ある秋の日のこと √α



 SOS団史を紐解く中で、空白になっている期間がある。

 それは俺たちが一年だった頃のエピソードだが、どこにも記せそうにないのでこの場に書いておこうと思う。


 九月のある日、あの終わらない夏休みをようやく終わらせ、俺は部室で朝比奈茶を優雅に味わっていた。

 部室には全員が揃っていて、すなわち現在パソコンに注意の全てを傾けている団長の涼宮ハルヒ。

 メイド服を着るためにこの世に生を受けたかのごとき妖精、朝比奈みくるさん。

 一瞬見ただけでは等身大の置物にしか見えない読書ドール、長門有希。

 微笑しか表情を知らないようなハンサム野郎、古泉一樹である。

 九月になったとはいえ、風は一向に冷たくならず、夏の熱気だけが絶賛継続中だった。

 夏は嫌いじゃないが、こういつまでもダラダラと続かれるとさすがにバテそうになる。

 俺の周りの四人は全員が暑さを気にしていないような顔をしている。各々自分の趣味に没頭しているからだろうが、何もしていない俺にとっては何だか腹立たしい。

「どうしましたか? 何だかイライラしているように見えますが」

 古泉が一人チェスを中断して俺に呼びかけた。

「別に。することが無いと暇だと思っただけだ」

「おや、先日まで我々は随分切迫した状況に置かれていましたが……あれだけではあなたは不満なのですか?」

 揚げ足を取るようなことを言うな。新学期が始まったのに何も起こらないのが不思議だったんだよ。

「それだけ涼宮さんがあの夏休みに満足したということでしょう。……しばらくは平穏無事な日々が続くと僕は予想していますが」

 お前はハルヒの精神の専門家だったな。そうかい。

 まぁ、それならそれでいいさ。また非日常が炸裂したら、否が応でも俺はそれに巻き込まれるんだろうからな。

「あなたも自分の立ち位置が分かってきたようですね。これで僕の負担も少しは軽減されるというものです」

 さて、ハルヒは今の会話を一切聞いていない。

 ハルヒがネットサーフィンにいそしんでいる間に呼びかけたことは、全てあいつの耳を通り抜けてしまうというのはこれまでの経験から実証済みだ。


 結局その日もここ数日と変わらぬ無為な放課後となり、俺たちは長門の読書終了と終業のチャイムを合図にそれぞれ帰り支度に入った。


「何かイベントがないかと思って探してるんだけど、なかなか見つかんないわね。もっと十二ヶ月全てを行事で満たす努力をしてほしいものだわ」

 コンピ研から強奪してもう三ヶ月以上が経過したパソコンをシャットダウンしつつ、ハルヒは唸った。

 一体誰に対する嘆息なのだろうか。それにしても九月って行事なかったっけ?


 五人で駅前までの長い坂道を下りつつ、しみじみと俺は考えていた。

 そういえばいつから五人での下校が習慣になったのだろう。

 あのクソ忌々しい灰色世界から、不本意なランデブーを終えて何とかこっちに帰り、野球大会を経て七夕を迎える頃にはもうこんな風景が日常になっていた気がする。

 この風景を他人が見たらいったい何と思うだろうか。

 男子二人に女子三人だ。某夏物語のごとく、いびつな人間関係を勝手に妄想されていたりしそうである。


 俺は最後尾からニ番目を歩いていて、今日のしんがりは長門だった。

 ついさっきまで文庫本を読んでいたと思ったのだが、肩をとんとんと叩かれて振り返った時には手に何も持っていなかった。

 仕舞ったんじゃなく消したんじゃないだろうな。

「話がある」

 俺の邪推をよそに、長門はいつもの平坦口調で言った。

「駅前で別れた後、あの公園に来て」

 それだけを言うと、長門は真っすぐ前を見て歩行を継続した。

 しばらく見ていても他に何も言う気配はない。


 さて、何の話だろう。

 長門のほうからコンタクトを図ってくることは、あの新緑の季節にこいつの部屋で聞かされた妄想でもこうはいかないと思うような本当の話だった。

 俺は甚だ疑問に思ったが、紛れもなくそれは真実で、数日後クラスメートに殺されかけたことにより信じないわけにはいかなくなった。

 あの時の映像を脳内でリバイバル上映していると、いつの間にか駅前に来ていた。

「それじゃまた明日ね。ばぁい」

 ハルヒの合図で三々五々に散り、俺たちはそれぞれの家路に着いた。

 俺も初めだけは自宅へ向かうフリをして、適当に時間を置いてから取って返す。あの公園、と言われれば思い当たる場所はひとつしかなく、それは駅前からそう遠くない何の変哲もない憩いの場である。

 この場所はしばしば、俺にとって非日常への入り口となり、今回もまたそうなるのだろうかと怪訝に思いつつ例のベンチに向かった。

 春の夜と同じように、まぁ今は夕方だが、長門有希はそこで姿勢よく座っていた。

 あの時と変わったことと言えば眼鏡が無くなったことと、微妙な表情の変化が見て取れるようになった(気がする)ことくらいである。

「待たせた……わけでもないか」

 長門は俺を見上げた。

「家。くる?」

 と、いうことは、また長い話があるのか?

 長門はしばし迷うような、少しためらうような間を置いて、

「三ヶ月後」

 と言った。

 はて、三ヶ月後がどうしたのだろう。

 今が九月なので、三ヶ月後は当然十二月だ。年の瀬である。

「そこでわたしは世界を作り変える」

 …………俺は絶句してしまった。意味が分からない。世界を作り変えるって何だ?

 ハルヒがまた何か引き起こすってことか? それなら分からんでもない。どうせあいつが静かなのは今のうちだろうし、遠からず何かやらかすことは……大人版朝比奈さんの言葉を借りれば、ほとんど既定事項だ。

「そうではない」

 長門は答える。

 もともと笑ったりはしないが、こいつの表情はいつになく真摯なものに見えた。

「世界を作り変える……だって? ってどういう意味なんだ? わたしが、って、長門。お前がそんなことするのか?」

 疑問符だらけの俺を通して宇宙の果てを見ているようなまなざしで、長門は続ける。

「三ヶ月後の十二月十八日午前四時二十分、わたしは涼宮ハルヒの力を使ってこの世界そのものを変化させる」

 呆気に取られる俺をよそに、長門は説明を開始した。

「この春以降、わたしの中にエラーデータが蓄積し始めている。それはわたしの内部に留まり、処理しきれない情報の残滓。わたしの力ではどうにもできず、また情報統合思念体にバグを除去してもらうことも不可能。そのエラーが規定値を超えた時、わたしは異常動作を起こす。それは不可避の現象、止めることはできない」

 長門は十二月十八日に何が起こるのかについて、それからしばらく俺に聞かせた。

 信じがたい内容ばかりで、俺は愕然とした。

 そこでは俺一人を取り残して、周囲の環境がすべて変化してしまうという。

 ハルヒと古泉は他校の光陽園に行ってしまい、長門は宇宙人属性を失ってしまう。

 朝比奈さんや鶴屋さんは全くの他人となり、俺の後ろの席には……。

 他の人の口から聞けばまるっきりよく出来た冗談にしか聞こえないような話だが、長門有希は今まで一度も嘘や冗談を言ったことがなかった。

 俺は下肢から力が抜けていくような無力感に襲われた。

 今ですらこんななのだから、何も知らず実際に当日になった時のショックは計り知れないだろう。

「誰にも止めることができないって言ったな。それ、お前の親玉は知ってるのか?」

 無限と思えるような沈黙の後に、不完全ながら我を取り戻した俺は、自分の血圧が半分になったような心持ちで言った。

「統合思念体はすべてを分かっている。その上でわたしを当該時空まで滞在させる決断を下した」

 俺はその言葉に引っかかりを覚えた。……当該時空までってどういうことだ?

「そこから先のわたし、異時間同位体であるわたしと同期が取れない――」

 長門は言った。俺には2ミリほどうつむいたように見えた。

「わたしはその後に統合思念体によって存在を抹消される可能性がある」

 俺は今日最大のショックを受けた。何だって? 長門がいなくなる?

「可能性は高い。わたしはその日に統合思念体の存在をも消してしまう。そのような端末を以降も留めておく事は危険」

 食い下がるように俺は質問を返す。認められるか。

「統合思念体も消してしまうなら、長門……お前は消されないんじゃないのか?」

「統合思念体は三日の後に存在が復活する。なぜなのかはわたしには分からない。以降の時空とは連結が断絶している」

 そんな話があるか。どうして親玉は復活できて長門は消されなきゃならない? 朝倉と同じか? その三日間とやらにももう一度俺を襲うらしい、過去と未来の殺人未遂犯。あいつと同じで、自分たちに不都合な動作をしたらすぐに消去するってことか? 身勝手なのはどっちだ。こいつの意思は無関係か。

「お前……いつからこのことを知っていたんだ」

 長門は顔をこちらに向けずに答えた。

「三年前、あなたが最初にわたしの前に現れた時から」

 俺は心臓の温度がなくなったように感じた。

 あの時か。同期。未来の自分との交信。

 そこで長門はこの冬までの自分の運命を知ってしまったのだ。ハルヒと出会ってからこっち、閉鎖空間、野球、七夕、孤島にカマドウマ、桁の壊れた夏休み。そしてこれから起こるいくつかの出来事を経て、三ヶ月後……。

「あなたに知らせておきたかった」

 長門は言った。視線を固定したままで。

 こいつが自分の意思を表明することなど滅多にない。今まで、俺たちがのん気に日々を過ごす中で、こいつは苦しんでいたのか?

 言動にこそ感情がないが、だからといって内面までそうだと決め付けるのは早計だ。それは、今まで潜り抜けてきた経験のひとつひとつから、分かりはじめている事だった。

 こいつは自分なりに悩んでいた。だから相談相手に俺を選んだ。

 だとすれば……。

「何か、俺たちに出来ることはないのか?」

 自分でも驚くほど熱のこもった言葉だった。気がつけば両の拳を握り締めて、血圧が元に戻っていた。それどころか、倍になっている気すらした。

 何か、できるはずだ。

 これまでだって不器用ながら俺たちはそれぞれが自分のできることをやって、ハルヒが起こしたあれやこれを解決してきたんだ。今度だってできることはきっとある。そう信じたい。

 俺は長門の言葉を待った。

 長門は何かためらうように、しばらく黙っていた。

 やがて、

「わたしは改変した世界に、ひとつだけ全てを元に戻す鍵を隠す」

 咄嗟には意味を図りかねる言葉に戸惑う俺のほうを見ないように、長門は続ける。

「あなたがそれを見つければ、今まで通りの日常に戻ることができるかもしれない。時間は限られている。チャンスは一度」

 続く言葉はなかった。鍵って何だ。宇宙製の金属か何かか。

「鍵は当日のわたしが無作為に設定するもの。試行パターンは幾つも存在する」

「見つけられなかったらどうなるんだ」

「未来が変わるだろう。そしてそれは元に戻らない」

 …………

 それが全て俺の手に懸かっているのか? いくらなんでも重すぎるぜ。お前や古泉や朝比奈さんと力を合わせてならまだしも、俺一人の力でそんなことができるのか。

「あなたなら」

 長門はここでやっと俺のほうを見た。

 そこには誰が見てもはっきりと分かるほどの強い意思が表れていた。

「きっと」

 話はそれで全てらしかった。

 俺は陽がすっかり落ちるまで考え込み、その間ずっと長門は隣にいた。

「わかったよ」

 俺は言った。久しぶりに言葉を発したような、ぎこちない感触だった。

「心構えが本当にできたのか、まだ自信はないけどな。お前が話してくれたことに感謝するよ。ありがとうな」

 長門は一瞬だけ、小さく口を開いて何か言いそうになった。

 それから考え直したようにいつもの表情に戻り、言った。

「最後にひとつ」

「何だ?」

「手を出して」

「こうか?」

 何をするのだろう。握手か? 別れの挨拶じゃあるまいし、そんな必要はないだろう。

 長門は音も立てず俺の近くに来ると、両手で俺の右腕をつかんで、口元を寄せ――、


 ………………


 ………………


 俺は目が覚めた。授業中だ。すっかり寝入ってしまっていた。

 教壇では吉崎教諭が呪文のような方程式の解説を長々と続けている。授業終了五分前だ。ここまで起こされなかったのは幸運だったな。

 今日はこれで放課後だ。

 俺は後ろの席を見た。ハルヒは何やらノートに走り書きをしては頭を掻いている。まるで締め切り間近の作家である。

「おい」

「何よ」

 ハルヒは眉を逆ハの字にして、上目で俺を睨んだ。おぉ恐いねぇ。

「その後何か行事は見つかったか? 最近お前があんまり静かだから、退屈で昼もよく眠れるんだよ」

 ハルヒはむっという表情を作った後に、すぐさま不気味な笑みを浮かべた。

 さて、これでわざわざ未来の後悔の種を蒔いてしまったのかもしれん。


 放課後になると俺は早速と部室へ向かった。

 帰りのHRの間にハルヒは俺の肩を鷲づかみにして久々に百ワットの笑みを見せた。

 この後何が起こるのやら、剣呑剣呑。

「よう」

 俺はただ一人の先客に声をかけた。

「……」

 長門有希は何も言わずに一瞬だけこちらのほうを向くと、すぐまた読書に戻った。こいつも変わらないね。

 窓の外は気持ちのいい天気であるが、まだ秋晴れと言うにはちと暑い。

 まもなく朝比奈さんと古泉もやって来て、さらに足音高く団長が何かを宣言しにやって来ることだろう。それまでつかの間の平穏を楽しんでおくか。


 ――風が吹いた。一吹きであるが、どこから吹いたのか分からない、乾いた風。

 窓辺の少女は、顔を上げて遠くを見た。

 何か思うように、数秒間そのまま空を見て、やがてまた読書に戻った。


 ある秋の日の話――



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