3-3
いい加減、雨というものに対して諦めが出てくる。バケツをひっくり返すみたいに一気に流れきったらいいのに、何故小さな粒になって長時間降り続けるのだろうか。どこかに大きな穴でも開けたら一気に降り終えて、太陽が見えてきたりはしないものだろうか。
僕はビニール傘を開く。傘は盗られやすいので、盗られてもそんなに傷つかない、ということでビニール傘を使うことが多かった。半透明のそれには、付着した雨が流れていくのが見える。僕は憂鬱になりながら、学校までの道のりを歩いた。
「あ、えっと三木本くん、おはよう」
「え、あ、うん」
昇降口でクラスメイトに出会うと、僕はろくに返事も出来なかった。こういうところは相変わらず。僕は体も心も成長が遅い。ほとほと嫌になる。
雨で憂鬱になっているのも災いしていたと思う。ちゃんとした返事が出来なかったという些細なことでショックを受けているということもショックだ。本当に悪循環。
僕はクラスに溶け込むのが遅いほうだった。同じ中学出身の人が同じクラスに居ないこともあるが、僕の性質的なところが大きいと思う。無難に対応することは出来るが、その無難さゆえなのか、距離を詰めるという方法をよく知らないのだ。
しかし、これでもマシになっていた。それこそ小学生の頃は、女みたいだとからかわれては心を閉ざしてしまっていた。今ならとりあえずは受け答えが出来る。これは姉さんがあの三人を連れてきてくれたおかげだと思う。
「よーう、三木本」
「……」
ああ、こういう人も居たっけ。クラス内で僕に唯一話しかけてくるのが末なんとかくんだということが、余計に僕を惨めにさせた。僕は目を細めながら、末なんとかくんをまじまじと見つめた。
「どうした?」
「何か末……くんに話しかけられると悲しい気持ちになる」
「どういうことだよ!?」
何が悲しいって、ちょっとホッとしていることだった。人と関わるのが苦手なくせに、人が居ないと不安になるのだ。
「で、末……くんは僕に何の用?」
僕は決して名前を忘れているわけではない。しっかり、彼が末松くんだいうことは理解できている。しかし、自信が無いために、少しだけ誤魔化しているだけだ。末松くんは、僕のそれには特に疑問を持ってはいないようだ。
「何か、竹原さんがピリピリしててよお、こえーべ」
コエーベってどこの国の言葉だろうと思ったが、そんなことより紅ちゃんの様子が気になった。この前家に来たときは、全くそんな印象を持たなかったのだ。
「ピリピリ? また何かしたの?」
「またって何だよ!? いや、俺関係ねーべ。何か怒ってるように見えたんだよ。おめーは何かしらねーの?」
怒っているように見える。紅ちゃんのことだから、寝不足とかそんなオチだろうか。あるいは末松くんが見えたからイライラしたとか。あまり末松くんのことを信用していないので、僕としては判断しかねた。
「知らないけど」
「あれは何かあんべ? こえーよこえーよ」
まあ何にしても後で様子を見に行ってみよう。紅ちゃんも僕と同じで、雨が嫌なだけかもしれないけれど。
四つの授業が終わり、昼休みになった。僕は二年生の教室がある四階へと移動する。紅ちゃんのクラスはD組だったはずだ。三人は見事にバラバラで、唯奈がE組、麗がA組に在籍していた。
階段を上がったところから遠目に各教室を視認する。こっち側の端がFだから、こちらから見て三つ目がD組だ。あまりおいそれと近づくことの出来る場所では無いので、僕は運良く出てこないかと様子を窺っていた。
「ハジメ?」
出てきたのは、運悪く唯奈だった。僕のことを見つけると一瞬驚いたような表情を見せた。四階に居るということが変だと思ったのだろう。
「唯奈か」
「何だよそれ。……そだ、一緒にメシ食おうよ」
この前のことで気まずく感じていた僕に対して、唯奈はいつも通りだった。むしろ、普段は学校ではあまり関わらないのに、今日は昼食にまで誘ってくる。僕はホッとする。
「紅ちゃんに用があるんだ」
僕がそう言うと、唯奈からは少し動揺の色が見えた。しかし、それはすぐに隠された。
「じゃあ、あたしとメシ食おう」
「じゃあって何だよ」
「ハジメはあたしのほうが良いでしょ? さ、さ」
唯奈は僕の体を反対方向に向かせて、背中を押してきた。今日は妙に強引な感じがする。
「紅ちゃんに用があるって言っているのに……」
「いいじゃん、あたしとメシ食べようよ! それからでもいいでしょ!」
僕は唯奈が押してくることに大した抵抗が出来なかった。それは、この前のことがあり、唯奈がこうやって接してくることに安心しているからだ。唯奈の言うとおり、紅ちゃんには後で話しかければ良いのかもしれない。徐々に抵抗を弱めると、大人しく唯奈と一緒に昼食へ向かった。
結局、昼休み中ずっと唯奈の相手をしていて、紅ちゃんのところへ行くことが出来なかった。あと一つ休み時間があるけれど、みんな教室の中に居るような状況の中で上級生の教室へ行く勇気が僕には無い。それならまだ、放課後すぐに行くほうが良い。放課後になれば、紅ちゃんが出てくるのを待つことにしよう。僕は昔姉さんにしていたことを思い出して、少し切なくなった。
授業が全て終わり、ホームルームまで終了すると、僕はすぐに教室を飛び出して昇降口のほうへ向かった。しかし、うっかり傘を忘れていたので、一度教室まで戻るはめになった。とんぼ返りでまた昇降口へ行くと、もうそこには結構な人数が居た。ひょっとすれば、もう紅ちゃんは帰ってしまったかもしれない。それでも、僕はそこで紅ちゃんを待つことにした。
「ハジメ?」
今度は麗だった。誰かに会えるけれど、思っている人物に会うことが出来ない。それは宿命なのだろうか。
「なんだ麗か」
「そんながっかりされたら、こっちとしたら腹立つんだけど。誰待ちなのよ?」
「紅ちゃん」
麗の表情は、日焼けした本みたい薄くなっていった。がっかり、というのとは違うようだけど、興味が無いというものでもない。
「それで私を見ると残念そうだったわけね」
「そんなこと無いよ。嫉妬?」
「違うわよ」
麗をイライラさせるのは楽しい。これは昔唯奈も言っていた。
「紅ちゃん知らない? もう帰ったかな?」
「知らない。下駄箱を見ればいいじゃない」
「どれかわからないし」
どんな靴を履いているのかはわかっているけれど、これだけ下駄箱があればそれを見つけることは困難なことだった。麗は二年生の下駄箱のほうへと歩いていく。
「何? あの子に用があるの?」
「今日は少し機嫌が悪かったって聞いてさ。何かあったのかなって。知らない?」
「知らない。てか、少し機嫌が悪かったってくらいで探すなんてどうかしてるわよ」
僕は麗の背中を追いかけていく。麗が紅ちゃんの下駄箱を確認してくれようとしていたのがわかったからだ。
「……帰ってるわね」
麗が指し示した下駄箱は、確かに上履きしか入っていなかった。その下駄箱には名前が書いていない。周りを見渡すと、半分くらいは名前の書いていない下駄箱だった。紅ちゃんも面倒くさがりだから、書いていなかったのだろう。
「入れ違いになっちゃったか」
「残念。ハジメも早く帰りなさい。雨、今はあまり降っていないみたいだし」
外を見ると、確かに今はほとんど雨はやんでいた。保護者みたいに言う麗は、どこか表情が引き締まっていた。
「一緒に帰る?」
「すぐ別々になるでしょ。私、用があるし」
そう言うと、麗は少し口元を緩める。機嫌の悪そうな時は下手に出て甘えるようなことを言うと、いつも麗はそんな微妙に優しそうな笑顔で返してくれるのだ。
「そっか」
麗はすぐ近くにある自分の下駄箱を開け、履きかえると外へと出ていった。僕も履きかえて外に出ていく。
薄暗くて、空が全部灰色で覆われているのに、傘を差さなくても外に出ることが出来るくらいにはなっていた。いつ降ってきてもおかしくないという空。地面はまだ完全に湿っていて、ところどころにある水溜りがせいで下を向いて歩かなければならない。校門のところまで行くと、僕は左右を見回した。麗はもう見える範囲には居ない。僕は一人、帰路についた。
僕は一度家に帰ってから着替えを済ませると、また外へと出ていった。まだ雨は降っていないが、同じ傘を持っていく。この空ならば、すぐにでもまた降り出すだろう。
「あ、ハジメちゃーん」
手を振ってくるのは、千愛莉ちゃんだった。今日は本当に良く見つけられる日だ。着替えを済ませてからこちらへ来たようで、千愛莉ちゃんはクリーム色のワンピースに、淡いピンクのタイツという悪天候を吹き飛ばすようなスタイルだった。
「いらっしゃい」
「出かけるの?」
「うん。紅ちゃんのところへ行こうと思って」
末松くんの言っていたこともあったが、たまたま会えなかったことが妙に不安になり、顔を見たくなったのだ。きっとこの天気のせいだと思う。
「一緒に行っていい?」
千愛莉ちゃんは満面の笑みで言った。
「え? 別にいいよ」
断る理由は無い。むしろ、千愛莉ちゃんが来てくれるのはかなりありがたい話だった。高校生にもなると、女性の一人暮らしという部屋にずかずかと入っていくことなど許されることではない。家の前で少し話せたら、と思っていたけれど、千愛莉ちゃんが居るのならもっと話が出来そうだ。
「何か用があった?」
「ううん。ハジメちゃん居るかなぁーって」
軽いな。千愛莉ちゃんが仲良くしてくれるのは嬉しいのだけれど、どう考えても同性扱いされているのは結構傷つく。千愛莉ちゃんは初めから一貫して僕を男として見てくれていなかった。
「どうしたの?」
「いや……そういえば、千愛莉ちゃんってどんな男の人が好みなの?」
その同性感を利用して、そんな質問をしてみる。少しでも照れみたいなものが出てはくれないか。
「うーん、男らしくて頼りになる人かな」
余計傷つくだけだった。わざとやっていたりするのだろうか。女ったらしと言った母さんに言ってやりたい。誰一人として僕をちゃんと男と認識していないのに、女ったらしも何もあるのかと。僕は適当に返事をして、これ以上傷を深くしないようにした。
紅ちゃんの家は結構近くにある。住宅が網目状に建ち並んでいるところから、少し大きな通りに出ていくと、紅ちゃんの住むマンションが建っている。
「千愛莉ちゃんは、紅ちゃんの部屋に行ったことがあるの?」
「二、三回くらいあるよ。紅輝さん、家に来られるの嫌がるんだよねー。でも、言ったらお茶とかお菓子とか出して歓迎してくれたよ」
紅ちゃんは、基本的に自分のテリトリーを侵されるのが苦手なのだ。でもいざ入り込まれると、部屋に居ることに不快感を持たれたくないようで、紅ちゃんは必死におもてなしをする。コーヒーが良いか紅茶が良いか、そういう質問を過度に浴びせてくるのだ。
マンションの下まで来ると、部屋の番号を押してインターホンを鳴らす。しばらく待つが、何も反応が無かった。
「居ないのかな?」
「そうかも」
どうやら、まだ帰っていないようだった。てっきり僕は、紅ちゃんは真っ直ぐ家に帰っているのだと思っていた。外に居ると絡まれるらしいし、千愛莉ちゃんと休日にしか会っていないのなら、家に帰る以外の選択肢がほとんどないからだ。
あるとすれば買い物とか。あまり趣味という趣味もない紅ちゃんは、こういうとき何をしているのだろう。そういうところを僕は知らない。
「どうしよう」
「しょうがないから帰ろうか」
「いいの?」
「うん。大した用事じゃなかったんだ。ごめんね、つき合わせて」
千愛莉ちゃんが一緒でなければ、待つということも考えたかもしれない。それに、本当に大した用事ではなく、僕が勝手に不安に思っただけだ。僕らは諦めて自分の家の方向へと歩き出した。
「そうだ、本屋さんに付き合ってもらっていいかな? 唯奈さんの誕生日に作るお菓子を考えたいんだー」
そういえば、唯奈の誕生日まで一週間を切っていた。そういう誘いなら、僕は断る理由など無い。
「いいよ。駅前でいい?」
「うん」
僕らは駅前にある小さな本屋へと行き先を変更する。常に何かと話題を持っている千愛莉ちゃんの話に耳を傾けながら、僕らは並んで歩いていった。思えば三人以外で、しかも正しく生活している人と友達になれているというのは、僕にとって凄いことだった。それもこれも千愛莉ちゃんの人柄あってのもので、僕には新鮮なものだった。
本屋でお菓子の本を物色する。十分ほどあれやこれやと眺め、千愛莉ちゃんは一冊買うことを決めたようだ。
「雨が降りそうだから、袋を二重にしとくね」
「ありがとうございまーす」
空はずっと濃い灰色のままだった。今にも降りだしそうだ。傘は持ってきているけれど、それでも降りだす前に帰りたいところだ。
「じゃあ行こっか」
「うん。あれ……?」
千愛莉ちゃんの声に、視線の先を窺うと、そこには唯奈が居た。唯奈は妙にそわそわしながら、一人で歩いていた。
「唯奈さん、何をしてるんだろう?」
「暇なんじゃない?」
唯奈は焦っているようにも見えるし、困っているようにも見えた。僕は声を掛けようと思ったが、すぐに唯奈は立ち去っていった。
「暇じゃないはずだよ。用があるって言ってたし」
「そうなの?」
「うん。今日も誘ったんだけど、そう言われちゃったから一人で来たの。家で弟と妹の面倒を見ないとって言ってたんだけど……」
ならこんなところに一人で居るのも妙な話だ。変な嘘を、つく必要がないのについている。唯奈がそんなことをするときは何か後ろめたいことがあるに違いない。
「追いかけようか」
「え? い、いいのかな?」
千愛莉ちゃんは引きつった笑みを浮かべる。普段ならこんなことはしないけれど、今日は何か妙に気になるのだ。僕は千愛莉ちゃんの返事を待たずに、唯奈の後をつけることにした。
唯奈はスマートフォンを見ながら歩いていた。唯奈は不注意が多いから、その行動を見ると叱りつけたくなる。誰かと連絡を取っているというより、何かを調べているようだ。それがインターネットなのか、それともSNSのログやメールなのかはわからない。
「彼氏だったらどうしよう?」
「ま、まさか」
何だかんだでノリノリに尾行している千愛莉ちゃんの一言に、僕はたじろいでしまう。唯奈にそんな人が居るとは思えない。唯奈のようなお馬鹿に彼氏なんか……しかし唯奈もあれで顔は良いから……と、僕は結局のところ、居てほしくないというのが本音だった。
少し雨が出てきた。まだ傘を差さなくても大丈夫な程度ではあるが、千愛莉ちゃんはもう傘を差していた。僕は差すと見つかりそうだと思ったのでまだ差さない。立ち止まるたびに千愛莉ちゃんが傘の中に入れてくれるのは、少し悪い気がした。
唯奈は大きな公園に入っていく。その公園は中心部に競技場なんかがあり、周囲に遊具などがある小さな公園や広場があるような構造になっている。見晴らしがよくなってしまうので、唯奈との距離も開いてしまう。雨が強くなり、唯奈が傘を差すと、僕も差すことにした。
「公園かー。雨の公園で恋人と待ち合わせなんて無いよね」
小さくて軽い雨が地面へと落ちていっている。僕にはそれが、長く降り続けるためにゆっくり落ちているのかと思える。
唯奈が入っていったのは、遊具などが無いけれど良く整備された場所だった。石畳の上にベンチがあり、小さな噴水などが設置されている。ベンチの上には藤棚が屋根のようになっているが、大して雨は防いではくれそうにない。晴れた日なら犬の散歩途中に休憩でも出来そうな場所ではあるが、雨にこの場所を利用する人は少ないはずだ。
近くまで来てそちらを窺うと、唯奈以外にもう一人居た。それは、麗だった。
「何で、唯奈と麗が?」
「仲直りしたのかなぁ?」
千愛莉ちゃんは明るく言った。しかし、それに反して、二人の様子は穏やかなものではなかった。
「揉めてるのかな?」
「ちょっと近づこうよ」
千愛莉ちゃんは傘を閉じた。どうやら後側から周りこむようだ。僕も傘を閉じ、それに続いた。出来る限りまで近づき、そこにあった木に身を隠すと、かろうじて二人の声が聞こえる。少し口論のようになっているから、声も大きくなっているようだ。
「ちゃんと考えてるわよ! あの子がやられることはないし、もしものことも考えてる!」
「そういう問題じゃねえだろ!」
二人は何かを言い争っていた。僕は二人が一緒に居るところを見ることすら久しぶりなのに、二人はそういう感じには見えない。ただ、仲良くしていたわけでもないというのもわかる。
「ハジメにばれたらまた追いかけてくるだろ!」
僕の名前が出てくると、大きく心臓が動く。大きく上がって、大きく落ちてそのまま戻らないような感じだった。
「そこを抑えるのはあんたの役目でしょ? 人のせいにしないで」
「だったらこうなる前から止めておけよ!」
「これでも抑えてるのよ! 勝手なこと言って! 増え続けてるんだからまとめられるわけないじゃない! あんたみたいにハジメハジメって、男のケツばっかり追いかけてるわけにはいかないんだから!」
「あんだとこら!」
唯奈が麗の胸倉を掴むと、僕は反射的に飛び出していた。二人はそのままの状態で、僕を見ている。何があったのかわからないような顔をして、ただ固まっていた。
「……ハジメ?」
「紅ちゃんはどこ?」
僕は静かに言った。唯奈は手を離すと、え、とか、あ、とか言って明らかに動揺し始める。
「何でここに居るのよ?」
麗は冷静そうに言った。怒ろうとしているのに、悲しくなっているように見えた。
「唯奈の後を付けた」
「……チッ。何ハジメを連れて来てんのよ!」
「紅ちゃんはどこだって言ってるんだよ!」
僕が怒鳴りつけると、今度は麗も弱々しい顔になった。麗は恐る恐るという感じに口を開く。
「……危ないから」
「だったらなおさらだよ。早く連れていって」
麗は唯奈と顔を合わせる。誤魔化そうとしているのか、それとも、諦めてすぐに連れていってくれるのか。後者だと信じたいけれど、念のためにと僕はもう一度二人を睨みつける。二人揃って同じような顔をして僕を見て、二人は無言のまま歩き出した。
木々の立ち並んでいる中、この辺りは割りと広いスペースが出来ている。背の高い木だから、道じゃない場所でもそれなりのスペースがあるようだ。僕は黙って二人についていく。少し離れた後ろに千愛莉ちゃんもついてきていた。
話し声が聞こえる。というよりは、叫び声とか喚き声とか歓声とかそういうものだろうか。最初に見えたのは、倒れている男の人だった。
男は唸り声を上げていた。男は顔をずっと抑えていて、鼻血を出して流血しているようだった。
「なんだなんだ? 松坂さんじゃん。まだ終わってないよ」
離れた場所から様子を眺めている男が、麗に声をかけた。
「……今日は終わりよ。もうおしまい。帰って」
「はぁ? 今、黒岩がやられたんだから、こんなところで終われるかよ。こっちはちゃんと松坂さんが決めたルール通りにのってやってんだから」
別の男はそう食い下がった。他にも二人ほど男が立っていて、それは順番待ちをしているような感じだった。
「あれ、お姫様じゃね?」
「うっわー、はじめて見た」
そのお姫様とは麗のことだろうか。しかし、さっきの男の感じだと、他の男も麗と繋がりがあるような気がするので、はじめて見たというのはおかしい。なら唯奈だろうか。
「真二郎を連れてくるわよ」
「なんだよそれ。結局バックを使って脅しっすか」
「今良いとこなのに。ほら、関谷の奴頑張ってる」
男が指し示した先には、また別の男が暴れていた。そしてここに相応しくない女性が一人、男を相手に戦っていた。それは……紅ちゃんだった。紅ちゃんは、男がつっこんでくるのを避けると、綺麗な回し蹴りを容赦なく頭にぶち込んだ。
「あちゃー」
「あいつ、絶対勝てるって言ってたのによ。よえー」
男達はけらけらと下品に笑う。男達は特に仲間でもなんでもないのか、やられていく男を見て楽しんでいた。
「早く止めねえと知らんぞ」
最初に麗に話しかけた男が、嫌な笑みを浮かべながら、僕らに向けてそう言った。向こうを見ると、紅ちゃんは倒れこんだ男の顔面を踏みつけるように蹴っていた。男の鼻からは血が流れていく。紅ちゃんの靴にも血がついている。
「紅ちゃん!!」
紅ちゃんは肩をビクッと震わせてから、こちらへ振り返ること無く固まっていた。
「その倒れてるやつも連れて、早く帰って。本当に呼ぶわよ」
「つまんねーなー」
男達も続けることが出来ないと判断したのか、あるいは麗の言うことに怯えたのか、そう言って引き下がっていった。入れ替わるように、僕は紅ちゃんへと距離を詰めていく。やっとこちらを振り向くと、紅ちゃんの顔はとても綺麗で、今まで喧嘩をしていたようには思えないものだった。紅ちゃんはただ悲しそうに僕の方を見ていた。
「……何でここに居るんだ?」
「それはこっちの台詞だよ。こんなところで何をしてるの?」
僕は紅ちゃんの顔を見るのが悲しかった。紅ちゃんは、見た目には何の傷も付いていないのに、心は傷だらけだった。あの時のまま、変わらない姿がここにあった。
「麗、唯奈、紅ちゃん。誰が説明してくれるの?」
僕は努めて冷静にそう言った。怒りよりもただただ悲しい。しかし、今は後者の感情を出すわけにはいかない。僕は誰かを、あるいは三人全員を叱りつけなければならない。今まで揃って顔を出さなかった三人が、今こうして揃っている。それなのに何故、紅ちゃんが喧嘩していて、それを二人は僕に隠すようにしていたんだ。僕は自分だけが知らなかった世界にたどり着いたような気分になる。
「……見ての通りよ。さっきのは紅輝と喧嘩をしたい馬鹿たち。それを紅輝が一掃するっていう……ショーみたいなものよ」
口を開いたのは麗だった。“ショー”という表現は適切なのだろうか。僕は一度深く息を吸い込む。
「ショー? 紅ちゃんを使って賭けでもしてたの?」
「……ゲームなのよ。紅輝を使ったゲーム。勝てば賞品が貰えるの」
「なんだよそれ……」
僕は麗に怒りをぶつける。麗は堪えるような顔をして、僕を真っ直ぐに見ていた。
「紅輝自身よ」
一瞬、麗が何を言っているのかが分からなかった。自分の言葉を思い出すと、ようやくその理解が追いつく。僕の質問を“賞品が何なのか”というものと解釈した麗の答えが、紅ちゃん自身ということだ。
「紅輝に勝てば、紅輝に何をしても良いってことになってるのよ。紅輝を恨んでるやつが決めた賞品。だから私はルールを決めて、場を仕切ってた」
紅ちゃんに何をしても良い。その賞品に対して男が求めることを想像して、僕は戦慄した。
「ふざけるなよ……」
何故止めない。何故、紅ちゃんの敵になるんだ。僕は敵意というものを麗にぶつけようとした。でも出来なかった。麗は真っ直ぐ僕を見ている。そんな目で僕を見ているのに、こんなに馬鹿げたことを言っている。これは、麗がまだ何かを隠していて、それが麗以外の誰かのためだということだ。そして、その誰かという答えが、僕の目に映っていた。
「紅ちゃん。紅ちゃんから何か言うことは無いの?」
「だから――」
「麗は黙ってて」
僕が静かにそう言うと、麗は大人しく引き下がった。紅ちゃんはずっと俯いている。紅ちゃんの視線を追うと、そこには湿った土と落ち葉しか無かった。紅ちゃんのスニーカーはびしょびしょにぬれている。さっきまで付いていた血が、しっかりと洗い流されていた。
「隠すのが上手くなってたんだね。僕が見抜けなかっただけか。この前も、喧嘩してたんだね」
この前スニーカーが濡れていたのは、きっとどこかで洗ったからだろう。蹴ったときについた血を洗い流していたのだ。
「……うん」
紅ちゃんからは弱々しい返事がくる。それはあまり思考して出している声ではなく、ただ諦めているだけのように思った。今の紅ちゃんは、誰よりも弱いのかもしれない。
「全部麗の言うとおりで、麗が連れてきたやつらに対して紅ちゃんはただ自分の身を守っているだけ。そう思っていいのかな?」
紅ちゃんは首を横に振った。
「私が……ずっと同じことをしてるから。馬鹿なやつを見ると、許せない気持ちになって殴りかかったりしてる。だから、私に復讐したいやつが多い。麗はそいつらを、私が有利になるように取り締まってくれただけ」
ずっと同じことをしている。それは、僕が追い掛け回していた頃と同じということだろう。だから今、紅ちゃんはそれがばれたことで絶望的な表情を浮かべているのだ。姉さんが居なくなって不安定になってしまった紅ちゃんは、今でも変わっていなかったのだ。。
約束だった。もう暴力はしない。それは紅ちゃんに殴られた相手のためではない。紅ちゃん自身のためにも、もう絶対にしないでほしかった。しかし、約束は破られていた。ずっと同じことをして敵を作っている。ただ隠すことだけが上手くなっていて、僕はそれを見破ることが出来なかった。
裏切られたのなら、することは一つだった。
僕は紅ちゃんへ近づいていく。ぬかるんだ地面は不快で、僕の足取りをより重くさせている。紅ちゃんに触れられる距離まで近づくと、僕は持っていた傘を紅ちゃんに持たせた。いつの間にか、雨がだいぶ強くなっていたのが、肌で感じられた。
「……はっきり言ってほしい」
僕は大きく息を吸い込んでからそう言った。濡れた土の匂いが、一気に体に染み渡る。
「もうこれ以上は絶対にしない。今日で終わりだって。そう言ってくれたら、その約束を守ってくれたら、今までどおりだよ」
僕自身、紅ちゃんを突き放すことが嫌だった。いつだって心配ばかりかけるけれど、紅ちゃんと縁を切るなんて出来るわけなかったのだ。唯奈や麗もそう。相手をしてあげてるという体であっても、実際は相手をしてもらっているのだ。
僕は一人だったから。だから結局、三人を突き放すことなんて出来ない。
だから、僕はそんな甘い提案をした。ここでやめてくれたら、また今までどおりに紅ちゃんと過ごせる。そして、紅ちゃんはこの提案を受け入れて、もうこんなことをしないって約束をしてくれる。
「……」
しかし、紅ちゃんは首を横に振った。僕は胸が苦しくなった。
「……もう、家には来ないでね」
別れの言葉をどんな表情で言えば良いのかはわからなかった。だから僕自身、どんな表情になったのかが想像もつかない。笑えていたかもしれないし、怒っていたかもしれないし、泣いてたかもしれない。僕は振り返って、公園の出口へと向かって歩いていく。唯奈も麗も千愛莉ちゃんも雨で見えない。それが雨のせいなのかもわからない。
「風邪ひいちゃうよ……」
かろうじて聞こえたのは千愛莉ちゃんの声だった。千愛莉ちゃんは自分の傘に僕を無理やり入れてくれる。僕は千愛莉ちゃんの方を見た。千愛莉ちゃんが少しびくっと震えてしまったのは、僕が睨んだように見てしまったからかもしれない。
「ごめんね」
それはこんなものを見せてしまったから出た言葉でもあり、協力してくれていたことが残念な結果になってしまったから出た言葉でもあり、これから僕が千愛莉ちゃんを置いて走っていってしまうから先に出た言葉でもある。僕は千愛莉ちゃんから逃げるように、雨の中を走った。
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