第6話 少女の怒り

その1


 僕はお盆明けには退院し、補習も後半は出席できた。

 そして、岡崎は被害届をどうするのか、と、心の隅に不安を抱えながら、9月になり新学期を迎えた。

 結局、岡崎は被害届を出さなかった。それどころか、岡崎達3人は3か月の停学処分だという。一週間や二週間ではない。3か月ということは暗にその間に、「自主退学するのか、もう一度心の底から反省してやり直すのか、よく考えて決めなさい」という意味だろう。

 クラス会の時、太一は岡崎にこう言った。

「西條高校で一体何の勉強してんだ!?西條高校は真のエリート、真の紳士を育てる高校じゃなかったのか!」

と。

 太一のこの言葉は真実だった。西條高校は単に大学入試のための学校ではなかった。‘誇り高き真のエリート校’だったのだ。どんなに成績がよくとも、岡崎のような‘紳士たり得ない’生徒には厳しく反省を迫り、自分自身で進退を決するよう求めるのだ。まさしく、生徒を一個の‘大人’として扱っているのだ。

 岡崎たちにざまあみろということではなく、僕と太一は、素直に西條高校を見直した。

 僕とさつきちゃんには、学校から一応、厳重注意はあった。もちろん、それは僕たちが間違った行動を取った、という意味での注意ではない。校長室に僕たち2人は弁当を持ってお昼の時間に来るように言われた。形の上では‘厳重注意’だが行ってみると、校長先生は、「さあ、一緒にお弁当を頂きましょう」と軽い感じで言い、3人で弁当を食べたのだ。

 校長先生は色んな話をしてくれた。

「たとえ、自分達が‘人間の目から’は間違っていなかったとしても、凶事に関わってしまうことがあります。そして、それは決して‘あいつのせいだ’として済ますべきことではなく、本当に自分達には反省すべき点はないのか、あるいは、より自分達の心を高める道はないか、と考える足掛かりにすべきだ、と自分は思うのです。良いことにも凶事にも‘理由’というものがあるはずです。良いことも凶事も、かけがえの無い、‘必然’のことだと私は感じます」

 ああ、僕たちの‘縁’の話のようだ、と不思議な気分で校長先生の話を聞いていた。

 最後に校長先生はこう言ってくださった。

「小田君が‘相手を殴る’という行動を取らざるを得なかったのは、非常に残念ではあります。

 けれども、小田君も日向さんも、卑怯なことは一切していないという事実に私は心安らかな気持ちです。

 それどころか、凶事でありながら、2人の言動は清々しくすらある。

 2人は鷹井高校の名誉を守ってくれた、と、私は却って感謝しています。

 仮に新聞社や報道機関が取材に来るようなことがあったとしても、私は一点の曇りもない心で事実だけを述べることができる。

 本当にありがとう」

 そう言って、僕たちは‘放免’された。

 僕もさつきちゃんも、鷹井高校はなんていい高校なんだろう、としみじみ感じた。

 そして、もし、‘世間’なんてよく分からないものの風評があったとしても、僕たちの目の前の‘生身の現実の人たち’は、そんな実態のないような風評など、‘どうでもいい’と切って捨ててくれる人たちだった。


その2


 高校2年生の前半だけで色んなことがあったけれども、この先はいわゆる‘普通の’色んな行事がある。

 今は9月の半ば。去年はちょうど今頃、白井市のロードレースに参加したなあ、と思い出に浸る瞬間があり、年を取ったのかな、とぼんやりと思う。

 10月には陸上部の秋季大会がある。去年僕は市で3位だった。来年のインターハイ出場を目指すためにも、是が非でも武田さんのように、市のチャンピオンにならねば、と気負う。走り幅跳びチームの一年生3人も練習熱心な上に健気で可愛い。こんな頼りない僕を「小田さん、小田さん」と、きちんと先輩として扱ってくれる。

 さつきちゃんも家庭科部の‘大会’がある。‘食欲の秋’だからか、各校が旬の食材を使っての創作メニューを競うものだそうだ。そもそも家庭科部のある高校が少ないので、いきなり県レベルの大会だそうだ。

 それらの各部の秋季大会が終わった後、10月下旬に体育祭がある。今年はどういう巡り合わせか、僕とさつきちゃんがクラスの体育祭実行委員に選ばれた。さつきちゃんは運動神経の良さが皆に知れ渡っていることもあり、22票と最多推薦票。僕は、6票で次点選出。おそらく、その内の3票は、太一、脇坂さん、遠藤さんだろう。さつきちゃんが圧倒的得票で選ばれるのを見越してのお節介のようだ。更に6票のうちの1票が、もしさつきちゃんだったら・・・ちょっと嬉しい気分になるのだけれど。

 秋季大会の練習優先なので、体育祭の実行委員会は18:00くらいと遅い時間から始まる。今のところは週一回ほどなので、まだそんなに負担は感じない。それと、どうでもいいことかもしれないけれど、さつきちゃんのような文化部の生徒が委員に選ばれたのは、長い鷹井高校体育祭史上初めてのことだそうだ。

 

「今日は打合せをする組と、ホームセンターに資材注文をしに行って貰う組に分けたいんだけど・・・誰か、ホームセンターに家が近い人はいるかな?」

 はい、と、2年生陸上部短距離チームの女子が手を挙げる。あれ、あの子の家、ホームセンターに近かったかな、と僕は不思議に思う。

「小田くんと日向さんがいいと思う」

 えっ、とその女子の方を思わず僕は見る。さつきちゃんも同じようにその子に視線を向ける。

「え、でも、小田くんも日向さんも家はホームセンターの反対方向じゃないか?」

 司会者の疑問に、短距離チームの女子ははきはきと答える。

「誰が行くんでも、どっちみちここからだとホームセンターへはバスじゃないと遠くて行けないじゃない?それに、日向さんは夜遅くなるから今日は自転車じゃなくてバスで学校に来たんだよね?」

 さつきちゃんはその子のペースに巻き込まれて、うん、と頷く。

「じゃあ、同じクラスだし、帰りの方向も同じ2人がいいと思う。それに日向さんちのバス停の辺りは物騒なところだから、ついでに小田くんに家まで送って貰えば?ね、小田くん、大丈夫だよね?」

 僕も完全にその子のペースに巻き込まれて、うん、と頷いてしまった。

 それから、その子は僕に向かって、誰にも分からないように、悪戯っぽい笑みを向けた。彼女は、去年の白井市のロードレースの時、僕とさつきちゃんの関係をしつこく冷やかした子だ。

「じゃあ、ホームセンターの営業時間は21:00までだから、もう出発して。これが注文の品物リスト。毎年買ってるホームセンターで話は通してあるから、請求書を貰って後でお金を払う段取りだから。悪いけど、頼むね」


その3


「結構、人っ気が無いね」

「うん・・・ちょっと一人で来るには怖い所だね・・・」

 結構物騒なところだな、と思った。

 僕とさつきちゃんは資材の注文を終わってホームセンターの駐車場を突っ切り、バス停に向かおうとしていた。ホームセンターの辺りは買い物客の車がひっきりなしに出入りしているけれども、その敷地を一歩外に出ると、周囲は刈り取りの始まった田んぼばかりだ。バス停も少し離れた場所にある。今時、自家用車ではなく、バスでホームセンターに買い物に来る人はいないのだろう。バス停に向かうのは僕とさつきちゃんの2人だけだった。

 ただ、50mほど後ろに、まばらにある街灯の中、ぼんやりと人影が見えた。あれ、あの人もバスに乗るのかな?と思った瞬間、その人影は田んぼのあぜ道の方へ曲がっていった。

 時刻は20:50。

 こんな時間に田んぼ仕事?もしかして、米泥棒とか?などと想像してみるが、すぐに意識は別の所に移った。

「あ、バス停、見えて来たよ」

 さつきちゃんが、ベンチが置いてあるだけのバス停を指さす。

「虫の声がにぎやかなくらいだね」

 さつきちゃんの言葉に、確かに、と思った。種類を聞きわけることができないくらいの様々な虫の音が僕らの耳に飛び込んでくる。ただ、僕の左耳は鼓膜が破れた後、相変わらず蝉の鳴き声しか聞こえないけれども。

ベンチには座らず、バス停の看板の隣に並んで立った僕たちの背後で、カサコソと音がした。

蛙も鳴いていたので、そうだろうとばかり思っていると、突然ガサガサっと稲が踏み倒されるような音がした。次の瞬間、

‘カン!’

 後頭部に、質としては軽いが、かなりの衝撃を受けた。その物体を受け止めた僕の後頭部自身の分析によると、これはおそらく金属製の中が空洞のものだ。おそらく筒状のパイプのようなもの。衝撃の質感としては鉄ではなくもっと軽いアルミか何かでできたパイプだろう。建築用の細い配管資材か何か。多分、人間の片手でも力任せに振り回せるくらいの軽さと長さのもの。それを僕の後頭部めがけて躊躇なく振り下ろしてきたのだろう。

‘ズパッ!’

僕の後頭部自身の分析が終わりかけた頃、今度はまた違う衝撃が後頭部のほぼ同じ部分に加わった。パイプの先端部分が僕の後頭部の肉を少しえぐって斜めにかすっていくような感じの。多分、僕が前のめりによろめいたので、パイプの側面ではなく先端がかすめるような形になったのだろう。でもその分鋭利な痛みが加わる。

僕はその場に崩れ落ち、ようやくのことで片膝をついた。

‘横になりたい’

 僕は倒れるのではなく、そのままそこに仰向けになってしまった。眼はまだ開けていられる。

 さつきちゃんが一瞬僕の方をちらっと見、僕を抱き起したいような表情を見せる。でもさつきちゃんはそのままパイプのようなものを持っているだろう相手の方に向き合う。

 もし、僕を守ろうとするなら正しくて冷静な選択だ。相手はまだ攻撃態勢を解いた訳ではないだろうから。

 でも、それはさつきちゃんが武器を持った相手に戦闘で勝てるのならばという話だ。

「岡崎君・・・」

 さつきちゃんが相手に向かって声をかける。さつきちゃんの後ろ姿の向こうに見える相手の顔を見てみる。

 マスクとニット帽で顔を隠そうとしているがどう見ても岡崎だ。

 骨折した手首はまだくっついておらず腕を吊ったままだ。

 だから片手で操れる武器を使ったのか。

 武器?

 それは武器とすら呼べない卑怯で陰険な代物だ。岡崎が持っているのはただの‘凶器’だ。目の前にいる岡崎は凶器を持った犯罪者だ。

 僕はそこで事態の本当の重大さにようやく気付いた。

‘さつきちゃん、逃げなきゃだめだ!’

 そう怒鳴ろうとするが、もはや声を出すことすらできない。

「岡崎君・・・あなたは卑怯者ですらない・・・」

 さつきちゃんは背筋をこれ以上ないというくらいぴんと伸ばして真正面から相手を見据えている。それに対して岡崎はパイプを片手に握ったままゆらゆらしている。

「あなたはただの恥知らず」

 さつきちゃんは相手の攻撃を更に呼び寄せるような言葉を吐く。これ以上相手を挑発してどうするんだ、逃げろ、と僕は思った。

 けれども、さつきちゃんの後ろ姿をもう一度見て僕は何も言えなくなった。

 小柄なさつきちゃんの後ろ姿からは炎のような怒りが感じられる。さつきちゃんの頭頂部辺りの髪の何本かが宙に向いているように見える。多分、風で髪が少しあおられているだけなのだろうけれども、怒気で本当に髪の毛が逆立っているのではないかと錯覚する。

 まさか、凶器を持った岡崎に本気で勝つつもりなのか?

「岡崎!」

 一瞬、それが誰の声なのか分からなかった。さつきちゃんは今まで決して人を呼び捨てにすることは無かった。でも、それは間違いなくさつきちゃんの声だ。そして、いつものさつきちゃんの声質・声の高さではあるけれども、そこにウーファーから出たような重い、猛獣の咆哮のような響きが加わっている。

 岡崎はその声に一瞬驚いたような表情を見せたけれども、次の瞬間、岡崎から表情が消えた。まずい、岡崎がキレた!と僕は焦ったけれども、そうではなかった。

 岡崎の目は既に焦点すら定められず、怒りの塊のようなさつきちゃんの姿から目を反らそうとしていた。岡崎はもう、負けている。

「岡崎っ!」

 さっきよりも更に一段圧力のある声でさつきちゃんは岡崎を‘叱り飛ばした’。

 岡崎は目線を合わせるどころか、さつきちゃんの方向を見ることすらできないようだ。走って逃げることさえ怖くてできない様子だ。岡崎は背後に怯えるような素振りを何度も見せながら、恐ろしくゆっくりとした足取りでのろのろと歩いて去って行った。

 ああ、さつきちゃんはこんなに強いのに。なんで僕はこんなに弱いんだろう。

 そんなことをぼんやりと考えながら、僕は眠りにつくように目を閉じた。


 鈍い痛みはあるけれども、我慢できないほどではない。それに意識が薄れていく、というのはこういう感覚なんだな、と初めて知った。このまま意識が薄れてどこかのタイミングで消えてしまうのが‘死’だとしたら。そしてそれが神様のご意向なのだとしたら。僕はそれを受け入れるしかないだろうし、意外なほど穏やかな生と死の境目に僕はそんなに嫌悪感を抱いていない。

 でも、さっきからさつきちゃんの声が何度も何度も聞こえてくるような気がする。

「かおるくん、かおるくん、かおるくん!」

 何度もただただ僕の名前を呼び続けている。

 背中にさつきちゃんの腕の感覚がある。さつきちゃんの腕の体温と、これは膝なのだろうか?少し硬い筋肉のような感触が背中からお尻の辺りに感じられる。僕は、さつきちゃんに抱きかかえられているようだ。

「かおるくん、かおるくん・・・

 かおるくんが居なくなったら、どうしよう・・・どうしよう・・・」

 僕は意識が薄れ、もはやさつきちゃんの声は聞こえない。けれども、声ではない声といおうか、さつきちゃんの心の起伏が直接僕に伝わってきているらしい。さつきちゃんが泣いているということも僕の心に直に伝わってくる。

 こうして思うと僕とさつきちゃんの縁というのは不思議なものだったな、と思う。

 今となっては気恥ずかしい‘告白’から恋愛ではなく、‘縁’としか呼べないような関係が始まり、惚れた腫れたではない遣り取りを意識してきた。でも、ここへきてごく普通の女の子が使うような言葉が突然にさつきちゃんから出て来た。僕が生き死にの分かれ目にいるらしいその時に出て来た言葉は、多分‘惚れた腫れた’とは違う意味の感情だとは思う。

 僕に対する繊細で言葉にし難い感情を無理に何かに置き換えるとしたら‘どうしよう’という言葉しかとりあえず思いつかなかった、というようなものだと思う。

 でも、さつきちゃん。人間の生き死には人間ではどうすることもできない。愚痴なことを言わないで。僕もできればさつきちゃんと一緒にいたい。だけどこれ以上2人して愚痴なことを言ってもどうにもならない。

 僕は薄れゆく意識に身を任せてこのまま死んでしまうことへの抵抗感は無くなっていた。さつきちゃんの言葉に後ろ髪は引かれるけれども、詮無いことだ。

 けれども、次に感じたさつきちゃんの言葉に、僕の心は震えてしまった。


「わたしの結婚相手は、かおるくんだったのに・・・・」


 思わず、涙がこぼれた。僕自身の体は死に向かって衰弱し、涙も出ないはずだけれども、それでも涙があふれた。

 人間の生き死には神様がお決めになられることだ。そしてそれは人間の幸・不幸といったことをはるかに超えた基準でなされるはずだ。そこには人間ごときが思いもつかない深い深い意味がある。この人智など及びもしない神様の深いご意向を、残念ながら凡人の僕は感じることがなかなかできない。感じ取れないから‘理不尽だ’と腹を立ててしまう。

 でも、そもそも、僕は神様のご意向を感じ取ろうとしただろうか?

 僕は今自分が死に向かうことが神様のご意向だと思い込んでいる。でも、それは単に自分の今の肉体の状態が‘死にそうだ’という常識から自分で勝手に判断しているだけではないいのか?

 僕は心を静めてみる。すると、幾度も幾度も呼び寄せて頂きお参りさせていただいた、神社の風景が浮かんできた。

 桜の季節の美しい花の香り。それが散って間髪を入れず初夏に向かう眩しい日差しと鮮やかな新緑の木々が作り出すくっきりとした真っ黒な木陰。真夏の蝉の鳴き声と衰弱して地面を這うようにして歩く同じ蝉の姿。神様に最後のご挨拶をするように神前で動かなくなっているスズメバチの死骸。手水の井戸水の冷たさ。秋深まる涼しい空気の中、数が増えて来る合格祈願の絵馬。冬の朝、雪が積もった白い境内を、新しい足跡をつけながら向かうご神前。そして、また春が来て、さつきちゃん、太一、脇坂さん、遠藤さん、耕太郎と一緒に見させて頂いた満開の桜。

 この、幾度もお参りさせていただいた日々は偶然だったのだろうか?

 さつきちゃんとの出会い、5人組+1名との出会いも偶然なのだろうか?

 古い木造の家のおばあちゃんとお地蔵様・お不動様がその場所からいなくなられたのも偶然だったのだろうか?

 さつきちゃんのおばあちゃんの‘クリームソーダ’の話も偶然だったのだろうか?

 僕のおばあちゃんが十数年前、僕を連れて見たであろう神社の桜の、その匂いの記憶も偶然だったのだろうか?

 そして、あの、掛け軸の人の涼しい目と、それを見て僕がこんな男になりたいと思ったことは、すべてみんな偶然だったのだろうか?

 僕は残念ながら、まだ神様のご意向が本当は何なのか感じ取ることはできない。

 でも。

 けれども。

 もし、僕とさつきちゃんが結婚するようなことがあったとして、もしそれで子供を授かったとして。

 そして、もしその子が神様のご意向を感じ取ることのできる子に育つのだとしたら、僕が今死に向かうことは本当に神様のご意向なのだろうか?それまでのすべてのことは偶然で、今僕が死に向かうということだけが必然なのだろうか?


 突然、何かが僕の薄れゆく意識の中に響いてきた。

‘眼を開けよ’

 これは、何なのだろう。

 声でもない。文字でもない。でも、はっきりと自分に伝わってくる。感じ取れる。

 それは、左の鼓膜が破れた耳の蝉の音が一瞬静寂になり、その左耳の側から、音ではなく、別の方法で感じられるものだった。

 ああ、ここで即座にこの語り掛けに反応しないと。

 咄嗟に僕はそう思うのだけれども、神様、眼が開きません。眼を開こうとしても開けることができません。

‘今一度、眼を開けよ’

 再び、この言葉が感じられた。

 もし、これが本当に神様のご意向であるならば。

 眼は開くはずだ。

 神様はできないことをお示しにはならない筈だ。

 もし、自分がそれをできないのだとしたら、神様のご意向に背こうとする思い上がりが自分の中にあるからだ。

‘かたじけない。’僕がこれまで使ったことの無いようなこんな古風な言葉が、自分自身の心の中にふっと浮かび上がった。

 もう一度、静かに眼を開けようと試みる。

 ゆっくりと。ゆっくりと。瞼の隙間から一閃、少しオレンジがかった柔らかな光が差し込んでくる。鳥居が見える。それは、デパートの大通りに沿って一直線上に神社の鳥居の上にあったあの夕陽の光だ。僕が家に向かって歩いている時、背後から後押しするように照らしてくれた、哀しくて優しいあの光だ。

 そのままもう少し瞼を開けてみる。すると今度は白い光に変わった。

 白い光は街灯の蛍光灯の光のようだ。その光を背景にするようにぼんやりと影が見える。

「かおるくん・・・・」

 涙に濡れたような悲しみに溢れたような声が聞こえる。

 僕はそのまま一気に目を開けた。

「かおるくん・・・!」

 今度は心ではなく、自分の耳にさつきちゃんの声がはっきりと聞こえる。開いた目にさつきちゃんの泣き顔がはっきりと映っている。

 僕が目を開いて何度か瞬きをした瞬間、さつきちゃんは、堪えたような声を出してさっきよりもぽろぽろと涙をこぼした。

 さつきちゃん。僕が目を開けたのになんで泣くの?

 僕が単純にそう思った時、さつきちゃんは突然顔を近づけ、僕の左頬にキスをした。

 え、なんで今?と思ったけれど、さつきちゃんは一度頬から唇を離すと、もう一度頬の同じ場所にキスしてくれた。

「ごめんね・・・」

 僕はさつきちゃんの心の分析を試みる。きっとさっき、僕がこのまま死んでしまったら、手さえつないであげなかった、頬にキスさえしてあげなかった、ということがさつきちゃん自身の心残りのような、僕への罪悪感のようになると思ったのだろう。だから、生き返った瞬間に、とりあえずキスしておこうと思ったのに違いない。そう僕は勝手に解釈する。

 さつきちゃんはもう一度、頬の同じ場所にキスしてくれた。三度もキスしてくれたのだ。三度目は、唇を小鳥の嘴のような感じにして、‘かぷっ’とほっぺたを齧るような感じで。僕はちょっと‘?’という感じになる。この‘かぷっ’というのは一体どういう意味なのだろうか?シリアスから急にコミカルに転じるようなユーモラスな感触。

 けれども、後頭部からは血が出たままだ。重傷には違いない。それに以前‘血が固まりにくい体質だ’とも言われている。でも、さっきからの出来事の中で、何だか脳が頭の中でかき混ぜられるような、よく分からないけれども脳の部品が元あった位置に戻っていくような不思議な感覚があった。

 そして、僕は驚いたことに、ゆっくりと上体を無意識のうちに起こしていた。

 さつきちゃんは僕の動きに応じて抱き起してくれた。

「わたし、救急車呼びに行くね」

 僕たちは2人とも携帯電話を持っていない。さつきちゃんはずっと向うにあるホームセンターまで戻って救急車を呼んでもらうつもりらしい。僕は自分でも驚いたことに、そのままゆっくりと立ち上がった。さつきちゃんは「え?」という感じで大急ぎで肩を支えてくれた。

「救急車は駄目だ」

 僕は自分でも何を言っているのか分からなかった。自分で思考してこう言っているのではなく、自動的に喋っているとしか思えない。

 さつきちゃんは次に当然の反応を示してきた。

「どうして?こんなに血が出てるのに・・・ほんとに死んじゃうよ・・・どうしてそんなこと言うの?」

 さっきのネコ科の猛獣のような怒りの塊ではなく、今、さつきちゃんはただの1人の女の子になってしまっている。でも、僕はそんなさつきちゃんが、かわいらしいと感じる。

「救急車を呼んだら警察沙汰になる。そしたら岡崎はもう社会復帰できない。

 それに、救急車が搬送する病院に行ったら、僕は助からない・・・」

 さつきちゃんは絶句している。涙を流したまま僕の顔をじっと見ている。

 僕自身も一体なぜ自分がこんな言葉を発しているのかさっぱり分からない。ただ、自動的に自分の口が動く。

「じゃあ、どうすればいいの?」

 さつきちゃんは何かを感じ取ったのか、僕であって僕ではない何かが発しているその言葉に素直に対応しようとし始めている。

「ここから500mの場所に個人の脳外科医がある。今日はまだ病院を開けたままで僕を待ってくれている。そこに行けば僕は助かる」

「わたし、かおるくんをおんぶするよ」

 さつきちゃんは本当に凄いと思う。さつきちゃんの心意気に感動する。

 でも、僕はさつきちゃんを遮った。

「大丈夫、自分で歩ける。肩だけ貸して」

 さつきちゃんは精一杯背伸びして僕の身長にできるだけ合うようにして肩を貸してくれている。

 僕の足はよろよろとよろめきながら、それでも躊躇なく目的地を目指して歩いているようだ。全く見たことの無い風景の中、時間をかけて進んでいく。後頭部からの血はまだ流れているようだ。時折心配そうにさつきちゃんが、大丈夫?、と声を掛けて来る。これも僕の意思とは関係なく、‘心配ない’と答える。僕が‘心配ない’という言い回しでさつきちゃんに答える筈がないのだ。やはり今僕を動かしているのは僕以外の誰かだ。

 たどり着いた目の前には本当に病院があった。「こばやし脳神経外科クリニック」と看板がかかっている。病院の建物はまだ新しい。案内板に書かれた診療時間は19:00までとなっている。今、21:30。とっくに終わっているがカーテンのかかった窓からはまだ明かりが漏れている。さつきちゃんはインターフォンを鳴らしてくれた。

「はい。どうされました?」

 男性の声だ。医者だろうか?

「夜分遅く申し訳ありません。頭を怪我したんです。出血もかなりあって・・・

 どうか、診ていただけないでしょうか?」

 さつきちゃんがそう相手に話すと、しばらくして入り口の所に人影がやってきてガチャガチャと鍵を開けた。

「どうぞ、お入りください。歩けますか?」

 僕たちを迎えてくれたのはインターフォンの男性ではなく女性の看護師だった。僕は、はい、と返事して、さつきちゃんと2人で診察室に向かった。

 さっきインターフォンで話した‘小林先生’は僕たちを前にちょっと信じられないことを言った。でも僕はごく自然なこととして捉えた。さつきちゃんもさっきからの出来事の流れから、事実として受け止めているようだ。

「あなた方が来るのはわたしには分かっていました。今日の夕方、どうしてか分かりませんが、夜に急患が来るような気がして病院を開けておかなければ、と強く感じたんです。実はこういうことは以前にも何度かありました。だから、看護師も無理に1人残って貰っていました。そして、怪我の状態もあらかじめわたしは直感できたんです。

 二回、何かで後頭部を殴られましたね。二回目で頭が切れて血が出た。

 何で殴られましたか?」

 まるでその場で見ていたかのようなこの不思議な質問に、さつきちゃんは落ち着いて的確に答えてくれた。

「建築用資材のようなパイプです。太さは直径5cmくらいで、材質は多分アルミです。かおるくんが殴られた時の音の感じで鉄ではないと思いました」

 小林先生はさつきちゃんの顔を見てうんうんと頷きながら、ペンを持った自分の手元は見ずにカルテに物凄いスピードでメモを取っている。

「よく、分かりました。多分もう少し重量のあるパイプで殴られていたら即死だったでしょう。殴られた箇所は人間の急所です。傷口をまず見てからすぐにMRIを撮りましょう」

 驚いたことに、個人病院にも拘わらず、MRIを始め、最新鋭の機器が一通り揃えられていた。入院用のベッドもあるという。

 完全な止血は難しいようだが、とりあえず傷口を消毒しガーゼを当てられた。そのままM

RIの部屋に入る。

 僕がMRIに入っている間に、さつきちゃんは僕の家に電話をしてお母さんに知らせてくれた。夏に鼻を折り、鼓膜を破って入院した時と同じだと思った。僕に進歩がないのか、それとも岡崎に進歩が無いのか見解の分かれるところだろう。僕の家に電話した後、さつきちゃんは自分の家にも電話し、僕に一晩付き添うことの了承を得た。さつきちゃんのお母さんも思う所大だろう。

 MRIの結果は頭蓋骨・脳内ともに異常無しだった。小林先生は手際よく処置をしながらしきりに首をかしげている。

 僕は何か参考になるかと思い、さっき、脳みその中がかき回されるような、何か脳の中の収まりがつくような感覚があったと伝えた。

「ああ、成程」

 小林先生は再び、まるで日常会話のように続けた。

「どうも、私の病院を時折誰かが指定してくれているようなんですよ。その誰かというのは多分とんでもなく偉い人だと思います。もしかしてあなたに心当たりはないですかね」

 僕は小林先生にどこまで話していいのか分からなかった。でも、小林先生の目を見ていると、何だかすべてを話したくなった。小林先生は‘信じる’というよりは、‘事実をそのままに認める’ことができる人のような気がした。

 僕は、意識が薄れかけた時に見た、毎日お参りさせていただいた神社の四季の風景のことを話した。

「やはり、そうか・・・」

 小林先生は長年の謎が解けた、と言った。

「大変光栄であり、また、畏れ多いことではありますが、どうやら私の病院はその神社の神様ご本人か、その神様に関わりのあるこれまた人間でない誰かのご指定で時折あなたのような患者さんを受け入れてきたようです。私がここで開業して5年ですが、その間に‘予感’があった患者さんはあなたで4人目です」

 小林先生は僕にMRIの写真を見せながら説明してくれた。

「さっきあなたのお連れの女性から聞いた話だと、殴ったのは大の男だという。片手とはいえ、音からしても力任せに振った筈だという。間違いなくあなたの脳や脳の中の血管は何らかのダメージを受けていたはずなのです。

 でも、何の異常もない。これはあなたがここへ来る前にその誰かが応急処置どころか完全な治療まで終えてしまっているとしか考えられない。

 私が施すのはあなたの傷口を数針縫うことだけです」

 僕は後頭部の傷口周辺の髪を看護師に剃って貰い局部麻酔を受けた。小林先生はまるで理髪師が髪を切るような躊躇の無さであっという間に傷口を縫い終わった。

「私の病院が選ばれたのは私の技量とは関係ないでしょう。

 検査用の設備が一通り揃っていることがひとつ。もうひとつは、‘神様’という普通の人がなかなか認めようとしない‘事実’をそのまま認めてしまうような私の‘愚かさ’からでしょう」


その4


 一夜明けて、小林先生は更に精密な検査をしてくれた。傷口の消毒が必要なので今夜もう一晩泊まって、明日の朝帰ってもいいですよ、という話になった。お母さんは半信半疑だったが、お父さんはごく当たり前のことのように小林先生の話を受け入れていた。

 さつきちゃんも自分自身が目の前で一部始終を見、全くこの病院を知らない筈の僕がここへやってきたという事実をそのまま受け入れている。

「神社の神様か、掛け軸のご先祖様か、お二方共々かと思う」

 僕がそういうと、さつきちゃんは少し涙ぐんで、うん、と頷いた。

 さつきちゃんのお父さんはダムの現場に泊まり込みなのでさすがに来られなかったが、お母さんが来てくれた。前回と同様、さつきのために、と感激しているようだ。

 前回も今回も僕がさつきちゃんに助けられたというのが事実なのに、みんな僕がさつきちゃんを守って怪我をしたと見事に誤解している。さつきちゃんまで今回も、

「かおるくん、ありがとう」

と言ってくれた。

 小林先生は自らを‘愚か’と言ったけれども、間違いなく名医だった。

 僕はひょっとして、と一縷の望みを託して先生に訊いてみた。

「脳神経外科って、うつ病も診たりされるんですか?」

 僕がそう訊くとお母さんは俯いてしまったが、お父さんは、ゆっくりと顔を上げ、僕の顔を見、それから小林先生の方を向いた。

「専門ではありませんが、あなたで4人目だと言った患者さんのうちの1人はうつ病の方でした」


 僕、さつきちゃん、お父さん、お母さん、さつきちゃんのお母さん。昨日の晩初めて会ったこの5人を目の前にして、小林先生は話し始めた。普通の医者であれば世間体や病院の風評なんかを気にして、決して話さないようなことを。

「これは、私の実感です。特殊な話と取り合っていただかなくとも、それでも結構です。

 私を気が狂っていると捉えていただいてもそれでも構いません」

 語り出しはそんな言葉だった。決して強制はしないということを強くはっきりと伝えられた。

「病気には必ず原因があります。ただ、私の言う原因とは、不規則な食習慣とか病気の因子の遺伝とか、世間一般で言われるような原因ではありません。世間一般で‘原因、原因’と言っているものは単なる‘結果’でしかありません。

 本当の‘原因’は人間の力では決して見つけることのできないものです。それは人間の思いもよらないことです。

 皆さんはこんな昔話を聞いたことはありませんか?

 ある村の神社に古い杉の大木があった。ご神木と呼ばれていました。その木が病気に掛かって枯れ始めたのです。その村は林業が盛んで、病気に掛かったご神木をそのままにしておけば周囲の杉にも病気が移り、村の収入が無くなってしまう。病気が移るのを防ぐ方法の一つはご神木を切り倒すことです。でも村人は誰も怖がってやろうとしない。

 そんな中、そんなの迷信だ、と言って、源治という若い村人がみんなのためにご神木を切り倒すと自分から言い始めたのです。他の村人は神様を畏れたが代替案が出せない。結局は傍観して心の中では源治がご神木を切ってくれることをありがたい、と思っていました。

 果たして源治はご神木を切り倒し、その晩の内に高熱を出して苦しみながら死んでしまった。村人は神様を畏れ祭礼を執り行うとともに、源治の身を捨てた勇気も称え源治のために供養塔を建てました。

 皆さん、どう思いますか?」

 僕たちは小林先生の思いもよらない話と投げかけに圧倒された。僕たち自身が返事を躊躇していると、小林先生はゆっくりとまた話し始めた。

「私は、源治も村人たちも、眼が見えなくなってしまっていたのだと思います。

 ‘周囲の杉が枯れてしまうから’というのは、どんな理由をつけたところで結局人間の側の都合でしかないと私は思います。‘大義’のように見えて、せいぜい村人のための‘小なる義’でしかないと思います。

 そして、源治が高熱を発する病気で死んだ原因は間違いなく‘ご神木を切り倒した’ことです。

 ただ、それによって神様がお怒りになったのか、それとも神様は何かお怒りとは別のお心があって源治を天に召されたのか、そこまでは分かりません。その部分は人間ごときがはかり知ることのできない深い深い意味があったのだろうと思います。

 もしかしたら、ご神木におられる神様に‘どうぞ別の木へおうつりください’とお願いすることも方法の一つだったかもしれません。また、ひょっとしたらその村は周囲の杉が枯れ果ててしまって、別の生業を求めた方がもっと栄える、という、神様のご深慮があったのかもしれません。

 でも、源治も村人も、‘自分達こそ同情され救われるべき存在だ’という思い上がりで、どこまでも人間の都合を最優先にして動いてしまったのではないでしょうか」

 一同、姿勢も崩さずに小林先生の話をじっと聞いている。

「源治はご神木を切り倒したその晩に死んだので、‘病気の原因’は人間でも簡単に推測できます。でも、日々のわたしたちは、全く意識もなく、悪気すらないところで知らずの内に‘ご神木を切り倒す’のと同じような失礼、ご無礼を働いていることがあるのではないでしょうか?

 私は‘無い’と言い切る自信はまったくありません・・・・」

 小林先生は5人の顔を見渡し、もう少し話してくれた。

「人間の生き死には人間ではコントロールできません。医者である私ですら、‘私が助けた’と自慢できる患者さんは一人もいません。たまたま、‘この人間は助けよう’と神様がお考えになった患者さんが私の病院に来られ、私は神様がお決めになられた通り、‘最初から助かると決まっている’患者さんと向き合っているだけだと思うのです。

 そして、その助かる患者さんと助からない患者さんの境目が一体どこにあるのか・・・

 それは人間ごときが考える領域では多分、ないのだと思います。

 現に、かおるさんは純粋な医学的な見地からは、死んでいるはずなのです。

 でも、どういう神様のお心か、かおるさんは助かるべくして私の病院にやって来て、当然のこととして今、生きている。これは私ではなく、神様がかおるさんの治療をしたことに他ならない。かおるさんが生きることは神様のご意向である。私はそう思います」

 お父さんが、ありがとうございます、と小林先生に頭を下げた。お父さんの右目の眼尻にはうっすらと涙が溜まっている。お父さんは決してそれをこぼさないようにとやや顔を上に向けて、必死に耐えている。

「失礼ですが、かおるさんがさっきから心配しているうつ病の患者さんは、お父さんのことですね」

 はい、そうです。お父さんは小林先生がそれを分かっているのが当然のことのように静かに答えた。

「もし、かおるさんだけでなく、お父さんがこの病院にこうしてやって来たことも神様のご意向だとしたら・・・わたしがそのご意向に沿えるかどうかは分かりませんが、しばらく私の病院に通ってみられたらいかがでしょう?」

 はい、よろしくお願いします、とお父さんはもう一度頭を下げた。

「人智を尽くす、ではありませんが、わたし自身も神様のご意向に沿えるよう、心を込めてお父さんの病気に向かいます。わたしも精進しますので、よろしくお願いします」

 今度は小林先生がお父さんに頭を下げる。

 お父さんは一筋だけ、涙の線を作った。


その5


 金・土・日、と一年生の春にさつきちゃんと出会ってからの集大成のような出来事が、一気に起こった。なんとなくだけれども、小林先生の話を太一も脇坂さんも遠藤さんも耕太郎も聞ければよかったのに、と思う。あの話を僕の口から完璧に、誤解が無いように伝えることはとても無理だ。

 月曜から僕は、剃った後頭部にガーゼを貼り、頭に固定用のネットを被って登校した。

 みんなには、転んだ時にドアノブで後頭部を切った、と説明した。

 まさか、岡崎にアルミパイプで殴られた、とも言えない。

 けれども、あの後岡崎はどうしたのだろうか?ちゃんと家に帰ったのだろうか?

 ひょっとして、翌日の新聞やニュースを恐る恐る見て、何の記事も載ってないことや、僕の両親からも何の連絡もないことを却って不気味に感じているのではないだろうか。そのままびくびくしたまま今も暮らしているのではないだろうか?

 岡崎が自殺を図った、と聞いたのは3日後のことだった。小さく新聞の記事にも出た。‘高校二年生男子、ナイロン紐で首つり自殺未遂。一命を取り留める’とあった。

 発見が早かったので、脳障害等の後遺症の心配もないとの記事だった。

 でも、体や脳の後遺症が無かったとしても、これからの岡崎の人生は一体どうなってしまうんだろう。僕が岡崎を救うことなどできる訳もないけれども、なんだか涙が滲んでくる自分をとても不思議に感じる。人間はどうしてこうなんだろう?岡崎が可哀想という気持ちもあるけれども、人間の憐れさ、ちっぽけさにやたらと涙が出てしまう。

 けれども、岡崎が生き残ったことが神様のご意向だとしたら。

 天に召された久木田とは違い、もう少し生きて償いをしなさい、ということなのだろうか。


 ‘事件’から一週間ほど経った日の夜。僕は久しぶりに家のベランダに椅子を出し、夜空を見上げた。

 中秋の名月はもう過ぎてしまったけれども、秋も深まっていく途中の澄んだ空気のその上空に、白く、輝きの美しさの故に銀色にも見えるような月がそこにあった。


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