【第五章 『救世《ぐぜ》のひかり』】

裳着

 ルー國のジン氏は代々歴史家であった。

 職業としては役人であったが、各地から様々な記録書などの書物を求め、多くの情報を集め、そして編纂した。司馬遷シマチュエンを始め、そのような人物が古代中国に多く存在したことは、誰もが知るところである。そんな彼らは紀元前四世紀のハン國(朝鮮半島でなく中国の一地域)にて、ある書物と出逢った。今や現存しないその書物は、一族の未来を変えてしまったのである。

『中華思想』と呼ばれるものがある。『四方に蛮族、中原チュンユアンに我らの國』という意味だが、この『中原チュンユアン』こそ韓國の辺り、現在の河南省ホーナンシェンを指す。かつてこの地には神農シェンノンを崇める民族集団と、黄帝フアンディを崇拝する民族集団があった。二つの集団はやがて融合し華夏族フアシャアズという一つの民族になった。華夏族は中国の悠久の歴史の中、多くの民族を吸収し、今日こんにち漢族ハンズになる。つまり漢族のルーツなのである。書物は漢族発祥の地にあったのだ。

 その書物を発見したのが近代の歴史学者であったなら、科学という名の合理的思考により偽書と判断され、歴史の闇へと消えてしまっていたかも知れない。

 それは神話の時代の技術書。しかも、その中でも奥義と呼べるものの内容は、とても現実的なものとは言えなかった。そして甲骨文字ではなく、当時の中国語で記されていたのである。

 しかし代々の景氏はそれを信じた。信じることで『一見、偽りに見える真実』は遺失を免れた。景氏は技術の再現が不可能でも、それを忠実に後世に伝えるように務めた。そして技術の再現を試みる。いつしか時代の中で景氏は歴史家でなく、戦闘術の研究家へと変わっていく。当時は春秋戦国時代の末期。諸子百家と呼ばれる様々な理論家がそれぞれの説を講じていた。しかもその多くが隣国の國に座し、魯國からも儒教の祖、孔子を輩出していた。景氏は孫子などの兵家と似て異なる存在となったのだ。ちなみに藤林家の先祖となった日本の大伴氏おおともし、山田 桜の祖先である秦氏はたしは朝鮮半島にかつて存在した国家、百済ペクチェ出身だが、両家の直系の先祖は更に遡ると、齋國や魯國のある中国の山東省サントンシェンの、兵家の一派だとされている(ただし両家の先祖はそれぞれ別である)。

 そして西暦五世紀初頭。景氏の一人の男が書物を携え、日本に移住した。


 まだ中国から文字が伝わっていなかった当時の大和王権の政体は、多くの豪族と、その上に立つ大王おおきみ(天皇)とで構成されていた。豪族の多くは血族集団であったが、渡来人とらいじんすなわち中国や朝鮮半島出身の豪族は同郷の者たちで構成される民族集団である。日本に来た景氏の末裔は漢族で構成される東漢氏やまとのあやうじに合流し、その強力な戦闘術は同じうじの中の仲間にも高く評価された。当時の東漢氏は、より力を持った蘇我氏に従っていた。

 そして西暦五九二年、直系の子孫である東漢直駒やまとのあやのこま蘇我馬子そがのうまこの指示で崇峻すしゅん天皇を暗殺する。日本史上でも数少ない、天皇殺害だ。しかし東漢直駒も口封じのために蘇我馬子に殺害された。これは東漢氏と蘇我氏との確執を生み、壬申の乱の時、東漢氏は蘇我氏とたもとを分かつ。

 直駒の遺体を引き取った父の磐井いわいは、自分たちの置かれた弱い政治的立場に不安を感じた。自分たちだけの秘密の拠点が欲しい。そう望んだ磐井は太宰府(福岡県)に向かう。当時の日本人が外国に赴く場合、太宰府を出て真北へ、朝鮮半島にまず向かう。しかし彼は船を西南に向けた。

 そして辿り着いたのが沖縄の宮古島だ。沖縄諸島では一四世紀に沖縄本島で琉球王国が興り、ほどなく宮古島もその版図に組み込まれる。それ以前は『グスク時代』という数百年の時代を挟んで、沖縄本島および北東地域は本土の影響を受けた縄文時代、沖縄諸島の南西部は東南アジアの影響を受けた文明が存在したが、両地域の間にある宮古島の文化は今日こんにちもよく分かっていない。

 磐井は宮古島の島民の中から身体能力の優れた者を選び、景氏の時代から継承されたすべての技術を教え込んだ。そして西守氏いりもりしの名を与えた。西守氏の一族は技を磨き、研究し、そして継承していく。『奥義』など、実現不可能なものも後世に忠実に伝えるように心掛けた。

 一方でみやこでは、景氏の直系の子孫は東漢氏の中から更に分岐し、坂上氏さかのうえしとなる。坂上氏も戦闘・戦争術について高く評価されていた。坂上氏の繁栄が頂点に達するのが八世紀末、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろの時代だ。彼は天皇からの信頼も厚く、戦争も上手く、何度も征夷大将軍に任命された。東北での蝦夷えみしとの戦いでは阿弖流為アテルイ母礼モレを降伏させる。鈴鹿では、現地を実効支配する頭領と協力し、付近を荒らす悪党あくとう(山賊のようなもの)を倒した。(後世では鈴鹿の頭領と悪党が混合されて『鈴鹿御前』になっている)

 鈴鹿の頭領は武芸に秀でた美しい女性だった。やがて田村麻呂と鈴鹿の頭領は夫婦になり、二人の間には娘が生まれた。

 しかし、京から鈴鹿の頭領への討伐命令が出る。任務と愛情、葛藤に苦しむ田村麻呂だが、夫の出世を妨げまいと鈴鹿の頭領は自害した。その娘の行末いくすえについては誰も知ることはなく、記録として残ることもなかった。

 日本国外に脱出したからだ。

 娘である小輪しょうりんを手元に残すのが難しいと感じた田村麻呂は朝廷の力の及ばぬ所、一族に代々伝わる『秘密の拠点』宮古島に向かったのだ。そこには、身代わりによって秘密裏に逃がした阿弖流為と母礼もいた。田村麻呂は西守氏の一族と阿弖流為、母礼に小輪を委ねた。

 鈴鹿の頭領と田村麻呂の血を引く小輪は、戦いのサラブレッドだった。彼女は西守氏に伝わる戦闘術を次々と修得。そして……

 ついに奥義の再現に成功したのだった。

 人間には不可能とされ、捏造の可能性も疑われていた、神代かみよの時代から伝わる伝説の技。それは実践可能であり、使用すれば無敵の強さを得る。そのことを小輪は証明した。ただし、それを実現するには、人間を超えた能力が必要だった。

 小輪は生涯を掛けて、奥義以外も含めたすべての技を修得し、それらを合理化、改良する。更に技を整理、体系化した。これらは『小輪法しょうりんほう』と名付けられた。興味深い偶然として、小輪法の奥義、特に足の運びは武術ウーシュー八卦掌パーガザンに似ている。ただし、完成度と技術の高度さが段違いだ。武術ウーシューでも最難の一つである八卦掌でさえ、その性能の高さは『人間に不可能』と云われる『小輪法』の奥義には足元にも及ばない。代々の西守氏は小輪法を学び、それを次世代に伝えていく。それは江戸時代初期に西守氏から石敢當家に名を変えても、現代まで連綿と引き継がれてきたのだった。

 超人的な戦闘力を持つ藤林家の人間も、それを更に超える能力を持ち小輪法を修得した石敢當家の者には及ばない。しかし石敢當家の者でさえ、奥義を修得できた人間は景氏から二千五百年も続く一族の歴史上でも極僅かだった。

 そして奥義を極めた極僅かな人間の一人が、石敢當 美燿であった。


「東京は夜も明るいなあ」

 新宿のオフィスビルの屋上に腰掛け、夜景を眺めて美燿は呟いた。

 高校二年生、一二月で一七歳になる彼女だが、童顔なので中学生に見える。むしろ二歳年下の藤林 優弧の方が年上のようだ。丸顔にセミショートのヘアスタイル。愛嬌のある表情と大きな瞳。その容貌は命のやり取りをする者には、とても見えない。

 そして小柄な体躯たいく。しかし見る者が見れば気付くだろう。のんびりした、ちょっとした物腰でさえ一切の隙がないことを。そして小さな躰なのに、その動作にまるで牛を連想させるような力強さを感じ、その落差ギャップに錯覚かと我が眼を疑う。だが華奢な肩に背中に、脚に、そして腕に触れたなら、それが錯覚でなく現実だと思い知る。とても女性の体だとは思えない、まるで鋼鉄のように硬い。驚異的なレベルで筋肉が引き締まっているのだ。

「人が多い。魔物マジムンも多い」

 魔物マジムンとは、沖縄の伝承の魔物のことである。

 彼女が裳着として行う『魔物マジムン退治』は『鬼退治』とも言う。魔物、鬼と言っても幻想的な、人間と異なる生物のことではない。歴史上、鬼と呼ばれた存在は時代や社会的背景によって変わっていったが、多くの場合は特定の人々を指した。

 奈良時代やそれ以前では、大和王権に従わない地方の集落や小国の主を指した。例えば『桃太郎』の鬼(温羅うら)は瀬戸内海を挟んで岡山から香川辺りを支配していた権力者だとされる。後の世に妖怪とされた『土蜘蛛つちぐも』も同じことが言える。

 平安時代になると、夜盗や山賊を指すようになった。源頼光みなもとのよりみつと部下の四天王が退治した酒呑童子しゅてんどうじは山陰地方(またはみやこの外れ)の街道近くの山腹に隠れ棲み、通り掛かった旅人を部下と共に襲い掛かって殺し、身ぐるみを剥いで金品を奪った。その行動が妖怪というより山賊そのものだと分かるだろう。

 江戸時代は『鬼』が現実の人間を指すことはなくなり、娯楽の物語、虚構フィクションの住人となる。その文化は現代まで続いている。

 つまり石敢當家で成人の儀を行う者は、宮古島から本土に来てそのような悪党を退治するのだ。太宰府から朝鮮半島に向かうだけでも命懸けだった時代から、小舟で沖縄の島々を伝って隼人はやと(鹿児島に住む人々)の地に上陸し、九州やみやこ跋扈ばっこする悪を討ってきたのだ。また江戸時代以降は、無法者以外に悪徳役人も誅伐ちゅうばつの対象になった。

 石敢當 美燿は成人の儀として、人を殺すために東京にやってきたのだった。


 街を見渡した美燿は、清濁入り混じった、この巨大都市メガロポリスに想いを馳せる。もっとも『清濁入り混じる』のは東京も沖縄も、それ以外のどこであれ変わらない。

 大阪も然り。

「チーちゃん、優弧ちゃん、元気かなあ?」

 大阪の従弟妹のことが頭に浮かんだ。実は裳着の一環で、東京に来るまでに大阪に立ち寄ったのだ。ただし裳着の最中なので、知人に逢うようなことはしていない。

「じゃあ、裳着を済ませちゃお」

 美燿は闇へと消えた。


    ♦ ♦ ♦


「親子共々、秘書殺しが好きだな」

 突然声を掛けられて下崎しもざき 大輔だいすけは振り返った。

 振り返る瞬間、彼の胸に黒手袋の腕が伸びて、スーツの内側から携帯電話を抜き取る。

「誰だ、貴様?」

 下崎の眼前にいるのは、全身を漆黒のライダースーツに身を包み、頭部もロゴなどの模様一つない黒のフルフェイスヘルメットを被っている人物。奪い取った携帯電話を握り締める。携帯電話はゴキっと音を立てると粉々になった。

 その人物は体格から、小柄な女性だと分かる。

 石敢當 美燿だ。

 藤林 茅汎や優弧のように声音を変えることはできないので、ボイスチェンジャーを使用している。その口調は普段の呑気なものではなく、硬い。

 そして鋭い。まるで声そのものが、人を殺すために研いだばかりの刃先のようだ。それはボイスチェンジャーを通してでさえ、声だけで喉元に刃を突き付けているような錯覚を下崎にいだかせた。

 ここは下崎の事務所にある、彼の執務室。超一流の護衛たちに護られているこの建物に、部外者が入ることはあり得ない。執務室は彼が事務に集中できるよう、誰も入ってこないように部下に言い付けていた。

「何者だ?」

 下崎は柔道三段。しかし殺人や戦闘のプロではない。それでも美燿の殺気に気圧されないのは大物政治家としての胆力だ。

 下崎は問い掛けつつ、こっそりとマウスを操作した。美燿に目を向けつつ、視界の隅では机の上のパソコンの画面でメーラーが立ち上がる。画面一杯に拡がったメーラーは、メールの送受信ができないメッセージを表示していた。事前に通信回線を、美燿が物理的に切断したのだ。

 そして美燿は下崎の誰何すいかを無視。

「な、何をする? やめろ!」

 美燿は力ずくで下崎を縛り上げた。抵抗しようとして下崎は驚く。力自慢の下崎とは言え、彼はプロの格闘家ではない。下崎よりも筋力に優れた者など幾らでも居る。しかし目の前の小柄な女性に、単純に膂力りょりょくで全く敵わないというのが信じられなかった。あり得ないことが起こっている。

「何の真似だ?」

 下崎の問い掛けを美燿は切り捨てる。

「お前が話していいのは質問ではない、懺悔だ。七年前の事件、秘書の谷口一家殺害のな」

「何を言う!」

 過去の罪を問われ、下崎は激怒した。彼にとっては自らのすべてが正義なのだ。

「儂ら政治家のお陰で貴様ら国民が生きていけるんだぞ。儂が汚職の告発などされれば、政治ができぬではないか!」

「そのために妻ばかりか、五歳の息子まで殺したのか」

「この世に残っても不幸なだけだろう。親の元に送り届けてやったのだ」

 ぬけぬけと酷薄な台詞セリフを言ってのける下崎。

「なるほど。つまり、こういう感じだな」

 椅子に縛られた下崎の机の上に、美燿は一枚の写真を置いた。防寒着を身に纏った、がっしりした中年男のバストショット。ただし、写真の男は雪上に拡がる血の海の中で息絶えていた。

「太一!」

 下崎 太一。下崎 大輔の息子である若手政治家だ。

「探すのに苦労したぞ。大阪に行ってみれば、長野で登山中だと言う。山中で殺して、死体は埋めておいた。まず発見されないだろうな」

「貴様ぁ〜!」

「何故憤る? ゴミが一つ、日本から減ったんだ。政治家なら喜んではどうだ?」

「殺す! いや、貴様は後だ! 覆面しようが素性などいずれ分かる。貴様の家族から殺してやる。楽には死ねんぞ!」

 下崎の呪詛を美燿は鼻で笑う。

「私も大切な家族がいるぞ。もっとも狙撃だろうが、お前の兵隊ごときにられる間抜けはその中にいないが」

 そして美燿は手刀を下崎の腹に刺した。それは下崎の服と皮膚を貫通し、内臓に穴を穿つ。

「息子が地獄で待っているぞ。まあ死ぬまで時間はある。祈るくらいはできるだろう。もっとも、お前に懺悔など、期待するだけ無駄なようだな。せいぜい己の冥福でも祈っておけ。

 或いは……」

 美燿は言葉を切る。フルフェイスヘルメットの美燿の表情は見えないが、下崎は彼女が嘲っているように感じた。美燿は続けた。

「お前の護衛が早く助ければ、死にそびれるかも知れぬが」

「た、助けてくれ!」

 下崎の命乞いを意に介さず、美燿は部屋を出た。


 執務室のドアを抜けた場所は応接室だった。応接室の奥は観音開きのドアが開きっ放しになっていて幅の広い廊下に繋がっている。そして応接室と廊下の床には、数人のSPの死体が転がっている。廊下の死体は上着を脱がされてワイシャツ姿、剥ぎ取られた背広が床に散乱していた。ここにいた護衛たちは、美燿が侵入時に全員殺したのだ。

 そして廊下から、新たにやってきた九人の護衛たちがこちらを窺っていた。

 美燿は応接室のテーブルに目覚まし時計のようなものを置いた。置いた瞬間、時計の『5:00』という表示がカウントダウンを始める。

「下崎 大輔は死にかけている。五分以内に救出すれば、助かるかも知れないな」

 言い終える直前に、三人の護衛が美燿に飛び掛かった。美燿に接近した瞬間、一人は手刀で首を切断、二人目は喉、三人目は胸を中指で貫かれ、呆気なく死亡。一瞬の出来事に三人は攻撃する間もなかった。出遅れた六人は慌てて廊下の方に引き返して、ドアの陰に隠れた。

 生き残った護衛たちは背広の内側、脇に下げたホルスターからワルサーP99DAOを抜き取る。ドイツワルサー社、ポリカーボネート製の最新鋭の拳銃ハンドガン弾薬アモは一五発だ。

 一人が美燿を撃つ。胸を狙ったそれを美燿は躱す。ただし上半身だけで躱したのではなく、全身で動いた。弾丸という高速の攻撃に対して最小限の動きで対処したのではなく、一見無駄に見える動作で対応したのだ。実はこの動作こそ、連続で躱し続ける秘術である。

 護衛たちは次々と撃った。まるで一方的な殺戮ワンサイドゲームに見える銃撃戦ガンファイト。しかし美燿はその全てを躱し、当たらない。どれほど撃っても当たらない。

 例えば、一人の人間がたった一発の弾丸を撃った時、それを避けられるか? よほど運に恵まれれば、たまたま避けられた、ということはあるかも知れないが、まず無理だ。

 では一五発フルに撃てば? 数人が同時に撃てば? 相当な強運と超人的な能力で以てしても、少なくとも人間には不可能だ。

 しかし美燿は六人の連続攻撃を全て躱した。

 米国アメリカFBIの調査によれば、拳銃ハンドガンでの銃撃戦ガンファイトの交戦距離は平均七メートルだと言う。このため、拳銃ハンドガンを『全長七メートルの透明な棒』に喩えることがある。美燿はこの、見えない六本の棒を躱し続けているのだ。実際には棒に当たる、つまり銃の射線上に美燿が来ることはあった。しかし引金トリガーを引く時には既に射線上にはいない。

 悪魔憑ルディンメを除いた生身の人間では地球上で唯一、美燿にしか成し得ない行為。だが彼女も、ただ身体能力だけでは達成できない。石敢當家に伝わる戦闘術『小輪法しょうりんほう』の奥義を使用して初めて実現する。

 その名は『禹歩ユーブ』。

 未だ実在が証明されていない古代中国のシャア王朝、その創始者、ユー王が発明した技。


 ―― それは数十の斬撃をけ、数百の槍をけ、数千の矢をかわす ――


 神の時代から人の時代へ、黄帝から始める系譜の末裔。神から王位を継承した超人、禹王の技。

 それが時代を超えて、現代に現れたのだ。そしてそれは銃撃戦ガンファイトにも通用することが証明された。ただし景氏に始まり石敢當家に続く歴史の中でも、使うことができたのは数えるほどしかいない。

 景氏以外には誰も文献を発見できなかったため、禹歩はオカルティストなどにより、想像でのみ再現された。それらの再現は『禹歩』の名前の連想で、脚の動きだと誤解されている。しかし本来は全身を使用するのだ。

「持ってきたぞ」

 この場を離脱した一人の護衛が新たな拳銃ハンドガンを六挺用意した。六人は銃を持ち替える。ロシア製の拳銃ハンドガン、トカレフTT33だ。全世界で最も使用されている弾薬アモ、9ミリ パラベラムでなく、トカレフTT33と共に旧ソ連で設計・生産されたトカレフ弾を使用する。

 トカレフ弾よりも高性能である9ミリ パラベラムは、人体を貫通しないように設計されている。貫通しないことで、破壊エネルギーの全てを対象者に与えるのだ。また、犯人の後ろに人質がいても、犯人以外を巻き込みにくい。対して、トカレフ弾は人体を貫通してしまう。更に壁などに当たった後も弾丸バレットの勢いが落ちにくいため、跳弾する。つまり使用者にとっても危険度が高い。

 カウントダウンしている時計状のものは、残り三〇秒を切っていた。護衛たちは互いに顔を見合わせ、頷く。それは、覚悟を決めた者の表情。

 一人がダッシュで肉薄し、美燿に飛び付いた。美燿の手刀がその腹を貫く。その男の背中に味方のトカレフ弾が多数命中!

『味方ごと撃つ』、つまり任務達成のためなら命をも捨てる覚悟で護衛たちは闘いに挑んだのだ。

 しかし美燿は組み付きを躱し、撃った時には既に真横に避けていた。死にゆく男は最後の足掻きとして、わざと倒れながら脚を掴もうとする。それすら避けられるだろうと男は予想する。しかし足元の障害を避けようする者は、フットワークが格段と落ちる。その状態では複数の射撃をことごとく躱す神業かみわざもさすがにできるはずがない。

 残った五人は美燿を一斉に撃つ。

 だが美燿は、足元も銃撃もあっさり躱した。その程度で禹歩は破れない!

 時間は残り二秒。

 少し経って美燿は残り時間を確認する。残り一秒。そして美燿は消えた?

 驚く護衛たち。その護衛たちの間に突然現れた美燿。神速で移動したのだ。護衛たちがそれを認識した時には、全員が喉を刺し貫かれていた。

 そして爆音。

 火薬が、血が肉片が骨片が散らばる。爆炎が薄れ、床には顔や身元・性別どころか人数すら判別不可能な、かつて人間だったもの。

 クレイモア。中世スコットランドの騎士ハイランダーが手にした大型剣の名を付けられたその近代兵器は、騎士の高貴さとは対極的な凶悪さを持つ指向性対人地雷だ。応接室に五器、廊下に四器、クレイモアは床に散らばる背広に隠していたのだ。先に殺した護衛から背広を剥ぎ取ったのは、この罠の偽装のためであった。一器当たり七百個の鉄球が爆発によって超高速で飛翔し、人間をミンチに変える。

 静寂が戻った廊下。天井にへばり付いていた美燿は床に降りた。

 そして一瞬よろめく。が、すぐに立て直した。

「あ〜あ、疲れたあ」

 戦闘の緊張が解けて、これまでとは別人のような、普段ののんびりした口調に戻っていた。ただし実際には「疲れた」どころではない。美燿は敵の攻撃も受けず、クレイモアに巻き込まれることもなかった。しかし禹歩による、途轍もない肉体の酷使の反動が出たのだ。

「禹歩はせいぜい七分くらいが限界かあ」

 それでも、まだ戦闘できる程度の余力はある。さすがに禹歩は二〜三日中には無理だが。

 執務室を見ると、下崎はまだ辛うじて生きていた。とは言え瀕死だ。死亡も時間の問題だろう。美燿は部屋にガソリンを撒いた。

 美燿が去り、炎上が始まった事務所は、もはや無人だった。


 夜の街のあちこちでパトカーのサイレンが鳴り響く。

 美燿は八王子のビルの屋上に寝転んで星を眺めていた。これからのことを思い浮かべる。思い浮かべてゲンナリした。沖縄から東京までは飛行機で来た。しかし帰りはそういうわけにはいかない。

 現在は警察によって東京中に非常線が張られている。だから藤林家より譲り受けた無線機で、暗号を復号した警察無線を盗聴しつつ、ビルの屋上や民家の屋根伝いなどで八王子までやってきた。これから神奈川県の高尾山に入るところだ。山中に入れば発見される危険性は激減する。警察の山狩り程度はまったく問題ない。

 夜間は山中の人の入れない場所を走り続けて、二日目以降も人目を避け、夜間に車の来ない自動車道を、藤林家からもらった折り畳み式超小型電動バイクで走り続ける。山口県と福岡県の間、鹿児島県から沖縄宮古島間の海は夜間にモーター付ゴムボートで渡る。これも藤林家からもらった物だ。日中は迷彩柄のシートにくるまり、木の上で眠る。

「またクマかあ」

 家に帰るまでの当面の食事は熊やリスなどの野生動物や昆虫、野草になるだろう。

 美燿はビルから飛び降り、西に向かった。

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