悪魔憑であるということ
グアリムも優弧も、山も街も消えた。何もない虚無の中、しかし暗黒ではなく全方位が仄かな無数の光の点に包まれている。
星だ。ここは宇宙か?
その一部の光量が増した。どんどん明るくなっていく。何百何万光年もの距離があるはずの光が俺を照らし、更に光が強くなって俺を焼き尽くそうとする。
「ぐがががああ〜〜!」
焼かれる!
躰でなく俺の心が、情熱が愛情が希望がそして絶望が、焼き尽くされようとしている。
俺の想いが、消耗する、焦がされる、すり減っていく。
ま、負けるか!
俺の恋は俺のもの、
「うおおおおおぉ〜〜‼」
俺の雄叫びと共に、世界が白熱する。その眩い光は俺の叫びに呼応したのか、競合したのか? 光に包まれ何も見えなくなると共に、意識も薄れていく。
俺の心を消す光に、俺は勝ったのか? それとも負けたのか……?
…………
「我らが女神よ。我ら人間に激励の言葉を与え賜え」
「
人間たちは一斉に頭を下げた。彼らは労働し子を増やし、我が國はより強固になるだろう。
だが……
人という存在の、なんと脆弱なものよ。
「やめよ女神よ!」
青ざめた男神は悲鳴のように
「やめよ女神よ! 我らは闘うべき
「まだ
我が秘術により、たちまち海が鳴動し大波が起こる。
「なんと!
「
大波は彼方へ押し寄せていく。その先には男神の、ウルの
「やめろおー!」
……
しばしの間、我らは共に海を眺めていた。和解したのではない。闘う
「どこへ行く?」
そんな
「
「何故だ? そなたと妹君は仲睦まじいのではなかったか?」
「その通り。我が妹は
「……狂っている」
「そうだ。だからそこに、あの山羊頭の魔女に、我が妹はつけ込まれたのだ」
「魔女スクールマシュか。我々すべての神は、あの魔女の掌の上で躍っているのだろうな」
すべてを諦めた男神が呟いた。おそらくそうなのだろう。しかし、今気付いたところで何になろう。もはやすべてが手後れであった。
…………
「ない。ない。足りぬぞ!」
夫の遺体は一部が見付からぬ。もはや諦めるしかなかった。愛しい我が息子は父の凄惨な姿に言葉を失っておる。
「心配するでない。そなたは
我が父にして我が夫の死で、王朝は終焉を迎えた。
ならば、
我が愛しい息子よ。
次こそは、次こそは必ず護ってやるぞ。
…………
わたしが部屋に入ると、男たちが一斉に振り向きました。
「プレスワと申します」
彼らに、
「彼女が亡国の巫女か?」
「その通りです」
男の一人の問いに、わたしの父が答えました。
「牛頭人身の神牛らしいが、」
わたしを見ながら話し始めた別の男の顔には、ありありと不信感が浮かんでいます。
「伝説では王国の危機に顕現するそうだが、かの
「その時が『必要な時』ではなかったのでは?」
「ふん、ならば、いつがその時か? かの王国を滅ぼした我らが滅びようとする今こそ、復讐の時だとでも?」
父の言葉に、男が反論します。しかし父はそれに言葉を返します。
「確かに我らは、かの島を支配しました。しかし王族の秘儀、そして王と神官のみが読める文字の技術は王族の末裔である彼女が、我が娘が妻より継承しています。亡き王族との婚姻を続けた我が一族が伝統を護ってきたのです。だが彼らは、アルカイオスの末裔を名乗る者ども、文字も持たぬ蛮族どもは、それらをも破壊するでしょう。奴らは既に、かの島を占領しました。もはやかの島には文明の
父の説得にも、誰もが浮かない顔をしています。では、わたしが説得しましょう。
「皆様、ご覧なさい」
人々がわたしを見たのを確認し、人間たちを踏み潰さないように注意しながら巨大化、我が身を人間としての体から、契約により授かった神の肉体へと
「なんだ、これは?」
人の十数倍となったわたしを人々が驚いて見上げています。
「我が一族は代々、神牛の巫女を務めてきました。しかし、わたしは違います。わたし自身が女神になったのです」
他の多くの宗教と異なり、わたしたちは神像を創りませんでした。ですから今では代々の秘儀を受け継ぐわたし以外に、神牛の真の姿を知る者はいません。―― 人の体に牛の頭 ――
今、まさに
これで皆様も納得したでしょう。しかし残念ながら説得する時間がなくなりました。
「お逃げなさい。蛮族どもがやってきました」
わたしは右手を天に向け、秘儀を唱えます。
「ジクムドゥル!」
敵の軍勢はまだわたし以外の者には見えないでしょう。しかし敵の中の一人が馬よりも
「
話に聞く、蛮族の王です。
「その地は、玉座を奪われた我が先祖アルカイオスのものである。簒奪されし王位を、あるべきところへ戻してやろう」
彼は「戻し賜え」とは言いませんでした。要求ですらありません、意思表明です。相手の意に沿ったところで結局はわたしたちを蹂躙するつもりなのでしょう。
「戯れ言を。わたしたちが主張を認めて去ろうとしても、逃さず制圧するのでしょう?」
「言うまでもないことを。
彼の言葉の後、晴天がたちまち雨雲に覆われていきました。彼は雷神なのです。天から、無数の
「なんと?」
「わたしの秘儀、『ジクムドゥル』。直径三〇キロメートルの不可視の楯です。この街どころか周辺の街まですっぽり覆う、すべての
わたしは彼の攻撃を完全に防いでみせました。
しかし、それは戦いの終わりではなく、長く続く戦乱の始まりだったのです。
後の世に、わたしたちの文明は破壊され、消滅してゆきます。文字も、読む者が絶えて忘れられていきました。後に
かように、世界はなんと無常でありましょうか。
…………
いつの間にか、俺は暗闇の中にいた。俺の意識は、幾人かの生き様を見てきた。彼女たちは皆、かつてのグアリムの契約者、
彼女たちを見て思った。護るということは、それほどまでに困難なのか。
『藤林 茅汎よ。
女神が俺を、激励する。
『藤林 茅汎よ。そなたこそは、愛しい者を必ず護り切るのじゃ』
女神が俺に、
『藤林 茅汎よ。あなたは、最後まで護り抜いておみせなさい』
女神が俺に、自らの無念より、俺に希望を託す。
やってやるさ。
暗闇が一転、無数の星々が
……水南枝、俺は必ず、君を護るよ。
必ず護ってみせる。そのために得た、
突然、宇宙の星々の一部が移動を始めた。星々は一ヶ所に集まっていく。一点にではなく、一本の線の上に星々が集まっていき、銀河を遥かに超えるサイズの棒状の光の線になる。そして残りの星々から、更に一部が移動を始めた。それらの星々は先程の線の隣で、やはり一本の線に収束する。更にもう一本。最終的に川の字のように三本の光の線が形成された。川の字と違い、それぞれの長さは同じ。これらは俺から見て、窓のあった位置からずっと上の方向にある。窓は既に消えていた。
その三本の線のうちの左端の一本が、明るさが強まった。そして線が太くなる。一体、何が起こっているのかまったく分からない。左端の光の線は非常にゆっくりと、だが着実に太くなっていく。いや……
太くなっているのじゃない、開いていくんだ! スライド式のドアが
何故か隙間の向こう側に眼を引き寄せられてしまう。宇宙に空いた穴。その向こうに何が?
何かがいる⁉
何かじゃない、誰かだ! 銀河より、『輝く隙間』よりも更に巨大な何者か。
―― おまえが深淵を覗くならば、深淵もまたおまえを覗いている ――
そんな言葉が頭に浮かんだ。確かニーチェか。『深淵』って社会における悪の
見ている!
俺を見ている。
見てはいけない。
あれは、人間は見てはいけない‼
分かっているのに目が釘付けになっている。目を
〈見てはならぬ〉
言霊が俺の躰を支配し、俺に掛かった呪縛を力ずくで破壊した。途端に躰が自由になる。俺はすぐに目を
〈
全身に冷や汗が吹き出た。
恐怖で体温が下がる。俺を助けたのは深淵の向こう側の存在だ。宇宙の外側の存在。
何者だ?
絶対神か? 魔王か?
隙間の輝きが変化した。ずっと目を
『我』 『願う』 『
俺が願った『願命』だ! その断片だ。光の塊は俺の心から飛び出している。
『水南枝 莉乃』
水南枝、俺は君を護ってみせる……
『向け』 『
俺の『願命』を構成する言葉がそれぞれ光の塊になって、隙間を埋めていく。すべての塊によって、隙間は完全に塞がれた。ここに至って、俺はようやく気付いた。
この三本の線は『スロット』だ!
『
グアリムはそう言っていた。その三つのスロットが宇宙に現れたんだ。スロットはすべて宇宙と同化・融合している。そんなスロットの一つが『願命』で埋められていった。俺の『願命』は宇宙の一部になって、宇宙の摂理を書き換えたのか。
「兄さん!」
優弧が駆け寄ってきた。
「優弧?」
俺の目の前に優弧がいる。ここは山頂、上には星が見えるけど宇宙じゃない、星空だ。街の灯りのために
【『
『願命』の内容は
『我は願う。
です】
〈グアリム、俺は今『願命』が成立したことが分かった。どうやって俺は分かったんだ?〉
〈『メッセージ』です。今のわたくしと茅汎様との会話は『テレパシー』なので、頭に伝わる以外は声の会話と同じですが、『メッセージ』は情報が直接脳に書き込まれるので瞬時に伝わり、伝わった時点で考えなくとも既に理解しています〉
テレパシー? 今更だが、俺は声を出さずにグアリムと会話している事実に気付いた。
〈『メッセージ』によれば俺は『
〈まさしくその通りです。茅汎様が受けた『メッセージ』は、パートナーたるわたくしも同時に知ることになります〉
〈あれ? 『メッセージ』ってグアリムが俺に送っているんじゃないのか?〉
〈いいえ、自動的に発生するものです〉
色々と話している途中、優弧がジッと俺を見ていることに気付いた。
「そう言えば優弧、まさかずっとここで待っていたのか?」
「ずっと、って三〇秒ぐらいよ」
「三〇秒?」
俺の感覚では何時間も経ったように思えたけど。
「優弧から見て、俺はどうなった?」
「兄さんは硬直したまま動かなくなって、グアリムが兄さんの体の中に消えたの。それから、兄さんも姿が消えたわ」
「グアリムが俺の中に? 俺も消えた?」
その時、俺の体が輝き始めた。虹色の光を放っている。そして俺から人型の闇が分離していく。完全に分離した後、虹色の光が薄れ、同時に闇も色が薄れていった。光が完全に消えた頃、闇はグアリムになった。
「これで『願命』の契約は完了しました」
「そっか」
どんな危険があるのかと警戒したけど、代償を支払う契約だけで終わったな。よかった。
「優弧、帰ろう」
「うん。グアリムはこれからどうするの? 住む場所は?」
「はい。力を使い果たして疲れました。なので補給します」
俺の体が再び虹色に輝き始める。グアリムは逆に闇に変わっていく。あれ? さっきこれを見た気がするけど……まさか⁉
「ちょ、ちょっと待って!」
俺の制止も聞かず、グアリムは再び俺の中に入ってしまった。
「ちょっと? これって兄さんが何をしている時も一緒なの? なんか、いやらしい」
「いやらしい、って何でだよ! 優弧は何を想像したんだ?」
優弧の顔が一瞬で赤くなる。
し、しまったぁ!
真っ赤な顔、そして涙目で優弧が俺を
「……兄さん」
「うぐぼふぁっ!」
【
俺が防御できるスピードを超えた優弧のボディブロー。な、なんか『メッセージ』が出た! 打たれた俺の腹から煙が、いや違う、水蒸気が出た。何で?
〈いたたた……グアリム、今の『メッセージ』は何?〉
〈『
〈『
〈
先程のは茅汎様固有の『
茅汎様は
今の説明を聞く限り俺は滅茶苦茶頑丈になったっぽいけど、なんでこんなに痛いんだ?
「兄さん? 一応明後日から学校に行ける程度には手加減したんだけど、どうして平気なの?」
「ちょっと待て! それって俺が二日間動けなくなるほどの攻撃をしたのか? 実の兄に、なんて恐ろしい
「質問しているの、わたしなんだけど?」
「スイマセン」
「さっきの湯気は何?」
「ダメージを軽減する特殊能力の効果らしい。しかも俺はかなり頑丈になったそうだ……って優弧、なんでそんなに嬉しそうな顔?」
「それって、もっと手加減を減らしても大丈夫ってことよね」
こ、怖ええよ。どこまでドSなんだよ!
「まあいいわ。グアリムもうちに来なさい」
なんで優弧が決めるんだろう? 家の主みたいだ。
「家に泊めるのはいいけどグアリムは女の子だし、俺の部屋に置くのはぁっていだだだだ、ギブ、ギブ、ギブギブギブ! 折れる! 折れる! マジ折れるから!」
「わたしと同室に決まってるでしょう、いやらしい!」
「あたたたぁ、本当に折れるかと……いや別に、同室になりたかったわけじゃないから。それでいい。異論なし! っかしいな、俺、身体強化されたはずなのに」
とにかく、俺は一つ目の『願命』を無事に唱えることができた。
俺は水南枝を護れる……よな?
♦ ♦ ♦
「藤林くん……」
ベランダから外を眺めていた水南枝 莉乃は呟いた。先程、藤林 茅汎の姿が目の前に現れたように思ったのだ。ベランダの向こうは星見山。しかし頂上は木々に隠されて見えない。居たとしても見えるはずがなかった。気のせいに違いない。
茅汎を探していた彼女は諦め、カーテンを閉めた。
♦ ♦ ♦
その高速道路は西島を東西に貫通するように走っている。そして西島と河を挟んだ東隣の街との間は、高速道路は地上から一〇メートルほどの高さの橋になっていた。橋になっている高速道路のすぐ下には歩行者用の橋もある。しかし夜も
橋の途中で彼女はふと立ち止まり、耳を澄ませた。
〈悲鳴?〉
〈そのようですね〉
詠歌の中にいる
詠歌は声の方向に走り出した。
〈橡様、危険です!〉
〈でも、ほっとけないよ!〉
アピンの静止を聞かずに走る。橋の途中の階段を駆け降り、現場に向かう。
街は、死んだように眠りに就いていた。
西島の東端には細長い半島状の地域がある。そこは工場ばかりが建ち並び、夜間は完全に無人になる。街灯すらなく、自販機のみが光を放っていた。
「ひいい、助けて!」
そんな人気のない場所で襲われているのは
「ミサキちゃん、マイちゃん! ぼくを守って!」
そう叫んだ喜岡の体の周囲に光の線が現れた。何本も現れた光の線は、紐で縛るかのように彼の周囲をぐるぐる回る。藤林 茅汎の『蒸気』と同じようなものだが、光の線であるのは『
対する『
「脆すぎる。俺の刃は鋼鉄をも切り裂くのだが。まったく相手にならないな」
倒れ込んだ喜岡に阿東が迫る。
「どうしてぼくを殺すの?」
「『願命』は強力だろう。あらゆる願いが叶う」
「でも、万能じゃないんだろう?」
「そうだ。様々な障害を排除しないといけない。では最大の障害は何だ?」
喜岡は震えながら
「
〈邦充、さっさと殺しちまえ〉
阿東の中の
〈分かっている〉
阿東は喜岡の胴を切断した。
〈俊樹様……お別れです〉
〈マスカ?〉
喜岡は、自分の中で
「ひどい!」
間近で見ていた詠歌は涙を流し、正視に耐えない惨状に堪え切れずうずくまり、地面に吐いた。そんな現場に現れ、瀕死の喜岡に触れたのは、すらりとした長身の二〇代の女性、
「間に合ったわ。彼は『マスカ』の
そう言って喜岡の体から手を離した。暴力の現場に似合わない、物静かで理知的な雰囲気を纏った彼女は穏やかに微笑む。死にゆく喜岡を救う気もない様子。
〈良かったですね、紗依様〉
彼女の中の
「紗依、そいつは
叫びながら登場したのは
「梓織?」
渡嘉敷は首を傾げる。
「『願命』の代償で忘れたんだろう? だったら何度でも言うよ! 梓織ちゃんは紗依の妹、俺なんかよりずっと大切な、お前にとって世界一大切な人間だったんだ。それを殺しやがったのがこいつだ!」
金城は阿東を指差した。
「そう。なら、今の私たちの行動原理は、私の妹が発端だったのね。でも今は関係ないわ。この少年は見逃して観察しましょう」
「こんなザコ、見逃してもどうせすぐ殺されるに決まっているぜ」
「それならそれで構わないわ」
阿東は二人が自分のことを話題にしつつ、まったく相手にされていないことに、怒りよりも警戒心を抱いた。しかし、まずは殺そうと試みる。刃を生み出し、金城に向けて飛ばす。
その時、金城の全身に、集積回路のようなジグザグの光の線が走る。喜岡の光の線とは違うが、同じ『
それは、闇色の
阿東の脳内にメッセージが発生する。
【『ラサータ』の
「
「自力で知識を得るんだな。それまでお前が生きているとは思えないが」
阿東の問いに、金城が憎々しげに返事する。もう一つの疑問。阿東の
阿東は金城への攻撃を諦め、今度は渡嘉敷を攻撃した。しかし、彼女はダメージを受けた様子がない。そして阿東の脳内にメッセージ。
【『ラサータ』の
「『――』って何だよ? 『一切が無効』って何だよ? そんなの反則じゃねえか!」
あまりの理不尽さに阿東が叫んだ。しかし渡嘉敷は阿東の反応に興味を示さず近付く。
「あなたは『ラサータ』の
そして阿東に触れる。阿東の脳内に再びメッセージ。それは阿東の能力、そして阿東の知る、
阿東は逃げ出したが、二人が後を追うことはなかった。
「君、大丈夫か?」
道路の隅で怯えていた詠歌に金城が声を掛けた。
「もしかして、わたしが見えるのですか?」
「見えない? やっぱりそうか。さっきの『ラサータ』の奴、君に気付いていないようだったから、そんな気がしたけど、それが君の能力なんだ」
「わたし地味だし、わたしらしいですね」
「そんなことないさ。充分可愛いって」
そう言って金城は笑った。それはとても人懐っこい笑顔だった。
しかしそれは、彼のかつての人柄の残滓だった。死体の傍らでその笑顔を見せる彼が正常なはずがない。
金城と渡嘉敷はたった一つの目的のために、人としての情も何もかも捨てて、その手段たる『中立』という
一方で、その笑顔と台詞は、彼に未だ残っている人間らしさでもある。既に故人となった渡嘉敷の妹、渡嘉敷の恋人である彼にも慕っていた渡嘉敷 梓織への、彼の想いがこもっていた。大人しい橡は、梓織を思わせる雰囲気を持っていたのだ。
「それにしても、すごい能力だな。普通、姿を認識させなくしても相手にメッセージが発生してしまうのに。どういう原理か気になるよ」
「ただ、俺には見えるよ。俺と一緒にいる彼女は
そう言って渡嘉敷を指差した。
阿東が攻撃していた時、金城は
渡嘉敷は詠歌に近付き、「失礼」と断って、詠歌の体に触れる。詠歌の姿を消す原理を知り、「なるほど」と独り納得する。
「いろんな
詠歌が渡嘉敷に訊ねた。
「そうよ。でも争い、闘わないと得られない情報もある。逆に仲間を作り、助け合わないと得られない情報もある。だから私たちは誰からも中立の立場になって、争う者たち、助け合う者たちからも情報を集めているの」
ここまで話して、渡嘉敷はようやく本題に入った。
「ところであなた、仲間にならない?」
♦ ♦ ♦
どうしてこんなことになったのだろう?
彼の前では三人のヤクザが、彼を大阪湾に沈める準備を進めていた。
「どうしたんだ荒木さん。またナンパでもしたのか?」
少女がそう訊ねながら、彼の猿ぐつわを外す。いつの間に現れたのか?
その少女は一五歳としては平均的な体躯だが、見る者が見れば、その物腰から身体能力の高さが窺い知れるだろう。切り揃えられたセミショートの髪。
彼女は
「組長の娘だなんて知らなかったんだ」
「まったく懲りない人だな」
「なんだてめえ、どこから入りやがった?」
突然現れた彼女にヤクザの一人、高田が怒鳴り込んだ。しかし彼女はまったく意に介しない。
「雪玲ちゃん! なんでここに来たのか知らないけど、危ないから早く逃げ、ごふぅっ!」
荒木は話している途中でみぞおちに雪玲の
「悪いな荒木さん。ただ、これから先の世界は、あなたは見ない方がいい。
それにしても、自分が殺されかけても他人の心配とは、相変わらずお人好しだな。女にはだらしないが」
そう言って雪玲は振り返り、ヤクザたちの方を向いた。
「てめえ、何者だ?」
ヤクザの一人、高田が凄んだ。
「それはどうでもいい。とにかく彼も反省している。このまま帰してやってくれないか?」
「ふざけるな小娘! 貴様こそ、ここから帰れると思うなよ」
「君は馬鹿か?」
叫んだ高田に対して、雪玲が蔑むような態度を示した。
「ここに来れたんだ。帰れないわけがないだろう?」
「馬鹿は貴様だぁ!」
馬鹿にされた高田が激昂した。そして仲間に合図する。ヤクザたちは雪玲を取り囲んだ。
「本当に帰れると思っているのか」
別のヤクザ、平井が低い声で恫喝する。三人目のヤクザ、村本は雪玲の体を隅から隅まで舐め回すように見ると、
「へっへっへ。マサよお、こいつぁいい体してるぜ」
雪玲はゴキブリでも見るかのように、冷たい侮蔑の視線を投げ掛けた。
「脳が腐敗すると視線ですら汚物か?」
「ふん、余裕ぶっこいているのも今だけだぜ。泣き叫ぶ姿が楽しみだなあ」
雪玲は溜め息を
「もう一度言おうか。私はここに来れたのだが」
頭の悪い彼らも、ここにきてさすがに気付いた。暴力団事務所の中に部外者が簡単に入ってこれるわけがない。鉄砲玉に対して常に備えているからだ。しかもここ『
「俺、見張りの連中を見に行って、」
「もう遅い。あの二人は殺した」
三人はギョッとして少女を見た。彼らは殺人に慣れている。しかし女子高生の口からそのような言葉が出るとは、まったく予想外だったのだ。
「てぇめえ!」
高田が
すぐに殺せる状態のまま、それでも高田は用心する。この少女はどうやって見張りを殺したのか? 不意打ち? 色仕掛けで
大体、銃を向けられた状態、相手の指一本で次の瞬間にも殺されるかも知れない状況では、ヤクザでも平静でいられない。しかし雪玲は銃を向けられてなお平然としている。指より速く動いて
「死ねぇ!」
高田は
銃声が響く。とにかく殺してしまえば、もはや用心の必要もない。
結局、雪玲は最後まで動かなかった。しかし不敵な笑みを浮かべたまま、まったくの無傷で立っていた。
「なにい?」
ヤクザたちは驚愕し、そして彼女の顔の前に浮いている、直径九ミリの小さなゴミに気付いた。
確かにこれでは殺せない。見張りにもそうやったのだろう。だが目の前に出た答えを、非現実的なそれを高田は受け
「撃てぇ! お前らも撃てよ!」
全員がM36を構えた。殺しのプロだが
「やれやれ、下っ端じゃ話もできないか」
彼女は事務所の奥に乗り込むのか? ヤクザたちは身構える。しかし、雪玲は不敵に笑うばかりで動こうともしない。口だけなのか? ヤクザたちが訝しむ。
廊下の奥から数人の怒声が聞こえた。
「
「お、お前ら、もっと頑張れや!」
見ると、葛西組長を四人の幹部が必死に押している。
それは奇妙な光景だった。
まるで見えない力で引っ張られているかのような葛西を、四人の男が必死で押し返している。葛西自身もその力に抵抗して踏ん張っている。いや、実際に比喩でなく、本当に見えない力で引き寄せているのだ。雪玲の能力で。
葛西たち五人は、元からいた三人の傍で止まった。葛西が雪玲に気付く。
「何だぁ、この女は?」
「それが、侵入者らしくて」
「馬鹿野郎! なに今まで何のんびりしてやがった? さっさと殺さんかい!」
「で、でも……ぐふっ!」
怯えながら答えようとした高田は突然、血を吐いて倒れた。しかも倒れた後で、脳天から血が噴き出す。
そして、血と一緒に飛び出したのは一発の
雪玲は宙に浮く
〈
冷静な雪玲とは逆に、彼女の中にいる
〈落ち着けマルギダアンナ。とりあえず連中は練習台に使おう〉
雪玲は葛西を見た。
「なあ組長さん、私はお前に関わりたくないんだ。この男もお前の娘には手を出させない。だから、このまま帰らせてくれ」
「
途端に、葛西を押さえていた幹部の一人が縦に真っ二つに避けた。雪玲が切断したのだがヤクザたちは、何が起こったのか分からず、狼狽えた。
「まったく強情な男だ。もう一度頼もう。私たちをこのまま帰らせくれ」
「
また一人、即死する。
「しつこくて悪いが、私は何度でも聞くぞ。このまま帰らせてくれ」
「これだけやっておいてか? 貴様は絶対に殺す! ただで済むと思うなぁ〜!」
そして更に一人。
雪玲は眼を
……
「まったく
雪玲の問いかけに、葛西は怯えた顔を向けた。
ヤクザは舐められたら終わり。そのためには
彼女が殺すことができるのは後一人、彼だけだ。彼女の要望を受けようが拒否しようが、彼女は妨害者のいない状態で悠々と帰ることができる。葛西が承諾して帰るか、葛西を殺して帰るか、それだけの違い。拒否は無意味だ、要望を飲もう。葛西はそう決断した。そしてここを切り抜ければ、海外に逃亡しよう。
「み、認める。
「そうか。無事に話し合いができて嬉しいよ」
雪玲の言葉に葛西は「これだけ殺しておいてぬけぬけと」と、死体の山を見て思った。だが口にしない。
「ところで組長さん、お前は中々恐ろしい武器を持っているな」
「な、何がだ?」
「何がって、『情報』だよ。情報ほど恐ろしいものはない。私の価値観では、最も恐るべきは『運』、二番目が『情報』だ。私は見た目は只の女子高生だが、常人にない能力がある。お前はそれを知っている。第三者に知られると厄介だな。ああ恐ろしい」
雪玲の言う『ああ恐ろしい』の言葉には恐れている様子が感じられず、ふざけているようにしか見えない。しかし情報が恐ろしいというのは葛西にも納得できた。彼女を只の女子高生と侮る者は腕ずくで拉致を試み、手酷い報復を受けるだろう。だが能力を事前に知っていれば、やりようもある。一番有効なのは狙撃だろう。
〈一番目が『運』、二番目が『情報』か。中々お主らしいの〉
〈幸い、『運』はまだ誰も独占していないし『富』のような大きな格差もない。だから現実的には、最も恐るべきは『情報』だと私は思っている。ちなみに三番目は『愚者』、四番目が『諦めない者』だ。『窮鼠猫を噛む』の通り、四番目は最後まで気が抜けない。そして『愚者』ほど交渉・コントロール・予測・命令・協力の通用しない者はいない。間違った選択、不利な選択も平気でする上に、天才とは逆の意味でとんでもない発想と行動を起こす。敵にも味方にもしたくないな〉
「というわけで組長さん、お前からの情報漏えいを防ぎたいのだが」
「
葛西は即答。彼は雪玲さえここからいなくなれば、わざわざ約束なんて律儀に守ろうと思っていない。守るつもりのない約束を受けるのに、迷う理由がなかった。
「そうか。それで助言がほしいのだが、こういう時にお前たちヤクザはどうする?」
問われた葛西は一瞬考え、そして慌てて叫んだ。
「秘密は守る。本当だ!」
こういう時にヤクザはどうするか? 答えは『口封じ』だ。死体は秘密を漏らさない。
「それで? お前が私の立場ならどう判断する?」
「頼む! 信じてくれ! 絶対にしゃべらない!」
葛西は必死で訴えつつ、自分ならどう判断するか考えてしまう。「信じてくれ」と言う者を信じる必要があるだろうか? 少なくとも殺しておけば確実だ。人命を尊重しない以上、その選択に迷う理由がない。
「助けてくれ、お願いだ! 何でも言うことを聞く。殺さないでくれ!」
葛西は畳に額を
殺される! それを確信した葛西は土下座の姿勢のままスーツの内側を探り、M37を手にした。『エアーウェイト』と言う、M36の姉妹機だ。素早くM37を雪玲に向け発砲、同時に真横に飛び
そうしたつもりだった。
実際には、飛び出したのは
雪玲は晴れ晴れとした表情になる。そして静かに微笑みを浮かべた。
『力』は悪ではない。ただ、それを以て弱者を蹂躙する人間が雪玲は嫌いなのだ。命すら弄ぶ連中なら、なおさらだ。
血と肉片がぶちまけられた建物の中、生きているのは雪玲と荒木だけになった。
雪玲は
愛おしい、雪玲はそう思った。
〈好みは人それぞれだが……雪玲よ、悪いことは言わぬ。この男程度に、お主ほどの女は勿体ないぞ〉
親切心であろうマルギダアンナの言葉に、自然と雪玲に笑みが溢れる。
〈マルギダアンナ、それは勘違いだよ〉
〈そうなのか?〉
〈別に、彼自身に対しては特別な感情は抱いていない。お気楽にナンパし、フられ、遊び、そして学業に勤しむ。そんな彼の日常には、暴力も殺戮もない。
私が愛おしいと感じているのは、荒木さんのそんな、平穏な生き様だ〉
そう言って再び荒木を見る。
「こういう人種の平和は、私のような人間が護らないといけないな。私のように力を得た者が目的を見失えば、
テレパシーでなく自然と口に出たその言葉はマルギダアンナに語り掛けるというより、ほとんど独り言だった。
雪玲は荒木を抱き上げる。そして死体だけになった暴力団 葛西組事務所を後にした。
♦ ♦ ♦
「お世話になりました」
夕焼けの中、
放課後、府立
「元気でね」
部長の
挨拶を終えて彼女は去る。ギプスの右脚が地面を擦らないように松葉杖を突きながら。
校門を抜けた喜屋武は駅に向かわず、西島の西側を流れる芹那川の川辺へと歩いて行った。駐車場に入り、脚を投げ出して座り込む。駐車場の向こうに流れる河を眺める。
「……陸上、続けたかったなあ」
脚の怪我は一生治らないわけではなかった。ただ、ギプスが取れても高校在学中にはまともに運動はできないだろう。そもそもどうして陸上がやりたかったか喜屋武は改めて考える。みんなに期待されていたし結果を出したい。そういう想いもあるが、元々競争心も名声欲もなかった。ただ、小さな頃から走ったり跳んだりするのが大好きだったからだ。
「泣くなキャンミー! あんたに涙は似合わないわ!」
突然、彼女を叱咤する声が響いた。愛らしい少女の声。ゴシゴシと眼の涙を拭いて振り向くと中学生くらいの少女が彼女を見ている。
「誰?」
面識のない人間に『キャンミー』とあだ名で呼ばれたのに、何故か嫌な気はしなかった。可愛らしくコケティッシュな容貌にウェーブがかかった金髪ショートの西洋人らしい少女。パニエで膨らましたミニスカートやパフスリーブの衣装はバレリーナを思わせるフォルムだが漆黒だ。
「あたしはシヌヌトゥ、キャンミーとラブラブになるという、大いなる野望を秘めたキュートな
「ディンメ?」
「アクマのことだよん♥️」
悪魔と聞けば警戒すべきかも知れないが、喜屋武は不思議とそんな気が起こらない。
「じゃあボクの名前は、」
「知ってる! キャンミー。ニックネームはキャンミー、本名はキャンミー!」
「本名じゃないって」
「あはは、細かいことにゃ」
喜屋武の表情が自然とほころぶ。
「そうそう! キャンミーは笑っているのが一番だよ」
「ありがとう」
「でね、でね、キャンミーは何か望んでいることはない? 例えば、跳びたい、とか? 跳びた〜い、とか? それから跳びたぁ〜い! とか?」
「ボク……跳べるようになるの?」
「もちろん! 戦闘機なんて目じゃないゼ!」
「それ、『跳ぶ』じゃなくて『飛ぶ』だよ」
「まあ、どっちでもいいとして、あたしはキャンミーの『願命』を三つ叶えることができるんだゾ! えっへん」
「そうなんだ。じゃあ、ボクは『元通り、跳べるようになりたい』って願えばいい?」
「それはちょっと違うにゃあ。あたしがキャンミーから何か願いを叶えた時点で契約完了、キャンミーは怪我も病気も近眼も治って、日焼けとかニキビとか巻き毛とか、は治らないけど、そして更にパワーアップして人間を超えるの。だから『願命』には『跳びたい』なんて、わざわざ願わなくてもいいんだよ」
「ボク、近眼もニキビもないけど。他のことを願えばいいってこと?」
「そゆこと」
「じゃあ、お料理上手になりたいな。最近、女の子らしいこと、してなかったし」
「そんなのでいいの? 日本の地形をナスカの地上絵にしてもいいんだよ? おすすめはハチドリ!」
「それは、住んでいる人が不便だからいいよ」
喜屋武は料理のことで『願命』を唱えた。そして魚や燕の姿を持つ神の肉体、
「『
「ほんと?」
「もっちろん! じゃあ動いてみる? そうだ、
「うん、やってみる!」
喜屋武は自分の体を、手足を使わずに動かす。『試す』なんて思わなかった。どうやって動かすかも、何ができるかも既に分かっていた。そして、そのことに疑いもなく確信する。
喜屋武の頭の周辺に、チカチカ点滅する直径一センチ弱の光球が二〇ほど生まれた。二〇の光球は一瞬で足許まで伸びて光の線になり、そしてすぐに線は上の方から消えていった。
喜屋武の両脚がふわりと浮き上がる。
「うわっ、浮いた!」
「あっ、待って! あたしも付いて行く」
シヌヌトゥが喜屋武の体に入る。
体が思いのままに動く、人間の意識よりも速く動く。ただし喜屋武の意識も、人間より遥かに速い。三〇〇Gという、人間が即死する加速度で喜屋武は一瞬にしてマッハ六に。五秒後には雲の上に飛び出していた。
「これ、『跳ぶ』じゃなくて『飛ぶ』だよ。まあいっか」
喜屋武は今度は水平方向に動く。下方に拡がる雲が、飛ぶように後ろに流れる。遥か下方の地上さえ、みるみる後方に移動していく。時速百キロより更に四千倍近い風圧が心地よい。
地上を見た喜屋武は、それが佐渡島だと気付く。大阪を発って
〈キャンミー、クルビットやってよ。それかプガチョフ・コブラ!〉
〈それって何?〉
〈もう、ロシアの戦闘機フランカーがやってるじゃない〉
どちらも
〈知らないよぉ〉
〈不勉強なキャンミーは罰として、帰ったらファーンボロー航空ショーとレッドブル・エアレースとリノ・エアレースと自衛隊小松基地航空祭のブルーインパルスのアクロバット飛行をDVDで鑑賞すること。宿題だよ!〉
〈そんなに視るの?〉
喜屋武はシヌヌトゥとテレパシーで会話しながら、散々遊んで元の場所に戻ってきた。
「困ったなあ、陸上できない体になっちゃった」
そう言う喜屋武の顔には笑みが浮かんでいた。それは吹っ切れた、晴々とした表情だった。
♦ ♦ ♦
三人のヤクザは床に置いた三体の
ここは開店休業状態の工場の倉庫。と言っても工場として稼動する必要はなく、その予定もない。暴力団『岡田組』が所有し、工場である本来とは異なる目的で使用されている。
例えば死体の解体。
「男は
ヤクザの一人、大山が仲間に訊ねる。
「全員
もう一人のヤクザ、島田がそれに答えた。
「また下崎センセーかよ」
「そう言うことだ」
「ならよ、女は
「くっくっく。当然だ。俺も楽しませてもらうぜ」
二人は醜悪な表情で下卑た笑いをあげた。
「……」
三人目のヤクザ、
先日も今回と同じクライアント、若手政治家の
「じゃあ、俺はさっそくガキの方をいただくぜ」
島田が少女に向かおうとするのを、勝元が遮る。
「初物……俺……欲しい」
「ああ、はいはい。分かったよ、好きにしろ」
そう言って床に横たわる少女を見ると、少女の前にいつの間にか何者かが立っていた。眠っている少女をじっと見詰めている。
さっきまでは島田たち三人と眠る三人以外には、誰もいなかったはずだ。誰かが侵入しても、気付かないわけがない。
「誰だ、貴様?」
島田の誰何に、その人物が振り向いた。眠る彼女と同じくらいの年齢の、小柄で華奢な少女。ただし日本人でなく西洋人だ。
ふわっとボリューム感のある、毛先が内側にカールした蜂蜜色のセミショート、雪のような白い肌、そして『穢れ』という要素を一切含まない、清らかな造形の顔。
服装はパフスリーブに膝丈のスカートだが、意匠を凝らした複雑な刺繍などが施され、スイスやドイツなどの民族衣装のようだ。ただし、その色彩は黒一色である。
ルージュを塗ったかのような真紅の唇が開いた。
「初めまして。わたくしは
透き通る声でそう告げて、にっこりと微笑む。その笑顔は、これまで幾人もの人間が解体された殺風景な倉庫には場違いに感じられた。
「アクマだあ? へっへっへ、面白れえ。イカれた女なら、なんて泣き叫ぶんだろなあ。楽しみだぜ」
島田はアスイクと名乗る少女の腕をむんずと掴もうとして、見えない壁のようなものに阻まれた。
「痛てえ! 何だこれは?」
「
「はあ? 何言ってんだあ?」
「理解できなくとも結構ですよ。
ご心配なく。逆にわたくしたち
島田たちの
眠る少女のボブカットの髪型は鍾 雪玲と似ているが、こちらは逆に幼く感じられる。世の中の悪意を知らない彼女の顔立ちはあどけない。
しかし世界の醜さを、彼女はこれから知ることになる。
アスイクは、眠ったまま聞こえないはずの彼女に語りかけた。
「雪様。ご両親が殺されようとしています。このままで宜しいのでしょうか?」
「……い、や」
雪の唇から、微かに言葉が溢れる。
閉じたままの双眸から、一筋の涙が流れ落ちた。
「そんな? まさか!」
大山が驚いて叫んだ。
医学的知識がない彼らだが、経験的に知っている。レム睡眠でない深い眠りにある彼女は寝言を言うことも、涙を流すこともないはずだ。
「助け……たい」
「はい、よくできました。
わたくしたち
そして、アスイクはヤクザたちに振り向いた。
「『願命』の内容を他者に聞かれるのは、あまりよろしくありませんね」
そう言って小首を
「まあ、死者となる方々ですから、問題はないでしょう」
ただし、その
「何を言って、わあ!」
「消えた?」
ヤクザたちの目の前で、
三人のヤクザはしばらく茫然としたが、数十秒後に二人は再び現れる。雪も元通り、バンドで拘束されている。
雪は、ゆっくりと目を開いた。
「な、何故だ!」
「薬が効いていないのか?」
突然、雪を拘束するバンドが砂状に粉々になった。そして溶けるように消えていく。
彼女は上半身を起こした。
「わた、し……?」
自身に起こったことに、本人も驚いていた。
そして、目の前にいるヤクザたちを見る。
「あなたたち……」
雪の目から涙が流れる。
「殺され……ちゃう!」
雪は
「残念ながら。喩え雪様のご意志でも、こればかりはどうにもなりません」
その様子に、驚愕で茫然としていたヤクザたちだったが、ようやく我に返った。
「そうだぜ! どうやってバンドを外したのか知らねえが、お前はこれから死ぬんだよ」
ちょうどその時、雪の両親が目を覚ました。
「な、何だこれは?」
「どうなっているの?」
両親の全身は薄く蒸気に覆われている。蒸気は拡散し、消えていった。
二人とも、身体が拘束されていることに気付いてもがく。もがいていると、バンドの各部が千切れた。
「何だと?」
「人間の力じゃ切れないはずだぞ!」
ヤクザたちが驚く。
雪は何もしていない。
あくまでも雪の無意識の自動防御だ。
雪の『両親を護りたい』という想いは意識的にも無意識的にも強い。そのため、雪の
誰も、雪とその両親を傷付けることはできない。
島田はナイフを取り出した。
「やめて!」
雪は恐怖で目を覆った。もちろん島田がやめるはずもない。
「死ぬやあ〜!」
島田はまず男、雪の父親に飛び掛かり、喉元にナイフを突き刺した、刺したつもりだったがナイフは喉に弾かれる。その鋼鉄のような硬さにナイフは手を離れ、強く飛び跳ねて島田の喉に突き刺さった。
「島田!」
大山が叫んだ。
島田は首から大量の血を吹き、ドサッと倒れた。即死だった。
たまたまナイフが首に当たってしまった。彼は、運が悪かったのだ。
「いやぁ〜!」
雪は目を
「クソッ!」
勝元がコルト ディテクティブスペシャルを手にした。S&W M36のようなスナブノーズ、小型のリボルバーだ。
「やめて! また死んじゃう」
「死ぬのはてめえらだ」
銃口を向けられた雪の父、俊幸は怯えつつも観念して目を
……
何も起こらない。
「あれ?」
「おい、やめろ勝元、俺に向けるな」
バン!
銃声が響いた。今度は勝元は
大山は胸と口から血を吹き、倒れた。即死だ。
勝元は不発だと勘違いした。実はハングファイヤーだった。
「うわああ!」
仲間を殺してしまった勝元がパニックに陥った。
ドーン!
そこに重厚な音が響き渡り、倉庫全体が振動した。そして爆発したかのように、壁が粉々になり、巨大な何かが飛び出した。
パワーショベルのショベルだ。
倉庫の外で、瓦礫の山に乗り上げていたパワーショベルが放置されていたが、ブレーキをかけ忘れられていた。パワーショベルは瓦礫の斜面を下がりながら加速して倉庫に激突、ショベルが壁を突き抜けてしまったのだ。
パワーショベルの本体も壁を破り、倉庫の中に姿を現している。ショベルは反対側の壁にめり込んでいる。
そしてショベルと壁の間から、勝元の体がぶら下がっていた。ペンキをぶちまけたように壁は大きく血に染まり、ショベルと勝元の体からも、湧き水のように血が滴り落ち、真下にある血溜まりがみるみる拡がっていく。
またもや即死。
勝元はショベルによって、頭が潰されていた。
「いやあああ〜!」
自身の能力が引き起こした結果に、雪は泣き叫ぶ。
「彼らが雪様の能力に殺されることは、確定した運命でした。非常に残念ですが、雪様ご自身の意志でも避けられません。雪様の『
アスイクが悲しげに雪に告げた。
雪は
最初から最後まで、彼女が恐れたのは、彼女の能力によって彼女の意志に関係なく、家族ではなくヤクザたちが殺されること、加害者とは言え人間の死であった。
「これは一体……?」
俊幸は立て続けに起こる悲劇に理解が追い付けず、戸惑っている。妻の恵美は娘の姿を探して見回し、アスイクと共にいる雪を見付けた。
「雪! 無事なの?」
「……うん。大丈夫」
ようやく泣き終えた雪が答える。雪の方からは何も訊ねない。両親が無事であることを知っているからだ。
「あなたは?」
恵美は次にアスイクに訊ねる。俊幸もアスイクと雪に気付いた。
「初めまして。わたくしはアスイク、雪様に仕えるアクマでございます」
頭を下げるその物腰は
「アクマ?」
「本当なの! わたしの味方なの」
アスイクの言葉に続けて、雪が母親に訴え掛ける。
両親は顔を見合わせた。「まさか」という顔だ。
「アスイク、わたしの中に入って」
「畏まりました」
アスイクは雪の体内に消える。恵美と俊幸は驚いた。
「ちょっと! 今のは何?」
少なくとも常識で量れない何かが起こったことは否定できない。
「それより、お父さん、お母さん、今のうちに逃げよう!」
頬の涙の跡もまだ乾いていない雪が提案する。彼女は嘆き悲しんでいる状況でも、安全について考えることができる。大人ならその程度のことはできてもおかしくないが、雪は中学三年生でその発想ができる。生まれついて持っているその資質は、護りを重視する『
三人は倉庫の外にいるヤクザたちに見付からないように脱出することに成功。工場を出て、走った。大人の二人は中学生の雪が遅れないように速度を合わせようとしたが、二人の全速力でも付いていけることに驚く。むしろ雪の方が両親のペースに合わせていた。
三人の後方、工場の方角から少女がやってきたことに、彼らは気付いた。
その少女は高校生くらいの年齢だ。実際には雪より一年年上だが、似たようなヘアスタイルにも拘わらず、しっかりした感じの彼女は、童顔な雪とは歳が離れているように見える。
「君、向こうから歩いてきたのか?」
「はい、そうです」
心配して問い掛ける俊幸に少女は答えた。大人相手なので敬語だが、少女には年齢に似合わないしっかりした頼り甲斐が感じられる。
「女の子がこんな暗い道を歩くのは危ない。特に、あっちの方は危険だ」
何が、とは敢えて言わない。ヤクザの話をして恐がらせる必要もないだろう。
そこに雪が駆け寄り、少女の手を握った。
「巻き込んじゃって、ごめんなさい!」
「『巻き込んだ』とは?」
雪の言葉を図り切れず、少女が問う。
「だって、あなたは暴力団と闘った」
「たまたま出くわしたから、適切な対応をしただけだよ」
工場にいたすべてのヤクザを殺した少女、鍾 雪玲は答え、そして雪に問う。
「もしかして、君は見ていたのか?」
「いえ、あなたが来る前に知っていました。わたしは未来が見えるから」
「未来が見える?」
雪玲はやや警戒心を強めて雪を見た。
「はい。わたしは『
それは雪玲と彼女の
マルギダアンナは得た知識を、雪玲へとテレパシーで伝える。
「『
「はい。わたしにはいろんな防御能力があるのですけど、防御に関わることに限り、ある程度の未来が見えるんです。それから、これも防御関係限定ですけど、自分と護るべき人間が異常なほど幸運になって、加害者は異常なレベルで不運になるんです。
さっきあなたは『たまたま出くわした』と言いましたけど、偶然じゃなくてわたしの能力のせいなんです!」
「なるほど。『巻き込んだ』とはそう言う意味か」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。それより、自分の能力はあまり他人に話さない方がいい」
「あっ、うぅ、ごめんなさい」
「私に謝ることじゃないさ。それにしても運の操作か、しかもその上で未来を識るとは恐ろしい。敵に回らなくて助かったよ。
ああ、私だけ素性を明かさないのも
「あっ、自己紹介忘れていた! わたしは星霞 雪。漢字は『星の霞』と、空から降る『雪』です」
「面白いな。私のシュエリンの『シュエ』も『雪』と言う字だ。この偶然も君の能力か?」
「えっとぉ、違うと思います」
「冗談だよ。よろしく頼む」
「こちらこそ!」
状況が掴めず唖然としている星霞夫妻の前で、二人の少女は握手を交わした。
♦ ♦ ♦
様々な人々が
様々な人々がこれから契約しようとしている。
そして一部の人間は、いずれ
彼らは絶望と、希望の間を揺れ動く。
その頃、
そして、
新規登録で充実の読書を
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