このミッション、本当にやるの?

「う〜〜ん……」

 一枚の百円玉を親指と人差し指でつまみ、真剣な表情で水南枝はうんうん唸っていた。意を決したのか、その手をそおっとテーブルに近付ける。テーブルの上、左手で押さえているのは、店でもらったスクラッチカード。コインで削る三つの銀色の丸がある。その中の左側の丸を削ろうとしていた。

 と思ったら突然、スクラッチカードからコインを離した。再びコインをそおっと、今度は真ん中の丸へ、

 って、そこまで悩むことか!


 俺たちの街は南北に細長く、その形から『モアイの顔』とよく言われる。『アイランド』の別名もあるこの街は元々三角州で、それが今の北部。そこから拡張された南部は埋め立て地と人工島だ。街の南端から更に南には海と別の人工島、西と東と北は大きな河で隣の区と隔てられていて、外部に向けて高速道路や歩道付きの府道が走る、いくつかの巨大な橋が架けられている。鉄道も含めて一一本の橋、それと川岸の七箇所の渡船場にある市営の無料渡し舟でのみ外部と行き来ができる。

 街には、東西でいうとちょうど真ん中をメインストリートとなる六車線の大通り『西島イリンジマ通り』がまっすぐ南北に走る。西島通りの北端、つまり街の北端にはこの街で唯一の駅(ただしJRと地下鉄の二つ)があり、西島通りとJRの高架が交差するこの『駅前』が事実上、街の玄関だ。

 放課後、俺は友人たちと四人で行きつけのモスドにいた。ファーストフード店『モスタードーナツバーガー』のことだけど『モスド』は関西特有の表現で、全国的には『モッス』と言う。場所はショッピングモールの中、西隣は街で一番大きな公園『星見山ほしみやま公園』、そして『星見山ほしみやま団地』と区役所がある。街の南北で言うと真ん中、西島通りより東側に位置する。ちなみに公園の北隣にある星見山団地に水南枝は住んでいる。

 対して学校は北部、西島通りより西側にある。学校からここまで徒歩三〇分、街の外へは電車も舟もあるけど、街中の公共の交通機関はバスしか無い。

 つまり、学校の知り合いでわざわざここまで来る人はほとんどいない。だからここは俺たちにとって校外の『秘密基地』とも言える場所だった。俺の中学の校区内だからよく知っていて、それで三人を誘ったのが溜まり場になった始まりだ。

 四人テーブルで俺の右隣に座っているのが水南枝。スクラッチカードを前にうんうん唸って悩んでいる。


「あ〜暇だ」

 そう言って俺の向かいに座ってテーブルの上に突っ伏してダレているのは橿かし 頼真らいま。長身でイケメン、学力はなんと学年トップ。更に運動神経も人間離れしている。体育のバスケでこいつはゴール前でシュートをする直前、いきなり振り返って味方のゴールにロングシュート。体育館の端から端という超長距離のシュートを華麗に決め、「フッ、今のシュートは予想できなかっただろう?」と言い放った逸話を持つ(後で味方にフルボッコされた)。文武両道な美形、ただし変人で問題児、天敵は『クマさん』のニックネームを持つ、学年主任の種田先生。天は一物どころか二物も三物も与え、しかし性格でプラマイゼロにした。世の中平等にできているなあ。

 頼真の隣に座るのは遠塚といづか 文緒ふみおさん。俺たちのいつもの馬鹿げたやりとりに、ふんわりと静かに笑うのが、彼女のいつもの立位置ポジション。物静かでおっとりとした物腰、流れるようにまっすぐな長い黒髪、ほっそりとした清楚な美人。ただし世間知らずでズレている。

 そして俺と水南枝。これが、いつも一緒につるんでいる同じクラスの四人だ。


 俺の右隣の席で、水南枝が大きく溜め息をついた。

 見るとスクラッチカードは真ん中の丸が削られ、『ハズレ』の文字が見えていた。

 一等の景品、クマのマグカップ狙いだと言ってたけど、そこまでがっかりするのか? あのブサイクなクマがそんなにいいのか?

「水南枝、お前は何も考えずにスクラッチを削っただろう?」

 頼真が水南枝に訊ねた。

「そんなことないよ! 色々考えて、真ん中を選んだんだよ」

 それは宝くじの店選びと一緒だ。どこを選んでも確率は変わらないぞ。というか三つの丸は結局全部削るから順番とか無意味だろ。

「ちゃんと『念』を送ったか?」

「えっ?……そこまでは、してなかった」

 こいつまた水南枝を騙そうとしてるのか?

「確か二〇〇四年だったか、カナダ ブリティッシュ・コロンビア州の大学で行われた実験だが、日本の神社のおみくじ形式のくじを被験者約四〇〇人が一本ずつ引いたのだ。一回目は無心で、二回目は心で願いながら引いたところ、二回目の当たり率は一回目より一二.七ポイント高いという統計学的に有意な結果が出た。被験者の多くがプロテスタントだったが、ムスリム(イスラム教徒)やネイティヴアメリカンの土着宗教もあり、宗教による差異は無かったらしい。実験を主催した心理学者はクリスチャンだが『宗教の奇跡』というものを信じない人物で、かなり困惑したとか。この実験結果は、未だに満足いく説明ができないそうだ」

 あれっ、なんかリアルだけど実話?

「そうなんだ!」

 水南枝は完全に信じているけど、今回は俺も「それは嘘だ」と言い切る自信がなく、二人の会話を見守るしかなかった。

「ああ。宗教による差異は無かったんだから、水南枝が無宗教なら神に祈らなくても念じるだけでいいはずだ」

「わかった!」

「ちなみに効果が無かったら返品可能だ」

「ちょっと待てい!」

 思わず口を挟んだ。

 頼真は俺をじろりと睨んで言う。

「茅汎、お前は発言の前にすることがあるはずだ」

「えっ?」

 俺は何か不作法な真似でもしたのか?

 頼真は鞄を開いて何か紙製のものを取り出した。それはB4のコピー用紙をジグザグに細長く折り畳んだもので、一方の端はセロテープをぐるぐる巻きに綴じていた。もう一方の端を摘まむと、それは扇状にひろがり、

「ってハリセンかよ?」

「そうだ。言葉の前にこれでハタくのが正しいツッコミだ」

「俺は漫才師じゃねえ!」

「しかし大阪人ではある」

「大阪を知らない人が聞いたら誤解するぞ」

「しかし世間ではハリセンを使わずに素手でツッコミをする者が多いな。嘆かわしい、プロ意識が足りない証拠だ」

「話聞けよ! 誰がプロだよ? それよりさっきの話、嘘だろ」

 頼真は一瞬、逡巡したが

「フッ、その通りだ」

 騙したことを白状するのに何で偉そうなんだ?

「今回はやけにあっさり白状したな」

「今日はどんな手で騙そうかと思ったが、いい加減飽きてきた。騙し方は毎回パターンを変えているのにリアクションの方がワンパターンでは労力が割に合わない。水南枝、リアクションのパターンを増やせないのか?」

「ごめんね、橿くん」

「水南枝、被害者が謝らなくていいから。と言うか騙す側が何要求してんだよ? で、水南枝、何してんの?」

「ちょっと、今話し掛けないで!」

 水南枝は目をつむったまま、テーブルの上に置いた二枚目のスクラッチカードの前で両手をかざしている。両手の指を大きく開き、何か大きなものを掴むかのように、指先を軽く曲げている。その手の形のまま、両手をゆら〜りゆら〜り、と前後に動かしている。

 ……あやしい。手の動きがあやしい、胡散臭すぎる!

「まさか、念を送っているのか? まだ騙されているのか? 気付いていないのか?」

「だからあ〜、話し掛けないで、って、

 ええ〜! あたし騙されてるの? だ、誰に?」

「誰に? って、まだ分かってないのか? だいたい返品って誰にするんだよ?」

「う〜ん、あっ、すみませ〜ん!」

 話の途中なのに水南枝はぶんぶんとウェイトレスに元気よく手を振った。水南枝がやると、小学生が授業中に手をあげているみたいだ。つうか、まだ食うのかよ?

 注文を取りにきたウェイトレスに水南枝は食べかけのハンバーガーを、って

「ちょ、ちょ、ちょ」

「チョキ? じゃあパー!」

 ジャンケンじゃねえ! しかも後出しで負けんなよ。

「ちょっと待った水南枝!

 あのう、すみません。注文は後で」

「はあ、分かりました」

 怪訝な顔をしながらウェイトレスは去っていった。

「水南枝、その食べかけのハンバーガーを返品しようとしたのか?」

「うん! あれ? 返品するんじゃないの?」

「……そういう行動に出る前に、一言相談してくれ。この店は何の責任もないだろ?」

「あっ、そっかあ。えへへ」

 水南枝が苦笑いする。頼真は重々しくウム、と頷いた。おい真犯人!

「う〜ん……藤林くん。これ、カナダの大学教授に送るの?」

「食べかけのハンバーガーを空輸? 嫌がらせかよ?」

「しかし女子高生の食べかけだ。特定の層にはご褒美だろう」

「まあ生ものだから送れないはずだけど」

「残念だったな大学教授!」

「頼真、キモい想像させるなよ。まあ大学教授って架空人物だろうけど。水南枝、『返品』って時点でおかしいと気付いてくれ」

「あっ、そっかぁ、えへへ」

 反省している様子がない。ってことは学習もしていない。まだ騙され続けるのか?

「水南枝、そろそろ学習して、騙されないようになるべきだ」

「ごめんね橿くん」

 ……被害者に戸締まりを説教する空き巣の図。

「俺もいい加減、より高いレベルで騙したいのだ」

「分かった!」

「何要求してんだよ頼真! 水南枝も『分かった』じゃないから」

 ……今気付いたんだけど、そもそもどうして『ハンバーガーを返品』って話になったんだ? 頼真は『当たらなかったら返品(何を?)』って言っただけなのに。

 水南枝に説教を終えた頼真は再びテーブルに突っ伏して、暇だ暇だとまた愚痴り始めた。まあ愚痴っている間は被害者が発生しないから放置しておこう。

 以前ファミレスでおしゃべりしていた時、頼真が「サバゲをするぞ」と言い出した。サバゲとはサバイバルゲーム、エアガンで撃ち合うゲームだ。そして俺と水南枝、頼真と遠塚さんにチーム分けした。そこまでは良かった。問題はなかった。だけど、俺たちを喫煙席、頼真たちを禁煙席とエリア分けしやがった。

 まさか、店内で暴れるつもりか?

 それに気付いて、頼真が鞄から取り出した銃を速攻で没収した。そしたら、エアガンじゃなくて水鉄砲だったんだよ。ファミレスで水鉄砲で銃撃戦? 頼真、恐ろしい奴め。


「茅汎、何か新作の芸はないのか?」

「まるで俺が今まで何か芸をしていたかのような言い方をやめろ」

「分かった、やめよう。代わりと言っては何だが、何か笑える芸をやってくれ」

「だから、やらねえって!」

 俺と頼真の言い争いの最中、俺の右側から腕が伸びた。

「水南枝、何で俺のポテト食べてんの?」

「あっ、バレた?」

「バレるわ!」

「だってえ、チーズバーガー食べたらさすがに悪いかな? って」

「当たり前だ。チーズバーガーセット注文してポテト付ドリンクになってたら悲しいわ。つうか『チーズバーガー食べたら悪いからポテト食べました』って、言い訳になってねえ!」

「ううぅ、分かったよう」

 水南枝は膨れながらも、俺の言い分を渋々受け入れた。むくれた顔のまま、珈琲にシロップを入れようとする。俺はその手を掴んだ。

「えっ、なになに?」

「水南枝、俺は見てたぞ。シロップは既に入れたよな? これは二個目か?」

「あっ!」

 水南枝、バレた! って露骨に顔に出ているぞ。俺は水南枝の体の向こう側にあるものを見た。俺の視線に気付いた水南枝が、慌てて右腕をテーブルに置いてそれを隠す。でもはっきりと見た。シロップが三つほどテーブルの上に転がっていた。いつの間に?

 セットを注文した時にはシロップは一つしかなかったはずだ。正確に言えば、水南枝が四つ取ったすぐ後に、俺が一つを残してカウンターに戻したんだ。そう言えばさっきお手洗いに行ったけど、その隙に持ってきたのか?

「昨日、サ店に行った時、水南枝は何て言った?」

「えっとぉ……『ホットケーキください!』」

「違う!」

 一見、水南枝が誤魔化しているみたいだけど、本気でボケているんだよなあ。

「確か、『糖分を減らす!』って誓ったよなあ」

「ううぅ……ひゃうっ⁉」

 俺に横腹の肉を摘ままれて水南枝が奇声をあげた。普通、女子にこんなことをしたらセクハラだよな。だが、俺は水南枝に対してこういうことは遠慮しない! あっ、もちろんエッチなことはしません。遠塚さんにはさすがに遠慮するけど。後、うちの妹にやったら命はない。

「ここら辺の肉を何とかするんじゃなかったかぁ?」

「ううっ、人が気にしていることをぉ〜」

 水南枝はしばらく渋ったけど、観念した。

「分かった、糖分減らす」

 シロップをテーブルに置いた。いや、置こうとして……

「明日から!」

 そう言ってシロップを素早く珈琲に入れようとする。だけど予想済みだ。俺がその手を掴む。

「水南枝、『明日から』って台詞セリフだけはやめておけ。ダメな大人になるぞ!」

「入〜れ〜る〜の〜!」

「駄目だっての!」

「ひ〜と〜つ〜だ〜け〜!」

「ダ・メ・だ!」

「きゃあ!」「うわあ!」

 あんまり二人で強く握ったからシロップが潰れた! まだ蓋を開けていないから油断した。二人の指で強く握られたシロップはひしゃげて蓋が破れ、中身が勢いよく飛んだ。それは俺の正面に座る頼真の顔面に命中!

「ううぅ、ぶぶぅっ〜!」

 頼真、すまん。

「フミちゃん大丈夫!」

 水南枝が慌てて遠塚さんに顔を近付ける。ってあれ? 頼真じゃなくて?

「水南枝、俺への謝罪は?」

 憮然とした顔で頼真が責める。

「ちょっと待って。そっちは優先順位あとだから!」

 うわあ、正直すぎる奴!

「フミちゃん、シロップ付かなかった?」

 ガラケーを見ていた遠塚さんは、言われて自分の体で見えるところに目を向ける。

「大丈夫みたい」

「ちょっと袖も見せて!」

 水南枝は色々チェックして、シロップが掛かっていないと分かって安堵した。

「ふう、良かったぁ」

「水南枝、俺は?……」

 頼真が、もはや怒るというより悲しそうに訊ねた。

「あっ、忘れてた!」

 忘れてやがった!

「えへへ、ごめんね橿くん」

 しかも軽い!

 さすがに頼真が可哀想だ。

「頼真、ホント悪かったよ。ゴメン」

「うおおお、茅汎ぉ〜!」

 いきなり頼真が俺の手を強く握った。えっ何?

「俺の心配してくれるのはお前だけだあ!」

 ええっと、迷惑かけて謝ったんだけど、感謝されてしまったよ。頼真、ホントに悪かった。


 まあ、相変わらずと言うか……

 いつものことだけど、四人でいると頼真と水南枝が必ず何かやらかすんだよな。今回は俺も同罪だけど。そして遠塚さんはただ笑っている、というのがいつもの風景だけど、今日の遠塚さんは会話に加わらずに、黙々とピンク色のガラケーを操作していた。珍しいな。そしてケータイのフリップを閉じて俺を見た。えっ、俺?

優弧ゆうこちゃん、来月がお誕生日だそうね」

 優弧は俺の妹だ。三人とも面識がある。しかし中学生の優弧が水南枝と遠塚さんを『莉乃ちゃん』『ふみちゃん』と呼ぶのってどうだろ? だけど二人に不満がないから俺が文句をつけるわけにもいかない。

 俺なんか水南枝を下の名前で呼んだことないのに。

「ほお?」

「そうだったんだ!」

 頼真と水南枝が興味を示した。

「ということは、彼女はまだ一四歳なのか。信じられんな」

 しみじみと言う頼真の気持ちはわかる。

 優弧は中学三年で、一一月で一五歳になる。蠍座というのがいかにもアイツらしい。綺麗に揃えられた、背中の半ばまで伸びる真っ直ぐなつやのある黒髪が似合う、日本人形を思わせる和風美人だ。『ストレートのロングヘア』なんてカタカナじゃイメージに合わない。しかし控えめなイメージの『大和撫子やまとなでしこ』という言葉からは程遠い、くっきりした目鼻立ち、そして中学生なのに大人っぽい色気と貫禄を持っている。

 確かに美人だ。細身だけどスタイルもいいし、実の兄でもゾクッとすることがある。それは『お淑やかな美人』でも『アイドルのような華やかな美人』でもなく『少し陰のある妖艶な美人』だ。本当に中学生かよ? 大体、丸椅子に腰掛けて黒ストッキングの脚を組むのがサマになってる中学生って何だよ? 『陰のある』というのはあくまで印象で、性格的には陰なんて微塵も無い。色で言うと鮮やかな赤や可愛いピンクはありない。黒だ。


「優弧くんなら、クラスの男子たちが競って誕生日プレゼントを渡すだろう。しかし彼女は、その全てを丁重に断るに違いない」

 そう断言した頼真の推論はだいたい合ってる。と言うか、秘密主義の優弧は自分の誕生日なんて他人に教えないんじゃないか? 遠塚さんが知ってたのは意外だったけど。

「だが兄である茅汎が優弧くんにプレゼントを渡せばポッとほおを赤らめ、『お兄様! わたくし、ずっと待ってましたのよ』とモジモジしながらも喜びを隠しきれず、」

「待て頼真! 何でそうなる? しかもそれ優弧の口調と違う!」

 こいつの脳内で俺たち兄妹がどうなってるか、一度問いただしたい。

「あたし一人っ子だからお兄ちゃんが欲しいな。それでお誕生日プレゼントもらうんだ」

 嬉しそうに水南枝が言った。

「水南枝、他の男の前でそういう発言するなよ。義理でも兄になりたいとか言い出すぞ」

 俺の忠告も、水南枝は分かってないようでキョトンとしていた。色々すきだらけで危なっかしいんだよ。見ていてハラハラする。

「なんで? 男子って養子縁組みとか好きなの? 平安貴族みたいだね」

 どうしてここで『平安貴族』という単語が出るのか、まったくわからない。そりゃあ水南枝も俺と同じく歴史は好きだけど。

「あっ、そっかあ。男子ってみんな戦国武将とか好きだよね? だからかぁ」

 その発想はおかしい! 戦国時代に養子が頻繁にあったかどうかは知らないけど、歴史マニアという理由でリアルに養子縁組みしたがるやつがいたら断言しよう。そいつは変態だ!

「そうじゃなくて水南枝ぐらい可愛かったら、誰だって妹にしたいだろ」

 言われて水南枝は顔が真っ赤になった。やっと理解してくれたか。

「あたし、……可愛いの?」

「何を今更? そりゃあ、もちろ」

 わわわわわ! 何言ってんだ俺! コクる勇気も無いチキン野郎の分際で、何キザなこと言ってんだよ俺! 無意識って怖え〜!

「でもでも、あたしより優弧ちゃんの方が百倍くらい可愛いよね?」

 何故かチラッ、チラッと俺の表情を盗み見るような視線を送ってきた。その仕草も可愛い!

 しかし水南枝よ、断じて違う‼ 優弧より水南枝の方が百万倍いい!

 優弧に対して『恐ろしい程の美人』という評価をよく聞くが、その評価は日本語が正しくない。『恐ろしい程の美人』ではなく『恐ろしい人物で、かつ美人』だ。中学三年生でありながら一つ上の俺の同級生が子供っぽく見える程の、年齢不相応な妖艶な色香。俺ならそれにかれるより本能的に危険を感じる。後、ドSだけは勘弁だ。あれは『肉食系女子』じゃない、『肉食系女子』だ。人類には危険すぎる。

「うちのクラスの武内っているだろ? 『妹専門家イモプロ』とか、よくわからない肩書きを名乗ってる奴(あくまで自称)。あいつが『これは格言だ』って教えてくれた言葉があるんだけど『妹なんてファンタジーの生き物です。エロい人には、それがわからんのです』だそうだ」

「えっ? えっ? どういう意味?」

「……すまん、言ってみて、俺も三割くらいしかわからんと思ってしまった。えっと確か『現実の自分の妹を可愛いって思っているリアル兄はいない』って意味だったと思う、多分」

 とにかく『Userovichウセロビッチ Imotoskiイモートスキ』というロシア人みたいなハンドルネームで妹マニア向け個人サイト『妹ソムリエ』(ネーミングがキモいぞ!)を運営する武内の言葉だ。間違いない。あいつに関しては「二次元も三次元もストライクゾーン」とか「学校の女子は誰が妹か、学校の生徒の誰に妹がいるか、部下(?)に命じて調査済み」とか変な噂をよく聞く。

 ……ただ奴のサイトを見て「こいつには優弧の存在は教えられん!」と警戒していたが。しかし既に優弧のことを知っていて「美人なのは認めるが、断じて! あれは妹ではない!」と何故か強く否定されてしまった。妹なのに妹認定されず、ってわけわかんねーよ。そもそもなんで兄妹かどうかを他人がジャッジしてんの? 更に「残念だが、貴殿のことを『義兄にいさん』と呼ぶことはなさそうだ」とか。何それ? 俺もお前を『義弟おとうと』とか呼びたくねえ。全然残念じゃねえよ! 後『貴殿』って何だよ?

 遠塚さんは俺たちの会話を聞いて微笑んでいたが、ふと何かを思い出したようにガラケーを再び開いて覗き込んだ。

「ごめんなさい、何の話か忘れそうになっちゃった。えっと、確か藤林くんがサプライズで優弧ちゃんにお誕生日プレゼントを渡すのよね?」

「へ? 何で渡すこと確定? まあ渡すけど。サプライズはともかく」

 話が脱線するのはこの四人ではいつものこと。おっとりした女子二人に、キテレツな頼真。俺がメンバー唯一の良心だと言っていいだろう。言って、いいよね。……駄目? 同時に、暴走する一つのタイヤとスリップする二つのタイヤを持った四輪駆動車4WDにおける、唯一のブレーキだとも言える。俺がしっかりしないと。

 世間の兄たちよ、妹に誕生日プレゼントを渡しているか? 俺は毎年欠かさず渡すぞ。

 ……後が怖いし。

「それでね、藤林くんじゃ女の子向けのプレゼントとかわからないと思うから、わたしと莉乃ちゃんも藤林くんのプレゼント選びに協力しようと思うの」

「わかった! 藤林くん、あたしも手伝うね」

 満面の笑みを浮かべて水南枝が同意してくれた。別に今までも自分で選んで毎年贈っているよ。でもまあ手伝ってもらった方が嬉しいのも確かだ。実際、何が気に入るか、毎年結構悩むもんなあ。

 って妹相手に気を遣っている俺……

 遠塚さんがぽつりと呟いた。

「わたし、下着がいいな」

「あーっ、あたしも!」

 ぶぶぅ〜〜っ‼

 下着だと⁉

 あまりの衝撃に、俺は飲んでいた珈琲を思いっ切り吹き出してしまった。それは頼真の顔に、またもや命中。

「頼真、すまん!」

 頼真、今日は色々とすまん。ホント、マジでゴメン!

「茅汎、そういうのは壁を向いてするべきじゃないのか? 人前で練習するのは危険だろう」

「曲芸の練習じゃねえ! それよりそこの二人、何で下着⁉」

 妹に下着プレゼント? セクハラ? それって俺、どんなひどい『お仕置き』されるの? その後、俺が生きてるとは思えないんですけど。

「今日の体育の後で着替えの時に話していたんだけど、天王寺てんのうじ(繁華街の地名)にお洒落なランジェリーショップができたの。可愛い下着がいっぱい、ってみんなで盛り上がってたのよ」

「すみれちゃんの真っ赤なブラ、素敵だよね! あたしも欲しいなあ〜」

「ストップストップぅ〜! そういう個人情報は男子高校生にはマジでカンベンしてくれ」

 困った。明日、澤崎 すみれさんの顔がまともに見れない。

「それ、明らかに男子禁制のガールズトークだろ?」

 俺に言われて水南枝は考え込む。

「男子? う〜ん、いたかなあ?」

「何でそこで悩む? 絶対にいないから! 着替え中にいたらおかしい! 問題だろ!」

 着替え中の女子更衣室に男……それどんなラノベ?

「なるほど」

 話を聞いて頼真が頷いている。

「兄以外の男に下着を選ばれるのは優弧くんも不本意だろう。俺は不参加で応援だけにしよう」

「待てよみんな! 何か話が確定の方向に向かってて、俺マジ怖いんですけど」

「あらっ、優弧ちゃんの喜びそうなプレゼントのリストにパンツとブラジャーもあるわ」

 ケータイを操作しながら遠塚さんが言う。マヂかよ! ところで遠塚さんがケータイの何を見ているのか、さっきからスゲー気になる。

「アンダー、トップ、カップサイズ、みんな優弧ちゃんから聞いているわ。ただ紙や電子媒体に記録とか、電話などの通信は厳禁、メールは論外、既に知っている藤林くんの他には、莉乃ちゃんにしか絶対教えちゃ駄目だ、ってくどいくらい優弧ちゃんに言われているの」

 さすが優弧、情報セキュリティーには慎重だな。神経質すぎるとも思うけど。情報は頭の中のみ記録が許される。通信も不可。伝えていい人物も、俺と水南枝だけなら充分に、


 って、ちょっと待てぇ〜!


 ヤバいヤバい、危うく聞き流しかけた。何で俺が優弧の下着のサイズを知ってることになってんだよー!

「そうか。茅汎の家庭では、兄と妹とはそういうものなんだな」

「違うぞ頼真!」

「あたし、お兄ちゃんがいてサイズとか知られてたら、ちょっと恥ずかしいかも」

 照れながらも嬉しそうに水南枝が言う。水南枝、そこは照れるんじゃなくて本気で嫌がってくれ! 水南枝が頭に思い浮かべている『兄』のイメージが何となく想像がついた。おそらく理想の『お兄様』だ。白馬の王子様とか、そういうたぐいの。

「もし本当にお兄ちゃんがいたら、乗馬を教えてもらうんだ」

 本当に馬に乗ってんのか! 水南枝、現実の兄で乗馬スキルのある奴って日本にはほとんどいないぞ。水南枝の感性って一般人とズレてるから、時々理解が追いつかないことがある。この分だと『白タイツにカボチャパンツを履いている』とか言いそうだ。

「そうそう、藤林くん、優弧ちゃんの前でいつも言っていたそうね。『誕生日プレゼントはもちろん、お小遣い三ヶ月分だ』って」

 どこの婚約指輪エンゲージリングだよ⁉

 優弧、俺の発言を捏造するなよ。くっそお、お年玉貯金がこれで半分以下に……

 だいたい予想はついていたけど、やっぱり黒幕は優弧か。どうやら遠塚さんが誕生日プレゼントの話題を言い出すように、優弧が誘導していたようだ。どこがサプライズなんだよ? 遠塚さんがケータイで見ているのは優弧からの指令……あり得る。充分にあり得るぞ。

「小遣い三ヶ月分でブラジャーとパンティ……茅汎、お前はそれほどまで下着を買いたかったのか」

 買いたくねえぇ〜〜‼ 頼真、なんでそこで感動する⁉ 引くだろ普通! 誰か、この会話をとめてくれー!

 ってブレーキは俺かぁ〜?

 無理ッス。すんませんナマ言ってました。俺にはブレーキは無理ッス。

 男子高校生にブラジャーとパンティ買わせるとか、このミッション、マジでやるのか?

 難易度高えよ!


 ということで、次の日曜日には水南枝と遠塚さんと三人で、優弧の誕生日プレゼントを買いに行くことに決まった。俺の意志に関係なく決まった。『るのに欠席裁判』だよ全く。仕方なくスマホのカレンダーに予定を書き込む。『優弧の誕生日プレゼント 水南枝と遠塚さんと買いに行く』っと。これでヨシ。

 そこにメッセージが届く。なんだ?

 タイトルは『イベントの参加』、水南枝からだ。水南枝もスマホの予定表に書き込み、『参加者リスト』に俺を追加したんだな。『承認しますか?』のダイアログに『OK』をタップする。OKしたことで、水南枝のスマホに入力された予定が俺のカレンダーに追加された。自分で入力した予定と二重になってしまったな。まあいいけど。

「水南枝、これでいいか?」

 訊ねながら水南枝を見ると、ちょうど頼真が水南枝にスマホを返すところだった。今の、水南枝じゃなくて頼真が書いたのか?

 不安になって、さっき承認した予定の内容を見る。頼真のやることがロクなものだった試しがない。


『はじめてのおつかい ブラジャー&パンティ編(がんばれ茅汎!)』


 なんじゃコリャー!

 しまった、水南枝のスマホから入力された予定だから、こっちから修正できない。

「頼真、他人に見せられないような予定を書き込むんじゃねえよ!」

「何のことだい? ボクわかんない」

 何そのビミョーなキャラ? それでとぼけているつもりか!


 まあ仕方がない。とにかくミッションは日曜日だ。頑張って買うぞ、下着以外。それでお金が足りなくなっても不可抗力!


 この時点で俺は、何か違和感を感じていた。だけど、それが何なのか、どうしても分からなかった。

 優弧は自分のメアドや電話番号を教える相手を限定し、優弧の個人情報について誰がどこまで知っているか、厳密に管理している。誕生日だってほとんどの人間が知らないはずだ。別に誕生日ぐらい、って普通の人は思うだろうが、優弧は『面識の無いファン』にまで誕生日を知られるだけでも「気持ち悪い」と思うような人間だ。

 そんな優弧でも、遠塚さんには誕生日を教えるぐらいはあってもおかしくないだろう。だが何故、水南枝には言わなかったのか? たまたま遠塚さんにだけ話をした、というのは全てを計算ずくで動いている優弧ではありえない。

 それが違和感の正体だと気付いたのは、日曜日の当日だった。


    ♦ ♦ ♦


「あっ、兄さんだ」

 前方から優弧が友人たちと歩いて来た。俺たちはモスドを出たばかり。優弧たちもどこかで寄り道してからこちらに来たんだろう。私学を中心にブレザー全盛期の昨今、市立の優弧の中学校は男子は学ランで女子はセーラー服、昔から変わっていない。ただセーラー服は一般的な紺色じゃなく限りなく黒に近いダークグレイ、そしてスカーフは真紅だ。これがやたら優弧に似合っている。

 優弧よ、お前はどんだけ黒が似合う女なんだよ?

 優弧は友だちから離れると、まっすぐ俺の方へと小走りで駆け寄ってきた。俺に会うのが本当に嬉しい、って表情だ。だから俺は優弧の友人たちを観察した。優弧にこんな態度をさせた原因を探す。

 女子四人、男子二人か。

「兄さん!」

 優弧は幸せそうな笑顔で俺の左腕にしがみつく。

 うっ、くっつくなよ!

 優弧が素直に甘えるのが不気味というか、絶対に裏があるだろうから怖い。優弧の友人たちのうち、男子の一人が俺を睨む。ちょっと気が強そうな奴だ。

 なるほど、こいつか。

 きゃあ〜! と優弧の女友だちから嬌声があがった。

「藤林さん、お兄さんと仲いいんだね!」

「でも、仲良すぎじゃない?」

「だよね。ちょっと怪しい〜!」

 だろうな。演技だし。

「本当に優弧ちゃんと仲いいよねー!」

 水南枝、これ演技だから。

「わたしの兄さん、素敵でしょう?」

 優弧の言葉に、女子中学生たちが微妙な顔をした。そして互いに顔を見合わせる。

「そ、そうだね」

「か、かっこいいよね」

「藤林さんのお兄さんだし」

 うう、……もういいよ。微妙なとか微妙な表情とか歯切れの悪い口調とかで、お世辞だと充分に分かったから。女子って本音を隠して、こうやって合わせるところがあるよなあ。男子二人のうち、俺を睨んでなかった方が俺の顔をジッと覗き込む。もう一人とは対照的にぼんやりした感じの男の子だ。

「う〜ん、普通かなあ?」

 こらっ、お前はお前で正直すぎる! 俺、傷付くんだけど。

「何で? 藤林さんのお兄さんだよ。かっこいいに決まってるじゃない?」

 その男子の発言を中学生女子たちが聞き咎めて抗議を始めた。

「そうだよ。かっこいいじゃない。藤林さんのお兄さんだし」

 俺って優弧付きじゃないと評価されないの? 本体より先に生まれた妹のオプション?

「鈴木くん、謝りなさいよ! 藤林さんに」

 なんで俺にじゃないんだよ!

「こいつより俺の方がいいと思う」

 気の強そうな方の男子が俺を睨みながらボソッと言う。あのな、俺は優弧と兄妹だから、お前の恋のライバルにはならないぞ。むしろ外堀を埋めるべく俺を接待しろよな。和風ステーキ定食+ドリンクバーくらいは黙って奢られてやるから。

 まあ優弧が虫除けに俺に甘える演技をしてる時点で、お前に脈はないだろうけどな。後、高校生を『こいつ』呼ばわりするなよ。

誉田ほんだくん普通だと思う」

「だよね。いまいちパッとしないし」

 女子たちの評価を受けて、俺を睨んでいた誉田がショックを受けている。俺への理解者誕生! なあ、これ結構傷付くよな。中学生たちのやり取りを眺めていた遠塚さんは、穏やかに微笑んで言った。

「藤林くんって、わりと普通だよね」

 あれ、遠塚さん? 味方じゃないの? 援護射撃は?

 くっ、遠塚さんのスマイルには異議申し立てできないじゃないか。悪気がないんだよなあ。

「そんなことないよ!」

 水南枝、俺を擁護してくれるんだ。しかしさっきの男子は納得できない様子。

「こいつ地味だろ」

 誉田! お前と言う奴は……

「でも、藤林くんは優しいもん!」

 ありがとう水南枝! しかも優弧と違って本音だし。

 ……あれっ、

『でも』って何? 『地味』は否定してくれないの?

 まあいいか。一応、高評価してくれるんだよな? 俺にとって水南枝の評価は百万人分の価値がある。

「人間の容姿に価値があるとは思えないな」

 一人だけ周囲と違う温度差で頼真が淡々と述べた。イケメンに言われるとムカつきそうだけど、本気で外見に興味がなさそうな頼真が言うと嫌みがなくて腹が立たないな。

芋虫ワームの外見なら価値があると思うが。あれはいいぞ。最高だ!」

 頼真の発言に、中学生たちはぽかんと口が開いていた。いきなりそんなこと言われても、わけ分かんないよな。以前に頼真が蝶の遺伝子多様性ジーンダイバーシティ突然変異ミューテーションの速さ、芋虫の美しさについて熱く語るのを聞かされた俺たちとしては……やっぱりこいつわけ分かんねえと思った。

「人間はやはり、中身だろう?」

 頼真、お前の中身って『変人』だけど、本当にそれでいいんだな?

「このお兄さん、顔はいいけど変だよ」

 女子中学生の一人が引き気味に言った。その通りだ、名も知らぬ女子よ。

「でも藤林さんのお兄さんは……顔はともかく……優しいんだよね。藤林さんがいつも言ってるし」

「優しい人なんだ。藤林さんが言うんだから間違いないよ!」

 君たち『藤林さん教』にでも入信してるの?

 それに「顔はともかく」って、ここにきて本音を漏らすなよ。イケメンじゃない自覚はあるし、イケメンと呼ばれたい願望も特にないと思っているけど、面と向かってこう評価されるのがキツいなんて初めて知ったよ。でも優弧に褒められていたのは意外だった。

「兄さんは、捨てられた子犬のために傘を置いていくような人なのよ。ずぶ濡れで帰ってきた時はびっくりしたわ」

 優弧が一応(?)俺を擁護する。子犬? 俺自身も知らなかった驚愕の新事実⁉ つうか今時、流行らないような設定だけど昭和の不良? どうせ捏造するなら、屋根のある場所に子犬を運ばせてくれよ。自己犠牲に酔い痴れてるみたいじゃないか。

「子犬の引き取り手がなかなか見付からなくて『子犬売ります』って張り紙をしたり」

 お金に替えるのかよ!

 いい話が台無しだ。優弧、絶対楽しんでるだろ?

「藤林さんのお屋敷って犬はダメなの?」

 女子の一人が優弧に訊ねる。お屋敷? 確かに『マンション』は英語で『屋敷』って意味だけど。でもまあ、うちには金があるし、複数の不動産を持っているのは確かだ。

「動物はダメなんじゃない? 藤林さんのお屋敷だったら一千万円の壺とかあると思うし」

 ねえよ!

「ありそうよね。きっと執事とかメイド長に『動物はダメ!』って厳しく言われてるんだよ」

 いねーよ!

「そうじゃなくて、お母さんが動物アレルギーなの」

 苦笑しながら優弧は説明した。しかし壺だのメイド長だのは否定しないのか? ちなみに優弧の言った『動物アレルギー』も嘘だ。母さんに弱点はない。強いて言うなら、時々蛇口とかドアノブとかをうっかり壊してしまうことか。

「なるほど。藤林さんのお母様っぽいね」

「きっと藤林さんに似て、とても繊細なんだよ」

 俺たちの母さん、道路標識の鉄柱並みのぶっとい神経の持ち主だぞ。母さんなら食糧も道具も武器もなくても、ワニとか蛇とかライオンとか喰って密林でもサバンナでも生活できる。というか子どもの頃からそういう訓練をしてきたそうだけど。「茅汎、優弧、シロクマは食べない方がいいわ。あれは病原菌とかヤバい」って母さん、そもそも俺も優弧もシロクマとか食べないから。そんな状況にならないから。って言うか『氷山の上で孤立無援、武器・食糧なし』ってどんな状況? 世界中でも母さんの実家でしか、そんな体験できねえよ。

 優弧は母さんと逆に神経質で潔癖症なところがあるけど、怪物のように強く、そして怖いのは母さん似だ。

「じゃあ、わたし、兄さんと帰るから」

 優弧が友人たちに別れを告げる。俺は優弧を一瞬見て、それから水南枝たちに言った。

「お、俺も帰るよ」

「え〜、藤林くん、もう帰っちゃうの?」

 水南枝がふくれる。水南枝、俺は優弧に逆らえないから。

「ご、ごめん」

 水南枝に謝る。

「今日こそ藤林さんのお屋敷を教えてもらおうと思ったのに!」

「藤林さん、今度は案内してね」

 優弧の友だちも残念がっている。家を教えていないらしい。だろうな。優弧らしい。

「ダメだよ、八万葉やまはさん、内髪だいはつさん。藤林さんのお屋敷に招待されるのは、限られた人にだけ与えられる名誉なんだよ。そんな簡単に呼ばれると思うのは甘いよ!」

「そっかあ」

「やっぱりね」

 真面目っぽい女子の力説で、八万葉、内髪とか言う女の子たちも納得したようだ。ところで彼女たちの中で、俺の妹は一体どんな存在になっているんだ? それがちょっと気になった。深窓の令嬢とか? ちなみに『社長令嬢』なら、ここに遠塚 文緒さんがいるけど。

 だったら俺は?

 成金のボンボン? どら息子?

 ダメだ、絶対にロクなものじゃないから考えるのはよそう。ちょっと泣けてきた。

「じゃあね」

 俺たちはみんなと別れた。俺はこれから荷物持ちでもやらされるんだろうな。


 二人で歩いていくうちに、みんなの姿が見えなくなる。優弧は俺と組んでいた腕を離した。ホッと安堵。

 ずっと生きた心地がしなかったぁ!

 ジロリと俺をにらむ優弧。

「な、なに?」

「兄さん、わたしと腕を組むのが、そんなに嫌なんだ?」

「そ、そそそ、そんなことないですよ!」

 兄としての名誉のために断っておくが、俺は普段は妹に敬語を使ってないぞ!

 ……あまり名誉を回復できた気がしないけど。

 不味いな、優弧の機嫌を損ねてしまったよ。

 と、とにかく何か話題を変えよう。気を逸らさないと!

「そう言えば優弧、例えば兄から誕生日プレゼントに下着をもらったりしても、平気なのか?」

 しまったぁ!

 何気に聞いてから後悔。うっかりすぎる! 潔癖性の優弧は猥談やセクハラ発言をひどく毛嫌いする。何で俺はこんな質問しちゃったんだよ?

 今、俺は危険地帯レッドゾーンに突入した! わずかでも言葉を誤れば、命に関わる。

「た、例えばの話です! そう! あくまでも例えばの話」

 何故か妹に敬語。

 でも誕生日プレゼントの話、優弧が遠塚さんを誘導したんだろ?

 俺の狼狽ぶりに反して、優弧は何でもないかのように答えた。

「別に。選んで買ってくれるぐらい、いいわよ」

 意外だ!

「他の男なら、『一時の記憶』と『一生の後悔』を交換するけどね」

 それって『記憶』を奪って『後悔』を与える、『一時の記憶』が曖昧になるほどの体罰を受けて『一生の後悔』をするんだよな。小学生の時にイタズラで優弧のスカートをめくって経験したから。あれはトラウマになるぞ。

 恐怖に怯える俺とは裏腹に、優弧は嬉しそうに言った。

「わたしの趣味ぐらい分かるよね? 兄妹だし」

 待て待て待て! 分かんねえよ!

 あの時の小学生パンツならともかく、無茶だ!

「大体、見てみないことには何とも……」

 優弧がジロリとにらむ。

 あれ?

 し、しまったあぁ〜‼

「べべべ別に見たいとか、そう言うことじゃなくて!」


 優弧は俺の顔を見て、にっこりと微笑んだ。


 こっ、怖いよぉ〜!

「兄さん」

「な、何でしょう!」

「大丈夫よ」

 何が?

 何が大丈夫?

 教えてくれえ、何が大丈夫なんだあ?

「安心して。明日も学校に行けるから」

 えっ?

「今夜の夕ご飯はスープがいいわね。わたしが食べさせてあ・げ・る♥️」

 ええっ⁉

 優弧の料理は旨いけど……

 うちの家族は少し特殊で、俺たち兄妹は四歳から色々と訓練を受けている。だけど『天才』優弧は小学生のうちに俺を追い越して、今や俺を指導する立場になっている。のだけど、優弧の機嫌を損ねると、鬼教官も失神しそうなほどのシゴキを受ける。

 どうやら、二日間もくたばって、明日もまだ学校に行けない、というほどにはしごかれないらしい。つまり、今晩ボロボロになっても、その後で死んだように爆睡すれば、明日は辛うじて学校に行ける程度には体力が回復している、ということになる。嬉しくねえ。

 しかも登校できるほど体力が回復するのは明日。今日の就寝前の時点では

 ①食べさせてくれる→筋肉を酷使して腕が上がらない。

 ②夕食はスープ→吐いて固形物が食べられない状態。

 お、恐ろしい。そして明日も、学校に行ける程度には『辛うじて』回復しているレベル。以前もトコトンしごかれた日は、学校まで徒歩五分の道のりを三〇分かけて登校して結局遅刻してしまった。体が痛くてまともに歩けなかったんだ。歩くのが辛い時の三〇分って、永遠に続くかのように感じるからな。教室でも、立った状態から椅子に座るだけでも辛くて、クラスメートに訊ねられたことがあった。

「痔になった奴って初めて見たよ! そんなに痛いの?」

 痔じゃねえよ! 要するに『明日は学校に行ける』というのは、こういうことなんだ。

「なあ優弧、ちょっと口が滑っただけで、それはあんまりじゃないかな?」

 優弧は相変わらずにっこりと微笑んでいる。

 でもなんか、迫力が凄絶に増しているんですけど!

「ふ〜ん。兄さん、わたしに意見するんだ? いつからそんなに偉くなったの?」

「ぜ、ぜぜぜ全然! 全然偉くないです! まったく全然、これっぽっちも!」

 俺は他の家の兄妹のことは知らないけど、妹ってみんなこんな感じなのだろうか?

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