはどんどん抜かれている。5台、6台と過ぎ去っていく。でもそれでいいんだ。
「次抜かれたらそのマシンを追いかけるようにタイムアタック始めよう。いいね?」
『いっ……え、がんばります……』
少し涙声な感じだが、きっと踏んでくれる。
初めてプレイングカートに連れて行った時、大泣きするほど怖くてもきちんと踏んできた。
風連さんは2人よりも臆病だが、根性なら負けない。
「よーし行けーっ!」
無線が使えないからと叫ぶせりかちゃん。
しかし悲しいことにその声は排気音で聞こえないんだ。
それでも風連さんはせりかちゃんの応援が届いたかのようにアクセルを踏む。ブレーキのタイミングはまだまだ早いが、コスモはあまりタイムがぶれないマシンだからぼちぼちの成績を出せるだろう。
「2人とも、風連さんの走りはどうかな」
僕は前と同じ質問をしてみた。
「すっごい良くなってるよね!」
「うん、いい走りだと思います」
カート初心者といってもこの2人、速度に関しての感覚はとても良い。ちゃんと見抜いているようだ。
僕の見立てでもぼちぼちといった走りで風連さんはタイムアタックを終えることができた。
「みんなお疲れ様。結果が発表されるまで少し時間があるからお昼にしよう」
「もうですか?」
「走る直前に食べたら吐いちゃうよ。この時間はけっこう長いから有効に使おうね」
レースでは普段の生活と時間が変わる。レースに合わせた時間割を立てなくてはいけないんだ。いつも昼食は12時と決めていようが、そんなこと主催者側には関係ない。
「えっと、そのー……さ」
「ん? どうしたの?」
「昼食なんだけど、あたしが作ってきたんだよ」
風連さんがやたらとでかい箱を取り出した。
「へ、へえ。風連さんが。みんなの分も?」
「あ、ああ」
全員分ということはかなり大量にあるはずだ。箱がでかい理由がわかった。
しかし風連さんの料理ねぇ……。大丈夫なのかな? 僕はいいのだがみんなが問題だ。他のものを食べさせるのも失礼だし、かといって食べないとレースに耐えられない。
とりあえず見てみないことには始まらない。僕はゆっくりと箱を開け──。
「ぶっ」
思わず吹き出してしまった。なんだこの……何?
完全に想像外だった。不器用なんだけどがんばって作りました感があるものだと思っていたのに、これじゃあまるで食品サンプルを出されているようだ。
「えみちゃんね、料理すっごい上手いんだよ! 意外でしょ!」
「い、意外って言うな!」
意外すぎる。これが店頭に出されていたら思わず入ってしまうくらいの見事な出来栄え。
だけどこれだけこさえるのにどれくらいの時間がかかったのだろうか。今朝は早めの集合だったというのに……。
「西條さんは? お菓子作りとかやってそうな雰囲気なんだけど」
「あー、ダメダメ。こいつ家庭科で2だったらしいから」
これもまた意外だ。とはいえお嬢様だしそういうものなのかもしれない。
「せりかちゃんはどうなのかな?」
「得意だよ! 食べるのは!」
見たままだった。
だが料理は見た目よりも味が重要だ。見栄えだけよくったって中身が伴わなければ意味が無い。でも上手だというのだから少しは期待してもいいのかな。
とりあえず適当に口内へ運ぶ。そして噛みしめ舌に乗せ味を確認する。
「ど、どうかな」
「けっ……」
「け?」
「け……け……。結構美味いね」
「そ、そう。よかった」
やばい、思わず結婚してくれと言いそうになった。
レースで各地を転戦している中、美味い店を探すのが1つの楽しみだった。
その土地その土地で名物があったりしたが、そういうのを抜きにして本当に美味いものを探すのが好きだった。北海道でイタリアンを食べたり、関西できりたんぽ鍋を食べたり。
ありきたりな料理も独特の料理もあったが、みなそれぞれ美味かった。
しかし今食ったものは、そのどれよりも僕の舌と胃に響いた。
決してプロに勝るというほどのものではない。しかし万人に向けた料理と違い、僕らに合わせた味つけはそれ以上の美味さを感じさせてくれる。
「私も食べるー!」
せりかちゃんが弁当箱に飛びつくようにがっついてきた。僕も負けていられない。
──結局かなりの量があった弁当を全てたいらげてしまった。レースに影響がでなければいいんだけどな。
「なんかみんな受付の方に集まってますよ!」
「ああ、レースのグリッドが発表されたんだ。行ってみよう」
3人を引き連れてクラブハウスへ向かうと、出走レースとグリッドが記載された紙が貼り出されていた。
「西條さんと風連さんはAレースだね。せりかちゃんはBレースっと……」
「あ、あの! あいつはどっちなんですか!」
「花蓮ちゃんか。えーっと……げっ、Bレースだ」
「よっしゃよっしゃあぁ! 直接対決だあぁ!」
せりかちゃんは拳を握り喜んでいる。
まずいな。別レースだったら諦めがつくだろうけど、同じレースだったらかなり意識してしまうはずだ。
もうこれはどうにもならないな。状況に任せよう。
「さぁて予選だな。西條、あんたには負けないから!」
「え、えっと……私もがんばります」
聞いている分には風連さんのほうが速そうだ。しかし現実はそうとは限らない。
予選ヒート、西條さんが14位で風連さんが17位。全25台だからかなり後ろのほうだ。
風連さんの今の実力はこんなものだろうが、西條さんは走りに四苦八苦している状態だ。まだ伸び代がある分期待ができる。
2台のマシンをそれぞれスターティンググリッドに置きエンジンをかけ、コースから出る。
「ドキドキですね!」
「そうだね。自分がスタートするイメージでしっかり見ておいてね」
「はいっ!」
スタート……というかローリングが始まった。ダイレクトのマシンを皆一斉に押す。
エンジンがかかり走り出したところで押していた仲間がコースから離れていく。
西條さんの手前2人は1人で押しがけをし……失敗。エンジンが止ってしまった。
それだけならいいがやばい。ミスしたらコースの端に寄らないといけないのに両方が左右から中央に寄り、西條さんのコースを塞いでしまった。
「西條さん、危ない!」
『えっ──』
刹那、西條さんのリアタイヤが前走者のリアタイヤと接触、回転方向の関係で打ち上げられてしまった。
スタート直後だったからまだいいものの、レース中の速度でこれをやってしまうと跳ね上がりひっくり返り、最悪の場合……死ぬ。
完全に僕のミスだ。急に広げたトレッドの感覚を西條さんが理解できていないまま走らせてしまった。今まで通りだったらぎりぎりで通過できていたものを……くそっ。
いや、今はそんなことよりもレースだ。なんとか大事に至らなかった西條さんはそのまま走っている……が、ちょっとおかしい。右リアタイヤがバタついている。
「西條さん、ピットに戻って!」
『何かありました?』
「マシントラブルだ。そのまま走ってたら危ないよ」
『はぁい、戻りまぁす!』
そう言い西條さんはぐるっとコースを回りピットロードに入ってきた。
「せりかちゃん手伝って!」
「は、はい!」
西條さんはマシンを止めて降りた。そしてすぐ僕とせりかちゃんでカートスタンドに乗せ、エンジンマウントを緩めチェーンを外し、リアタイヤを軽く回す。すると右だけかなりぶれているのが確認できた。
リアシャフトが完全に曲がってしまっている。あのときのショックなのは間違いない。
交換にはさほど時間はかからないが、予選終了までには間に合わない。
「これは予選リタイアだな……せりかちゃん、悪いけど風連さんを見ておいてくれるかな」
「はいっ! えみちゃんよろしくねっ」
『えっと、西條、何かあったの?』
「風連さんは気にしなくていいよ。レースに集中して」
『は、はい……』
急いで僕はドライブシャフトの固定箇所を外し、ゴムハンマーで叩き引っこ抜く。
「あ、あの、内淵さん。ごめんなさい……」
メットを外した西條さんが申し訳なさそうに僕を見ている。
「いやあれは完全に僕のミスだ。ごめん」
あの場合、2台の隙間を縫おうとせず大きく回るか止ってしまうべきだった。とっさに伝えたとしても西條さんだったら反応できただろう。
「えみちゃん、後ろ、後ろから来てる!」
『えっ、えっ』
「ブロックだよブロック!」
『そ、そんな……無理ぃ』
「あぁーもう抜かれちゃったぁ」
『ご、ごめん……きゅぅ』
……さっきと同じじゃないか。これなら指示は西條さんに任せればよかった。風連さんかわいそうに。
でも風連さんはそれ以上抜かれるのだけは阻止し、ゴールした。
「あーあ、順位落としちゃったぁ」
残念がっているがそれは違うよせりかちゃん。予選リタイヤした西條さんの分繰り上がっているから順位は一緒だ。
「ただいま……」
ふらふらになって風連さんは戻ってきた。
「お疲れさん。大丈夫?」
「ま、まだあるんだから余裕だよ」
あまり余裕のありそうな雰囲気ではない。少しでも休んでもらわないと。
「じゃあ次私ですね! あいつぶっちぎってやります!」
「まだ予選なんだからそんなに気張らないで、決勝で勝負できるようにしよう」
「はい!」
花蓮ちゃんは正直このレースだと反則みたいなものだ。
花蓮ちゃんが1位でせりかちゃんが11位。決して追いつけないポジションではないが、かなり厳しい。
さて準備を────ん?
「どうかしましたか?」
「いや、ちょっとね。行こうか」
花蓮ちゃんに動きがない。みんなどんどんグリッドに集まっているというのに。
グリッドにつき車体をスタンドから下ろす。まだ花蓮ちゃんは来ない。何かのトラブルでもあったのだろうか。
花蓮ちゃんくらいの腕があればこのレースなら簡単に抜けるだろう。ピットスタートをしたとしても、予選で10位くらいまで戻せば優勝できる。油断はできない。
「僕が押すからそのままアクセルを軽く踏んでてね」
「はいっ!」
スタートと同時に僕はせりかちゃんのカートを押し走る。エンジンがかかると勢いよく走り出し、こけそうになったがいそいでコースから出た。
花蓮ちゃんは……出る準備もしていない。どういうことなのか確かめたほうがよさそうだ。
「やあ花蓮ちゃん」
「あっ、内淵さん! どうしたんですか?」
何かあったのかと思って来てみたのだが、当の花蓮ちゃんは呑気に談笑していた。
「どうしたもなにも、なんでこんなところに?」
「ああ、私予選出ませんから」
「予選出ないって、それじゃあ決勝が最後尾に──」
花蓮ちゃんがこれに出場した理由がわかった。
オーバーテイクの練習にせりかちゃんや他の出走者24台を利用し、全部抜いて勝つつもりだろう。
僕も一度だけやったことがある。上のクラスのレースで伸び悩んでるとき、ランクを下げてレースの勘を取り戻すんだ。
特にこのクラスではレース慣れしていないせいでみんながどう走るか予測できない分、通常よりも集中して走る必要がある。
「どうしたんですか? 内淵さん」
「いや、なんでもない。がんばってね」
「はいっ!」
自分の考えが理解できただろうと判断したのか、元気に返事をしてきた。
まずいな。いくら差があっても最下位から全台抜くのは容易ではない。つまり遊び抜きの本気で走るということだ。
いくらせりかちゃんが凄まじい成長をしているからといって、本気の花蓮ちゃんとはまだ勝負になる段階じゃない。
「せりかちゃん、聞こえる?」
『どうしたんですか!』
「えーっと、花蓮ちゃんなんだけど、予選を棄権しているんだ」
『ぬぁ……ぬぁぬぃいいぃぃぃ!』
予想通りの瞬間沸騰だ。
本来だったら黙っていたほうがいいが、せりかちゃんのことだからレース中ずっと聞き続けるだろう。ならば最初から伝えてしまったほうがマシだ。
「落ち着いて。とにかく今回は少しでもポジションを上げることに専念して」
『はい!』
「じゃあ風連さん、せりかちゃんを見ていてね。僕はさっきの続きをするから」
「ああ、まかせときな」
シャフト交換で一番厄介なのは左右のバランスではなくスプロケの固定位置だ。少しでもずれているとチェーンに負担がかかり、走行中に切れてしまう。
少しずつずらして調整。まっすぐ見てずれがないのを確認し、締めこむ。
そしてまたチェーンをつけてエンジンを固定する。
「交換は終わったけど西條さん、どうする?」
「あの、どうするって……」
「決勝に出るかどうかだよ。ちょっと怖い思いをしたし、大丈夫かなって」
「あの、えっと、大丈夫です。グラスバギーではあれくらい普通でしたから」
そうだった。悪路を走るグラスバギーでは、ギャップのせいであれくらいの打ち上げは普通なんだろう。西條さんはお嬢様といった印象だが、走りに関しては僕よりもずっとワイルドな経験を積み込んでいる。
「じゃあ次はがんばろうね。風連さん、せりかちゃんはどう?」
「3台追い抜いていったぞ。今7位だ」
もうちょっとで入賞できる。できればあと1台は抜いておきたい。
しかし残り2周。さらには前が競り合っているからタイミングを掴めない。
せりかちゃんも隙を狙っていたようだが、このままあっけなく予選が終わってしまった。
「おかえり。凄いじゃないかせりかちゃん」
「はい! がんばりました!」
「決勝もその調子でいこうね」
「はい!」
よし、せりかちゃんは今調子がよさげだ。決勝は期待できる。
「じゃあ次決勝だね。西條さん、風連さん。準備して」
カートスタンドに乗せ最後のグリッドにつく2人。今緊張している西條さんは走り出してしまえば大丈夫だ。風連さんはちょっと厳しいかもしれない。
風連さんは17位。抜かれているがポジションは変わらない。そして西條さんは最下位スタート。勝てる見込みは無いから、せめてレースの経験を積むことに専念してもらおう。
今度は全マシンちゃんと走り出し綺麗な列を作る。ぐるっと周ったらそのままスタート。
最初の第1 ヘアピンは大渋滞を起こす場所だ。連鎖的にブレーキが早まり、かなり減速する。
その状態を好機とし、西條さんはアウトからリアを滑らせ一気にジャンプアップ。最下位から15位くらいまで上がってきた。
その様子を見て風連さんも西條さんに続こうとする。だけど当然あんな走りができるはずはない。バックストレートからの高速コーナーまでには引き離されてしまった。
そして次にある第2 ヘアピンでまた同じことをし、西條さんは10位まで上げてきた。
西條さんはもう放っておいてもよさそうだ。
「風連さん」
『あっ、はい……はい』
「西條さんについて行こうとしなくていいからね。それよりも周りに流されないよう、自分のペースでしっかり走って」
『わかり……ひゃんっ』
大丈夫なのかな。
周回を重ねることで集団がいくつかできる。主に先頭集団、中堅集団、そして後方集団。
風連さんはうまいこと後方集団と中堅集団の間にいる。競り合いをしていない状態が最も速く走れるからこの状態を維持できればいい。
西條さんは中堅集団を抜け、先頭集団に迫る勢いだ。
もうちょっと何かあればと思った時、事は起きた。
西條さんの前で競り合っていた2台。後方のマシンがヘアピンで勝負をかけ横に並ぶ。が、強引すぎて2台がぶつかりコースアウトしてしまう。
すぐに復帰したがその隙をついて西條さんが追い抜く。このままゴールできれば6位入賞だ。
風連さんは中堅集団に追いつき、前が詰まっているせいで身動きが取れない状態だ。
「風連さん、焦らずじっくり前の隙を見極めよう」
『は、はい』
弱々しく返事をしているが、その実ちゃんと見ている。少し距離を取り前のミスを虎視眈々と狙う形だ。わざと相手が見えるような位置を走り焦りを生じさせる。
それにひっかかったのか、競っていた3台の後ろが前を抜きにかかる。ヘアピンのインへ頭を突っ込んだ。タイミングがよく一気に2台を抜く。立ち上がりを抑えられた2台は仕方なく減速をする。
その隙を風連さんはきちんと見極めた。立ち上がりの鈍い2台をスピードの乗った風連さんはあっさりと片付ける。あの抜き方は気持ちいい。
だけど向こうだって抜かれたままでいるはずもない。再び抜き返そうと風連さんに食らい付く。残りあと2周を耐えられるかが勝負だ。
結局西條さんはそれ以上順位を上げることはできなく6位でフィニッシュ。
風連さんは……ぎりぎりのところで抑え続けゴールできた。
「お疲れ様。西條さんはこっちじゃなくてピットレーン入ってすぐのところに止めてね」
『はぁい。でもどうしてですか?』
「入賞したから車検があるんだよ」
『はい、わっかりましたぁ!』
西條さんは言われた通りにクラブハウス横にあるスペースへマシンを停めた。
そして風連さんは僕らのいるスペースまで戻ってきた。
「せりかちゃん、西條さんのところへスタンドを持って行ってあげて」
「はい! 入賞おめでとうって言って来ます!」
「それはまだ言っちゃだめだよ」
「秘密にして後で驚かすんですね! わかりました!」
さっき無線で入賞したことは伝えてあるのに……。もう少し考える練習をしたほうがレースにも役立つんだけどな。
僕はカートに乗ったままの風連さんに手を差し出し、引き上げた。
「お帰り、風連さん」
「あ……ただいま」
「よくやったね……って、どうしたの?」
完走した風連さんは、今にも泣きそうな顔をしていた。でも表情から察するに怖かったからというわけではなさそうだ。
「全然……全然勝てなかった……。くやしい、くやしいよぉ」
正直に自分の胸のうちを語ってきた。
「そっか、くやしかったか。僕はうれしいよ」
「なっ、なんでうれしいのよ! あ、あんたひょっとしてまさかまだ……」
風連さんは僕を睨み、疑いの表情をした。多分勘違いをしているんだ。
「くやしいと思うのは本気でやったから。本気になれるのは好きだから。やっときみが好きになってくれたとわかった…………なんて思っていないからね」
「えっ、違うの?」
「当たり前だろ。きみはもう既にカートを好きだと言ったじゃないか」
「そ、そうだけど……じゃあなんでうれしいのさ」
「風連さんは走っているとき弱気になる傾向があるからね。それでもあれだけ退かずに耐えていたし、2台も抜いたじゃないか。僕としては上出来だと思っていたのにもっと上を目指していた。そのくやしさは絶対にきみをもっと速くしてくれる。だからうれしいんだよ」
「そ、そうなんだ? あたしはもっと速くなれるんだ」
「当たり前じゃないか。少なくとも今日くやしがった分はね。だからうんとくやしがっておこうよ」
「……わかった。あぁーもうムカつくぅー!」
そう言って風連さんは地面を蹴りつけ僕を見、ぺろっと舌を出しかわいい笑顔を見せてくれた。いい感じだ。
「じゃあ僕は西條さんのところに行ってくるよ」
僕は小走りでクラブハウスの方へ向かった。
到着してみると案の定、西條さんはせりかちゃんと一緒にどうしたらいいのかわからずとまどっていた。
「あっ、内淵さん。あの……」
「大丈夫、係員に言われたことをやっていればいいからね」
「は、はい」
「せりかちゃんも入賞したら同じことをするから見ておくといいよ」
「予習ですね! 私が入賞するから!」
多くは語らないでおこう。
エンジンのヘッドを開け、中の径をはかる。それとキャブレターの内径もだ。これが済まないと受賞できない。とはいえシーズンで戦いポイントを争うわけじゃないから、入賞しなくてもせいぜいトロフィーがもらえない程度だ。
「あ、あの……どうでしたか、内淵さん」
心配そうに西條さんは僕を見上げている。
「問題なかったよ。おめでとう」
「あっ……ありがとうございます!」
西條さんは僕に深々と頭を下げた。
車検を終わってようやく言えるおめでとう。不安そうにしていた西條さんも、やっと笑顔を見せてくれた。
「秘密にするんじゃなかったんですか!」
うんうん、せりかちゃんらしくていい反応だ。
カートを風連さんが待っているスペースへ持ち帰り、次の準備を始める。
「さて次は──」
「わかってます! やっと私の出番ですね!」
グローブをつけ気合充分だ。期待できるかな。
「あの、がんばってね。せりかちゃん」
「わかってるって! 私もキャミちゃんと一緒に表彰式出るから!」
A レースとBレースの表彰は別にやるんだけど、まあいいか。
「ちょっと待ってよせりか」
カートをコースへ運ぼうとしたら、風連さんが止めた。
「何? えみちゃん」
「あたしさ、さっきのレース、すっごい悔しかったんだよ。だから、だからさ、あたしの分まで前のやつらぶち抜いてよ!」
「……うん!」
拳をぐっと握り、力強く応える。
「これが今日最後のレースだよ。思い切り走ろうね」
「はいっ!」
元気よく返事をし、走り出した。
「せりかちゃん、花蓮ちゃんのことは意識しないで思い切り行こう」
『はい!』
連鎖的にブレーキを行い、その隙をついて数台がインに入り抜いていく。
せりかちゃんにはインを塞ぐよう指示してあったから抜かれることはなかったが、それに詰まって大渋滞が起こった。
そのごたごたを利用して花蓮ちゃんはアウトから一気に10台ほど抜く。わずか半周で最下位から15位だ。これなら入賞はできるだろう。
『お兄さん、あいつどうなりましたか!』
1周したところでせりかちゃんから通信。いくらなんでもせっかちすぎだ。
「まだずっと後ろだから気にすることはないよ」
「せりか、あんたが戦ってるのはそいつだけじゃないんだぞ!」
急に風連さんが怒鳴った。運動能力はせりかちゃんのほうが上だろうけど、勝負に関しては風連さんのほうが慣れているみたいだ。
「そうだよ。今は目の前の相手に集中して」
『うぅ~~~っ』
気持ちはわからないでもない。僕だって日本一になったのだって平坦で楽な道のりじゃなかった。2人のライバルがいて、いつもそいつらを意識せざるをえなかった。
だけどそいつらとレースでは戦っているかもしれないが、今戦っているのは別の場合が多い。そこを勘違いしてしまうと足元をすくわれてしまう。
────レースを半分消化しただけで、花蓮ちゃんは既に7位まで上がっている。せりかちゃんもがんばって4位まで浮上してきたが、花蓮ちゃんが追いつくのは時間の問題だ。
だけど花蓮ちゃんの腕があればもう少し早く順位を挙げられたであろう場面がいくつかあった。何故そこで抜かないのかといった感じに。
「あの、内淵さん」
「どうかした?」
「えっとその……あの人のカートの前輪、おかしくないですか?」
「えっ?」
花蓮ちゃんのカートの前タイヤをよく見てみる。
確かに何かがおかしい……ってかありゃあ83タイヤじゃないか!
「あれは83タイヤだよ。みんなが使っている86タイヤより幅が狭いんだ」
「そうなんですか。どんなメリットがあるんですか?」
「えーっと、特に無いかな……」
83タイヤは細いため、グリップが弱い。そのせいでコーナリングでは遅くなってしまう。
本来ならクラスが分かれているのだが、これはオープンクラスなためどちらでも出られる。つまり83タイヤで出る必要がない。
だから花蓮ちゃんは抜ける場面で抜かなかった──いや、抜けなかったんだ。
ハンデ有りでこの結果か。こりゃあ厳しいぞ。
そんなことを思っているそばから花蓮ちゃんは前方で争っていた2台をまとめて抜き、これで5位。
花蓮ちゃんはもうせりかちゃんの背後まで来ている。教えるべきか? いや、変に話すと意識してしまい、ペースを狂わせてしまうかもしれない。
さてどこで仕掛けてくる? 僕ならばせりかちゃんの荒削りなヘアピンの技術を狙い、立ち上がりの直線で綺麗に抜き去るところだ。しかしあのエンジン相手にそれは厳しい。ならばセオリー通りにヘアピンの突っ込み勝負のはず。
思ったとおりだ。せりかちゃんがアウトいっぱいに寄せたところ、インに頭を突っ込んできた。ブレーキも限界まで遅らせ、せりかちゃんのラインを潰す。
そのまま突っ込むとぶつかってしまう。せりかちゃんは花蓮ちゃんの後ろにつくしかない。
『い、今抜かれた! あいつに抜かれた!』
スピーカーからせりかちゃんの叫び声がキンキン響く。咽喉マイクだというのに、一体どんな声帯をしているのだろうか。
「ああうん、綺麗に抜いていったね」
『なんで教えてくれなかったんですか! あいつが来ていること!』
「せりかちゃん、後ろを気にしていられる余裕なんてある?」
『えっ……あ、あります!』
「もしあったところでどうするつもりだったの?」
『えっと、その……』
「何もできなかったでしょ。いいんだよそれで」
ブロックのやり方なんていくらでもある。だけど僕はまだ一切教えていない。相手のコースを塞ぐ行為は、中途半端な知識でやるととても危険だからだ。
それに後ろを気にできる余裕があるのなら、接近してくるマシンにも気付いたはずだ。抜かれるまで気付かなかったのは、それほど意識が前にしかいっていなかった証拠になる。
走りの成長はとても早いが、そこらへんはまだ未熟だ。
さて、前では3台が連なっている。花蓮ちゃんはどういく?
ヘアピン手前は3台ともインをしめて抜かれないようにしている。花蓮ちゃんはアウトに出て立ち上がり勝負をかける。せりかちゃんもそれに続きアウトへマシンを振る。
前走者はインから入ったせいで立ち上がりが厳しい。しかしきっちりとアウトインアウトで走った花蓮ちゃんは次のコーナー手前で横に並ぶ。せりかちゃんは────花蓮ちゃんの後ろに続いて抜こうとしている!?
「ちょっと、せりかちゃん!」
『大丈夫です! 落ち着いています!』
「いや、あのね……」
『わかってるんです! あいつのほうが私よりずっと上手いんだから、抜かれて追いつけないのは当たり前なんです! だけど今は行けるところなんです!』
「あ、ああ。そうだね」
僕は甘かった。
そうだ、ここは行ける場面なんだ。もし僕が走っていたら確実に同じことをしていた。
冷静じゃなかったのは僕の方だったのかもしれない。
しかしこれで残り1周半。現在1位2位だ。どうする? 何か指示を出すべきか?
「せり……っ」
言いかけたところで、西條さんが両手を突き出し僕を止めた。
「どうしたの?」
「えっと、風連さんを見てください」
なんのことやらわからないが、風連さんを見てみる。すると風連さんはせりかちゃんをじっと見つめ、目を輝かせ頬を赤くし高揚ている。
「風連さんが何?」
「私、思い出したんです。いろんな部活でせりかちゃんが勝負している時、風連さんがいたのを。そしてせりかちゃんが本気になった時、決まって風連さんはあんな顔をしていました」
それが何なのかと思ったが、すぐ理解できた。
風連さんにとって、やっぱりせりかちゃんは憧れの対象だったんだ。なにせあの表情は待ち焦がれていた瞬間がやっと来たといったものだから。
そして今、せりかちゃんが本気になったんだ。西條さんはそれを邪魔しないで欲しいと思ったのだろう。
確かに今余計なことを言い、集中力を乱したら元も子もない。残り半周、せりかちゃんに全て任せよう。
バックストレートを抜け、第2 ヘアピン。もうゴール間近だ。
技術の差が出るコーナリングでは花蓮ちゃんのほうが上。だけどここはカート場では屈指のハイスピードコースだ。直線ならせりかちゃんも負けていない。
カートは技術だけで勝負するものじゃない。そしてマシンだけで勝てるものでもない。勝てる技術と勝てるマシン。両方あって初めて勝てる。
もし一度でも互角のコーナリングができれば……。
「いっけぇ、せりかぁー!」
「がんばれせりかちゃぁーんっ」
最終ヘアピン手前、2人が大声で叫んだ。
「よぉーっし!」
僕も思わず叫んでしまった。
せりかちゃんが最後の最後でやらかしたからだ。
アルバフレームでこれ以上無いくらいの完璧なブレーキタイミング。ヘアピンの旋回速度は遅くても、あれはその後が異様に速い。そしてエンジンもそれに応えられるものがあるとなれば、後はゴールまでアクセルを踏み続けるだけだ。
ぐんぐん差を縮め、ホームストレート直前のクランクへ突入。周りから一斉に歓声が沸く。もうちょっとでぴったりとはりつける。
その瞬間、花蓮ちゃんは一瞬の失速。ぶつかりそうになり慌ててせりかちゃんはブレーキを踏む。再びアクセルを踏むまでに花蓮ちゃんは全開で走り去った。
あのエンジンは同じタイミングでアクセルを踏めば、確実に前へ出られるものだ。だけど完全に出遅れた状態から踏んで追いつけるものではない。そもそもそんな便利なエンジンは存在しない。
普通のコーナーやヘアピンならばラインを変えて逆にチャンスにできる。だけどクランクはラインが1本しかない。完全にやられたな。
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