第5章
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熱はすっかりひいているし、体が少しだるいだけで体調は悪くなかったので、今日はちゃんと学校へ行くことが出来そうだった。
紅ちゃんは来ているだろうか。この前は明らかに登校していない時間帯に目撃してしまったけれど、それがたまたまなのかどうか。紅ちゃんは一人暮らしで監視してくれる人が居ない。それは、自由に見えてとても空しいものに感じる。
「来てないみたいね」
昼休みに四階へ行くと、麗とばったり会ったので、紅ちゃんのことを確かめてもらった。しかし、今日も欠席のようだった。
「昨日も来てなかった。ずっと来ないつもりかしら」
麗はため息をついた。麗が紅ちゃんのことを心配してくれているのを見ると、僕は少し安心することが出来た。
「まあ、ショックを受けてるのなら、やっぱりあの子もハジメに執着しているってことだから、大丈夫よ。ハジメから話しかけたら、喜んで元通りに戻ってくれるわ」
「そうだといいけど。それよりも、大事なのは喧嘩をやめて、三人揃って家に来てくれることだけどね」
「それは……私がちゃんと責任を取るから」
麗はそう言って口元を緩めた。きっと大丈夫。そう思える優しい表情だった。
学校が終わり、僕は紅ちゃんの家に向かおうと思っていた。電話をしようかとも思ったけれど、直接会いたかったのだ。会って、もう姉さんの復讐なんてやめて、普通の女の子として過ごしてほしいと言いたかった。そして、また僕の家に集まって、楽しく過ごそう、と。
学校を出て、少し歩いたときだった。後ろに数人の男が歩いていた。なんだか気持ち悪くて、僕は何度か角を余計に曲がったりした。しかし、彼らは同じように後ろを歩いている。つまり、彼らは僕に用があるということだ。僕は心臓が激しく波打つのを感じると、どうやって逃げるかを考えた。しかし、もう手遅れだった。後ろを歩いていた男達は、僕が何度か角を曲がったときに二手に分かれていたようで、挟み撃ちというように囲まれてしまった。
男達は学生服だった。ただ着崩していて、それぞれが違う服を着ているように見える。制服は学ランタイプであり、同じ高校の人では無さそうだった。
「君、三木本くんだよね?」
僕の名前が呼ばれると、僕は恐怖で声が出なかった。僕の名前を呼んだ男は見覚えのある顔をしている。そうだ、この前紅ちゃんに殴られていた男だ。僕は平常心を装い、普通に返事をしようと心がけた。
「こ、こんにちは」
声は震えてしまっていた。それを見て、男達はニヤニヤと笑う。男は全部で四人居るようだった。
「こいつあれだよな、お姫様」
「うわぁ、これ女だったら良いのにな」
「お前ホモかよ! ハハハッ!」
馬鹿にされている。しかし、不快感を持つ余裕が無いくらいに、僕は怯えていた。僕に何かをして紅ちゃんをおびき出す。そんなことを話す人間が実際に居たという話だ。こいつらも、同じ事を考えているかもしれない。僕が捕まると、紅ちゃんが危なくなってしまう。
「そんな怖がらないでよ。僕らは竹原さんと仲直りしたいと思ってるだけで、別に怖くないんだからさ」
そう言って、最初に寄ってきた男は僕の肩に手を回した。男は鼻が折れたのだろう、鼻の部分を包帯やガーゼで固定してあり、それが余計に僕の恐怖心を助長した。
僕はそのまま近くの公園へと連れて行かれた。何とか逃げ出さないと。機会を窺うが、囲まれているということを考えるとどうにも思い切ることが出来ない。絶対に逃げ切れる状況でないと、逃げることが許されないのだ。
「ほら、ジュース買ってやるよ。何がいい?」
「え、あ、あの、お、お茶で」
また声が震える。そして、そうすると他の男達が楽しそうに笑い出す。
「やめてやれよ、怖がってんじゃねーか」
「俺、普通の女の子をいじめる趣味無いぜ」
いやらしい笑い声に、僕は耳を塞ぎたくなった。
「いじめる気はねえよ。興味ねえの? こいつがどんなやつか。何で竹原がこいつの前では大人しくなるのかとか」
「そりゃー、こういうんだべ」
男は人差し指と中指の間に親指を挟んだ。すると、他のやつらはまた下品に笑い出した。
「なんだよー、やることやってんのかよ」
「だから、男と女が逆なんじゃね? 竹原の性欲処理の玩具」
「くっ……はははっ!」
「いやいや、案外されるがままなのかもよ。こいつの前では大人しいらしいし」
「好きなやつの前だけは大人しいって、まるでお前じゃねえか!」
「はあ? んなことねえよ」
本当に下品な話だった。世の中には全然別の世界が隣り合わせに存在している。今目の前に居る男達がしている話は、僕らがする話とは全く別のもののように聞こえた。
僕はお茶をもらうと、ありがとうございます、と小さく言って俯いた。
「……」
「え? うわっ!?」
鼻が折れている男が、無言で僕の体を触り始めた。僕は小さく悲鳴を上げた。
「うわ、本気で男でも良いってやつ?」
「何だよ。俺は、そっちは無理だぜ」
そう言いながら、他の男は僕のことを押さえつけた。今すぐ逃げ出したい。僕はそのままされるがままで耐えていた。
不意に手を離された。何事かと思ったら、鼻が折れている男がニコニコと笑っていた。
「おら、もういいぞ」
「え?」
僕は驚いて固まっていると、他の男もニヤニヤと笑っていた。
「ほら、もう気が済んだんだってよ」
「関谷の気が変わらないうちに、逃げたほうがいいんじゃないか?」
僕は鞄を持って、急いでその場を立ち去った。疑問はあったが、逃げたい欲求が上回ったのだ。いったい、彼らは何をしたかったのだろうか。僕は紅ちゃんのマンションへは向かわずに、自分の家のほうへ走り出した。こんな状態で紅ちゃんのところへ向かうわけには行かない。下手をすると、あいつらに紅ちゃんの家がばれてしまう。僕はまだ恐怖に怯えていた。自分がどうにかなることも、紅ちゃんがあいつらに何かされることも、ただただ怖かった。
僕は部屋着に着替えて、ベッドへと倒れこんでいた。まだ、心臓がばくばくと音をたてている。紅ちゃんに何かあったらどうしよう。紅ちゃんは確かに強く、あんなやつらに簡単に負けることは無い。それでも、紅ちゃんはただ格闘に慣れているだけで、ただの女の子だ。もし、麗の管理が無い状態で手段を選ばないのならば、男たちが数人がかりで押さえつけることが出来るかもしれない。そうなると紅ちゃんが不利だ。僕は不安で落ち着くことが出来なかった。
外は薄暗くなっていた。その頃にはやっと少し落ち着いてきて、僕は寝転がりながらただ天井を見ていた。
不意に、家の電話が鳴った。無視しようかとも思ったけれど、一度切れた後もすぐにまた鳴り始めたので、重要な電話かもしれないと思いなおし、僕は一階にある電話の子機をとった。
「はい、三木本です」
「ハジメ? お前、携帯はどうした?」
電話の相手は唯奈だった。唯奈が家の電話に掛けてくることなんてほとんど無い。そしてすぐに用件を切り出した。
「携帯? えっと……」
僕は子機を持ったまま二階へ移動し、ブレザーのポケットを探った。しかし、入っていると思っていたそこには、何も入っていなかった。鞄の中をひっくり返してみても、それは見つからなかった。
「あれ? 無いな。確かに学校には持っていってたと思うんだけど」
「電話しても繋がらないし、繋がったと思ったら、変な声がしてすぐに切られたし。どうしたのかと思ってさ」
変な声がしてすぐに切られた。僕は嫌な感じがして、固まってしまった。
「ハジメ?」
あいつらだ。僕はその意味を考えて、考えた後はどうしようもなく怖くなった。呼吸が荒くなってくる。
「……まずいかも」
「何だよ? どうかしたの?」
「紅ちゃんが危ないかもしれない。何かされるかも。唯奈! 紅ちゃんに連絡して、僕は電話だけ盗られたって言って! お願いだから!」
そう言って返事を待たずに切ると、僕はすぐに外へと走り出した。どこへ向かえばいいのだろうか。とりあえず、僕は紅ちゃんのマンションへと走り出した。
「お、おめー、どうしたの?」
角を曲がったところで、出会いがしらにぶつかりかけたのは、末松くんだった。少ししか走っていないのに、呼吸が乱れて上手く話せない。話している場合でもない。
すぐに駆け出そうとしたら、末松くんが僕を引き止めた。
「ちょ、ちょっと待てって。あのさ、ひょっとしてお前、携帯探してね?」
僕は驚いて、末松くんに詰め寄るみたいに襟のところを持った。
「な、何で知ってるの?」
「い、いや、おめー。さっき竹原さんが凄い顔して男達についていってたからさ、びっくりして、おめーに連絡してやろうと思って電話したら、その男の持ってた携帯がなりやがんの」
嫌な予感は的中していた。彼らは僕の携帯を盗った後、僕の名を使って紅ちゃんを呼び出したのだ。そして、今唯奈が電話してくれていてももう遅いということだ。
「そいつらはどこに行った!?」
「やっぱ、あれおめーの電話だよな。ちょうど鳴るか――」
「いいから早く教えろ!!」
僕は末松くんの襟を持ったまま、体を前に押し出した。
「わ、わかったから! 落ち着けって!」
末松くんは走ってその場所まで連れていってくれた。そう遠くない場所。そこは、住宅地の中にある、一軒の家だった。
「……ここは、誰かの家なの?」
「ちげーよ。ほら」
末松くんが指した先には、入居者募集という看板がかかっていた。どうやら、紅ちゃんは空き家に連れ込まれたようだ。僕は一度深呼吸をする。家の中、という場所は、紅ちゃんにとって不利な場所だ。動き回ることが出来ないし、逃げ場が無い。この場所で彼らが紅ちゃんに何をしようかということが、容易に想像できると、今度は僕の中に大きな怒りが立ち上ってきた。
「末松くん、悪いけどお願いがあるんだ」
「な、何だよ? 一緒に入るとか、無理だぜ?」
末松くんは怯えた顔でそんなことを言った。もちろん、僕はそんなことを末松くんに頼むつもりは無かった。
「もし、松坂麗を見かけたら、僕と紅ちゃんがこの家に居るって言ってもらって良いかな? さっきの場所辺りに居たら、通るかもしれないから」
頼れるのは唯奈と麗だ。でも唯奈に言うと、猪突猛進にそのまま中へ入ってきてしまうかもしれないから、利口で強い味方のいる麗のほうが望ましいと思った。
「おめー、マジで中に入るの?」
「入るよ。入らないと……入らないと紅ちゃんのことを守れないから」
僕が言うと、末松くんは大きく息を飲んだ。そして、頷いてくれた。
「わ、わかったよ。でも会えなかったらどうすんだよ?」
「警察とか……ああ、あと麗のところのヤクザに会ったら、僕の名前と麗の名前を出してくれるかな。そうしたら、話を聞いてもらえるかも知れないから」
警察よりも極道の人に頼るというのはおかしいことかもしれない。しかし、紅ちゃんを守るために、麗の周りの人を頼るのは最善だった。
「よけいに難しいだろ!? わ、わかったよ! とにかく、おめーは無茶すんなよ! 竹原さんはあんなに強いんだから!」
末松くんはそう言って、来た道を戻っていった。心配してくれている。何だかんだで優しいんだ。そう思ったら、末松くんをとても近くに感じた。
僕はその家の扉に手をかけた。鍵はかかっていない。僕は静かに中へ進入すると、忍び足で奥へと進んでいった。
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