1章 初めてなのに優しくなかった
念願であったプロのレーシングドライバーになれる。その予定だった。
チームにも所属し、マシンも用意できる算段があった。あったんだけど、これからというところでスポンサーがすっぽかし、宙ぶらりになってしまった。
レースをやっているとぼちぼちある光景らしく、チームの人たちは至って冷静だ。
特に僕みたいな下積みを途中ですっ飛ばした、いわゆるジャンプアップした選手相手には多いらしい。
だけど僕は何もせずにはいられない。スポンサー探しをしなくては。
自分で働いて稼ぐ……なんて簡単な額ではない。マシンの購入だけではなく、メンテナンスや整備班の給与。アルバイト程度の金では10年かかっても出られない。
それでも少しくらいはなんとかしたいと思い、僕はこいつを手放そうと思う。
僕がいない時にでも引き取ってもらえるよう、ガレージの奥から手前に出しておく。
これでよし。あとはショップに連絡して──
「ねえねえお兄さん」
なんだ? と思い振り返ると、小さな女の子が立っていた。
ポニーテールで人懐こそうなかわいい子だ。制服を着ているのだから恐らくは……この見た目で高校生ということはあるまい。中学生かな。
「何?」
この年代の見知らぬ女の子に話しかけられることはまず無い。どう対処していいのかわからず、少々ぶっきらぼうに答えてしまった。
「あ、あの……
「え? あ、ああ……そうだけど。僕のこと知ってるの?」
「私、私のこと覚えていませんか?」
こんな小さい女の子に知り合いなんていたっけな。記憶には見当たらない。
誰かと勘違い……は無いな。僕の名前を言っていたし。
「ごめん、ちょっとわからないな」
「えっと、
光凌ねぇ。光凌、光凌っと……。
光凌せりかだって!?
「あのせりかちゃんか! 大きくなったねぇ」
「お、覚えていてくれたんですか」
「そりゃあもう。ほんと久々だね」
ごめん、今の今までしっかり忘れてしまっていた。そっかぁ、あのせりかちゃんか。
母親同士が親友で、うちにちょくちょく遊びに来ていたな。そして父親は──僕の目標、偉大なレーシングドライバー光凌静男。
彼女の母がうちへ遊びに来る時、せりかちゃんをたまに連れて来ていたっけ。僕とは歳も離れていたからあまり相手をしてあげられなかったな。
そういえば一度だけ動物園に連れて行ったこともあったっけ。だんだん記憶が蘇ってきたぞ。
だけどある日を境に疎遠になってしまった。
光凌選手の死だ。
レースのため海外に行っていた時、街中の暴動に巻き込まれて亡くなった。
せりかちゃんはその後母親の実家に引越し、疎遠になったんだ。
「それでですねお兄さん!」
「うん、どうしたの?」
「カート、まだやっているんですか?」
なんでそんなことを知っているんだ? 僕がカートを始めたのはせりかちゃんが引っ越した後だ。
母親にでも聞いたのだろうか。うちの母さんもたまに電話していたようだし。
「もうやってないよ」
「じゃあそれは?」
「あー、もう必要無いからショップに──」
「必要ないの!? いらないの!?」
なにやら嬉しそうに顔を寄せてくる。あまりのプレッシャーに後ずさりしてしまった。
「いやそうじゃなくて……そうなんだけど……うーん」
「だ、だったら私に譲ってもらえませんか!」
輝いている目をさらに輝かせて訴えかけてきている。こいつが欲しいってことか。
「えっとせりかちゃん」
「なんでしょう!」
なんだろうこの元気。どこから湧いてくるものなんだ。
若さ……じゃないよな。僕だってまだ若いし、体力面ではそこそこ自信がある。
だけどそういうのとはベクトルの違う元気だ。無駄元気と言ってもいい。
その有り余る元気をカートにぶつけようというのか。なかなか面白い……が、カートを譲るには色々と条件がある。
「それで、カート経験は?」
「ないです!」
当たり前のように言い切られた。だがこれで条件から外れてしまった。
「じゃあこのカートはちょっと譲れないかな」
「なんでですか!」
無駄に元気がよすぎてけたたましい。
「せりかちゃんは本気でカートをやりたいの?」
「当たり前です!」
力強い表情だ。後でどうなるかはともかく、今はやる気満々といったところか。
しかしこれでさらに条件から外れることになる。
「だったら尚更これは譲れないよ」
「だからなんでですか!」
大興奮だ。ちゃんと話ができるような状況ではなさそうだ。
「えーっと、ちょっと落ち着いて話そうか」
「あ、その……すみません」
途端にしゅんとしてしまった。相変わらず喜怒哀楽がはっきりしている子だな。
「まあいいよ。説明すると、本気でカートをやりたい初心者に中古のカートは譲りたくないんだよ」
「どうしてですか?」
「カートっていうのはヘタりやすいんだ。だから乗り手のクセがどうしてもフレームについてしまうんだよ」
「えーっと……」
「わかってくれた?」
「ふれーむってなんですか?」
きょとんとした顔で聞き返されてしまった。初心者にはわからないことか。
「フレームっていうのはこのパイプでできた車体のことだよ」
たかがパイプを溶接しただけの代物。どこの何を使ったところで変わりがないように見える。
だがシンプルだからこそ大きな差ができたりもする。それがカートのフレームだ。
「なんでクセがついているといけないんですか?」
「初心者のうちはまずクセのついてないフレームの感覚を体に教えたほうがいいんだ。そうすることで自分なりの走りを見つけることができるからね」
「クセがついているので走ると、そのクセが普通に感じてしまう、みたいな?」
「そうそう。そういうことなんだよ」
「あなた色に染まりますってこと?」
「激しく勘違いを誘う言葉だね、それは」
語弊を招きそうだが、実際そんな感じだ。前の持ち主のクセが残ったマシンだと、どうしても同じような走りをしないとしっくりこなかったりするようになる。
きちんとしたマシンの動きを知っていれば、それを理解したうえで走ることができるから初心者は新品を買ったほうがいい。
「えーっと、新品のフレームっていくらくらいするんですか?」
「そうだねぇ、大体30万から60万くらいは見ておけばいいかな」
「そ、そんなに!?」
驚きのあまり、あれだけ詰め寄っていた僕との距離が一気に遠退いた。普通のリアクションだな、こんなただの鉄パイプにこの金額は。
「それだけじゃないよ。他にもエンジンやスプロケ、チェーンにタイヤ……」
「す、ストップ! そんなに覚えられません! ……大体全部でいくらくらいですか?」
一気に言われて頭がオーバーフローしてしまったようだ。
「エンジンは中古でもいいとして、うーん……予備パーツを含めて100万は見ておいたほうがいいかな」
「そ、そんなの無理ですぅ!」
だよなぁ。子供のおこづかいでどうこうできるような額じゃない。
絶望しているせりかちゃんには酷だが、始める前にちゃんと理解してもらわないと困る。
最近だと全部セットになっていてそこそこお手ごろで買えるものもある。だけど本格的にやりたいというならば、きっちりと最初にお金をかけたほうが後々いい。
しかもカートというやつは実に厄介で、9割以上が使い捨ての消耗品だ。残りの1割なんてカートを乗せるスタンドやタイヤをまとめるホルダーみたいな無くてもなんとかなるものだけ。
「それだけじゃないよ。他に保管場所も必要だし、サーキットに持って行く手段も考えないといけないからね」
「保管……手段……」
「簡単なのはガレージを借りることかな。そこにトラックとかを置いて積みっぱなしにするんだ。整備するときに降ろせばいいし……そうだ、工具も揃えないといけないね」
「そ、そこをどうにか!」
「いや、どうにかって僕に言われてもね……」
がっしりとシャツを掴まれてしまった。これはてこどころか牽引車でも動きそうにない。
まあでも今は少しでも手持ちが欲しいところだし、この際いいか。
「わかったよ。じゃあ譲ってあげるよ」
「ほ、本当ですか!」
せりかちゃんは僕のシャツから手を離すと、拝むようにして僕をうれしそうに見上げる。なんか良かったのか悪かったのか複雑な気分にさせられる。
「うーん、とりあえずいくらなら出せる?」
「え……は?」
せりかちゃんの笑顔は一瞬で固まった。
「一応こっちで要望する金額聞いておく?」
「ゆ、譲ってくれるんじゃなかったんですか!」
「さすがにタダじゃ無理だよ」
「だ、だってもういらないって……」
「いらないからショップに頼んで仲介してもらおうとしていたんだ」
「そんなぁ……」
一気にしおれてしまった。それなりに高額なものだ。タダで譲ってもらえるほど世の中は甘くないということがわかってもらえればいい。
それにしても随分とがっかりしているものだ。
「なんでそこまでカートをやりたいの?」
「私……見たんです」
「な、何を?」
自分は知っているんだぞ、と言っているような表情で僕を見ている。
ひょっとして何か弱味を……なんてことはないだろうが、昔の僕は何かやったのだろうか。
「小さな女の子が、カートで大人の男性に勝ったところを」
ああそっちなのか。僕のことじゃなくて少し安心した。
きっと練習走行だろう。レースでは規定重量があり、それ以下だとウエイトを積まないといけないが、フリー走行では別にそんな規定は無い。
カート用の100 c c エンジンは非力な分、体重差が顕著に現れる。だからウエイトを積まなければ小さくて軽い方が圧倒的に有利となる。
でもレースはマシンさえ同じならば技術と才能の差。当然子供でも大人に充分勝つことができるんだ。
「大人の男性に勝ちたいってことかな」
「え? えっと……そ、そうじゃないです」
「あれ?」
話の流れからするとそうなるのだが、首を振るせりかちゃんはそうでないと言っている。
「じゃあなんで?」
「勝った女の子にね、手を振ったんだよ。そしたら無視されて……そんでもうムキーってなって、絶対にギャフンと言わせてやるんだって!」
「あ、あはははは」
思い出し怒りで地面を踏みつけるせりかちゃんに対して笑いがこみあげた。
「笑いごとじゃないですよ!」
第三者からしたら笑いごとでしかない。そんな志で大丈夫とは思えないんだが、意外とそういう人間のほうが長く続いたりもする。
「わかったわかった。多少の値引きなら応じるからさ、少しの間待ってるよ」
「ほ、本当ですか!」
「ほんとほんと。だからもうお帰り」
「ありがとうございます! また来まーす!」
頭を思い切り下げ一礼し、手を大きく振り走り去って行った。
しかしあのせりかちゃんがねぇ。これは面白くなりそうだ。
○
『あ、あの……』
突然鳴ったインターホン。モニターを確認したら少女が1人いた。
「ああえっと、せりかちゃん?」
『は、はい! せりかです!』
「ちょっと待ってね。今玄関を開けるから」
僕は急いで玄関に行きドアを開けた。
「それで今日はどうしたの?」
以前彼女が来てからまだ3日くらいしか経過していない。親が納得するには少々早すぎるとは思う。
特にこれはモータースポーツ……レースだ。直接ではないといえ、自分の夫の命を奪ったものだ。娘が同じ道を進もうとすることにいい顔をするとは思えない。
「えっと……、試し乗りってさせてもらえますか!」
「ん? ああ試乗したいのか」
「は、はい。是非!」
カートとしては格安でも、決して安い買い物ではない。ならば買う前に試したいというのは当然のことだ。
「いいけど、交通費は実費でいいかな?」
「え……どれくらいですか?」
「高速代と車のガソリン代くらいは必要かな」
「そ、そうですか……」
「本来だったら燃料と2ストオイル代ももらうところなんだけど、使えるのがあるからそれはサービスしておくよ」
「あ、ありがとうございます……」
「あとコースの使用料もかかるからね。初心者用の時間だと短いけど安いから」
「は……はうあう」
試乗だけでそれだけかかると聞いて目を回してしまったようだ。
カートというものはとにかく金がかかる。子供がちょっと遊びで程度でやれるものではない。厳しいかもしれないが、ここはそういう世界なんだ。
母さんの友人の娘さんだから出してあげたいところだけど、僕もそこまで余裕は無いし……。
「あとね」
「ま、まだある感じなんですか?」
猫の前にいるリスのように怯えてしまっている。これ以上は勘弁してくださいと言わんばかりの表情だ。だけど全部必要なことだ。
「走行に必要な格好は長袖長ズボン。あとグローブとヘルメットね。ヘルメットはフルフェイスがいいかな。無かったらせめてバイザーがついているやつね」
「え……えうぅ」
覚えきれないといった感じの、困った表情になってしまった。仕方ないのでとりあえず必要なものを簡単に紙に書く。
「上下はなんでもいいよ、トレーナーやジャージでも。グローブも軍手でいいからね」
書き終わり紙を渡すと、せりかちゃんは頭をぺこりと下げた。
若い子がカートに興味を持ち、始めてくれることは大歓迎だ。だけど色々厳しい世界である以上、それを教える必要もある。
「それで、いつがいいかな?」
「あの! それじゃ明日……明日で大丈夫ですか!」
思い切った表情で訴えるように言ってきた。なかなか唐突な子だ。
「明日? いいけど学校はいいの? 平日だよね」
「ま、まだ夏休みだから大丈夫です!」
そういえばまだ8月だったか。
何故夏休みなのに制服を着ているのかはさておき、僕も今は特に忙しいわけでもない。逆に遠い日付を指定され、その日に重要な予定が入るよりはマシだ。
「でも確かせりかちゃん引っ越したんだよね? 近所ってわけでもなさそうだけど」
「あの、あれからまた引っ越したんです! 今は世田谷区です!」
「なんだ隣の区じゃないか。歩いてきたの?」
「えっと、逆側の端なんでちょっと遠いかな……」
東京生まれだけど全然わからないが、世田谷区は広いから端から端までは遠そうだ。だけど以前とは比べ物にならないくらい近いのはわかる。
「そうだったんだ。でもうちに来たりはないよね」
「なんか実は近くに住んでましたーみたいな感じで驚かせたいんだって。だから秘密にしておいてもらえると助かります!」
普通なら引っ越す前に教えるものだけど……いや、あの人の性格ならそうかも。
とにかく人を驚かせたりするのが好きだからな。まあ付き合ってやるか。
「じゃあ引っ越してきたのは最近?」
「私が中学に入る頃だから、2年半くらいだと思います」
「……随分長いサプライズだね」
「多分驚かせることを忘れてるんだと思います……」
携帯やスマホ、PCがあればいつでも話したり連絡できる。そのせいで会った気になり、直接顔を合わせることを忘れるなんてよくあることだ。
「まあいいや。わかった、明日の9時にここでいいかな」
「はい! ありがとうございます!」
少し嬉しそうな顔をし、足早に去って行った。
それじゃあとりあえず子供の頃使っていたシートに交換しておこうかな。
○
「おはようございまぁす!」
カートを車の屋根に固定し終えたところで、元気いっぱいな声が響き渡り振り向いたらせりかちゃんがいた。
せりかちゃんはいかにも学校指定と言わんばかりのジャージと体操服だ。上着の袖を腰で縛り、長袖もちゃんと準備してきたことをアピールしている。
「おはよう。じゃあ早速行こうか」
「はい!」
朝から元気のいい子だ。
せりかちゃんを助手席に乗せ、早速車を走らせる。
しかし元気がいいのは最初だけ。助手席で緊張していた体と心はやがて耐え切れなくなり、張り詰めた糸がほつれ眠ってしまった。
────そういえばせりかちゃんと初めて出かけた時もこうだったな。
彼女の母親が風邪を引いて寝込んでしまった。うちの母さんが手伝いに行かないといけないほど調子が悪く、僕も一緒について行った。
そして家に着いたとき、凄い音がした。
音の原因を突き止めようとして慌ててドアを開けるとすぐに判明した。玄関で大泣きしていたせりかちゃんだ。
なんでもその日は動物園に行く予定だったらしいんだが、一緒に行くはずだった彼女の母親が倒れてしまい、ふいになってしまったんだ。
ただ単に動物園へ行けないだけならぶーたれていれば済んだが、『母親が倒れた』『動物園に行けない』と2つのことが起こりパニックを起こし泣いてしまったんだ。
その2つを解消してあげる方法。それはうちの母さんがせりかちゃんの母親を看病しつつ家の仕事をし、僕がせりかちゃんを動物園に連れて行くことだった。
お母さんも大丈夫だし、動物園に行ける。せりかちゃんはとてもうれしそうに出かけたんだ。
だけど動物園に行くことで興奮していて前日ロクに眠れなかったらしく、行きの電車で眠っていたっけ。
今でも変わらないんだな、せりかちゃん。
●
「着いたよ」
「ふぁ……ああ……あっ! す、すみません!」
「あはは、いいよ。移動中は退屈だもんね」
「あ、あれ? ここ、ここ!」
車から降りたせりかちゃんは突然叫んだ。
「どうしたの?」
「ここですよ! 私が来たところ!」
「そういえばカート見たって言ってたね。ここだったのか」
「はい! 間違いありません!」
「まあそれはいいや。とりあえず受付を済ませようか」
「あ、はい!」
せりかちゃんを連れ、事務所があるクラブハウスへ行く。受付の人が僕らが入って来たのに気付いた。
「いらっしゃ……あっ、内淵選手じゃないですか!」
「こんにちは。ご無沙汰してます」
「今日はどうしたんですか?」
「この子が僕のカートを欲しいらしくてね。試乗させようかと思っているんだ」
「へぇ。きみは見たことないけど、カートは初めて?」
「は、はい! よろしくお願いします!」
「見たところ未成年だけど保護者は……内淵選手が一緒だから大丈夫か。じゃあこれに記入してね」
せりかちゃんは差し出された用紙に黙々と記入していく。タイム計測ができるラップコムは初心者には不要だから借りないでおこう。
そして時間も無いことだし、早々にクラブハウスを出る。
「あ、あの!」
「ん? どうしたの?」
せりかちゃんが僕の裾を摘んで足を止めさせた。
「お兄さんって有名なんですか?」
「まあそれなりにね」
カートをやっていれば僕の名前は大抵知ることになるだろうが、一般人相手ではそんなものだ。一気に現実へ戻った気がして少し寂しくもある。
「まずこっちに来て」
「はい!」
クラブハウスの横に階段があり、そこを登ればコース全体を見渡せる。僕はせりかちゃんを連れて登った。
「あの、ここでどうするんですか?」
「そろそろ終わりの時間だからね。あっ、見てごらん」
ピットへ戻ろうとするカートを僕が指差すと、せりかちゃんはそちらを見た。
「今手を上げている人ですか?」
「そうそう。ピットはあそこから入って戻るんだよ。その際にはああやって手を上げて」
「ピット?」
「えーっと、ピットはマシンを止めるところのことだね。そこを通る道はピットロード」
「わかりました!」
光凌選手の娘だからといってサーキットのことを知っているわけじゃないんだな。その他走行に必要なことをせりかちゃんに説明する。
ホームストレートから高速コーナー。少しの直線があって第1 ヘアピン。そこから中速コーナーを抜け、バックストレート。2つめの高速コーナーから第2 ヘアピン、中速コーナー、最終ヘアピン。クランクを通過してホームストレートへ。
全長1キロ近くあるが、ブレーキポイントはヘアピン手前の3カ所だけというハイスピードコースだ。
絶対に踏まなければいけない点だけわかっていれば、後は適当に走っていても問題ない。
「じゃあ早速始めようか」
「えっ、あ、はい!」
「その前に軽く1周走ってくるよ」
「はい! 宜しくお願いします!」
ハンドルとシートの後ろを掴み、押し掛けをする。軽く排気音がしたらシートの後ろにあるアクセルヘルパーを握り回転を上げる。マシン自らが進む感じになったら素早く乗り込み、アクセルをあおる。ぐっ……さすがにきついな。
子供の頃といってもある程度体ができてきた中学の頃のシートだ。今でも乗れるだろうと思っていたが、腰骨をかなりしめつけてくる。
1周目はタイヤを温め、2周目に少し速度を上げる。細かい調整は……いいか。とりあえずエンジンが途中で不調にならない程度に開いていれば。
体勢的に全開で走ることはできないが、初心者が乗るんだしそれなりで大丈夫だろう。
「ほいただいま」
「お、おかえりなさい」
さっきまでの元気そうな姿と違い、縮こまった印象を受けた。
「どうしたの?」
「え、えっと、ちょっと……」
いざ自分の番になって少し怖気ついたのだろう。
「ちょっと震えてるけど大丈夫?」
「大丈夫です! 無茶震いです!」
無茶……? まあいいか。
「メットをかぶる前にこれを付けて」
「これはなんですか?」
「これは咽喉マイクといって、喉の振動から直接声を拾えるものだよ。んでこっちは骨伝導スピーカー。骨から音を伝えられるからどんな騒音でも聞こえるからね」
「へぇー……ハイテクですね!」
せりかちゃんはしげしげとそれらを眺め、装着。そしてゆっくりとメットをかぶった。
「あ、ちょっと待っててね」
「はい」
乗せる前に少し細工をしておく。ブレーキを奥まで踏めないようにし、高速時のパニックブレーキによるロックを防ぐためだ。だけどあまり効かなすぎてもよくないから、低速時にはロックする程度には残しておく。
「これでOK。一回座ってみようか」
せりかちゃんは恐る恐るカートの上に乗り、すとんとシートに落ちた。
「あ、あの、お兄さん」
「ん? どうかした?」
「足が……届かないです……」
足をがんばって伸ばし、足先をぱたぱたさせている。
「もっと腰を前にして座ってごらん」
「こ、こうですか?」
せりかちゃんは腰をもぞもぞと動かし、ペダルに足が届くようずらした。
「そうそう。カートのシートは面じゃなく、お尻と背中の2点で座るんだよ」
「け、けっこうつらいですね」
「慣れだよ慣れ。これで走れるようにならないと」
「うぅーっ」
慣れない体勢のまま、静止状態のカートの上でハンドルやペダルの具合を確かめている。
暫くそれをやったところで納得いったのか、軽く頷いた。準備OKなのだろう。
「とりあえず好きに走っておいで」
「えっと、そのー……何かアドバイス的なものを……」
初めて乗るから色々と不安なんだろう。さっきから様子がおかしかったのはそのせいか。
「あー、そうだねぇ。最初はゆっくりでいいから、とにかくブレーキがどんなものかを知っておいたほうがいいかな」
「ブレーキですか」
「踏みすぎても踏まなすぎても駄目だからね。あとカーブでは絶対に踏まないこと」
「カーブですか?」
「このカートにはブレーキが後ろしか付いてないんだよ。だから曲がっている途中で踏んだらスピンしちゃうよ」
「よくわからないけどわかりました!」
本当にわかったんだかわかっていないんだかわからないが、まあいいか。
「あとはそうだね……ヘアピン手前で減速をしっかりしてね。でも速度を落としすぎたらエンジンも止まっちゃうよ」
「ヘアピン? 髪を留めるやつですよね?」
ううむ、とことん教えないとだめかな。
「そうだね。コース図を見てごらん。ヘアピンみたいに急なカーブを描いているでしょ」
「あっ、こことここと、あとここですね!」
せりかちゃんはコース図を指差しで確認する。
「そうそう。ぐるっと180度戻る感じだね。自転車でも速い速度で急に曲がったら危ないよね。それと一緒だよ」
「わかりました!」
「それと重要なのはここ、コントロールライン。レースだとこれが基準になるからね」
「基準ってどういう基準ですか?」
「うーんとね、スタートラインって言ったほうがいいのかな。ここを通過するとスタートだから基準になるんだよ」
「へー。なんでスタートラインって言わないんですか? そのほうがわかりやすいのに」
「それはここがスタートラインであってゴールラインでもあるからだよ。レースは同じところをぐるぐる回るからここが1周の区切りになるんだ」
「わかりました! 他に覚えることはありますか?」
「あとはそうだね……ここのコントロールラインが書いてある長い直線をホームストレート。ブレーキを踏まずに曲がれるカーブを高速コーナー。ちょっと減速が必要なのが中速コーナーね。ヘアピンは低速コーナーになるから」
「じゃあこのホームストレートの向こう側にある直線はなんていうんですか?」
「それはバックストレートだね。あと鋭角に左右に曲がるのがクランクっていうんだ」
「な、なるほど……」
あとは文字通り左右のカーブが組み合わさっているS字コーナーとかもあるが、あいにくこのコースには無いから省いておこう。
一気に教えすぎたが当のせりかちゃんは……わかっていないのを隠している顔をしている。
でも名称なんて覚えても速くなるわけじゃないし、いつか覚えてくれればいいかな。
「それじゃ走ろうか」
「あ、あの、さっきお兄さんがやったみたいに飛び乗らないといけないんですか?」
押しがけが不安だったのか。確かにあれは少しコツがいる。
「本来ならそうだけど、今回は僕が押してあげるよ。軽くアクセルを踏んでね」
「あ、はい」
せりかちゃんを乗せたカートをエンジンがかかるまで押す。10歩ほど押し進めたところで、マシンから進もうとする感覚を得る。
「アクセル踏んで!」
「は、はい!」
バラバラと音を立て、せりかちゃんはピットロードからコースへ出て行った。
さて、どうなることかな。
まず最初の段階、ハンドルとブレーキに慣れること。でもこれは普段自転車に乗っていればすぐに理解できるようになる。
せりかちゃんはストレートでも速度をあまり出さず、ハンドルを左右に切りどの程度回せばどのくらい曲がるかを確かめる。慣れてきたところで、少しずつ速度を上げる。
それにしても今日はいい日だ。他に初心者もいないし、独占状態で走れる。
だけどせりかちゃんはそんな状況にも拘らず、ホームストレート以外ではアクセルを緩めてしまっている。そろそろ少しカートを学ばせてあげよう。
「じゃあそろそろ少しがんばってみようか」
『は、はい!』
「僕がスタートと言ったところからストップって言うまで、ずっとアクセルを踏みっぱなしにしてごらん」
『えっ、一番奥までですか?』
「そう、一番奥まで」
『……がんばります!』
少し緊張した感じの声だが、やる気はあるようだ。
せりかちゃんは第2 ヘアピンを抜け、中速コーナー。そして最終ヘアピンを抜けたホームストレート直前の位置に来た。
「スタート!」
『はいっ! ……うああぁぁぁっ』
このコースではアクセルを踏んでいればいつまでも加速が続く。モータースポーツが初めての人間は、この速度感に圧倒されるだろう。
さらにそれが直線だけではない。
『く……ふうぅっ』
ホームストレートから高速コーナー。このコースでは初心者でもアクセルを緩めずに曲がることが可能だ。だけど遠心力により普段体験することができないほどの横Gが襲う。シートの縁にあばらを押し付け耐えるなんて普通やらないことだ。
高速コーナーを抜け、ヘアピンよりもずっと手前で少し減速させる。
「ストップ!」
カートは一気に減速し、だらだらとした速度でヘアピンを曲がっていった。
「スタート!」
次はバックストレートからの高速コーナー。さっきと逆方向にGが襲う場面だ。
『ふいいぃぃっ』
悲痛な声がヘッドホンから聞こえる。日常では絶対に味わうことのできない力に襲われ、抗う声だ。
「全開で踏める場所は大体わかったかな?」
『は、はい。なんとか……』
「じゃあそれで暫く走ってみて」
『はい!』
ライン取りはめちゃくちゃ、教えた以外の場所でのアクセルワークも酷い。だけど行ける場所は絶対にアクセルを緩めない。なかなか根性があるな。
『ふぎいぃぃっ』
『うぐいぃぃ』
『ぬぎいぃぃ』
ヘアピンなどの低速コーナーでかかるGは大したことはない。でも中~高速コーナーでかかるGは強烈だ。その中でも一番つらいのはシートに押し付けている脇腹や腰ではなく……首だ。
およそ5キロくらいの頭が3Gで15キロ。それにメットの重さも3倍されて横方向にかかってくるんだ。
────だんだん踏ん張る声が聞こえなくなってきた。それに伴い首がぐらぐらしている。もう1時間か……そろそろ潮時かな。
「もう時間になるから戻っておいで」
『…………ぅ』
聞こえていないわけではないだろう。返事をするのもつらい状態なんだ。
「ちゃんと返事して。戻っておいで!」
『……はい』
消えそうな声で返事をした。一応まだ意識はあるらしく、少しほっとした。
誰も他に走っていなかったからよかったものの、手をあげずにピットロードへ突っ込んでしまう。もう少し早く戻してあげるべきだったか。
ピットのフリースペースに誘導し、突っ込ませ止めさせる。
ヘルメットを取ってやると、目が虚ろで憔悴しきった顔が出てきた。汗で髪が顔に貼り付き、今にも死にそうな感じだ。
「お疲れ様。どうだった?」
「……わからない……」
途中から意識が飛びそうになり、必死にそれを堪えていたんだろう。
「立てる?」
「……ハンドルから……手が離れない……」
初心者ならずともよくあることだ。ずっと目いっぱい握っていたせいで筋肉が強ばり、固まってしまうんだ。手をあげられなかったのはこれのせいかもしれない。
僕は彼女の指を1本1本ハンドルから剥がしてやり、脇を抱えるようにシートから降ろした。
そうすると彼女はよたよた歩き、へたりこんでしまった。
「大丈夫?」
「……わからない……です……」
もう一度彼女を抱きかかえ、椅子に座らせてやる。完全にグロッキーだ。熱がこもらないようジャージの上を脱がせると……ぐっしょりしている。
僕は潰れている少女を尻目に、後片付けを始めた。本来はこういう作業もやらせたほうがいいんだけど、そんな状態ではなさそうだ。
「ほらせりかちゃん。もう帰るよ」
「…………」
「せりかちゃん、せりかちゃん!」
駄目だ、気絶している。
だけど凄いな。疲れたら途中で戻ってくればいいものを、気絶するほどまでに耐えて走り続けるのだから。
●
「────う……あ。あれ、ここは……」
せりかちゃんが声を出したのは、高速を降りて僕の家の近くまで来たときだった。
「おはよう、気が付いた?」
「あれ、えっと、私は?」
少し寝ぼけた感じで力弱く言葉を発した。
「サーキットで気を失っていたんだよ。覚えてない?」
「えっと、その……」
走っている途中からの記憶が飛んでいるのだろう。多分どうやって戻ってきたのかもわかっていない感じだ。
それから家に着くまで、せりかちゃんは黙ったままだった。車を停めても降りようとせず、じっとしていたので助手席のドアを開け手を差し出すと、弱々しく掴みゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫? 家まで送ったほうがいいかな」
「……大丈夫です……ありがとう、ございました……」
ふらふらになりながら歩いて帰るせりかちゃんを見て僕は思った。
もうカートをやりたいと言わないかもしれないな、と。
最初は厳しいくらいが丁度いい。カートをやりたいという人には特に。
何せ他のスポーツと比べ、とにかく金がかかる。子供がやろうというには、確実に親の協力が必要だ。マシンを買うだけではなく、1回走るのに交通費やら走行代、燃料で最低1万。その他にタイヤやチェーンなど消耗品の交換が数回おきにある。
実際に走ってみて今後続ける覚悟がなければ大金を捨てるだけになるし、何よりこれは安全なスポーツとも言い切れない。
でも約束は約束だし、暫く様子を見るかな。
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