第2話 新しい季節

その1


 高校2年生のスタートは本当に順調だった。高1の終業式に皆で告白し合った今後の目標も意識しながら、学業にも部活にもそれ以外の17歳・16歳の人生の語らいにも、とても朗らかに取り組めた。

 陸上部走り幅跳びチームは3年生でチームリーダーとなった武田さんをはじめ、2年生は相変わらず僕1人だけだけれども、新1年生が3人加わり、毎日賑やかにジャンプしている。

 なんだかゴールデンウイークに入るのが惜しいくらいの充実した日々だった。それでもやはり待ち遠しかった5月1日の朝を迎えると、僕は目覚まし時計が鳴る直前にぱっと起きた。

 お母さんはさつきちゃんのおばあちゃんのお通夜以来、さつきちゃんのことがいたく気に入ったようだ。今時珍しい子だ、としきりに言っている。ただ、そのさつきちゃんとは言え、僕が女の子と2人だけで遠出するという、今まであり得なかったことに戸惑いはあるようだ。僕はあくまでも‘自主トレ系マラソン部’の活動であり、純粋にジョギングをしに行くのだ、と少しでも安心させようと努力した。


 鷹井駅で待ち合わせて僕とさつきちゃんは始発電車に乗り込んだ。白井駅までは去年のロードレースの時と同じ行程だ。白井駅からはトロッコ電車に乗り換えた。朝早い時間だったけれども、観光客もぱらぱらと見える。僕とさつきちゃんはトロッコ電車の座席に並んで座り、窓も何もないむき出しの車両から下に見える美しい峡谷を眺めた。

‘連れてって’と一応お願いされたのだから、と、僕はちょっと恰好をつけようとネットで下調べをしていた。ジョギングコースの話をあれこれとさつきちゃんに教えるつもりで話していたのだが、

「かおるくん、あんまり喋ると疲れるよ」

 突然、さつきちゃんからそう言われ、え、僕、何かさつきちゃんの気に障ることでもしたかな、と一瞬焦った。僕の狼狽した顔を見てさつきちゃんはにっこり笑った。

「ごめんね、ちょっとぞんざいな言い方で。でも、本当に電車の中では極力体力を温存しておいた方がいいと思うから・・・」

 なんだか、プロっぽい発言だ。確かにさつきちゃんほどのランナーならばジョギングとはいえ、万全の状態で今日のコースに臨みたいということなのかもしれないけれども。


その2


 トロッコ電車沿線の中間地点、‘欅が原’はその名の通り、欅林が清涼感溢れる雰囲気を作り出している美しい駅だった。クラブハウスはその駅を出た目の前にあった。

 クラブハウスの入り口に男性が立って手を振っている。その男性が僕たちに声を掛けて来た。

「よく来たね。待ってたよ」

 ん?予約でも入れたのだろうか?僕らが来ることを事前に知っている?

「こんにちは、今日はよろしくお願いします」

 さつきちゃんもやけに親しげに答えている。

 男性は僕たちのお父さんくらいの年齢に見える。またこちらに声をかけてきた。

「さつき、元気だったか?ばあちゃんの葬式以来だな」

 え?さつきちゃんの親戚?どういうことだろう。

「伯父さん、こちらは同じクラスの小田かおるくん。いつも一緒に走ってくれてるんだよ」

 僕は、思わずどう反応していいか分からなかったけれども、とりあえず、こんにちは、よろしくお願いします、と挨拶した。

「小田くんか。よろしくお願いします。陸上部なんだってね?」

 事情があまり呑み込めない状態だが、会話は続く。

「はい、走り幅跳びやってます。今日は楽しみにしてきました」

 さつきちゃんが、ふふっ、と笑ってようやく解説をしてくれた。

「伯父さんはわたしのお母さんのお兄さんでここのクラブハウスの管理人なんだよ。わたし、中学校の頃から自主トレでよくここに来て、コースを走らせて貰ってて。ちょっと、かおるくんを驚かせてみたくて」

 さつきちゃんも人が悪い。でも、伯父さんの方がもっと人が悪かった。

「小田くんはさつきの彼氏なのかな?」

 さつきちゃんはこの程度では特に動じることもなく、欅の木々を眩しそうに見ている。

「いえ、あの、そんなんじゃありません・・・・」

 僕の歯切れの悪い答えに伯父さんは、え?そうなの?と残念そうな顔をする。

「小田くんよ。自分の姪の自慢になって申し訳ないが、さつきはいいよ。料理も上手いししっかりしてる。それに、結構可愛いだろ?小田くんもそう思わないかい?」

 正直、ちょっと困った伯父さんだな、と思う。ここまで伯父さんが言うと、さすがにさつきちゃんも困ったようで、伯父さん、ちょっとちょっと、という感じのことを言った。

 でも、なぜか僕はなんだかとてもストレートに会話をしてみたい気分になった。

「あの・・・さつきさんは、料理も上手だし、性格もとても清々しいし、素晴らしい女性だな、と思います。普段から見ててそう、思います」

 伯父さんは、おっ?という感じで僕をじっと見る。さつきちゃんは、えっ?という感じでびっくりしてしまって反応が止まってしまっている。僕は一旦口に出したことなので最後まで言い切ろうと腹を決めた。

「だから、彼とか彼女とかそんなんじゃなくて、さつきさんを人間として尊敬してます。同じ高校で良かったな、って思ってます」

 伯父さんは、ふーん、と唸って僕の答えに感心しているようだ。でも叔父さんはそこで終わらずに更に意地悪を仕掛けてくる。

「小田くん、なかなか男らしいな。感心したよ。

 ところで、さつきが‘可愛い’ってところには何のコメントも無しかい?」

 うっ、と僕は一瞬躊躇したが、えーい、はっきりついでに言ってしまえ、と勢いに任せた。

「とても可愛い、と思います」

 さつきちゃんはびっくりしたまま顔から首の辺りまで真っ赤にしている。

 そこへ伯父さんが追い打ちをかける。

「さつき、小田くんはこんな風に言ってくれてるぞ。何か言ってあげたらどうかな?」

 さつきちゃんは珍しくもじもじした女の子らしい表情と仕草をしている。ようやく喋れるようになったのか、俯き加減で小声で言った。

「かおるくん、ありがとう・・・」

 それから、顔を少し上げて、赤らめた表情でそっと僕を見てほほ笑んだ。

 伯父さんは僕たちの青春ぽい佇まいを見て、豪快に笑った。

「小田くん、君はいい男だな。安心したよ。白状すると妹から電話があってね。大丈夫だとは思うけれど若い2人だから、間違いが無いように気を付けてやってくれ、って頼まれてね。さつきの色香に迷ったふにゃふにゃした男だったらどうしようかと思ってたんだよ。でも、2人の初心な様子を見てると俺たち大人の方がよっぽど厭らしい心持だよな。許してくれよ、小田くんよ」


その3


 着替えてストレッチを始める。さつきちゃんが今までに見たことの無いくらい入念にストレッチをしている。僕はちょっと面喰った。

「かおるくん、きっちりアップしておいてね。それから、財布は要らないけど小銭を少し持って行ってね」

 コースの途中に自販機でもあるのだろうか?


 僕たちが準備を終える頃までに何人もクラブハウスにやって来たが、皆ジョギングをするといった軽い雰囲気ではない。服装もそうだけれども、腕や足の筋肉の付き方が、長距離走を専門とするアスリートのそれだ。この間見せて貰ったパンフレットの長閑さに対し違和感を覚える。

 そして、コースの入り口に立った時、僕は自分の甘さと同時にさつきちゃんのストイックさを知ることとなる。

「・・・これは、上級コース?」

 それはどうみてもジョギングコースではない。いわゆるトレイルランニングと呼ばれる競技のコースにしか見えない。人が走れる幅は確保されてはいるが、‘道なき道を行く’といった雰囲気の険しさだ。しかも、コースの入り口からして勾配がかなりきつい。

「これはね、番外編というかエクストラコースだよ。ガイドブックにも載らない裏メニューというか。ちょっときついけど、とてもきれいな自然を体感して走る、っていうコース。さっきクラブハウスに来てた人たちはここじゃなくて上級コースを走るみたいだったね」

 さつきちゃん話が違うよ、と言いたくなったが僕は心を静め、冷静に質問を続けた。

「さつきちゃんは、中学生の時にここを走ってたの?」

「うん。ソフトボール部の自主トレとか、あと、落ち込むことがあった時とか・・・正確に言うと小学校の時からだよ。伯父さんに先導してもらって。小学校の時は歩くことから始めて徐々に走れるようになったけど・・・」

 これでよく分かった。さつきちゃんがあんなにきれいなフォームで走れるのはここを繰り返し走り込んだからなのだ。平坦な道よりも、階段や上り坂を走る方がきれいなフォームが身に着くというのは本当らしい。

「かおるくん、行こう?」


その4


‘どこまで続くんだろう・・・・’

 延々と続く急勾配になんだか頭が朦朧としてくる。先を走るさつきちゃんは時折振り返って僕のペースを確認する。

「かおるくん、後もう少しで勾配が緩くなるから頑張って」

 そう声をかけるさつきちゃんも額に汗を滲ませ、息が上がっている。けれども、さつきちゃんは本当に楽しそうに走る。振り返るその顔は常に笑顔だった。

 確かに、素晴らしい、まさしく自然と一体となって走る美しいコースだ。何というか、‘人間用の、けもの道’といった感じで、自分が狸かなにか小動物になって野山を駆け巡るようなユーモラスな楽しさも感じる。ただ、トレーニングのためのコースとしては度を過ぎるかどうかといった境目のぎりぎりのレベルだと思う。

 鳥のさえずりがかえって静けさを深め、木漏れ日がさつきちゃんの背中にまだら模様の光と影を作っている。今日は現代の5月1日、という認識も曖昧になり、過去と未来とが混在するのが当然のような気すらしてくる、そんな場所だ。僕のおじいちゃん・おばあちゃんやさつきちゃんのおばあちゃん、古い木造の家のおばあちゃん、そして掛け軸のあの人。今この瞬間、過去に別れたはずの人たちも山道のどこかを歩いているんじゃないだろうかと想像する。

「かおるくん、あそこが最後の難関。頑張ろ!」

 さつきちゃんが視線を向けた先に、石段が見えて来た。


その5


 苔の生した石段はほぼ垂直ではないかと思えるくらいに急だった。さっきまでの自然に近い木立ちとは違い、階段の両隣には樹齢数百年をゆうに超えるであろう真っ直ぐに伸びた杉の木が立ち並ぶ。そして、石段の登り口には木で作った鳥居があった。こんなところに神社があるなんて、ちょっと不思議な感じがした。

「かおるくん、気を付けて」

 と言いながら、さつきちゃんはもう階段を駆け上がっている。僕も遅れまいと続くがおっかなびっくりで思うように足が出ない。けれども、無理やりにさつきちゃんに着いて行くうちに、リズムが出てきてちょっとだけ足が軽やかになった。

 ただ、この石段もどこまで続くのだろう、というくらいに長かった。頂上は見えているのに、着きそうで着かない。さすがのさつきちゃんもややペースが落ちてきたかな、と思った瞬間、たっ、と一歩大きく踏み出してさつきちゃんの姿が見えなくなった。

‘消えた?・・・’

 何が起こったのか、と思考を巡らすうちに、突然目の前に石畳の参道が現れ、あっ、という間に僕も‘着地’した。

 何のことはない。石段があまりにも急なので、登りきって平坦な参道に入った瞬間、下からは消えたように見えただけなのだ。でも、それはこの神社ができた頃の古の人たちにとってとても神秘的な光景だったろうと思う。僕自身にとってもやはりさつきちゃんが‘消えた’ことは驚きであり、神秘に触れたような瞬間だった。


 石畳の向こうの社殿は、年月の流れによる綻びはややあるものの整然とした佇まいできちんと手入れが行き届いているという雰囲気がある。

「山奥のお宮さんなのにきれいにしてあるね」

 僕が何気なく言うとさつきちゃんからこんな返事が返って来た。

「伯父さんがたまに来て掃除させていただいてるよ。風邪の強い日の後なんかは折れた木を片付けさせて頂いたり。

 本当はお社も直したり普請したりできるといいんだけれど、お金がなかなか集まらないみたい」

 僕たちは社殿の前へ進み、お賽銭を上げた。小銭の意味がようやく分かった。

 2人して柏手を打ち、頭を垂れる。

「かおるくん、ちょっとこっちに来て」

 さつきちゃんに言われるままに境内の敷地を横切り木立ちの切れ間の辺りまでやって来た。僕は思わず感歎の声を上げた。

「おわっ・・・!」

 自分で出した声ながら素っ頓狂だとは思ったけれども、その景色はそれでも大げさではないほど見事なものだった。

 木立ちの切れ間から晴天の日差しが降り注ぐ崖の遥か向こうに、この場所と同じ日差しを浴びて煌めく海があった。

 隣県の半島から続く、僕たちの県の湾。まさかこんな所から見えるなんて!

 僕は本当に感動し、隣にさつきちゃんがいることも一瞬忘れて、

「凄い・・・」

と1人呟いていた。

「きれいでしょ?」

 珍しくさつきちゃんが自慢げに僕に語り掛ける。

 僕はさつきちゃんに顔も向けず、海を見つめたまま、うん、きれいだ、と返事をした。

「伯父さんは競歩の選手で国体にも出場したんだよ。大学時代のコーチからこのコースをトレーニング用に教えて貰ったんだって。昔は山伏や修験者が修行に使った古道なんだって」

 ああ、なるほど。

「やっぱり・・・とてもスポーツ用のコースには思えなかったよ」

 僕が呆れたように言うとさつきちゃんは、ふふっ、と笑って話を続けてくれた。

「小学校の時に初めて伯父さんに連れられて登りきった時、この景色を見てわたし本当に嬉しくなって。それからは落ち込んだ時なんかこの景色を見たくて何度も何度も走ったよ。

 かおるくんは景色のご褒美も知らないのに延々とよく一緒に走ってくれたね。偉い!」

 さつきちゃんは僕に秘蔵の景色を見せることができて多少興奮しているようだ。

 それから僕らは腰を下ろした。僕は胡坐で、さつきちゃんは体育座りで。2人で呆けたまま海をしばらく見続けた。去年市の大会で3位になった時は自分のその時点での全てを出し尽くすジャンプができて、30分程フィールドで呆然と座り呆けたが、その時と同じ感覚だ。

「かおるくん」

 さつきちゃんが不意に話しかけてきた。僕はまだ呆けたままだったので、ん?とよく分からない相槌を打った。

「さっきは伯父さんが色々と変なこと言ってごめんね」

 ああ、なんだ、そのことか。自分としては変なことというよりは、なんだか自分の心の内を代弁するようなことを伯父さんが言ってくれたので実はありがたいと思っていたのだけれど。

「ううん、伯父さん、面白い人だね。僕も腹の中をうまくひきだされてしまって」

 僕自身は、さつきちゃんが‘可愛い’というのがもっとも強く腹の中で思っていることなのだけれど、さつきちゃんはどう思っているのか。

 さつきちゃんにしばらくの沈黙があった。ぽつり、と語り出す。

「わたしね・・・おばあちゃんやお母さんの生き方を見て来て、やっぱり結婚して子供を産んで、っていうのが自分にとっては凄く大事なことで・・・

 でも、そのことと将来の目標とか部活とか友達との時間とかがどんな風に結びついて来るのかなって、分からなくなることもあって・・・」

 ちょっと意外な感じがした。そういうことを意識しないのがさつきちゃんらしさだと僕は勝手に思い込んでいたようだ。さつきちゃんだって、今日、17歳になったばかりだ。色んなものが確固として固まっていなくて当然だと、今、改めて認識する。僕は何か気の利いた言葉を選ぼうとしたけれど、無理だった。なので、さっき伯父さんと話した時のように、ストレートに話すことにした。

「全部、つながってると思うよ。今日、こうやってこの景色を見たことも含めて全部。

 もしかしたら、僕とさつきちゃんが結婚することだってあるかもしれないじゃない」

 当然、びっくりした顔をするだろうな、と思ったけれども、不思議なことにさつきちゃんは表情を変えていない。まるで変わりない日常会話のような調子で僕の話の後を繋いだ。

「・・・確かに、かおるくんとわたしが結婚する確率って、かなり高いと思う。

 どう考えても‘縁がある’としか思えないから・・・」

 驚愕したのは僕の方だった。ただ、さつきちゃんの冷静とも言えるような話しぶりを見て、僕の方にも胸ときめいたり舞い上がったりするような余地が全く与えられていないことも覚らざるを得なかった。

「わたし、ほんとに、そう思う。だから、おばあちゃんは‘惚れた腫れたじゃ難しい’、って言ってくれたんだと思う。

 もし・・・今の内からわたしと結婚する、ってことが分かってるとしたら、かおるくんのこの後の人生って楽しい?それとも苦しい?」

 さつきちゃんの言っている意味は分かる。けれども、自分の凡庸な心は日向家の女性たちの真っ直ぐな感覚を今この瞬間に全面的に受け入れるには容れ物が小さすぎる。

「もし、わたしとかおるくんが結婚する、っていうことを将来の道しるべにしてこの先生きていくとしたら、色んなことを絡め合わせてその方向に持っていくように考えるよ、きっと。かおるくんはそれでもいい?」

 ストレートに答える前に、ストレートに聞いてみる。

「結婚を目指すために色んなことを我慢する、ってこと?たとえば、何も考えずに遊び呆けたりしないとか、職業的な将来の夢を諦めて現実的に家庭が成り立つような仕事を選んだりとか・・・」

「・・・ちょっと、違う・・・」

 さつきちゃんはそう言ってからしばらく膝におでこをくっつけて考え、こう続けた。

「価値観が同じ人と結婚する方がいい、ってよく言うけれど、でも、人間の価値観なんてその時々で変わるよね・・・そうじゃなくて、人間の考えとはまた別に有無を言わせないような流れというか・・・

 仮にわたしとかおるくんが‘ああ、生き方が違う’ってお互いに思う瞬間があったとしても、それでもこの人と‘縁’があるんだ、って感じ続けられるかどうか、ってこと・・・」

「そしたら、相手に‘合わせる’ってことも時に必要なんじゃない?」

 僕が発した言葉はさつきちゃんが求めている次元のものではなく、非常に心の中でも‘浅い’部分の問いかけだ。でも、僕は訊かずに後悔するよりはいいと思った。さつきちゃんは僕に回答を続ける。

「日々のささやかな事では合わせてなんとかなることもあるだろうけど、それを超えた部分は合わせ続けるのは難しいと思う。

 相手に合わせる程度で済む‘2人の世界’じゃなくって、もっと強力な‘縁’の流れに身を任せられるのかどうか、ってことかな・・・

 もしかしたら一緒にいて楽しくないどころか、苦しいことばっかりかも。

 それに、おばあちゃんが言う‘惚れた腫れた’を避けてそこに向かうとしたら、その途中では男の子が女の子にしたいこととか・・・女の子が男の子にしたいこととかも多分、できないと思う」

「何?・・・その・・・男の子が女の子にしたいこととかって・・・」

「・・・例えば・・・手をつないだりとかいうことすらできないかも・・・」

 さつきちゃんは恥ずかしいのか、‘手をつなぐ’というごく柔らかい例を挙げた。さつきちゃんはそこで僕の顔をふっ、と見上げる。

「わたしは、それでも構わないんだけれど、かおるくんはどう?・・・」

 僕は思ったままのことを言ってみた。

「もし、僕らに縁が無かったら?・・・」

 え・・・、とさつきちゃんは柔らかく寂しげな表情をあらわにする。

「その時は・・・とても悲しいけれど、諦めるしかない・・・」

 僕は胸が熱くなった。さつきちゃんはさっきからの話を‘女の子’としての感情を必死に押し殺しながらしていたに違いないのだ。‘悲しいけれど’というのが思わず漏れてしまった‘女の子’としての感情なのかもしれない。僕は、恥ずかしいので、すっと立ち上がり、わざと海の方へ遠い視線を向けて言葉を吐いた。

「縁は、あるよ、きっと。

 というか、僕は、縁があって欲しい」

 言ってしまった。真にこれが縁であることを願って。

 

その6


「もしかして・・・何かあった?」

 伯父さんはさっきまでの豪快さが嘘だったかのように心配げな顔で僕たちに訊いた。何か、2人の雰囲気に出発前とは違うものを感じたのだろうか。

「いえ、何も・・・」

 僕が答えると伯父さんは今度はさつきちゃんの顔をオロオロした目で見つめる。

 さつきちゃんは一旦、僕の顔をちらっと見て、ふっ、と軽く笑ってから、

「うん、なんにも」

と伯父さんに答える。

 僕たちがコースを下ってきて伯父さんにお昼をごちそうになっている時、他のお客さんのテーブルをそっちのけで、何度も僕たちの様子を見に来る。

 事実、僕たちの間に何か特別なことも無ければ、今までと違うこと何も無かったのだから。

 単に僕たちはさっき、

‘結婚する縁かもしれないね’

と言い合っただけなのだ。結婚しようとも結婚してとも言った訳ではない。

 今までと同じ、‘惚れた腫れたではなく、彼氏彼女でもないけれど、特別な間柄’という他人から見たらなんだかよく分からない関係のままであることに変わりはない。

 ただ、とてもさっぱりした。事実、僕もさつきちゃんも、仮に違う相手だったとしても、まだ結婚するかどうか分からない異性とは本当に手さえつながないだろうと思う。

 だから、さっきのことがあっても、浮かれることも何もない。それどころか、‘恋愛ではどうにもならない’ことが‘結婚’だとしたら、今自分達が学校や家で向かい合う‘なすべきこと’をおろそかにしていると、そこにはたどり着けないだろうことがはっきりと分かり、浮かれずしっかりやろう、と妙にストイックになってしまう。

「かおるくん、今日は晩御飯も一緒で大丈夫なんだよね?わたしも今日は晩御飯の用意はしなくていいから外で食べておいで、ってお母さんが言ってくれたから」

 さつきちゃんが念押ししてくる。

「うん、大丈夫。ところで、どこか行きたい店とかあるの?」

 僕がさつきちゃんに訊いたところで、また伯父さんがすすっ、と横に来ている。

「ん?夜は‘Tダイナー’に行くんじゃなかったのか?」

 さつきちゃんが、あー、というような顔をして伯父さんを軽く睨んだ。

「あ・・・言っちゃ駄目だったのか?」

 さつきちゃんが、しようがないな、という顔で解説してくれる。

「かおるくん、ごめんね。晩のお店も‘お目付け役’がいるんだけど・・・」

 こらっ、と伯父さんが割り込む。

「せっかくうちの子が誕生祝にごちそうしてやるって言ってるのにそんな言い方するなよ」

 ごめんなさい、と軽く伯父さんをあしらってから、さつきちゃんは僕に解説の続きをしてくれた。

「わたしのいとこが洋食屋さんに勤めててシェフの修行中で。駅北のクラシカルホールのすぐ近くのお店。お母さんが伯父さんを通じて早々と根回ししてしまって・・・

 かおるくんの好みとか無視してごめんね」

「ううん、Tダイナーはフリーペーパーでも紹介されてたの見たことあるよ。行ってみたかった」

 事実、Tダイナーは鷹井市では結構評判の店だ。何度か前を通ったこともあるが、今時洋食屋さんの個店でこんなに繁盛するものなのだろうかというくらいお客さんでいっぱいのようだった。

 僕らは伯父さんへのお礼に、クラブハウスの皿洗いやら掃除やらをして午後の時間を過ごし、Tダイナーの予約時間に間に合う頃合いの電車で鷹井市への帰路についた。


その7


「かおるくん、わたしの従姉の千夏(ちか)ちゃん。千夏ちゃん、いつも一緒に走ってくれる、かおるくん」

 シェフの真っ白な制服を着た‘伯父さんの子’は若い女性だった。

 僕と千夏さんは互いに挨拶を交わす。

「かおるくん、いつもさつきがお世話になってます。自分の店のことでなんだけど、ほんとにおいしいから、ゆっくり食べて行ってね」

 凛々しく僕たちへの応対をしてから千夏さんは厨房へ戻って行った。

「女の人だと思わなかった」

 シェフ、と聞いて、男性を想像するあたり、僕はやはりまだまだ古臭い人間なのだろうか。

「千夏ちゃんは高校出てすぐにこの店で修行を始めて。今年成人式だったんだよ。立派な社会人、かっこいいよね」

 長女であるさつきちゃんにとって千夏さんはお姉さんのような、憧れの存在らしい。実際、お盆や正月に本家である日向家に親戚が集まって大勢のための料理を作る時、さつきちゃんのお母さんはもっぱら千夏さんを自分の片腕として頼りにしてきたらしい。おばあちゃんが生きていた頃は、お母さん・千夏さんがメインの調理作業をする様子をおばあちゃんがどっしりと吟味し、3人で非常に高度かつ厳しい料理の打合せが繰り広げられたらしい。さつきちゃんですらその中に入り込むのがためらわれたそうだ。特に千夏さんがTダイナーに就職してからは、「さすがプロ」と唸るしかなく、自分が補佐役に徹するしか無いのがちょっと悔しかったそうだ。

「その内に独立したい、って千夏ちゃんは言ってるけど、ほんとにそうなったらいいな。わたしも雇って貰えるかもしれないし」

 多分、これはさつきちゃんの本音ではないかな、と思う。


「ところで」

 と僕は普段とは違う文脈でさつきちゃんに切り出してみる。

「なんか、今日は僕がエスコートするイメージのはずが、かえってさつきちゃんに招待されてしまって」

「ううん・・・‘ジョギングコース’も‘Tダイナー’もかおるくんだから一緒に来てくれたと思うから。みんな‘走る’ってきいただけで敬遠してたもんね」

 いや、さつきちゃん、それは別の意味で遠慮してたんだと思うけど。とにかく、僕は話を続けた。

「それで・・・実はプレゼントは一応用意してて・・・ちょっとこういうのって本人の好みも聞かずに選ぶのどうかな、っては思ったんだけど・・・」

 そう言って、僕は、風鈴の小さな絵柄の入った、‘それ’を買った店の封筒サイズの袋を渡す。

 さつきちゃんは受け取って、開けてもいい?と僕に訊いて来る。僕は、うん、と促す。


 さつきちゃんは封筒から、その小さなガラス玉のアクセサリーを取り出す。

「わー、きれい・・・」

 手に取って照明に透かすようにしてそれを色んな角度から見る。

「市のガラス工房、知ってる?若いガラス職人の人たちに作業場と販売スペースを提供してるんだけど。そこの女性職人さんの作品なんだって」

「つけてみてもいい?」

 それはビー玉よりもやや小ぶりで中に青を基調とした一輪の花のような模様が描かれている。上の方に茶色の紐を通してあり、それを首にペンダントのようにつけられる。さつきちゃんは首の後ろに手を回し、器用に紐のフックを止める。

 白い半袖のごくシンプルなブラウスを着たさつきちゃんの首に、青いガラス玉がとても涼やかな印象を与える。ブラウスの白とも、さつきちゃんの日焼けした首筋ともとても調和がとれている。

「あの・・・ほんとに安いんだ。千円しないから」

 僕は照れ隠しにまた余計なことを言ってしまう。

「ううん、凄くきれい。ありがとう。ほんとに嬉しい」

 さつきちゃんは大きくほほ笑み、右手の掌にガラス玉を乗せてみせる。

 そこへ、千夏さん自ら料理を運んできてくれた。僕たちの様子を見て、ふうん、という感じでにっこり笑う。

「2人とも、真面目なんだね・・・」

 なんでだか分からないけれども、僕はとても恥ずかしくなった。

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