死神と女神

 九階は八階ともレイアウトが違った。俺のいる北側の通路は東西に伸びて、通路の北側には幾つもドアがある。通路の真ん中の天井に監視カメラが一ヶ所。一方で通路の南側、ビルの内側へは中間地点に横幅三メートルほどの大きな扉が一つだけ。真ん中から左右にスライドするタイプだ。大扉の表面はインド神話をモチーフにした妖しく神秘的なレリーフになっている。照明が弱く、廊下をぼんやりと薄暗く照らすことで、レリーフの神秘性が増している。

 その場に罠を設置し天井の監視カメラを撃ってから、通路の東へ行ってみる。突き当たりで南に右折している。角から手鏡ハンドミラーで覗く。人はいない。そのまま南に進んだ。監視カメラを潰す。通路の左側にはたくさんのドア、右側には大扉が一つ。北側の通路と同じだ。ビルの外周に沿って小部屋が並んでいるようだ。この通路も八階みたいにぐるっと一周してそうな気がする。

 通路より内側の空間はどうなっている? いくつ部屋があるのか分からないけど、とりあえず北の通路と東の通路の内側には大扉が一つずつか。その西側の大扉、今の俺が進む先に見えているその扉は開いていた。通路を突き当たりまで進むか、それとも大扉から中に入るか?

 バン!

 背後で銃声が鳴った。何だ? 誰が誰を撃ったんだ?

〈狙われています!〉

〈いや、少なくとも俺は狙われていなかった〉

 状況が分からない。素早く通路の角まで戻って、手鏡で覗く。

 バン!

 手鏡が撃たれた! 割れた手鏡を逆手に持ち替え、鏡でなく柄の方を角から出す。撃たれない。相手はしっかり確認した上で素早く撃ち、しかも命中している。恐るべき腕だ。もう一つの手鏡も取り出して、今度は二つの手鏡を左右の手で持った。割れて穴が開いた手鏡を先に一メートルの高さに、もう一つを一瞬遅らせて床すれすれの高さに出す。俺は下側の手鏡で角の向こうを覗く。上側の手鏡は出した瞬間に撃たれた。その瞬間に下側の手鏡を引っ込める。一瞬見えたのは通路の真ん中でなく奥、突き当たりで三人が向こうの角に隠れるところだった。二人は黒スーツに黒ネクタイ。だが、一人の巨漢だけ違う。


 何だ、何だ、何だ⁉

 本能が、俺の全身が、危険を、恐怖を伝える。

 俺の目の前にいる存在は、 ―― 『死』だ ――

 カルロス・シノハラだ。とうとうやってきた!


 五〜七階の吹き抜けで遠目に見たのと、今、眼前で相対あいたいしているのでは迫力も恐怖も段違いだ。まるで死神が人に化けたように思える。しかも二人の持っているのは拳銃ハンドガンだけどカルロスだけはH&K MP7だ! 短機関銃サブマシンガンは拳銃弾を使用した連射フルオート式の銃だ。ライフル弾より威力が弱い拳銃弾とは言え、小型軽量な短機関銃では連射の反動リコイルが強すぎて射撃の方向をまともに制御できない。よって弾丸バレットをばらまくのが短機関銃の使い方になる。その常識を覆したのが『狙い撃ちできる短機関銃』、ドイツH&K(ヘッケラー・アンド・コッホ)社のMP5、その優秀さはすぐに実戦で証明された。そしてMP5を改良し、より強力な専用弾を使用したのがMP7だ。MP7は防弾ジャケットを貫通する。しかもMP5より強力なのに反動が減り、集弾性能(命中率)が上がっている。だからMP7は世界中で非常に高い評価を受けている。それを敵に回した俺の感想は『ヤバイ』。しかも、それを手にしたのがカルロスだとは。五階で俺が撃たれた時は拳銃だっただけど、銃を持ち替えたのか。

 また銃声。おそらく俺が設置した罠を破壊しているのだろう。俺は再び手鏡を出した。向こうも隠れているし、今度はわざわざ手鏡を撃つためだけに危険性リスクを冒さないだろうと判断。でも念のため、割られた方を使う。一応二つだけ持ってきたけど、こういうのって狙撃されることを想定していないから他に予備はない。常識が通用しない敵か。

「うわぁっ、やめろ!」

 カルロスに足蹴にされて、ヤクザが向こうの角から飛び出した。敵が仲間を晒すのは意図がある。味方を囮にして狙撃でもするつもりなのか? 俺は飛び出したヤクザ自身でなく、その横、ヤクザと壁の間の何もない空間を撃つ。引金トリガーを引く直前、カルロスの顔とMP7がまさしくその位置に現れた。カルロスは撃った瞬間に隠れた。俺も素早く顔と腕も引っ込め、ひっ?

 バン! ドドドドドン!

抵抗ガバシュ、ダメージを七六%軽減】

 俺の単発と奴の連射が同時に響き、そして肘に鋭い痛みを受けて93Rを取り落とす。撃たれた! 肘をかすめただけだが派手に出血。蒸気がひろがり、血が飛び散った。痛みに堪えながら93Rを拾う。俺の射撃は奴に命中したのか? まさに撃とうとした瞬間に顔を出せば、俺なら避けるのが間に合わない。だけど倒せたか自信がない。仮に今の攻撃で倒せるくらいなら、奴がこれまで経験してきた戦場のいずれかで、とっくに死んでいたはずだ。

「や、やめてくれ……」

 苦しげな男の声が聞こえた。俺は再び手鏡でのぞく。カルロスはやっぱり無事だ。奴がさっきのヤクザを背後から、左腕で首をつかんで持ち上げている。ヤクザを楯にするつもりか? 俺は壁に『黒豆』を投げた。壁、天井とバウンドしてカルロスの頭頂部に命中するか?

 バン!

 撃たれた『黒豆』がこっちまで転がってきた。嘘だろう? 当てやがった! 俺はもう一度『黒豆』を投げる。その直後に一瞬だけ顔と右腕を出して『烏賊墨』を投げた。二度目の『黒豆』を撃ったばかりのカルロスはすぐに銃口マズルを俺へと移す。撃つと同時に、左手に持ったヤクザを首をへし折ってこちらに投げてきたのが、煙に巻かれる直前に見えた。片手で人間を投げるのか! 『烏賊墨』の次は93Rで撃つつもりだった俺は、撃てずに急いで隠れた。銃声が聞こえてから、今度は腕だけ出して手榴弾ハンドグレネード! 煙の中でもカルロスなら咄嗟に避けるだろう。なら、奴の横を飛び越えて廊下の突き当たりの壁にぶつかるはず。

 そして俺は逃げた。すぐに爆音。手榴弾はカルロスの背後で爆発し、奴を殺しただろう。それを避けるなんて不可能だ。しかし、そこにトドメを刺すよりも俺は逃げることを選んだ。奴が死ぬということが、どうしても想像できなかったんだ。

〈どうして逃げるのですか? 相手は只の人間ですよ〉

 俺の中でグアリムが疑問を口にする。

〈無茶言うな!〉

 奴の恐ろしさがグアリムには分からないのか?

 ビルの東側、南北に伸びる通路の北端にいた俺は南へ。途中、通路の半ばで右(西)側にある、たった一つの大扉に辿り着く。93Rを構え、開いている大扉の向こうを覗き込んだ。


 その部屋はホールだった。学校の体育館よりやや小さいぐらい。今は使っていないせいか、ここも照明が薄暗い。監視カメラは天井三ヶ所にあった。無数の長テーブルと椅子が西側の正面に向けて整然と並んでいる。俺が覗き込んでいる東側はホールの後ろ側になる。そして正面の奥は舞台ステージになっていた。俺のいる大扉から舞台の中央まで、通路がまっすぐ伸びる。長テーブルがぎっしりと並べられているので、ホールの中を移動するにはこの中央通路か壁際を通るしかない。

 部屋を見て、まず検討したのは銃撃戦ガンファイトのやり方。広さが縦横二〇メートル弱の中でどこに隠れ、どう動くか? 挟撃とか包囲とかは遠慮したい。拳銃(同じ弾薬アモである機関拳銃マシンピストルも同じ)の有効射程距離はぎりぎり二〇メートルだ。弾丸自体はもっと跳ぶし、カタログスペックとしても大抵『五〇メートル』となっているけど、その時の命中精度はあまり期待できない。つまりこのホール内はすべて射程圏に入る。だったら俺がホール内のどこにいようが突入後、すぐに攻撃するだろう。

 次は出入り口の確認。袋小路なら入るわけにはいかない。出入り口は少なくとも四ヶ所あった。まずは後ろ(東)側、つまり今俺がいる位置、そして正面を向いて右(北)側と左(南)側、の三ヶ所だ。舞台の裏にはもしかしたら部屋の外に通じるドアがあるかも、と俺は想像する。でもここからは分からなかった。

 そして四番目の出入り口。ホールの中央、通路の真ん中には上に、すなわち一〇階に続くエスカレータがあったんだ。一〇階に通ずる道をやっと見付けた! 凪良さんはいるのか?

〈茅汎様、一〇階ですよ!〉

〈いや、今はまだ行かない。カルロスも来てしまう。奴は味方も平気で殺す〉

 今すぐ一〇階に向かいたい、そんな衝動に駆られた自分を抑える。俺を追うカルロスたちを一〇階まで引き連れるわけにはいかない。凪良さんの護衛のはずの奴は、俺を殺すためには平気で護衛対象の凪良さんを巻き込みかねない。いや、俺が凪良さんの死を望まないことを奴に見抜かれれば彼女がどんな目に遭うか?

 カルロスが追って来るだろうけど俺はここに閉じ篭もるつもりはないし、今は一〇階には行けない。つまり二択。右側に向かうか、それとも左側か? 廊下の北西の角にいたカルロスたちはおそらく北東の角から南下、そして俺がいる後ろ側の大扉から入ってくる。でも、もしかすると北東の角まで行かずに右側の大扉から入ってくるかも知れない。逆に南側の廊下まで回り込んで、左側の大扉から入ってくる可能性は低いと思う。だから左側の大扉で待機、敵がこのホールに入ってきたらすぐにそこから脱出、そしてどこかへ逃げ場を探すのが一番危険が低いはずだ。逆にここから右側の大扉に向かう場合、前方の右側の大扉、後方の東側の大扉のどちらから敵が来るか分からない。同時に前後に気を配るのは厳しい。

 だけど俺は敢えて右側の大扉に向かうことにした。ワンマンアーミー、何度も一部隊を一人で全滅させたカルロスを俺は恐れている。奴はあの巨体で迅速、しかも恐ろしく精密な動作を行う。闘って感じたが、奴は勘が鋭い。経験豊富で、こちらが罠を仕掛けるポイントと戦術タクティクスを見抜く。はっきり言って奴の想定通りに自分が行動するのが怖いんだ。そんな俺の思惑さえも奴の想定に織り込み済みかも知れないけど、それを言い出せばきりがない。

 奴とはこのフロアで決着を付けるしかない。まずは敵の姿が廊下にないか確認し、大扉の上側に罠を取り付けながらホールの中に入った。ホールの中を移動しつつ俺はリュックからまず、テープを出して撃たれた右肘に巻く。今は手当てよりも『血痕』という痕跡を残したくない。

〈監視カメラは撃たないのですか?〉

〈ああ、放置する〉

 俺がホールに逃げ込んだのはいずれバレるけど、少しは時間稼ぎをしたい。次に取り出したのは全長三五センチの漆黒の筒。某国内メーカーに発注した特製のグレネードランチャーだ。市販品との違いは散弾銃ショットガン風の箱型弾倉ボックスマガジンが付いて六発までまとめて装填ロードできることだ。市販品に弾倉マガジンがない理由は簡単。榴弾グレネード、つまり爆弾を連続して同じ場所に落とす必要がないから。でも俺はしのびだから違う使い方が必要なんだ。弾倉に閃光弾フラッシュバンと榴弾を交互にセットする。俺は右側の大扉に向かうことにした。ホールの後部を壁沿いに右端まで駆ける。そこから右側の大扉へと、右手の壁際を前方へ移動する。後少しで大扉に辿り着く。

 ん? 目指す右側の大扉が低いモーター音を鳴らし始めた。そしてゆっくりと開いていく! 急いですぐそばのテーブルとテーブルの間に入り、しゃがみ込んで隠れた。わずかに開いた大扉の隙間から、拳銃や短機関銃ではあり得ない、長い銃筒バレルが伸びた。続けて頭が覗き込み、

 バン!

 俺はそれを狙撃スナイプした。脳を撃ち抜かれた男が倒れた。人がいなくなっても自動制御らしい大扉は開いていく。男が持っていたのは米コルト社のM4カービン? 違う、似ているけど独H&K社のHK417カービンだ! ここのヤクザ、どれだけ装備がいいんだ? 亜音速サブソニックの拳銃弾に対してカービン銃(軍用ライフル銃である突撃銃アサルトライフルを長さ一メートル程度に短くしたもの)は初速がマッハ二近く、そして数百メートル先を狙撃できる。射程距離や命中精度だけじゃなく、弾丸の破壊力と弾薬数キャパシティも拳銃とは段違いだ。

 ふと、悪い予感がした。まさか? ポケットから手鏡を出して左側の大扉の方を見た。やっぱり。大扉が開いていく。そして同じくHK417カービンを構えた男が入ってきた。更に、俺が入ってきた後ろ側の大扉からも男が入ってきた。左側の大扉が危険が少ないとか右側の大扉が危ないとか、俺の推測は全部外れた。どちらからも入ってきた。

 あっさり想定が狂った自分が未熟だと実感する。俺は手にしたスイッチを押す。頭上の爆発で男が血まみれになり、倒れる。しかし出来上がった仲間の死体を無視し、続けて入ってきたのはノーリンコ五四式(トカレフTT33の中国版クローン)やグロッグ17で武装した男たちが三人、そして最後にMP7のカルロス。やっぱり生きていたのか! 予想していたのに実際に見ると驚く。なんて化け物だ、不死身なのか? 殺しても殺しても死なないのは、優秀なだけじゃなくて恐ろしく強靱タフ、そして悪運も強いからだろう。まさかの三方同時侵入。すぐに追い駆けて来なかったのは準備のためか。

〈ピンチです! ドキドキしますね〉

〈嬉しそうだなグアリム。俺にそんな余裕はねえよ!〉

 長テーブルの上に体を出さないようにしながら左側の大扉に向けて閃光弾と榴弾を発射、すぐに方向を変えて後ろ側の大扉にも閃光弾と榴弾。このように複数方向に矢継ぎ早に攻撃するために、このグレネードランチャーは弾倉を実装している。普通の兵士ならそもそもこんな状況で生き残れない。こんな状況になってはいけないのだ。だから武器は、生き残れない絶望的な状況での用途を想定していないし、一人で複数方向の敵を次々と攻撃するような弾倉付グレネードランチャーなんか普通は開発しない。撃った後で手鏡で状況確認。後ろ側の大扉ではカルロスと男二人が煙から出てきた。仕留められたのは一人だけか。

 カルロスが長テーブルに乗り、そのままこちらへ駆けてきた。テーブルを次々と飛び越えて迫る。はやい! 位置が高い分、長テーブルの陰に隠れている俺を攻撃しやすい。もう一人は長テーブルに乗らず、壁沿いにこちらへ走ってくる。俺は両手に武器を持ったまま、四つ足で犬のように駆けた。伊賀流忍術の走法の一つだ。移動してからカルロスに閃光弾、撃った瞬間にカルロスが左に跳び退く。足場が悪いのに何という俊敏さ! 光を見ないように、逃げた方向に榴弾。空になったグレネードランチャーを捨て、俺の背後に『烏賊墨』。


 煙の中、俺は長テーブルから飛び出し、一目散に右側の大扉にダッシュ!


 見えなくても大扉の位置は分かる。大扉がすぐそばに迫ったタイミングでジャンプ、背面跳びの姿勢で天井すれすれで大扉を抜けた。ほぼ同時に連射の銃声! やっぱりカルロスは生きていた。しぶとい! どうやったら殺せるんだ? 床すれすれに撃っていた。俺は無事に廊下に跳び出せた。閃光弾で視力と聴力を奪おうが煙で視界を塞ごうが、その程度でカルロスは行動不能に陥らない。しかも大扉の位置を覚えていて攻撃できるはず。横幅三メートルの大扉なら普通は腰の高さで水平斉射。俺はその高さより上に逃げるか、それとも下か? 床すれすれだと長テーブルが邪魔で撃ちにくい。だから上に逃げるよりも床すれすれにスライディングした方が撃たれにくい。カルロスはそれを考え、敢えてそれを狙った。撃ちにくいが撃てる。だから俺はその裏を読み、天井すれすれで脱出。読み勝ったというよりほとんど運だ。カルロスもそこまで読んで上を撃てば、あるいは逆に俺もカルロスも下を選べば俺は撃たれている。逆に俺が下から逃げ、カルロスが読みすぎて上を撃っても助かっていた。確率1/2のロシアン・ルーレット、運次第で俺は死んでいた。北側の廊下に出た俺は、西に向けて全力疾走。厳しい闘いでも立ち向かおう! なんて勇気(無謀さ)は俺にはない。あるのは冷静な分析、そして、かなり厳しいという結論だけだ。いや、冷静じゃなくて恐怖している。

 怖い!

 怖い!

 殺される!

 俺は死に物狂いで走った。あいつはヤバい! 俺は奴に勝てるのか?

 西側の通路に出た。監視カメラを撃つ。外側に並んだドアのうちの一番手前、901号室が開き、中からヤクザ。射殺。もう何人殺したか? 躊躇う余裕なんてとっくにない。部屋に人がいるかは確認しない。その時間がない。その隣の902号室のドアノブに何発か撃ち、ドアを壊すも開けずに通過。その隣は放置、そして更に隣の部屋、904号室だ。ここも撃たないが代わりにドアにあるスリットにカードキーを通した。風間さんから受け取ったカードキーだ。ドアが開いた。中に入る。これで俺がどの部屋に入ったか、すぐには分からないはずだ。

 ドアを閉めると内から施錠し、ってうわっ、ドアの内側にジュラルミン(アルミニウム合金)の金属板が四枚貼り付けてあるぞ。しかもその上に大きな閂が付いている。閂は後から金属板とともに取り付けたようだ。閂も閉めておいた。

〈この部屋の鍵だったのですね〉

〈カードキーにある『0904―03』は『904号室の三枚目のカードキー』という意味だ〉

〈『三枚目』ということは、他のカードキーで開けられてしまうのでは?〉

〈閂を掛けたから、外からは開けられない〉

〈あっ、なるほど〉

 向こう側の壁には広い窓。夕暮れから夜空に変わろうとする西の空が見えた。部屋の真ん中にテーブル、二人掛けのソファーがテーブルの両側に一つずつ。部屋の端にはクローゼットや小さめの冷蔵庫があった。まるでホテルの一室みたいだ。灯りを点けずに部屋を物色する。まだ見えるし、暗くなっても夜目が利く。

 ちなみに俺は「鍵を持っていないために拳銃でドアを壊そうと試みた」と推理させるように902号室のドアを撃ったわけだ。でも「その裏をかいて……」と読まれれば、それまでだ。手持ちの選択肢には、裏の裏をかけるネタはない。風間さんが俺にカードキーを渡した理由は分からないけど、勝手に利用させてもらう。それで、この部屋に何があるかと思えば『ドアにジュラルミン』か。銃では最弱の拳銃弾でも自動車一台程度、難なく貫通する。このビルの木製のドアは言うまでもない。だけどこの金属板四枚ならMP7の弾丸も防げそうだ。というか、短機関銃や突撃銃の威力を計算した上での四枚なのだろう。ということは……

 ソファーの下部分に手を入れて触ってみる。やっぱりここにも金属板。一方で木製のテーブルは手が加えられていなかった。これは楯にはならない。せいぜい目隠しか。それにしても風間さん、よくも敵陣でこんな改造ができたな。誰かが入り込めばバレるのに。

〈一四人、今日はいっぱい人を殺しましたね!〉

 一四人か。俺はそんなにも……。敵がヤクザなら殺人が赦される、なんて言うつもりはないけど、殺した一四人が罪のない一般人だったら俺は日本犯罪史上に残るレベルの凶悪犯だぞ。

〈グアリム……数えていたのか〉

〈だって、悪魔ディンメは『命』が大好きなのです〉

〈……最悪だな〉

〈今までも、こんなに殺していたのですか?〉

〈今日が初めて。生まれて初めてだよ〉

〈おめでとうございます!〉

〈全然めでたくねえ!〉

 本当に最悪なのは、それだけ殺した俺自身だな。

 気を取り直し、とりあえず部屋のあちこちを調べてみることにした。冷蔵庫を開ける。缶ビールだらけ。まったく、あの人は……。他にコンビニ製の冷やし中華。製造日が昨日、賞味期限が明日。もちろん俺がこれらをどうこうしても仕方がない。

 次にクローゼット。女性用のコートやブラウス、スカートなど。クローゼットの奥を探ったけど何もなかった。服のポケットを探るのはさすがに気が引けた。

 クローゼットの下にある引き出しを開ける。ブラとパンティが出てきた! 他にもシャツやらインナーのキャミソールやら。あの人、ここに住み着いているのか? 何となく、ここに何か隠している気がした。あくまで直感だけど。服をかき分けて引き出しの中を探る。……何か、いけないことをしている気分だな。

〈茅汎様、えっちです〉

〈お、俺は仕方なくやっているんだ。本当だぞ!〉

 指先に紙製の箱の感触。ずっしりと重い。あった! 取り出して確かめる。欧米では市販されているありふれた商品、よく使う人間には馴染み深い。9ミリパラベラム。拳銃では最も一般的な弾薬だ。五〇発入り。米国アメリカなら一五ドルくらい。俺の93Rでも使用している。ただ、今それを93Rの弾倉に一発ずつ詰め込んでいく時間的余裕がない。他にも二挺の拳銃が出てきた。SIG SAUER P250とドイツH&K USP。結局俺には不要だから、弾薬も拳銃も戻しておいた。

 とりあえず、今の間に弾薬装塡リロードしておこう。右手の93Rのグリップから弾倉を抜き、二〇発フルに入っている弾倉で弾倉交換マグチェンジした。抜いた弾倉はまだ六発残っていたけど万全の態勢でいどみたい。左手の93Rは使っていないので弾倉交換は要らない。

 一応、二挺拳銃デュアルウィールドだけど結局左の93Rはほとんどホルスターに入れっ放しだったな。手榴弾やら色んな武器で左手が忙しかったし。それに三点バーストも、弾倉が二〇発じゃ弾薬を惜しんで使っていない。

 左手の93Rは元から二〇発フルチャージだけど、これで右手の93Rは二〇発、+、薬室チェンバーにも交換前の弾薬が一発だけ残っていたから合計二一発になった。『臨戦装塡コンバットロード』という状態だ。

 他にも何かないか、部屋を物色してみる。

 ドォン!

 外から音が聞こえた。まさか? 入り口のドアの方を見る。

 ドン、ドン、ドドン!

 間違いない、この部屋のドアだ。何発も銃弾バレットを撃ち込んでいる。時間を掛けすぎた!

 ガタガタ。

 おそらくドアを開けようとしている。だけど予備のカードキーを通そうが、閂があるから開くはずがない。しばらくして音はやみ、静かになった。

〈立ち去りましたね〉

〈いや、逆だ。俺がヤクザならこう考える。次々と部屋を調べる。だが904号室だけカードキーを通しているのに開かない。しかも銃で鍵を壊しているはずなのに銃が効いていない。何か細工されている〉

〈ビンゴ!〉

〈その通り。明らかに侵入者(つまり俺)は904号室にいる〉

 静かになったのは、俺を油断させて出てくるのを待つつもりか? いや、違う……

 ドアは外からは絶対に開けられないんだ。それなのにわざわざ中からドアを開けるのは、よっぽどの間抜け。つまり、

 俺は素早く窓の方に振り返った。この部屋に侵入するなら窓しかない! もっと部屋を調べたかったけど、諦める。もうすぐ闘いが再開される。俺は物音を立てずに窓際に忍び寄る。

 ドン、ドドン、ドン、ドドド、ドンドン!

 静かだったのが一転、再び騒音が響き始めた。ドアに立て続けに銃弾が撃ち込まれている。

〈茅汎様、どうしましょう?〉

〈無視だ。カルロスの方がよっぽど怖い!〉

 銃声は規則正しくないから短機関銃の連射じゃなくて拳銃だ。複数人がドアに向けて拳銃で闇雲に撃ちまくっている。つまりそこにMP7はなく、カルロスは廊下にいない! 絶対にドアを破れないと分かっていても敢えて撃ち続ける理由は二つ。一つ目は俺の注意を引く、つまりカルロスから俺の注意を逸らすこと。でもドアを開けられる心配がないからこそ気にしなくていい。そして二つ目の理由、カルロスが窓の外から侵入する際の物音をかき消し、それを警戒する俺の集中力をかき乱すこと。俺はどうすべき?

 ドアは確かに外からは開けられないが、こちらからは開けることができる。カルロスが来る前にドアから逃げるか? いや駄目だ。ドアの前に待ち構えている数人のヤクザから集中砲火を受けて蜂の巣。相手がカルロスじゃないとはいえ、生き残るのは不可能だ。窓から逃げる? それも無理だ。カルロスに狙い撃ちされる。窓から体を出した時点で、俺は確実に死んでいる。要するにどちらも確実に死ぬ。

 ならば残る選択肢はただ一つ、ここで迎え撃つしかない。この場所でカルロスを殺す! それができなかった時、俺は死んでいる。急げ! 俺は素早く窓際に向かう。ヤクザたちがドアを撃っている以上、この瞬間にカルロスが入ってきてもおかしくない。

 俺は部屋の左側の壁に張り付き、窓から一メートルの距離まで近寄る。窓の近くまで腕を伸ばし、手鏡で窓の外、右側を覗いた。人影はない。今度は手鏡で窓枠を押して、窓を少しだけ開ける。そして手鏡の向きを変えて左側に向け、窓の隙間から外に出す。

 バン!

 撃たれた! 既に穴が空いていた手鏡の表面は、今回の衝撃で粉々に砕け散った。だが撃たれる瞬間に見た。カルロスは窓の左側にいた。俺が脱出用に用意した杭にぶら下がっていた。

 手鏡で窓をもう少し開けて、『蜘蛛の子』の鉄球に刃を取り付ける。これは『蟹鋏かにばさみ』と言って、長さ八センチの刃が三方に向いていて凶悪な殺傷力を誇る。部屋の奥に下がって窓まで距離を空け、『蟹鋏』をブンブン振り回して勢いを付けてから投げる。『蟹鋏』は窓の隙間から飛び出した。ワイヤーを引くと窓の縁に引っ掛かり、そこを支点に回転、弧を描いてビルの外壁へと襲い掛かった。カルロスのいた位置になるよう、長さを調節している。

 命中しただろうタイミングで『蟹鋏』を引いた。引っ張れない。戻ってこない? 引っ掛かるようなものはないはずだ。あるとすれば奴の体に食い込んだ場合だけ。

 急に強く引っ張られた⁉ 何が起こっている?

 ガシャーン!

 窓が割れた。直感的に頭を右に避けた。薄暗がりに飛んで来たガラスを見ずに顔をガード。

抵抗ガバシュ、ダメージを八二%軽減】

 熱い! 蒸気がひろがる。実際には熱さじゃなくて痛みだ。左眼よりやや上から血が流れ落ちる。頭の左側を切られた。ギリギリかわし切れなかった、というか辛うじて皮一枚で済んだ。頭の横の壁に突き刺さったのは俺が投げた『蟹鋏』。見るとあちこちに俺以外の血もこびり付いている。しかし奴がつかもうとすれば指が落ちるから掴めない。体で受けたとすれば八センチの刃が根元まで突き刺さる。一体どうやった? それに投げ返すにしても俺が死角にいるから直接狙えない。だからビルから離れるように投げて『蟹鋏』を引っ張ることでリバウンド、しかも俺のいるだろう位置を推理して狙い撃ちした。理屈では分かるけど現実に可能なのか? こんな器用な真似、ただの傭兵にできるわけがない。

 俺はこんな怪物に勝てるのか? でも、もはや選択の余地はない。奴は目前にまで迫っている。俺は本当にここに来て良かったのか? 今更ながら思ってしまった。これが間違った選択なら、俺は後悔する前に死ぬだろう。奴を殺せなかったら俺は生きていない。

 るしかない。とにかく、真っ先にバリケードを。楯にしようとソファーに手を掛けた時、再び窓ガラスが割れた。遅かった! どうすべきかすぐに思い付かず、咄嗟の判断、

巨角突進アリムガル!」

 眼をつむり、両腕で顔をガード。凄まじい衝撃が全身を襲う。

「ぐああっ!」

抵抗ガバシュ、ダメージを九九.七%軽減】

 すぐに衝撃は消え、静寂が訪れる。まだ煙と蒸気で前が見えない。そして火薬の匂い。全身に痛みがあるが、問題なく動く。

 何とか死なずに済んだ。今のうちに仕掛けを作る。まずは『虚蝉』を膨らませる。それに閃光弾でトラップを作成、窓の真下に転がしておいた。そんな作業を進めている間に、煙も蒸気も晴れた。次にテーブルを衝立ついたてのように、テーブルの上面を窓に向けて立てた。そして、その裏でソファーを縦に立てる。俺はソファーの背後に身を隠した。右手は93Rを構える。

〈茅汎様が『皇帝アンプルール』の悪魔憑ルディンメでよかったです〉

 ホッとしたグアリムの声が聞こえた。

〈そうだな〉

 生かす必要のない敵が部屋に立て籠もったなら、そこに手榴弾を投げ込むのが鉄則セオリー。分かっていたけど対処する時間がなかった。普通の人間なら確実に死んでいたな。『巨角突進アリムガル』で多少でも勢いをぎ、悪魔憑ルディンメの強靱さと『抵抗ガバシュ』のお陰で助かった。

 次は攻撃は来ない。奴自身が乗り込んでくる。俺の死体を確認するために。俺が生きているとは考えないだろう。だけど奴が油断するとは思えない。カルロスが安心するのは俺の死体を見てからだ。俺はカルロスが部屋に入るまで攻撃しない。俺が生きているとバレた時に奴がまだ外にいるなら、外からまた手榴弾を投げ込む。何度も防げるとは思えない。しかしカルロス自身が部屋に入れば手榴弾は使えない。だから奴に攻撃をさせずに部屋まで誘い込まないといけない。俺はじっと息をひそめる。後、ほんの数秒でカルロスが来るはず。怖い!


 来るぞ、来るぞ来るぞ!


 突然、ぬうっ、と部屋に巨大な気配が生まれた。奴が来た! いきなり心臓を握られた? 違う、錯覚だ。恐怖による錯覚だ。心臓がすくみ上がっている。カルロスが部屋で静かに動いている。バリケード代わりのテーブル一つを挟んで、俺は奴と同じ部屋にいる。俺を殺せる力、殺す意志が、同じ部屋にいる。猛獣の檻に入った気分だ。そんな中、俺は眼を閉じ、軽く左手を添えて眼を隠している。まるで生きた心地がしない。

 眩しい! 掌と顔の隙間からの閃光がまぶた越しに俺を襲う。素早く撃つ! 囮の『虚蝉』をカルロスが本物か確認しようと触り、仕掛けた閃光弾が作動したんだ。俺はソファーの陰に隠れたまま、テーブルの真ん中辺りを撃つ。光った瞬間に『虚蝉うつせみ』付近を撃つのは、敵が普通レベルの場合だ。奴なら光った瞬間に素早く『虚蝉』から離れる。それでも普通の敵なら『虚蝉』を撃てば仕留められるが、奴の驚異的な反射速度は、撃たれる前に離脱できる。何度殺しても生き延びた秘訣は、おそらくそこにある。

 カルロスも撃ってきた! やっぱりまだ死んでいない。奴の攻撃でテーブルが穴だらけになる。俺のいる位置はソファーの楯で、甲高い金属の打撃音が響く。奴ならこのカラクリにすぐに気付きそうだが、バレても俺の優位性は変わらない。

 互いに撃ち合う。左右の93Rでひたすら撃つ。俺だけ『楯』がある。奴を殺せたか?

 テーブルの粉砕音! テーブルの裏に何かが生えた! 黒くそびえる何か。突き破って出てきた、暗闇に見える黒いそれは手袋を填めた左手、奴の左腕だ。咄嗟にその手を撃った。

 ガキーン!

 効かない? 掌に穴が開くはずだろ? 何で金属音? 中世の騎士みたく篭手でもしているのか? 奴の左手がこちらに向かう。俺の体まで近付いてくる。

 ヤバい!

 どうしてそう思ったのか自分でも分からない。直観か? とにかく身の危険を感じ、俺は掌底しょうていでカルロスの手首を打つ。ほぼ同時に銃声!

抵抗ガバシュ、ダメージを六七%軽減】

 撃たれた? 頬を弾丸がかすり、血が後方に飛んだ。日没でかなり暗くなった視界に蒸気が拡がる。そしてカルロスの掌に発射炎マズルフラッシュ。破れた手袋から見える、黄金色の手。掌の真ん中には一センチの穴が黒々と空いていた。篭手じゃない、義手だ! 銃を仕込んでいる。こんな奥の手を隠していたのか! 黄金色は金じゃなくておそらく真鍮製だろう。しかもあの銃声は拳銃じゃなくて突撃銃レベルだ。再び左腕が接近する。その手を払いのけようとしたが、掴まれた。人間の握力じゃないぞ! 機械仕掛けか?

抵抗ガバシュ、ダメージを九一%軽減】

「ぐあああああ!」

 銃声、そして蒸気。途端に奴が腕を引っ込めた。掴まれた腕を通してまさかの電撃、だがその瞬間、ぎりぎり直前に俺は撃った。腕に通用しないと分かって、テーブル越しに奴の胴体を。痺れたけど、まだ動ける。撃つのが一瞬、僅か〇.〇五秒でも遅ければ、俺は電撃で痺れて撃てず、殺されていた。

 奴を殺せたか? きっとまだだ。

 またテーブルの粉砕音。同時に銃撃。弾丸がテーブルを突き抜けてきた。粉砕音の時点で俺も撃とうとしたが、一瞬遅れたお陰で助かった。撃っていれば撃たれている。

 なに? ソファーが動いている⁉ 今度はテーブル越しにソファーを掴んだらしい。

「うおっ?」

 奴はテーブルごとソファーを投げ飛ばした! なんて怪力! 隔てる壁がなくなった。93Rを素早く捨て、すかさず飛び付いて奴をつかむ。格闘戦に持ち込めば俺の実力なら勝てる!

 世界が高速回転?

「がはっ!」

 俺は床に叩き付けられていた。多分、合気道。格闘技まで達人級なのか? どこまで化け物なんだ! カルロスは、床に横たわる俺の傍らに立っている。撃たれる? 躱せない!

「ヤット殺セル」

「俺もな」

 カルロスが怪訝な表情をする。一呼吸おいて、続けた。

「お前を殺すには、覚悟が必要だと分かった」

 カルロスがひるむ。台詞セリフの意図を察したか。

「道連れだ!」

 倒れたまま、俺は右手の手榴弾をぶつける。奴が逃げようとする。だが遅い! 俺は左腕で顔を覆う。眩い閃光。実は手榴弾でなく、その外見に偽装した閃光弾だ。炸裂の瞬間、俺は両手両脚で仰向けから横斜め上に急速ジャンプ! ほぼ同時に近いタイミングでカルロスは床に斉射、コンマ秒遅れれば蜂の巣になっていた。どちらも眼が見えない中、カルロスは次は腰の位置で水平に撃ちまくる。その時の俺は壁を垂直に駆け登って天井近くにいた。左腰のホルスターから、もう一つの93R。


 そして天井から、カルロスの頭上がある位置に三発!


 闘いが終わり、床に着地。やっと倒せた! 長かった。

 眼が見えてきた。

「ぐわっ?」

 左手首を握られた! 93Rを取り落とす。俺の目の前にカルロス! まだ生きていたのか? 奴の顔を狙った俺の右拳は虚しく宙を打ち、続いてカルロスの頭突き!

抵抗ガバシュ、ダメージを五三%軽減】

 只の頭突きで『皇帝アンプルール』の『固有特性アイジェンフィーチャー』が発動するのか? どこまで怪物なんだ! 頭突きでクラクラする中、水煙からぬうっとカルロスの右手。胸ぐらをつかまれた。カルロスは頭上からのあの攻撃を切り抜けたのか! 奴の左手が迫ったが、俺はその肘を押して近付けさせない。左手は黒手袋がボロボロの布切れと化し、黄金色の義手がほとんど露出していた。銃弾をすべて左手で受けたのか? 俺は既に左右の93Rを落としている。丸腰だ。カルロスはMP7を捨てていた。だが左手の義手に仕込んだ銃がある。力勝負だ。負ければ『死』が、待っている。いや、押し返される。なんて馬鹿力だ。並の高校生じゃなかった俺は悪魔憑ルディンメになり、並の人間じゃなくなった。しかし、この男はそんな俺を凌駕するのか!

〈茅汎様!〉

〈グアリム、何とかならないのか?〉

〈頑張ってください。茅汎様はこんなところで死ぬような人じゃありません!〉

〈気休めにもならねえ!〉

 俺を応援するグアリムは期待に満ちている。くっそお、ここは心配しろよ!

 力尽くで押し合いを続ける中、これまでずっとほぼ無表情だったカルロスが、初めてニヤリと笑った。

「Excellent!」

「なに?」

「オレガ普通ノ兵士ナラ、九回死ンダ。オレニ殺サレルマデニ、オレヲ三回以上殺シタノハ、オ前ガ初メテダ」

「賞賛は受け取っておくよ」

「素敵ナ闘イガ終ワルノガ惜シイ」

「いい方法があるぜ。俺を見逃がせばいい」

「NO。飾ラレタけーきハ、食ベルタメニアル。食ベ残シハ、モッタイナイ」

 カルロスが更に力を込める。押し返すが押し負ける。左手が近付いてくる。くっそお、こんなところで負けられるかぁ! 死に物狂いで足搔く。だけどカルロスの力に勝てない。駄目なのか? 奴の左腕は俺がつかんでいる左肘より少し先の辺りから義肢になっている。そこからがスタンガンの効果範囲のはずだ。カルロスが更に力を込める。くそっ、どこまで余力があるんだ? まだ底が見えないのか? カルロスの左手が俺の右手を外そうともがく。外れかけた腕をつかみ直す。

抵抗ガバシュ、ダメージを七四%軽減】

「ぐわあっ!」

 俺の右手がジュウッと水蒸気に包まれた。やられた! 腕をずらして義手を持たされた。筋肉が麻痺して動かない。

 動け!

 動け!

 俺の必死の意志も、体に届かない。

 動けえ〜!

「ぐががががが!」

抵抗ガバシュ、ダメージを九七%軽減】

 再び電撃。俺が動けないすきに、カルロスは追い討ちを掛ける。確実に殺すために。カルロスは力の抜けた俺の右手を払い落とし、黄金の義手を俺の顔に向ける。真っ暗な銃口が俺を見詰みつめる。直径たった一センチの、『死』を届ける深淵が、俺を覗き込む。

 動けよ俺の体!

 満足そうにカルロスが語り掛ける。

「イイ夜ダッタ」

 水南枝の、笑顔が、頭に浮かんだ。水南枝、お別れなのか?

 優弧、父さん、母さん、遠塚さん、頼真。俺は、ここで死ぬ、のか?

 諦めたくない。

 諦めたくないよ。

「先ニアノ世ニ行ケ。十年以内ニ後ヲ追ウ。冥府デ、マタ殺シ合オウ」

 十年以内……こいつはいずれ闘いの中で死ぬ気でいる。こいつにとって命は軽い。

 そして俺にその価値観を暴力で押し付けようとしている。押し売りはごめんだ!

 体は、動かない。

 諦めないぞ。諦めないぞ!

 もう、駄目なのか。終わりなのか。

 生への執着に視界がぼやける、頭がクラクラする。諦めたくない。だけど、もう、どうにもならない。仕方がないのか?


 いやだ!

 まだ、諦められるかぁ!


【一時的にレベルⅢになります。星霊軆セレスタル『グアリム』が限定的に発現します】


 一気に蒸気が俺から噴き出した。尋常じゃない量に部屋中が水蒸気に包まれる。本来なら視界が塞がれるはずが、俺には蒸気を通して見通せる。雲の中、足元の床から何かが生まれた。直径三〇センチの半透明の半球。素材が半透明と言うよりホログラフィーのような、幽霊のような感じ。半球が縦に伸びて、巨大なウインナーのようになる。その横にも半球。それも伸びる。更にいくつかの半球が現れ、長さのバラバラな太く短い柱になった。柱は五本。それぞれが途中の二ヶ所で折れ曲がっている。

 まさか! これは『指』なのか?

 指が更に上に伸びて天井に突き刺さる。物体を通り抜けているようだ。更に上がっていき、掌が現れた。その大きさ、三メートル。何が起こっているんだ?

 ああ、そうか。

 何故か俺は知っていた。

 悪魔ディンメグアリムの躰を借りて発現する、『皇帝アンプルール』の悪魔憑ルディンメである俺の本当の姿。


 星霊軆セレスタル『グアリム』


 これは『俺』だ。俺の、もう一つの躰だ。


    ♦ ♦ ♦


 微睡まどろみから、少しずつ意識がはっきりしてきました。わたしは目覚めたのでしょうか? いいえ、一時的なようです。他の二柱の女神もまだ眠っている様子です。わたしの中に分身の情報が流れ込む。

 藤林 茅汎。

 これがわたしの分身。まだレベルⅠなのでわたしを目覚めさせられないようです。今は一時的な目覚め。わたしが眠りに着いた後、我が象徴たる大地ちきゅう太陽ヘリオスの周りを三二〇〇回ほど周回したらしい。今は三二〇〇年後の世界なのですね。

 わたしの指に攻撃している者がいます。

 ニンゲン。カルロス・シノハラという男。

 あの『雷神ディウェ』とは較べる価値もないちっぽけな稲妻をわたしの指に当てています。そして無数の『弾丸』という鉛の粒を、音のはやさでわたしにぶつけています。大地の女神であり、冥界の女神でもあるわたしには、そのようなものは、まったく通用しないのですが。


 藤林 茅汎よ。あなたはわたし、わたしはあなた。

 あなたとわたしたちは既に魂の融合が始まっています。

 あなたが前に進むのであれば、わたしは道をひらきましょう。


 さて、カルロスよ、ニンゲンの男よ。

 残念ながら、あなたは我が守護の対象ではありません。

 このまま潰れなさい。


【『巨角突進アリムガル』 レベルⅢで発動できます】


    ♦ ♦ ♦


 レベルⅢってなんだよ? よく分からないけど、俺はパワーアップしているらしい。体は電撃で動けないけど、現れた巨大な手は意のままに動く。カルロスが巨大な手に電撃や連射を行う。俺の手らしく感覚があるが、ライフル弾程度ではくすぐったいだけだ。カルロスが左手を俺に向けた。わけが分からない『手』よりも、先に俺を始末するつもりか。

 させるかぁ!

巨角突進アリムガル!」

 突然、部屋が信じられないほど滅茶苦茶に揺れた。部屋中に再び蒸気が充満した。いや、蒸気だけじゃない。水でない黒い煙、火花、それは火山の噴火を思わせる。慌てたカルロスが俺を手放し、だが俺は倒れない。全身が麻痺して動けないはずなのに、いや、動けても立てないほど部屋が激しく揺れているのに、倒れない。自力で立っているのではなく、足が磁力で床にくっ付いているように、体が釘になって床に突き刺さっているように、上半身が重力に逆らって浮いているように、自然と立っている。

 カルロスは? 見ると、カルロスは壁に張り付いている。『手』は、カルロスを押し潰すかのような手付きをしている。『手』とカルロスの間には五〇センチも空いているのに、まるでサイコキネシスのようにカルロスを押し潰していく。

 カルロスが派手に血を吐いた。続けて、腕から血が噴き出す。そして脚から、腹から、至る所から血が流れ始めて、全身血まみれになっていく。

 右腕が千切れた。

 左脚がもげる。

巨角突進アリムガル』が終わると、カルロスは壁から床にずり落ちた。


【レベルⅢの効果が終了しました。レベルⅠに復帰します】


 途端に俺の体を支えていた力が消滅、俺も床に倒れ込んだ。

 ……

 暗闇、静寂。どのくらい経ったのか? 一〇分? 二〇分? しばらく経ち、やっと動けるようになった俺は立ち上がる。

「うっ」

 全身がバラバラになりそうなほど痛い。床の93Rを探して拾う。慎重にカルロスに近付く。動かない? いつでも撃てるように身構えつつ確認。


 カルロスは死んでいた。


 途端に力が抜けた。

 俺は絶対に殺される、勝てない、と絶望したのに。悪魔憑ルディンメの能力を使ったら一発か!

〈俺はあんなことができるんだ〉

〈できません。茅汎様はレベルⅠです。一時的でもレベルⅢになるなんて、おかしいです〉

〈それって、一体どういうことだ?〉

〈わたくしにも分かりません〉

 何がどうなっているのかまったく分からない。とりあえず、この件は後にしよう。苦痛の残る体に鞭打ち、動く。まだ終わっていない。もう一挺の93Rも拾い、左腰のホルスターに収めて右手だけにする。カルロスの死体を背中を掴んで運ぶ。そしてドアを開けた。

「待て、撃つな!」

 ヤクザが仲間に言ったのだろう。カルロスを放り出し、すぐにドアを閉めた。

「ひでえ怪我! カルロスさん、大丈夫で、うわっ!」

 カルロスの足元に転がした手榴弾が爆発、93Rを構えて素早くドアを開ける。無数の四肢が千切れて転がっている、既に死んでいたかも知れないヤクザたちを撃ってとどめを刺した。

〈二一人♪〉

〈数えるなよ〉

 そんなに殺したのか。もう『普通の高校生』だなんて言えないな。

 もう生きている敵はいない。カードキーで施錠し、俺は部屋を去った。


    ♦ ♦ ♦


 俺は再びホールに入った。まず監視カメラを撃つ。今のところ、敵とは遭遇していない。このフロアのヤクザは一掃したのか。改めてホールを眺める。

 ホールの全体的な雰囲気はカトリック教会のようだ。と言ってもキリスト像はもちろん、ステンドグラスもない。ホール全体が白を基調としている。ヨーロッパの教会よりも無宗教の日本人が結婚式で利用する、ホテルの屋上の教会のように思えた。今は暗いが使用している時は明るい照明に照らされて、とても神々しい雰囲気を醸し出しているのだろう。ホールの正面、舞台を見る。壇上の中央には演説台。ここで『女神』レティシア様に演説でもさせるのか。

 ふざけるな。

 普通に高校生活させろよ! 学校に来なくなったのが本人の望んだ選択じゃないだろう?

 そしてエスカレータ。と言ってもデパートにあるような味気ないものではなく、とても豪華。結婚式で新郎新婦がこのエスカレータで降りて来てもおかしくないくらいだ。側面は白く塗装された金属の細いパイプを複雑に折り曲げて造られた、精緻な装飾がある。一方で足を乗せるステップの部分は強化ガラスかプラスチック製らしく透明で、乗った人が昇降する姿がエスカレータの裏側からくっきりと見える。エスカレータは上がちょうどビルの中央へ、そして下が舞台の方へと繋がっていた。

 ―― すなわち、舞台の上の『女神様』が信者たちの見守る中、舞台からエスカレータによって最上階、『女神様』のみが出入りを許される『至上の間』へと昇っていく ――

 それは『不可思議な魔法』でなく『ありふれた文明の機械』であっても、見る者には、とりわけ熱心な信者には、強い感銘を与えるだろう。

 決まりだ! 間違いなく凪良さんはこの上にいる。最上階こそが凪良さんの居城だ。


 これからが決戦になる。右手の93Rは残り僅か三発、左腰のも六発残っていたけど弾倉交換した。これで93Rは左右とも二〇+一発の臨戦装塡コンバットロードだ。


 いよいよ一〇階。凪良さんはきっとそこにいる。

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