悪魔憑であるということ

 グアリムも優弧も、山も街も消えた。何もない虚無の中、しかし暗黒ではなく全方位が仄かな無数の光の点に包まれている。

 星だ。ここは宇宙か?

 その一部の光量が増した。どんどん明るくなっていく。何百何万光年もの距離があるはずの光が俺を照らし、更に光が強くなって俺を焼き尽くそうとする。

「ぐがががああ〜〜!」

 焼かれる!

 躰でなく俺の心が、情熱が愛情が希望がそして絶望が、焼き尽くされようとしている。

 俺の想いが、消耗する、焦がされる、すり減っていく。

 ま、負けるか!

 俺の恋は俺のもの、たとえ失恋でも、この想い、誰にも奪わせない!

「うおおおおおぉ〜〜‼」

 俺の雄叫びと共に、世界が白熱する。その眩い光は俺の叫びに呼応したのか、競合したのか? 光に包まれ何も見えなくなると共に、意識も薄れていく。

 俺の心を消す光に、俺は勝ったのか? それとも負けたのか……?


 …………


 われの前に、布を巻き付けたような衣装の老若男女が集まっている。すべて我が臣民である。彼らは跪き、われを讃える。只一人、金銀ラピスラズリで着飾った壮年の男だけは立ったままでわれに言葉を掛ける。われに仕える神官である。

「我らが女神よ。我ら人間に激励の言葉を与え賜え」

 われは彼に、彼らに宣言した。

われはグアリムと契約し、女神となった。今やわれは金剛の護りを有する者である。人間よ。我が臣民よ。われの元で繁栄せよ」

 人間たちは一斉に頭を下げた。彼らは労働し子を増やし、我が國はより強固になるだろう。

 だが……


 人という存在の、なんと脆弱なものよ。われの土地も我が臣民も、牛も大麦も、今や水の下。荒れ狂う海より僅か十メートルほど上の中空にわれは浮かんでいた。われのすべてが水に飲み込まれた。深さ数十メートルの海は只の洪水ではあり得ない。われの眼前には一柱ひとはしらの男神がわれと同じ高さに浮かんでいる。

「やめよ女神よ!」

 青ざめた男神は悲鳴のようにわれへと声を張り上げる。

「やめよ女神よ! 我らは闘うべき理由わけを、護るものを失ったはずだ」

「まだなんじたみが残っておる。アリムガル!」

 我が秘術により、たちまち海が鳴動し大波が起こる。

「なんと! イドはそなたの領域ではないはず」

イドの下のキルは我が領域である。たかだか洪水ごときで我が力を封じられるはずがない。天の雄牛グアンナと対になる、眠れる地の雌牛グアリムは怒りにより目覚めるのだ。その力をとくと見よ!」

 大波は彼方へ押し寄せていく。その先には男神の、ウルの巨塔ジグラート。避難した彼の民がそこによじ登っている。大波は進むにつれて弱まり、巨塔ジグラートに届く手前でついに消失した。だが、波は副産物にすぎない。海が地が、我が力により震撼する。巨塔ジグラートが揺れ動く。

「やめろおー!」

 巨塔ジグラートが崩壊する。ひび割れ、崩れ、石と人が海に飲まれた。男神はむせび泣く。

 ……

 しばしの間、我らは共に海を眺めていた。和解したのではない。闘う理由わけを失っただけだ。だがわれは、中空で踵を返す。やり残したことのために。

「どこへ行く?」

 そんなわれを、男神が問うた。

天の雄牛グアンナの元へ。最後の闘いである」

「何故だ? そなたと妹君は仲睦まじいのではなかったか?」

 われと我が妹のことは、余人には分かるまい。

「その通り。我が妹はわれを大変愛しておる。殺したいほどに。だからわれとの最高の殺し合いを望んでいるそうだ」

「……狂っている」

「そうだ。だからそこに、あの山羊頭の魔女に、我が妹はつけ込まれたのだ」

「魔女スクールマシュか。我々すべての神は、あの魔女の掌の上で躍っているのだろうな」

 すべてを諦めた男神が呟いた。おそらくそうなのだろう。しかし、今気付いたところで何になろう。もはやすべてが手後れであった。


 …………


 わらわは泣きながらも、我が父にして我が夫の、肉片となった遺体をかき集めた。父を殺したのは、その弟にして我が叔父なのだ。わらわは我が夫を護ると誓ったはずじゃ。それすら果たせぬとは何のための神の力ぞ? わらわは護りの女神ではなかったか?

「ない。ない。足りぬぞ!」

 夫の遺体は一部が見付からぬ。もはや諦めるしかなかった。愛しい我が息子は父の凄惨な姿に言葉を失っておる。わらわは茫然自失した息子を連れて戻った。神殿の奥に拡がる湖、その中央に浮かぶ島。我が聖域へ。わらわは息子を抱き寄せ、新たな決意を告げる。

「心配するでない。そなたはわらわが全力で護ろう。安心して玉座に就くがよい」


 我が父にして我が夫の死で、王朝は終焉を迎えた。

 ならば、わらわは我が息子に嫁ぎ、息子にして夫を王に立てる。新たなる王朝を興す。

 我が愛しい息子よ。

 次こそは、次こそは必ず護ってやるぞ。


 …………


 わたしが部屋に入ると、男たちが一斉に振り向きました。

「プレスワと申します」

 彼らに、政治まつりごとを担う面々にわたしは挨拶をします。

「彼女が亡国の巫女か?」

「その通りです」

 男の一人の問いに、わたしの父が答えました。

「牛頭人身の神牛らしいが、」

 わたしを見ながら話し始めた別の男の顔には、ありありと不信感が浮かんでいます。

「伝説では王国の危機に顕現するそうだが、かの島国ミノアを我々が滅ぼしても現れなかったではないか。そのような役立たずの神に用はない」

「その時が『必要な時』ではなかったのでは?」

「ふん、ならば、いつがその時か? かの王国を滅ぼした我らが滅びようとする今こそ、復讐の時だとでも?」

 父の言葉に、男が反論します。しかし父はそれに言葉を返します。

「確かに我らは、かの島を支配しました。しかし王族の秘儀、そして王と神官のみが読める文字の技術は王族の末裔である彼女が、我が娘が妻より継承しています。亡き王族との婚姻を続けた我が一族が伝統を護ってきたのです。だが彼らは、アルカイオスの末裔を名乗る者ども、文字も持たぬ蛮族どもは、それらをも破壊するでしょう。奴らは既に、かの島を占領しました。もはやかの島には文明の残滓ざんしすら残っていまい」

 父の説得にも、誰もが浮かない顔をしています。では、わたしが説得しましょう。

「皆様、ご覧なさい」

 人々がわたしを見たのを確認し、人間たちを踏み潰さないように注意しながら巨大化、我が身を人間としての体から、契約により授かった神の肉体へと変化へんげさせました。

「なんだ、これは?」

 人の十数倍となったわたしを人々が驚いて見上げています。

「我が一族は代々、神牛の巫女を務めてきました。しかし、わたしは違います。わたし自身が女神になったのです」

 他の多くの宗教と異なり、わたしたちは神像を創りませんでした。ですから今では代々の秘儀を受け継ぐわたし以外に、神牛の真の姿を知る者はいません。―― 人の体に牛の頭 ―― ちまたで想像されているミノア王国の神牛ミノタウロスの姿は間違っているのです。本当の地の雌牛グアリムは、牛の胴体、その首の位置から伸びる人間の上半身(ちょうど半人半馬ケンタウロスのような)、そして牛の前脚の付け根から生える鳥の翼、つまり今のわたしの姿なのです。

 今、まさにテオイが顕現したのです。わたし自身が神になることで。

 これで皆様も納得したでしょう。しかし残念ながら説得する時間がなくなりました。

「お逃げなさい。蛮族どもがやってきました」

 わたしは右手を天に向け、秘儀を唱えます。

「ジクムドゥル!」

 敵の軍勢はまだわたし以外の者には見えないでしょう。しかし敵の中の一人が馬よりもはやい速度で以て、わたしたちの近くまで来ました。

われは人としての名を捨てし者。今はただ『ディウェ』とのみ名乗っている」

 話に聞く、蛮族の王です。

「その地は、玉座を奪われた我が先祖アルカイオスのものである。簒奪されし王位を、あるべきところへ戻してやろう」

 彼は「戻し賜え」とは言いませんでした。要求ですらありません、意思表明です。相手の意に沿ったところで結局はわたしたちを蹂躙するつもりなのでしょう。

「戯れ言を。わたしたちが主張を認めて去ろうとしても、逃さず制圧するのでしょう?」

「言うまでもないことを。われが奪還すべきは土地のみにあらず。王としての支配権である。従わぬ者どもには神罰が与えられよう」

 彼の言葉の後、晴天がたちまち雨雲に覆われていきました。彼は雷神なのです。天から、無数のいかが降り注いできました。しかしそれらはすべて、わたしの上空、全高三〇メートルほどのわたしより更に数十メートル上の位置で消失します。

「なんと?」

 ディウェは驚いています。

「わたしの秘儀、『ジクムドゥル』。直径三〇キロメートルの不可視の楯です。この街どころか周辺の街まですっぽり覆う、すべての悪魔憑ルディンメの中で最大かつ最強の楯なのです。空からの攻撃は通用しません。たかがいかごとき、どうと言うこともありませんわ」

 わたしは彼の攻撃を完全に防いでみせました。

 しかし、それは戦いの終わりではなく、長く続く戦乱の始まりだったのです。

 後の世に、わたしたちの文明は破壊され、消滅してゆきます。文字も、読む者が絶えて忘れられていきました。後におこった文明は新たに文字アルファベットを発明し、四百年後の新しい宗教ではわたしたち神々はここテーバイより二百キロメートル北のオリュンポス山に住むとされ、あろうことか、この『雷神ディウェ』が最高神ゼウスとしてわたしの上に位置するのです。更にアルカイオスは『ヘーラクレース』と呼ばれるのですが。しかし、そのことを当時のわたしにはどうして知ることができましょう。

 かように、世界はなんと無常でありましょうか。


 …………


 いつの間にか、俺は暗闇の中にいた。俺の意識は、幾人かの生き様を見てきた。彼女たちは皆、かつてのグアリムの契約者、悪魔憑ルディンメだったようだ。グアリムは俺だけと言ったが、歴史の中で、過去に何人かと契約したんだな。

 彼女たちを見て思った。護るということは、それほどまでに困難なのか。


『藤林 茅汎よ。なんじの大切な者を護り賜え』

 女神が俺を、激励する。

『藤林 茅汎よ。そなたこそは、愛しい者を必ず護り切るのじゃ』

 女神が俺に、おのれてつを踏むなと告げる。

『藤林 茅汎よ。あなたは、最後まで護り抜いておみせなさい』

 女神が俺に、自らの無念より、俺に希望を託す。


 やってやるさ。

 暗闇が一転、無数の星々がまたたく宇宙へと変わった。天も大地もない。と思ったら、一〇メートルほど先に四角い光が見える。窓から漏れる、室内の明かりだ。宇宙の一部が四角く切り取られ、家の窓になっている。それは、団地のベランダのように見える。そして窓から外を眺める人影……水南枝? 俺に気付いてこちらを見た。宇宙に創られた窓から、水南枝がこちらを見ている。俺たちは互いに見つめ合う。

 ……水南枝、俺は必ず、君を護るよ。

 必ず護ってみせる。そのために得た、悪魔ディンメの力で。


 突然、宇宙の星々の一部が移動を始めた。星々は一ヶ所に集まっていく。一点にではなく、一本の線の上に星々が集まっていき、銀河を遥かに超えるサイズの棒状の光の線になる。そして残りの星々から、更に一部が移動を始めた。それらの星々は先程の線の隣で、やはり一本の線に収束する。更にもう一本。最終的に川の字のように三本の光の線が形成された。川の字と違い、それぞれの長さは同じ。これらは俺から見て、窓のあった位置からずっと上の方向にある。窓は既に消えていた。

 その三本の線のうちの左端の一本が、明るさが強まった。そして線が太くなる。一体、何が起こっているのかまったく分からない。左端の光の線は非常にゆっくりと、だが着実に太くなっていく。いや……

 太くなっているのじゃない、開いていくんだ! スライド式のドアがわずかに開いたかのように、細長い隙間が生まれた。それがひろがっていく。ここで、輝きが増した理由に気付いた。線を構成する光が強まったんじゃない、隙間の向こうの光が漏れている……

 何故か隙間の向こう側に眼を引き寄せられてしまう。宇宙に空いた穴。その向こうに何が?

 何かがいる⁉

 何かじゃない、誰かだ! 銀河より、『輝く隙間』よりも更に巨大な何者か。


 ―― おまえが深淵を覗くならば、深淵もまたおまえを覗いている ――


 そんな言葉が頭に浮かんだ。確かニーチェか。『深淵』って社会における悪の比喩メタファーだけど、俺の目の前には文字通りの深淵が、人格を持った深淵がいる。


 見ている!

 俺を見ている。

 見てはいけない。

 あれは、人間は見てはいけない‼

 分かっているのに目が釘付けになっている。目をらせない。俺は自分の意志で目を動かせない。やばい!


〈見てはならぬ〉


 言霊が俺の躰を支配し、俺に掛かった呪縛を力ずくで破壊した。途端に躰が自由になる。俺はすぐに目をらせた。


なんじには時期尚早、狂気に抗えぬ〉


 全身に冷や汗が吹き出た。

 恐怖で体温が下がる。俺を助けたのは深淵の向こう側の存在だ。宇宙の外側の存在。

 何者だ?

 絶対神か? 魔王か?

 隙間の輝きが変化した。ずっと目をらせていた俺はおそるおそる目を向ける。何者かがいなくなったことが分かって安堵した。その隙間に、どこからかきた光の塊が次々と吸い込まれていく。


『我』 『願う』 『被害ダメージを』 『四倍』


 俺が願った『願命』だ! その断片だ。光の塊は俺の心から飛び出している。


『水南枝 莉乃』


 水南枝、俺は君を護ってみせる……


『向け』 『たまえ』


 俺の『願命』を構成する言葉がそれぞれ光の塊になって、隙間を埋めていく。すべての塊によって、隙間は完全に塞がれた。ここに至って、俺はようやく気付いた。

 この三本の線は『スロット』だ!

悪魔ディンメは三つのスロットを持っています』

 グアリムはそう言っていた。その三つのスロットが宇宙に現れたんだ。スロットはすべて宇宙と同化・融合している。そんなスロットの一つが『願命』で埋められていった。俺の『願命』は宇宙の一部になって、宇宙の摂理を書き換えたのか。


「兄さん!」

 優弧が駆け寄ってきた。

「優弧?」

 俺の目の前に優弧がいる。ここは山頂、上には星が見えるけど宇宙じゃない、星空だ。街の灯りのためにわずかしか星が見えない。元の場所だ。


【『皇帝アンプルール』の悪魔憑ルディンメは一つ目のスロットを『願命』で満たしました。

『願命』の内容は


『我は願う。被害ダメージを四倍にする事を代償とす。願命に起因する事象を条件とす。水南枝 莉乃に向かうあらゆる災厄を我に向けたまえ』


です】


〈グアリム、俺は今『願命』が成立したことが分かった。どうやって俺は分かったんだ?〉

〈『メッセージ』です。今のわたくしと茅汎様との会話は『テレパシー』なので、頭に伝わる以外は声の会話と同じですが、『メッセージ』は情報が直接脳に書き込まれるので瞬時に伝わり、伝わった時点で考えなくとも既に理解しています〉

 テレパシー? 今更だが、俺は声を出さずにグアリムと会話している事実に気付いた。

〈『メッセージ』によれば俺は『皇帝アンプルール』の悪魔憑ルディンメで、『キル』属性の最高位『キル至高王ロード』。そして『至高王ロード』のパートナーであるグアリムはただの悪魔ディンメでなく『キル冥姫めいき』と呼ばれる。属性は『イズィ』『リル』『イド』『キル』の四種類。だから四人の『至高王ロード』が存在する〉

〈まさしくその通りです。茅汎様が受けた『メッセージ』は、パートナーたるわたくしも同時に知ることになります〉

〈あれ? 『メッセージ』ってグアリムが俺に送っているんじゃないのか?〉

〈いいえ、自動的に発生するものです〉

 色々と話している途中、優弧がジッと俺を見ていることに気付いた。

「そう言えば優弧、まさかずっとここで待っていたのか?」

「ずっと、って三〇秒ぐらいよ」

「三〇秒?」

 俺の感覚では何時間も経ったように思えたけど。

「優弧から見て、俺はどうなった?」

「兄さんは硬直したまま動かなくなって、グアリムが兄さんの体の中に消えたの。それから、兄さんも姿が消えたわ」

「グアリムが俺の中に? 俺も消えた?」

 その時、俺の体が輝き始めた。虹色の光を放っている。そして俺から人型の闇が分離していく。完全に分離した後、虹色の光が薄れ、同時に闇も色が薄れていった。光が完全に消えた頃、闇はグアリムになった。

「これで『願命』の契約は完了しました」

「そっか」

 どんな危険があるのかと警戒したけど、代償を支払う契約だけで終わったな。よかった。

「優弧、帰ろう」

「うん。グアリムはこれからどうするの? 住む場所は?」

「はい。力を使い果たして疲れました。なので補給します」

 俺の体が再び虹色に輝き始める。グアリムは逆に闇に変わっていく。あれ? さっきこれを見た気がするけど……まさか⁉

「ちょ、ちょっと待って!」

 俺の制止も聞かず、グアリムは再び俺の中に入ってしまった。

「ちょっと? これって兄さんが何をしている時も一緒なの? なんか、いやらしい」

「いやらしい、って何でだよ! 優弧は何を想像したんだ?」

 優弧の顔が一瞬で赤くなる。

 し、しまったぁ!

 真っ赤な顔、そして涙目で優弧が俺をにらむ。怒っている時ほど笑顔な優弧が、ここまで余裕がないのは珍しい。ヤバすぎる!

「……兄さん」

「うぐぼふぁっ!」

抵抗ガバシュ、ダメージを四三%軽減】

 俺が防御できるスピードを超えた優弧のボディブロー。な、なんか『メッセージ』が出た! 打たれた俺の腹から煙が、いや違う、水蒸気が出た。何で?

〈いたたた……グアリム、今の『メッセージ』は何?〉

〈『固有特性アイジェンフィーチャー』を報せるためのものです〉

〈『固有特性アイジェンフィーチャー』?〉

悪魔憑ルディンメごとに、それぞれ異なる能力や特性を有し、それらは『固有能力アイジェンパワー』『固有特性アイジェンフィーチャー』と呼ばれます。これらが発動した時、それを報せるメッセージが発生するのです。

 先程のは茅汎様固有の『固有特性アイジェンフィーチャー』で、ダメージを軽減します。そして今の蒸気は茅汎様が能力を発動させた時の副産物のようなものです。

 茅汎様は悪魔憑ルディンメになったことで身体能力が強化されましたが、特に体が頑強な『キル』属性、その『至高王ロード』なので飛び抜けて頑強なのです。また、悪魔ディンメであるわたくしが入っている時は更に強化されます〉

 今の説明を聞く限り俺は滅茶苦茶頑丈になったっぽいけど、なんでこんなに痛いんだ?

「兄さん? 一応明後日から学校に行ける程度には手加減したんだけど、どうして平気なの?」

「ちょっと待て! それって俺が二日間動けなくなるほどの攻撃をしたのか? 実の兄に、なんて恐ろしいこぶしを叩き込んでんだよ!」

「質問しているの、わたしなんだけど?」

「スイマセン」

「さっきの湯気は何?」

「ダメージを軽減する特殊能力の効果らしい。しかも俺はかなり頑丈になったそうだ……って優弧、なんでそんなに嬉しそうな顔?」

「それって、もっと手加減を減らしても大丈夫ってことよね」

 こ、怖ええよ。どこまでドSなんだよ!

「まあいいわ。グアリムもうちに来なさい」

 なんで優弧が決めるんだろう? 家の主みたいだ。

「家に泊めるのはいいけどグアリムは女の子だし、俺の部屋に置くのはぁっていだだだだ、ギブ、ギブ、ギブギブギブ! 折れる! 折れる! マジ折れるから!」

「わたしと同室に決まってるでしょう、いやらしい!」

「あたたたぁ、本当に折れるかと……いや別に、同室になりたかったわけじゃないから。それでいい。異論なし! っかしいな、俺、身体強化されたはずなのに」

 とにかく、俺は一つ目の『願命』を無事に唱えることができた。

 俺は水南枝を護れる……よな?


    ♦ ♦ ♦


「藤林くん……」

 ベランダから外を眺めていた水南枝 莉乃は呟いた。先程、藤林 茅汎の姿が目の前に現れたように思ったのだ。ベランダの向こうは星見山。しかし頂上は木々に隠されて見えない。居たとしても見えるはずがなかった。気のせいに違いない。

 茅汎を探していた彼女は諦め、カーテンを閉めた。


    ♦ ♦ ♦


 その高速道路は西島を東西に貫通するように走っている。そして西島と河を挟んだ東隣の街との間は、高速道路は地上から一〇メートルほどの高さの橋になっていた。橋になっている高速道路のすぐ下には歩行者用の橋もある。しかし夜もけた今、その橋を渡っている歩行者はほとんどいない。そんな中、詠歌よみか しょうは独り、歩いていた。藤林 茅汎のクラスメートだが、地味で大人しいためにあまり周囲の人間の印象に残っていないのが、逆説的に彼女の個性だと言えるかも知れない。時間帯と人通りを考慮すれば、少女の一人歩きは危険だろう。しかし詠歌はそのことを心配していなかった。

 橋の途中で彼女はふと立ち止まり、耳を澄ませた。

〈悲鳴?〉

〈そのようですね〉

 詠歌の中にいる悪魔ディンメアピンが答えた。悲鳴の主は少年らしい。常人なら聞こえない音量だが、悪魔憑ルディンメとして強化された彼女の聴覚では分かる。特に彼女は、感覚が鋭い『イド』属性でも高位の存在だ。

 詠歌は声の方向に走り出した。

〈橡様、危険です!〉

〈でも、ほっとけないよ!〉

 アピンの静止を聞かずに走る。橋の途中の階段を駆け降り、現場に向かう。

 街は、死んだように眠りに就いていた。

 西島の東端には細長い半島状の地域がある。そこは工場ばかりが建ち並び、夜間は完全に無人になる。街灯すらなく、自販機のみが光を放っていた。

「ひいい、助けて!」

 そんな人気のない場所で襲われているのは喜岡きおか 俊樹としきという気弱な高校生。同じく高校生の阿東あとう 邦充くにみつが彼を追い詰めた。

「ミサキちゃん、マイちゃん! ぼくを守って!」

 そう叫んだ喜岡の体の周囲に光の線が現れた。何本も現れた光の線は、紐で縛るかのように彼の周囲をぐるぐる回る。藤林 茅汎の『蒸気』と同じようなものだが、光の線であるのは『リル』属性のためだ。そして喜岡に召喚ばれた二人の少女が現れた。と言っても二人は人間ではなくアニメの人形フィギュアだ。ただし喜岡の『願命』によって人間サイズで主人マスターの命令を遂行する。

 対する『イド』属性の阿東の体の周りには、ひらひら舞う一〇センチほどの半透明の布のようなものが幾つも現れた。それらがどんどん薄くなって消えていく時、入れ替わりに現れたのは、ブーメランのような柄のない刃。それが空中に浮かんでいる。阿東の『願命』だ。そして人形フィギュアたちは、阿東の操る飛翔する刃であっさり切断された。駆け付けた詠歌は闘いを見て立ちすくむ。相手が一般人ならともかく、彼女の能力では助けられそうにない。

「脆すぎる。俺の刃は鋼鉄をも切り裂くのだが。まったく相手にならないな」

 倒れ込んだ喜岡に阿東が迫る。

「どうしてぼくを殺すの?」

「『願命』は強力だろう。あらゆる願いが叶う」

「でも、万能じゃないんだろう?」

「そうだ。様々な障害を排除しないといけない。では最大の障害は何だ?」

 喜岡は震えながらかぶりを振った。

悪魔憑ルディンメだよ。自分と同じ力を持つ存在。邪魔だ。だから排除するんだ」

〈邦充、さっさと殺しちまえ〉

 阿東の中の悪魔ディンメラサータが急かす。

〈分かっている〉

 阿東は喜岡の胴を切断した。

〈俊樹様……お別れです〉

〈マスカ?〉

 喜岡は、自分の中で悪魔ディンメマスカが消えていくのを感じた。そして、彼自身の命もそれに続く。

「ひどい!」

 間近で見ていた詠歌は涙を流し、正視に耐えない惨状に堪え切れずうずくまり、地面に吐いた。そんな現場に現れ、瀕死の喜岡に触れたのは、すらりとした長身の二〇代の女性、渡嘉敷とかしき 紗依さより

「間に合ったわ。彼は『マスカ』の悪魔憑ルディンメなのね」

 そう言って喜岡の体から手を離した。暴力の現場に似合わない、物静かで理知的な雰囲気を纏った彼女は穏やかに微笑む。死にゆく喜岡を救う気もない様子。

〈良かったですね、紗依様〉

 彼女の中の悪魔ディンメルードも、喜岡の命について気にも留めない。

「紗依、そいつは梓織しおりちゃんの仇だ!」

 叫びながら登場したのは金城きんじょう 祐一郎ゆういちろう、渡嘉敷の恋人で同じ大学生だ。

「梓織?」

 渡嘉敷は首を傾げる。

「『願命』の代償で忘れたんだろう? だったら何度でも言うよ! 梓織ちゃんは紗依の妹、俺なんかよりずっと大切な、お前にとって世界一大切な人間だったんだ。それを殺しやがったのがこいつだ!」

 金城は阿東を指差した。

「そう。なら、今の私たちの行動原理は、私の妹が発端だったのね。でも今は関係ないわ。この少年は見逃して観察しましょう」

「こんなザコ、見逃してもどうせすぐ殺されるに決まっているぜ」

「それならそれで構わないわ」

 阿東は二人が自分のことを話題にしつつ、まったく相手にされていないことに、怒りよりも警戒心を抱いた。しかし、まずは殺そうと試みる。刃を生み出し、金城に向けて飛ばす。

 その時、金城の全身に、集積回路のようなジグザグの光の線が走る。喜岡の光の線とは違うが、同じ『リル』属性だ。そして彼の背後に闇が生まれた。闇はひろがり、生物の形を創る。

 それは、闇色のからすだ。胴体の長さ三メートル、翼をほんの僅かにひろげただけで道幅いっぱいになる。阿東が生み出した刃は、金城の背後の鴉の中の闇にすべて飲み込まれる。金城を直接狙うが、それも金城の体をすり抜け鴉に吸収された。

 阿東の脳内にメッセージが発生する。


【『ラサータ』の悪魔憑ルディンメの攻撃は、『世界モンド』の悪魔憑ルディンメ星霊軆セレスタル『ウガ』に吸収されました】


 悪魔憑ルディンメの能力が他の悪魔憑ルディンメに影響を与えた時、影響を受けた方は影響を与えた者が何者かを知り、また受けた影響の内容をある程度知ることになる。

星霊軆セレスタル『ウガ』? 何だそれは?」

「自力で知識を得るんだな。それまでお前が生きているとは思えないが」

 阿東の問いに、金城が憎々しげに返事する。もう一つの疑問。阿東の悪魔憑ルディンメとしての名称は『ラサータ』。悪魔ディンメの名称と同じだ。だが金城は『世界モンド』という、まるで称号のような名称を持っている。この違いは何か? しかし金城が答えないだろうと質問を諦めた。実は悪魔憑ルディンメには高位・中位・低位の区別があり、そのうち高位の悪魔憑ルディンメは金城の『世界モンド』や藤林 茅汎の『皇帝アンプルール』のような名称を持ち、中位はまた異なる名称、そして低位は『ラサータ』『マスカ』など、悪魔ディンメの名前が名称になる。ちなみに『ウガ』は金城の悪魔ディンメと同じ名前である。

 阿東は金城への攻撃を諦め、今度は渡嘉敷を攻撃した。しかし、彼女はダメージを受けた様子がない。そして阿東の脳内にメッセージ。


【『ラサータ』の悪魔憑ルディンメの攻撃は、『――』の悪魔憑ルディンメには一切が無効になります】


「『――』って何だよ? 『一切が無効』って何だよ? そんなの反則じゃねえか!」

 あまりの理不尽さに阿東が叫んだ。しかし渡嘉敷は阿東の反応に興味を示さず近付く。

「あなたは『ラサータ』の悪魔憑ルディンメなのね」

 そして阿東に触れる。阿東の脳内に再びメッセージ。それは阿東の能力、そして阿東の知る、悪魔ディンメ悪魔憑ルディンメに関するすべての知識が読み取られたことを告げていた。

 阿東は逃げ出したが、二人が後を追うことはなかった。


「君、大丈夫か?」

 道路の隅で怯えていた詠歌に金城が声を掛けた。

「もしかして、わたしが見えるのですか?」

「見えない? やっぱりそうか。さっきの『ラサータ』の奴、君に気付いていないようだったから、そんな気がしたけど、それが君の能力なんだ」

「わたし地味だし、わたしらしいですね」

「そんなことないさ。充分可愛いって」

 そう言って金城は笑った。それはとても人懐っこい笑顔だった。

 しかしそれは、彼の人柄の残滓だった。死体の傍らでその笑顔を見せる彼が正常なはずがない。

 金城と渡嘉敷はたった一つの目的のために、人としての情も何もかも捨てて、その手段たる『中立』という主義ポリシーを徹底しているのだ。その上で見せる『人懐っこさ』は、彼の異常性の表れであった。

 一方で、その笑顔と台詞は、彼に未だ残っている人間らしさでもある。既に故人となった渡嘉敷の妹、渡嘉敷の恋人である彼にも慕っていた渡嘉敷 梓織への、彼の想いがこもっていた。大人しい橡は、梓織を思わせる雰囲気を持っていたのだ。

「それにしても、すごい能力だな。普通、姿を認識させなくしても相手にメッセージが発生してしまうのに。どういう原理か気になるよ」

 悪魔憑ルディンメの世界には、いくつかのルールが存在する。ただし、彼らがそれを識るとは限らない。その一つが『メッセージの絶対性』だ。特定の条件で悪魔憑ルディンメの脳内に発生するメッセージ。悪魔憑ルディンメは『願命』の他に特殊能力も獲得する。しかしいかなる『願命』や能力も、自分や対象者に発生するメッセージを消すことや改変することはできないのだ。

「ただ、俺には見えるよ。俺と一緒にいる彼女はあらゆる能力を無効にできるんだけど、俺も今はその影響下にあるんだ」

 そう言って渡嘉敷を指差した。

 阿東が攻撃していた時、金城は星霊軆セレスタル『ウガ』の翼をひろげ、その攻撃が詠歌に当たらないように護っていたのだった。

 渡嘉敷は詠歌に近付き、「失礼」と断って、詠歌の体に触れる。詠歌の姿を消す原理を知り、「なるほど」と独り納得する。

「いろんな悪魔憑ルディンメから情報を集めているんですか?」

 詠歌が渡嘉敷に訊ねた。

「そうよ。でも争い、闘わないと得られない情報もある。逆に仲間を作り、助け合わないと得られない情報もある。だから私たちは誰からも中立の立場になって、争う者たち、助け合う者たちからも情報を集めているの」

 ここまで話して、渡嘉敷はようやく本題に入った。

「ところであなた、仲間にならない?」


    ♦ ♦ ♦


 どうしてこんなことになったのだろう?

 荒木あらき 和人かずとは自身に迫る死をただ待つしかなかった。恐怖と悲しみで、溢れる涙が止まらない。泣き叫びたいが猿ぐつわを噛まされて、しゃべることもできない。そして、手足は座っている椅子に縛り付けられている。

 彼の前では三人のヤクザが、彼を大阪湾に沈める準備を進めていた。

「どうしたんだ荒木さん。またナンパでもしたのか?」

 少女がそう訊ねながら、彼の猿ぐつわを外す。いつの間に現れたのか?

 その少女は一五歳としては平均的な体躯だが、見る者が見れば、その物腰から身体能力の高さが窺い知れるだろう。切り揃えられたセミショートの髪。所謂いわゆる『おかっぱ』は多くの場合、幼く見えるものだ。しかし冷静沈着な引き締まった表情、長い睫毛と切れ長の瞳、身に纏うクールな雰囲気とは対照的に魅惑的な唇などにより、その面立おもだちはむしろ、年齢不相応なきりっとした凛々しさがある。

 彼女はヂョン 雪玲シュエリン、荒木の近所に住む高校生だ。中国人だが、小学生の時に家族ごと越してきたので、中国語も日本語も流暢に話せる。

「組長の娘だなんて知らなかったんだ」

「まったく懲りない人だな」

「なんだてめえ、どこから入りやがった?」

 突然現れた彼女にヤクザの一人、高田が怒鳴り込んだ。しかし彼女はまったく意に介しない。

「雪玲ちゃん! なんでここに来たのか知らないけど、危ないから早く逃げ、ごふぅっ!」

 荒木は話している途中でみぞおちに雪玲のこぶしを喰らい、気絶した。

「悪いな荒木さん。ただ、これから先の世界は、あなたは見ない方がいい。

 それにしても、自分が殺されかけても他人の心配とは、相変わらずお人好しだな。女にはだらしないが」

 そう言って雪玲は振り返り、ヤクザたちの方を向いた。

「てめえ、何者だ?」

 ヤクザの一人、高田が凄んだ。

「それはどうでもいい。とにかく彼も反省している。このまま帰してやってくれないか?」

「ふざけるな小娘! 貴様こそ、ここから帰れると思うなよ」

「君は馬鹿か?」

 叫んだ高田に対して、雪玲が蔑むような態度を示した。

「ここに来れたんだ。帰れないわけがないだろう?」

「馬鹿は貴様だぁ!」

 馬鹿にされた高田が激昂した。そして仲間に合図する。ヤクザたちは雪玲を取り囲んだ。

「本当に帰れると思っているのか」

 別のヤクザ、平井が低い声で恫喝する。三人目のヤクザ、村本は雪玲の体を隅から隅まで舐め回すように見ると、下卑げびた笑いを漏らした。

「へっへっへ。マサよお、こいつぁいい体してるぜ」

 雪玲はゴキブリでも見るかのように、冷たい侮蔑の視線を投げ掛けた。

「脳が腐敗すると視線ですら汚物か?」

「ふん、余裕ぶっこいているのも今だけだぜ。泣き叫ぶ姿が楽しみだなあ」

 雪玲は溜め息をく。

「もう一度言おうか。私はここに来れたのだが」

 頭の悪い彼らも、ここにきてさすがに気付いた。暴力団事務所の中に部外者が簡単に入ってこれるわけがない。鉄砲玉に対して常に備えているからだ。しかもここ『葛西かさい組』は今、宿敵『大泊おおどまり組』と抗争中で警戒態勢を取っているのだ。入り口には見張りもいたはずだ。

「俺、見張りの連中を見に行って、」

「もう遅い。あの二人は殺した」

 三人はギョッとして少女を見た。彼らは殺人に慣れている。しかし女子高生の口からそのような言葉が出るとは、まったく予想外だったのだ。

「てぇめえ!」

 高田が拳銃ハンドガン S&W M36チーフスペシャルを雪玲に向けた。スナブノーズという、銃身バレルが五センチしかないタイプのリボルバーだ。日本の警察の拳銃、ニューナンブM60の原型オリジナルでもある。小型なので弾薬アモは五発しかない。

 すぐに殺せる状態のまま、それでも高田は用心する。この少女はどうやって見張りを殺したのか? 不意打ち? 色仕掛けですきを作った? だがそれで一人を殺せても、もう一人はすぐに警戒したはずだ。そのための二人組だから。

 大体、銃を向けられた状態、相手の指一本で次の瞬間にも殺されるかも知れない状況では、ヤクザでも平静でいられない。しかし雪玲は銃を向けられてなお平然としている。指より速く動いてかわせるとも思えないが、彼女はすぐに反応すべく身構えるどころか、まるで気にしていないようにさえ見えた。

「死ねぇ!」

 高田は引金トリガーを引いた。

 銃声が響く。とにかく殺してしまえば、もはや用心の必要もない。

 結局、雪玲は最後まで動かなかった。しかし不敵な笑みを浮かべたまま、まったくの無傷で立っていた。

「なにい?」

 ヤクザたちは驚愕し、そして彼女の顔の前に浮いている、直径九ミリの小さなゴミに気付いた。弾丸バレットだ。亜音速サブソニックで発射された弾丸バレットが空中で静止していた。雪玲の体の周りに幾つかの光の点が、雷を思わせるジグザグな軌跡を描いて上から下に、下から上に、或いは右に、左に、体の表面をなぞるように走る。光の点は時々瞬間的に光量が増す。

 確かにこれでは殺せない。見張りにもそうやったのだろう。だが目の前に出た答えを、非現実的なそれを高田は受けれられなかった。受けれられるはずがない。

「撃てぇ! お前らも撃てよ!」

 全員がM36を構えた。殺しのプロだが銃撃戦ガンファイトに慣れていない彼らは『弾薬アモは常に残しておく』という鉄則セオリーを守らず、残り一四発を全弾撃ち尽くした。合計一五発の弾丸バレットは、すべて空中に浮いていた。

「やれやれ、下っ端じゃ話もできないか」

 彼女は事務所の奥に乗り込むのか? ヤクザたちは身構える。しかし、雪玲は不敵に笑うばかりで動こうともしない。口だけなのか? ヤクザたちが訝しむ。

 廊下の奥から数人の怒声が聞こえた。

組長おやじ、大丈夫ッスか? くっそお!」

「お、お前ら、もっと頑張れや!」

 見ると、葛西組長を四人の幹部が必死に押している。

 それは奇妙な光景だった。

 まるで見えない力で引っ張られているかのような葛西を、四人の男が必死で押し返している。葛西自身もその力に抵抗して踏ん張っている。いや、実際に比喩でなく、本当に見えない力で引き寄せているのだ。雪玲の能力で。

 葛西たち五人は、元からいた三人の傍で止まった。葛西が雪玲に気付く。

「何だぁ、この女は?」

「それが、侵入者らしくて」

「馬鹿野郎! なに今まで何のんびりしてやがった? さっさと殺さんかい!」

「で、でも……ぐふっ!」

 怯えながら答えようとした高田は突然、血を吐いて倒れた。しかも倒れた後で、脳天から血が噴き出す。

 そして、血と一緒に飛び出したのは一発の弾丸バレット

 雪玲は宙に浮く弾丸バレットの一発を音速で高田の肉体に撃ち込んだのだった。

下種げすめ。雪玲よ、勿体ぶる価値もないであろう?〉

 冷静な雪玲とは逆に、彼女の中にいる悪魔ディンメマルギダアンナは憤っていた。

〈落ち着けマルギダアンナ。とりあえず連中は練習台に使おう〉

 雪玲は葛西を見た。

「なあ組長さん、私はお前に関わりたくないんだ。この男もお前の娘には手を出させない。だから、このまま帰らせてくれ」

わしに言ってるのか小娘? あんまりヤクザを舐めるなよ」

 途端に、葛西を押さえていた幹部の一人が縦に真っ二つに避けた。雪玲が切断したのだがヤクザたちは、何が起こったのか分からず、狼狽えた。

「まったく強情な男だ。もう一度頼もう。私たちをこのまま帰らせくれ」

わしを脅しているつもりか? ふざけるな!」

 また一人、即死する。

「しつこくて悪いが、私は何度でも聞くぞ。このまま帰らせてくれ」

「これだけやっておいてか? 貴様は絶対に殺す! ただで済むと思うなぁ〜!」

 そして更に一人。

 雪玲は眼をつむる。そこからは見えないはずの、暴力団事務所の他の部屋に意識を向ける。葛西の拒絶の度にヤクザたちの体に穴を穿ち、あるいは切断する。彼らは自分の身に何が起こったかも、攻撃者の顔すら知らないまま絶命していく。雪玲は出来上がった死体を葛西の目の前に運び込む。見せしめのためだ。


 ……


「まったくかたくなな男だな。私は何度でも言おう、と言いたいところだが、後、一度しか言えないな。どうする?」

 雪玲の問いかけに、葛西は怯えた顔を向けた。脂汗あぶらあせをダラダラ流している。座り込んでいるのは、腰が抜けたからだ。元プロレスラー、元ボクサー、日本刀ポントーあらゆる暴力、技術と武器が雪玲に向けられたが、まったく通用しない。そんな抵抗の結果が、辺りに充満する血の臭いと累々たる屍だ。葛西組で生きているのはもはや彼一人だった。

 ヤクザは舐められたら終わり。そのためには身体からだを張り命を懸ける。しかし葛西は判断を誤ったと後悔した。大泊組が乗り込んできた時、彼一人では何もできない。上位組織への上納金も確保できない。彼女は「このまま帰らせてくれ」とばかり言っているが、その気になれば実力でできるはず。猫が鼠をいたぶるように、弄ばれているのだ。面子さえ気にしなければ逆らうメリットはなかった。

 彼女が殺すことができるのは後一人、彼だけだ。彼女の要望を受けようが拒否しようが、彼女は妨害者のいない状態で悠々と帰ることができる。葛西が承諾して帰るか、葛西を殺して帰るか、それだけの違い。拒否は無意味だ、要望を飲もう。葛西はそう決断した。そしてここを切り抜ければ、海外に逃亡しよう。

「み、認める。わしは何もしない。だからこのまま帰ってくれ」

「そうか。無事に話し合いができて嬉しいよ」

 雪玲の言葉に葛西は「これだけ殺しておいてぬけぬけと」と、死体の山を見て思った。だが口にしない。

「ところで組長さん、お前は中々恐ろしい武器を持っているな」

「な、何がだ?」

 あらゆる暴力と武器が通用しない雪玲の言う『恐ろしい武器』が、一体何を指しているのか見当が付かない。しかしそれが分かれば、この状況を逆転できるかも知れないと、葛西はそれに一縷の期待を持った。

「何がって、『情報』だよ。情報ほど恐ろしいものはない。私の価値観では、最も恐るべきは『運』、二番目が『情報』だ。私は見た目は只の女子高生だが、常人にない能力がある。お前はそれを知っている。第三者に知られると厄介だな。ああ恐ろしい」

 雪玲の言う『ああ恐ろしい』の言葉には恐れている様子が感じられず、ふざけているようにしか見えない。しかし情報が恐ろしいというのは葛西にも納得できた。彼女を只の女子高生と侮る者は腕ずくで拉致を試み、手酷い報復を受けるだろう。だが能力を事前に知っていれば、やりようもある。一番有効なのは狙撃だろう。弾丸バレットを空中で止めた彼女だが、さすがの彼女も二四時間隙がない、ということはないのかも知れない。

〈一番目が『運』、二番目が『情報』か。中々お主らしいの〉

〈幸い、『運』はまだ誰も独占していないし『富』のような大きな格差もない。だから現実的には、最も恐るべきは『情報』だと私は思っている。ちなみに三番目は『愚者』、四番目が『諦めない者』だ。『窮鼠猫を噛む』の通り、四番目は最後まで気が抜けない。そして『愚者』ほど交渉・コントロール・予測・命令・協力の通用しない者はいない。間違った選択、不利な選択も平気でする上に、天才とは逆の意味でとんでもない発想と行動を起こす。敵にも味方にもしたくないな〉

「というわけで組長さん、お前からの情報漏えいを防ぎたいのだが」

わしは誰にも言わないぞ」

 葛西は即答。彼は雪玲さえここからいなくなれば、わざわざ約束なんて律儀に守ろうと思っていない。守るつもりのない約束を受けるのに、迷う理由がなかった。

「そうか。それで助言がほしいのだが、こういう時にお前たちヤクザはどうする?」

 問われた葛西は一瞬考え、そして慌てて叫んだ。

「秘密は守る。本当だ!」

 こういう時にヤクザはどうするか? 答えは『口封じ』だ。死体は秘密を漏らさない。

「それで? お前が私の立場ならどう判断する?」

「頼む! 信じてくれ! 絶対にしゃべらない!」

 葛西は必死で訴えつつ、自分ならどう判断するか考えてしまう。「信じてくれ」と言う者を信じる必要があるだろうか? 少なくとも殺しておけば確実だ。人命を尊重しない以上、その選択に迷う理由がない。

「助けてくれ、お願いだ! 何でも言うことを聞く。殺さないでくれ!」

 葛西は畳に額をこすり付けて命乞いする。そしてやはり、命乞いをしながらも考えてしまう、自分が彼女の立場ならどうするか? 殺せる相手を殺さない理由があるだろうか? そして命乞いなど、考慮する価値もない。今までそうしてきた。そして彼女もきっと同じ結論に辿り着いたはずだ。

 殺される! それを確信した葛西は土下座の姿勢のままスーツの内側を探り、M37を手にした。『エアーウェイト』と言う、M36の姉妹機だ。素早くM37を雪玲に向け発砲、同時に真横に飛び退く。

 そうしたつもりだった。

 実際には、飛び出したのは弾丸バレットではなく、M37そのものと、それを握る手のひら。一方で手を失った葛西の右手首からは鮮血が噴き出す。そして葛西自身は元の位置のまま。真横に移動する前に胴体が切断されていた。雪玲の体に幾筋かの光が走り、そして光はゆっくりと消えていった。

 雪玲は晴れ晴れとした表情になる。そして静かに微笑みを浮かべた。

『力』は悪ではない。ただ、それを以て弱者を蹂躙する人間が雪玲は嫌いなのだ。命すら弄ぶ連中なら、なおさらだ。

 血と肉片がぶちまけられた建物の中、生きているのは雪玲と荒木だけになった。

 雪玲はいましめを解いた荒木を見詰める。

 愛おしい、雪玲はそう思った。

〈好みは人それぞれだが……雪玲よ、悪いことは言わぬ。この男程度に、お主ほどの女は勿体ないぞ〉

 親切心であろうマルギダアンナの言葉に、自然と雪玲に笑みが溢れる。

〈マルギダアンナ、それは勘違いだよ〉

〈そうなのか?〉

〈別に、彼自身に対しては特別な感情は抱いていない。お気楽にナンパし、フられ、遊び、そして学業に勤しむ。そんな彼の日常には、暴力も殺戮もない。

 私が愛おしいと感じているのは、荒木さんのそんな、平穏な生き様だ〉

 そう言って再び荒木を見る。

「こういう人種の平和は、私のような人間が護らないといけないな。私のように力を得た者が目的を見失えば、野獣けだものになってしまう」

 テレパシーでなく自然と口に出たその言葉はマルギダアンナに語り掛けるというより、ほとんど独り言だった。

 雪玲は荒木を抱き上げる。そして死体だけになった暴力団 葛西組事務所を後にした。


    ♦ ♦ ♦


「お世話になりました」

 夕焼けの中、喜屋武きゃん 美依乃みいのは深々と頭を下げる。その動作に大きなツインテールが跳ね上がる。

 放課後、府立讃船さんせん高校、女子陸上部の部室前。いつも明るく元気いっぱいの彼女も、この時ばかりは沈んだ表情をしていた。一年生でハイジャンプの選手として大阪府大会に出場、準優勝を受賞。次は全国大会へと期待が寄せられていたのだ。

「元気でね」

 部長の北田きただ 奈緒なおは、ただそれだけを言った。部員の面々は何も言わない。いや、言えなかった。明るく社交的な喜屋武は他の部員との人間関係は良好、練習態度は真面目、そして何より才能があった。彼女が去ることを望む者はいない。だけど引き留める者もいなかった。

 挨拶を終えて彼女は去る。ギプスの右脚が地面を擦らないように松葉杖を突きながら。

 校門を抜けた喜屋武は駅に向かわず、西島の西側を流れる芹那川の川辺へと歩いて行った。駐車場に入り、脚を投げ出して座り込む。駐車場の向こうに流れる河を眺める。

「……陸上、続けたかったなあ」

 脚の怪我は一生治らないわけではなかった。ただ、ギプスが取れても高校在学中にはまともに運動はできないだろう。そもそもどうして陸上がやりたかったか喜屋武は改めて考える。みんなに期待されていたし結果を出したい。そういう想いもあるが、元々競争心も名声欲もなかった。ただ、小さな頃から走ったり跳んだりするのが大好きだったからだ。

「泣くなキャンミー! あんたに涙は似合わないわ!」

 突然、彼女を叱咤する声が響いた。愛らしい少女の声。ゴシゴシと眼の涙を拭いて振り向くと中学生くらいの少女が彼女を見ている。

「誰?」

 面識のない人間に『キャンミー』とあだ名で呼ばれたのに、何故か嫌な気はしなかった。可愛らしくコケティッシュな容貌にウェーブがかかった金髪ショートの西洋人らしい少女。パニエで膨らましたミニスカートやパフスリーブの衣装はバレリーナを思わせるフォルムだが漆黒だ。

「あたしはシヌヌトゥ、キャンミーとラブラブになるという、大いなる野望を秘めたキュートな悪魔ディンメなのだ!」

「ディンメ?」

「アクマのことだよん♥️」

 悪魔と聞けば警戒すべきかも知れないが、喜屋武は不思議とそんな気が起こらない。

「じゃあボクの名前は、」

「知ってる! キャンミー。ニックネームはキャンミー、本名はキャンミー!」

「本名じゃないって」

「あはは、細かいことにゃ」

 喜屋武の表情が自然とほころぶ。

「そうそう! キャンミーは笑っているのが一番だよ」

「ありがとう」

「でね、でね、キャンミーは何か望んでいることはない? 例えば、跳びたい、とか? 跳びた〜い、とか? それから跳びたぁ〜い! とか?」

「ボク……跳べるようになるの?」

「もちろん! 戦闘機なんて目じゃないゼ!」

「それ、『跳ぶ』じゃなくて『飛ぶ』だよ」

「まあ、どっちでもいいとして、あたしはキャンミーの『願命』を三つ叶えることができるんだゾ! えっへん」

「そうなんだ。じゃあ、ボクは『元通り、跳べるようになりたい』って願えばいい?」

「それはちょっと違うにゃあ。あたしがキャンミーから何か願いを叶えた時点で契約完了、キャンミーは怪我も病気も近眼も治って、日焼けとかニキビとか巻き毛とか、は治らないけど、そして更にパワーアップして人間を超えるの。だから『願命』には『跳びたい』なんて、わざわざ願わなくてもいいんだよ」

「ボク、近眼もニキビもないけど。他のことを願えばいいってこと?」

「そゆこと」

「じゃあ、お料理上手になりたいな。最近、女の子らしいこと、してなかったし」

「そんなのでいいの? 日本の地形をナスカの地上絵にしてもいいんだよ? おすすめはハチドリ!」

「それは、住んでいる人が不便だからいいよ」

 喜屋武は料理のことで『願命』を唱えた。そして魚や燕の姿を持つ神の肉体、星霊軆セレスタル『シヌヌトゥ』を得る。悪魔憑ルディンメとなった喜屋武は自分の躰のことが分かった。ギプスの中の右脚が完治していることも、自分が得た身体能力も。

「『リル』属性の悪魔憑ルディンメは時間と空間と速度が得意分野だよ。破壊力と再生力は『イズィ』に、感覚の鋭さは『イド』に、パワーと頑丈さは『キル』に敵わないけど、運動神経は抜群なんだ。しかもキャンミーは『リル』属性では『大公デューク』、なななんと第二位! トップの『リル至高王ロード』は超ド級すぎて次元が違うけど、『リル大公デューク』にもなると第三位以下とは別格、陸空海・宇宙も自由自在だから!」

「ほんと?」

「もっちろん! じゃあ動いてみる? そうだ、超音速スーパーソニックの時は気を付けてね。キャンミーは平気だけど、近くの人間は大怪我するから」

「うん、やってみる!」

 喜屋武は自分の体を、手足を使わずに動かす。『試す』なんて思わなかった。どうやって動かすかも、何ができるかも既に分かっていた。そして、そのことに疑いもなく確信する。

 喜屋武の頭の周辺に、チカチカ点滅する直径一センチ弱の光球が二〇ほど生まれた。二〇の光球は一瞬で足許まで伸びて光の線になり、そしてすぐに線は上の方から消えていった。

 喜屋武の両脚がふわりと浮き上がる。

「うわっ、浮いた!」

「あっ、待って! あたしも付いて行く」

 シヌヌトゥが喜屋武の体に入る。

 体が思いのままに動く、人間の意識よりも速く動く。ただし喜屋武の意識も、人間より遥かに速い。三〇〇Gという、人間が即死する加速度で喜屋武は一瞬にしてマッハ六に。五秒後には雲の上に飛び出していた。

「これ、『跳ぶ』じゃなくて『飛ぶ』だよ。まあいっか」

 悪魔憑ルディンメは高位の者ほど高い能力を持つ。ただし身体能力などの基礎能力は、高位ほど大器晩成型で低位ほど早熟型。初期は基礎能力の高さとランクの高さが逆転している。一方で特殊能力は初期でも高位の者ほど高い。例外は四人の『至高王ロード』だ。『至高王ロード』のみ、初期の特殊能力は低い。ただしレベルが上がれば『大公デューク』さえ足元にも及ばなくなる。『リル大公デューク』である喜屋武は、契約時点で強力な能力を得た。

 喜屋武は今度は水平方向に動く。下方に拡がる雲が、飛ぶように後ろに流れる。遥か下方の地上さえ、みるみる後方に移動していく。時速百キロより更に四千倍近い風圧が心地よい。

 超音速スーパーソニックの喜屋武の体からは衝撃波ショックウェーブが発生していた。空気が高い粘性を持つ。人間が本来経験することのない物理状態だが、喜屋武には勝手が分かる。数時間は息を止められる。宇宙の超低気圧も深海の超高水圧も窒素が凍る超低温もマグマの高温も自分が耐えられることが喜屋武には分かる。

 地上を見た喜屋武は、それが佐渡島だと気付く。大阪を発ってわずか数分、飛行機では考えられない速度だ。喜屋武は縦旋回する。これまでの人生で味わったことのない爽快感。

〈キャンミー、クルビットやってよ。それかプガチョフ・コブラ!〉

〈それって何?〉

〈もう、ロシアの戦闘機フランカーがやってるじゃない〉

 どちらも推力偏向ベクタードスラスタノズルを備えたフランカーのみができる、一種のアクロバット飛行である。この推進装置はフランカー以外では、米国アメリカのF―22ラプター、F―35ライトニングⅡといった最新鋭の第五世代戦闘機のみが備えている。

〈知らないよぉ〉

〈不勉強なキャンミーは罰として、帰ったらファーンボロー航空ショーとレッドブル・エアレースとリノ・エアレースと自衛隊小松基地航空祭のブルーインパルスのアクロバット飛行をDVDで鑑賞すること。宿題だよ!〉

〈そんなに視るの?〉

 喜屋武はシヌヌトゥとテレパシーで会話しながら、散々遊んで元の場所に戻ってきた。

「困ったなあ、陸上できない体になっちゃった」

 そう言う喜屋武の顔には笑みが浮かんでいた。それは吹っ切れた、晴々とした表情だった。


    ♦ ♦ ♦


 三人のヤクザは床に置いた三体の寝袋シュラフから中身を取り出した。中身は中年の男女と中学生の少女。フリージャーナリストの星霞ほうか 俊幸としゆき、妻の星霞ほうか 恵美えみ、そして娘の星霞ほうか ゆきだ。それぞれ合成繊維のバンドで体を縛っている。呼吸はしているものの、睡眠薬が充分に効いているため、ピクリとも動かない。

 ここは開店休業状態の工場の倉庫。と言っても工場として稼動する必要はなく、その予定もない。暴力団『岡田組』が所有し、工場である本来とは異なる目的で使用されている。

 例えば死体の解体。

「男はバラすとして、女は売るのか?」

 ヤクザの一人、大山が仲間に訊ねる。

「全員バラせ、だとよ。口封じだ」

 もう一人のヤクザ、島田がそれに答えた。

「また下崎センセーかよ」

「そう言うことだ」

「ならよ、女はバラす前に楽しんでいいよな。橋口のヨメと娘みたいに」

「くっくっく。当然だ。俺も楽しませてもらうぜ」

 二人は醜悪な表情で下卑た笑いをあげた。

「……」

 三人目のヤクザ、勝元かつもとは無言のまま、穢れた情欲をひたすら少女に向けていた。

 標的ターゲットである一人をすぐに殺すのではなく、標的ターゲットを含む一家全員を運び出して別の場所で殺す。普通は家族によって通報や捜索願いが出されるので、家族がまるごといなくなると、その可能性がかなり少なくなる。近隣の住人もせいぜい夜逃げだと考え、いずれ忘れ去られる。仮に通報があったところで、警察は上から捜査を禁じられるはずだ。そしてニュースを見れば分かるように、死体が発見されてしまうのは、いつも犯人が素人の場合。ヤクザは上手く処理する方法を幾つも知っている。

 先日も今回と同じクライアント、若手政治家の下崎しもざき 太一たいちにより、彼の秘書だった橋口の一家を殺害したばかりだ。星霞 俊幸は秘書の橋口から、下崎の汚職について聞き出していた。

「じゃあ、俺はさっそくガキの方をいただくぜ」

 島田が少女に向かおうとするのを、勝元が遮る。

「初物……俺……欲しい」

「ああ、はいはい。分かったよ、好きにしろ」

 そう言って床に横たわる少女を見ると、少女の前にいつの間にか何者かが立っていた。眠っている少女をじっと見詰めている。

 さっきまでは島田たち三人と眠る三人以外には、誰もいなかったはずだ。誰かが侵入しても、気付かないわけがない。

「誰だ、貴様?」

 島田の誰何に、その人物が振り向いた。眠る彼女と同じくらいの年齢の、小柄で華奢な少女。ただし日本人でなく西洋人だ。

 ふわっとボリューム感のある、毛先が内側にカールした蜂蜜色のセミショート、雪のような白い肌、そして『穢れ』という要素を一切含まない、清らかな造形の顔。

 服装はパフスリーブに膝丈のスカートだが、意匠を凝らした複雑な刺繍などが施され、スイスやドイツなどの民族衣装のようだ。ただし、その色彩は黒一色である。

 ルージュを塗ったかのような真紅の唇が開いた。

「初めまして。わたくしは悪魔ディンメアスイク、すなわちアクマでございます」

 透き通る声でそう告げて、にっこりと微笑む。その笑顔は、これまで幾人もの人間が解体された殺風景な倉庫には場違いに感じられた。

「アクマだあ? へっへっへ、面白れえ。イカれた女なら、なんて泣き叫ぶんだろなあ。楽しみだぜ」

 島田はアスイクと名乗る少女の腕をむんずと掴もうとして、見えない壁のようなものに阻まれた。

「痛てえ! 何だこれは?」

悪魔ディンメを傷付けることは、誰にもできないのです」

「はあ? 何言ってんだあ?」

「理解できなくとも結構ですよ。

 ご心配なく。逆にわたくしたち悪魔ディンメも誰かを傷付けることはできません。悪魔ディンメではなく悪魔憑ルディンメをこそ、人は怖れるべきでしょう」

 島田たちの反応リアクションを無視して一方的に話し終えたアスイクは、再び少女、星霞 雪の方を向く。

 眠る少女のボブカットの髪型は鍾 雪玲と似ているが、こちらは逆に幼く感じられる。世の中の悪意を知らない彼女の顔立ちはあどけない。

 しかし世界の醜さを、彼女はこれから知ることになる。

 アスイクは、眠ったまま聞こえないはずの彼女に語りかけた。

「雪様。ご両親が殺されようとしています。このままで宜しいのでしょうか?」

「……い、や」

 雪の唇から、微かに言葉が溢れる。

 閉じたままの双眸から、一筋の涙が流れ落ちた。

「そんな? まさか!」

 大山が驚いて叫んだ。

 医学的知識がない彼らだが、経験的に知っている。レム睡眠でない深い眠りにある彼女は寝言を言うことも、涙を流すこともないはずだ。

「助け……たい」

「はい、よくできました。悪魔憑ルディンメとなる雪様が語るべき言葉は『助けて』ではなく『助けたい』です。もっとも、わたくしが雪様を試すことなどあり得ません。

 わたくしたち悪魔ディンメ悪魔憑ルディンメとの絆は、互いが生まれる前からの宿命さだめによるものですから」

 そして、アスイクはヤクザたちに振り向いた。

「『願命』の内容を他者に聞かれるのは、あまりよろしくありませんね」

 そう言って小首をかしげて思案したが、数秒後、自己解決してにっこりと天使のような笑みを浮かべた。そしてガラス玉を転がすような声音で言った。

「まあ、死者となる方々ですから、問題はないでしょう」

 ただし、その台詞セリフは天使とは真逆のものだった。

「何を言って、わあ!」

「消えた?」

 ヤクザたちの目の前で、悪魔ディンメアスイクは雪の体内に溶け込み、続いて雪も消える。

 三人のヤクザはしばらく茫然としたが、数十秒後に二人は再び現れる。雪も元通り、バンドで拘束されている。

 雪は、ゆっくりと目を開いた。

「な、何故だ!」

「薬が効いていないのか?」

 突然、雪を拘束するバンドが砂状に粉々になった。そして溶けるように消えていく。

 彼女は上半身を起こした。

「わた、し……?」

 自身に起こったことに、本人も驚いていた。

 そして、目の前にいるヤクザたちを見る。

「あなたたち……」

 雪の目から涙が流れる。

「殺され……ちゃう!」

 雪はすがるようにアスイクを見る。アスイクは目を伏せ、哀しげな表情でかぶりを振った。

「残念ながら。喩え雪様のご意志でも、こればかりはどうにもなりません」

 その様子に、驚愕で茫然としていたヤクザたちだったが、ようやく我に返った。

「そうだぜ! どうやってバンドを外したのか知らねえが、お前はこれから死ぬんだよ」

 ちょうどその時、雪の両親が目を覚ました。

「な、何だこれは?」

「どうなっているの?」

 両親の全身は薄く蒸気に覆われている。蒸気は拡散し、消えていった。

 二人とも、身体が拘束されていることに気付いてもがく。もがいていると、バンドの各部が千切れた。

「何だと?」

「人間の力じゃ切れないはずだぞ!」

 ヤクザたちが驚く。

 雪は何もしていない。

 あくまでも雪の無意識の自動防御だ。

 雪の『両親を護りたい』という想いは意識的にも無意識的にも強い。そのため、雪の悪魔憑ルディンメとしての『固有特性アイジェンフィーチャー』によって両親の体内の睡眠薬は中和され、睡眠状態の身体のコンディションは正常化される。拘束具は自然に破壊される。

 誰も、雪とその両親を傷付けることはできない。

 島田はナイフを取り出した。

「やめて!」

 雪は恐怖で目を覆った。もちろん島田がやめるはずもない。

「死ぬやあ〜!」

 島田はまず男、雪の父親に飛び掛かり、喉元にナイフを突き刺した、刺したつもりだったがナイフは喉に弾かれる。その鋼鉄のような硬さにナイフは手を離れ、強く飛び跳ねて島田の喉に突き刺さった。

「島田!」

 大山が叫んだ。

 島田は首から大量の血を吹き、ドサッと倒れた。即死だった。

 たまたまナイフが首に当たってしまった。彼は、

「いやぁ〜!」

 雪は目をつむったまま首を振る。その動作に涙が飛び散った。

「クソッ!」

 勝元がコルト ディテクティブスペシャルを手にした。S&W M36のようなスナブノーズ、小型のリボルバーだ。

「やめて! また死んじゃう」

「死ぬのはてめえらだ」

 銃口を向けられた雪の父、俊幸は怯えつつも観念して目をつむる。勝元は引金トリガーを引いた。


 ……


 何も起こらない。

「あれ?」

「おい、やめろ勝元、俺に向けるな」

 引金トリガーを引いても弾丸バレットが出なかったことに勝元は訝しみ、手元の拳銃ハンドガンをいじる。それがたまたま大山に向いていた。銃は、撃たない時でも人間に向けてはいけない。そのことに大山は抗議した。


 バン!


 銃声が響いた。今度は勝元は引金トリガーを引いていない。暴発だ。

 大山は胸と口から血を吹き、倒れた。即死だ。

 勝元は不発だと勘違いした。実はハングファイヤーだった。

 弾薬カートが不良の場合、火薬が反応しないことがある。これを不発ミスファイヤーと言う。同じく弾薬不良の時、火薬が引金トリガーを引いた時に反応せず、遅れて反応する場合がある。これがハングファイヤーだ。ただしこれらは昔の話。現在では弾薬不良などまずない。

「うわああ!」

 仲間を殺してしまった勝元がパニックに陥った。

 ドーン!

 そこに重厚な音が響き渡り、倉庫全体が振動した。そして爆発したかのように、壁が粉々になり、巨大な何かが飛び出した。

 パワーショベルのショベルだ。

 倉庫の外で、瓦礫の山に乗り上げていたパワーショベルが放置されていたが、ブレーキをかけ忘れられていた。パワーショベルは瓦礫の斜面を下がりながら加速して倉庫に激突、ショベルが壁を突き抜けてしまったのだ。

 パワーショベルの本体も壁を破り、倉庫の中に姿を現している。ショベルは反対側の壁にめり込んでいる。

 そしてショベルと壁の間から、勝元の体がぶら下がっていた。ペンキをぶちまけたように壁は大きく血に染まり、ショベルと勝元の体からも、湧き水のように血が滴り落ち、真下にある血溜まりがみるみる拡がっていく。

 またもや即死。

 勝元はショベルによって、頭が潰されていた。

「いやあああ〜!」

 自身の能力が引き起こした結果に、雪は泣き叫ぶ。

「彼らが雪様の能力に殺されることは、確定した運命でした。非常に残念ですが、雪様ご自身の意志でも避けられません。雪様の『固有特性アイジェンフィーチャー』の防衛能力が強力すぎるため、雪様自身にも制御できないのです。それを抑え込める者は、四人の『至高王ロード』のみでしょう」

 アスイクが悲しげに雪に告げた。

 雪は悪魔憑ルディンメになった瞬間から、自身と両親の身について全く心配していない。彼女には自分の他に大切な者をも護ることができる能力があり、しかも未来を識ることができるのだ。だからすべての結末を知っていた。

 最初から最後まで、彼女が恐れたのは、彼女の能力によって彼女の意志に関係なく、家族ではなくヤクザたちが殺されること、加害者とは言え人間の死であった。

「これは一体……?」

 俊幸は立て続けに起こる悲劇に理解が追い付けず、戸惑っている。妻の恵美は娘の姿を探して見回し、アスイクと共にいる雪を見付けた。

「雪! 無事なの?」

「……うん。大丈夫」

 ようやく泣き終えた雪が答える。雪の方からは何も訊ねない。両親が無事であることを知っているからだ。

「あなたは?」

 恵美は次にアスイクに訊ねる。俊幸もアスイクと雪に気付いた。

「初めまして。わたくしはアスイク、雪様に仕えるアクマでございます」

 頭を下げるその物腰はうやうやしいと同時に優雅でもあった。

「アクマ?」

「本当なの! わたしの味方なの」

 アスイクの言葉に続けて、雪が母親に訴え掛ける。

 両親は顔を見合わせた。「まさか」という顔だ。

「アスイク、わたしの中に入って」

「畏まりました」

 アスイクは雪の体内に消える。恵美と俊幸は驚いた。

「ちょっと! 今のは何?」

 少なくとも常識で量れない何かが起こったことは否定できない。

「それより、お父さん、お母さん、今のうちに逃げよう!」

 頬の涙の跡もまだ乾いていない雪が提案する。彼女は嘆き悲しんでいる状況でも、安全について考えることができる。大人ならその程度のことはできてもおかしくないが、雪は中学三年生でその発想ができる。生まれついて持っているその資質は、護りを重視する『キル』属性の悪魔憑ルディンメに選ばれるべき人間ならではである。


 三人は倉庫の外にいるヤクザたちに見付からないように脱出することに成功。工場を出て、走った。大人の二人は中学生の雪が遅れないように速度を合わせようとしたが、二人の全速力でも付いていけることに驚く。むしろ雪の方が両親のペースに合わせていた。悪魔憑ルディンメになって身体能力が飛躍的に強化されているのだ。しばらく走った後、もう大丈夫だと雪が言い、三人は立ち止まった。

 三人の後方、工場の方角から少女がやってきたことに、彼らは気付いた。

 その少女は高校生くらいの年齢だ。実際には雪より一年年上だが、似たようなヘアスタイルにも拘わらず、しっかりした感じの彼女は、童顔な雪とは歳が離れているように見える。

「君、向こうから歩いてきたのか?」

「はい、そうです」

 心配して問い掛ける俊幸に少女は答えた。大人相手なので敬語だが、少女には年齢に似合わないしっかりした頼り甲斐が感じられる。

「女の子がこんな暗い道を歩くのは危ない。特に、あっちの方は危険だ」

 何が、とは敢えて言わない。ヤクザの話をして恐がらせる必要もないだろう。

 そこに雪が駆け寄り、少女の手を握った。

「巻き込んじゃって、ごめんなさい!」

「『巻き込んだ』とは?」

 雪の言葉を図り切れず、少女が問う。

「だって、あなたは暴力団と闘った」

「たまたま出くわしたから、適切な対応をしただけだよ」

 工場にいたすべてのヤクザを殺した少女、鍾 雪玲は答え、そして雪に問う。

「もしかして、君は見ていたのか?」

「いえ、あなたが来る前に知っていました。わたしは未来が見えるから」

「未来が見える?」

 雪玲はやや警戒心を強めて雪を見た。

「はい。わたしは『教皇イエロパント』の悪魔憑ルディンメなんです」

 それは雪玲と彼女の悪魔ディンメマルギダアンナにとって、初めて聞く単語だった。

 悪魔ディンメは、初期状態の知識はとても少ない。そして、ある条件によって知識が増加する。ある条件とは、特定の経験、遭遇、単語を聞く、などだ。今回、悪魔ディンメマルギダアンナは『教皇イエロパント』という単語を聞いたことで、『教皇イエロパント』の悪魔憑ルディンメについて僅かに知識を得た。それは一見『思い出す』に似ているが、元々忘れていたのではなく、知らない状態から脳内に知識が発生したのだ。

 マルギダアンナは得た知識を、雪玲へとテレパシーで伝える。

「『教皇イエロパント』、『キル大公デューク』……『キル』属性の第二位か!」

「はい。わたしにはいろんな防御能力があるのですけど、防御に関わることに限り、ある程度の未来が見えるんです。それから、これも防御関係限定ですけど、自分と護るべき人間が異常なほど幸運になって、加害者は異常なレベルで不運になるんです。

 さっきあなたは『たまたま出くわした』と言いましたけど、偶然じゃなくてわたしの能力のせいなんです!」

「なるほど。『巻き込んだ』とはそう言う意味か」

「ごめんなさい」

「謝らなくていい。それより、自分の能力はあまり他人に話さない方がいい」

「あっ、うぅ、ごめんなさい」

「私に謝ることじゃないさ。それにしても運の操作か、しかもその上で未来を識るとは恐ろしい。敵に回らなくて助かったよ。

 ああ、私だけ素性を明かさないのも不公平アンフェアだな。私は鍾 雪玲、中国人なんだ。そして『戦車シャリオ』の悪魔憑ルディンメでもある」

「あっ、自己紹介忘れていた! わたしは星霞 雪。漢字は『星の霞』と、空から降る『雪』です」

「面白いな。私のシュエリンの『シュエ』も『雪』と言う字だ。この偶然も君の能力か?」

「えっとぉ、違うと思います」

「冗談だよ。よろしく頼む」

「こちらこそ!」

 状況が掴めず唖然としている星霞夫妻の前で、二人の少女は握手を交わした。


    ♦ ♦ ♦


 様々な人々が悪魔憑ルディンメになり、

 様々な人々がこれから契約しようとしている。

 そして一部の人間は、いずれ悪魔憑ルディンメになることを未だ知らない。

 彼らは絶望と、希望の間を揺れ動く。


 キル冥姫めいきグアリムは、彼女の主人である藤林 茅汎を覇王へと導こうと決意を固めていた。

 その頃、

 イド闇姫あんきルリムは世を憂い、

 イズィ魔姫まきシパジアンナは独り彷徨さまよい、

 リル夜姫やきナンムは静かに微笑み、

 そして、悪魔ディンメスクールマシュは妖しくほくそ笑んだ。

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