変わり始める日常 そして『問い』

「着いたよ。山頂だあ!」

 水南枝が俺より一足先に走り出す。少し遅れて俺も到着すると、ベンチの上に荷物を置いた。って言うか、ショッピング帰りに、そのまま荷物を持って登山するか普通?

「いい天気で良かったね!」

 嬉しそうに水南枝が言う。

「そうだな」

 下着を見られたことなんて、もう頭にないようだ。気持ちの切り替えが早いところが水南枝の長所だな。単に忘れっぽいとも言えるけど。

 確かに気持ちのいい青空だ。とても清々すがすがしい。特に、下着を売っていないところが最高だ。山、サイコー!

 水南枝は俺の方を振り向いて言った。

「今日はごめんね。さんざん振り回しちゃって」

「いや、むしろ助かったよ。アレとか俺には全然分からなかったから」

「アレってなあに?」

 うっ、蘇るトラウマ!

「……下着です」

「あはは、男の子だから仕方ないよ」

 今、俺たちは西島で最高峰(というか唯一)の山『星見山』の山頂にいる。この山は大阪市で二番目に高い山でもある。

 標高三三メートル……今笑った奴は誰だ(笑) あっ、俺か。

 それは山じゃなくて丘だろう、と思う人もいるだろうが、公式に山ということになっている。しかも自然の地形じゃなくて人工の山。大阪の地下鉄を作った時にトンネルを掘った土でできているらしい。

 この山は西島で最大の公園『星見山公園』の中央にある。南北に細長い西島のほぼ中央。街の中心を通る大通り『西島通り』沿いの東側だから、真ん中より東寄り。公園内にはサッカー場と区立体育館がある他、公園の外には北西に区役所、区立公民館、区立図書館が隣接している。まさに地理的にも機能的にも西島の中心部と言える。ちなみに北東に隣接しているのが水南枝の家、星見山団地だ。

「あたしの家、見えるかなあ?」

 水南枝と一緒に北の方角を見た。公園の隣だけど、残念ながら木々が視界を遮っている。

「見えないな」

「そっかあ。じゃあ藤林くんのおうち!」

 俺のマンション『メゾンNAICO』は西島通りを挟んで向こう側だけど、この位置からほぼ西の方角だ。マンションの前には内港北公園という細長い公園があり、その公園を挟んで『内港』と呼ばれる、港に囲まれた水の領域がある。しかし、ここからは内港しか見えなかった。

「あ〜、今日は疲れた!」

 言葉とは裏腹に楽しそうに笑いながら水南枝はベンチの上で大きく伸びをした。俺も隣に腰掛ける。公園に入る前に買っておいた缶のカフェオレを鞄から取り出す。

「でもホントにいいの、これ?」

 水南枝がカフェオレを指差した。

「何を今更。いいよ、俺が負けたんだから」

「ふ〜ん。藤林くんって、いざという時弱いよね、ジャンケン」

 ジャンケンで負けた方が二人分を買うこと。

 俺からそう提案して、結局俺の方が負けたんだ。

「ありがと!」

 そう言って水南枝がプルタブを開けた。この辺りは、プルタブ一つで「……指が痛い」と涙目になる遠塚さんほど手が掛からなくて助かる。

 水南枝がカフェオレを一口チュッと飲んだ、その横顔を見るとはなしに見る。『美人』より『かわいい』タイプの水南枝だけど、アルミ缶に口を付けたその唇がなまめかしく思えてドキリとした。

「藤林くん? ちょっと、ジロジロ見ないでよ。なんか、恥ずかしい……」

 言葉通り恥ずかしそうに言った後、何かに気付いたような表情をした。

「もしかして欲しいの?」

「それはない。同じだし」

「あっ、そっかぁ」

 水南枝が笑う。

 俺は彼女から視線を外し、周囲に目を向けた。木々の間、だいぶ地面に近付いた夕陽が見える。この山頂には滅多に人がいない。今も俺たち二人だけだ。

 俺たちは、しばらく風景を堪能していた。


 この山へ登る道はらせん状のスロープになっているけど、そのスロープを登ってくる二人組の姿が見えた。俺たちと同じ高校の制服。

 ん、あれは?

「(見た? 藤林くん)」

 水南枝が小声で俺に問う。

「(武元さんと荒井か)」

 クラスメートの武元さんと荒井がこちらに向かっている。二人は手を繋いでいた。

「付き合ってたんだね、あの二人」

 驚いた表情で水南枝が言った。二人は、とても幸せそうだった。特に武元さんは、照れてるのと嬉しそうなのが混ざった、とてもいい顔をしていた。

「あの二人、こっちに登ってくるな」

「えっ、どうしよう、どうしよう?」

 ここで鉢合わせって何か気まずいな。かと言って隠れる場所もない。

「降りようか?」

「そ、そうだね」

 俺たちは山を降りる。

 当然、登ってきた二人と出会った。

「藤林? 水南枝さんも?」

 二人がかなり狼狽える。

「藤林くん、あのっ、あたしたち、クラスのみんなにも言ってなくて」

「黙っておけばいいってこと?」

「う、うん」

 不安そうに武元さんが答える。

「大丈夫、言わないから」

「良かったあ!」

「じゃあ、俺たちは行くから」

「じゃあね!」

 良かったのはこっちだ。二人は自分たちのことでいっぱいいっぱいで、俺たち二人のことを追及する余裕はなかったようだった。


    ♦ ♦ ♦


 夕陽に染まった海を眺めている。星見山公園を出た後、俺たちは内港北公園まで来ていた。水南枝が来たがったんだけど、おしゃべりしながら歩いていたらあっという間だった。公園の柵から海までの間には草木があるけど、二ヶ所だけテラスが海へと突き出している。俺たちはそのテラスの一つに立って、水を眺めていた。目の前には内港、背後にはテニスコートを挟んで、俺の住む『メゾンNAICO』。右側、内港の入り口には内港橋ないこうばしという美しいブルーの巨大な橋が架かっている。仕事を終えたタグボートが橋をくぐって内港に入ってきて、桟橋に船体を寄せていく。

「あの二人、お似合いだったよね」

 武元さんたち、幸せそうだったな。二人の様子を、まるで自分のことのように嬉しそうに水南枝が言う。

 ……これはチャンスか?

 言うんだ! 俺は自分に言い聞かせる。

「美人の姉妹がいると、恋人選びのハードルが高くなるのかなあ」

 俺より先に水南枝が言った。俺のことか?

 これは脈があるのか?

 今しかない、水南枝に訊ねるんだ!

「み、みみ」

 勇気を振り絞る俺に、水南枝がキョトンとして聞き返す。

「耳?」

「ちっ違う! じゃなくて、み、水南枝ってどういうタイプが好み、かなあ? なんてハハハ」

 しまったあ直球すぎた!

「ひどいなあ」

 えっ?

 一瞬、水南枝が何を言おうとしている分からなかった。

「失恋したばっかりの女の子に、そんなこと聞かないでよ」

「ええっ⁉」

 どういうことだ?

 水南枝はそっぽを向いている。

「水南枝?」

「やだ、見ないで!」

 水南枝は顔を見せない。もしかして、泣いている?

 俺はどうしていいか、分からなかった。掛ける言葉も思い付かない。


 空はすっかり夕焼けに染まっている。俺たちはずっとテラスで立ち尽くしていた。どれくらい時間が経っただろう。振り向いた水南枝は、泣きはらした顔をしていた。えへへ、と弱々しく笑う。

 こんな時に笑うなよ。無理しなくてもいいんだぞ。

 場違いにも、夕陽に照らされたその顔を、俺は美しいと思った。

「……あのね」

 語り始める水南枝。俺は、ただ黙って聞く。

「その人、好きな人がいるんだって。今でも忘れられないみたい」

 そっか。

 その男、許せないな。

 もちろん誰にでも人を好きになる自由、ならない自由があるのは分かる。その男は結構いい奴かも知れない。でも、今の俺には、そんな正論が受けれられなかった。水南枝を他の男に取られたくないのに。でも取らなかった、その男が許せない。

 水南枝を泣かせたから。

「でも、あたしも同じなの。あたしの気持ちも、きっと変わらないから」

 過去の恋に生きる、そう宣言する水南枝。

 それは、悲しいよ。俺にできることはないのか?

「えへへ。変なこと、話しちゃった。ごめんね」

「別にそんなこと、いいよ」

 水南枝は腰をかがめ、足元に置いた荷物を持つと、再び立ち上がった。

「それじゃあ、そろそろ帰るね」

「送るよ」

「いいよ、近くだし」

「別についでだから」

「いいってば!」

 言ってしまってから水南枝は、強く言いすぎたと気付いたんだろう。

「ご、ごめん」

「ううん、気にしなくていい」

 水南枝のやり場のない気持ち、俺にぶつけてくれてもいいから。

「あの、今日話したこと、忘れてね」

「分かったよ」

 俺は明日からも何事もなかったかのように振る舞う。だけど忘れるなんて無理だよ。水南枝は俺にぶんぶんと手を振って去っていく。その仕草や表情はいつもとまったく変わりないように見えて、その実、何かが決定的に変わってしまったように思えた。水南枝の姿が見えなくなるまで俺はずっとその後ろ姿を見送った。

 水南枝のいなくなった夕暮れの公園。俺はただ一人、突っ立っていた。

 水南枝のこと、好きだとか大切にしたいとか思っていても、俺は心のどこかで水南枝を見くびっていたのかも知れない。水南枝をまだ子どもだと、恋なんて知らないと決め付けていた。

 だけど『失恋』を語った水南枝は、『女』の顔をしていた。目の前の海を、ただ何とは無しに眺める。


 失恋してしまったな。


 つい水南枝の心配ばかりしてしまったけど、俺自身も失恋したんだ。勇気を出してコクるとかコクらないとか、道化師ピエロだな。結果は変わらないのに。俺がコクれないチキン野郎で、そのままの関係がずっと続いた方がよっぽど良かった。

 失恋しても気持ちが変わらない、というのは分かるよ。俺も同じだから。

 いつか恋人になれるかも、なんて、そんな未来も夢もついえた。もう俺には何もない。

 明日から俺は、何をかてに生きればいい……?

 夕陽は落ちて、空は青から濃紺へと変わっていった。気の早い星が早速、輝き始めている。星って色々な色があるそうだけど、俺にはどれもただ白く見えた。

 あれ?

 夜空の一部の領域で星々の色が一瞬、暗くなったような気がした。

 あっ、今度は明るくなったぞ。そして深紅になった。

 そして赤色に黄色が混ざる。星って明るくなったり暗くなったりするものか? 確かに『変光星ヴァリアブルスター』という星は明るさが変わるけど、こんなに素早く変わらないはずだ。大体、地球から見て一部のエリアの星々がみんな変光星ヴァリアブルスターだとか、それらが同じタイミングで変わるというのはありない。原因は大気か、それとも俺の眼か? 星々は赤と黄というより厳密には朱色と橙色か。さっきは確かに赤は朱色でなく深紅に見えたのに。コーヒーに入れたフレッシュのように黄色は赤にゆっくりと混ざっていく、そんな液体の表面を、穴の開いた黒い紙を通して見ているみたいな感じだ。それは何となく不気味な色に感じた。これから不吉なことが起こるかのように胸騒ぎがする。

 馬鹿馬鹿しい。そういう錯覚に陥っているだけだ。悪いことなら、もう起きた。

「失恋したのですね」

 突然、声を掛けられて振り向くと、目の前に一人の少女がいた。焦げ茶色のコートに身を包んでいる。頭をすっぽり覆ったフードの中から大きな双眸が俺を見詰めている。

 コート、と言っても粗布のそれはフード以外はポケットもボタンも無く、ただ布を身体からだに巻き付けている、と言った感じだ。

「君は、誰?」

 少女はフードを外す。

 腰まで掛かる、長い黒髪がこぼれ落ちた。続いてコートを脱ぎ捨てた。中から現れたのは過剰なほどのフリルが付いた、真っ黒い派手な衣装。ゴスロリだ。

 まったく面識が無い。彼女は地面に片膝を付き、俺に向けてうやうやしく頭を下げる。それはまるで、貴族の令嬢が国王に跪いているみたいだった。高校生には馴染みのない光景だ。

「はじめまして、キル冥姫めいきグアリムと申します」

「キルのメイキ? 一体、何者なんだ?」

 まるっきり理解できていない俺の問いに対して顔を上げないまま、漆黒の少女は答えた。

「わたくしは悪魔ディンメ、アクマです。茅汎様の願いを叶えるために参りました」


    ♦ ♦ ♦


 俺の目の前に、年下らしい少女がこうべを垂れて跪いている。彼女が身に纏っているのはゴスロリ。

 アニメとか、リアルじゃネットで見た事はあるけど、目の当たりにしたのは初めての衣装。アキバとかだったら普通にあるんだろうけど、こんな人気ひとけのない内港沿いの公園で見るのは、かなり違和感があった。でも事前のイタい発言の所為せいで驚かなかった。

 何この、電波? あんまり関わりたく無いんだけど。ええと、俺は失恋して、それからヘンな人にまとわり付かれている? 悪いことって重なるもんだな。

「ええとその、俺はそろそろ家に、」

 帰ります、と言う前に戸惑う俺の前で彼女は立ち上がり、その背中から白いものが左右にひろがった。翼だ。黒服や『悪魔ディンメ』と名乗ったことから蝙蝠のような黒い翼を連想したが、それとは正反対に白い、鳥のような翼だった。彼女は俺に抱き付く。ちょ、ちょっと? その翼をバサバサっと羽ばたくと彼女はゆっくりと上昇し、百メートルほどの高さで静止した。嘘だろう?

 俺の服から取れたボタンが公園に向けて落ちていった。

 鳥が飛ぶのは見ていて気持ちがいいのでよく観察するけど、鳩や烏は地面から上昇する時は激しく羽ばたき、空気に乗ってからふんわりと優雅に翼を動かす。雀なんて身体からだに対して翼が小さいから激しく羽ばたく。ましてや空中静止ホバリングなんて素早い羽ばたきをずっと続けなければならない。

 彼女は空中で止まってから、翼を動かしていない。身体からだに対する翼の大きさは雀以下だ。

 俺たちは内港の真上に浮かんでいる。青い内港橋ないこうばしが遥か眼下に見える。上を見たけどクレーンとかは当然ながらない。人間が飛べるはずが無い。どうやっても今の状況を説明できない。

「力が欲しくはありませんか?」

 グアリムは地上に眼を向ける。つられて俺も地上を見た。

「茅汎様が望めば、どんなものでも手に入りますよ。この街を支配することも」

 西島を? 眼下にひろがる街を眺める。夕暮れから夜の深いブルーに変わっていく黄昏の中、所々に灯りが点き始めた俺たちの街。

 首を動かして、ずっと北の方に目を向ける。木津川きづがわと道頓堀川が合流し、木津川と芹那川として再び分かれる。そんな十字になった河によって、他の土地との境界線が見える。

 次に、翻って南方を見下ろした。大阪湾にせり出す人工の地形、河口や人工島などの周囲を縁取る無数の港湾地域。その中の一つに西島もある。

 北と南を見れば、水で描かれた境界線で『モアイの横顔』と呼ばれるこの街の細長い輪郭が分かった。だけど仮にも大阪市二四区の一つだ、決して小さな街じゃない。この高度じゃ全体を視界に収めることはできなかった。この街を支配?

「お望みなら日本国でも。茅汎様の力なら不可能ではありません」

 日本を? 選挙でなく力で支配? 俺に何の力があるんだ? 彼女の提案する『手に入るもの』そのものよりも、それを可能とする力の強大さに、恐怖心が湧き起こる。

 それだけを話して、グアリムはゆっくりと地上へ降りていく。やがて、元の公園にふわりと着地する。俺はすぐにボタンを落とした場所に駆け寄った。あった。ボタンを拾って服のポケットにしまう。そこにグアリムがゆっくりと歩いて来た。

「悪魔が俺に何の用だ?」

 悪魔だとまだ信じたわけじゃないけど、普通じゃないことが自分の身に起こっているのは確かだ。いつでも逃げられるように身構えながら質問する。何をされるか分かったもんじゃない。

悪魔ディンメには三つのスロットがあるのです」

「三つの、スロット?」

「宇宙の事象や法則を改変できる奇跡量キャパシティのことです」

 そう言ってグアリムは微笑む。

 それは、ただの笑みだったかも知れない。しかし俺には、それがとても邪悪なものに感じられた。

「わたくしは、あなたの願いを三つ叶えます。ただそのためだけに、ここに参りました」

 途端に脳裏に水南枝のことが浮かんだ。

 駄目だ駄目だ! 俺は最低だ。

 じゃあ、俺でなく水南枝の恋を叶えるのは?……同じだ、人の恋心を操作するなんて、あってはならない。


 ■Q:悪魔に「三つの願いを叶えよう」と言われたらどうする?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る