ランジェリー・クエスト!
男には、戦わねばならぬ時がある。
ついにその時が来たか。
俺と水南枝の目の前にはランジェリーショップ『
当初の予定では下着以外でお金を使い切り、『あれれ? 色々プレゼントを買ったら、下着を買うお金がなくなっちゃったよ! てへぺろ♥』のつもりだった。
でもそれって、今年のお年玉、今月の小遣い、その他これまでに貯めてきた貯金を今日一日で使い切ってしまうことになる。それはさすがに辛い。それにそもそも、そんな言い訳で許してもらえるはずはないと気付いたんだ。
危うく貯金が空になった上にお仕置きを受けるところだった。
ということで、やっぱり下着は買うことにする。
ううっ、気が重い……
「この店の下着って派手なのばっかりだけど、とっても素敵なの。ちょっと高いけど一度入ってみたかったんだ!」
水南枝は嬉しそうだ。俺は苦しいが。だが禁断の地に踏み込む覚悟はできている。
……大丈夫、俺は負けない。この先、どのような試練が待ち受けていようとも、必ず乗り越えてみせる!
「わあ、かわいいのいっぱい!」
待て水南枝、危険だ! いや、俺(高校生男子)だけが危険なのか。
水南枝と入れ違いに出てきたのは、男? あっ、確かに大学生くらいの男だけどカップルだった。だけど紙袋を持っているのは男の方だ。プレゼントか?
すげえ、顔を赤らめもしない。余裕の表情。リア充を超えたリア充、スーパーリア充だ!
こんな男に、俺はなりたい。
まずは彼女を作らないとな。水南枝……
ということは、男の俺でもランジェリーショップくらい、慣れれば楽勝ってことなのか?
ならば、やってやる。
…………
わぁ〜! む、無理だ!
取り敢えず『慣れれば』だ『慣れれば』、今すぐは無理。
「藤林くん、どうしたの?」
「いや、何でもない」
俺は一端立ち止まり、自らの勇気を奮い起こす。そして再び歩き始めた。入り口まで後五〇センチ。その距離が果てしなく遠い。店に入る前なのに、早くも緊張がピークに達していた。周囲の危険に備えながら微速前進。店の内部までの距離、後四〇センチ、
三〇、二〇、一〇、……
他の一般的なブティックと同じく、店はドアを開け放している。だから、店の外と店内とで大きく風景が変わらない、そのはずだった。
うおっ、何だこの
ぶふぉっ‼
「えっ、なになに?」
水南枝が興味深そうに、俺の視線を追って見上げた。天井には何もないぞ。鼻血が出そうなので上を向いて耐えているだけだ。店を彩る色彩は厳密には、当然ながらピンクだけじゃなく、白とか青とか、様々なパステルカラー、ペールトーン、極彩色まである。
落ち着いたか俺? もう大丈夫だな。
鼻血が出ないことを確かめて、ゆっくりと上向きの頭を前方に戻す。眼前には紫色。よく見ると、パンティ?
ぐはっ!
再び鼻血が出かけた。
落ち着け俺! 深呼吸だ。
誰だ、こんな危険な武器を装備しようと目論む女は? 男を殺す気か!
お、思った以上に恐ろしい場所だ。
はあ、はあ、
まだ何もしないうちから呼吸が乱れてきた。床に視線を落とし、なるべく商品が視界に入らないようにする。だから水南枝、床にも何もないってば。
「えっちな下着はやめような」
そう言いつつ、周囲に気を付けて慎重に視線を上げる。顔を上げた俺の視界に入った水南枝は一瞬キョトンとした後、にっこり笑った。
「男の子ってみんなエッチだと思ってたけど、藤林くんって真面目なんだ」
残念ながら、実はそう言う理由じゃない。
女子の中には、男の目がない時は嬉々として猥談をしたがる
そしてその端的な例が優弧なんだ。かなりの潔癖症でエッチな話などをひどく毛嫌いしている優弧に『えっちな下着プレゼント』とか、サバンナでライオンの鼻面をビンタするようなものだ。俺はまだ死にたくないんだよ。
元々はそういう理由だけだった。でも今は、もう一つ理由がある。お店に入るだけで息も絶え絶えな俺がえっちな下着を選んだりしたら、ショック死しそうだからだ。
家では男兄弟の前でも下着姿でいるだらしない姉妹って最近は多いらしいけど、優弧は家でも家族にも
「ねえねえ藤林くん、このピンクのはどう? 可愛い! 優弧ちゃんに似合いそう!」
ぐほあっ‼
お、思わず想像してしまった。何考えてんだ俺、相手は妹だぞ! 優弧、何でお前はそんなにスタイルがいいんだよ?
「こっちの黒もいいよ! ア・ダ・ル・ト♥」
どぅぶほっ‼
……はあ、はあ、優弧、何で中学生なのにそんなに色気があるんだよ!
「はあ、はあ、ここは……水南枝に……おまかせしよう、かな」
「ダメだよ! ちゃんとお兄ちゃんが選んであげないと」
マジかよ……俺、生きてここを出られるか?
そ、そうだ、サクッと決めて緊急脱出しよう。水南枝がちゃんと選んでくれているし、そんなに間違いはないはずだ。
「そ、それじゃ、そのピンクの方で……」
「あっ! あの水色のって結構いいかも」
ぶぼぁっ‼
に、似合ってる。似合ってるのが、兄として分かってしまう。これ以上、考えたくないのに。
も、もう限界だ。
「そ、その水色のに、しよう」
「じゃあこの緑と白のチェックはぁ、……う〜ん、ちょっと子どもっぽいかな?」
うぷおうっ‼
ダメだ想像してしまう!
確かに似合ってない。似合ってないことまで分かってしまう。でもミスマッチだと何でこんなにエロいんだぁ? ……妹なのに。妹なのに!
水南枝センセー、俺もう限界です! そろそろこの辺で終わりにしませんか?
「このワインレッド! 優弧ちゃんでこれはヤバいよ! 悩殺すぎる!」
ぶぶぶはぁっっ‼
よりによってそれはヤバすぎる!
優弧がそれ
水南枝、マジ勘弁してください。
「レースでフリフリの純白! お嬢様!」
うぐぁっ‼
何故だ? せ、清純なはずなのに、優弧だとエロい!
もうやめて! お願いだからもうやめて!
「こっちはビビッドブルー!」
うぶっ‼
もうやめて!
「これもいいよね。パステルグリーン!」
んぶばぁっ‼
もうやめて! 助けて!
♦ ♦ ♦
「南無妙法蓮華経……」
「どうしたの、藤林くん? 法事の練習?」
「い、いや、まあ、そんなとこ」
最初は素数を数えてみたけど効果が乏しくて、こっちの方法で何とか落ち着いたところだ。『寿限無寿限無……』のノリで覚えたヒマ知識が、こんな思わぬ場所で命を護る楯になるとは思わなかったよ。
死線をくぐり抜け、ようやくブラとパンティを選び終わった。俺はきっと、戦士として一回り成長したに違いない。周囲の風景も気にならなくなった。と言っても「免疫ができたから、また来ても平気」というわけじゃなく、許容量を遥かに超えた刺激を受けて感覚が一時的に麻痺しているだけだ。まだ免疫はできていない。
というか、もう二度と来たくないです。ホント勘弁してください。
臨死体験した今、最初にすれ違ったカップルの男、あのスーパーリア充が如何に凄い勇者か実感できる。生きている間に、俺はあの境地に達することができるのか? それとも人にはやはり、持って生まれた天賦の才というものがあるのだろうか?
「決まりました?」
店員のお姉さんが近付いてきた。
「初々しいわね」
お姉さんが俺たちを見て、ふんわり微笑んだ。
これって……二人で下着を買いにくるようなラブラブ高校生カップルだと思われている?
「サイズはいくつですか?」
「えっとぉ……何だっけ?」
水南枝が笑いながら俺を見た。やっぱり忘れてるよこの人! 兄として知りたくはなかったけど、水南枝と遠塚さんだったら当日に忘れている可能性は高いから、頑張って暗記したんだ。た、助かった。取り敢えず、お仕置きが一つ免れた。数字やブラのカップサイズを告げる。数字の意味は考えないぞ。
店員のお姉さんは訝しげに俺を見た。
あれ? よく考えたら、カップルでお店に来て男の方だけサイズを知ってるって変だよな。
「お客様のではないのですか?」
店員さんが水南枝に訊ねた。
「ち、違うの! この人の妹の分なの!」
「ひぃ! い、妹?」
お姉さん、今、一歩後ろに下がったよね? まるで汚いものを踏んづけたみたいな悲鳴あげていたけど。
うん、お姉さんは悪くない。悪くないよ。妹の下着を買う俺が変態なだけだ。
くっそお、何でこんなことに……
「プレゼントなのでラッピングしてください!」
やめて水南枝! もうそれ以上言わないでくれ! 店員さんは顔が引き
財布から野口●世さんを取り出す。ううっ、さよなら野口さん。あなたがいればサ店代とかゲームソフト代とか、もっと豊かな人生が送れたはずだったんだ。
ラッピングした商品を俺に渡す店員さんは、完全に表情がなくなっていた。でも気にしないようにする。
終わった! 長い一日だった。まだ昼過ぎだけど。
これほどの達成感を味わったことは俺の人生でも今までなかった。思えば、本当に苦しい日々だった……あっ、まだ一日だっけ。
まあどうでもいい。だけど、これでやっと解放される。
「か、買い物も終わたから、そ、そろそりょ帰ろおか」
もう疲れ果てて呂律も回らない。とにかく少しでも早く店の外に出たい。そう思ってやや急ぎめに回れ右して出口に向かおうとした時、顔に何かが被せられた。
世界が真っ赤だ!
「ごめんなさい!」
前方から誰か女の子が謝ってきた。俺も周囲を注意する心の余裕がなかったけど。顔を覆うものが外されて、目の前に
「藤林くん?」
さっきの声が俺の名前を告げる。真紅のパンティが遠ざかり、代わりに現れた人物、俺の正面に立っていたのはクラスメートの
「……意外と派手なんだ」
思わずぼそっと
あっ、ごめん。
女の子のパンツ、ジロジロ見すぎた。
「ち、違うの! そうじゃないのよ」
照屋さんが慌てて弁解。
「えっと、えっと、昨日、友達とここに来て、気になったけど友達の前で買うのは恥ずかしくて、だから今日は独りで来て、とにかく違うのよ!」
そ、そうなんだ、違うんだね……全然違わないけど。でも本人が言うんだから、きっと違うんだ。俺は追及しないよ。というか追及したくない。
「あたしのっていつも地味だもん。今だって地味なベージュの
ちょ、ちょっと、現状報告はしなくていいから!
「あれ?」
照屋さんは何か考え始めた。これ以上、言い訳を重ねなくても俺は追及しないって。
「藤林くん……何でここにいるの?」
のわああっ‼
しまったあぁ〜!
すっかり忘れてたあ。こっちこそ言い訳できない。頼む、追及しないでくれ! 俺の方も詮索しないから。照屋さんが俺を見て言う。
「意外と似合ってるかも」
あれ? それどういう意味?
「趣味なんて人それぞれだよね。あたし、何も聞かないから」
ちょっと? それ誤解だから! もう少し聞いて! 俺に弁解させてくれ!
「あれえ、
水南枝が照屋さんに気付いた。
「水南枝ちゃんも来てたんだ」
「うん! 藤林くんと一緒に来たんだ。実はこの店入るの初めて」
「えっ?」
照屋さんが俺の顔を見た。
「ご、ごめん、てっきり女装だと。二人ってそういう関係だったんだ」
そんな趣味はねえ! やっと分かってもらえたか。ん、関係?
俺は水南枝と顔を見合わせた。
水南枝の顔がみるみる赤くなる。
「ち、違うもん! あたしのじゃないから」
「それじゃやっぱり藤林くん?」
それも違う!
「違うの! これって藤林くんの妹さんへのプレゼントなの!」
そうそう。えっ?
のおおぉ〜!
正解だけど、正解だけど、
「藤林くんの妹ってものすごい美人なの! あんなのだったら絶対、お兄ちゃんにとって可愛い妹だよね。二人って羨ましいくらい仲良しなんだよ」
水南枝、こんな時に兄妹仲を美化しないでくれ!
「あたしが藤林くんだったら妹と結婚するから!」
しねえよ!
水南枝、やめてくれ!
だ、ダメだ。恋人と勘違いされた水南枝はパニクって暴走、あることないこと口走って止まらない。
「あたしが藤林くんなら、妹さんとデートできるのに」
しないから!
頼む水南枝、お願いだから止まってくれ。
「だから、今日は最っ高に可愛い下着を選んだんだよ!」
水南枝! やめてえぇ〜!
真っ赤になってまくしたてる水南枝と対照的に、照屋さんは真っ青な顔で硬直していた。そしてブルブル震えだす
「あたし、あたし」
信じられないものを見るような目付きで俺を見る。
「スケベで汚くてキモい兄貴がいるけど、あんな兄貴にパンツとかブラとかプレゼントされたら」
そして泣きそうな顔になった。
「兄貴を殺してあたしも死ぬうぅ〜!」
そこまでぇ⁉
声が裏返ってヒステリックにキンキン響く。
「あ、あの、あのうあたし、用事が、そう用事があるの、用事が。用事を思い出して」
照屋さんは半泣きになりながら早口で水南枝に何か言い訳をし出した。支離滅裂。
そして、もう俺には目も合わせない。
「ブラジャーを買いに、そうブラジャー。行かなくちゃ、うん買いに行くの。今急いでるから」
ここランジェリーショップだけど。つまり、ここを離れる口実なんだね。
「それじゃあ、急いでいるから。ごめんね。今から行くね。急いでいるから」
照屋さんはワタワタしながらダッシュしようとしてマネキンに衝突、すぐに進路を変えて、だけど天井から吊っているブラの束に頭からダイブした。幸い、どちらも激しく揺れただけで壊さずには済んだけど。その後、まるで見えない水流に押し流されるかのように、店の出口へとヨロヨロと進む。
そして、店を出るとダッシュで去って行った。道行く人たちが次々と振り返る。そりゃそうだ。髪を振り乱して全力疾走する女子高生がいたら誰だってギョッとする。照屋さんは通りの角まで走って、交差点でようやく停まった。一応、赤信号で停まれるだけの理性があることを確認してホッとする。
って他人の心配をしたのは自分の問題から目を逸らす現実逃避だった。今、自分の身に何が起こったのか、じわじわと実感と理解が追い付いてきた。
うわあああ〜!
目の前が真っ暗になる。気が付くと俺は店にうずくまって床を
……終わった。
藤林 茅汎は死んだ。社会的に。
明日、学校に行けばクラスの女子たちに『変態兄』の噂は
二年に進級してクラス替えするまで後五ヶ月。それまでの我慢か? いや、クラス替えしたところで噂はついて回る。おそらく卒業するまで『変態兄』として押された烙印は消えないだろう。
……転校しようか。
いやダメだ。水南枝と別れたくない。水南枝と一緒にいられるなら、どんなことだって、俺は堪えてみせる!
「藤林くん?」
水南枝が俺に合わせてしゃがみ込んで話し掛けてきた。
「大丈夫? 鉄分ちゃんと採ってる?」
「……貧血で座り込んでいるわけじゃないんだけど」
水南枝はよく分かっていないようだった。だろうな。
だけど一転して嬉しそうな表情になって、手にしたものを俺に披露する。
「見て見て! あんまり可愛いから、あたしも買っちゃった!」
ブラとパンティ、上下お揃い。ピンクをベースに白い部分もあって、レースやら何やら複雑なデザインになっている。女子の下着って凝っているなあ。っていうか男子の下着が妙に凝られても困る。それより、
「水南枝、それ俺に見せて良かったのか?」
「へっ?」
水南枝がキョトンとしている。
あっ、赤くなった。気付いたか。
うわあ、すげえ真っ赤になったぞ!
「ええっ⁉」
うおおお、これ以上ないってほど真っ赤っかだ!
「きゃあああ‼」
「うぷっ!」
突然、俺の視界がピンクの布地で遮られる。
「見ないでえ〜!」
「むぐぐ」
水南枝、見てはいけないもので俺の顔を押さえ付けないでくれ。
しばらくして、水南枝は俺の顔からパンティを剥がしてブラと一緒にぎゅっと握り締め、真っ赤な顔で俺を見た。
「みみみ見てないよね?」
「見てない見てない!」
俺は首をブンブン振る。もちろんしっかりと見てしまったけど。
「忘れてくれた?」
「ソッコーで忘れた!」
見ていないのなら忘れる必要はないのだけど。だが水南枝が望んでいる。水南枝が困っている。なら、俺には他の答えなど、ない。
神よ、俺から一時の記憶を奪ってくれ!
ところで、俺はいい加減、この桃色地獄から脱出したいんだけど。
そろそろ出ても、いいよね?
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