こんなのは認めない!

「だ、だいじょうぶ⁉」

 仰向けに倒れている俺の顔に覆い被さるように、幼い少女の顔があった。

 ここは京都府の南端に位置する南山城村みなみやましろむら。隣は奈良市の最奥で、かつての柳生藩、他に三重県(伊賀市)、滋賀県(甲賀市)と併せて三県と接している。甲賀者こうがもの伊賀者いがもの、柳生氏という三勢力に囲まれていた土地だ。ちなみに伊賀者いがものの多くは現在の伊賀市に住んでいたけど上忍の三家、藤林氏、服部氏、百地氏の住処はその南隣、探偵としてよりも探偵小説家として知られる江戸川乱歩氏(先祖はしのびでなく武士)の生誕地、名張市なばりし(古語『なばり』に由来)だ。

 あの時、俺のいた場所は南山城村の南部の山中だった。深さ数十メートルの峡谷の底に名張川なばりがわが流れている。谷の上には府県道(京都府道、奈良県道、三重県道を兼ねる)82号線が谷に沿って迂曲している。交通量は一時間に数台程度。

 ―― 決して道から逸れてはいけない。 ――

 それはこの場所に限らない。日本中の山について言えるが、山は知らない人が思うより遥かに恐ろしい。もちろん登山道など人が通る道は別だが、道なき道に入れば中々進まない上にすぐに方向感覚が狂う。同じ場所をグルグル回る、という冗談みたいなことが簡単に起こるのだ。国道からわずか二〇〜三〇メートル離れた場所で遭難という事例が実際にある。

 そんな場所、府県道から少し離れた茂みで俺は、満身創痍で倒れていた。草むらを掻き分けて俺の近くに来たのは当時の俺と年の近い少女。全身傷だらけの俺を見て驚いている。

「けががいっぱい、いたそう!」

「だいじょうぶ。このくらいおれはへいきだ。それより、こんなところにきたらあぶないぞ」

 俺の姿を見て痛そうに感じた少女は目に涙を浮かべていた。だけど俺は強がって答える。逆に俺が少女に注意する。

 この時の俺は確か七歳。早く強くなりたかった。もう妹との実力に差がなくなっていた。だから焦って強がっていたんだと思う。

 ここは、東京に移住した藤林氏の本流(直系)から、幕末に分岐した傍流の我が一族が譲り受けた修行の場。俺にとっては庭のようなものだ。近くの山中には一族の隠れ家、人海戦術でも軍事衛星でも発見が困難な秘密の拠点もあった。

「スズ、一人でこんなところに入っちゃ危ないだろう」

 そう言ってやって来たのは、当時の俺より少し年上の少年。

「早くこっちに戻って、って、えええ! 何だ?」

 俺に気付いてびっくりした少年は、急いで俺の元に来た。

「救急車を呼ばないと!」

「よばなくていい」

「でも、こんな怪我」

 どうして救急車を呼んじゃいけないのか? 自分なりに理由を考える。

「シノビは、きゅーきゅーしゃにはのらないのだ」

 多分、修行中に医療機関に頼るのが格好悪いと思っていたんだろう。

「おにいちゃん、このこ、ニンジャだ!」

「そんなわけないだろ」

 自分の存在を否定された俺は地味に傷付いた。怪我は、頭部のダメージなど見た目や自覚以上に深刻なケースもある。一方で血と泥で汚れ、衣服のあちこちが破れると、実際以上に大怪我しているように見える。この時の俺の状態はまさに後者だった。近くにいるはずの俺の両親も、それを分かっていて俺が戻ってくるまで放置していたのだろう。

 俺は弱々しく腹をさする。

「おなかいたいの?」

「ううん、はらへった」

「わかった。べんとーをもってくる」

 少女はそう言って去っていくと、暫くしてサンドイッチの入ったバスケットとペットボトルを持ってきた。俺はジュースで喉を潤してから、サンドイッチを一気に平らげた。その食欲に兄妹が驚く。救急車を拒否して食事を断らないなんて変な話だが、食欲に負けた俺は気にならなかった。

 空腹を満たしてあっさり元気になった俺は、持ち歩いている消毒液を全身の擦り傷に塗る。『余裕のある時は衛生に気を配れ』とは我が家の家訓。『もっとも、実戦では余裕のあることは少ないが』とも両親に言われたが、俺にはまだ実感が湧かなかった。

「いのちびろいした。おまえたち、このおんはかならずかえす」

「別にいいよ。ぼくはトシ、六年生だ。こっちは妹のスズ」

「おれはちひろ、にねんせいだ」

「スズもにねんせいなの!」

「ではトシとスズに、おれがシノビであるあかしをみせる」

 両手を開いて何もないことを示すと、両腕の袖に隠した六本の苦無くないを近くの一本の木に次々と投げ付け、刺さった苦無を梯子のように足掛かりにして、木を垂直に駆け登る。苦無は俺の体重を支えられるほど深く刺さっていないから、素早く駆け登るのがミソだ。

 ちなみに素人には苦無くないと棒手裏剣の違いが分からない人が多いようだが、棒手裏剣は言わば投げナイフなのに対して、苦無くないは穴を掘ったり杭として打ち込む、武器でなく道具だ。もっとも、武器・道具を区別せず本来の用途以外でも様々な使い方に応用できることこそが、優秀なしのびの条件だけど。

 俺は木の幹を登り切るとジャンプ、空中で縦回転して、そのまま着地した。

「すごいすごい! ほんとにニンジャだ!」

 如何いかにもしのびらしい技に、二人は驚いていた。これは奥義でも何でもないから見せていい、というより見せるための技。かつて大名に仕えようとする際に披露した、見た目が派手で実用的でない『見せ技』だ。俺はすぐに『トシくん』と『スズちゃん』と仲良くなり、一緒に遊んだ。二人は隣の鼓囃子こばやし小学校に通っていたことが分かった。大阪府内に千以上も小学校がある中、同じ街の隣の学校というのはかなりの偶然だ。

 三人で遊んでいる間に彼らの両親がやってきた。いつまで経っても戻ってこないので心配して探しに来たのだが、俺を見て顔色を変えた。その道は深い峡谷に沿って十数キロも続く自動車道だ。特にその場所は前後三キロメートルほどは分岐のない一本道で、途中に人家も一件もなかった。山と谷以外は何もない。時折、自動車だけが通り、歩行者どころか自転車もまったく通らない。兄妹の母親のように車酔いでも起こらない限り、車を停めるような場所でもなかった。そんな場所に七歳の子どもが一人でいたのだ。

「ボク、お父さんとお母さんは?」

「とうさんとかあさん、いもうとのゆうこはあっちだ」

 修行中の家族について山の中を指差すと、二人の大人は青ざめる。

「もしかして一家心中なの?」

「とりあえず警察に連れて行こう。キミ、車に乗りなさい」

「いや、サボりすぎた。そろそろもどらねば」

「待ちなさい!」

 山に入ろうとする俺に、後ろから声が掛かる。俺は振り向いて言った。

「わがいちぞくはまいとし、ここでしゅぎょーする」

「毎年……ここで?」

 大人たちは驚いていた。

「またあおう。さらばだ」

 別れの言葉を告げると、俺は振り返らなかった。

 そして両親の元に戻り、 ―― 修行をさぼったから叱られたわけだが、 ――

 またいつか逢えるかな、と俺は漠然と思った。


 たった一日の出逢い。だけど、とても大切な想い出。スズという女の子の名前は覚えていたから凪良さんの名前を知った時、もしかしたら、と思った。でも確信はなかった。しかし兄の名前がトシ、四歳年上、二人は大阪市立鼓囃子こばやし小学校の出身。間違いない。あの時の兄妹だ。

 それきり縁がなくなり、学校や修行の日々の中、いつしか俺は二人のことを ―― 薄情にも ―― 忘れていく。それでも時には思い出し、逢いたい、そう思った。

 半日にも満たない付き合いで、スズちゃんは思い遣りのある、優しいだと思った。他人を騙したりする、そんな人のはずがない、そんなことがあってはならない。

 今でも、倒れていた俺の顔を心配そうに覗き込むスズちゃんの表情が鮮明に浮かぶ。

 ほら、こんな感じに……




 俺の顔を覗き込む、不安そうな表情。

「スズちゃん」

「えっ?」

 俺の言葉に彼女が驚く。目の前にいるのは凪良さん。ぼんやりした頭が、次第に鮮明になっていく。自分が床に倒れていることに気付いた。

「俺は……?」

「気絶していたわ。一〇秒ほど」

 状況把握。ここはカルト教団『救世ぐぜのひかり』本部ビル一〇階。教団のトップ、凪良 鈴と戦闘中。

 かがんでいた凪良さんが上体を上げ、俺から離れる。その時になって、俺のすぐ前にある黒い腕に気付いた。真横に腕を伸ばしていた黒服の少女が、膝立ちの姿勢から立ち上がる。

「グアリム?」

 俺の中から出ていたのか。俺から離れ、後ろに下がった凪良さんは黒衣の女性の横に並ぶ。その女性は凪良さんの悪魔ディンメドレイドだ。

「撃たせません」

 凪良さんの方を向いて俺の正面に立ち、両手を拡げて俺を護ろうとするグアリム。

「鈴様、撃ってください!」

 凪良さんの隣で悪魔ディンメドレイドが攻撃を促す。

「私たち悪魔ディンメ悪魔憑ルディンメの戦闘に干渉出来ません。鈴様の攻撃は悪魔ディンメグアリムを通過し『皇帝アンプルール』の悪魔憑ルディンメに命中します!」

悪魔ディンメドレイドよ!」

 グアリムが相手の悪魔ディンメに冷たく、厳しい声を投げかける。

「そなたの悪魔憑ルディンメは下位の『キル』属性ながら、同じ『キル』属性の『至高王ロード』に弓引くか?」

 その姿は、俺に接している時からは考えられないような威厳があった。

「私が忠誠を捧げるのはただ一人、我が悪魔憑ルディンメである鈴様です。そしてたとえ下位の悪魔憑ルディンメであろうと闘って勝つ権利があります。それが『至高王ロード』であろうとも」

 二人の悪魔ディンメが睨み合う。

「不本意ながら、そなたの言い分は真理であろう。ならば、その悪魔憑ルディンメの覚悟、見届けよう。

 その相手が、我が茅汎様であるのがまことに惜しいが」

 そう言ってグアリムは後ろに下がり、俺の中に入ってゆく。

 相手の悪魔ディンメも凪良さんの中に入った。凪良さんはずっとP320を俺に向けていた。俺は床に落ちた93Rを拾って立ち上がり、凪良さんに向けた。

「倒れている間に撃たなかったのか?」

 訊ねると、凪良さんは不敵に笑った。

「そんなことしなくても、起きている時に倒すわ」

 俺に向ける視線は、あくまで冷淡。


 なのに、何故だろう? 心配そうに俺を見ていた『スズちゃん』と重なってしまう。今の凪良さんは俺を心配しているようには見えないのに。

 きっと気のせいだ。

 俺はあの時の『スズちゃん』を頭から追い払った。

「まさか、あの状況で撃つとはな。残りは二発もないんだろ?」

「一発しかないわ」

「……大胆だな」

 はったりブラフはない、直感的にそう思った。

「その一発で仕留めればいいだけのこと」

 俺と凪良さんは銃を向けて睨み合う。


    ♦ ♦ ♦


 俺も、凪良さんも、互いに銃を向けたまま動かない。

「そろそろ決着を付けるべきね。あたしの『願命』は把握しているんでしょう? あたしのBB弾は後一発だけど、『痛み』の弾はまだたっぷり残っているわ。

 最後の弾丸バレットにすべてを込める。終わりにしましょう」

「分かった」

 俺は93Rのマガジン・リリース・ボタンを押すと、グリップから弾倉マガジンを抜いた。これは敵の眼前では絶対にやってはいけない行為だ。だけど凪良さんはこの隙に撃ってこない。そういう確信、闘う相手への信頼が俺にはあった。中に入っている残り二発の弾薬アモを全部抜くと、空の弾倉を再びグリップに差し込む。ただし弾薬は空ではない。弾倉には無いが銃の本体、薬室チェンバーに一発だけ残っている。右手の指を開いたり閉じたりしてみる。そろそろ痺れが取れて何とか動かせそうだ。それで今まで左手で持っていた93Rを利き手の右に持ち替えた。大丈夫、しっかり撃てる。射撃の際にブレたりしない。

「これで俺も後一発、条件は互角だ。俺も次の攻撃にすべてを賭ける。決着をつけよう」

 俺たちはお互いに銃を向ける位置を変えた。相手の胸から、共に、相手の顔に。

「クラスメートとして、君を地獄に送る」


 今、俺が指一本動かせば、凪良さんは死亡する。あるいは、凪良さんが指一本動かせば、俺は致死的なダメージを負う。いつ撃つか、いつ倒れるか分からない。


 いや、違うな。俺は、凪良さんは、撃った瞬間に動く。敵の弾丸を避けるために。ならば俺は、俺たちは、相手が動いた瞬間に避ける。そして動いた敵に照準ポイントし、撃つ。だから、動けない。

 動いた瞬間が、―― 決着。


 頭がクラクラするような緊張感。

 一発。たった一発。

 ただそれだけで、すべてが終わる。撃つか? 撃たれるか?

 ふと、何か僅かに動くものが視界に入った。今、俺たち以外に動くものなんてないはずだ。しかし不確定要素は排除すべき。視線はあくまで凪良さんに向けたまま、それを目の隅で観察する。シャンデリアが揺れている。ケーブルを撃ったやつだ。芯線は切れたまま、それを覆う合成樹脂の一部だけでシャンデリアを支えている。文字通り薄皮一枚で繋がっている状態だ。原因が分かって気に留めないでおこうとしたが今一瞬、シャンデリアが下がった? シャンデリアの重量で合成樹脂が伸びているのか。そして支えきれない? 思わずシャンデリアの方に注目し過ぎた。慌てて凪良さんに意識を向ける。ところが視界の隅でシャンデリアがすうっと下がり、

 一気に落ちた!


 ガシャーン。

「シーラバレット!」「巨角突進アリムガル!」

 空気の屈折が起こり、風景が歪む。シャンデリアの繊細な造形が粉々に砕け散る。衝撃音と同時に俺たちは共に固有能力アイジェンパワーを行使。虹色のカーテン、そして銃声。凪良さんは首を捻って銃弾を避けようとしたが、その動作よりも弾丸の方が速い!

抵抗ガバシュ、ダメージを九八%軽減】

 大量の蒸気を後に俺たちは激突、俺の方が凪良さんを突き飛ばした。更に膨大な蒸気が猛烈に噴き出し二人を包む。そのまま凪良さんの背後の壁まで二人で一気に移動。抱き合う形で俺は凪良さんの体を窓に押し付ける。凪良さんの背後で窓ガラスが粉々に散った。ビルの外から湿気を帯びた風が俺たちに吹き付ける。外からの風で蒸気が吹き飛ばされて急速に視界が開ける。窓ガラスは凪良さんの背後を中心に横四メートルほどがすっかりなくなっていた。

 ビルの外は小雨。少量の雨と、強めの風。俺は凪良さんの肩をつかみ、凪良さんは俺の胸の辺りで服をつかんでいる。密着した姿勢で俺と凪良さんは見詰め合う。

「どうして俺を撃たなかった?」

「藤林くんこそ、なんで外したの?」

 俺は凪良さんから射線を逸らした。一方で、凪良さんは撃たなかった。

「俺は凪良さんを倒すのじゃなく、悪行をやめさせるためにここに来たんだよ」

「やめるわけにはいかないわ!」

 凪良さんが俺をにらむ。俺の胸に密着し、俺の服をつかんだ凪良さんの両手に力が入る。

 意志の強さを感じさせるその瞳は、しかし弱々しく変わった。

「でも、藤林くんしか、止めてくれる人がいないから」

 すがりつくような眼差し。だから撃たなかったのか。そして公園で俺を撃った時よりも、手加減した『願命』。ガラスを失った窓から強い風が俺たちに吹き付けている。どこかでサイレンの音が聞こえた。

「止めて欲しいのか?」

「……そう、かも」

 その眼には、うっすらと涙が滲んでいた。

「もっと早くこうなればよかった。人を騙し奪う側は、もう疲れた」

 凪良さんはかすかに微笑むとそっと目を伏せ、俺の服をつかんでいた手から力が抜けて……


 凪良さんは後ろに崩れ落ちた!

 そのまま割れた窓から逆さまに、落ちる。一瞬遅れて飛び散った涙が宙に舞った。

「凪良さん‼」

 なんてことだ。こんな終わり方、認められるかぁ〜!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る