【第三章 星見の山】

『解答』 そして第三の人物(?)の指摘

「ごめん。俺、用事があるから!」

 そう言って俺は駆け出した。すぐに追い付かれるかも? 襲われるかも? そんな恐怖に追い立てられながら、俺は無我夢中で走った。公園の端まで来て、俺は振り返る。振り返るのも怖いけど、状況確認をしないわけにもいかない。

 グアリムは元の場所から動いていなかった。俺を見るその眼差しは寂しげだ。悪いことをしたような罪悪感にさいなまれるけど、我慢する。そんな心理こそ相手の思うつぼかも知れないから。


 ■Q:悪魔に「三つの願いを叶えよう」と言われたらどうする?


 ■A:逃げる!


 正解は『逃げる』だ。

「『一つ目の願い』で『願いを無限に増やしてほしい』」とか、そんな贅沢を悠長に迷っている場合じゃない。

 どうしても叶えたい、どんな犠牲を払ってでも叶えたい強い、とても強い願いがあるか? そこまで強い願いがないなら、彼女を頼るべきじゃない。メリットに対して危険性リスクが高すぎる。そもそもどんな危険性があるか分からない。どれほどの危険性があるか分からない。特に「どれほど」よりも「どんな」がヤバい。対策を立てにくい。上手くいけばとてつもない幸せを掴めるかも知れない。でも下手をすれば人生を滅茶苦茶にされるかも知れない。つまりこれは人生をまるごと賭けたビッグギャンブルだ。でも賭けに乗らなければ、大きな幸福も不幸もない『平凡』を選択できる。

 見方を変えれば、これは見知らぬ人物に突然、勝負を申し込まれたようなもの。こちらは勝負のルールさえまだ把握できていないのに対し、向こうはきっと熟知しているはず。あまりにも分が悪い。もちろん性格も知らない初対面の人の善意なんて信じるべきじゃない。むしろ勝算があって勝負を挑み、こちらはカモにされると考えた方がいい。

 特別望んでいることもない癖に、甘い話があれば乗ってしまう。しかも相手が話していない内容 ―― 例えば危険性 ―― には無頓着。なんて、詐欺師に引っ掛かる人間の典型だ。

 ギャンブルをやりたいなら、可能な限り勝率を高め危険性を減らし、それでもなお危険性が高いなら、危険性を負うだけの充分な価値がある場合に限り、相応な覚悟を決めて臨むべき。危険性すら見えずに挑むのは勝負師じゃない、カモだ。

 そもそも願いを叶えるということさえ、相手が言っているだけで保証がない。まずは聞いてから考える? それじゃ遅い。詐欺には、まず話を聞かないこと。詐欺じゃなければ? 無視しても損失じゃない。チャンスを捨てたとしても、それで危険性を避けられたのなら充分だ。


 また、こんな可能性もある。例えば――


「三度チャンスをやろう。我輩はどんな願いでも叶えてやるぞ」

「それって何か代償があるのか?」

「ないわけがなかろう。甘えるな」

 やっぱりそうか。

「願う前に代償について確認できるのか?」

 願ってから、とんでもない代償を払わされるのはごめんだ。

「その答えはyesでもnoでもないな」

「どういうことだ?」

「まあ慌てるな。願いは魔術的に定められた手順で行われる。このように唱えるのだ。

われは代償を払う意志がある。が願いを叶え給え』

 その後、我輩が問おう。

『汝が願いを伝えよ』

 貴様はここで願いを言え。すると我輩が代償を話す。我輩が判断するのではない。てんが代償を決めるのだ。もし代償が受け入れられないなら『その代償は願いに見合わず』と言えば良い。願いはキャンセルされる。受け入れられるなら『その代償で以て願いを叶えよ』と唱えれば良い」

「何度でもやり直せるんだ」

 俺が言うと悪魔は溜め息をいた。

「つくづく貴様は都合の良い解釈をする。叶える願いが三つではない。願いを叶えるチャンスが三度だ。一つ目の願いを承服してもキャンセルしても一つ目だ。残りは二つになる」

「下手すればチャンスを浪費してしまうってことか?」

「その通り。それから承服してもキャンセルしても、他の願いが既に唱えた願いに近い場合は代償が大きくなるぞ」

 よく考えて願わないと駄目だな。

「分かった。……願いを言うよ」

「宜しい。聞いてやろう」

われは代償を払う意志がある。が願いを叶え給え』

「では代償を戴こう」

 えっ?

「代償は貴様の命だ」

「ちょ、ちょっと! 願いは?」

「知らぬ。我輩にその義務は無い」

「え〜? 命なんて代償はキャンセル! えっと『その代償は願いに見合わず』」

「愚かな奴だ。我輩の作り話をまだ信じておる」

「えっ、嘘だったのか?」

「お人好しめ。我輩には真実を語る理由が無い。悪魔は儀式により『われは代償を払う意志がある』と唱えた人間から望むものを奪えるのだ。例えば命。『が願いを叶え給え』というのは我輩が勝手に言った嘘に過ぎん」

「お、おかしいだろう! 代償なのに俺は何も得ていないぞ」

「それは人間の思考回路だ。さらば」

「ぎゃ〜!」


 とかだったらどうしよう?

 他にも――


「あたちがどんな願いでも叶えてあげまちゅ」

「それじゃあ、****」

「ダメダメ! たった三度きりでちゅよ。よく考えるでちゅ」

「なるほど。だったら、●●●●」

「それなら、『△△△△』の方がお得でちゅ」

「『大は小を兼ねる』か。それじゃあ、」

 俺は様々な可能性を検討する。


 ……


「ようし、考えた! これなら、」

「はあい! タイムアップでちゅ」

「グガアー!」

「えっ? うわあ!」

 俺を背後から羽交い締めにする、毛むくじゃらの巨体。明らかに人間じゃない。

「お、鬼?」

「あたちのパートナー、オーガくんでちゅ!」

「グウオオー!」

「あたちはニンゲンが警戒しないけど、か弱いでちゅ。オーガくんは強いけど、遅いし目立つからニンゲンを追えないでちゅ。だからあたちがニンゲンを引き止めて時間稼ぎをしているすきに、オーガくんがニンゲンを捕まえるでちゅ」

「ええー? 願い事は?」

擬似餌ルアーのことでちゅか? 生き餌と違って擬似餌ルアーはタダで便利でちゅね」

 願い事は擬似餌ルアー、獲物を釣る餌ってことか?

「オーガくん、三日もごはんがなくてぺこぺこでちゅね。夕ごはんはスープとステーキ、どちらがいいでちゅか?」

「グルルル」

「じゃあスープにしましょう。今晩は右脚でちゅよ。生かしておけば腐らないでちゅ」

「お、俺を喰う気か? やめろぉ〜!」


 みたいな可能性だってあるかも。


 つまり、そもそも『願いを叶えてくれない』可能性だってある。『願いを叶える』というのはあくまでグアリムがそう言っているだけで、裏が取れていない。本当かどうか分からない。

『悪魔が俺の前に現れて、願いを叶えると言った』というのも、あくまで俺の主観だ。客観的に起こっているのは『悪魔を自称する少女が、願いを叶えると言った』だ。よく考えると、今はっきり分かっているのは、グアリムが空を飛べるということだけ。それも薬か何かの作用による幻覚だとすれば、目の前に少女がいることさえ、事実かどうか分からない。

 異星人エイリアンの来訪にせよ、宝くじ一等賞の一〇年連続獲得にせよ、起こる確率がどんなに小さくても、確率0じゃない限りは起こってもおかしくない。だけど信じがたい出来事、それが起こる確率が、勘違いをする確率より小さい場合、確率の大きい順に可能性を検証するのは判断の基本だ。

 まあ何にせよ、関わりを避けることさえ出来れば危険性はなくなるし、結局何なのか答えが出なくても問題ない。


 逆に、逃げた方が危険な可能性としては


『気紛れで短気、凶暴だけど根はお人好しな悪魔。親切心で願い事を叶えようとしてくれるけど、断ると逆上して八つ裂きにされる』


とかがあるかも知れない。

 でも逃げるリスクよりも逃げないリスクの方が高いし、結果的に、逃げたけど追って来なかった。


 都合の悪いことに、ここから俺の家が近すぎた。公園の後ろがマンション、俺の家の窓が見える。だから敢えて遠回りで逃げた。幸いマンションの入り口は公園の反対側を向いている。


    ♦ ♦ ♦


「兄さん⁉ どうしたの?」

 血相を変えて玄関に飛び込んだ俺に優弧が驚いたのも無理はない。

「はあ、はあ、……お、襲われたんだ。はあ、変な少女に」

 息が切れたのが治まるのを待たず、まず簡潔に答える。

「怪我は?」

「はあ、まだ何も、されてない」

「莉乃ちゃんは?」

「だ、大丈夫。別れて俺一人になってから、だから」

 俺と水南枝の安否、最優先に確認すべき二つのことが問題ないと分かって、優弧はホッとしたようだ。俺の手を握り、リビングに誘導する。そのまま俺を椅子に座らせた。

「兄さん、深呼吸」

 言われるままに深呼吸した。しばらく深呼吸を続けているうちに、だいぶ落ち着いてきた。

「熱いお茶をれるわ。とりあえず落ち着いて、頭の中を整理して」

 そう言った優弧は食器棚に並べられた中国茶の缶から『白毫銀針パイハオインゼン』を選んで取り出した。優弧の趣味の中国茶の中でも、特にお気に入りの茶葉。名前の通り針のように細長い葉を、耐熱ガラスのポットに入れてお湯を注ぐ。そして食器棚から一緒に取り出した砂時計をひっくり返した。ちなみにこの茶はティーバッグを使用しないで、茶葉ごとカップにお茶をれる。

 砂時計の中でライトブルーの粉がサラサラと落ちてゆく。その光景を眺めながら、俺は記憶をまとめる。全ての粉が落ちると、その前に用意しておいた二人のマグカップに優弧はお茶をれた。日本茶で『茶柱が立つ』と言うけど、このお茶では長さ五センチの茶葉が、何本も垂直に立っている。

 ……

 お茶をれ終えた優弧は俺の向かいの椅子に座り、まっすぐ俺を見つめた。既に話す準備ができていた俺は口を開く。

「もしかしたら俺の認識に錯覚や勘違いがあるかも知れない。でもとりあえず、『俺が体験した』と思い込んでいることを、思ったままに話すよ」

 優弧は黙って頷いた。

 こんな嘘みたいな出来事、家族にも信じてもらえない、誰にも話せない。 ―― 普通の家族だと、そんな風に考えるのかも知れない。でも優弧なら分かってくれる。もちろん盲目的に鵜呑みにするんじゃなくて俺がおちいっているかも知れない錯覚などを指摘してくれる。

 とにかく俺は、ありのままを話した。場所や時刻は分かる範囲で可能な限り正確に伝える。優弧はほとんど黙って聞いていたけど、あの少女グアリムについては色々と細かく訊ねられた。その時に「『悪魔』なんて言葉は使わない方がいい」と優弧に叱られてしまった。

 悪魔なんて存在しない。

 別に俺と優弧が頭の固い科学『信者』で偏見によってオカルトを否定している、というわけじゃない。むしろ『非科学的』という言葉を多用している『科学信者』ほど、オカルトを盲信している人並みに科学的じゃない。頭の固い『科学信者』は『オカルト信者』と同じくらい、科学的でない思考回路で頭ごなしに断定していることが多いように思う。

 科学は信じるのではなく、疑い否定することで修正され進歩してきたんだ。盲信してはいけない。科学は事実から理論を作って『実験』という事実で理論を証明している。常に理論を疑い、理論と合わない事実の発見によって理論を修正することで科学は進歩してきた。理論を疑わずに理論と合わない事実を否定して『非科学的』とか、本物の科学と逆の行為だ。まあ『非科学的』と否定されているものは、事実の信憑性が怪しいのが多いけど。

 そういうことじゃなくて『悪魔』という概念が想像で造られたものだからだ。『悪魔』という概念はユダヤ教に由来するけど、聖書などは事実と異なる内容を歴史的事実であるかのように書かれている事柄が多い。ユダヤ教は特に異教に対して攻撃的で、異教の神を歪め貶めたのが『悪魔』だ。人の想像によって造られたことが明らかだから、実在することはありえない。

 或いは『悪魔』なる者が実在し古代に遭遇した人が、既存の概念である『悪魔』という言葉で呼んだ? 想像の産物である『悪魔』の中に実在のものが含まれている可能性は否定できない。だとしても歪曲されているはずだ。古代ではよく知られていないものは事実よりも想像によって情報が水増しされ、実在の人物や生物の姿が歪められることはよくある。遠い異郷の実在の民族が『肩から上に頭がない』とか。半人半馬のケンタウロスは、馬を知らなかった時代の人が馬に乗った人間を誤解したという説もある。『噂に枝葉が付く』をもっと極端にした現象が伝説の実態だ。

 つまり、彼女がまさしく『悪魔』だとしても、『悪魔』を古代の人が知っていたとしても、『悪魔』という言葉によって俺たちが知っている知識は当てにならない。彼女が本当に人間でないとしても、その性質や能力は未知だと思うべきだ。『悪魔』という言葉のイメージに惑わされて先入観を持ってはいけないんだ。

 俺が優弧に叱られたのは、そういうことだ。


 全てを話し終えた俺はポケットの中のものを取り出して、優弧の目の前にさらした。優弧は俺の掌の上でボタンを指でつまんでひっくり返す。ボタンの裏にはボールペンで『ち』と書かれている。俺の落書きで、チヒロの『ち』だ。

「兄さんの服のボタン、それと一ニミリぐらいの白く角張った五角形の小石」

 文章を読み上げるかのように、優弧は俺の手の上のものを言葉にした。


 空を飛んだと思ってしまうような浮遊感と光景は、何か推理小説ミステリー的なトリックを使ったと俺はあの時、判断した。どうやったのかは想像が付かないけど。だから空を飛んでいる、と思った瞬間、服のボタンを千切って公園に向けて投げたんだ。

 あのボタンの本来の用途は、言わば童話『ヘンゼルとグレーテル』の小石だ。極小の太陽電池で微量の電波を発信しているので、行方不明などで連絡が取れなくなれば、探知機でこれを探す。通信などでは使用しないかなりの長波なので、弱い電力で電波が遠方に届きやすい一方、他の電波探知機で発見される可能性は少ない。だけど今回は応用として、幻覚でない証明に利用した。こういう様々な用途を想定して、事前に文字を書き込んでいるんだ。他にも、服の一部や持ち物に予め目印を付けている。

 ボタンがどこに落下したかを確認し、俺も地面に降ろされた後、その場所まで拾いに行った。空を飛んでいなければ、ボタンは全然違う場所に落ちたはずだ。だけどボタンは空で確認した場所で見付かる。その時に小石も拾って一緒にポケットに入れた。

 ボタンは軽すぎてうまく飛ばしにくいけど、俺はコツを知っている。公園のどこに落ちるかまでは俺にも分からないのに、相手が予想して予めトリックを仕込むのは不可能だ。たまたま他人のボタンが落ちていた? そんな偶然が起こる可能性はかなり低いけど、更にそのボタンにもボールペンでたまたま『ち』と書かれているケースと掛け合わせると、こんな二つの偶然が重なる確率はほぼゼロだろう。

 或いはトリックじゃなくて幻覚、例えば俺は薬を嗅がされたりしたのかも知れない。幻覚の中で俺は足元の地面にボタンを落とし、後で拾う。自分の主観では空を飛び、降りてからボタンを捜して拾ったと思い込んでいたとしたら? だけど偽りの風景の中で拾った小石は、真実の姿をしているだろうか? 幻覚の中で拾った小石は黒いかも知れないし、丸い、或いは二センチあるかも知れない。

 だけどボタンと小石は今も俺の手元にある。優弧にも見えているから幻覚じゃない。優弧は俺と同じくトリックと幻覚の可能性を疑った。だから俺が手の中のものを見せた時、意図を理解して言葉にしたんだ。拾った小石があの時に見たままの姿であることは、優弧の言葉で証明された。

 更に、優弧は俺のボタン、千切らずに服に残っている方に仕込まれたカメラの映像を再生した。俺や優弧は制服も私服もボタンにカメラを隠している。俺の目の前にいたグアリム、空から見た街並み。全てが俺の見たままだ。

「やっぱり幻覚じゃないんだな」

「信じられないけど、兄さんが空を飛んだのは本当みたいね」

 彼女は本当に空を飛べるのか? 『翼を使って飛んだ』というのはトリックの可能性も残っているけど。むしろ、羽ばたかないで飛んでいること自体が怪しい。

 こんな非現実的なこと、幻覚だったら気が楽なのに。

 いや、幻覚の方がヤバいか。それだと相手は俺に幻覚を見せることができ、かつ俺に対してそれを行使するような悪意の持ち主、ということになる。しかも対策が分からない。

 結論として、少なくとも『空を飛んだ』という体験に限ればトリックや幻覚の可能性は低い。

「とにかく何もなかったのね。良かったわ」

 そう言って笑う優弧に、俺もつられて頰がゆるむ。疑問は残ったけど、とりあえず安心していいだろう。「明日からの対策」とか言いそうな用心深い優弧が特に何も言わなかったのは少し意外だったけど。ホッと安心した様子で優弧が立ち上がった。

「さてと」

 優弧はエンゼルフィッシュのイラストがプリントされたエプロンを着けた。本当に水の生き物が好きだなあ。クールな優弧だけど、可愛いものも似合ってる。戻ってきた平穏に気が緩むと、ドッと疲れが出てきた。

「疲れたでしょ。夕飯、腕によりをかけて作るわ。兄さんは部屋でくつろいでいて」

「うん、ありがと」

 自分の部屋に入ると、更に一気に疲れが出た。今日は本当に色々ありすぎたなあ。特に一日のラストがキツい。何者なんだ? 悪魔って本当に? まあいいや。重力に任せ、仰向けにベッドに倒れ込む。

 そのまま眠ってしまうかも。と思ったら、背中のクッションの所為で俺の体はゴロンと横倒しになった。何やってんだ俺? 『伊賀の風流子さん』をずっと背負ったままだったのか? こんなマヌケな格好で、真面目に優弧に報告していたのか?

「ハハハ」

 自分のマヌケさ加減に苦笑、していたが途中で笑いが止まる。今気付いた。

 他の荷物は?

 ベッドから跳び起きて自分の両手を見る。手ぶらだ。無意識にリビングまで持って行って、そのままリビングに置き忘れた可能性もある。でもまず玄関に急ぐ。

「優弧!」

 靴を履こうとしていた優弧は俺を見て、しまった! という表情をした。予想通りだ。急いで家を出ようとする優弧の腕を掴む。

「離して!」

「駄目だ!」

 荷物を置き忘れた可能性が一番高いのは、悪魔を名乗った少女がいた公園。一度通りすぎた危険に再び飛び込むことになる。優弧は、買い物に行ったはずの俺が手ぶらで帰ってきたことで、俺が荷物を忘れたことに気付いたんだ。さっきは無事だったけど、次もそうだとは限らない。そんな危険な場所に、俺は優弧を行かせたくない。

 優弧は、俺がそう判断すると分かっていた。というより優弧こそ、俺を危険な場所に行かせたくないと思ったはずだ。だから「夕飯を作る」と俺を騙し、「くつろいでいて」と俺を油断させた隙に、優弧は独りで出掛けようとした。場所も少女の容姿も既に分かっている。

「危険だから兄さんは行っちゃ駄目!」

「だったら優弧こそ」

「わたしを誰だと思ってるの? 少なくとも兄さんよりは」

 そう言って俺の手を振りほどく。でも、その腕を俺はもう一度掴む。危機的状況において、必要な知識と判断力、そして逃走、回避、戦闘のための身体能力は、四歳から訓練を続けている俺は一般人よりもかなり高い。それに、様々な技術テクニックも身に付けている。

 だけど優弧は、その全てで俺を上回る。優弧は藤林家の歴史の中でも稀に見るレベルの天才なんだ。その実力は多分母さんの血、沖縄の戦闘一族、『魔物マジムンを滅する』石敢當いしがんとう家の家系の血が強く出ているからだと思う。

 でも、だからと言って妹を危険な目に遭わせられないだろう。

「駄目だ駄目だ駄目だ! 危険な場所に優弧を行かせられるか!」

 手を繋いだまま、俺と優弧は睨み合う。

 ……

 しばらくその状態が続いたけど、やがて優弧は力を抜き、深く溜息をついた。そして不本意そうに、本当に不本意そうに渋々言った。

「二人で行こう」

「分かった」

 俺は優弧を行かせたくない、優弧は俺を行かせたくない。だったら二人の妥協点はここしかなかった。まあ、俺だけより、優弧だけよりも二人の方が危険性が少ない。俺も靴を履こうとしたら、なぜか優弧が俺をやんわりと制した。

 なんだ? こんな緊急時なのに苦笑している。

「兄さん、まだ背負ったまま行くつもり?」

 はっ、『伊賀の風流子さん』!

「優弧、これ、すぐに部屋に置いてくるから、絶対に先に行くなよ!」

「分かってるわよ」

 笑いながら優弧が答える。

「兄さん、台所に焼き鳥の串が後二〇本くらい残っているわ」

「分かった」

 まずは部屋に戻って『伊賀の風流子さん』を背中から降ろす。いつもの鞄は公園に置き忘れたから予備の鞄を用意し、台所でスプーンなどの食器と一緒に保管されていた焼き鳥の鉄串を一〇本ほど無造作に掴み、適当なビニール袋に入れて鞄に仕舞った。俺や優弧が投擲すれば四〇メートル先の動く敵に正確に命中し、細い腕程度なら貫通する。俺たちの一族は多くの場合、周囲にある、ありふれた日用品を武器にする。

 鞄の中にはボールペンや日曜大工DIY工具、部材がある。小さなネジや大きなネジ、C型クランプとか。優弧はF型クランプを持っている。これらは鈍器として攻撃や、刃物からの防御に使える。例えば日本刀のような長い刃物をかわすのはかなり困難だけど、これなら受け止められる。もちろん相手よりかなり実力が上じゃないと無理だけど。一方で短い刃物をかわすのは俺たちには素手でも難しくないけど、受け止めることができると戦術の幅が広がる。例えばこちらの武器を隠しておけば、避けるしかないと思い込んでいた相手の意表をつくことができる。

 玄関に戻ってくると、優弧はスマホを見ていた。

「兄さん、これかしら?」

 スマホの画面に映っているのはカメラの映像。我が家の周囲には幾つかの監視カメラを仕込んでいるけど、優弧が見ているのはベランダの鉢植えに隠しているカメラからの映像だ。マンションから見下ろした、左右に細長く拡がる内港北公園。その公園内の左側に小柄な人物が映っている。

「多分。合ってるけど、小さくて判りにくいな」

「ベランダから直接公園を覗いていないわよね?」

「さすがにそれはない」

 ベランダから見て、こちらに気付かれたら家を知られる。危険性が大きすぎる。このマンションのいくつかの別室を母さんが別人の名義で所有しているけど、今回で使い捨てるつもりはない。

 実は俺はまだ、彼女が普通の人間で何かのトリックを使った可能性を疑っている。身の回りで悪魔と遭遇した人がいるだろうか? それが皆無であることを考えれば、仮に悪魔が実在したとしても、俺がそんな希少レアな体験をした確率よりも、何かの間違いの確率の方が高い。実際に遭遇したと仮定するのは、他の可能性を徹底的に排除できた後でいい。

 靴を履き終えると、優弧が俺の服の袖を掴んだ。

「兄さん……」

 まるでお化けに怯える小さな子どものようだ。

「不安か?」

「わたしは、臆病だから」

 いつもは気丈夫な優弧が珍しく弱気だ。優弧は秘密主義、いつも強気、負けず嫌いでプライドが高く、見栄っ張り。そして意地っ張りだ。自分の弱さは家族以外には絶対に見せない。『からいものが苦手』ということでさえも必死に隠す。そんなの別に弱点じゃないし、いいだろう、と俺は思うけど、優弧は絶対に嫌だそうだ。

 優弧の強さは弱さから来ている。例えば用心深さは臆病さだ。クールに見えるのは簡単に他人に心を許さないから。強気で振舞うのは弱いところを見せたくないから。自分にかなりの自信を持っている。だけど自分に自信がない。そんな矛盾を持っているのが優弧だ。自分の高い能力を冷静に把握している。それでも不安で仕方がない。優弧が小学生時代にあっさり俺を超えた理由。才能や努力家な性格もあるけど、そういう不安が優弧を能力向上に追い立てているからでもある。そういった全てが弱点でもあり、強さでもあるんだ。確かに優弧は優秀だけど、やっぱり俺の方が兄だから。

 だから、優弧は俺が護る。

「行くわ」

 優弧が玄関のドアを開けた。優弧は既に自分の弱さをすっぽり覆うように、『強気』という鉄の仮面を被っていた。俺たちはマンションを出て、遠回りで公園に向かった。

 もう少しで公園が見えるところで俺と優弧はスマホを取り出す。二人同時にインナーイヤホンを取り出してスマホに接続すると片耳に装着した。そしてTV電話アプリを立ち上げる。

「じゃあ、行ってくる」

「無理しないで。危険だったら荷物は諦めて」

「分かった」

 俺は優弧を残し、一人で公園に向かった。二人で危険なものに向かう場合は基本的に①『二人でそれに向かう』②『もう一人はそれの背後に回って挟撃する』③『一人が残って後方支援する』の三パターンだ。今回のように、多くは③を選択する。

 ③の第一のメリットは、優弧の顔を知られずに済むこと。例の少女が危険だと判明した場合、その脅威が今日中に排除できず、長期化するかも知れない。その時は手持ちのカードを温存しておきたい。優弧は今のところ、相手に顔を知られていないので、ここでいきなり登場させるのはもったいない。顔を知られていない優弧は偵察など、色々と行動することができる。

 第二に、戦闘になった場合、こちらが二人いる時は、①②はそのまま攻撃することになるが、③の場合はそれらを戦闘開始後に選択できるだけでなく、④『狙撃など遠距離攻撃する』⑤『応援を求める』など選択の幅がひろがる。更に索敵など、俺の周囲を観察してもらうこともできる。俺はただ前を見て、スマホのイヤホンで報告を受けるだけだ。デメリットは俺がいきなり相手に襲われた場合、優弧が駆け付けるまで一人で頑張らないといけないことだ。

 俺はスマホのカメラを前方に向けて進む。同じ風景が優弧のスマホにも映っているはずだ。すっかり夜になった内港北公園。街灯が公園内の道や木々を照らしている。公園の向こう、内港を見れば、向こう岸の灯りが並び、それによって海面で揺れる波が照らされていた。俺は公園内を見渡す。

 グアリムはいた。俺を見ている!

 グアリムは俺の左手、公園の東側にいた。彼女がすっと腕を伸ばす。何だ? よく見れば人差し指を伸ばしている。指差している? 彼女の指す方向に目を向けた。海に突き出たテラス。荷物が残っていた! 念のため、俺はスマホのカメラを水平に動かして一回転、三六〇度を撮影。

「グアリム以外には、誰も潜伏していないように見える」

『わたしの方も。付近に人はいないわ』

 優弧からの報告も返ってきた。

「荷物を拾って、グアリムから遠ざかる方角へ離脱する」

『分かった。気を付けて』

 テラスに入り、荷物を手にする。分かる範囲では異常なし。公園を西側に抜け出す。グアリムはずっと俺を見ていた。だけど追ってくることはなかった。

「兄さん!」

 公園の端にあるコンビニの前に来ると、優弧が駆け寄ってきた。

「グアリムは最後まで追って来なかったわ」

「そうか。よかった」

 公園は東西に細長く、途中にテニスコートもあるし道も曲がっている。ここからはグアリムのいる場所は見えない。同時に、向こうからも俺の姿は見えない。俺からグアリムが見えなくなっても優弧が彼女を監視してくれたのだ。

 俺たちはまた遠回りでマンションに帰った。ただし俺たちの住む一〇階でなく二階、架空の人間の名義で借りている部屋に入る。荷物のX線検査、薬物・化学物質検査、電波探知機および直接中身を調べて盗聴器の確認を行った。問題ないようだ。

 一通りの検査が済むと、更に荷物を別の一室に移動させる。最初の部屋は外部からの電波が遮断されているけど、移動後の部屋は遮断されていない。盗聴器のほとんどは常に電波を発して情報送信しているけど、一部のものは特定のタイミングでのみ送信される。タイマーで設定されている場合か、外部から送信要請のコマンドを受けた場合。主に後者だ。だから別室で電波探知機と共に二四時間置いておく。これで問題なければ、見落とした盗聴器はないだろう。優弧の誕生日プレゼントに盗聴器付きとか、嫌すぎる。

 すべてを終えて、俺たちは家に帰った。

「あのグアリムって女の子、実は非力で無害な少女で、悪いじゃないかもな」

「そうね。でもわたしは、獅子に油断するよりは兎に怯える方を選ぶわ」

「だな」

 油断に危険性リスクはあっても警戒に危険性リスクはない。取り敢えず、何もなくてよかったよ。

「つ、疲れたあ」

「兄さんは部屋で休んでいて。夕ご飯を作っておくから」

「あれ、俺が当番じゃあ?」

 夕ご飯を奮発するって、俺を油断させる嘘だったんじゃなかった?

「別にいいわよ」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えるよ」

 俺は部屋に入り、ベッドの上に横になった。

 今日も家で優弧と二人きりか。公務員の父さんは、まだ二〜三日は家に帰れないらしい。母さんは、相変わらずいつ帰ってくるか分からない。

 気が付けば、もう何年も帰って来ない。実は数年前に殺されていた……なんてことがあっても起こり得るのがうちの母さんだ。今のところは家に帰ってきているけど。何年も連絡がなく、いつの間にか野垂れ死んでいた、ということがあってもおかしくない。幼い頃は、そのことを想像して怯えていた。そういう覚悟が必要なのが、うちの家系に生まれた者の宿命さだめだ。今は随分慣れたけど、不安が消えたわけじゃない。

 ふと俺の視界に、部屋の隅に立ててある『伊賀の風流子さん』が入り込んだ。

 長い一日だったな。

「兄さん」

 ドアをノックする音が聞こえた。

「入っていい?」

「ああ」

 優弧が部屋に入ってきた。

 えっ、何だ?

 優弧はベッドの上で仰向けにくつろいでいた俺の腹の上に座り込む。そのまま、俺の方へグッと顔を近付けてきた。

「兄さん……」

「な、何?」

 顔が近い。兄妹でもドキドキする。

「莉乃ちゃんとは、どうなったの?」

 問われてすぐに頭に浮かんだ。

 夕陽に照らされた水南枝の顔。

 いつから優弧は気付いていたんだ? 今日のことも、俺が水南枝とうまくいくように優弧が計画したんだろ?

「……水南枝は、好きな人がいるんだって」

 優弧が大きく眼を見開く。驚いたんだろう。俺もだよ。

「そう」

 俺の上から降りた優弧は、ただそれだけを言った。

「おなか空いたでしょう」

「……うん」

「夕ご飯、わたしの特製ドリアとシーサーサラダだから」

 そう言い残し、優弧は部屋を出ていった。朝に水南枝宛のメールで送ってきた料理か。優弧なりの優しさなんだろうな。

 その後、熟睡してしまった俺は優弧に叩き起こされ、二人で遅い夕食を食べた。二時間半も眠っていたようだ。寝る前に、映菜にメールを送った。


 映菜。俺、フラれちゃったよ。

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