第4章
4-1
紅ちゃんと縁を切った翌日、僕は風邪をひいた。
ずぶ濡れで帰ってきた僕に、母さんは何も聞かなかった。僕はすぐにシャワーを浴びてから部屋へと戻り、倒れるように寝た。その時点で、僕の体調には異変があった。呼吸をすると鼻が妙に熱を帯びる。頭が痛くなって、体中が熱くなってくる。もう体も心も、使い物にはならなくなっていた。
「今日は無理ね」
体温計の数値を見ながら、母さんはポツリと呟いた。僕のおでこには冷却ジェルシートを貼られていた。すっかり子供である。
「薬、貰ってきといてあげるから。ゆっくり寝てなさい」
「いいよ。自分で行くから」
「無理よ。全く、そうやって無理をしようとするところがまだまだ子供なんだから。自分の体のこと、もっとちゃんと見つめられるようにならないとね」
昨日、濡れて帰ってきたことに対しての文句だろう。唯奈なんかに、僕は“背伸びをしている子供”なんて表現を使うけれど、僕もあまり変わりはなかった。やっぱり、まだまだ子供のようだ。
僕は、生まれつき体が弱く、しょっちゅう熱を出し、寝込んでしまっていた。僕は本当に弱い人間だ。体も、心も。
「ハジメちゃんにはもっと強くなってもらわないと困るんだからね。これからのためにも」
僕は母さんが言ったことが、将来へ向けての総合的なことなのか、具体的に何かを指しているのかがよくわからなかった。僕は何も言わずに、目だけで返事をした。
「じゃ、ちゃんと寝てなさいね」
そう言って母さんは部屋を出ていった。僕は言われたとおり、大人しく目を瞑った。今日は少し晴れ間も見えるくらいに天気は回復しているようで、雨の音も聞こえない。ただ、僕の頭の中は、工場の中みたいに音を出して動き続けている。
その動きにまとまりが無くなり、何も考えられなくなっていくと、ようやく僕は眠りに落ちていった。
目覚めると、部屋の中は薄暗かった。まだ昼間だというのに外に明るさが無く、雨こそ降ってはいないが、天気は良くないようだ。体が重く、ずっとベッドの上に寝転んでいたい。天井を見上げていると、ふと姉さんのことを思い出した。こうやって病気で寝ていると、姉さんは心配そうな顔で僕を見下ろす。僕の頭を撫でると、やっと少し安心してくれる。小さい頃からそうで、それは姉さんが荒れているときでも同じだった。だから僕は、姉さんが親と喧嘩をしたときなんかは、わざと風邪をひこうとしたこともあった。
僕の目からは涙が零れていた。姉さんが居ないことで、ここまで不安になったのは初めてだった。撫でられた感触を今でも思い出すことが出来る。いつも雑な人なのに、僕の頭を撫でる手は繊細で柔らかかった。姉さんはどんなときでも、僕にだけは優しい。それは、僕が弱いからだ。姉さんはきっと、守らなければ僕が死んでしまうと思ったのだろう。
僕は三人と姉さんを重ねていた。姉さんが連れてきたということもあるけれど、不良みたいなことをしているのに、僕には優しいところが似ていたのだ。しっかり者の麗と、明るい唯奈、それに優しい紅ちゃん。三人はどこかに姉さんと重なる部分を持っていた。人と関わることが苦手な僕でも、三人と仲良くなることが出来たのは、その要素が大きかったのだと思う。だから僕には三人が必要だった。三人とも、必要だったのだ。
紅ちゃんにとって、僕は足かせだったのだろうか。紅ちゃんだけではない。唯奈や麗にとっても、僕の存在はお荷物だったのかもしれない。僕らの関係は、僕が子供だったから成り立っていたことであり、だから今ヒビが生じているのだ。
僕は無気力に立ち上がると、窓から空を見た。雨は降っていないものの、空は雲で覆われて向こう側がすっかり隠れている。死んだ人は星になるなんて言うけれど、梅雨の間はほとんど下なんか見えないだろう。雲を隔てることで、姉さんをより遠くに感じる。もし姉さんが居たら、今みんなはどういう風になっているのだろう。変わらずに仲が良くて、今でも僕の部屋で賑々しくやっていたのかもしれない。今みたいに、バラバラになることなんて無かったんじゃないだろうか。僕らにとって、姉さんの存在は大きかった。
視線が無意識のうちに地上へと降りていく。見上げた先に空が無いのなら、見上げる意味なんて何も無い。地上には一人の女の人が立っていた。その人は僕と一瞬目が合うと、逃げるように立ち去っていった。僕は急いで一階へと駆け下りるが、下りたところで外に出ようとは思えなかった。行ってもしょうがない。行っても、何にもならない。僕はそのまま居間のほうへ向かった。
テーブルの上には、薬と小さな土鍋が置かれていて、中にはおかゆが炊いてあった。どうやら、僕の昼食のようだ。時計を見ると、もう昼の二時くらいになっていた。紅ちゃんが学校へ行っていないということに小さなため息をつくと、僕は土鍋を火にかけた。あまり食欲は無いけれど、食べないと「食後の薬」と大きくメモ書きされてある薬が飲めない。普段から母さんに口をすっぱくして言われていることだ。
何とかおかゆを食べ終えて薬を飲むと、僕はまた自分の部屋へと戻っていく。ふと携帯電話を見ると、昨晩から千愛莉ちゃんから何通かのメールが入っていた。そういえば、昨日帰ってから一度も確認していなかった。今電話しても大丈夫ですか。そんな内容のメールがいくつかある。見ていなかったとはいえ悪いことをしてしまった。しかし、今電話してもまだ学校だと思うので、謝罪のメールだけ送っておいた。
もう一眠りすると、外はさらに暗くなっていた。薬の影響か随分眠ったようで、時計を見ると七時前くらいになっていた。
ふいに携帯電話が鳴った。見てみると、やっぱり千愛莉ちゃんからの電話だった。
「……もしもし」
「もしもし、あ、ハジメちゃん。風邪ひいたんだってね、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
体はもう大丈夫だ。少しだるいけれど、熱っぽさは引いていた。
「良かった。……それでね、紅輝さんのことなんだけど……」
千愛莉ちゃんは待ちきれないというように、すぐに本題に入るようだ。僕は少し慌ててしまう。
「あ、ああ。どうしたの?」
「凄く落ち込んでたよ。すぐに走っていっちゃった。ごめんね、追いかけたかったんだけど、追いつけそうになくって……」
千愛莉ちゃんは懺悔のように言った。
「こっちこそごめんね、あんなとこ見せちゃって。千愛莉ちゃんは、これからも紅ちゃんと仲良くしてあげてね」
紅ちゃんとはもう関わらない。それでも紅ちゃんを一人にしたくはない。僕は千愛莉ちゃんが頼りだった。
「それは……もちろんだけど。ハジメちゃんはこのままでいいの?」
このまま、という言葉に僕は沈んでしまう。
「しょうがないよ。紅ちゃんのあれを僕が認めてしまうわけにはいかないんだ」
「何か事情があるんじゃないかな? 紅輝さんも……辛そうだったよ」
「わかってるよ。でも、どんな事情があろうと、僕は紅ちゃんには逃げてもらいたいんだ。例え誰かを助けるためだったとしても、そうしてもらいたんだよ」
実際に助けられたことのある千愛莉ちゃんに言うのは滑稽なことかもしれない。でも僕は、紅ちゃんにはこれ以上敵を作ってもらいたくない。女の子として逃げてもらいたかったのだ。
「でもこのままじゃ紅輝さん、もっと寂しくなっちゃうよ?」
「……僕には、もうどうすることも出来ないんだよ」
僕は紅ちゃんが頷いてくれると信じていた。だからこそ、どうすればいいのかがわからない。
「ごめん、もう切るね。まだ熱が下がらないから」
嘘だ。でも、本当に熱は下がっていないかもしれない。心がずんと沈んでしまうと、体まで地の底に落ちるように沈んでしまうような気がする。もう少し、時間が欲しかった。
「あ、ごめんね。また唯奈さんや麗さんとも話してみるよ。お大事に」
「ありがとう」
電話を切ると、僕はまたベッドへと仰向けに寝転がった。僕はまた紅ちゃんのことを考える。
姉さんと出会った頃の紅ちゃんも荒れていたらしい。たかが小学校を卒業したばかりの中学生だが、当時同級生の男の子よりも体が大きかった紅ちゃんは、ガラの悪い上級生を痛い目にあわせることがあった。そして女なのに喧嘩が強いという噂が広がり、紅ちゃんはよく喧嘩を売られると、すぐに買ってしまっていたようだ。しかし、基本の動機は正義感で、他人に引かれることがありながらも、一目置かれていた存在らしい。だからこそ、姉さんが気に入ったのだろう。
問題は姉さんが亡くなった頃の紅ちゃんだ。正義感という名の八つ当たり。麗にも似ているけれど、その行為は多くの敵を作った。でも、僕の前では普段のまま。優しくのほほんとしている紅ちゃんがそこには居たのだ。
僕はそういうところを姉さんと重ね、結果的に姉さんの時と同じ行動をとった。そして、同じようにやめてくれた。そう思っていた。
その頃の紅ちゃんと今の紅ちゃんが同じことをしているとするならば、紅ちゃんはまだ姉さんのことで荒れているのだろうか。あるいはまた違う理由なのだろうか。僕には分からなかった。
翌日も、僕は学校を休んだ。僕はぼんやりとテレビのワイドショーを見ていた。内容はある殺人事件に終始していて、サイコパスという文字が躍っていた。罪悪感が無く、自分勝手な犯人を糾弾する内容だった。
紅ちゃんはこんなやつとは正反対の存在だ。思いやりがあって、人の目をとても気にする。不器用だけれど、誰かのために行動する。だからこそ僕は、紅ちゃんが僕のために暴力をやめてくれたと思っていた。しかし、それが裏切られると、僕の中の紅ちゃん像というものが間違っていたということになるのだろうか。雨の中で見た紅ちゃんの感情が分からなくて、僕は自信が持てなくなっていた。
四時過ぎくらいになると、インターホンが鳴った。誰かと思って窓から外を見下ろすと、そこには千愛莉ちゃんが居た。そして、唯奈と麗が居た。僕は急ぎ足で玄関へ向かった。
「こんにちはー」
「……」
笑顔の千愛莉ちゃんとは対照的に、唯奈と麗は表情を隠すみたいにむすっとしていた。
「……どうしたの?」
「体は大丈夫? 中止になるのも嫌だったから、お見舞いも込みで来ちゃったの」
「中止?」
「もう、忘れちゃってたの? 今日は唯奈さんのプチ誕生日会の日だよ!」
そういえば、もうそんな日だった。千愛莉ちゃんは少し呆れるみたいに言った。
「上がって」
三人を家へと上げてやると、いつもどおりにまずは居間へと向かった。三人揃って手を合わせると、僕は妙な気分になる。唯奈と麗はいまだに会話をしていないが、大人しく淡々と儀式をこなしていた。
「ケーキなんだ。切りたいから台所借りるね! お茶も入れるよ!」
「うん」
僕は千愛莉ちゃんを待っていようと思ったが、他の二人の視線に押されて、結局一緒に二階へと上がっていく。僕、麗、唯奈の順番で階段を上っていく最中、麗がポツリと呟いた。
「……偶然、なのよ」
「麗は別に呼ばれたわけじゃないんだ?」
「その……前のことがあったから、ハジメと話がしたくて……」
麗は元気なくそう言った。後ろめたい気持ちのせいだろうか、今日の麗は可愛いくらいに大人しい。
「そっか」
僕はなるべく軽くそう言った。こんな形だけれど、麗と唯奈が久しぶりに一緒に家に来たことに、僕は少しわくわくしていた。
僕がベッドに腰を下ろし、麗は部屋の角のほうに、唯奈はテーブルの前に座った。しばし無言になると、僕の頭の中には三すくみという文字が浮かぶ。ただし関係はもっと複雑だった。
「お待たせしましたー」
均衡を崩したのは、もちろん千愛莉ちゃんだった。ケーキと紅茶を人数分持ってくると、テーブル上でそれぞれに一番近い場所へと置いていく。ケーキは美味しそうなパウンドケーキだった。
「うまそう!」
唯奈は羨ましいくらいにいつもどおりの反応を見せる。すると、千愛莉ちゃんはにこにこと材料や作り方の話を唯奈にし始めた。
僕は麗を見ていた。居心地悪そうに、麗はパウンドケーキを見つめていた。僕は麗の近くへと移動した。
「唯奈さん誕生日おめでとーございまーす!」
「わー、ありがとー。明日だけどねー」
千愛莉ちゃんの拍手に、僕も適当に参加する。そして唯奈がパウンドケーキを食べ始めたのを見て、僕は麗に声をかけた。
「麗も食べよう。美味しそうだよ」
「……ハジメ、優しいのね。あんなことがあったのに」
麗は僕に聞こえるだけの声で言った。
「今は食べよう。話は後にしようね」
「うん……」
紅ちゃんと不良の間を麗が取り持っていたのは事実だろう。でもこんな麗を見て、僕は強く言うことは出来ない。まずは話が聞きたい。何においてもそれからだった。
「麗さん、どうですか?」
「うん。とっても美味しいわよ」
千愛莉ちゃんはよくしゃべってくれる。千愛莉ちゃんが居ないと会話が回らないような状況がここにはあった。千愛莉ちゃんが怒涛のように麗に話しかけていると、唯奈は麗と逆の位置の僕の隣へ移動し、ひっそりと顔を近づけた。
「……麗は何の用だって?」
「この前のこと」
「ああ……」
唯奈は、予想通り、というような無表情で納得した。
「ハジメは大丈夫なの? この前のことで熱出したんだろ?」
「え? ああ、大丈夫だよ」
麗のことから急に僕の体のことへと話が変わる。僕は驚きながらも、心配してくれているのだからと、素直に返事をした。
「別にあいつに傘を渡す必要なんて無かったのに。あんなに濡れてたら、どうせ意味なんて無いんだから」
唯奈は僕が驚くくらいに顔を近づけてくる。ひそひそと話すためだとしても、近すぎるくらいだ。ふいに、僕は肩のほうを誰かに持たれて、そのまま後ろへと引かれた。
「――麗?」
「近い」
呆れたような口調でそう言うと、唯奈と僕の距離を離した。
「なに? 嫉妬?」
「違うわよ」
間に僕が挟まれている状況のまま、二人は今日始めての会話を交わした。千愛莉ちゃんのほうを見ると、何とも言えない期待感のある表情で僕の方を見ていた。
「相手を選べってことよ。ハジメは結構イケメンなんだから」
「……それどういう意味?」
この前のような険悪な感じではなく、少し昔を思い出すようなやり取りだった。僕はこっそりと嬉しくなる。
「やっぱり嫉妬なんじゃないの?」
「違うっての。こんなに地球上に女の人が居て、わざわざあんたを選ぶのは愚の極みだってことよ」
「グノキワミ?」
「ああ、難しかったわね、ごめんなさい。お馬鹿ってことよ。馬鹿を選ぶやつは馬鹿ってこと」
「あ?」
「ん?」
「そ、そろそろやめとこっか」
さすがに止めることにした。僕は笑いを堪えながら、二人の間の防波堤としての役割を果たした。
「同じ高校に来たことだってびっくりしたわよ。ハジメはもっと賢いと思ってたのに」
「こんな体だし、近くないと不便なんだよ」
「ハジメは賢いべ。受験の時に勉強教えようとしたら、あたしは全く役に立たなかったし」
「それはあんたが馬鹿なだけじゃないの?」
「あ?」
「ん?」
「いや、早い。早いよ」
沸点が低すぎる。二人は僕を間に挟みながら、逆方向を見て話していた。一人だけ正面に居る千愛莉ちゃんは、常ににこにことこちらを見守っていた。
「本当は……」
麗が何かを言おうとするが、少し言いよどんでしまう。どうしたのかと、僕は麗のほうへ首を向けた。
「――本当は、高校へ入る頃にはハジメと距離を置くべきだった」
後悔するように言った麗に対し、僕は不満を持つ。それは以前、唯奈がしていた言い回しに似ていた。
「どうして?」
「私たちはこんなだもの。真面目で良い子ちゃんなハジメは、関わっちゃ駄目なのよ。本当は、もう近づかないつもりだった」
「それでも、家に来てくれたのは何故?」
麗は僕の方へ振り向いた。いや、僕よりも向こう側を見ていた。
「仕方ないじゃない。唯奈も紅輝も来るんだから、私だけ行かないっていうのは納得がいかなかった。ちょっとは考えろってのよ。……それに、ハジメは友達が居ないし」
最後の一言は言いにくそうだった。でも、僕のそういうところが、みんなを不安にさせていたのだと思うと、胸が痛くなった。
「ただハジメに会いたかっただけって言えば良いのに」
唯奈はテーブルに肘をつきながら、相変わらず別の方向を見て言った。
「何よ、それはあんたでしょ? いつもハジメハジメって、一番ハジメに執着してたのはあんたじゃない」
「そんなことしてねぇよ」
「どうだか。最近は行く頻度も増えちゃって、どんだけハジメが好きなのよ」
話の方向はともかく、気になることがあったので、僕は少し口を挟むことにした。
「行く頻度、って、麗は唯奈がしょっちゅう来てることを知ってたの?」
「行く日が被らないように、その連絡だけは来てたのよ。紅輝はだいたいいつ行ってるのかわかってたから必要が無かったけど」
上手く別々の日に来ると思ってたけど、ちゃんと連絡を取っていたのか。僕は拍子抜けしてしまう。そんなことをしてまで、一緒には来たくなかったのか。
「そりゃ好きだよ」
それは少し遡った返事だった。だから僕は、頭で言葉の意味するところを考えるのが遅くなってしまう。好きだよ。僕は顔が一気に熱を持ってしまうと、唯奈の方へと向いた。
「な、何言って――」
「ハジメも弟みたいに思ってんだもん。あたし、色んな奴と友達だけど、ハジメと居る時が一番楽しいし。別に、おかしいことじゃないじゃん」
何でそんなことをぶっきらぼうに言うことが出来るのだろうか。僕は正面を向くとニコニコとした千愛莉ちゃんと目が合ってしまい、左へ向くと麗がニヤッとした嫌な笑みが僕を突き刺してくる。僕に逃げ場が無い。
「……姐さんの代わりになりたいと思った」
「え?」
唯奈がポツリと呟いた言葉に、僕は固まってしまう。それは、僕が三人に対して思っていたことと同じだったから。
「麗もそうだろ? きっと、紅輝もそう。だから、結局ハジメと距離を置くなんて無理な話なんだよ。姐さんはずっとハジメのこと心配してて、そんな姐さんが居なくなったハジメのことを考えたら……なんか落ち着かないんだよ」
僕は麗の方を向く。麗は目を瞑って俯いていた。そして、首を縦に振る。
「だからあたしは、紅輝が許せなかったんだよ。ハジメを危ない目にあわせるかもしれないのに、つまんない喧嘩ばっかしてさ。紅輝が何をしようと勝手だよ。だけど、ハジメがどうしても紅輝を探しちゃうんだから、紅輝が自分を抑えなきゃ駄目だろ。この前のだってそう。だから……腹立つんだよ」
ここで理解した。唯奈は紅ちゃんを嫌っているのではなく、紅ちゃんに対して怒っているのだ。そしてその要因の中に、僕が含まれていた。
「……そのことで、喧嘩したのよ」
今度は麗が呟いた。僕が千愛莉ちゃんの方を見ると、千愛莉ちゃんは頷いて返してくれた。
「ちゃんと説明してくれる?」
「……芳香さんが亡くなった後、私たちはバラバラになった。あの時、唯奈は落ち込んで大人しくしてたけど、私と紅輝は違った。私はそこいらの不良グループに顔を利かせるようになった。ちょっと気になったことがあったから、情報を集めようと思ってね。紅輝は一人で、……ハジメも知っていると思うけど、色んな奴に喧嘩を売るようになった。そこで、私と紅輝がぶつかるようになったわ。そこで私が怪我をした。でも、それ自体は本気のものじゃなくって、怪我も不可抗力でのことだったし、それで紅輝を恨むこともなかったわ」
「……じゃあ何で今の今までこんな感じだったんだよ」
ついつい口を挟んでしまうが、麗がちゃんとそのことを話そうとしているのだとわかると、僕はまた黙った。
「その後よ。唯奈の居たグループに私も関わってたんだけど、そこで話が出たのよ。お姫様って呼ばれている男の子の話が」
聞き覚えがある。それもつい最近だ。あれが誰に対してのものだったのか、今はっきりとわかった。
「……ハジメが紅輝のこと追い回している時に、あいつらもハジメのことが目に付いたんだよ。紅輝に守られるお姫様って。冗談っぽく言ってたことだけど、誘拐しておびき出す、とか、そいつを使って脅す、とか言われてた。冗談だと思っても、あたしら怖くなってさ。もちろん、あいつらにだってプライドがあるから、大人しそうで小学生に見えるガキにそんなことはしないけど、もし本当に馬鹿でクズみたいなやつだと、そんなことでも平気でするかもしれないじゃん。だから、あたしが紅輝にキレたんだよ。キレて、紅輝のことを殴り飛ばした」
唯奈が麗の代わりに言った。僕は当時のことを思い出していた。あの時、確かにみんな僕のことを見ていた。
「殴り合いの喧嘩をしたの?」
「こっちが一方的に殴ったんだよ。あいつ、こっちにはなんもしてこなかった」
「それから、紅輝はやめるのではなく、上手く隠すようになった。もちろん、ハジメにだけね。私たちはそのことを知っていて、むしろそれを隠すことに協力するようになったのよ」
「あたしはそれが馬鹿なことだってわかってたけど、紅輝のやつはやめないし、ハジメが危ない目にさえあわなければいいと思って放っておいただけだよ」
「そして、今みたいな距離になった。私はどっちとも仲良くするわけにはいかなかったから、どっちにもつかなかった。ただ、ハジメとは関わっていたかったから」
僕が知らないところで、もう一ついざこざがあったのだ。だから僕のしていたことは見当違いで、今までこんな状態が続いていたのだ。僕は両方の耳から聞こえる声を、俯きながら拾っていた。
「……何で、あいつはやめないんだよ。馬鹿なことだってわかってて、ハジメが危なくなることがわかってて、やめられなかったんだよ」
唯奈は吐き捨てるように紅ちゃんに苦言を呈した。唯奈も僕と同じ疑問を持っていて、同じように怒ってくれているのだ。
「……そのことなんだけど」
麗が小さな声でそう言うと、唯奈は今度は僕に被さるくらいの勢いで身を乗り出し、麗を睨んだ。麗は驚いたように一度唯奈の方を見ると、また俯いてしまう。
「なんだよ? 何か知ってんのかよ?」
「言いたくなかったことなのよ。あんたとハジメには」
麗はまだ迷っているというようにそう言った。
「聞かせて。今日は、そのことを言いに来たんだよね」
僕は出来る限り優しくそう言った。そうすると麗はきっと応えてくれると思って。
「……あの時、私は色んなグループと関わってたから、色んな噂が聞こえてたの。紅輝の噂もいっぱいあって……芳香さんの噂もあって」
「姐さんの……どんなだよ?」
芳香、という言葉を聞いたとたんに、唯奈は少しきつい口調で問い詰めようとし始めた。僕はそれを制した。
「教えて」
「芳香さんの事故をしたときに一緒に居たやつら。当時、そいつらが紅輝に対して酷いことをしようと企んでたって話。芳香さんがそいつらに会いに行ったのは、その話を聞きつけたからだったって」
「はぁ!? 何だよそれ!? まさかそいつらが姐さんに何かしたんじゃねえのかよ!」
「唯奈、落ち着いて」
僕は、唯奈のおかげで冷静で居られた。麗は動揺を見せるが、すぐにまた話を続けてくれる。
「そいつら、変なグループで。喧嘩をしたりとかそんなことはないのに、そいつらのターゲットになったやつは酷い目にあうって言われてて、妙に周りから恐がられてたの。誰かが紅輝のことをそいつらに話して、ターゲットにされたみたい。実際、紅輝も危ない目にあっていたから、芳香さんはそいつらに会いに行ったのよ」
「……じゃあ、姉さんは殺されたっていうの?」
僕は感情を何とか殺してそう言った。麗は首を横に振る。
「そうじゃなかったみたい。あいつらのすることは過度の悪戯。手すりが弱っていたのがわかっていたのに、その手すりの上に立たせるっていう度胸試しをさせたのよ」
「何だよその話は!? 麗はなんでそこまで知ってるんだよ!?」
「そこに居た人間から聞いたからよ。噂を聞いてから、一人だけ探すことが出来たから」
「お前!? そいつを見逃したのかよ!?」
唯奈は興奮して、僕を押しのけて麗に掴みかかった。両手で服の首もとの部分を掴み、顔を近づけた。
「……仕方ないじゃない。何をしたって……どうしようもないじゃない」
「唯奈、麗から手を離して」
僕は唯奈の手を持って、少し強めに言った。唯奈は奥歯をかみ締めながら、その手を離した。
「紅ちゃんは復讐するために、そいつらを探しているの?」
「そいつらと、そいつらに自分の情報を流したやつをよ。昔と同じようなことをしていたら、きっと見つかると思ってるのよ」
「……そいつらは今どこにいんだよ?」
「そのグループはもう解散してるわ。リーダーだったやつがが別の件で問題を起こして、今は遠くに引っ越したのよ。芳香さんが亡くなったのを見てグループから抜けたやつもいたらしいわ。関わった人間で残っているやつも居るかもしれないけど、もうわからないのよ」
「何であたしに言わないんだよ!? 隠してたんだよ!? 知ってたら、絶対、紅輝と協力してでも、そいつらに復讐したのに!」
「……そう思ったから言わなかったのよ」
麗の判断は賢明だった。それは、他のことでもそうだ。僕は、この前のことを思い返していた。
「だから、麗は紅ちゃんを恨んでる人たちをまとめてたんだね。紅ちゃんが無理しても、紅ちゃんが危なくならないように」
きっと麗は、紅ちゃんを止めることが出来ないとわかると、その相手側をコントロールしようとしていたのだ。後ろ盾を利用して、ルールを決めて。
麗は一瞬僕のほうを見てから、目を瞑って大きく息を吸い込んだ。麗にも、何か堪えているものがあるのだと思う。
「でも、結局無駄だった。私が真二郎たちを自由に動かすことが出来ないってこともばれかけてたし、紅輝への復讐のためじゃないやつらも集まってきてたから。賞品に相応しいルックスになったせいね」
中性的だった紅ちゃんは、高校生になってから女性らしさが前面に出てきていた。今の紅ちゃんは、誰が見ても美人だった。
「もうそろそろ、紅輝のことを何とかしないといけないって思ってた。でも、もうハジメにばれちゃったものね。それが、良い方向に転んでくれれば良いんだけど……」
麗はさも自信なさげに言った。実際、紅ちゃんは僕の前でやめると言ってくれなかった。
「……なんだよ」
気づけば、唯奈は密かに涙を流していた。顔を隠すようにして、肩を震わせている。
「唯奈、ごめんね」
「何でハジメが謝るんだよ」
「……ごめんなさい」
謝るのは自分だ、とでも言いたいかのように、麗が小さく謝罪した。唯奈は何も発せず、ただ首を横に振った。
やっぱり、みんな優しかった。唯奈も、麗も、紅ちゃんも、それぞれ誰かのためを想って行動していた。唯奈は僕を危険に晒さないことを一番に考えてくれていた。思えば、雨の日に来てくれるのも、僕が憂鬱になることを察知していたからだと思う。麗は紅ちゃんを支えようとしてくれていた。きつい言い方をすることが多いけれど、麗は一番周りを見ることが出来るのだ。そして、紅ちゃんは姉さんのことをまだ想ってくれていた。姉さんのために、僕にまで嘘をついたのだ。
僕は……、僕には何が出来るのだろうか。
「僕は、守られてばかりだよね」
弱い僕は、親と姉さんが守ってくれていた。姉さんが居なくなると、新しい三人の姉が守ってくれていた。僕には、何も出来ないのだろうか。
「そんなことないわよ。ハジメは、みんなのことをちゃんと守ってたわ」
麗は優しい顔をしてそう言ってくれた。唯奈を見ると、唯奈もうんうんと頷いてくれていた。
「……ハジメがちゃんとしてるから、あたしらは変なこと出来ないんだよ」
唯奈は涙声でそう言った。僕には、二人の言ってくれることに自身は持てない。
「紅輝だって、そうなってくれたら良かったのに。芳香さんじゃなくて、もっとハジメのほうへ向いてくれたら」
「きっと大丈夫ですよ」
ずっと見ていた千愛莉ちゃんの明るい声が響いた。僕ら三人は揃って千愛莉ちゃんの方を向いた。
「もっとちゃんと話し合えば、今度こそ大丈夫です。紅輝さんにとって復讐することが一番大事だったなら、ハジメちゃんにばれたときにあんなに落ち込まないと思うし」
僕が頷くと、千愛莉ちゃんはにっこりと笑ってくれた。
「……紅輝のことは私が何とかする。だから、もう少し待ってて。そうしたら――」
「また、みんな揃ってここに来てくれるの?」
麗の言葉に、僕は期待を込めてそう言った。麗は少し気まずそうな顔をして口を緩め、小さく頷いた。
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