第7話 跳んでみよう
その1
後頭部の傷は恐ろしいスピードで完治した。僕は治った後も、お父さんと一緒に小林先生の所に通っている。お父さんは、小林先生と話をしながら、徐々に心がほぐれていくのを感じているようだ。‘事実’がはっきりとそこにあるのに分かってもらえないことからお父さんは自滅していたのだろうけれども、小林先生は事実を事実とはっきりと言って下さる方だ。事実からまやかしへ傾きそうになっていた心が小林先生のお蔭で、また真っ直ぐに事実への直線・最短距離へと向き始めているようだ。
僕はただ、お父さんと小林先生の話を横でじっと聞いているだけだ。医療的には、うつ病患者本人の主張や自己申告だけでなく、客観的に状況を説明するために僕を呼んだ、ということにはなっている。
けれども、‘かおるさんも、息子として、お父さんとわたしの真剣な遣り取りを見ておいてください’というのが小林先生の本音だそうだ。土曜日の朝早い時間か夕方がその時間に充てられた。お蔭で、部活の時間にも支障をきたさない。
朝、小林先生の病院に寄った日の部活は、自分でもちょっと信じられないくらい、跳躍が研ぎ澄まされる感じがした。単に技術や体力が上がった、ということでは説明できない、何かが自分に感じられる。
因みに、今朝の遣り取りはこうだ。
お父さんが小林先生に向かって、私みたいな人間を診て下さってありがとうございます、というようなことを言ったのだ。それに対し、小林先生はこう言った。
「いや・・・少し違いますね。小田さんがそう思ってくださるのはとても嬉しいです。本当にそうならば医者冥利に尽きます。でも、むしろ、私にとって小田さんという人が必要なのだ、と感じるんですよ。だから、かおるさんの治療に私の病院がご指定をいただいたのだと」
それから小林先生は僕に向き直ってこう言った。
「かおるさん。あなたを殴った人も、あなたに必要な人だったんだと思いますよ。めぐり合うべくしてめぐり合ったんだと思います。同じように、彼にとってもあなたという人が必要だったんですよ、きっと。人間には分からない、不思議な縁ですね・・・」
その2
土曜日の朝、こばやし脳神経外科クリニックから、学校の部活に直行した。
朝の遣り取りの影響か、無心に跳ぶ僕の様子を見て、一年生が声を掛けてくれた。
「小田さん、凄いですね」
「いや・・・記録はそんなに伸びてないよ・・・・」
僕がそう言いながら自分が跳んだ後の砂場をトンボでならしていると1年生3人とも寄って来て、なんとなく小休止しようか、という感じでポプラの木の下の木陰に集まって胡坐をかいた。
思えば、3年生が引退した夏以降、この4人でそれぞれの跳躍をチェック・アドバイスし合いながら、練習を進めて来た。1年生3人の内2人は中学の頃はバドミントン部とテニス部に所属していた、‘陸上初心者’だ。けれども、1年生3人ともスポーツを単なるスポーツ以上のものとして真摯に捉える雰囲気を持っており、僕もこの3人から何かを学び取りたいという意識があったので、些細なことでも、跳躍のためならば上下左右の別なく、遠慮なく意見し、恥じることなく教えを乞うた。‘マネジメント’とは、上級生が下級生に対して一方的に行うものではなく、チームとして集う4人の‘共通項’である跳躍のために、互いが補い合うものだと。だから、下級生が上級生をマネジメントする瞬間も、当然ありだと、4人で意識を共有しあった。
「多分、4人とも、技術的には相当進歩してきてると思う。基礎体力も学校内だけじゃなく、自宅で自主トレやってる質量含めて相当ついてるはず・・・でも・・・」
僕は、漠然と感じていることを思い切って口に出していってみた。
「なりふり構わない、って程じゃない」
一番気の強い梶原が僕の見方に対し、意見を述べる。
「でも小田さん。俺たち、部活だけやってる訳じゃないですし・・・勉強もやりながら、それ以外のこともやりながら、っていう制約の中で、目いっぱいの努力はしてると思いますよ」
僕は、なるほど、と思う。確かにその通りだし、走り幅跳びが僕たちのすべてではない。現に僕自身、夏休みは入院と補習に相当な時間を割いた。
僕は、誤解を恐れずに、こうも言ってみた。
「僕は、こう思うんだけど・・・‘どうなっても、構わない’って覚悟をもう少し持とうかな、と・・・・」
え?というような顔を3人ともした。さあ、この後、どんな風に話せばよいものか。
「馬鹿なことを言うと思うかもしれないけれど・・・走り幅跳びの記録は‘練習’だけで伸びるものじゃないという気がするんだ・・・
さっき梶原が言った、‘制約’っていう言葉は重要なキーワードだと思う。世の中の人間全員、‘制約’の中で生きてる・・・つまり、‘努力’すら、自分では決められないものだ、ってことだと思う・・・」
「ちょっと、難しいです」
柔和な長谷部が言う。僕はさらに、言葉を続ける。
「そっか、ごめん。
そしたら、自分の話で申し訳ないけれど、僕は夏休み、怪我して入院した・・・それも、あまり褒められたことじゃない理由で・・・
でも、あの時、自分が取った行動は、‘どうなっても構わない’ってところから出て来た行動だったと思う。もし、‘傷害事件’っていう捉え方をされたら多分、部のみんなにも凄い迷惑をかけたと思うし。でも、それでも、あの時は、自分のことだけじゃなく、周囲のことも含めて、‘どうなっても構わない’っていう気持ちだった。僕にとって走り幅跳びチームのメンバーはとても大切だけれども、それすら考える余裕が無いというか・・・
自分のことが‘どうなっても、構わない’のはもとより、自分にとって大切な人のことすら‘どうなっても、構わない’と思える瞬間になって初めて思わぬ行動が取れたんじゃないかと・・・」
「なるほど・・・そういう感覚になったからこそ、とにかく目の前の危機にある日向さんを守ることができた、っていうことですね・・・」
梶原はそう言ってくれた。‘日向さん’と梶原が名前を知っていたように、さつきちゃんは今や学内ではちょっとした有名人なのだ。決して目立つ訳ではないのだけれども、文化部にも拘わらず運動神経抜群であるという点や家庭科部での優しくもぴしっとした態度などからじわじわと‘2年生にこんな人がいるよ’という感じで広まってきたようだ。そして、夏休みの‘事件’が悪い噂ではなく、‘おとなしいけれども、勇気のある、筋の通った人’という見方を持たせたようだ。更に、小柄で地味な見た目とのギャップから、1年生の女子からは憧れを持たれ、1年生の男子の中には胸を‘ときめかせる’者も結構いるらしい。全て走り幅跳びチームメンバーからの情報でしかないけれども。
だからこそ、僕はさらに踏み込んだ話を3人にする必要があると強く感じた。
「いや・・・日向さん(さすがに3人の前では‘さつきちゃん’とは呼べない)を守るというか・・・その瞬間は日向さんのことすら‘どうなっても、構わない’っていう感覚だった」
「ええー!?」
梶原、長谷部、友田の3人とも一斉に声を上げる。‘彼女が欲しい’が口癖の友田が僕に抗議するように続ける。
「だって、日向さんは小田さんの彼女ですよね?部の仲間ももちろん大事な人たちだけど、その時は緊急度から言って、目の前の大事な彼女を救う、だから、それ以外の他のことはとにかく後で考えよう、っていうことじゃないんですか?
それを・・・彼女まで‘どうなっても構わない’って、どういうことなんですか?」
友田がやたらと‘彼女’にこだわるのに苦笑いしながら、けれども僕は真摯に、真剣に答えようと思った。
「・・・まず、日向さんは僕の‘彼女’じゃない・・・けれども、じゃあ、もし‘彼女’だったら、っていうことにして話すから聞いて欲しい・・・・・
・・・・たとえば、昔の武士は、本当は戦がいいことだなんて思ってなかった。戦は凶事であり、民が安心して暮らせる平和な世の中を早く築きたいという志を持った武士は大勢いた。けれども、いざ、戦が起こった時には鬼神のごとく刀を振り、槍を振るう。そして、自分の命すら顧みない・・・どうしてだと思う?」
「勇敢に戦えば出世できるし、名誉だからじゃないですか?」
梶原も真摯に答えてくれいると感じる。僕は更に姿勢を正して答える。
「もちろん、それもあると思う。それも真っ直ぐで素晴らしい心だと思う。
でも、それだけじゃなくって、多くの武士には‘こだわり’っていうものが無かったんじゃないかと思うんだ」
「こだわりが無い?え・・・でも武士って‘信念’とか‘何かを貫き通す’っていうイメージがあるんですけど」
長谷部が素直に疑問をぶつけてくる。僕は、今、明らかに‘掛け軸のあのひと’の姿を思い起こしながら話している。
「もちろん、‘志’はみんな持ってる。そしてその志のために厳しい武術の鍛錬を行い、強くて素直な心を養う。けれども、その志が成るかならないかは、最後の最後には人間では決められない・・・本当に自分が死に向き合った瞬間には、‘こだわらない’っていうことが武士の‘嗜み’だったろうと思う。
そして、僕が、本当に感動するのは、我が身だけでなく、自分が死んだ後、親や妻子のその後の処遇にすら‘こだわり’が無かっただろう、ということなんだ」
「それって、薄情なだけなんじゃないですか?」
友田も話にどっぷりと浸っている。僕は友田の意見もなるほど、と思う。
「なるほど、確かに。じゃあ、少し見方を変えるよ。中学の時、みんな鷹井高校に入るために受験勉強をしてたよね」
「はい、一応」全員頷く。
「勉強してる時、お母さんから手伝いを頼まれたら、‘今、勉強してるのに’って思わなかった?」
「はい、思いました。‘自分は遊んでるんじゃないのに’って」
友田は素直だ。
「それってつまり、勉強に‘こだわってる’んだよね。つまり、手伝いによって勉強する時間を‘損した’って気持ちだよね」
「そう言われると、そうですね・・・・」友田はここでも素直に答えてくれる。
「じゃあ、勉強するのは何のため?」
「・・・将来仕事をするため、ですかね」
「自分の夢を実現するため?、だと思います」
「世のため人のため役立つ人間になる、ですね」
それぞれの答を聞いて、ああ、みんなしっかりしてるし、いい奴らだと感じる。こんな後輩を持てて幸せだと思った。その上で、僕は、自分が鷹井高校に入り、神社にお参りさせていただいたこと、古い木造の家のおばあちゃんのこと、お父さんのうつ病のこと、さつきちゃんのおばあちゃんの死、それから、久木田の死や岡崎の変わり果てた姿を思い出しながら話そうと思った。そして、もう一度、‘掛け軸のあのひと’を思い浮かべ、口を開いた。
「‘勉強’にこだわって、お手伝いを‘損した’って感じる心でいて、本当に人の役に立ったり、きちんと仕事したりできるかな。ましてや、理想に燃えた‘夢’を叶えるのは至難の業じゃないかな。
‘信念’や‘志’の同義語は‘こだわり’じゃないと思う。
‘こだわり’の同義語は‘損得勘定’のような気がする」
‘損得勘定’と聞いて、みんな、ぐっ、と言葉に詰まったように見える。やはり、‘損得’という言葉の響きに恥ずかしさを覚えるのだろう。僕自身は更に踏み込んで、どちらが美しいか醜いか、どちらが良い心か悪い心か、とこだわるのすら‘損得勘定’だと思う。僕は自分で考えたのではなく、自然に口が動いて‘損得勘定’という言葉が出て来たのだ。
「だから・・・走り幅跳びの記録を伸ばそうとして走り幅跳びの練習に‘集中する’ことそのものが‘こだわり’であり‘損得勘定’だと思う。‘手伝いなさい!’とお母さんに言われて、‘よし来た!’と軽やかに言えるぐらいがいいと思う。同じ練習するにしても、成果が出るか出ないかすら‘どうなっても構わない’って方がほんとのような気がする」
みんな、異議は唱えたそうな顔をしているのが見え見えなのだけれども、言葉が出て来ないらしい。それは仕方ないと思う。僕が今言ったことは、‘努力’すら‘どうなっても構わない’というものだから、そもそも最初から議論するに値しないようなことなのかもしれない。僕の口が更に勝手に言いたいことを言い始める。
「と、いう訳で、明日の日曜日、僕は山に行くよ」
「山?」
「うん、山」
「どこの山ですか?」
「白井峡谷の欅が原にある山。トロッコ電車に乗るよ」
「観光ですか?」
「うーん、まあ、すごくきれいな所だから、景色も眺めるよ」
「・・・練習しなくて、いいんですか?」
「そんなに心配なら、山でトレーニングも少ししとくよ。
あ・・・もしかして、みんなも行きたい?」
3人が代わる代わる質問する中、僕はできるだけ平然と話す。そういえば、1年生の最初の頃は中学の時からの癖で相手の反応を気にしながら考え考え喋っていたけれども、今はポンポン言葉が出て来る。僕が成長したせいだけではないような気がする。明らかに、岡崎に金属製のパイプで殴られた夜からこの傾向が強まったと思う。
3人は僕を目の前にして、眼を見合わせながら‘え・・・どうする’などと相談している。
「どっちでもいいよ・・・まあ、行って帰って来るだけでも半日はかかるし。いつもみたいに各自地元で自主トレでもいいよ」
1年生はやはりまだまだ可愛いものだ。3人して結論が出たらしく、うん、と頷きあう。
「行きます」
声を揃えて返事した。
「うん。じゃあ、行こう。トレーニング用のウェアとシューズもきちんと用意してね。
明日は天気が良さそうだから楽しみだね」
その3
「こんにちは」
欅が原駅の前にあるクラブハウスの‘伯父さん’に数か月振りに僕は挨拶した。
さつきちゃんの伯父さんは僕を見て‘小田くんじゃないか・・・’と忘れずにいてくれた。
それから、僕たちが、ぼうっとした感じの男4人で突っ立っているのを見て、手続きするからちょっとおいで、と僕だけをまずクラブハウスの中に呼び入れた。
「さつきは?一緒じゃないの?」
「え・・・今日は陸上部のメンバーだけですけど」
そう答えると伯父さんは不審そうに更に質問を重ねてきた。
「なんで?」
「え・・・陸上部のトレーニングのつもりで来たものですから・・・さつきさんも連れて来た方がよかったですか?」
僕がそう言うと、伯父さんはちょっとこちらが驚くくらいに真面目な顔をした。
「・・・大したもんだ・・・さすがにさつきの目に留まるだけの男だ・・・うーん・・・」
浮ついてない、という意味での驚きなのだろう。けれどもなんだか大げさなので、軽く返しをしておいた。
「いえ、さつきさんも練習の邪魔をしたら悪いから、って言ってましたから」
一応、昨日の夜、電話でさつきちゃんの‘了承’は得ておいた。さつきちゃんの秘蔵の景色を幅跳びチームの1年生にも見せてやりたいということについての。
「うん、もちろん、見せてあげて。あの景色を見て感動する人が大勢いた方がわたしも嬉しい」
さつきちゃんはこう言った後、‘くれぐれも1年生に無理はさせないでね’というアドバイスまでくれた。
クラブハウスで着替えた後、僕は1年生にこう声をかけた。
「アップは丁寧にしておいてね。それから、小銭を少し持って行こう」
その3
一応迷子にならないよう、皆の姿が確認できるくらいのペースで僕は走った。
僕の20m程後ろに梶原が、その更に20m程後ろに長谷部と友田が続く。
「梶原、無理しなくていいよ」
僕は梶原に大きな声をかけた。どう見ても、‘長谷部と友田には負けたくない’って感じで少しでも前を走ろうと力が入っているようだったので。
「平気です。このくらい大丈夫ですっ!」
と、これまた無理した元気な大声が返って来た。
「いや、そうじゃなくって・・・最後の難関がすっごいんだよ!」
僕は梶原にもう一声かけた。
その4
天まで続く絶壁ではないかと思えるような石段を見て、3人は呆然としている。
「よし、行くよ。走らなくてもいいからね。這ってでも上まで上ってくれさえすればいいからね」
そう言って僕は駆け上り始める。
3人もようやく諦めがついたようで、石段を上り始める。
5月1日、僕がさつきちゃんと来た時と同じようにこの3人は、‘騙された’と感じているはずだ。まずはこのコースの入り口を見た段階で。次は延々と続く急勾配の‘けもの道’を見て。そして最後にこの石段を見て‘来るんじゃなかった’とすら思ったかもしれない。
後ろを振り返ると、長谷部と友田は手を膝の所に当てながら一歩一歩登ってくる。足に乳酸が充満して棒のようになっているのだろう。梶原は上半身は走っているようなフォームだが、下半身は這っているのと同じような動きしかしていない。
本当は僕も足が疲れ切って歩きたいのだけれども、‘神秘の瞬間’をみんなに見せないと気が済まないので頑張って駆け上っている。
僕はなんとか最上部にたどり着き、最後の瞬間は特に勢いよく参道にジャンプした。
「あっ!」
誰かが下で大声を上げる。
「え!消えたよ!?」
友田だろうか?面白くてしょうがない。
本当は上からみんなを覗き込みたいのだけれども、なんとか堪える。
そして、下の3人は、好奇心が疲労に勝ったのか、結構な勢いで駆け上って来る様子が分かる。
わやわやとみんなの声が近くなり、
「あっ!」
「あれ?」
「なんだ?」
と、次々と参道に着地する。
そして、皆をねぎらう僕をぽかんと見た後、自分達が制覇した石段を見下ろし、
「ああ、なるほど・・・」
「消える訳、ないですよね・・・」
とそれぞれぶつぶつと呟いている。
4人で並んで柏手を打ち、お参りした後、僕はそのまま境内を横切った。みんなぞろぞろと着いて来る。
「おわあ・・・」
みんな、僕が最初にこの景色を見た時と同じ反応をしている。男というのは単純でつまらないもんだな、とおかしくなる。
あの、5月1日の初夏の日差しとは違うけれども、秋の優しい日の光に照らし出された僕らの県の湾は、涼しげな煌めきを見せている。みんな、誰の顔も見ず、ただひたすら崖の向こうの眼下に見える僕たちの海を見つめている。
4人揃って胡坐をかいてその場に座り、しばし海を眺める。
「そういえば友田はさ」
梶原が友田に話しかける。
「いつも彼女欲しい、って言ってるけど、好きな子とかいないの?」
友田は少し考えた後、俯いて呟いた。
「・・・いる・・・」
おおおー、とみんな囃し立てる。誰?誰?と当然のように次の質問に移る。
「いや・・・それはちょっと言えないな」
なんだよ、いいじゃない、と皆がわやわやと言っている中、思わぬ攻撃が僕を襲う。おとなしく、いつも冷静な長谷部が僕にこう言ったのだ。
「小田さんはいいですよね。日向さんが彼女で・・・」
僕は一瞬硬直した。昨日のように、口が勝手に動いてくれないか、と思ったけれどもまだ動きそうにない。仕方なく、自分の浅はかな頭でもって防御態勢に入る。
「だから・・・日向さんは彼女じゃないよ・・・」
「じゃあ、何なんですか?」
梶原が追随する。みんなさっきまでは単純でぼうっとした男どもだったはずが、この話題になった瞬間、女子のような鋭敏さでもって追撃が始まる。僕は窮地に立たされ、ようやく口が少しだけひとりでに動き始めるような感覚になる。
「‘同志’だよ」
あまりに意表を突いた解答に、みんなの追撃ムードが一気に破壊される。僕も自分ながら、一体何を言ってるんだろう、と唖然とする。
「同志って・・・・何の同志ですか?」
恐る恐る長谷部が訊く。僕は明快に答える。
「人生の‘同志’だよ」
嘘は言っていない。‘結婚する縁かもしれないね’などと言っていたことを要約するとこういう回答になるはずだ。しかし、相手もさるものだ。話が噛み合わないと察知するや、角度を変えて来る。梶原の急降下爆撃のようなアタックが始まった。
「日向さんって、いいですよね。おとなしいけれど芯がある、って感じですし。文化部なのにスポーツ万能でギャップが凄い魅力で・・・」
僕の口はこの緻密な攻撃にも動じない。すぐに切り返す。
「うん、確かに。‘美人’ではないけどね」
えっ!?という感じで3人全員急ブレーキをかけられたバスの乗客のような顔をする。もはや攻守は完全に入れ替わった。僕は畳みかける。
「日向さんはいわゆる‘美人’ではないけど、人となりが姿形に滲み出てる、って感じがする。知ってる?日向さんは1年生の前半は帰宅部だったんだよ」
え、そうなんですか?と梶原と友田が反応する。最早‘僕ではない僕’のペースだ。長谷部が上手く乗ってくれる。
「そういえば、同じクラスの家庭科部の子が、日向先輩は一人前の主婦なみの仕事を家でこなしてるって・・・だから部活は週二回しか出られないんだ、って言ってました・・・」
さあ、軌道は着いた。最後の仕上げに僕は友田に矛先を向ける。
「ねえ、友田はその子のどこが好きなの?顔?」
友田は普段のさばさばした性格が引っ込み、やたら照れながら答え始める。
「ええ、まあ・・・みんなの注目を集める‘美人’ていう訳ではないんですけど、実はかわいい、っていうことを自分だけが発見した、みたいな・・・」
どこかで聞いた話だという気がするけれども構わず僕は語り掛ける。
「じゃあ、きっと、その子の内面が顔に滲み出てるんだね。それなら、好きとか嫌いとかは置いといて、その子と何か一緒に‘仕事’をしてみたらどうかな?
何でもいいよ。クラスの何かの係でもいいし、‘この問題集何人かで回してみない?’でもいいし。そうすれば、その子の女の子としての容姿だけじゃなくって、人間的な魅力を直に感じられると思うよ」
「そう言えば、小田さんと日向さんは体育祭の実行委員ですよね。やっぱり‘好きな彼女’だから一緒に仕事したい、って思ったんじゃないんですか?」
梶原は結構しつこい性格だということがよく分かった。でも、そんなことは織り込み済みだ。
「え・・・魅力を感じるから一緒に仕事する、っていうのは別に当たり前のことだよね?男同士だってするよね?たまたま日向さんが女子だった、ってだけのことだよ」
梶原は、でも・・・とまだまだしつこさを見せる。僕はとどめを刺す。
「僕は、人間として、日向さんを尊敬してる」
これは誕生日の日に伯父さんに向かって言ったのと同じ言葉だ。
‘惚れた腫れた’を排除してきたからこそ、一点のやましいことも、嘘もない。
それに、‘好きだ’とか‘かわいい’とかいう言葉は使わないけれども、自分が縁があって欲しいと思う人を「素晴らしい女性だ」と他人の前で堂々と言うなんて、ちょっと快感だ。
「だから、友田も、その子の本当の魅力をまずきちんと見てあげたらどうかな?
その結果、いつか2人が男女としても惹かれあっていく、っていうのならすごくいいと思うけど」
友田本人は感動すらしているような表情だ。梶原と長谷部は、‘ん、ん・・・?’と納得したような、問題をすり替えられたような、複雑な表情をしていた。
僕は結局、秋季大会まで日曜日の度に欅が原まで走りに行った。1年生3人は毎週、という訳にはいかない。その代わり、一風変わった週末の自主トレの報告をしてくるようになった。
「小田さん、日曜日、近所の神社の石段をダッシュで100往復しましたよ!」
「おお、それは凄い」
「小田さん、日曜日、家の戸棚を修理しましたよ!」
「ふー・・ん?」
「小田さん、昨日、家の裏の高台から夕陽を眺めましたよ!」
「・・・ああ、そう・・・そうなんだ・・・」
もはや何の練習なのか、さっぱり分からないけれども、それでもいいんだろうと思う。
それと。一つ困ったことが。
廊下の向う側をさつきちゃんが歩いているのが目に入ったので、会釈しようとすると、
「こんにちは!」
と、意味も無く大きな声がした。
さつきちゃんを含む周囲の生徒たちが、‘え、自分?’とみんなしてきょろきょろしていると、
「日向さん、こんにちは!」
と、今度は名指しで挨拶するでかい声がした。
梶原だった。
あまり物事に動じないさつきちゃんが珍しく‘え、何?何?’という感じのリアクションをしながらかろうじて、
「あ・・・こんにちは」
と挨拶を返している。
梶原だけではなかった。長谷部も友田もさつきちゃんを見つけると梶原ほど大きな声でではないけれども、「こんにちは」とか「日向さん、こんにちは」と挨拶している。
今日一日だけで5回もこんな場面に遭遇した。やめろとも言えない。何だかよく分からないけれども、さつきちゃんに、
「ごめんね」
と謝っておいた。
その5
家庭科部は先週、‘秋季大会’が終わった。なんと鷹井高校家庭科部は県で‘優勝’だった。‘金賞’でも‘最優秀’でもなく、‘優勝’というのが、まるで体育会のノリだ。
県下で5校しか家庭科部がないとはいえ、もしこのままいけば夏には‘文化部のインターハイ’出場だって夢じゃない。
太一も先週、バレーボール部の市の秋季大会を終えている。市で準優勝。新キャプテンとして、選手として太一はチームのために尽くしている。
そして、今日は僕たち陸上部の秋季大会だ。市レベルの大会ではあるけれども、僕たちにとっては来年を見据えた重要な大会だ。
恥ずかしいからいい、とは言ったのだけれども、太一、脇坂さん、遠藤さん、さつきちゃん、そして、耕太郎まで陸上競技場に応援に来てくれた。
すかーん、と晴れた秋晴れの、絶好の陸上日和だ。僕たち走り幅跳びチームも絶好調・・・のはずだった。
なんとなく様子がおかしい、と、朝、1年生3人の顔を見て漠然と感じた。3人ともそれぞれの目指すべきベクトルと違う方向に精神状態が向かっているような気がする。
僕は、大丈夫だ、と声をかける。
「ほら、梶原は近所の神社の石段、100往復ダッシュしたじゃない?」
「ええ、昨日の夜もやりました」
「え、昨日の夜もやったの!?」
「はい・・・何か、こう、もやもやして・・・燃焼しないと寝付けなくて」
駄目だ、と思った。おそらく筋肉痛でパンパンのはずだ。
「・・・長谷部は戸棚の修理をして集中力を高めたじゃない」
「はい。でも、昨日、その戸棚が突然壊れて・・・お父さんから、いい加減な仕事するな!ってすごく叱られました」
「・・・・友田は夕陽を観てボルテージを高めてたんだよね」
「そうなんですけど・・・昨日の夕方、僕の地区がゲリラ豪雨で。日暮れまで結局お日様が全然見えなくて、すごい落ち込みました」
なぜ、全員、‘昨日’なんだろうか。けれども、とにかく、やるしかない。
トラックでの中距離走が盛り上がる中、フィールド内で走り幅跳びが始まった。
競技時間短縮のため、予選等関係なく、二回の跳躍で結果が出る一発勝負だ。したがって、強い選手もそうでない選手も皆同じフィールドで会いまみえる。僕としては、同じ高校生なのだから、望むところだ。経験も実績も関係ない。‘ジャンプする’というシンプルな競技に‘あれが○○高校の××選手だ’など僕にとってはどうでもいい。
同じ高校生の証拠に、どの選手も皆、ジャンプ前のひと時、思い思いの方法で集中力を高める。ウォークマンで音楽を聴く者、友達と談笑する者、眼を閉じてジャンプのイメージを繰り返す者・・・・そんなひと時の輪の中に僕も加わっていることが凄く幸福に感じられる。
・・・これで、わが校の1年生3人もそういう真摯な緊張感の中に同化してくれていれば言うこと無かったのだけれども、3人とも高校生ではなく、二日酔いのサラリーマンのような顔をしている。
鷹井高校の選手の中で最初にジャンプが回ってきたのは友田だ。
僕は陸上初心者の友田のジャンプが実はすごく好きだ。いわゆる‘お手本のような’ジャンプではなく、友田独自の個性的なジャンプなのだけれども、そのフォームがとても‘美しい’と感じるのだ。飛距離は月並みかもしれないが、何十本もダッシュと跳躍を繰り返した後、学校のグラウンドで夕陽をバックに跳んだ友田のフォームのシルエットが忘れられない。
なのに・・・今の友田はボルテージが下がりまくっている。
一応、声を掛けてみる。
「友田、あの日の夕陽を思い出せ!」
しかし、言ってしまってから後悔した。突然‘あの日の夕陽’と言われても友田自身、‘どの日だ?’と混乱しているようだし、他校の生徒の中には「夕陽だって。青春だぁ」と茶化してケラケラ笑う者もいる。完全に逆効果だ。
‘小田さん、恨みますよ’というような眼を僕に向けて友田は走り出そうとしていた。
「友田くん、行けっ!」
秋晴れの空気を更に切り裂き、スコーン、と突き抜ける涼風のような声がスタンドから響き渡った。フィールドの選手が一斉にスタンドの方を見る。
さつきちゃんだ。
ノリが完全に体育会系の掛け声。しかも、それが友田の精神状態にぴったりくる言葉。友田もスタンドでにこっと笑っているさつきちゃんを観て、頬を緩める。
‘よし!’という表情になった友田は躊躇なくスタートを切った。
あの日の夕方、ぶっ倒れるくらいに疲れ果て、‘もうカッコなんてどうでもいい’という感覚で最後の力を振り絞り跳んだがむしゃらなだけの筈のフォーム。でも、それが友田の最も美しいフォームだったのだ。それが、今、再現される。
‘美しい・・!’
フィールドの中の何人かは、そう思った筈だ。友田は満足のいく跳躍ができ、軽くガッツポーズをする。
「いいぞ!友田くん!」
跳び終わって最初に声を出したのもさつきちゃんだった。
初めて見る‘体育会系’のさつきちゃんの姿に、脇坂さん、遠藤さんは圧倒されてしまっている。それに気付きさつきちゃんは、
「あ・・・ごめんね・・・」と照れる。
「いや・・・」
太一はにっこり笑って、続ける。
「いいよ!日向さん!ガンガン応援しよう!」
‘いいぞ、いいぞ、ト・モ・ダ!’
脇坂さんも遠藤さんも声を張り上げる。
その雰囲気にふわりと溶け込むように、「ナイス!友田くん!」と、自分もレースを終えたばかりの女子3,000mの1年生、川原さんが声をかける。友田は顔を真っ赤にして‘ありがとう’と答えている。
なるほど、そういうことだったのか。ちゃんと一緒に‘仕事’してるじゃない、友田。
次に順番が回ってきたのは長谷部だ。長谷部の長所は‘冷静さ’だ。しかし、時として‘冷静過ぎる’のが短所ともなる。冷静でクレバーな長谷部は試合全体の流れまで計算してしまう癖がある。普段の精神状態ならそれでもいいけれども、どういう訳か‘戸棚の修理の失敗’ごときで更に慎重さを増している。
今の長谷部の顔を見ると、‘凡ミスは駄目だ。1本目は様子見だ’という考えがありありと伝わってくる。2本しかないのに1本捨ててどうするんだ、と言ってやりたい気もするが、また不用意な掛け声をかけて逆効果になったら・・・と僕自身が‘応援のミス’を恐れる。
「長谷部くん、この1本!」
まただ。僕らの練習を観ていたのか?とも思えるほど心理分析までなされた的確な‘檄’をさつきちゃんが飛ばす。僕は立つ瀬がない。
でも、僕の立場などこの際どうでもいい。さつきちゃんの檄に、長谷部がはっとした顔つきになる。次の瞬間、長谷部の目がすうっと静まり、冷静でクレバーな‘計算’が数秒、なされた。そして、迷いなく一歩目を踏み出す。最初はゆっくりした足取りだ。けれどもそれはミスを畏れてではない。長谷部は、‘自分が計算をミスる訳がない’と絶対の自信を持っているからこそ、大胆な序盤のスローペースなのだ。そして、‘ここだ!という地点から、一気に筋肉に力を込め、スピードが2倍、3倍と加速する。計算し尽された歩幅は日本庭園の池に点で配置された石の上を正確に跳び移りながら全力疾走しているかのようだ。
「やるな」
陸上初心者の長谷部の走りに感心している他校の選手もいる。
1mmのズレもなく利き足で板を踏み切り、長谷部は跳んだ。
自分の計算が‘正解’だったことに満足したのだろう。ガッツポーズこそしないが、軽く頷いて砂場を後にする。
「小田さん、すみませんけど、ストレッチ手伝って貰えませんか?」
さあ、一番の問題は梶原だ。僕は足を抑えてやりながら、心配になる。梶原はハム(太腿)を伸ばすようなストレッチばかり繰り返しているが、たまらず声をかける。
「梶原、ハムじゃないよ。足がつりそうなんだよね?ふくらはぎをなんとかしないと」
僕は梶原のふくらはぎをマッサージし、アキレス腱をぎゅっと伸ばしてやる。
「鷹井高校、梶原くん」
ああ、もうコールがかかった。
祈るような気持ちで筋を伸ばしながらスタートラインに向かう梶原を見つめる。
さつきちゃんはどんな声を掛けてくれるんだろう、と僕はもう既にさつきちゃん頼みになっている。
「梶原くん!ファイトォ!」
今までで一番荒々しい声で、しかも、‘鬼神’のような表情でさつきちゃんが‘怒鳴って’いる。岡崎に立ち向かった時の声と表情だ。
普段おとなしいさつきちゃんのあまりに激しい一面に、梶原の脳の中でアドレナリンが出まくったようだ。
「よっしゃあッ!」と気合を入れるや否や、パアン!と手形がつくくらい力任せに自分の太腿をはたいた。
理屈じゃない。梶原が「ファイトォ!」と言われて燃えない訳がない。
気合い十分で全力疾走を始める。あっと言う間に踏切板まで到達する。
‘あ、ミスった!’
梶原がわずかに踏切のタイミングを外したのが分かった。つったか?けれども、梶原は諦めなかった。
「やあっ!」
梶原は不十分な踏切の後、空中で気合いを発した。果たしてそれが物理的に距離を延ばす効果があるのかどうかは分からない。けれども、どう考えても、梶原は‘気合い’で空中を駆けた。
ずさっ、と完全に尻から着地する泥臭いジャンプになったが、記録は暫定2位。
「おおーっ」
と、無名の1年生のジャンプに、他校の選手が思わず拍手した。
「よしっ!」
と、ガッツポーズをしたまま梶原が僕たちのところに走ってくる。
「ナイスファイト!」
4人全員でハイタッチする。梶原の‘熱い気持ち’が全員に伝染する。
スタンドの応援団も
‘やった!梶原くん!行けっ!鷹井高校!’
とノリノリだ。
僕は陸上は個人競技だと思っていたけれども。どう考えても‘チーム一丸’で立ち向かう競技だ。
僕以外の3人は2回目の跳躍を終えていた。長谷部、友田は陸上初心者とは言いながら、中学の時、バドミントン、テニスで鍛錬してきただけのことはある。長谷部が10位、友田が12位と大健闘だ。インターハイ予選まではまだまだ伸びる。
梶原は1回目の跳躍の暫定2位はどんどん抜かれて行ったが、2回目の根性のジャンプで、5位に食い込んでいる。全市1年生の最高順位だ。
僕は。
1回目のジャンプはほぼ完璧に近かったが自己ベストは出せず、現在、2位。南高校2年生の金森くんが、調子もよく、自己ベストを出し、1位だ。僕の2回目のジャンプがこの競技の最後のコールだ。僕はこのジャンプで自己ベストを出さないと金森くんには勝てない。
でも、僕は、とても楽しみだ。
「鷹井高校、小田君」
1年生3人全員が僕に握手してくれる。
「小田さん、集中です」
「小田さんなら、できます」
「気合いで、行ってください!」
僕はゆっくりとスタートラインに向かう。不思議と心にさざ波すら立っていないような感覚がある。
スタートラインに立つ。ここからが僕の楽しみだ。ちょっと恥ずかしいけれども、さつきちゃんが、どんな声を掛けてくれるのか。
「かおるくん!」
来た。
「頑張れ!」
その通りだ。
頑張るしかないっ!
僕は‘掛け軸のあのひと’の涼しい目になりきろうとした。
さつきちゃんの「頑張れ!」という声を最後に、周囲の音が段々と消えていく。不思議なことに、鼓膜の破れた左耳の蝉の声さえ消えていく。
そして、視界も徐々に狭まり、左右が暗くなる。
僕の目の前に自分が走るだけの幅の1本道が明るく浮き上がる。
更に、その道も少しずつ暗くなり、歩幅のポイントが灯火となって浮き上がる。次に踏切板が浮き上がった先の砂場の1点がきらきらと光り始めた。
「そうか・・・あれが僕の跳ぶべき距離なんですね」
僕は、一度深呼吸をし、すっ、と静かに走り出す。全く力を入れる感覚がないけれども、おそらく、100Mの全力疾走としてもベストのタイムで正確に歩幅の灯火の上を通過しながら踏切板に向かう。でも、僕は踏切板すら意識しない。そのままそこを突き抜けるような全力疾走が続く。踏切板の手前で足が勝手に動く。ぶわっ、と、自分の体が、高すぎず、低すぎず、一番心地いい高度に浮き上がる。僕は自分の体が着地するまでに描く軌道を楽しむ。
すたっ、という不思議な感覚で着地する。僕は、自分の体が後ろではなく、前に投げ出されるような感触にちょっと驚く。それだけ自分でも予想しないスピードが出ていたということなのだろう。
1秒ほどして、ようやく周囲の音が聞こえてきた。
「おおおーっ」と記録を見てフィールドの選手たちがどよめく声が聞こえる。
「やった、優勝だ!」
「小田さんが市のチャンピオンだ!」
梶原、長谷部、友田の声が微かに聞こえる。
僕は、うれしい。
17年の人生で、一番遠くに跳べたのだから。
後日談になるけれども。秋季大会で応援してもらった恩返しのつもりなのか、幅跳びチーム1年生3人は、以前にもましてでかい声でさつきちゃんに挨拶するようになった。さつきちゃんはそれに笑顔で挨拶を返している。
雨の日の放課後、校舎内で幅跳びチームが練習している所に出くわすと、さつきちゃんは、
「頑張って」
と、1年生に声を掛けてくれる。梶原が、
「小田さん。日向さんと仲良くしててくださいね。もし二人が別れて日向さんが俺たちに優しくしてくれなくなったら困りますから」
なんてことを言う。何度言ったらわかるんだ。別れるも何も彼女じゃないから、と同じ説明を繰り返そうと思ったけれども、面倒くさかったので、
「階段ダッシュ100本!」
と言って、僕は階段を駆け上り始めた。
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