2-2
千愛莉ちゃんに連絡をすると、すぐに行く、という積極的な返事がきた。そして、本当にすぐに千愛莉ちゃんはやって来た。
「おじゃましまーす」
「早かったね。着替えてきても良かったのに」
千愛莉ちゃんは制服のままだった。家に帰らずにここに来てくれたのだろう、少し悪い気がしてしまう。
「ううん。正装のほうが良いかと思って。極道だし」
「……そっか」
なるほど、確かにスーツとかちゃんと着てるから、学生の正装である制服を着ているというのは正しいことなのかもしれない。しかし、決して麗自身が極道であるというわけではないので、若干飛躍しているとも言える。何にしても、千愛莉ちゃんの発想につっこむのも無粋なものだ。そういうことにしておこう。
しばらくすると、家の前にベンツが乗り付けられた。麗の登場だ。車から降りて、僕の家を睨むように見ると、インターホンを押した。そういえば、麗も外での目つきが悪いと思う。麗は基本的に、外では大人ぶった感じで表情の変化に乏しい。感情豊かな麗は、僕らの小さなコミュニティでしか見たことが無かった。
「はい、上がって」
「……お邪魔します」
今日の麗からは、よそ行きのような警戒心が強く表れていた。いつも通りに姉さんの写真の前で手を合わせてから、僕の部屋へと移動する。
「こんにちはー」
部屋に入った途端、明るい挨拶が響いた。千愛莉ちゃんが笑顔で勢いよく頭を下げると、麗も反射的に返事をする。
「こ、こんにちは」
麗は小さくファイティングポーズを取っていた。思わず防御の体制になったのだろう。
「はじめまして、紅輝さんの子分を務めさせていただいています、佐久間千愛莉といいます。漢字が一文字ずつで、書くのが面倒で困る名前なんですよー」
子分って任務とかの類のものなのだろうか。そして、ちょっと受け狙いっぽい蛇足のようなものが、全く麗に響いていなかった。麗はポーズを崩さず、むしろ警戒心を強めている。
「……こちら、紹介したかった千愛莉ちゃん。紅ちゃんを通して知り合った友達」
僕は何事も無かったかのように、麗に千愛莉ちゃんを紹介しなおした。麗は目を細めながら、千愛莉ちゃんのことを見ている。睨んでいるようにも見えるが、これはどちらかというと、ハリセンボンが針を出しているような、身を守るための手段なのだろう。冷静に相手を分析しているのだろうけれど、いまいち掴みきれない。そして、千愛莉ちゃんの性質も意図も何もわからないからこそ、麗は困っているのだ。
「こちら、松坂麗さん。松竹梅の松担当」
「……どんな紹介よ」
麗は僕の言葉に何とか反応してくれるが、どこか弱々しかった。麗からしてみれば、どうすればいいのかわからない状況なのだろう。正直、僕にだってよくわからない。
「これからよろしくお願いします!」
千愛莉ちゃんは怯むことなく元気いっぱいに言った。相手が弱っているところを畳みかけるのは、戦闘の必勝法である。千愛莉ちゃんはそれを実践していると思われる。
「松だから、高価な感じですね!」
千愛莉ちゃんはしたり顔をする。確かに三人の中では一番〝松”感はあるけど、それを言われてどう反応すれば良いのか僕には分からないので聞き流しておく。麗は助けを求めるようにこちらをチラチラと見ていた。
「えっと……そ、その佐久間さんが私に何の御用で?」
「はい。これからお友達になりたいというか、仲良くなりたいなぁって」
麗は眉尻を下げながら、千愛莉ちゃんを値踏みするように上から下に見ていった。
「はぁ……」
今度は大きなため息をつく。そして、今度は僕を睨みつけた。
「てっきりまた唯奈みたいなのが居ると思ったのに、これは拍子抜けだわ」
「何でだよ?」
僕は別に好んで不良と関わっているわけではない。麗は振り上げた拳を下ろさざるを得ない相手だったから、ペースを握れないのだろうか。千愛莉ちゃんは頭からつま先まで全部普通の女の子なのだ。
「だって、ハジメって唯奈みたいなのが好みだと思ってたから。まあ……いいんじゃない? 続くかどうかは分からないけれど、まあお似合いだとは思うわよ、おままごとみたいで」
「続く? どういうこと?」
「だから、彼女なんでしょ? びっくりしたけど、まあハジメは女に見えるくらいに顔は整っているから、それで寄って来たんだろうとは想像がついたから」
「彼女!?」
どうやら、麗には大きな誤解があるらしい。千愛莉ちゃんも首を少し横に傾けた。
「何で彼女ってことになってるんだよ!? そんなわけないだろ!」
「はぁ? だって、真二郎がハジメの彼女を見たって言ってたから!」
真二郎さんは面白がって、千愛莉ちゃんが彼女だということにしたのだろう。そして思惑通りに、麗が困惑していたわけだ。
「それに、じゃあ何で紹介する必要があるのよ? ただの友達なら、私に紹介する必要なんてないじゃない」
確かに、それはごもっともな話かもしれない。ただ、彼女だと麗に紹介するのが当たり前だというのもずれている気もする。僕は少し言葉を詰まらせた。
「それはですね、私が紹介してほしいと言ったからなんです!」
ここぞとばかりに、千愛莉ちゃんが元気に口を挟んだ。麗はまた眉尻を下げて、弱々しく千愛莉ちゃんを睨んだ。
「な、何で私に近づきたいのよ?」
「それは、麗さんが紅輝さんと仲良しだったと聞いたからです!」
千愛莉ちゃんは真っ直ぐに麗と目を合わせて言った。
「仲良しって……」
麗はその視線から目を逸らした。あの目は、僕でも合わせることに抵抗がある。純粋さの塊のような視線。
「唯奈さんと仲良くなれたので、麗さんとも仲良くなりたいなぁって」
「え、何? 唯奈と紅輝が仲良くなった?」
千愛莉ちゃんの主語を抜かした発言に、麗は少し勘違いをしたようだ。麗は目をパチパチとさせ、千愛莉ちゃんに聞き返した。
「あ、いえ。私が唯奈さんと仲良しになったんですよ」
「――ああ、そう……」
一気に冷たい表情になる。今の麗の感情は、僕の推測だと「期待ハズレ」だ。
「それで、私はどうすればいいのよ?」
麗は、今度は僕に少し声を潜めながら聞いた。
「仲良しになれば良いと思うよ」
「え? いやそれって、じゃあ仲良しになりましょう、はいそうですね、みたいな感じに成り立つことじゃなくない? 私、この子がどんな人かも知らない……いや、何となくはわかったけど、あまり気が合うタイプじゃないというか、別世界の人みたいというか」
僕と麗はヒソヒソと話す。それを眺めている千愛莉ちゃんは、ヒーローの変身待ちの怪人みたいな誠実さで待機していた。
「大丈夫だよ。それこそ、千愛莉ちゃんは誰とでも仲良くなれるタイプだから」
「いやいや、私が圧倒されるのが目に見えてるでしょう? そりゃあ唯奈とは合うでしょうよ。でも私はああいうテンションを持ってないのよ」
「ちょっと童心に帰れば良いんじゃない?」
「む、無茶言わないでよ。私よ? この私なのよ?」
「とりあえず座りましょー」
僕らの邪魔にならないようにと思ったのか、千愛莉ちゃんは小さくそう言って、座布団の上に座った。僕と麗はそのまま床に膝をつき、正座になって話を続けた。
「そもそも、仲良くなってどうするのよ?」
「良いじゃないか。友達は多いほうがいいよ」
「それはあんた、自分自身に言うべきことじゃないの?」
「え? いや……とにかく、せっかく仲良くなりたいって言っている女の子を、麗は無下に出来ないでしょ? もういいじゃん。この状況で、千愛莉ちゃんと仲良しになる以外の選択肢が、麗にある? ないでしょ。キーキー言ってないで、とっととお互いのことを分かり合って仲良しになったら?」
「だんだんと冷たい物言いに……」
いい加減面倒くさくなって、僕は適当になってきてしまう。別に、痛いところを突かれたから雑になっている、というわけではない。麗はきっと、変に勘ぐっているのだろうけれど、結局のところ今目の前に居る千愛莉ちゃんに対して冷たく出来るわけもないのだから、大人しくすればいいのに。
「じゃあ、僕は下でお茶をいれてくるから、しばらく二人でお話でもしてて」
僕は、今度は二人に向けて言った。二人からは落差のある表情が返ってくる。
「うん」
「ハジメちゃん……」
当然、嫌そうな顔をしていたのは麗のほうだった。すがるような声で昔の呼び名を呼んでくる。そこまで嫌なことなのだろうか。もちろん、麗がこういうピュアなタイプが苦手なのは知っている。攻撃的な性格をしているため、きつく言えないのがストレスらしい。その分、こういったタイプに対し、麗はものすごく優しくなる。だから二人っきりにしても何ら心配が無いのだ。麗からすればたまったものじゃないだろうけれど。
僕は麗の視線を無視して、部屋を出た。今日はお茶菓子も用意しよう。ゆっくり時間を掛けて、良いお菓子を探そう。僕は一階へと降りていった。
都合良く、麗の好きなお店のチーズケーキがあったので、それを用意した。洋菓子なので、飲み物も紅茶にした。たっぷり時間を掛けて準備していると、もう三十分ほど時間が経っていた。そろそろ、と僕は二階の部屋へとそれを持っていった。
部屋の中からは、快活に話す千愛莉ちゃんの声と、へえ、とか、うん、とか、ははは、とか無難な相槌を打っている麗の声が聞こえていた。
「お待たせ」
麗は引きつった笑顔のまま、僕を睨みつけた。きっと、ずっと同じ顔をしていたから、それがそのまま固まってしまったのだろう。
「わぁ~、ありがとう」
「いつもはこんなの出ないのに……」
「え? ハジメちゃんはよくお菓子を出してくれますよー」
「……」
麗は一度お菓子に目がいった後、またすぐに僕を睨んでいた。僕は気にせず、二人の中間くらいに腰を下ろした。
「何の話をしてたの?」
「えっとね、えっと……色んな話してたから。私の高校の話とか、紅輝さんの話とか、何か動物の話とかお菓子の話もしてたような」
「……話があっち行ったりこっち行ったりしてたのよ。連想ゲームみたいだったわ」
麗はボソッとそんなことを言う。そういえば、千愛莉ちゃんはそういうところがある人だった。高校生活の話の中に犬が登場すれば、しばらく可愛い犬の話をしたりする。
「だいぶ仲良くなったみたいだね」
「そうだよー」
「!?」
麗は無言で僕と千愛莉ちゃんに突っ込みを入れている。どこが!? とでも言いたそうな顔だ。
「麗さん聞き上手だから、何だか私ずっとお話しちゃってて」
「……相槌を打ってただけなんだけど」
またボソッと僕にだけ言ってくる。僕はそれに特に返事をしなかった。
「そうだ麗さん! テレビゲームしましょうよ!」
「はぁ? 何でそうなるのよ?」
「この前、唯奈さんとしたんですよ! 私、強いんです!」
そう言いながら、千愛莉ちゃんはゲームの用意を始める。麗は僕の方を見て、目で訴えかけている。
「ああ、手伝えってことだよね」
「ち、違うわよ」
勝手にそう解釈して、千愛莉ちゃんを手伝った。この前久しぶりに出したゲーム機は、今度は分かりやすい場所にしまってあった。千愛莉ちゃんがそれを取り出し、僕がテレビと接続する。そして唯奈としていたゲームをセットして、コントローラーを麗に持たせた。
「何で今更……しかもこんな古いゲームを……」
されるがままの麗は、またそんなことをぼやいた。
「なんかね、唯奈がしたがってさ」
「……あいつは精神年齢が低いのよ」
心底呆れたようにそう言って、麗は画面に集中しだした。ちゃんと付き合ってくれるあたり、麗も優しい。
「懐かしかったんじゃない? またみんなとしたいのかも」
「……」
きっと聞いてないフリをしたのだろう。麗は無言のまま、ゲームをプレイし始めた。
「負けませんよー」
千愛莉ちゃんの楽しそうな声が響いてから、対戦が始まった。なかなか白熱した勝負になりながら、まずは千愛莉ちゃんが勝利した。
「勝ちましたー」
「……」
麗はちょっと悔しそうだ。昔、このゲームを一番得意としていたのは麗だった。少しプライドに傷がついたのかもしれない。
そして、次のゲームになると、麗がはりきりだしたのがわかった。アイテムを取り逃さないし、アイテムで誘導して上手く爆弾を置くし、かなり手馴れた動きになってきた。そこからは麗の独壇場で、そのまま五連勝してしまった。
「負けましたー……」
千愛莉ちゃんはそう言って机に突っ伏した。やっぱり、千愛莉ちゃんは特別上手だったわけではなかったらしい。
「唯奈は、めちゃくちゃ下手糞なのよ。私、唯奈に負けたことないもの」
「えー!?」
麗が唯奈をばっさりと切り捨てると、千愛莉ちゃんは驚きの声を上げた。今まで倒してきた相手はとんでもない雑魚だった。井の中の蛙。そんなことを言われたようなショッキングな状況に、千愛莉ちゃんは陥っていた。
「あの子、不器用なのよ。こういう指先で遊ぶようなものは無理なの」
「そんなぁ……、私は虫を殺して百獣の王を気取ってたんですね……」
「凄い例えだね」
こっそり虫扱いされる唯奈、哀れである。千愛莉ちゃんに悪意は無いだろうけれど。
「紅輝さんはどうだったんですか?」
「紅輝も微妙。まあ、唯奈よりは上手いわよ。私、ハジメ、芳香さん、紅輝、とんで唯奈ってところかしら」
「まあ、確かに唯奈は特別ド下手だったね」
僕がそう言って笑うと、麗も少し笑った。
「唯奈がすねて、何ゲームに本気になっちゃってるの? って言うまでがゲームだったものね」
「そうそう。紅ちゃんにリアルファイトを挑んで、返り討ちの締め技をされて床を必死に叩いてゲームセットってパターンもあったよね」
「ふふ、あったわね。芳香さんが締められてる唯奈のパンチラ写真を撮って、それをハジメの携帯に送ったりね。あれ、今でも保存してあるんでしょ?」
「してないよ!」
「どうだか」
麗は楽しそうに笑った。僕は、麗とこんな話をするのが久しぶりだったので、何だか嬉しくなってしまった。
そんな僕らのやり取りを、千愛莉ちゃんは楽しそうに見ていた。僕は、少し千愛莉ちゃんのことをないがしろにしていたことに気づいた。
「そ、そんな感じだったんだ」
僕はあまりにも子供っぽいやり取りをしてしまったことに恥ずかしくなりながらも、千愛莉ちゃんに反応を求めた。
「はははっ、紅輝さんのそういうところ、今じゃ想像つかないな。唯奈さんは、何となく想像がつくけどねー」
「あの子は変わってないのよ。子供のまんま……」
麗は馬鹿にするように言ってから、何かに気づいたみたいに表情を消していった。そして、机の上にあったチーズケーキを無言で食べ始めた。
「紅輝さんは変わったんですか?」
千愛莉ちゃんの言葉に、麗はもぐもぐしながら視線だけで返した。答える気は無いようだ。
「紅ちゃんだって変わってないよ。昔みたいにボケッとしてて、寂しがりで、打たれ弱いまま」
代わりに、と僕がそう返した。麗は今度は僕をジッと見つめていた。
「はぁ……、やっぱり紅輝さん、私にまだ心を開いてくれてないのかなぁ?」
「見せたくないだけだよ。ずっと一緒に居たら、絶対に今でもぼろが出るよ」
そういうところは、その人の弱点なわけだから、普通は見せたくないものだ。ただ一緒に居る時間が増えると、絶対に見えてしまう。僕達はそういう距離に居たのだ。
麗はチーズケーキを食べ終えると、もう冷めていた紅茶を一気に口に入れた。
「そろそろ帰ろうかしら」
「え? あ、麗さん!」
千愛莉ちゃんは慌てて、携帯電話を取り出した。
「アドレスを教えてください!」
「え? ど、どうして?」
麗は明らかに動揺しながら言った。千愛莉ちゃんはアクティブな人だ。
「もうお友達ですよね!」
千愛莉ちゃんがニコニコと眩しい笑顔を見せると、麗は本当に眩しいように目を細めた。そして、ほぼ無抵抗にアドレスを交換していた。
「帰ったらメールしますね!」
「勝手にして」
そう言いながらも、麗もまんざらでは無さそうだった。これは千愛莉ちゃんが三人を仲直りさせるという目的の中での行動ではあるけれど、僕としては、単に麗にこういう表情をさせる友達が出来たことが嬉しかった。麗は友人関係を損得で見るところがあるから。
「……麗さん」
ふいに、千愛莉ちゃんは気を引き締めたような顔になった。麗も驚いて、少し身構えていた。
「何?」
「麗さん、紅輝さんと仲直りしませんか?」
思わぬ直球の質問に、僕はギョッとしてしまう。何がそうさせたのか、千愛莉ちゃんは急に本題に入ったのだ。
「……何よ急に」
「あの、麗さんも寂しいんじゃないかなって。さっき紅輝さんや唯奈さんの話をしているとき、楽しそうだったから」
千愛莉ちゃんの言葉に、麗は俯いてしまった。千愛莉ちゃんは、さっきの麗の反応を見て、思い切った行動に出たようだった。
「僕もそう思うな。麗は、あの二人のことを話しているとき、優しくなる」
千愛莉ちゃんの行動に乗っかって、僕もここで麗に追及しようと思った。嫌い合っているわけではないというのはわかっている。だったら、もう元通りに僕の家に来ればいいじゃないか。何故、それが出来ないのか。
「あんた達の勘違いよ。私も、あの子達もお互いを依存しあってなんていなかった。引きずるほどの仲じゃないのよ。そんなものでしょ?」
「でも、麗さんは優しいお姉さんみたいな顔をしてましたよ」
千愛莉ちゃんがそう言うと、麗は少し怒ったような顔を見せると、それをすぐに抑えた。
「紅輝さんも寂しそうなんです。それは多分、麗さんと唯奈さんが居ないから」
麗は僕のほうを見てくる。僕は、自分が千愛莉ちゃん側の人間だとアピールするため、少しだけ千愛莉ちゃんよりの位置へ移動する。すると、麗はわざとらしいため息をついた。
「……紅輝が寂しそう、ねぇ……。あの子は昔からそんな感じよ。今だからって話じゃない。だから何も問題ないわ」
麗は右手で豪快に髪をすきながら言った。
「でも――」
「それでもあいつは、一人になりたいのよ。私たちは別に子供っぽい喧嘩の中で、無視し合っているわけじゃない。ただ、あいつが望んでるから、放っておいているだけ」
麗の言葉は、僕にとって意外なものだった。麗は紅ちゃんの意思を尊重して、関わるのををやめていると言っているのだ。さっきまでと一転して、麗は真面目な表情をしていた。
「そんな! 紅輝さんはきっと――」
「佐久間さん。あんたは本当に紅輝のことをちゃんとわかってるの?」
麗は千愛莉ちゃんの言葉を遮り、真っ直ぐに目を見て言った。その表情には、少し悲しそうな色が含まれているように見えた。
「え?」
「本当に紅輝のことをちゃんと知っているのか、ってことよ。どんな性格で、どんなことを考えていてるのか。きっと、とか、多分、とかじゃなく、紅輝が本当にどうしたいのか、あんたにはわかるの?」
麗の言葉に、千愛莉ちゃんは怯んでいた。僕はたまらず口を挟んだ。
「紅ちゃんは絶対に思っているよ。昔みたいに戻りたいって」
僕が言うと麗は納得する。僕はそう思っていた。
「ハジメもわかってないわ。紅輝のこと、何にも」
麗は、僕の言葉をばっさりと切り捨ててしまった。僕は少しムッとしてしまう。
「麗にはわかってるっていうのか? 紅ちゃんのこと」
「わかるわよ。確かに、昔みたいに戻りたいって思ってる」
「だったら――」
「でも戻れない。昔みたいに戻るためには、絶対に戻ってこないものがある。違う?」
僕は出掛かった言葉を失ってしまう。戻ってこないものは、僕にとってかけがえの無い存在そのものだった。
「……お姉さん」
千愛莉ちゃんの口から、僕の代わりにその存在を示す言葉が出てきた。戻ってこないのは、僕の姉さんだ。
「……紅輝の寂しさなんて、埋めようも無いでしょう? そうとわかったら、傷口に塩を塗ろうとするのはやめてあげたら?」
僕と千愛莉ちゃんは黙ってしまう。昔のように戻ろうとするのが、紅ちゃんにとって辛いものだとしたら、確かに僕は紅ちゃんを傷つけようとしていることになる。
「ただでさえ、傷が多い子なのに」
麗はそうボソッと呟くと、ゆっくりと立ち上がった。麗の言葉には、紅ちゃんに対しての愛情のようなものが感じられた。それらは確かに、紅ちゃんを守ろうとして生まれた言葉だった。
「帰るわ」
そう言って、麗は部屋を出ていった。千愛莉ちゃんは悲しそうな顔で俯いている。僕は麗を追いかけて、部屋を出た。
玄関のほうまで行って、また麗に声をかけようとする。今何か言わないと、ひょっとしたら麗はもう来ないかもしれない。僕は言葉を搾り出した。
「じゃあ、何で麗は、みんなはうちに来るの?」
僕が言うと、麗はこちらへ振り向いた。哀れんでいるような感情が少しだけ見え隠れする無表情。麗の香りが僕の体へ入ってくる。
「戻れないなら、何で……」
「ハジメは来て欲しくないの?」
今度は悲しそうな顔を見せる。僕の答えは決まっている。僕は首を横に振った。
「……だからよ」
麗は口元だけを緩ませた。そして、外へと出ていってしまった。
部屋に戻ると、千愛莉ちゃんは机に突っ伏していた。僕が戻ってきても、こちらを振り向くことも無かった。
「ごめんね、千愛莉ちゃん。嫌な思いをさせちゃって」
「……え? ううん。そんなことないよ」
僕が話しかけると、千愛莉ちゃんは抜けてた魂が戻るのに時間が必要だったような間をもってから、笑顔で返事をしてくれた。僕はベッドへと腰を下ろす。
「こっちこそごめんね、麗さん、怒らせちゃったみたいで」
「いや、あれは怒ってたわけじゃないよ。そうじゃなくて――」
「心配してたんだよね」
そのとおりだった。麗は紅ちゃんのことを心配して、僕らに注意をしたのだ。だから僕らもぐうの音も出ず、ただうな垂れたのだ。
「麗の言うとおりだったら、もう昔みたいには戻れないのかな。僕には、何も出来ないのかな」
「……ううん。そんなことは無いと思うよ」
千愛莉ちゃんは優しい顔をしていた。それは、人を安心させようとする笑顔だ。僕は色々な人にそういう顔をさせていた。きっと、僕が弱いからだろう。
「私ね、麗さんの言うことは確かなんだと思うよ。でもそれだけじゃないと思うの」
「どうして?」
僕は言葉を頭で咀嚼せずに、反射的に質問をした。
「だって、麗さんはあんなに紅輝さんのことを考えてた。そんな人が紅輝さんのそばに戻ってくれたら、それは絶対に紅輝さんにとって良いことだと思うもん。私よりも、ずっと」
千愛莉ちゃんは少し自虐っぽい言葉を付け加えた。僕はすぐに否定したかったけれど、言葉が出てこなかった。
「だからね、紅輝さんの寂しいを全部無くすことは出来ないかもだけど、やっぱり三人は仲直りしたほうが良いって思うな」
それが、千愛莉ちゃんの結論だった。僕は言葉を詰まらせたまま、必死に頷いた。
「こうなると、まずは紅輝さんに二人と仲直りしたいって思ってもらわないと、だよね。紅輝さんが仲直りしたいって言ったら、麗さんは受け入れてくれそうだし」
そして、いつもの前向きな千愛莉ちゃんに戻って、そう言ってくれた。僕は胸が一杯になる。
「ありがとう」
「へ?」
千愛莉ちゃんは少し間の抜けた顔になる。僕は自然と笑ってしまう。
「千愛莉ちゃんが、紅ちゃんの友達で、本当に良かったよ。千愛莉ちゃんは、麗と同じくらい紅ちゃんのことを考えてくれてるよ。絶対に」
僕がそう言うと、千愛莉ちゃんは照れたように、えへへとは笑った。
千愛莉ちゃんを家に送っていく最中、僕は姉さんの話をしていた。千愛莉ちゃんが、聞きたいと言ったからだ。
「最初は紅ちゃん、次に唯奈、最後に麗。順番に連れてきて、僕に紹介していった。姉さんなりに、僕のことを心配してくれてたんだろうね。僕って引っ込み思案で、友達を家に連れてくることなんて無かったから」
「へぇー」
三人なら僕と仲良くなれる、そして三人もお互いに仲良くなれると踏んだのだろう。その姉さんの考えは、しっかりと正解していた。下の弟と妹の居る唯奈は僕の扱いが上手く、麗は頭が良くて僕の質問に何でも答えてくれたし、紅ちゃんはただ無闇に僕のことを可愛がってくれた。
三人は出会ってすぐにお互いを罵りあう仲になった。多分唯奈が起点で、紅ちゃんの天然と麗の口の悪さが上手くかみ合ったのだろう。姉さんは三人を煽り、その小さな争いを娯楽にしていた。それが姉さんの高校一年生の頃。
それよりも少し前、中学三年生の姉さんは荒れていた。タバコは吸うわ、喧嘩はするわ、親と対立するわ、教師と対立するわ、誰が見ても不良だった。そんな時でも、姉さんは僕にだけは優しかった。よくお土産をくれた――どこから持ってきたのかはわからなかったけど――し、一緒にテレビゲームをしてくれたし、宿題を見てくれたりもした。僕はそんな姉さんが大好きで、姉さんと一緒に居るときは嬉しかった。
それでも、姉さんは僕以外の前では別の顔を出し、時折、僕はその顔を見ることになる。母さんと言い合いになっているのを見ていると、とても不思議な気持ちになっていた。優しい姉さんはそこにはおらず、天邪鬼な別の姉さんが存在して、みんなを困らせている。本当の姉さんは、僕の前だけにしか現れない存在だった。
その年の夏に、一大決心をした。僕が姉さんを、本当の姉さんにする。小学五年生だった僕にしては、大した決断だったと思う。そして、僕は姉さんを付けまわしたのだ。
学校が終わると、僕はすぐに姉さんの通う中学校で待ち伏せをした。学区内だから中学校と小学校は隣合わせだったので、それ自体は容易いことだった。姉さんが出てくると、僕はすぐに駆け寄っていった。そして、常に姉さんと行動を共にしようとしたのだ。姉さんは僕を危ない目に合わせるわけにはいかないと、一直線に家に戻るようになった。その後、姉さんがまた出かけようとしたならば、僕はまたそれについていこうとした。
困り果てた姉さんは、何とか隙を作って出て行くということを覚えた。そうなってくると、僕もまた考えた。最終的には、それで姉さんの反抗期は終了することとなった。
僕は、泣いたのだ。
姉さんが悪いことをするのなら、僕はもう姉さんと遊ばない、話さない。そう言ってわんわん泣いていると、姉さんは家に居ることが増えていって、落ち着いていった。そして、明るくて人望のある、新しい姉さんになったのだった。
千愛莉ちゃんは楽しそうに聞いてくれた。
「会ってみたかったなぁ」
そう言ってくれるのは嬉しいけれど、会うタイミングによっては後悔することになるだろうな、と思った。あの頃の姉さんは今の紅ちゃんたちよりもよっぽど関わりたくない不良だった。願わくば、三人と同じタイミングで千愛莉ちゃんとも出会っていれば良かったのに。
家の前まで着くと、千愛莉ちゃんは「送ってくれてありがとう!」と元気に言ってくれた。
「最終手段!」
千愛莉ちゃんは、別れ際に人差し指を立てながらそう言った。
「何のこと?」
「ハジメちゃんが思いっきり泣いたら、みんな仲直りするかも!」
さっきの話から、そう思ったのだろう。僕は頭を掻いた。
「姉さんと同じ手が効くのかな?」
「きっとそうだよ! みんな、お姉さんが好きだったなら!」
千愛莉ちゃんは僕と一メートルも離れないような距離へと近づいて言った。僕は身を少し後にそってしまう。千愛莉ちゃんはにっこりと笑う。
「出来れば、その手段は使いたくないな」
高校生にもなって、そんな子供っぽく泣くわけにもいかない。それに、本当に効果があるのかどうかも分からない。何よりも、それは自分が弱い人間だからこその手段だから、使ってはならない。
「また、頑張ろうね!」
本当に、千愛莉ちゃんって太陽みたいな女の子だと思う。僕には眩しすぎて、たびたび目を逸らしたくなる。暖かさも感じるし、熱いところもある。見習わなければならないかもしれない。
千愛莉ちゃんと別れると、僕は一人で家へと帰っていく。その道中、僕はさっき千愛莉ちゃんに話した、姉さんとの昔話を、巻き戻したり再生したり、早送りしたりしていた。そういえば、後一年で僕は姉さんに追いついてしまう。そして、紅ちゃんたちは、もう姉さんと同じ歳になろうとしているんだ、と今気づいた。
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