3章 気が強い子を泣かせる
「じゃーん! 見て見てー!」
朝のHRが始まる前、せりかが香耶美の席まで持っていき、目の前に差し出したものはカートの入門書だった。これは昨日何件もの書店を探し回り、やっと見つけたものだ。
「あっ、それ買ったの?」
「うん! お兄さんが読んでおいたほうがいいって言っていたし! 私ももっとカートのことが知りたいからね! キャミちゃんにも後で貸してあげるよ!」
「う、うん。ありがとう」
せりかの気迫に押され、香耶美は思わず適当な返事をしてしまった。
「せりか、あんた何読んでんだ?」
突然現れたのはせりかのクラスメイト、
陸上部のエースである彼女は、何かとせりかにつっかかってくる。
「これはカートの本だよ」
「カート? 買い物でもするつもりか?」
愛美奈はショッピングカートの類だと認識したようだ。
「違うよ! この写真見てよ!」
せりかは表紙の写真を愛美奈に突きつけた。
「なんだこれ? ソリ遊びかよ」
「ソリじゃないよ! ちゃんと見てよタイヤとハンドル付いてるでしょ!」
鼻で笑う愛美奈に対し、せりかは少々腹立たしく怒鳴る。
「どっちにしろガキの遊びでしょ? そんなもんに入門書とかバカじゃないの?」
「ちっ……違うもん! カートは遊びなんかじゃないんだから!」
「こんなおもちゃみたいなもん、遊びでしかないだろ! 何熱くなってんだよ!」
「あ、あのね、風連さん……」
「西條は黙ってな!」
「はぅぅ……」
怒鳴りあっている2人を止めようとした香耶美だが、一喝されて怖気ついてしまった。昔から香耶美は愛美奈が苦手で、ほとんど口をきいたことが無い。
「だっ……だったら乗ってみなよ! 凄いってわかるんだから!」
「乗らなくったって見ればわかるよ! 土手をダンボールで滑るのとどう違うんだ! こんなくだらないもんで遊んでるヒマがあるなら陸上やれよ! ふざけるな!」
ここで本音が混じった。愛美奈はせりかに陸上をやって欲しいのだ。
「ふざけてないもん! 私にとってのカートはえみちゃんの陸上以上だもん!」
「はんっ。だったらあたしもこれに乗ってやるよ。それで負けたらせりか、あんた高校ではずっと陸上部な」
せりかと香耶美は中学組だが、愛美奈は小学校から大学まで一貫教育、いわゆるエスカレーター校であるこの学校に小学生の頃からいる。一緒の高校に行くのは当然なのを前提に勧誘しているわけだ。
「それでいいよ! そんでえみちゃんが負けたらカートに謝ってよ!」
「こんなメタルラックみたいなのに謝れって、あんた正気か?」
「正気だもん! じゃあ今度の土曜に勝負だ!」
「土曜? 別にいいけどさ、これどこで乗るんだよ」
「え……えっと、知り合いのお兄さんが連れて行ってくれるんだけど……」
「はぁ? そいつはあんたの知り合いかもしれないけど、あたしは知らないんだけど。そんな奴に連れて行ってもらうとかごめんだね」
男勝りなようで愛美奈は意外と慎重派だ。知らない男に見知らぬ場所へ連れて行かれるというのに抵抗があった。
「だったら近くの駅聞いておくからそこに行ってよ!」
「それでいいよ。言っておくけど高校に上がる前に陸上の基礎を叩き込むから覚悟しといてよ」
「むっぎいいぃぃぃっ!」
捨て台詞を吐き、愛美奈はせりかを振り向くことなく自分の席へ戻った。
あまりの剣幕に震えている先生を尻目に。
☆
「あー……お兄さん」
「どうしたの?」
少し困ったといった感じでせりかちゃんが話しかけてきた。
「すみません、またプレイングカート場に連れて行ってくれませんか?」
「それはいいけど、何かあったの?」
せりかちゃんはもっと図々しい……じゃなかった。自分のタイミングで物事を運ばせようとするタイプだと思っていたのに、こういうお願いをしてくるのは少し意外だった。
「入門書を買ったんですけど、ちょっとクラスメイトとトラブルがありまして……」
なんで入門書を買ったらクラスメイトと揉めることになるんだろう。
「うーん、何を言いたいのかいまいちわからないかな」
「学校で読んでいたんですけど、クラスの子にカートをバカにされて、私すっごいムカついちゃって! 何が子供の遊びよ!」
「まあまあそんなに興奮しないで」
「あっ……すみません」
地面をガンガン踏みつけていたせりかちゃんに対し、僕は少し嬉しかった。
自分の好きなものをバカにされて怒らない人は、それを本気で好きだと思っていないと思っているから。
そしてカートをバカにされあんなに怒っているせりかちゃんは、きっとカートを本気で好きになってくれたんだろう。
「んで、どうしてプレイングカートを?」
「そいつ、そいつにねっ、カートに乗らせてぎゃふんと言わせてやるの!」
そういうことか。
普段だったらそんなこと自分でやってくれと言うところだが、僕だってカートを馬鹿にされて黙ってはいられない。
「OK。じゃあいつにする?」
「明日、明日大丈夫ですか!」
毎度のことながら急なことだ。そして悲しいことに予定が無いから頷いてしまう。
「いいよ。時間は前と同じでいい?」
「はい! それと、できれば現地の最寄り駅を教えて頂きたいのですが……」
○
当日、僕の家に来たのはせりかちゃんと西條さんの2人だけだった。一体どういうことかと思っていたが、どうやら件の子は現地に1人で向かったとのこと。
あまり仲が良くないのだろうか、一緒に行きたくなかったらしい。だから昨日最寄り駅を聞いていたのか。
カート場で待つこと10分、その子……風連さんはタクシーでやってきた。
せりかちゃんを見下すような目をし、それに対して隠すことなく顔に怒りを現すせりかちゃん。これは早く終わらせたほうがいいと思い、僕は3人をクラブハウスへ促した。
「こんちはー」
「いらっしゃ……っと、内淵君か。最近よく来るね」
「ええまあ、ちょっと訳ありでして」
「まあいいけど。また乗せるんでしょ?」
「あ、はい。そのうちマシン整備でも手伝いますよ」
「ははは、期待しないでおくよ。おっと1人増えているんだね」
「ええまあちょっとね」
目を向けると、受付にある待機スペースに展示してあるカートを風連さんはしげしげと見つめている。
「ふぅん、これがカートなんだ。実物でもチャチなオモチャって感じだね」
そして毒づく。
「ま、まあ見た目はそうかもね」
「走ってる途中で壊れちゃいそうだね。あ、そんな速度は出ないか。あははっ」
いちいち
「ははは。内淵君、きっつい子だねぇ」
「あはははは……勘弁してくださいよ」
やばいやばい、豊西さんが頬をひくつかせながら僕に嫌な笑いを見せている。あまりここにいさせないほうが、僕と豊西さんの精神上よさそうだ。
僕は3人を押し出すようにコースへ向かい、走る準備をさせた。
「じゃあせりかちゃん、一緒に走ってあげて」
「は、はい!」
「風連さんはせりかちゃんについて行ってみて」
「えぇー、あたしの方が絶対に速いんだけどなぁ」
「まあそう言わずに……抜けるなら抜いてもいいからさ」
「んー、まあいいか」
あまり納得いかないような顔で風連さんはカートに乗り込んだ。
「せりかちゃん、ちょっと」
「な、なんですか?」
作戦というわけではないが、風連さんに一番きつい状況を作らせようと思う。せりかちゃんも初心者とはいえど、初めてでもあれだけ踏めるところは評価している。
「1周目は適当に流して、2周目は初めてここを走ったときみたいな感じで」
「はい」
「3周目からは本気を出して。走りってものを見せてやるんだ」
「……はい!」
いい返事だ。目の輝きも違う。
せりかちゃんはメットをかぶり、小走りで風連さんの前にあるマシンに乗り込んだ。
1周目は普通についてこれるだろうし、2周目もなんとか食いつけるはず。その時思うはずだ。ああやっぱりこんなものかと。だけど3周目からは走れば走るほど自分の考えが甘かったと感じるはずだ。
なんとかついていけた相手が、実は手加減していただけ。かなり屈辱なことだ。
それにしても、何故風連さんはこうまでカートを馬鹿にするのだろう。理由がわからない。以前何かあったのだろうか。
「ねえ西條さん。あの子はどういう子なの?」
「えっと、陸上部の子でとにかく負けず嫌いで……」
「なるほどねぇ。他には?」
「私はえっと、彼女のことが苦手で……ほとんど話したこともないんです」
普段気の弱そうな西條さんと、我が強く何でもズバズバと言う風連さん。確かにウマが合わなさそうだ。
これ以上は西條さんから情報を得られなさそうだから、ちょっと質問する方向を変えてみよう。
「じゃあせりかちゃんってどんな子なのかな」
「そ、そうですね。せりかちゃんはその、見たままの子だと思います」
「言わんとしていることはわかるよ。学校ではどうなの?」
「せりかちゃんは……えっと、うちの学校のスーパーヒロインなんです」
「スーパー……? へ?」
ちょっと僕には通じない言葉だ。
「あの、すみません。えっとですね、うちの学校にはこういう言葉があるんです。『光凌せりかには弱点がある。それは1番になれないことだ』って」
ますますわからない。1番になれないけどスーパーなのか?
「もうちょっとわかりやすく説明してくれると助かるかな」
「えっと、その、せりかちゃんはどの運動部に入っても確実にレギュラーを取れるだけの才能があるんです」
「確実にレギュラー?」
「全校で1番になったことはないんですが、10位以下にもなったことはないんです」
「そりゃまた凄いな。どんなスポーツでも?」
「はい。球技から陸上、水泳でもせりかちゃんが負けたのなんて各部のエース相手くらいでしかほとんど見たことありません」
超運動能力か。稀にいるような話はあるが、まさか実在するとは。
「なんとなく察しがついたよ。つまり風連さんはせりかちゃんに負けたんだね」
「はい。去年の陸上の大会選手を選抜する時、助っ人で呼ばれてたせりかちゃんが100メートル代表の副部長以外の全員に勝っちゃったんです」
「そりゃまたきっつい話だね。そういえばせりかちゃんって何部なの?」
「それが、えっと、せりかちゃんは部活に入っていないんです」
「なんでまた……。ひょっとして日本最強の帰宅部でも狙っているのかな」
「せりかちゃん自身は部活に入りたいらしいのですが、なかなか夢中になれる部がないみたいで、その……」
なるほどね。とりあえず入ってみてから判断するというのは嫌なんだろう。
彼女が夢中になれるもの。それははたしてカートなのだろうか。
それと今の会話でわかったのは、風連さんは恐らくせりかちゃんをライバル視しているだろうということ。そしてカートを馬鹿にしたのも、恐らく遠まわしにせりかちゃんを攻撃したかったんだろう。
そんな話をしている間に2人はコントロールラインについていて、僕は慌てて旗を振った。
1周目は普通に着いてきた。2周目の手前、ホームストレートでせりかちゃんは全開に踏んできた。風連さんも負けじと踏んでくる。
最初の直角コーナーはそのまま曲がれるが、わざと減速をして曲がっている。にも拘らず風連さんは少し遅れた。さすがに速度の落ちるヘアピン手前では追いついていたが、それから徐々に遅れていく。
3周目にさしかかった時、僕の言った通りにせりかちゃんは全開で走った。ホームストレートから直角コーナーを減速無しで突っ込み、第一ヘアピン手前でフルブレーキ。そこから踏み込み曲がった時には、もう風連さんはついてこれなかった。
S字に差し掛かり、最終ヘアピン。ここから第一ヘアピンまではせりかちゃんの独壇場だ。彼女は全くアクセルを緩めることなく走り抜けられる。
風連さんもがんばっているみたいだけど、やはり恐怖の方が強いのだろう。完全にびびって踏み込めていない。
そして8周目、とうとうせりかちゃんは風連さんの後ろへきた。あとちょっとで周回遅れにできるところだ。
しかしここは8周1セット。ぶち抜きたかったであろうせりかちゃんには悪いが、僕は旗を振り終わりを告げる。
「どうだった?」
戻ってきた風連さんに感想を尋ねてみた。
「い、インチキよ! こっちのほうが速いんでしょ!」
「それならば次は乗り換えて走ってみようか?」
「うぅっ」
カートのせいではないことはわかっているのだろう。言い返せず口篭ってしまった。
「せりかちゃん、そのままあと8周走れる?」
「大丈夫です!」
「じゃあこのカートで僕が今度は走るよ」
「か、勝手にすれば?」
風連さんはふてくされるように腕を組み、ぷいと横を向いた。
さてどうしようか。
正直このコースでせりかちゃんに勝つのは難しい。特に後追いでは尚更だ。
ここはレース用ではないためコース幅が狭い。だからまともに抜けるのはホームストレートくらいしかない。だけどそれには問題がある。
まず僕とせりかちゃんの体重差。どれくらいあるかはわからないけれど、少なくとも20キロはあるだろう。レーシングカートの半分しか排気量がないここのプレイングカートでは、腕の差よりも軽さが重要になる。加速も最高速もせりかちゃんのほうが格段に上。さらにはこの使い古されたタイヤは地面の
「せりかちゃん、僕についてきてね」
「はい! わかりました!」
僕は風連さんが乗っていたカートに乗り込み、コースを回りコントロールラインに着いた。
────僕の考えはかなり甘かった。これは予想以上にやばい。
グリップを最大限に使いS字を最速で抜け、ヘアピンのブレーキタイミングもこれ以上ないところで行い、必死になって稼いだアドバンテージを第1 ヘアピンまででチャラにされる。
それどころか後ろから迫るエンジン音が、だんだん近くなってきている。
やばい、僕の走りを学習しているんだ。コース取りやブレーキのタイミング。このマシンでせりかちゃんと差を付けて勝つことに意味があったのだが、それができなくなってきた。
最終ラップでさらに限界を突き詰めた走りをしたが、多分差は広げられていない。せいぜい同タイムといった感じだろう。
「ふはぁ」
走行後、あまりのきつさにメットを取った途端、口から空気が吹き出た。久々に全神経を集中させて本気で走った気分だ。
「何だ、やっぱりそのカートのほうが遅かったんじゃないの?」
急所を狙うがごとく風連さんが痛いところをついてきた。
「ははは……とりあえずタイムを見てみようか」
豊西さんのところへ行きラップタイムの書かれた紙をもらい、風連さんと走った時と、僕と走った時のせりかちゃんのタイムを比較してみる。
「わかるかな、明らかにせりかちゃんは速くなっている」
「た、たかが3秒じゃない」
「キミは陸上やっているって聞いたけど、短距離?」
「200 mよ」
「200 m で3秒の差って誤差程度なのかな」
「ぐっ……」
ここのコースだと僕は大体1周20秒くらいで走れる。3秒も差があったら7周ほどで周回遅れになってしまう。
苦虫を噛みしめたような顔で僕を睨みつけてくる風連さん。言い返せない感じだ。
「わかったよ、認めてやる。せりかはあたしより速い。でもこいつになら──」
と、西條さんに目を向ける。が、相手が悪すぎる。
「言っておくけど、西條さんはせりかちゃんよりもずっと上手いよ」
「う……嘘よ!」
「僕も最初はびっくりしたよ。でも彼女のテクニックは相当なものだよ」
まあ操作が上手いからといって速いわけではない。確かに西條さんのマシンコントロールは異常ともいえるほど上手い。だけど言い方が悪いかもしれないが、それだけなんだ。
カートの上手さはきちんとタイヤをグリップさせること。さらにはそのグリップをほんの少しだけ抜けることなんだ。微かに滑っているというのが理想だろうか。
「じゃあただ単にあたしが慣れてないだけだ! そんなの負けたうちに入らない!」
なかなか意固地な子だな。ちょっとはカートの片鱗を味合わせてみたほうがいいかもしれない。なんとか誘ってみるか。
「そういえばさ、せりかちゃんについて行けなかったでしょ」
「当たり前でしょ! あんなスピードじゃ危ないじゃない!」
「そうだね。でもせりかちゃんは一度も危ないなんて言ったことないんだよ。その速度で走れるってわかっているから。危ないと感じるのは怖いからだし」
「あたしだって走れるってわかれば怖くない!」
風連さんは顔を赤くして怒鳴ってきた。うまく挑発に乗ってくれた。
「そう? じゃあここからここまでずっとアクセルを踏みっぱなしで行ってごらん。途中で怖くなってブレーキを踏んだら余計危ないから気をつけてね」
風連さんにコースマップを見せ、全開区間を指示した。最終ヘアピンの後から第一ヘアピン手前まで。せりかちゃんよりも少し甘めだ。
「こ……こんなところまで……せりかはずっと踏んでいたの?」
「そうだよ」
少し顔が強ばり一瞬間が空いた。
「せりかにできるんだしあたしなら余裕よ!」
強がっているが、声がうわずっている。
「言うのとやるのは違うよ。やってみればわかるから」
「ふ、ふんっ。見てな!」
風連さんはカートに乗り込みピットロードから飛び出し、ぐるっと周る。最終ヘアピンを抜けてからからずっと踏みっぱなしだ。
ヘアピンは手前で減速するから問題無い。最初の難関はホームストレート手前の中速コーナー。ここを堪えるのは初心者には少々辛い。
でもアクセルを踏むポイントを遅らせたから、特にラインを考えず曲がれている。そして直角コーナー。ここを踏んで曲がれるか?
「お……おおぉ」
「行きましたねぇ」
「行ったなぁ」
本当にアクセル全開で行ってしまった。
しかし第一ヘアピン手前で減速し、ゆっくりとまっすぐ突っ込みコースアウトして止ってしまった。
「何かあったのかな……ちょっと行ってくる」
「あ、はい!」
僕はコースに飛び出し、風連さんのもとへ向かった。
「風連さん、風連さん!」
全く返事が無い。ハンドルにメットを付け、震えてしまっている。ゆっくりとメットを外すと、これ以上無いくらい号泣している顔が見えた。
「大丈夫? 風連さん」
「……こ……こわ…………」
「風連さん?」
「怖かった! 怖かったああぁぁ!! あん、ヒック、あんな速度、速度で……ウクッ、はし、走る……ふああぁぁぁぁん!」
相当我慢をしていたのだろう。反動で大号泣してしまった。
「もう大丈夫だよ。よくがんばったね、凄かったよ」
軽く肩に触れたら、何かが吹っ飛んだらしくしがみついてきた。
「せりかちゃん、ちょっと来て!」
「あ、は、はい!」
僕が叫ぶとせりかちゃんは小走りでやってきた。
「風連さんは僕が連れて行くから、マシンをピットまで持って行ってね」
「はい! 任せてください!」
手ぶらで来たせりかちゃんに風連さんがかぶっていたメットをかぶせ、僕は腰が抜けて立つこともできない風連さんを抱き上げてピットまで運んだ。
ベンチに座らせた風連さんはずっと泣いている。その様子をみんなで寄ってたかってみているのもかわいそうだったから、その間せりかちゃんと西條さんには走っていてもらった。
ドリンクを買い風連さんの横に座りながら走っている2人を眺める。相変わらず西條さんは強烈なスキール音を出している。せりかちゃんは……速い。
初っ端で前に出たのだろう。どんどん西條さんとの差を広げていく。
そんな姿を見ていたら、ふと横から鼻をすする音がやんだことに気が付いた。
「落ち着いた?」
「あ……あの…………ごめん……」
顔を真っ赤にし、うつむいたまま風連さんが謝ってきた。
「いいよ、きみが無事だったんだから」
風連さんにドリンクを渡し、コースに向かって僕が手を振ると2人は戻ってきて心配そうに風連さんを見る。
両手で持ったドリンクをじっと見つめていた風連さんは、それを一気に飲み干し、大きく深呼吸して気を落ち着かせた。
「せりか、それと……西條も、いつもあんなことしてるの?」
上目使いで2人を見る風連さん。普通に話せる状態になったことで少しほっとしているせりかちゃんと西條さん。なんだかんだいって友達なんだな。
「私はまだ始めたばかりだから全然。キャミちゃんはけっこう走っているみたい」
「そ、そうなの?」
「私はその、グラスバギーですけど……」
「ぐら……? よくわからないけど、あんた凄かったんだ」
西條さんから目を離し、風連さんは再びうつむいてしまった。ちょっと刺激が強すぎたようで、少し罪悪感が生じた。
「で、でも風連さんもなかなか根性あるじゃないか。怖いのによく耐えて踏んでいられたね。凄いがんばったと思うよ」
「ほんと?」
「うん。初めてやる人にはかなりきついことだったからね」
風連さんは一瞬僕を見上げたが、また自分の手元に視線をうつす。
どうしたものかとあぐねいていると、丁度来客のようで豊西さんが僕に手を振っている。他のお客さんが来たからコースを空けてくれと言っているようだ。
「それじゃ今日はもう帰ろうか」
僕とせりかちゃん、西條さんは豊西さんに礼をし、風連さんを車へ促し帰路へついた。
後部座席の2人は、今日走ったことをとても楽しそうに話している。助手席に乗り込んだ風連さんは、顔を伏せたまま話に加わろうとしない。
こういう時は変に話しかけるよりも放っておいたほうがいい。下手に元気付けようとするのは逆効果になりそうだから。
「────あのさ」
高速を降り地元付近まで戻った時、隣でじっと黙っていた風連さんが突然声をかけてきた。
「ん? どうしたの?」
運転中だから風連さんの姿をはっきり見ることはできないが、なにやらもじもじとしているようだ。何かを言いたいように感じる。
「あれがせりかが本気になろうと思ったものなんだよね」
「そう……だと思うよ」
本人じゃないから僕は答えられない。だけど少なくともきっとせりかちゃんは今だけでも本気でいるはずだ。
「あたしにも……その……できるのかな……」
「さあ……どうだろうね」
僕は風連さんを見ることなく、運転しながら答えた。
「こ、こういう時ってもっと気の利いた言葉をするもんじゃないの?」
「できるかできないかじゃないよ。やるかやらないか。ここはそういう世界だよ」
「……けっこうきつい人なんだ」
「レースに関しては妥協したくない。それだけだよ」
「…………そっか……」
「おにーさん、この辺、この辺でいいです!」
会話を遮るようにせりかちゃんが叫んだ。
「ん? ああ、じゃあ停めるね」
車を端に寄せると、せりかちゃんと西條さんが降り、少し遅れて風連さんもよろよろと車を降りていった。
「今日もありがとうございましたぁ!」
「あの、できたらまたよろしくお願いします」
せりかちゃんは元気に大きく手を振り、西條さんはぺこりと頭を下げた。
「ああそうだね。それじゃあまたね、せりかちゃん西條さん。それに……風連さん」
「え? あ……」
何かを言いたげに口をもごもごさせていた風連さんだが、黙って振り返り帰っていった。
何を言いたかったかなんとなく察しがつく。
さて、彼女はどちらを選ぶのだろう。
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