第4話 コンクリートの海

その1

 

 4月から5月の最初の日、さつきちゃんの誕生日までは充実しきった毎日だったけれども、久木田の自殺の記事を読んだ朝から、僕はなんとも言えない重い気持ちのままで日々を過ごした。毎日神社へお参りさせていただくときも、事実とはいえ、久木田が死んでもういない、ということがつい脳裏に浮かんだ。初夏の新緑の中も、神前にスズメバチの死骸が、まるで神様にお参りするような姿勢で横たわっているのを見て、思わず眼を閉じ、そのスズメバチに手を合わせた。

 もちろん、二度と戻らない日々を過ごしている、という気持ちは持っている。

 学業にも、走り幅跳びにも、自主トレ系マラソン部にも、家の諸々のことにも、高校生らしく、17歳らしく、取り組んではいるつもりだ。

 けれども、言いようのない悲しみ、決して取り除くことのできない漠然とした寂しさというのものに、‘17歳’になった分、余計に真摯に向き合わざるを得ない、と感じることが増えた。これは、おそらく、自分が風邪をうつしたことでおばあちゃんが亡くなったさつきちゃんも、取り組んできたことだろうと思う。

 けれども・・・自分自身の意向というものはそんなに大したことではない、と感じざるを得ないようなことが続く。

 白井市のロードレースは、通常年のパターンで5月下旬の開催に戻り、僕は陸上部の春季大会、さつきちゃんは家庭科部の近県の‘ゼミ’の集まりが重なり、参加できなかった。

 そして、7月に入り、陸上部インターハイの予選で武田さんが県4位、僕は県7位、9位と10位に3年の先輩方2人が入り、大健闘ではあったものの、悲願のインターハイ出場はならず、武田さんも静かに引退した。バトンタッチリレーの日、武田さんは僕に、今年7位ならば来年はインターハイの可能性は十分ある、頼んだぞ、と、握手してくれた。

 走り幅跳びチームの2年生は僕1人。1年生が3人いるとはいいながらも、急に人の少なくなったフィールドを眺めると、寂しさが一層込み上げて来る。


 7月下旬、夏休みに入り、2年生である僕たちは、受験に向けた補習が早々と始まった。


その2


 補習はほぼ毎日ある。3年生はほとんど部活を引退しているので、夏休み中の部活が午前からか午後からか、あるいは一年生だけとするのかは、2年生の補習のスケジュールに合わせて調整している。

 僕は午前補習で午後から部活に出ることもあれば、午前・午後補習で、夕方になってから1人でグラウンドに出てジャンプを繰り返す日もある。

 補習期間に入ると、部活の部員同士よりもクラスの5人組で過ごす時間の方が長くなった。


「海に行きたいね」

 脇坂さんが突然言い出した。午後の補習前、5人組で弁当を食べながら、あまりの暑さに参ったね、と言い合っていた時のことだ。

「でも、行けないね・・・」

 言い出した脇坂さんが、自ら否定する。確かに、海に行っている時間すらない、という毎日だし、マンガやドラマのように僕らのような年代が仲良しグループで海に行くということが現実にはそうそうないのも知っている。それに、他の高校がどうなのかは分からないけれども、この鷹井高校には水泳の授業がない。一応、200Mほど離れた隣の高校のプールを共同で使って水泳の授業をやっていた時代もあったらしいのだけれども、今は廃止されている。だから、高校に入ってから、海やプールや水着といったものとは縁遠くなっている。

「あの、さ・・・」

 僕は提案しようかしまいか迷ったけれども、脇坂さんが可哀想なので、言うだけ言ってみることにした。一斉にみんな僕の方を見る。僕はちょっと照れてしまう。

「中学校の時に読んだ小説に出て来たエピソードなんだけど・・・主人公の高校生の男の子と女の子が、学校の屋上を海に見立てる、っていう話で・・・」

「屋上を海に?」

 脇坂さんが興味津々で訊いて来る。

「どうやって?」

 遠藤さんも続けて質問してくる。僕はまだ答えるタイミングじゃないな、と考え、話の順序を組み立てる。

「いや・・・とても単純な方法で、なんだけど・・・

 だから、午後の補習が終わったら、みんなで屋上に出てみない?

 種明かしはその時に、っていうことで」

 僕の提案に、ここ最近勉強ばかりの毎日だったみんなは、面白そう、と乗ってくれた。ちょっとだけ、プレッシャーがかかってくる。


その3


 補習は午後3時に終了。まだまだ暑い盛りの時間帯だ。みんなして学校の向かいのコンビニで夏っぽい炭酸飲料を買ってから校舎の屋上に向かう。今時屋上に自由に出られる学校も少ないだろうけれども、僕らの高校はそんな数少ない希少種だ。ぞろぞろと5人で階段を上がり屋上への鉄製のドアを開ける。

「わあ・・・・」

 みんな一斉に声をたてる。

 そこには白いコンクリートがずっと広がっていた。その上には夏の日の午後の入道雲が向こうに見える青空に乗っかっている。

「確かに、海っぽい雰囲気はあるね」

 太一がそう言って、コンクリートに一歩踏み出そうとした。

「ちょっと待って」

 僕が声をかけると、みんな一斉にこちらを向く。さつきちゃんもきょとんとして、ん?というような軽い笑みを含む表情で僕の方に顔を向ける。

 僕はドアの外に一歩出て、靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。それをドアの壁際に揃えて置く。

 裸足になってコンクリートの焼ける熱を足裏に感じながら2・3歩歩いてからみんなの方へ向き直った。

「これが種明かしなんだけど・・・」

 あまりにも単純な方法に、みんな‘なーんだ’という顔をしているけれども、さつきちゃんはなんだか楽しそうに笑っている。

「気持ちよさそう」

 そう言うと、さつきちゃんもコンクリートの上に出て、靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。

 僕はその様子にちょっと、どきっ、とした。

 見たいような、見てはいけないような。裸足になる、というただそれだけの動作がなんだかとても眩しいもののような気がした。

 考えてみたら、さつきちゃんの裸足というものを今まで一度も見たことが無かった。

 日向家にお邪魔した時も、いつも靴下を履いていた。だからどうした、ということだと自分では分かっているのだけれども。

 他のみんなも真似して裸足になった。

「確かに、これはいい感じ」

 太一が足裏をコンクリートに滑らすように何歩か歩いて、感触を確かめている。脇坂さん、遠藤さんも、「熱っ!」といいながらも笑顔でコンクリートの上をすたすたと歩く。

 ぐるっ、と屋上の中央あたりから四方を見渡す。

 僕のおばあちゃんがよく、「阿弥陀様の化身」と言っていた連峰がまず目に入る。

 3,000M級の山々には万年雪が山頂に残っており、僕たちのいる地点と連峰の間の熱の空気の層を無視して、視覚だけで僕らを冷やしてくれるような気分がする。

 今度は連峰を背に、海のある方角へ顔を向けると、入道雲のお手本のような大きな雲の塊が、中空までせりあがって、これも夏らしさを盛り上げてくれる。そして、連峰や雲の周囲には本当に真っ青な空がずっと広がっている。僕らの足の裏の下にあるコンクリートの‘砂浜’は、まだまだ午後の太陽に焼かれて熱を持続している。

 僕らは5人並んで屋上の縁近くに腰を下ろし、ぼうっ、と入道雲を見上げていた。

「あ、そうだった」

 思い出したように脇坂さんが買って来た炭酸飲料をコンビニの袋から取り出す。

「何、それ、クールミント味?」

 太一が脇坂さんの飲み物を見て、反応した。

「うん、新製品・・・日野くんのは?」

 脇坂さんに訊かれて太一はボトルをみんなに見せながら答える。

「オレンジッシュ。炭酸はそんなに好きじゃないんだけどこれだけは気に入ってて」

「わたしは、天然炭酸水。普段はお茶かミネラルウォーター派なんだけど、夏場は暑くてこののどごしが堪らなくて」

 遠藤さんがそう言うと、脇坂さんが、のど越しなんて、酔っ払いみたい、とからかう。

「小田くんとひなちゃんは?」

 遠藤さんに訊かれて、なぜか僕とさつきちゃんは同時にボトルを見せる。

「・・・2人とも、サイダー?」

 脇坂さんに言われて、あれっ?と僕とさつきちゃんはお互いのボトルを見合う。

「おばあちゃんの、サイダーを使った‘クリームソーダ’を思い出しちゃって」

 さつきちゃんが答えると、小田くんも?と脇坂さんが追加で訊く。みんなさつきちゃんのおばあちゃんのお通夜の時にお寺さんが話した‘サイダーのクリームソーダ’のことを覚えているのだ。

「僕は、それと、あとは木造の古い家のおばあちゃんの‘サイダー’を思い出して。あの時は実際にはグレープの炭酸だったけど・・・」

 この5人は、今では‘木造の古い家のおばあちゃん’の話も共有している。最初、僕もさつきちゃんも、皆に話すべきかどうか迷ったのだけれども、この5人も縁あって集まっている、とはっきり感じ取れたので、分かってもらえるだろうと話したのだ。

 僕とさつきちゃんが2人してサイダーを手に取っているのを見て、

「やっぱり、かおるちゃんも日向さんも‘異次元’ぽいね」

 太一がちょっとだけからかうように言うと、脇坂さんも遠藤さんも、うんうんと頷く。

「え?」

と、さつきちゃんが不思議そうな顔でみんなをぐるっと見る。

「もしかして、わたし、何かまずいことでもした・・・?」

 それを聞いて、太一がううん、違う違うと、慌ててフォローする。

「つまり、古風、というか、ピュア、というか・・・古(いにしえ)の人たちみたいな感覚を持ってる、って意味で、褒め言葉と受け取って貰えたらと・・・」

 太一はそう言って、さつきちゃんの方ではなく、僕の方をちらっと見て、にこっ、とした。

 

その4


 僕らは炭酸飲料を飲みながら、またしばらく青空と入道雲を見ていた。

「なんで、久木田くんは自殺したんだろうね・・・」

 さつきちゃんが突然呟いて、皆、びくっ、とした。

 ゴールデンウィーク明け、女子3人から僕と太一は同窓会どうだった?と訊かれた時、既に久木田の自殺のニュースが報道されていたので、事の顛末をすべて話していた。

 その後、僕は何をなしても常に久木田を最後に見た時の、教室の机に顔を伏せているその背中が思い出されて、思考や行動に目に見えないブレーキがかかっているような気分になる。

 残りの4人にしても、16・17歳の僕らにとってはとても衝撃的で胸の奥にしまったままにしておくには重くて苦しいものだった。‘自分の人生とは関係ない’と踏ん切りをつけることはできなかった。

 太一は何か思う所があるのだろう。さつきちゃんの問いに対して、静かに答え始めた。

「・・・実は、僕にも責任があるんじゃないか、って思ってる」

 太一の思いがけない言葉に、みんな、えっ、という顔になる。ただ、さつきちゃんだけは表情を変えずにじっと太一の顔を見ている。

「・・・僕自身は岡崎みたいな、久木田を直接傷つける言葉は言ってないかもしれない。でも、岡崎の言葉を引き出したのは僕と岡崎とのやり取りがきっかけだった・・・それにもしかしたら、僕と岡崎の遣り取りそのものが久木田の気持ちを辛くしたかもしれない・・」

 遠藤さんが、ううん、日野くんのせいじゃないよ、と慰める。

 太一はもう少し話を続けた。

「・・・かおるちゃんが久木田の背中をさすっているのを見て、ああ、自分は馬鹿だな、って思った・・・・」

 僕は、太一の心をなんとか救いたいと思った。今までの人生、太一に救われ続けてきた。でも、何が言えるだろう・・・

「・・・多分、寿命だったんだよ・・・・」

 僕は、意識にも無かった言葉が自分の口をついて出てびっくりした。でも僕のその無意識の言葉に、みんなの方が、えっ!?と驚いている。さつきちゃんもびっくりした顔をしている。

 僕の言葉はまた、自分の思考とは全く関係なく、すらすらとではないけれども、染み出してくるように音声となって僕の口を離れる。

「・・・僕は、さつきちゃんのおばあちゃんのお通夜の晩、久木田がいてくれたことすら、この5人と出会う縁につながった、って感じた。久木田との縁が無ければみんなとの縁も無かったんだろうな、って・・・

 久木田がしたことは、確かに人の人生すら狂わせることもあった・・僕自身も、太一しか知らなくて、ここにいる他の皆には言えないようなことがいくつもあるし・・・

 でも、それすら、僕がこの高校に入って、このみんなと出会うためのプロセスで、久木田がそのための損な役回りをしてたんだとしたら・・・久木田も‘いてもいい人間’ってことになる」

「じゃあ、どうして今、死ななくちゃいけなかったのかな?寿命って、どういうこと?」

 さつきちゃんがいつになく、やや強い口調で僕に半ば詰め寄るように問いかける。さつきちゃんの様子に、他の3人は軽く驚きの表情になる。

 けれども、僕自身は全く何の感情の起伏もなく、自動的に喋り続けるような感覚が続く。

「僕らには決して分からない‘役割’を久木田がやり遂げた、ってことだと思う。

 だから、これ以上はその役割以外の、ただ単に人を苦しめるだけの罪作りになるから、神様が久木田を召されたんだと思う。神様の慈悲だと思う。

 ある意味、久木田は、‘志’を成し遂げたから召されたんであって、寿命をまっとうしたんだと思う」

 みんな、シーン、と静まり返っている。

 太一が眼を赤くして僕に語り掛ける。

「かおるちゃんは、やっぱり、‘異次元’だよ・・・ありがとう・・・」

 そのまま、その顔を見せるのが太一としては照れ臭いのだろうか、意味もなく、連峰を眺めるふりをして、顔を向こうの方に向けている。

「かおるくん」

 さつきちゃんが、僕に静かに声をかける。僕は黙ってさつきちゃんの方へ顔を向ける。

「わたし・・・おばあちゃんが亡くなってから、やっぱり、何度も何度も自分で自分に問いかけてた。

 ‘わたしが風邪をうつしたから’って・・・」

 僕はさつきちゃんの目を真っ直ぐ見て、軽く、うん、と頷く。

「今、かおるくんが言ってくれたことが、今までわたし分からなかった。

 ・・・多分、それは‘こう考えたら気分が楽になるよ’ってことじゃなくて、わたしも久木田くんは、自分の役割を見事に果たし切って天に召されたんだと分かった。それが本当のことだって分かった。

 おばあちゃんが亡くなったのはわたしが風邪をうつしたからというのは、事実だけれど・・・・

 おばあちゃんも、わたしやお父さんやお母さんや耕太郎や大勢の人たちに・・・感謝してもしきれないくらいのたくさんの役割を果たして天寿をまっとうしたんだ、って、今、分かった」

 さつきちゃんの目は、僕の目の奥を覗き込んでいることがはっきりと認識できる。まるで、僕に対してではなく、僕に自動的に話させている‘何か’に直接話しかけているかのようだ。それから最後にさつきちゃんはこう言った。

「ありがとう・・・」

「小田くん、ひなちゃん・・・結婚したら?」

 脇坂さんの一言に、僕は急に我に返った。

「え!?」

と、僕は、この暑さの中に関わらず、自分の顔が一瞬にして真っ赤になるのが分かった。

「だって・・・・それしかないでしょ?」

 脇坂さんの追撃に、遠藤さんもうんうんと頷いている。太一まで‘その通りだね’という風に頷いている。脇坂さんが更に駄目押しする。

「多分、小田くんとひなちゃんがこの先ずっと一緒にいれば・・・きっと二人で何か凄いことができると思うよ」

「・・・・」

 僕は言葉を失ってしまった。その横からびっくりするぐらい冷静なさつきちゃんの声が聞こえてきた。

「かおるくんとは何が不思議な縁がある、っていうのは、わたしは初めて会った時から気付いてた。入学式の時から・・・」

 僕は反射でさつきちゃんの顔を見る。聞きようによってはあまりにも大胆なさつきちゃんの言葉に皆も目を丸くしてさつきちゃんの方を見る。

「だから・・・かおるくんから、その・・・‘打ち明けられた’時・・・

 その・・・ただ、‘男の子と女の子’っていうだけの縁なのかな、って一瞬錯覚しかけたんだけど・・・

 お母さんと話す中で、ああ、ただの‘彼氏・彼女’っていうことじゃなくって、これまでこの5人で話してきたみたいなこととか、‘彼氏・彼女’ってだけじゃ絶対できないようなことをしていくもっと深い縁なんだろうな、って分かった・・・

 でも・・・」

「でも・・・?」

 僕以外の3人が声を揃えてさつきちゃんに向かって前のめりになるようにして話の続きを全力で促す。

「でも・・・この深い縁が‘結婚する’っていう縁なのかどうかは、わたしだけで決められることじゃないから・・・」

 さつきちゃんがそう言って僕の方を見ると、みんなも一斉に僕を見る。

 さつきちゃんは、‘縁は人間が決めるものじゃない’という意味で言ったはずなのだけれども、残り3人は、‘結婚するかどうかはかおるくんの意思も尊重しなくちゃいけないから’という風に完全に誤解している。

 3人は、「どうなんだ!?」という詰問するような目つきで僕をにらみつける。

 僕は、もう耐えきれなくなって、立ち上がった。

「今日、‘俺たちは天使だ’の再放送見なきゃ!」

と、皆がすぐには解析できないであろう謎を含めた言葉を残して、僕は最速の速足でドアの方へ向かった。

 案の定、10秒ほどみんなで、‘「俺たちは天使だ」って何?何?’という風にさわさわと言い合っていたが、すぐに罵声を浴びせながら追いかけてきた。

「かおるちゃん、男らしくないよ!」

 太一も速足で近づいてくる。

「小田くん、卑怯だよ!」

 遠藤さんまでそんな言葉を僕に浴びせかけて来る。

 3人の後ろを、さつきちゃんが、にこにこ笑いながら歩いている。

 ほんとの海には行けなかったけれど、なんだか青春ぽいな。

 僕はそんなことを思いながら、階段を駆け下りた。


 でも、僕の中にはこんな疑問がこびりついたまま残っていた。

‘じゃあ、岡崎はどうなんだろう?’


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