戦(いくさ)の心構え

 俺はどうすべきなんだ?

 凪良さんのことで迷っている。説得して今の悪事を辞めさせただけじゃ、解決にはならない。借金をなくし、ヤクザをどうにかしないと意味がない。

 俺が事務所に乗り込んでヤクザを全員ぶちのめす? さすがに無理か。

 迷っていて、従姉の美燿みようちゃんのことが頭に浮かんだ。美燿ちゃんに力を借りようか?

 石敢當いしがんとう 美燿みようは沖縄の宮古島に住む、高校二年生だ。二人姉妹の妹で、姉は高校三年生のれいさん。

 そして藤林家の『天才』優弧に『化け物』とまで言わせる存在が美燿ちゃん。

 そもそも『超人』『化け物』という言葉は本来『どこにでもいるような普通に優秀な人間とは、比べものにならないほどの実力を持った者』を指す比喩だ。麗さんだったらその通りだけど、美燿ちゃんに対する『化け物』は比喩じゃない。

 あれが人間のはずがない。


 石敢當家の技や訓練方法は秘密だから、石敢當家出身の母さんも俺や優弧には教えてくれない。でも以前に美燿ちゃんが「このくらいだったら教えてもいいよ」と『次期継承者の権限』で、石敢當家の戦闘術『小輪法しょうりんほう』の中の一つの訓練方法を教えてくれたことがある。

『ハブとマングース』と言う。

 いわゆる『ジャンケンポン、あっち向いてホイ』でジャンケンをしない版だ。どんな凄い訓練方法かと思っていた俺は拍子抜けした。だけど実際にやってみて、それがどれだけ恐るべき訓練かを思い知る。

『ハブとマングース』は『あっち向いてホイ』よりも、ルールが少し細かく定められていた。


 ①指を差す方が『ハブ』、首を動かす方が『マングース』で、一分ごとに交代する。

 ②『ハブ』の掛け声は『あっち向いてホイ』じゃなくて『ホイ』だけ。

 ③『ハブ』は肘から人差し指までまっすぐに伸ばし、肘から先を動かす。一般的な『あっち向いてホイ』のように指先だけを動かさない。

 ④『ハブ』は掛け声と腕の動きを同時に行う。それぞれをバラバラのタイミングでしてはいけない。


 こんな感じだ。

 ①はジャンケンしないから妥当だし、②③だって別に『奇妙なルール』ということもない。残りの④は当たり前のことを敢えて明言しているだけだ。

 ちなみにうちの家族でジャンケンをすると、素早い後出しの応酬になって『一般人にバレない』をすぐに逸脱してしまうんだけど、美燿ちゃんとジャンケンするとすべて負けてしまう。こっちの後出しに素早く後出しして、その後に後出ししようものなら『一般人にバレない』を守れないから諦めるしかなくなる。こちらを諦めさせる絶妙なタイミングなんだ。これがうちの家族でするジャンケンとの大きな違いだ。信じられない速さに加えてうまくタイミングを図る抜群の感覚を持っている。だから『ハブとマングース』も絶対勝てないだろうと思った。

 その程度の認識だったんだ。でも全然違った。

 俺が最初に『ハブ』になった。まず一回目、『ホイ』と言って指差す。予想通り躱される。そして二回目をやろうとして美燿ちゃんに言われた。

「チーちゃん、一回ごとに休んじゃダメ!」

 一回ずつじゃなくて連続でするということだ。それで四回連続して、勝てないのでどうしようか考えると、休むなと叱られてやり直し。つまり一分間ずっと連続でやるわけだ。今度はそうしようとしたけど、『ホイ』を連続で言い続けて、つい腕の動きとずれてしまったから、またやり直した。

 首の動きより腕の動きの方がずっと速い。だからまず顔の方向を指差す。そして相手が違う方向を向いた瞬間に、素早くその方向を後追いで指差す。必ず追い付く。それから逃げられるほど、首は素早く動かせない。デタラメに首を振ったとしても、それをよく見て指差せばいい。首を動かす方は、指をよく見て素早く反応するのは不可能だ。だからこれは絶対に勝てる。

 その『絶対』が美燿ちゃんに通用しなかったんだ。全く勝てない。結局一分間、最後まで勝てなかった。リアルタイムで確認しつつゲームもするのは無理だったので、ビデオカメラで撮影してスロー再生したんだけど、本当にかすりもしなかった。

 そして交代。俺が『マングース』になり、美燿ちゃんの『ハブ』の指差しに片っ端からアウトになる。元々『ハブ』の方が圧倒的に速いはずだ。でも俺が『ハブ』になっても全く勝てなかった。そんな俺が『マングース』になって勝てるわけがない。ただ「これはゲームじゃなくて訓練だから、アウトでも続けよう」と言われて再開。

 四秒でリタイア。

 もう一度挑戦したけど六秒が限界、美燿ちゃんから「チーちゃん、これ以上しない方がいい」と事実上の『ドクターストップ』を言い渡されて、続けるのを断念してしまった。

 俺は突き(パンチ)を素振りなら五秒で五〇発打てる。一秒に一〇発だ。ただし素振りじゃなく実戦ではそこまでできない。これが一〇秒で一〇〇発になるとかなり厳しい。たった一〇秒のはずが、秒間一〇発の一〇秒、一〇〇発打つ一〇秒はかなり長い。でも何とか辛うじてできる。二〇秒で二〇〇発になると、もう無理だ。二〇〇発を二〇秒以内に打てない。じゃあ二〇秒を超えてもいいから二〇〇発を最速で打てるかと言うと、中々難しい。マラソンで全力疾走するようなものだ。体力が保たず、途中でバテてしまう。

 それに対して『ハブ』の指差しは慣れていない所為せいか、一秒間に四〜五回程度しかできなかった。だけど逆に突きよりペースが遅い分、一分間でもできた。

 ところが『マングース』をやると状況が一変する。突きの秒間一〇発どころじゃない。これを六〇秒も? おかしな話だけど『一分って六〇秒もあったんだ』なんて、当たり前のことを痛感してしまった。カップ麺も作れない時間が地獄の永遠になるのか。

 高速で首を動かす動作は一回だけなら全然問題ない。でも連続となるとヤバい。変な動かし方をすれば『首の筋を違える』じゃ済まない予感がした。更に頭をあちこちに激しく動かして目が回ってしまった。もう完全に勝負どころじゃなくなっていた。勝負で勝てないどころか、一〇秒も続けられなかったんだ。これを六〇秒も続ける、そして交代して三〜五セット。不可能だ!

 俺が諦めた後、母さんが「久し振りにやってみる」と、母さんと美燿ちゃんが指差しなしで首振りVS首振りの勝負をした。

 驚いた。とにかく凄かった!

 目の錯覚かと思うような非現実的な光景が、俺の目の前で繰り広げられていた。まるで、人間の皮に潜り込んだ未知の生物同士が争っているようだった。結局、さすが次期継承者というか、美燿ちゃんが母さんに勝った。母さんが勝てないということは藤林家の誰も勝てない。

 母さんも石敢當家の人間らしく慣れた感じだったけど、二人の動きを見て気付いたことがある。とても滑らかな動きなんだ。『あっち向いてホイ』では誰もが首に力を込めて素早くカクカクと動かすけど、そうじゃなくて水が流れるみたいに滑らかに動かす。まるでゆっくりと動いているような錯覚を受けるので、それでどうして成功するのか不思議だと感じてしまう。

 見ただけじゃ分からないけど、恐らく何か特殊な技術があって、優秀な才能を持った人間が一〇年以上の厳しい訓練で初めて身に付けられるのだろう。そう判断した俺は、母さんの話を聞いて驚愕した。

 その程度じゃなかった。その技は石敢當家でも美燿ちゃんしか修得できなかったらしい。母さんでも、現継承者である伯父さん、美燿ちゃんの父親でさえ、この技は未熟で充分にできないと言う。しかも美燿ちゃんのように完全にマスターした人間が全身でやれば、銃撃戦でも活用できるとか。銃弾を避けられるのか? とんでもねえな。

 こんな化け物が美燿ちゃんなんだ。


 本当は自力でやるべきだろう。だけど自信がない。だからまだ迷いを引きずりながらも、美燿ちゃんに応援を頼むべく電話を掛けた。

 繋がらない。圏外か電源を切っている。

 家に掛けると伯母さんが出た。美燿ちゃんに手伝ってほしいことがあると伝える。

『ごめんねえ茅汎ちゃん。美燿は今、裳着もぎなのよ。数日間は電話に出られないわ』

「そうなんだ。じゃあ石敢當家じゃ一七歳で裳着をするの? というか、よく考えたら美燿ちゃんは一二月生まれだから誕生日じゃないよね?」

『うちは年齢は関係ないの。裳着や元服は一人前だと判断したらするのよ』

『裳着』とは平安時代の貴族の女子の成人式のことだ。女子の裳着と違って男子の『元服げんぷく』は武士の文化として幕末まで続いたから、こっちの方は知名度があるけど。

 ただ宮古島は一五世紀(それ以前の説あり)に沖縄本島に成立した琉球王国に、ほどなくして領土に組み込まれ、明治三年には琉球王国は消滅して日本の領土になった。江戸時代初期には薩摩藩に属国化していたし、それ以前にも日本とは貿易などの交流はあっただろうけど、元服はともかく裳着という言葉が宮古島にあるとは思えない。平安末期に源為朝みなもとのためともが沖縄本島に渡って琉球王朝の祖になったという話も伝説の域を出ないし。だから石敢當家に『裳着』という言葉があるのは、きっと何か特別な歴史的背景でもあるんだろう。

 以前に美燿ちゃんから聞いた話によると、石敢當家の裳着や元服は『魔物マジムン退治』という仕事をする。その仕事を達成して成人、一人前だと看做されるそうだ。ちなみに『石敢當』という名前は沖縄の魔除けの名前で、沖縄では三叉路などの道端に『石敢當』と書かれた石碑が至る所にある。石敢當家が今の苗字になったのは江戸時代で、それ以前は『西守いりもり』だったらしい。

「茅汎ちゃん、人を殺す覚悟はできたの?」

 伯母さんがいきなり物騒なことを訊ねてきた。藤林家も石敢當家も普通じゃないから、お茶の間の会話でも、こんな単語が普通に飛び出す。

「それはまだ……」

「美燿に手伝ってほしいことがあるんでしょう? それって殺し合うのよね? 茅汎ちゃんはうちの子じゃないから、とやかく言いたくはないけど、覚悟がなかったら死ぬわよ」

「う、うん」

「よく考えるのよ。美紗みささんにも相談しなさい」

「分かった。ありがとう」

 電話を切った。

 母さんに相談しろ、か。


    ♦ ♦ ♦


「あっ!」

 倉庫のシャッターの中を覗き込んだ人物は、驚いて声を上げた。

 突然の闖入者ちんにゅうしゃに田山 修一は一瞬戸惑ったものの、その正体が少女だと分かって舌舐めずりした。少女の年齢は高校生くらい。髪は三つ編み、ふちが太く黒い眼鏡を掛けている。グレーの薄手のセーターにジーンズ、地味で真面目そうな、垢抜けない容姿だ。

『アイランド』の西側にある『内港』はアルファベットの『E』の形をしている。ここは『E』の下側(南側)にある港湾施設の倉庫の一つ。男ばかり三〇人ほどいるが、暴力団大泊組の所有である、この倉庫内にいるのはヤクザばかりだ。そして取り引き先の外国のマフィアがやってくることになっていた。

「す、すみません、間違えました」

 怯えた表情で少女が謝る。実際に何かの間違いで迷い込んだのだろうが「すみません」と言っても、もはや帰すわけにはいかない。

「おい、女!」

 田山は少女に呼び掛け、拳銃ハンドガントカレフTT33を向けた。

「ひいぃ!」

 少女が短く悲鳴を上げた。

「撃たないで!」

 泣きそうな顔で懇願する。その表情は、まともな人間なら可哀想だと思うだろう。しかし田山のようなクズには、ただ嗜虐性をそそらせるだけだった。他のヤクザたちも少女の方に近付いてきた。

「逃げたら撃つぞ! ほら、こっちへ来い」

 ガクガク震えながら、少女が一メートル先まで近付いてきた。田山はその躰を舐め回すように上から下までじっくり眺めて、この少女が地味な外見に似合わず、セーターとジーンズ越しのその体つきがかなり魅惑的なことに気付いた。

「へっへー、こりゃあ楽しみだあ。まずは両手を上げろよコラァ!」

 言われて少女が素早く両手を上げた。

 少女は手を上げる直前、鉛玉を床に叩き付けていた。鉛玉と言っても弾丸の暗喩ではない。『黒豆くろまめ』と名付けられたそれは鉛製のボールだ。直径三センチ、一六〇グラム。時速一一〇キロというその速度が野球の投球フォームでなく、こっそり投げたという点は驚嘆すべきだろう。しかし少女の両手に意識を上に誘導され、視界の外、真下に打ち付けられた『黒豆』に、田山は全く気付かなかった。『黒豆』はコンクリートの床で跳ね返り、田山の顎を打ち抜く。

 突然、倉庫内の全ての照明が消えた。そして田山がゆっくりと崩れ落ちる。しかし彼が倒れる直前、天井からカンカンカンと甲高い音が響いた。少女が超人的な脚力で跳躍し、天井を逆さまに駆けているのだ。

「な何だ? 撃て! 撃てよ!」

 誰かが叫んだ。何が起こったか未だ把握できず、ヤクザたちは天井に向かってトカレフで一斉に撃つ。敢えて撃たせるために、少女がわざと足音を立てたとも知らずに。

 天井で『光』が散らばった。

「何だ?」

 そしてヤクザたちは次々と打ちのめされる。

「ぎゃあ!」

「痛ええ!」

 少女は天井を駆けた時、真っ黒なビニール袋二つと黒く塗り潰した魔法瓶二つを空中に放り投げた。それらは一セットで『蛍』と名付けられた武器だ。『蛍』は全て銃撃でバラバラになる。ヤクザたちを攻撃したのは、破れたビニール袋から散らばったビー玉だ。

 高さ六メートルの天井付近から落ちたビー玉はヤクザたちに襲い掛かる。しかし本当の『攻撃』はその後。数千のビー玉が彼らの足元に拡がる。暗闇で平衡感覚が低下したヤクザたちはビー玉を踏み付けて呆気なく転倒していく。

「うわあ!」

「や、やめろ、押すな!」

 人間のドミノ倒し。ただし本物のドミノ倒しのように一人ずつ綺麗に倒れるのではなく、互いが互いを巻き込み、連鎖的に共倒れしていく。

 しかし彼らが倒れる前に、『第一弾』よりも空気抵抗の関係で一瞬遅れた『第二弾』『第三弾』が追撃を掛ける。『第二弾』は『光の雨』、それは魔法瓶に入っていた液体状の蛍光塗料だ。

「熱い! あちち!」

「ぎゃあ!」

 蛍光塗料は魔法瓶の中で摂氏九四度に保たれていた。

「いたたた!」

「眼が、眼があ!」

 そして『第三弾』は魔法瓶そのもの。特に内部はガラス製だ。それが粉々の破片となって襲い掛かる。

 しかもヤクザたちは転倒する直前に、更に別の攻撃を受けて次々と昏倒していく。

 元の位置からヤクザたちを挟んで反対側へと音もなく着地した少女は、天井を撃ったヤクザたちに『第一弾』〜『第三弾』が自動反撃している間に、足音を立てずに高速で走り回りながら『本命の攻撃』を仕掛けていた。『黒豆』で次々と頭部を狙い撃ちしているのだ。

 特に、少女の躰を邪な眼で見た田山には最初の攻撃で倒した後、更に頭部に一発と手足などの他の部位に五発の攻撃を与え、頭部以外では骨を砕いている。彼は半年以上を病院のベッドで過ごすことになるだろう。

 三〇人以上のヤクザの中には、上からの攻撃に堪えて未だ立っている強者つわものも数人いた。彼らは仲間が横からも攻撃を受けていることに気付く。しかし『黒豆』の投擲は銃と違って音がしない。仲間が次々と倒されていくのに、どこから攻撃を受けたか分からない。当てずっぽうに周囲をトカレフで撃ったが、少女からの攻撃は止まない。

 しかも暗闇で姿が分からない彼女とは逆に、ヤクザたちは蛍光塗料をたっぷりと浴びて目立っていた。『敵から目立つ』という客観的事実そのものよりも、それを自覚する心理によって彼らは動きが鈍り、及び腰になっていた。少女を探そうにも、暗闇を駆ける少女とは逆に、自身と仲間が発する近くの光が邪魔で探しにくい。こうしてヤクザたちはすべもなく、次々と倒れていく。

 ヤクザが全員倒れた後、その場所に少女が近付いた。

「下手な演技で狸寝入りのつもりかしら、加藤 一郎?」

 おどおどしていた最初の態度からは想像も付かない、凛とした声音。

 隙を窺っていた加藤はバレたことに動揺し、そして素性が知られていることに驚愕した。素早くトカレフで撃つが、あっさり避けられて『黒豆』の反撃で沈む。

 少女は事前にヤクザたちの顔写真と名前を頭に叩き込んでから乗り込んできたのだ。決してうっかり迷い込んだわけではない。怯えた様子もすべて演技だ。しかもヤクザが集まる前に先回りして、照明に細工もしている。手持ちのリモコンで照明のオン/オフができる。ヤクザたちは気付いていないが、倉庫の窓には覆いが掛けられて星明かりも入らない。少女はまだ気絶していない他の者たちにもトドメを刺していった。

 四二秒。それが、一人の少女が一人を残して他の三二人のヤクザを全滅させた時間だった。彼女は二挺の機関拳銃マシンピストル拳銃ハンドガンサイズの短機関銃サブマシンガン)、ベレッタ 93Rを隠し持っていたが、結局最後まで必要にならなかった。

「外に出なさい」

 少女は、たった一人、攻撃を受けず無事に済んだ男に命令、倉庫の外に追い出しながら自分も出る。シャッターの外に出て月の光を浴びた彼女が、いつの間にか眼鏡の代わりに暗視ゴーグルを付けていたことに男は気付いた。少女は両手に手袋を嵌めると、再び倉庫の中に入る。やがて出てきた彼女は、両腕に大量の銃と携帯電話を抱えていた。それらをドサドサと倉庫の入り口に置く。手袋は指紋を残さないためだ。

 後に意識を取り戻したヤクザたちは銃と携帯電話がないことに、それらが倉庫の入り口に捨てられていることに、すぐに気付くだろう。そしてそれが、典型的な罠であることにも思い至る。ノコノコと入り口に近付けば、外から狙撃される。外部の応援を呼ぼうにも、携帯電話も武器も倉庫の入り口にある。つまり、倉庫から脱出できない。

 もっとも、狙撃のために外で待ち構えている人間は実はないし、通報を受けた警察がこちらに向かっている最中だ。恐らく意識を取り戻す前に逮捕されるはずだ。取引先の外国マフィアが来るのは、その直後辺りだろう。

「もうすぐ警察が来るわ。すぐに逃げなさい」

「どうしてぼくだけを見逃してくれる? どうしてぼくを攻撃しなかった?」

「あなたは今までに人を殺した?」

 問われたその男、凪良 俊の顔が引きる。

「その顔は『ない』よね。まだ引き返せると思ったからよ。あの連中は人を海外に売り飛ばし、内臓を売り、生命保険を掛けさせ、死体を秘密裏に処理している。彼らはもう引き返せない」

「君は誰なんだ?」

 凪良 俊は少女と面識がない。

「あなたの妹のクラスメートの、その妹よ」

 カツラと暗視ゴーグルを外した藤林 優弧は演技の声をやめて本来の声音こわねに戻ると、言葉を続けた。

「兄さんが困っていたから少し手伝ったのよ」


    ♦ ♦ ♦


『で、どうするの? 自分の実力でいけそう?』

 スマホから母さんが俺に訊ねる。凪良さんを救うのなら、ヤクザを何とかしないといけない。自力で排除できるか? 俺にはまだ迷いがあった。俺は今、西島通りにある交差点で立ち止まっている。『大泊組』の暴力団事務所はこのまま前方へ進んで、南部の工業地帯に向かう。目の前の信号が青になり、テーマパーク帰りなのか銀色の風船を持った子どもが、両親に連れられてこちらへ歩いてくる。

「あっ!」

 うっかり手放した風船が空へ飛んでいく。俺と同じだ。一度決めれば、もう元の分岐点まで戻って来れない。

「自分でやるよ」

 迷いを残しながらも結論を出す。やらないと何の解決にもならない。

『……分かった。母さんは何も言わない。ちゃんと帰って来なさい』

「うん」

 電話を切った。信号は青。俺はそのまま南へ、まっすぐ進む。大泊組の事務所への方へ……


    ♦ ♦ ♦


 何かが変だ。

 まず、事務所には見張りがいなかった。俺は用心しながら中に入る。入れる時点で普通じゃない。何か異常なことが起こっている。凄まじい血の臭いがする。長い廊下を抜けると、

「なにい!」

 そこは広めの部屋。十数人が惨殺された? 正確には何が起こったのか分からない。相当な量の肉片、骨の欠片、そして血が、床一面どころか壁一杯、そして天井にまで飛び散り、こびり付いている。衣類らしい布切れが辺りに散乱していることで、殺されたのが動物でなく人間だと辛うじて分かった。だけど何をすればこうなるんだ?

 そんな壮絶な室内に、生きた人間が二人だけいた。犯人か? 一人は狂犬のような目付きの少年、俺くらいの年齢。全身血まみれだが返り血か? もう一人は二十歳くらいの女性。漆黒のブラウスにカチッとした黒のスラックスを履いている。宝塚の男性役ができそうなキリッとした雰囲気。黒づくめだから悪魔ディンメだろうか? だとしたら男の方が悪魔憑ルディンメ? ただ妙なことに、女性の顔が見えなかった。隠しているのじゃなくて、闇に覆われている。どうなっている?

「忠告したはずだが。ゲームオーバーは一度しか認めないと」

 女性が溜め息をきながら言った。何の話だ?

〈グアリム、目の前の男女は悪魔ディンメ悪魔憑ルディンメなのか?〉

〈わたくしの目の前には一人の男性しかいませんが?〉

 どういうことだ?

「無駄だよ。グアリムには今の私は見えない」

 女性が俺に告げた。俺とグアリムとのテレパシーが聞こえている?

「あんた、何者なんだ?」

 俺が訊ねると彼女は驚いた顔をした。

「すまない、うっかりしていたよ。君の記憶を消したので、私と遭ったことも私の忠告も覚えていないことを失念していた。もう一度自己紹介をしよう。私は悪魔ディンメスクールマシュだ」

 俺の記憶を消したのか?

〈俺は、相手に特殊効果を与えるのは悪魔憑ルディンメだけだと思っていた。悪魔ディンメでもできるのか?〉

〈いいえ。悪魔ディンメにできることは契約者の人間を悪魔憑ルディンメに変え、『願命』を受理すること、契約者とのテレパシー、契約者の体に入ること、後は他の悪魔ディンメを見て正体に気付くことだけです。身体能力としては泳げる者や、わたくしのように飛べる者もいますが〉

「グアリムの言う通りだよ。悪魔ディンメは『願命』を受理する以外には、大したことはできない」

 俺とグアリムのテレパシーにスクールマシュが割り込んできた。

「あんたは例外ってわけか」

「私は悪魔ディンメであって悪魔ディンメでないからな。まあ安心してくれたまえ。このような例外は私だけだ。また、私はこういった能力を使用して闘うこともしない。

 私のすることと言えば、君たち悪魔憑ルディンメの闘いを鑑賞し、ちょっとしたちょっかいを仕掛けるだけだよ」

 警戒する俺とは対照的に、スクールマシュは悠然と微笑んでいた。

「ともあれ、私の忠告はなかったことになったのだな。

 まあいいだろう、一度、ゲームオーバーを体験するといい。ただし、次はないぞ」

 ゲームオーバーって何のことだ?

「では、時間の流れを通常の速さに戻そう」

 すると、彼女の隣にいた少年が動き出した。そう言えば、彼はさっきまで静止していた。少年は一瞬俺を見たが、それから横を向いて呟く。

「ここには何がある?」

 何が? と思うと彼は俯き、咳き込んだ。血をいている!

「大丈夫か?」

 彼に駆け寄ると、血がこちらに飛んできた。とっさに血を避けると、血は軌道を変えて俺を追ってきた! 予想外のことに避け切れず、腹に血が付く。


【『皇帝アンプルール』の悪魔憑ルディンメは『月光リューン』の悪魔憑ルディンメによる『願命』の対象に指定されました。

『願命』の内容は


『我は願う。吐血を代償とす。自身から半径一〇メートル以内に悪魔憑ルディンメがいること、「ここには何がある?」と発言することを条件とす。自身から距離一〇メートル以内の悪魔憑ルディンメに我の血が付き、二時間以内、距離一キロメートル以内の血の位置を知覚させ賜え』


です】


「なに⁉」

 やっぱりこいつも悪魔憑ルディンメなのか。

 口の周りが仄かに光っている。その光は炎のように、ゆらゆらと妖しく明るさが増減していた。

〈茅汎様、『月光リューン』の悪魔憑ルディンメは攻撃と破壊に秀でた『イズィ』属性の第二位である『大公デューク』です。しかも各属性の大公デューク至高王ロードと違い、初期状態からかなり強大な能力を有しています。大変危険です!〉

 グアリムが慌てた口調で警告する。男は、まるで俺がかたきでもあるかのように睨み付けてきた。

「お前も悪魔憑ルディンメか?」

 男が俺に問う。

 さっきの『願命』は俺が悪魔憑ルディンメであることが発動条件、つまり誤魔化すのは無意味だ。

「だったらどうする?」

「殺す」

 どうして?

狂狼闘牙ウルグルシュ!」

 男が俺にボディブローを打ってきた。俺はその攻撃を避けた。いや避けたはずなのに腹部に命中した。男の拳が俺に合わせて動いたんだ。だけどそれは明らかに体術じゃない。

 拳が光っている。それはまるで、アニメなどで魔力を帯びている演出みたいだと思った。

「ぐっ!」

 男がまた血をく。俺も血をいた。


抵抗ガバシュ、ダメージを九九.九九八%軽減】


【『皇帝アンプルール』の悪魔憑ルディンメは『月光リューン』の悪魔憑ルディンメによる『願命』の対象に指定されました。

『願命』の内容は


『我は願う。吐血を代償とす。対象が自身から距離一〇メートルの我が血の付いた悪魔憑ルディンメであることを条件とす。我が攻撃を命中せし賜え』


です】


【『皇帝アンプルール』の悪魔憑ルディンメは『月光リューン』の悪魔憑ルディンメによる固有能力アイジェンパワー狂狼闘牙ウルグルシュ』の影響を受けました。

狂狼闘牙ウルグルシュ』の効果は


『攻撃の命中箇所を粉砕する』


の模様です】


 俺の視界いっぱいに血と肉が飛び散った。俺は下半身を動かせず、倒れる。腹が、腹の一部がなくなっている!

 俺は死ぬのか?

「さすが『皇帝アンプルール』、この攻撃で生きているのか」

 男が憎々しげに呟いた。

〈相手はレベルⅡ以上、逃げてください!〉

 無理だ、立ち上がれない。逃げられない!

 男の隣に立っているスクールマシュを見た。スクールマシュはやれやれ、と芝居がかった身振りをして俺に告げた。

「ゲームオーバー」

 俺の人生がゲームオーバーってか?

 くっそう、こんなところで死ねるか!

狂狼闘牙ウルグルシュ!」

 男が蹴りを繰り出す。倒れて下半身が動けない俺は、腕だけで上半身を動かす。だが躱せない。

 蹴りが顔に迫る!


 ……


 ヤクザたちの死体の山に、腹部の一部と頭を失った藤林 茅汎の死体が加わった。この場所で生きているのは悪魔ディンメスクールマシュ、そして『月光リューン』の悪魔憑ルディンメである渡会わたらい けいの二人。ただし渡会はスクールマシュの存在を認識できなかった。

〈『皇帝アンプルール』の悪魔憑ルディンメは五千年前から、代々『月光リューン』の悪魔憑ルディンメ好敵手ライバルでした〉

 渡会の中から、月光リューン悪魔ディンメ『ウリディンム』が彼に語り掛ける。落ち着いた静かなその口調は、しかし物悲しげであった。

〈敬様、これからも悪魔憑ルディンメを殺していくのですか?〉

〈当然だ。悪魔憑ルディンメは、存在自体が悪だ〉

〈敬様も悪魔憑ルディンメなのに〉

〈俺の命は、自分で奪う。悪魔憑ルディンメだからな。両親と妹を失った痛みは、ヤクザと悪魔憑ルディンメを殺すことでしか癒やせない。だから殺す相手が絶えれば自分の存在を消すしか、この苦痛から逃げられないんだよ〉

 渡会は死体だけの大泊組の事務所を去った。


    ♦ ♦ ♦


『で、どうするの? 自分の実力でいけそう?』

 スマホから母さんが俺に訊ねる。凪良さんを救うのなら、ヤクザを何とかしないといけない。自力で排除できるか? 俺にはまだ迷いがあった。俺は今、西島通りにある交差点で立ち止まっている。『大泊組』の暴力団事務所はこのまま前方へ進んで、南部の工業地帯に向かう。目の前の信号が青になり、テーマパーク帰りなのか銀色の風船を持った子どもが、両親に連れられてこちらへ歩いてくる。

「あっ!」

 うっかり手放した風船が空へ飛んでいく。俺と同じだ。一度決めれば、もう元の分岐点まで戻って来れない。

「……とりあえず、後回しにする」

 俺にはまだ迷いが残っていた。やらないと何の解決にもならない。だけど自分にできるか?

『分かったわ。もし行動するんだったら、母さんに相談しなさい』

「うん」

 電話を切った。信号は既に赤。俺は踵を返して北に戻る。そのまま、家に帰ることにした。


    ♦ ♦ ♦


 大泊組への侵入者に渡会は目を向けた。サングラスを掛けた大人の女性。少しきつめだが、かなりの美人。渡会が大人なら「いい女」だと思っただろう。セミロングの髪は後ろで纏め、バレッタで留めている。ベージュのブラウスにグレーのスラックス、靴はダークブラウンのコインローファー。スカートにヒールでないのは、動きやすさ重視のため。そして目立ちにくい色彩にしている。若く見えるため、外見は二〇代後半ぐらいだが中高生の子どもがいるとは誰も思わないだろう。彼女は藤林ふじばやし 美紗みさ、茅汎と優弧の母親だ。渡会は横を向いて呟く。

「ここには何がある?」

 横を向くのは、一瞬でも相手の気を逸らせるかも知れないからだ。『願命』が成立すれば渡会自身は横を見ていても相手の位置を掴める。渡会は血を吐かない。それは美紗が悪魔憑ルディンメでないことを示している。しかし彼女に悪魔憑ルディンメの知人がいるかも知れないと思い、鎌を掛けた。

「あんた、『悪魔憑ルディンメ』って知っているか?」

「えっ、何それ?」

 一切動揺せずに完璧にとぼけた彼女の答えに、渡会は疑問を抱かなかった。これは戦国時代に藤林氏が開発した技術テクニック察人術さつじんじゅつ』の一種で、嘘をく時に相手の鼻を見るのだ。相手には、目を見て答えているように見える。彼女が嫁いで学んだ藤林家の術だが、実家の石敢當家の『小輪法』も身に付けている。

「これ、キミがやったの? すごいね」

 美紗は血と肉片まみれになった室内を見て軽く驚いた。とは言え凄まじい有様に平然とし『軽く驚く』程度で済んでいることが、彼女が普通の人間ではないことを物語っている。

「ここに何の用だ?」

「ちょっとね。ヤクザから書類を失敬しようと思ったの」

 厳しい口調の渡会の問いに美紗は気軽にそう答え、事務所の引き出しの中を漁る。そして目当ての書類を見付けると友人の黒川くろかわ ごう 警部に電話を掛け、暴力団事務所の惨状を伝えた。

「だからあ、犯人はわたしじゃないってば! それで黒川クンにお願いなんだけど、いくつかの書類を警察そっちで保管してほしいの。わたしがこのまま持って帰っちゃ入手元が説明できなくなるから。じゃあ頼んだわよ」

 電話を切ると渡会に告げた。

「というわけで、これから警察が来るから、キミも早く帰りなさい」

 美紗が帰ってしばらくして渡会も出ていく。

「……やれやれ。茅汎、宇宙ストーリーを書き換えたが、ゲームオーバーは今回だけだ。次はないぞ」

 溜め息をきながらスクールマシュがつぶやく。二人とも、最後まで彼女に気付かなかった。


    ♦ ♦ ♦


巨角突進アリムガル!」

 掛け声と共に能力が発動。

「これは……」

 成果を確認して驚いた。広範囲に渡って自分の前方の物体を押す能力、畏るべき超人的な怪力だ。ただ、これって戦闘向きかどうか。

 俺は西島南部の空き地で訓練をしているところだ。色々試行錯誤して悪魔憑ルディンメごとの個別の特性や能力『固有特性アイジェンフィーチャー』『固有能力アイジェンパワー』を得た。ただし今一つパッとしない。グアリムの話では、俺の成長によって強大になるらしいけど。

 凪良さんの問題を何とかしたい。だけど未だ踏ん切りが着かない。「訓練して、もっと強くなってから」なんて自分に言い訳して、問題を先延ばしにしている。

 雨が降り始めたので訓練を中断した。


 ……


 本当にこれでいいのか?

 迷っているところに電話が掛かってきた。水南枝からだ。

『藤林くん、【救世ぐぜのひかり】って宗教を知ってる? あたし、入信したんだ』

「えっ?」

 よりによってどうしてその宗教に?

「水南枝、あんまりこういうことは言いたくないけど、その宗教はまずい!」

『あたし、本当は教団を信じていないの。でも、実はこの教団、凪良さんが教祖になっているんだって。女神様って言われているんだよ。凪良さん、絶対に教団に騙されているよ! だから潜入したんだ。あたし、凪良さんを説得して連れ出してくる!』

「何考えてんだよ? 水南枝、危ないからやめた方が、」

『大丈夫だよ! この間、説得した時は凪良さん迷っていたもん。心を込めて説得したら、教団が間違いだってきっと気付いてくれるよ。あたし、頑張る! あっ、セミナー始まっちゃう』

「水南枝、ちょっと待っ」

 電話が切れた。俺から掛けたけど、繋がらない。

 やられた!

 水南枝の暴走癖が出てしまった。

 俺の『願命』は、効果を高めるために災厄の元を『他の悪魔憑ルディンメの願命』に限定している。だから一般人による危害に俺の『願命』は効果を発揮しない。ヤクザの集団に水南枝が単身飛び込むとなれば、彼女を護るものは何もない。

 ああ、くそっ!

 やっぱり俺は動かないといけないらしい。

 第一、水南枝だって凪良さんのために、ここまで体を張って頑張っているんだ。それに対して俺はみっともなく、いつまでもグズグズしていた。

 準備は進めていた。『救世ぐぜのひかり』の本部は一〇階建てのビルで建設時の図面も入手、各フロアの見取り図は頭に叩き込んでいる。

 ここまで来たら、もうやるしかない。

 やってやるよ。水南枝を護り、凪良さんを今の状況から引っ張り出す!


 雨が強くなってきたな。

 こういう時は特に困る。戦闘をする時には傘は使用しない、というかできない。そして傘を持ち帰られるか分からない。勿体ないということじゃなくて、敵地に自分のものを残すようなことはなるべく避けたいんだ。

 それで傘も差さずに歩道を歩いていると、俺の横に黒塗りの大型SUVが停まった。母さんだ。『トヨタ メガクルーザー』というその車は、陸上自衛隊の高機動車をベースに民間用に製造したものだ。価格が一千万円クラスの割に乗り心地はお世辞にも良いとは言えないが、悪路に抜群に強い。民用と言っても実際に購入しているのは海上および航空自衛隊の他に、災害救助関係のお役所ばかり。民間人でこんな車を持っているのは、うちの母さんくらいだろう。ちなみにこの車はカスタムメイドで、ボディと窓ガラス、タイヤが防弾仕様だ。助手席に乗り込むと、車はゆっくりと走り出した。

 昨日、母さんが『大泊組』の暴力団事務所に乗り込んだそうだけど、たった一人の狂犬のような少年が組員を皆殺しにしていたそうだ。多分、悪魔憑ルディンメだろう。優弧も連中の倉庫に潜入して三二人を倒したけど、まだ全滅したわけじゃないそうだ。何かのまた別の取引に大勢がどこかへ出払っていたらしい。ヤクザを皆殺しにした少年は「悪魔憑ルディンメの知り合いがいるか?」と母さんに訊ねたらしい。人を探しているのか?

「決心が着いたのね」

「う、うん……」

「茅汎、決めたなら、もう迷わない」

「分かったよ」

 俺の迷いも、お見通しか。母さんは車のダッシュボードの上にスマホを投げ出した。それを俺は手にする。

「これは?」

 画面には男のバストショットが写っている。

 剃髪の中年の丸顔だった。小さな眼は開いているのか閉じているのか分からない。か弱い少女なら見ただけで卒倒しそうな極悪面ごくあくづら

 そして直感的に分かる。こいつはクズだ。今までこの手の人間をたくさん見てきたから、直感はほぼ確信に変わる。こいつは儲かるなら人身売買でも何でもやるだろう。先進国の中で最悪と言われる日本の行方不明者数、推定で年間数万人という数字を作っているクズの一人に違いない。

「そっちは組長、大泊おおどまり たけし

 母さんが一言だけ解説。俺は画面をフリップした。別の男が現れた。更にフリップしたけど反応しない。写真は二枚だけか。二枚目の写真を見る。

 ひどい顔だ。

 それが見た瞬間の感想だった。醜悪、そしてブルドッグを更に凶悪にしたような恐ろしさがあった。その凶悪なつらは熊どころか虎をも殺せそうだ。かなり顔が大きい。日に焼けた迷彩服姿、粘土で造った人間の顔が粘土の重量で崩れ落ちたような容貌。左眼があるべき所がグチャグチャの肉の塊になっている。そして左の頬が削れている。おそらく地雷や榴弾グレネードなどの爆発をこうむったのだろう。そんな苛酷な目に遭って生き延びるだけの強靱さと凶運の持ち主。そして多分、戦闘狂の殺人狂。過去にヤクザの殺し屋の写真を何度か見たことがあるが、こいつはそう言った『人殺しのつら』とは次元が違う。こいつなら手強い敵は楽しんで殺し、無抵抗の女や子どもは小石を蹴るような感覚で殺すだろう。

「そいつがやばい。カルロス・シノハラ。チリの日系人で世界各国の軍やテロリストに傭兵として参加していたの。どんな作戦でもたった一人生き残り、『生還者リターナー』と呼ばれていたわ」

「それっておかしくないか? 映画じゃあるまいし」

 部隊の過半数が戦闘不能になることを軍事用語で『全滅アナイアレーション』と言うが、そんなことは中々起こらない。更に、現実の戦闘で一人だけ生き残るなんて、彼が強いというより、そうなる状況が異常だ。たまにだったらあるかも知れないけど、国や軍が変わっても彼の参加する部隊でばかり起こるというのは、偶然では有り得ない。

「アフリカのある独裁軍事国家で指揮官が部下の兵士に、本人たちに秘密で盗聴器を仕掛けたの。それで彼の仲間殺しが発覚したわ。今や彼は各国の軍とテロリストに命を狙われている。ロシアの特殊部隊スペツナズは彼に生死不問デッド・オア・アライヴで一五〇〇万ルーブル、日本円で二八〇〇万円の賞金を掛けているの。それで傭兵稼業ができなくなったカルロスはヤクザに雇われたわけ」

「人格は最悪だけど、実力は高い?」

「ええ。戦闘が始まると突然いなくなって、敵兵士を全員殺して戻ってくるから『殺戮者ジェノサイダー』って呼ばれていたらしい」

 ヤバい相手だな。

「茅汎、どうするの? 母さんがってあげようか?」

 これが訓練なら「できるところまでやってみる」って言えた。途中でやめられるから。でも実戦なら会敵かいてきした時点で、都合の悪いところでやめられるわけがない。闘って生き残るか、でなければ今やめるかだ。選択を誤れば、死ぬ。

「いいよ。自分で闘う」

 これは自分でやる。俺は、凪良さんに悪事を辞めさせる。だからその行為の責任を取る。そのために、自分の力で連中を倒す。

 もうこれ以上、何かを後回しにしたくない。

 かなり降っていた雨が、車を降りた時には小雨になっていた。今日は雨が強くなったり弱くなったりだな。俺は一人で教団に向かった。


    ♦ ♦ ♦


 雨は一時的に止んでいた。風が、少し強い。

 俺は今、教団ビルの屋上に立っている。凪良さんの所属するこの教団『救世ぐぜのひかり』本部は、解散した別の宗教団体が建てたビルを買い取って使用しているそうだ。場所は西島の北部、西島通り沿いの交差点にある郵便局の隣。

 ビルをよじ登る際に、三階以上の壁の数ヶ所に長さ一メートルの杭を取り付けた。それに気付いた人がいても、ビルの改修工事だと思い込むだろう。この杭と『蜘蛛の子』という道具を使用すれば、俺はビルの壁面から侵入できる。でもその方法では侵入しない。可能な限り正面から入る。この杭は脱出時のために残しておく。潜入は、まず脱出を最優先に考えるのが鉄則セオリーだ。

 俺は西の方角を眺めた。

 空は曇りだけど、西の空では雲の切れ間から綺麗な夕焼けが見えた。夜になれば、また雨が降り出すそうだ。ずっと向こうでは、青い内港橋が茜色の夕陽に照らされている。それより左側、南西には、ここより少し高い星見山も見えた。

 これから俺がするのは闘いだ。四歳からずっと訓練を続けてきた俺にとって、初めての実戦になる。はやる心を落ち着かせる。

 心は静かになり、雑念が消えてゆく。俺は大きく息を吸い、そして吐いた。両腕を胸の前に持って行く。やや肘を張り、そして両手を結んだ。

 両手の、五本の指を組む。そこから両方の人差し指をまっすぐ上に立てて左右の指先を合わせる。

りん!」

 更に、組んだ左右の親指をほどいて伸ばしてぴったり合わせ、人差し指を曲げ、中指を伸ばして、薬指を中指の上から絡ませる。

ひょう!」

 次々と指の形を変えていく。

 次は左右の人差し指と中指を絡ませ、薬指を立てて合わせ、小指を反対側の手の指の隙間から外に出す。

とう!」

 親指と人差し指はまっすぐ伸ばして左右合わせ、中指は左右絡め、薬指は反対側の手の人差し指と中指の間から出す。

しゃ!」

 左の親指の上に右の親指を重ねて、残る四本の指をすべて指先を外に出して組み合わせる。

かい!」

 今度は右の親指の上に左の親指を重ねて両方の指先を手の内側へ、他の左右の指は左右組み合わせながら、同じく指先を手の内側に入れる。

じん!」

 左は人差し指だけ立てて握り、その人差し指を右手の中指・薬指・小指で握る。右の親指と人差し指の指先を合わせる。

れつ!」

 すべての指を開き、親指と人差し指は左右の指先を合わせて輪(日輪)の形にする。

ざい!」

 左手は握り拳を作り、開いた右手の手のひら、指の付け根辺りに左拳の側面(小指側)を当てる

ぜん!」

 最後に俺は左拳に目を向け、口を近付けて呪文を吹きかける。

「ボロン」

 結印『九字護身法』。

りんひょうとうしゃかいじんれつざいぜん

 すなわち、


いどむ兵、闘う者、皆 陣列じんつられて、前に在り(我に代わりて闘う者、皆 列をなして我が前に在り)』


 つまり『俺には神仏と先祖の加護がある』

 戦国時代から我が家に代々伝わる、闘いの前に闘志を高め勇気を奮い起こすための自己暗示。俺は負けない。

 現代日本語では『忍者』と『しのび』は同じ意味になる。だが『忍者』とは昭和の小説家が作った言葉だ。江戸時代から戦前までの日本全国の忍者は『しのび』と呼ばれていた。それ以前、戦国時代の各地の忍者は、新潟の『軒猿のきざる』や東京神奈川の『乱破らっぱ』(『風魔党ふうまとう』など)、その他、それぞれ個別の名称で呼ばれていた。

 本来『しのび』とは、俺たち伊賀者いがものを指す言葉だ。


 この景色を、俺が見る人生最後の夕焼けにはしない。

 父さん、母さん、優弧、俺は闘いに勝って、無事に帰ってくるよ。

「藤林 茅汎、いざ、参る!」

 俺はビルから飛び降りた。

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