第4話 夏の終わりから秋の始まりにかけて

その1

 

 僕にとって、今年の夏休みは、今までで一番思い出深いものになった。それは、‘自主トレ系マラソン部’の活動や、‘花火大会’や、‘陸上部’や、‘図書館での時間’だけにとどまらなかった。

 僕は、あの花火大会の後、夏休み中に、日向家の食事に2回招待された。その2回とも、他の同級生はおらず、僕だけが招待された。

 最初は遠慮して断った。自分ひとりで、さつきちゃんのおばあちゃんやお母さん、耕太郎たちと色々と話をするのも、なんだか恥ずかしかったし、それにとても大げさな感じがしたから。

 だけれども、さつきちゃんは、学校が無いときに僕と何時間もゆっくり話をするとしたら、こんな風にしないと難しいし、家族も純粋に、僕という‘16歳の男子’に興味があるのだ、と言ってくれた。2回目の時には、さつきちゃんのお父さんもいたので、本当に驚いたけれども。

 さつきちゃんのお父さんは、僕のお父さんともそう年齢は変わらないはずだけれども、正直いって、僕のお父さんよりもかなりしっかりした感じがした。優しいけれど、厳格で頼りがいがある、という印象を受けた。なぜだか分からないけれども、僕の家族よりも、さつきちゃんの家族の方が、より‘大人’のような雰囲気がある。下手をすると、耕太郎ですら、自分よりも大人なんじゃないだろうか、と感じる瞬間すらある。

 食事をする時は、さつきちゃんの家族全員と僕とで、みんなの共通の話題を交わした。

 共通の話題ということは、小田家はどうだ、日向家はどうだ、と、いった感じの話だ。

 僕は、自分の亡くなったおばあちゃんのことや、兄ちゃんのことなんかを話した。

 亡くなったおばあちゃんには、子供の頃、本当にどこに行くにもくっついて連れて行ってもらうような感じで可愛がってもらったこと。おばあちゃんは畑仕事をよくしていたので、その畑のある裏山の、洞穴の日蔭で涼みながら、水筒の水を飲ませてもらったこと。

 それから、兄ちゃんは、自分よりも5歳年上で、隣の隣の県の大学生であること。通学は無理なので、県人会が運営する学生寮に住んでいること、なんかを話した。その時、さつきちゃんのお父さんから、お兄さんは、夏休みにこちらに戻って来ているの?と、訊かれたけれども、僕は、いえ、戻ってきてません、と、事実のみを答えただけだった。

 それから、日向家の話題としては、僕がまだ聞いていなかった話、例えば、さつきちゃんのお父さんは、ダム工事なんかが主力の建設会社の現場監督で、ダムの現場に入ると、工事進捗管理だけでなく、技術面、資材、機材の発注状況、そして、もちろん、一番重要で責任の重い安全管理を一身に背負うため、基本は現場に泊まり込みとなり、何週間も家に帰れないこと、を教えてくれた。2回目の食事会の時は、ちょうど、お盆近くまでかかっていた県外の現場から、この県の連邦の砂防関係の現場に担当が切り替わるため、移動の合間の中休みということだった。

 それから、他にも、僕の知らないことを教えてくれた。さつきちゃんが中学校2年の時、3年生だった耕太郎の小学校の運動会に、お父さんもお母さんも親戚の結婚式に出席するため行けなかった、ということがあったそうだ。さつきちゃんがお弁当を作り、おばあちゃんとさつきちゃんとで応援に行ったのだが、3年生のプログラムの中に、父兄との二人三脚があった。耕太郎は、事前に伝えていなかったので、当日、プログラムを見て、さつきちゃんは、かなりうろたえたらしい。

 さつきちゃんは今も小柄ではあるけれども、中2の頃は、今よりも更に10cmほど背が低く、それに対して耕太郎は、ほとんど高校生と思うような身長の今より5cm程度低いだけだったそうだ。2人の身長差ははなはだしく、さつきちゃんが姉なのか妹なのか分からない、というだけでなく、そもそも二人三脚が成り立つのかどうか、というくらいの様子だったらしい。何となく想像はつくけれども。

 しかも、このような競技の常として、‘クラス対抗’という形式になっており、身長順に走者の順番が決まっていたため、一番大きな耕太郎がアンカーとなっていた。なぜ、父兄の身長で走者の順番を決めないんですか、とさつきちゃんは思ったらしいけれども、当日まで父兄の身長が分からない以上、仕方のないことだとは思う。

 始まった以上は、とにかく走り切るしかない。お膳立てたように3クラスの走者がほとんど差の無い状態でアンカーにバトンが渡り、他の2クラスの走者は2人とも父親、しかも、生徒も父親2人とも、学年でも運動神経が相当いい、と言われていたそうだ。

 僕は、自主トレ系マラソン部でのさつきちゃんの走りを見ているので、間違いなくさつきちゃんは運動神経が良いと思っている。そして、耕太郎も恵まれた体格であり、おとなしく優しい性格から競争心はあまりないかもしれないが、運動能力はかなり高いと思っている。

 けれども、二人三脚はそういう種目ではない。たとえば、父親が強引にパワーでリードしたとしても、それよりも体格では劣るがスタミナと元気良さはある小学生の息子が無理やりついて行ってゴールする、という方法はあるだろう。けれども、耕太郎とさつきちゃんの組み合わせにそれは難しい。どんなに2人の運動能力が高くても、体格差をスピードや動きの大きさで補うにも限度というものがある。

 けれども、さつきちゃんの耕太郎に対する提案と指示は、非常に的確で、耕太郎の姉に対する信頼も素晴らしいものだったらしい。

 さつきちゃんが耕太郎のコンパスに合わせるのは無理だ。さつきちゃんは、わたしの歩幅に合わせてくれないか、と耕太郎に頼んだ。そして、スピードは、最初は耕太郎がその歩幅で出せるスピードに任せる、と言った。それから、徐々にわたしがスピードを上げてみるから、大丈夫そうなところまで回転を上げてみて欲しい、と頼んだ。前走者からバトンを受ける十秒ほどの間に打合せ、バトンを受けて、走り出した。

 最初は、他の2クラスよりは、少し、遅れた。耕太郎が、自分の出せるスピード・回転を探るためだ。5mほど遅れ、周囲の観客は、ああ、やっぱりな、という雰囲気になり、その代わり、前を走る2クラスの応援は勢いを増した。けれども、徐々に耕太郎が感覚を掴んだのが分かると、さつきちゃんは少しずつスピードを上げ始めた。これは耕太郎にとってはさつきちゃん以上に苦しい作業であるはずだ。けれども、さつきちゃんがしたのは、スピードを上げるだけではなかった。

 さつきちゃんは、コンパスも大きくしたのだ。どうやって、というと、スキップするような走り方で、だ。

 口でいうのは簡単だけれども、こんなことは、運動能力の高さと、リズムをコントロールする能力と、相手をよく観察して合わせる性格とがそろわないとできないことだと思う。

 自分の脚ではカバーできないコンパスを着地までの時間も計算に入れた‘ジャンプ’という竹馬を穿かせることで、カバーしたのだ。耕太郎は、さつきちゃんのサポートもあって、自分の体格に見合った限界に近い走り方をすることができた。

 観客は、やはり、不利な筈の者が奮戦する姿の方が分かりやすいのだろう。たちまち追い上げ始めた耕太郎とさつきちゃんの姿を見て、2人の応援を始めた。

 追い上げられた2クラスは、父親がパワーでリードする、というスタイルがより勢いを増した。その結果、そのうちの1クラスが、徐々にバランスが崩れ始める。

 耕太郎とさつきちゃんは、2位に上がった。ゴールまであと20m。差はあと2mまで迫り、このまま無理せず加速をつけて、あとは抜き去るだけだった。直線コースで、トラックのイン側が空いており、自分達の力のかかっている方向も、インの方が自然な流れだったので、さつきちゃんは、このままインから抜こうとした。その時、わざとではないのだろうけれども、抜かせない、という潜在意識なのか、トップの父親が、急にイン側にぐぐっと、寄った。けれども、イン側にはまだ1mほどの隙間があるので、さつきちゃんは、このまま抜き去ろうと自分達の体をインに滑り込ませようとしたとき、

‘お姉ちゃん、’

 と、無言ではあるけれども、耕太郎が、明確な意思を示した。

‘アウトから行こう’

 さつきちゃんは、今からアウトに向かったら、抜けない、というのは分かっていた。

 けれども、これは、耕太郎の学校の運動会だ。どうするかは、自分よりも耕太郎の意思が優先されるべきだ、と、咄嗟に判断し、アウト側に体重をシフトした。

 結果的に、ほんの僅差で抜けず、2位となった。さつきちゃんは、でも、この方が、耕太郎らしいな、と思ったそうだ。

 けれども、観客は大喜びで拍手してくれた。

 クラスの順位のアナウンスまで待っている間、何人もの男子生徒から、

「耕太郎、お前の姉ちゃん、すげえな」

 と声をかけられたそうだ。その姉ちゃん本人が、まだ二人三脚の状態で弟と紐で足を結んだままでいるのに、「お前の姉ちゃん」と声をかけるところが、やはり小学生らしい。

 そして、この話を僕に語ってくれたのは、おばあちゃんと、耕太郎本人だった。おばあちゃんが話してくれたのはレースの内容ではなく、運動会の日はよく晴れてたね、とか、弁当の出来はなかなか良かった、とかいうことだった。耕太郎は、鮮やかな描写、というには程遠いが、無口なりに、自分のお姉ちゃんがいかにすごかったか、と、いうことを、表現能力の範囲で語ってくれた。

 さつきちゃんは、ただ、恥ずかしそうに、いや、たまたまね、と、何度も言っていた。

 おばあちゃんにとって、さつきちゃんは自慢の孫なのだろう。耕太郎にとってさつきちゃんは優しく、頼りになる自慢の姉なのだろう、そして、にこにこと聞いていたお父さんとお母さんにとっては、自慢の娘なのだろう。


 本来は、この食卓が家族団らんの場なのだろうが、僕に気遣ってか、しばらくすると、みんな、隣の居間に移動していった。

 

その2


 不思議なもので、さつきちゃんと2人で差し向かいになると、家族がいたときよりもかえって緊張するような気がした。

「かおるくん、アイスコーヒー飲んで」

と、さつきちゃんが、僕にグラスを持って来てくれた。

 うん、ありがとう、と、ストローに少し、アイスコーヒーを吸い上げる。

 さつきちゃんは、いつものにこっ、とした顔になっていて、僕に話しかけてきた。

「この間の、花火大会の時の続き、話しても、いい?」

「・・・うん、いいよ」

 僕がそう言ってから、さつきちゃんは、少しの間、んー、と声に出して考えてから、話し始めた。

「わたし、本当に、かおるくんの話してくれることとか、してくれることとか、真面目に考えてるよ」

 さつきちゃんは、神社の境内での言葉をほぼその通りに言った。

「白井市のマラソン大会のこともなんだか嬉しかった。自主トレ系マラソン部に付き合ってくれて、ありがとう、って思う。家事をするのも、帰宅系家庭科部、って言ってくれて、嬉しい。わたし、ほんとはやっぱり、高校で部活に入ってないのをなんだか寂しい、って思ってたから」

「なんで、部活に入らなかったの?前は、色々あった、って言ってたけど・・・」

「うん、やっぱり、わたしのことから、話すね」

 さつきちゃんは、アイスコーヒーをひとくち、こくっ、と飲んだ。

「わたしの中学は、ソフトボール部が結構強くて、部員も1年から3年まで合わせて50人いたんだ。わたしは背が低かったけど、結構小回りが利くのと、1年生の時にかなりトレーニングを一生懸命やって基礎体力があったお蔭で、2年生の時に、レギュラーになれた」

「すごいね、50人の部でレギュラーなんて」

「2年生の時はほんとに充実してて。3年生の先輩も尊敬できる人たちだったし、2年生のレギュラーも真剣に3年生のレベルに食らいつこうとしてたし」

 なんだか、僕は、そんな中のさつきちゃんを、半分想像できて、半分は想像できない。

「それは、今思えば、‘チーム’としての本当の意味での実力があった、っていうことだったのかな、って。だから、3年になった時、個人の実力は凄いって言われてたわたしたちの学年が最高学年になったのに、あれ、なんかおかしいな、ってなるのは当然だったのかな、って」

「おかしかったの?」

「うん」

「みんな凄いのに?」

「うん」

「チームワークが無くなった、ってこと?」

「んー、結果的にはそういうことなんだけど、原因がすごく変なところにあって」

「ごめん、よく分かんない」

 ふふっ、と急に、さつきちゃんは、笑った。

「ごめんね、わたしが言ってて自分で分からないのに、かおるくんには伝わらないね」

 さつきちゃんの眼尻に、じんわりと、水滴が浮かんでいた。ような気がした。

「わたし、先輩たちが引退した2年の秋に副キャプテンになったの。キャプテンは、実力、尊敬を併せ持った子で、わたしは、その子の補佐役、として。先輩方からバトンタッチされる時には、みんなこの体制で一致団結して頑張ろう、って気合いを入れてたんだよ」

「スポ根だね」

「書道の時間に自分の座右の銘を書く課題があって、キャプテンの子は‘根性’って、毛筆でのびのびと書くような子だから」

「なんだか、素敵だね。うらやましい感じがする」

「わたしは、かおるくんたちの、今の陸上部の話を聞いてると、なんだかそのキャプテンの子の気持ちみたいで、すごく、すかっとするよ」

「ありがとう」

 さつきちゃんは、それでも、嫌な話をする準備ができてきたようだ。

「最初は、3年の春にあった、初回の三者面談がきっかけだったみたい」

「三者面談?」

「うん、三者面談」

「先生と親と生徒の?」

「うん」

 なんだか、僕が想像している方向とは違う話のようだ。僕はてっきり、部員同士の僻みのようなトラブルの話かと思っていたのだけれど。

「三者面談で、野球部の部員の父兄が、キャプテンや副キャプテンをやっている生徒の内申点は受験に有利だ、って言ったらしいの」

「え、野球部員?」

「うん」

「ソフトボール部員の、じゃないの?」

「うん、野球部員」

 僕はもうとにかく、さつきちゃんの話の続きを聞くしかなさそうだ。

「その話を野球部の話だけにするわけにはいかないから、各部で、どんなやり方でキャプテンと副キャプテンを決めたか、それだけじゃなくて、どうやってレギュラーを決めているのか、明確にして欲しい、っていう、どちらかというと、父兄側から学校側に出されたクレームみたいな話になったみたい」

「なんか、わけが分かんないね」

「うん、でも、もしかしたら、キャプテンや副キャプテンになっていない人や、レギュラーじゃない人にとってみたら、内申点とか関係なく、色んな思いはあるのかもしれないな、って・・」

 僕は、自分のことを思い出して、言おうか言うまいか迷ったが、言ってみた。

「確かに、僕は、走り幅跳び、っていう専門はあるけれど、全般的には中学の時はずっと補欠みたいなポジションだったから、なんとなく、引け目はあったかな・・・・」

 さつきちゃんも、素直に聞いてくれた。

「うん・・・だから、多分、中学のその時までのわたしは、かおるくんが今言ったような気持ちが分からなかったと思う・・・

 それで、結局、各部の部員と顧問の先生方に対して、調査と是正が求められたの」

「調査と是正、って、もう一回選びなおすの?」

「うん。たとえば、皆で投票して公正に選んだんでなかったら、やり直せ、って」

 信じがたい話だけれども、部活というものを、あくまでも学校の教育活動のひとつ、としか捉えないとしたら、そういう発想になるのだろう。けれども、部活は、決して学校の活動ではない。その部活の部員たちの活動だ。もちろん、顧問の先生はいるけれども、それは本来、部員たちが、自分達の活動をするために、先生のお力添えをお願いします、と、部員が依頼者として、先生と部員の間に、顧問契約が交わされた、というのが、本当だと思う。

 それほどに、大人が想像するよりも、部活がその年代を生きる部員たちの生き様に与える影響は大きい、そんなもののような気がする。

 さつきちゃんは、淡々と話を進める。

「ソフトボール部は先輩方が引退する時に、自然な感じでこういう体制に決まったから。別に選挙をしたわけでもないし。それに、もう、先輩方からバトンタッチを受けてから、半年以上その体制で練習してきてたから、どうしよう、って、ほんとに、真剣に悩んだんだよ」

「・・・うん」

「それで、顧問の先生と一緒に、みんなでミーティングしてね。土曜日の朝から。ほんとは、午後から練習するつもりで持って来てたお弁当も、ミーティングのためのお弁当にして、夕方まで、話し合ったんだよ」

 なんだか、ソフトボール部の全員に感情移入してしまった。

「他の部活も同じようなミーティングをしてたと思う。運動部も、文化部も。その日は結構みんな学校に来てた」

 そっか、ソフトボール部だけじゃなく、さつきちゃんの中学の部活全部に、だ。

「3年のみんなも、納得して今の体制になった、ってことは分かってるんだけど、‘内申点’っていう、思いもしなかった視点が示されたら、なんだか、不思議な感覚になったんだろうね。今の体制を否定する訳じゃないけれど、‘対外的に説明がつくようにしなきゃいけない’って、事にばかり考えが向いてしまったのかな」

 さつきちゃんは、もうひとくち、アイスコーヒーを、こくっ、と飲んだ。

「形だけでも選挙をしようか、とか、父兄の眼の前で自分達の部活のことを説明したらどうかとか、色々言ってるうちに、キャプテンの子がね」

 さつきちゃんは、段々、声が小さくなってきた。

「自分がキャプテンを辞めれば分かりやすいんじゃないか、って」

「ちょっと難しいけど、何となく、そのキャプテンの子の気持ちは分かる」

 さつきちゃんは、うん、と言って、話を続けた。

「みんな、そうじゃないよ、って、言ったんだよ。そしたら、キャプテンの子は、代わりに、日向がキャプテンやればいい、って。そうすれば、けじめもついたような感じがするし、日向なら、副キャプテンとしてやってきてるんだから、自然な流れのまま、夏の大会に入っていけるからって言うんだ」

「顧問の先生は何か言わなかったの?」

「先生は、本当に困ってるみたいだったよ。悪いところもあるけれど、とてもいいチームだし、部活らしい部活だって、先生は一生懸命に力を貸してくださってたから。この話し合いだって、部員が自主的に解決法を探ろうとしてやってたから。変な話、‘内申点’ていう物の見方を持ち込むのは、せっかくのこのソフトボール部を、わざわざ低めるための考え方だから」

 僕は、言葉が出せず、黙って聞いた。これじゃ、まるで、花火大会の神社の境内と同じだけれども。

「結局、土曜日は決まらなくて。それで、月曜日の三者面談はわたしの番だったんだけれど、その時、お母さんがね」

「えっ、お母さん?」

「うん。お母さんがね。‘娘はソフトボール部の副キャプテンですけれども、部活そのものを辞めさせますので。それで、高校受験の内申点がどうなるとかも一切文句を言いません。それで、代わりの副キャプテンを立ててもらうことで、ソフトボール部の問題は解決したことにしてやってください。’って言ったの」

「それは、さつきちゃんも了解して言ったことなの?」

「ううん。その場で初めて聞いたよ。でも、わたし、ああ、そうかな、って。だから、わたしも、先生、お願いします、って、言ったよ」

「ええ?それでよかったの?」

「よくはなかったけど・・・でも、なんだか、早くすっきりしたかったから・・・」

 また、さつきちゃんは、にこっ、と笑っている。

「・・・じゃあ、さつきちゃんが辞めて解決したの?」

 少し、さつきちゃんは重い顔になったが、ほほ笑みは絶やさなかった。

「結局、部活は辞めなくて、副キャプテンだけ辞めさせて貰ったよ。それと、2年ですごく実力が伸びた子が何人かいたから、わたしはレギュラーも外れたよ。解決かどうかは分からないけど、ソフトボール部は夏の大会で県で2位になって、近隣圏大会に出場したよ。全国大会までは行けなかったけど」

 僕は、おー、という声を何となくあげてみた。

「多分、まともに選挙とかやった部活はなかったんじゃないかな。野球部はどうか分からないけど・・・」

「野球部はどうなったの?」

「市大会の二回戦で負けたんだったと思う」

 さつきちゃんは、だから、と続けた。

「だから、わたしは、高校では帰宅部、って、その時から決めてた」

 また、ふふっ、と笑った。

 僕は、なんだか、さつきちゃんの話が切なくて、なおかつ、まだ中3のさつきちゃんの置かれた立場、とった行動が大人すぎて、かわいそうなような、とてもいとおしいような気持ちになった。なんとなく、さつきちゃんのことが、高校に入学してすぐに気にかかった理由は、こういうことが、さつきちゃんの姿かたちにまで滲み出ていたからなんだろうな、と思う。

「さつきちゃんて、やっぱり、すごいんだね・・・」

 さつきちゃんは、首と手を結構な勢いで振って、

「ううん、すごくなんかないよ。ちょっと、変わってはいるかもしれないけど」

 僕は、ようやく、自分の心の準備ができたので、言ってみた。

「僕の話、してもいい?」

「うん、聞きたい」

 僕は、かなり説明ぽくなるとわかっていたけれど、話し始めた。


その3


 僕が、お父さんがちょっと変だな、と思ったのは、お父さんが夕方、ベランダのコンクリートの床に座って、空を見上げてた時から。ちょうど、おばあちゃんが亡くなって一か月ほど経った頃だったと思う。自分の母親が亡くなって、きっと、寂しいんだろうな、って思った。

 なんとなく、声をかけることもできなくて、何を見てるんだろうな、って思っただけだった。どうみても、雲が流れている様子だったり、カラスが飛んでいる様子を見てるようにしか見えなかった。

 多分、そういう様子を見せている間に、僕のお父さんとお母さんの間には色んなことがあったんだろうけれども、お父さんは、うつ病だ、って、診断された。

 お父さんは、会社を休まなかった。その理由は、僕にははっきりとは分からない。

 僕は、漠然と、大人の世界は、それこそ、子供のような不条理なことは決してしない人たちの世界だと思っていたけれど、どうもそうじゃない、っていうのをやっぱり見せつけられたような気がした。

 お父さんを見ていて、何とかしてあげたい、というよりは、自分自身がとても不安になった。社会に出れば、この不条理な状態から違う世界に入れる、って思ってたのに。

 お父さんの病気が良くなったのかどうかは、正直、よく、分からない。ぽつり、ぽつり、とは、僕とお父さんは、話をする。以前は、好きなことを仕事にして、いつか、そのこと自体が嫌いになったら大変だぞ、って、言ってた。野球が好きな人がプロ野球選手になって、そのうちに野球が嫌いになったら、プロ野球選手、っていう仕事を続けられるのか、っていうような。

 でも、病気になった後は、好きなことをできるに越したことはない、って、言うようになった。きっと、実感なんだろうと思う。

 神社にお参りするのは、もともと、お父さんが、たまに神社に連れて行ってくれてたから。

 そんなにしょっちゅう、ってわけじゃないけれど、小・中学校に入る時や、新学年になる時、とか、初詣以外にも連れてってもらった。

 花火大会のあの神社は、桜の花がきれいで、花見に行こう、と言って、なんとなく毎年、自転車で行ったり、歩いて行ったり、お参りして、大きな桜の木の下を歩いた。その帰りに団子を食べたこともあった。兄ちゃんがまだ家にいる時は、兄ちゃんも一緒に行ったりしてた。お父さんは、桜を見て、きれいだ、って、それだけ言ってた。

 高校に入ってから、僕が、毎朝、神社にお参りするようになったのは、教室にすぐにたどり着いて、いきなり、皆と顔を合わせて、っていうのをする前に、心の準備が必要だったから。決して、高校が嫌だったわけじゃないけれど。小学・中学から見たら、とても、いい環境だとは思ったけど、それでも、漠然とこんな不安があった。

 ああ、もし、また、小学や中学とおんなじことになったら、どうしよう、って。

 その僕の気持ちと、お父さんの病気とは、すごくシンクロしてたから。だから、僕は、お父さんの病気のためにお参りしてたんじゃなくって。自分の不安を少しでも遠ざけたい、不安どおりのことが起こるタイミングを少しでも後にずらしたい、っていう気持ちで、お参りして、学校にたどり着くまでの間を取りたかったんだ。


「かおるくんは、小学校や中学校が辛かったの?」

 さつきちゃんは、当然の疑問を僕に投げてきた。


 うん。小学校の途中から一緒だった、太一が一番よく知ってる。さつきちゃんには、本当は言いたくないんだけど、僕は、いじめられてた。

 僕がいじめられる理由は色々あったと思う。かなりの原因は、僕自身にあったと思う。

 具体的にどんなことがあったかまでは、恥ずかしくて、言えない。女の子には話せないような内容のこともあるから、さつきちゃんには、言えない。

 中学の時は、小学校の時のいじめの相互依存関係から抜け出せないメンバーに新しい、不良っぽいメンバーも加えて、それまでみたいな稚拙さや頻度の多さではないけれど、もっと洗練されたいたぶりが増えた。

 ただ、陸上部に入って、別の世界ができたことが、ありがたかったなあ、っては思った。

 それに、小・中と、僕の情けない姿を見続けても、僕と友達でい続けてくれる、太一のような人間もいたから。それから、いじめを受ける側としての対象も、僕以外にかなり増えてたし、薄まった、っていう感じだった。

 だから、僕は、何が何でも鷹井高校に受かりたかった。鷹井高校は、そういう意味では、‘大人’が多い学校だって、はっきり、分かってたから。

 実際、鷹井高校は、入ってみて、そんな高校だと思う。確かに、授業についていくだけでもかなり大変だけど、みんな、しっかりしてると思うし、陸上部の先輩なんかは、全員尊敬してる。

 僕は、お父さんみたくはなりたくない。せっかく、分別のある世界にいるのに、いつの間にか、自分で自ら、理不尽な世界を作り上げたりしたくない。

 だから、気が付いたら、神社に足が向かってるんだ。

 お父さんには、どうしてあげればいいのか、正直、分からない。


 最後に、僕は、古い木造の家のおばあちゃんの話も付け加えておいた。


その4


「ありがとう・・・」

 さつきちゃんは、ちょっと俯いてそう言った。

 僕は、なんだかとてもすっきりした気分がする。話した内容はすっきりしないものだし、僕の話したことも、話しているときの僕の性根もとても爽快とは程遠いものだったけれど、それでも、話してよかったのかな、と思った。

「かおるくん、ちょっと走らない?」

「ええ?」

 さつきちゃんは、返事を聞く前に、空になった二人分のアイスコーヒーのグラスを持って立ち上がり、キッチンで洗いながら、

「少し、走ってくるね」

と、お母さんに、断っている。

「ね、ちょっとの距離だけ」

 にこっ、と僕に笑いかけ、

「行こ?」

 ともう一度促した。


 家の外に出ると、親水公園の中を通っている運河に架かった橋のあたりが、ライトアップされている。

「あれ、いつも、こんな感じになってるの?」

 僕は、さつきちゃんに聞きながら、2人して、何となくその灯りの方に向かって走り出した。

「うん、金・土・日の夜はこんな感じだよ」

 さつきちゃんは、ゆっくり、ゆっくりと走る。

 ほんの300mほどの距離なので、ライトアップされた橋のところには、それでもあっという間に着いた。橋の隣のスペースは、デッキ風の舞台になっていて、やはりライトアップされるなか、まだ若い女の人がバイオリンを弾き、その横で、キーボードの男性が、邪魔にならないような音色を選んで、伴奏している。

 階段のような客席に、それでも20~30人は観客がいた。そういえば、以前、太一とMTBの大会を見に来た場所だと思い出した。

 きっと、皆、もうじき終わる夏の夜を惜しんで、少し、感傷的になりたくて、来ているんじゃないかな、と思う。僕たちは、橋の脇で、立ったまま聴いていた。

 一曲終わると、バイオリニストとピアニストは、観客の拍手に応えて、お辞儀をした。

 バイオリニストが簡単に曲紹介をし、次の曲の演奏が始まった。

「かおるくん、月が結構、丸いよ」

 空を見上げると、8割ぐらいに満ちた、いや、これから欠けていく月が、雲にも街の灯りにも邪魔されずに、この公園の上空にあった。僕は、きれいだな、と思った。それを見ているのがどんな状況、どんな場所でも、僕は月を見ると、月そのものに、素直に反応する。

 きれいだな、と。

 今、さつきちゃんが一緒だけれども、それでも、さつきちゃんの存在は一瞬、忘れて、月の美しさに、素直に、きれいだ、と感動する。

 僕は、唐突に聞いた。

「さつきちゃんは、太陽と月と、どっちが好き?」

 さつきちゃんは、ちょっと考えて、

「それって、」

 また、少し考えて、

「何か、ひっかけ問題?」

 僕は、ははっ、と笑って、そうじゃないけど、と自分から、自分の答えを言う。

「昼間は太陽が好きだし」

 さつきちゃんは、僕の答えに何か推理ポイントでもあるのかと、じっと聞いている。

「夜は月が好き」

 さつきちゃんは、うん、と更に僕を促している。

「でも、日が昇り切った後や沈む前に見える」

 うん、とさつきちゃんは真剣に聞いている。

「有明の月も好き」

 それから?という顔をしている。

「どっちも好きだな」

 さつきちゃんは、

「それなら、わたしもどっちも好きだよ」

と言った。

「僕、目の前に日の出を見て、はっ、と後ろを振り返ったら」

 うんうん、とさつきちゃんは、また、さっきのモードに戻った。

「ちょうど、お日さまと真向いの位置に、お月さまがあったんだ」

 うん・・・とさつきちゃんは少し落ち着いた様子になった

 それから、優しく語りかけてくれた。

「わたしね」

 今度は、僕がうなづく。

「かおるくんのさっきの話に、何か言ってあげることは、まだ、できないけど」

 うん。

「まだ、未熟だけど」

 うん、うん。

「やっぱり、かおるくんの色んな話を真面目に聞くよ」

 うん。

「ふざけたりせず、真面目にね」

 僕は、そこで、ちょっと、リラックスしようと思った。

「たまには、ふざけて、適当に聞いてくれてもいいよ」

 僕がそう言ってから、20秒ほどもしてから、さつきちゃんは、突然、付け加えた。

「わたし、冗談が分からない方だから」

 ん?

「どれがふざけていい話なのか、教えてね」


その5


 長いと思っていた夏休みが終わり、白井市のマラソン大会が明後日となった、金曜日。

 あれ、そういえば、今日は、13日の金曜日だな、と思いながら、教室に入っていった。

 夏休み明けはすぐにテストがあったり、学校の始業時間のこともあるので、朝のランニングは短縮したコースで早めに切り上げるようにしていた。短縮コースのチェックポイントで神社にはお参りしていたので、通学の時に改めて立ち寄ることはしていない。結局、古い木造の家のおばあちゃんの所も、通らずじまいでいる。

 自主トレ系マラソン部も、夏休み明けは、テストが終わった週の土曜日の朝に一度開催しただけだ。

 9月。2学期に入ってから、僕とさつきちゃんは、学校の中で、そこそこ声を掛け合うようになった。太一とはもちろん、遠藤さん、脇坂さんとも、それなりに声を交わす。5人で話すこともあるし、女子3人と僕、ということもある。

 多分、他のクラスメートからも、ごく自然な様子に見えるだろうと思う。

 それにしても、テストは大変だった。

 英・国・数3教科分の夏休みの課題が全て範囲になるのだが、それぞれ、演習問題がふんだんに盛り込まれた受験参考書まるまる一冊分だった。3教科で3冊分。

 英・国、は解説も読みながらなんとかこなした。しかし、数学の受験参考書は、本来、解説・理解を深めるための参考書そのものを読んでも、どうしても分からない。一つつまずくと、次の部分も分からない。

 部活の無い時間を図書館で過ごし、自分なりに努力したつもりではあるのだが、やはり、数学については、努力不足、ということになるのだろうか。

 実は、非常に単純な疑問がわいた。

 そもそも、この参考書を、個々の生徒が、単独でやる、とする。普段の授業でもそうだけれども、基本的に、予習の解説をするのが、授業だ、という暗黙の了解がどうしてもあった。けれども、そうすると、先生の仕事というのは一体何なんだろう、という気はする。

 疑問はあったけれども、僕は、この学校の生徒で、この学校ではそういうやり方で授業をする以上、その中で努力をするだけ、ということなんだろうとは思う。僕は、数学をどうやって進めていくか、考えていた。


 今日最後の授業が終わってHRも終わった後、さつきちゃんが、僕の席の前に立った。

「かおるくん、明後日は現地集合だよね」

 僕はちょっと、考えて、

「うん。でも、もし、陸上部と一緒でも嫌でないなら、同じ電車で行く?」

「え・・・どうしようかな・・・」

 さつきちゃんは結構悩んでいるようだ。

「うん、じゃ、わたしも同じ電車で行く」

 じゃあ、と、僕は、さつきちゃんに、電車の時間と集合場所・集合時間を伝える。

「わたしが混じってたら変じゃないかな?」

「いや、何となくまとまって行くけど、皆それぞればらばらのコースを走るし、会場でもみんな散らばっちゃうから、特に変じゃないよ」

 さつきちゃんは、うん、分かった、と言った。

「じゃあ、明後日」

 僕がそういうと、さつきちゃんは、

「かおるくん、明日は自主トレ、どうする?」

 と訊いてくる。

 僕はやっぱり、んー、と少し考えてから、

「本番の前の日だし、それぞれで軽めの調整にしようか」

 うん、分かった、と、さつきちゃんは、ほほ笑むと、自分の席に戻り、帰り支度を始めた。


その6


 9月15日、日曜日。曇天。残暑の中とはいえ、今日のような曇り空で本当に良かったと思う。お彼岸はまだだけれども、今日を境に、秋の気候に切り替わったんじゃないかと思えるような、すっ、とした空気の感触が髪の毛の隙間から流れてくる。

 朝まだ早い時間に駅の北口改札に皆、わらわらと集まって来て、とりあえずおはよう、と言って、そのまま電車に乗り込んだ。

「小田」

「はい」

 走り幅跳びチーム2年の武田さんが僕に訊いてきた。

「あの子は、小田の、彼女?」

 僕は、さつきちゃんには分からないように、

「違います」

 と、小さな声で返事した。

「じゃあ、小田とはどういう繋がりなの?」

 僕は、即座に返事した。

「同じクラスです」

 武田さんは、笑いながら、僕に訊き続ける。

「それを言ったら、みんな、同じ学校、っていう話じゃない。そうじゃなくて、小田に一緒にくっついてマラソン大会に来る、って、どういう間柄なのかな、ってこと」

 近くの座席にいる短距離チームの1・2年生何人かも話に顔を突っ込んできた。さつきちゃんは、遠慮してか、車両の端の方の座席に座っているので、こちらが何を言っているかは、多分、分からないだろう。

 単距離チームの1年生が言った。

「たまに小田のクラスに行くことがあるんですけど、あの子と結構仲良さそうに喋ってるんですよ」

 ほー、とみんな大げさに相槌を打っている。さつきちゃんに見られたり、他の女子部員に気づかれたりしたくない、とばかり思っていた。

「ほんとに、そんなんじゃないんですよ。なんていうか、部活に入ってないのが寂しい、って言うんで、じゃあ、マラソン大会があるから、一緒に出てみない、って声をかけただけなんですよ」

 みんな、分かったから分かったからというような意味不明の頷きをして、はいはいという感じになった。

「すごく、真面目そうな、感じのいい子だね」

 武田さんは、さつきちゃんのことをそう評した。

「はい。ほんとに真面目で・・・それと、運動能力は多分、抜群だと思いますよ」

 僕がそういうと、

「じゃあ、部活入ってなくて寂しいんなら、陸上部に誘ったら?」

 武田さんはこう言ってくれたが、僕は、家の家事手伝いがあるからそれは無理だということを説明した。

 短距離チームの2年の先輩が、

「かわいい子だから、ちゃんと捕まえておいた方がいいぞ」

と、笑いながら、言った。

 あれこれ言うのもなんだか大変そうなので、僕は、

「はい」

 とだけ、返事した。


その7

 

 白井駅からシャトルバスで、スタート・ゴール会場の白井公園に着いた。

 フル、ハーフ、10km、5kmの順に時間差でスタートする。フル、ハーフの招待選手が開会式の時に紹介された。実際にタイムを競う招待選手の紹介が終わると、一般ランナーと併走して力づけてくれると言った役割の招待選手も紹介された。元オリンピックの女子メダリストで、テレビにもしょっちゅう出ている人だ。

 開会式が終わった後、フルマラソンの選手がまずスタートしていった。陸上部からはフルマラソンを走るのは、結局、長距離チームの内の3人だけだった。男子2人、女子1人。長・中距離チームはハーフ参加者が多い。それ以外の部員は、男子は10km、女子は10kmか5km、という感じになった。でも、やはり、僕もいつかはフルマラソンに挑戦する。これは、その前段であり、僕の陸上競技者としての切実な課題への挑戦だ。

 さすがに、全コース合わせて8,000人が走る大会だけあって、会場はお祭りのようなにぎやかさだ。あちこちにはストレッチしたり、軽くランニングしたり、同じランニング仲間で談笑したり、という姿ばかり。

 僕は、なんとなく陸上部で固まってストレッチしていたのだけれど、向こうの芝生の上を軽くランニングしているさつきちゃんを見つけ、そっちに向かった。

 僕は、さつきちゃんの横に並んで走った。

「ごめんね、なんか、陸上部で集まってたら、何となく入りにくいよね」

 さつきちゃんは、軽く息を弾ませている。

「ううん。こっちこそ、ちょっと場違いな感じで、ごめんね」

 僕は、改めてさつきちゃんを見る。白地で胸の右あたりにオレンジで小さくメーカーのロゴが入ったTシャツに、同じメーカーの薄いピンク色のランパン、それに、別のテニス用品メーカーのキャップをかぶり、白にオレンジのラインが入ったランニング専用のシューズを着けている。

 いつも自主トレの時は、Tシャツに長いジャージのパンツだったので気付かなかったけれど、上下短いウェアの今日は、あれ、こんなに痩せてたんだ、と思うくらい、細くて長い手足が目立つ。体のパーツのバランスが取れているせいだろうか、素の手足が見えると、小柄な身長以上の高さに見える。少し黒く日焼けした肌が、余計にその印象を強調する。

 場違いどころか、この会場にいて、ここまでしっくりくる容姿のランナーもあまり、いないような気がする。

「ハーフの選手がさっき、出て行ったから、10kmはもうすぐだね」

 さつきちゃんが足を止めずに僕に話しかける。

「うん、もう、緊張感もいい感じで、早くスタートしたいな」

 僕とさつきちゃんは、芝生のスペースを蛇行しながら、たったっと軽く走り続ける。

 そのうちに、10km参加者の集合の合図がかかった。

「じゃあ、ちょっと、行ってくるね」

 僕は、スタート地点に向かう。

 さつきちゃんは、頑張ってね、と、軽く手を振ってくれた。

 

 スタート地点に行くと、陸上部の参加者も、列の中に加わり始めていた。本当に、ぎっしりと人がスタート地点に、細長く並んでいる。競技タイム計測の人、自己ベスト更新が目標の人、マイペースで走りたい人、というプラカードが、前から順に何十メートルかの間隔で立てられ、走る動機・目標によって、スタート位置を自分で選ぶのだ。陸上部の中・長距離チームは前方の方に陣取っている。僕は、自己ベストとマイペースのちょうど境目くらいの位置に何となく、立った。

 軽いロックナンバーがBGMで流れている。今まで、マラソン、というと、緊張と、半ば、後戻りできない世界へ飛び出さなくてはならないという恐怖が襲ってくるのを避けることができなかった。

 けれども、今は、何か、不思議な昂揚感があり、ああ、早く走り出したい、という気持ちでいっぱいだった。繰り返し走った自主トレのコースやら、親水公園でのストレッチやら、なぜか、図書館で勉強していた時のことまでが思い出される。久木田に頭をはたかれたことすらも、なんだか、この瞬間には帳消しになるような感じがした。僕は、近くに位置している陸上部員たちとも、手を上げて、頑張ろう!と笑顔を交わした。

 スタートの合図が鳴った。

 最前列は勢いよく飛び出すが、以後の列は、押し合って事故を起こさないように、ゆっくりと動き出す。僕のいる周囲の列もずりずりと前に動き出す。公園の中の通路を抜けだすまでは多分、こんな感じなんだろう。みんな、笑顔で進んでいる。なんだか、すごく不思議だ。

 ‘走る’ということが、苦行のようなイメージを、陸上部のこの僕すら子供の頃から持っていた。走るのが得意な人ですら、苦行に耐えることができるからすごいんだ、というイメージを持っていた。

 けれども、今、このスタート地点にいる人たちは、みんな、走るのが楽しみ、という雰囲気を醸し出し、笑いあい、声を掛け合い、もっと、自由に足を、手を、動かしたい、という欲求に満ちて、前へと進んでいる。

 走りたいから、走る。なんで、今までこんな当たり前のことに、思い至らなかったのだろうか。

 ほんの小さい、3歳か4歳くらいの頃、お父さんに、

「競争しよう!」

 と、意味もなく挑戦して、何度も何度もお父さんと一緒に公園の芝生のスペースを往復したり。

 まだ、意地悪なことも何も考えられないくらいの小さな年代同士で、野原で意味もなく、わーっ、と走ったり。

 そんなときは、走りたいから、走っていた。

 誰の走りがいいとか不格好とか、速いとか遅いとか、そうじゃなくて。

 自分が走る、そのスピード感。

 自分が走るのに消費するその自分自身の体の芯のエネルギー。

 そういったものを、走る、という行為そのものが満たしてくれる。思い起こさせてくれる。

 そんな、全身で表現するのに恰好の、本能。

 公園を抜け、僕は、四肢を、んー、と伸ばしたような気分になった。

 周囲の人口密度がだんだん低くなっていく。

 さあ、僕自身の走りをしよう。



その8


 僕は、できるだけ、自分のペースで走った。でも、それは、決して1kmを何分か、という数値的なペースではない。自分が走っていて気持ちよいペース、ということだ。

 実際、この大会の雰囲気のせいなのだろうか、本当に体も、足も軽い気がする。

 自主トレの時は、アスファルトと足の接地というか、シューズの裏でアスファルトをとらえるごとに、エネルギーを加える、というよりは、摩擦の力だけが足に残り、段々と足が重くなることもあった。

 けれども、今日は、本当にスムーズに体が動く。前の人に追いつこうとか、抜こうとかいう気持ちも何もないのだけれど、すっ、すっ、と体が滑らかに前に推進される感じがする。

 もちろん、速いランナーには後ろからどんどん抜かされてるけれども、そんなことすらまったく気にならないように、体が自然と動く。自分が気持ちいいペースなので、息が苦しいということもない。

 途中、車がやっとすれ違えるくらいの細い道があり、大会の係の人たちが、左側に寄って走るように指示している。

 その時、沿道で応援している人や、踏切の向こうで小さな女の子とお母さんが、ランナーの列を見て手を振っている様子も目に入ってくる。

 すべてが、気持ちよい。気持ちよさのあまり、僕は少しスピードを上げた。

 ふと見ると、前方からもの凄いスピードの選手が対向のラインを走ってきた。フルマラソンは完全に別のコースを走っているが、ハーフは10kmコースと重なる部分がある。すると、これは、ハーフのトップ選手なのだろう。僕たちの列の横を駆け抜けていった。

 その選手から20mほど遅れて、次の選手が駆け抜けていく。

 僕はそのスピードに圧倒されはしたけれども、自分の走るスピードにも十分スピード感を感じながら走り続けた。

 市役所の前を通り過ぎたところで、一旦ターンするような形になる。そこから北側に向かって川の土手に隠れた道を走る。スピードを緩め、ゆっくりとターンする。

 ターンすると、皆、またそれぞれの範囲でスピードを上げてたったっと駆け始める。

 突然、悲しみが襲ってきた。

 あっ、と僕は不可解な気持ちになる。

 何故、このタイミングで、なのだろうか。

 走っていて、急に悲しくなったことは、実は、自主トレの時にも何回かあった。

 その都度、僕は、悲しい気分をほったらかしにして、無視して走り続けた。その悲しい気持ちは、あの、夏休みの直前に、古い木造の家のおばあちゃんが、実は独り暮らしではないかと想像した、あの時の悲しみに似ているものだ、と何度も思った。どうにもならない、ただ単なる悲しみではなくて、解決することがほぼ絶望的な、悲しみ。

 仮にあのおばあちゃんが一人暮らしでなかったとしても、旦那さんやお嫁さんと一緒に暮らしていたのだとしても、その悲しみは、和らぐことはあっても、消え去ることはない。

 もう、あのおばあちゃんが、若い頃に戻ることはない。万が一、戻ることが可能だったとしても、一体、いくつの歳まで戻ればいいというのか。30歳?20歳?15歳?

 今、このコースを走っている僕は16歳。でも、二度と16歳の、このコースを走り抜けている今日の瞬間に戻ることはできない。このコースを走り終えると、僕は、確実に年を取る。走り切った、そのタイムの分、僕の肉体も、精神も、古びる。それを成長というほど、僕はオプティミストでは、もう、ない。あのおばあちゃんが、一日、日を重ねて、それを成長と呼ぶことができないのと同じように。

 今、走っている沿道の向こう側に、給水ポイントが見えてきた。水を入れた紙コップが、折り畳み式のテーブルの上にいくつも並べられ、その後ろにはスタッフの人たちが、手を上げて、ランナーに、はい、はい、と渡している。

 僕は、瞬間、悲しみの箱の中から、顔をぽこっ、と上げることができた。

 さっき見た、ランナーさつきちゃんの若さに満ち溢れたいでたちが目に浮かんだ。そうだ、僕は確かに瞬間瞬間で、古びていく。さつきちゃんにしたって、それは同じだ。

 けれども、さっき、見た、さつきちゃんのTシャツ・ランパン・シューズ・キャップ・そこからすっと伸びる手足・笑顔、その姿形の記憶は、少なくとも、僕がこの10kmを走りきるための精気を与えてくれるには十分すぎる、瞼にまだ残像として残っている映像だ。今、この瞬間にエネルギーを使う、その糧としては、十分だ。

 僕は、給水所の紙コップを受け取った。スタッフの人は、頑張って、と声をかけてくれる。

 僕は、軽く頭を下げて、さあ、飲もう、と思ったけれども、走りながら紙コップの水を飲むというのは、半端なく難しいことに気が付いた。やむなく、若干スピードを緩め、一気にごくっ、と飲み干す。とは、うまくいかず、半分近くこぼしてしまった。

 少し前のテーブルのごみ袋に紙コップを捨て、元のスピードくらいにまで上げて走っていくと、5km地点に、サングラスをかけ、もじゃもじゃのカーリーヘアのかつらをかぶった男性スタッフが、‘あと半分、GO!’と書いたパネルを持って、ランナーとハイタッチをしている。僕も、通り過ぎる時に、ハイタッチして、「GOGO!」というスタッフの人の声を後ろに走り続けた。

 ただ、正直、えっ、まだ5km?という感じはした。時計は着けていないので、どのくらいのペースで走っているのか、よく分からない。いつもの自主トレの時の感覚を思い出してみるが、コースが違うので、やはり同じ感覚を当てはめて推量することは、ちょっと、無理がある。とにかく、気持ちいい感覚だけを大切にして走っていくことにした。

 最後のターン地点が見えてきた。結局、T字型に走り、帰りは少し別の道を走って、またスタート地点の公園に戻ることになる。

 ちょっとだけ、膝が痛い。でも、止まったりするほどでも、スピードを緩めるほどでもない。僕は、ターンして、方向を変えると、まだまだこれからターン地点めがけて走ってくる人とどんどん擦れ違う。さすがに、苦しそうな顔をしている人もいるけれども、すれ違う人同士で、がんばれー、と声を掛け合っている。

 僕は、気持ちいい感覚を残してはいるけれども、そろそろ、淡々と走っている、という感覚も出始めてきた。

 走っていても、物は考える。

 でも、考える量は減る。考える物事の質も変わる。さっきのように突然悲しくなることもあるし、ちょっと前のように、さあ、行くぞ、という気分にもなる。どうにもならない昔の怒りを思い出して体を叩きつけるように走ったこともあったし、今日のスタートのように、なんだか全部、OKなことだったんだ、という気分で走ることもある。すべて、走る、ということが、引っ張り出してくれたのかもしれない。高校に入ってからも太一との付き合いが続いていること。遠藤さん・脇坂さんとも友達になったこと。耕太郎みたいな小学生もいるんだな、と思ったこと。さつきちゃんのような、これまで見たこともないタイプの女の子も、いるんだな、ということ。

 走ることによって、整理され、つながりもでき、なんとなく、こんな感じだよね、という風にまとまってきたのかな。

 僕は、気が付くと、弧を描いて昇る橋の上に差し掛かっていた。実際に走ってみると、いつも自主トレで登っていた山ほどの苦しさはない。橋の最高点に達すると、白井市の、大きな川が雄大な姿を僕に見せてくれた。決して開けた町ではないけれども、この格式高いマラソン大会の開催地にふさわしく、陽の光、川の水の質感、それらが、きらめくような美しさを見せている。

 下りにかかる。本当は、スピードを抑えて、足への負担も極力かからないような走り方をするつもりだったけれども、この気持ちを抑えることができない。

 自然と、たたたっ、という感じのリズムで、道行く同志のランナーたちと、歩幅とシューズの音で言葉を交わすような感覚になってくる。

 橋を渡りきると、だんだんと、沿道の応援の人たちも増えてきたような気がする。もうじき、公園の入り口が見えてくるのだろう。ラストスパート、なんてつもりは全くないけれども、ああ、もうすぐだ、という気分の高まりを抑え切れない。気持ちよさからちょっと苦しい、という、その狭間ぎりぎりのペースで、僕は、ゴールを目指す。

 公園の入り口が見えてきた。ゲートが見える。ゲートをくぐると、ゼッケンにつけられた、タイムを計測するためのセンサーを読み取る仕組みになっている。果たして、タイムは・・・という楽しみも若干持ちながら、僕はゴールのゲートをくぐった。

 ああ、楽しかった。走って、こんなに楽しかったのは、本当に久しぶりだ。それに、気持ちとは反対に、ここまで体に負荷をかけて走ったのも、実は久しぶりだろうと思う。僕は、ゲートをくぐってから、もうしばらく歩き続けた。まずは、ゲート付近で配られている、紙コップのスポーツドリンクを貰った。つい、勢いをつけて飲んでしまい、むせ返った。その後、もう一度、ゆっくりと飲み干す。おいしい。ただ、その一言しか浮かばない。

 陸上部のメンバーとも声を交わす。

 僕は、完走認定書を貰いに、受付に行った。ゼッケン番号を見せ、プリントアウトしてもらう。

‘小田 かおる  記録 45分15秒’

 僕は、思わず、目を疑った。実は、50分台で走れればいいな、と思っていたのだ。

 確かに、高校生のトップランナーは10kmなら30分程度で走る。それから比べたら僕のタイムは速いわけでもなんでもない。

 けれども、僕は、自分なりに、スピードをつける、という目標を達成することができた、と安堵した。最初、自主トレのコースを走り始めた時、チェックポイントをいくつも通過しているからというのもあるけれど、11kmほどのコースを1時間30分以上かけて走っていたのだ。

 僕は、認定書を見ながら、ちょっとだけ、心の中で笑顔になった。

「かおるくん」

 振り向くと、汗をかいたさつきちゃんが立っていた。

「お疲れ様。完走できてよかったね」

 さつきちゃんも認定書を貰いに来たところのようだ。

「でも、自分にしたらやっぱりハードだったよ。さつきちゃんは、どうだった?」

 さつきちゃんは、汗はかいているものの、まだ余裕のあるような様子に見える。

「楽しかったよ。何だかお祭りみたいで。でも、5kmはやっぱりあっという間だね。次は10kmを走ってみたいな」

 その後、体育館で着替えをしてから再び屋外のイベントスペースに戻る。

 参加者全員におにぎりや豚汁の引換券が配られており、列に並ぶ。なんとなく、さつきちゃんと2人で一緒に並んだ。

「あれっ、みんな、あそこにいる」

 僕は、陸上部の男女5~6人で固まっているグループを見つけたので、手を上げた。

 が、その5~6人は、手を横に振るような、お構いなく、お構いなく、という言うような意味不明のジェスチャーをして、僕に、いいからいいから、と言っているようだ。

 もしかしたら、僕とさつきちゃんが2人でいるので、気を遣っているのだろうけれども。

 さつきちゃんは、その様子を見て、何となく、恥ずかしがっているようだ。

 僕は、とりあえず、何も言わずに、黙っておにぎりやらなんやらを受け取り、さつきちゃんと2人で芝生のスペースにどこか木陰がないかな、と移動した。

 2人でご飯を食べる間、本当に他愛もない話をした。今までのパターンからいくと、さつきちゃんと他愛無い話をすることの方が、難しい話をするよりも困難だろうと思っていたけれども、単なる先入観だったようだ。さつきちゃんは、テレビもそれなりに観ているようだし、今流行りのアイドルグループのこともそれなりに知っている。漫画の話題も振ってみると、そこそこ2人でも会話が成り立ち、結構感動した。

 さつきちゃんは、大学の醸造学科が舞台の漫画がお気に入りだと言っていた。

「わたし、なんとなく漠然とだけど、大学では食品関係の学科に行ってみたいな、なんて思ってるよ」

 僕は、食品関係の学科、というと、あまりイメージがわかない。

「食品関係って、栄養士とか、ってこと?理系になるの?」

 さつきちゃんも、まだ、勉強中のようで、

「たとえば、さっきの漫画の醸造学科だと、どちらかというと化学の分野になると思うけど。家政学科、っていうくくりもあるし、色んな分野にまたがると思う」

 そういえば、自分は、もしこのまま大学に行くとすると、どういう分野に進みたいのか、考えたことはなかった。どの分野、というよりは、どの大学、という程度の発想しかなかった。

「かおるくんは、行きたい学科とかある?」

 まさしく、今、‘考えよう’という発想がわいたばかりだ。

「正直、考えたこともなかった。漠然と文系かな、っていうくらいしか頭になかった」

 さつきちゃんは、なぜか、僕の顔をじっと見ている。声には出さないが、んー、と考えているような顔だ。

「わたしの勝手なイメージだけど・・・かおるくんは語学系の学科なんて向いてるんじゃないかな」

「えっ、どうして?」

 さつきちゃんは、くすっ、と笑って僕の顔をにこっ、と見つめる。いつもの笑顔とは微妙に違う、今まで見たことのない種類の笑顔のような気がする。

「だって、わたしとコミュニケーションを取ってくれてる時点で、かなりの文化のギャップに対応できる能力があると思うから」

 僕の頭の中が疑問符で一瞬、満たされた。疑問符が消えない状態で、とりあえず、質問してみた。

「それって、結構真面目なコメント?それとも、結構戯れのコメント?」

 僕の聞き方がおかしかったのか、さつきちゃんが、珍しく、くすくす笑う。

「ふふ。ごめんね。両方、両方。でも、わたしみたいな特殊な人間とコミュニケーションが成り立つということは、かおるくんは、なかなかやるな、って、本気で思うよ」

 僕も、思わず、笑ってしまった。

「さつきちゃんは、特殊な人間なの?」

 さつきちゃんは、自信満々にこう言った。

「じゃあ、試しに、わたしが特殊じゃない部分を言ってみて」

 僕は、速攻で考えてみた。頭をフル回転させて考えてみる。

「・・・ごめん、すぐには出てこない」

 さつきちゃんは、誇らしく、でしょう?という感じの表情になる。

「わたしは、自分のことを特別、っていう風には思わないけど、普通の人から見たらちょっとずれてるかも、っていう自覚は一応あるよ。

 おばあちゃんやお母さんが言っているようなことって、やっぱり、女子高生がうんうんと頷くようなことばかりじゃないと思うから」

 いつもに増してよくしゃべるさつきちゃんに、僕は多少の戸惑いを覚える。

 気が付くと、2人とも、もうご飯を食べ終わっていた。

 そういえば、フルマラソンに出場した長距離チームの3人はどうなったかな、とふと考えた。

「そろそろ、帰り支度しようか?」

 僕は、段々と体が冷えてきた。2人ともジャージを着こんではいるけれども、今日を境に秋空に変わった空気は、乾いているだけでなく、芯に冷たさを含んでいるな、と、感じる。

「陸上部の人に挨拶しなくて、大丈夫?」

 さつきちゃんが気を遣って言ってくれる。確かに、そうだと思い、僕は周りに誰かいないかと探した。

 ちょうど、男女の走り幅跳びチームが芝生の少し離れたところに座っていた。武田さんもその中にいたので、僕は、挨拶に行った。

 武田さんの他、2年の女子の先輩まで、さっきと同じような、意味不明の反応をした。

 武田さんは、はっきりと口に出して、こう言ってくれた。

「気にしなくていいから。どうせ、みんな、ゴールもばらばらだし、適当にみんな帰るから、あの子と一緒に帰ってあげてよ。ほっておくと、嫌われるよ」

「いえ、本当にあの子はそんなんじゃないんですよ」

 2年生の女子の先輩が、横から口を差し挟む。

「わかったから。仮に、今、そんなんじゃなかったとしても、これからそうなるかもしれないでしょ。わかったら、先輩の言うことは聞いとくもんだよ」

 みんなして、行け、行け、と、しっしっと猫か犬でも追い払うような手つきで僕を追い立てる。別れ際、武田さんが、

「それと、明日から、本業の幅跳び一本だからね」

と、一言、気を引き締めてくれた。


その9


 帰りの電車は空いていたので、僕とさつきちゃんは、並んで座れた。ぼんやりと窓の外を眺め、今日はなんだか盛りだくさんだったな、と思う。さつきちゃんは電車に乗ってからしばらくは俯いて、黙っていたが、不意に話しかけてきた。

「かおるくん、ありがとう」

 え、何が?と僕は聞き返した。

「だって、今日、マラソンに出られたのは、かおるくんが声をかけてくれたお蔭だから」

 僕は、そんなことないよ、と、さつきちゃんに笑い返す。

「僕の方こそ、自主トレを続けられたのは、さつきちゃんのお蔭って、思ってるよ」

さつきちゃんは、にこにこして、自分の手の平をぎゅっと、ストレッチするような仕草をしながら話し続ける。

「やっぱり、かおるくんのお蔭。今日は、本当に、青春を謳歌できた、って感じがする」

 僕は、もう一度、さつきちゃんに笑いかけた。でも、そういえば、気にかかることがあった。

「さつきちゃんは、帰ったら、今日も晩御飯の準備をするの?」

 さつきちゃんは、一瞬、え?というような顔をしたけれども、すぐに、いつもの顔に戻った。

「うん、今日もするよ」

「・・・疲れたから、パスしたい、とか、そういうことってないの?」

 さつきちゃんは、僕の方に顔を向けて、下から僕の顔を見上げるようにして、答える。

「ほんとに疲れた時はそうだけど、5kmならまだ大丈夫。それに、お母さんいわく、主婦には休みは無いって」

「そっか、さつきちゃんは、主婦なんだ!」

 さつきちゃんは、嬉しそうに笑う。

「本業は、学生だけれども。でも、最近、献立も大分とわたしに任せてくれるから、楽しいよ」

 そっか、と、僕は、頷く。自分は、ここまで親を助けているだろうか、と振り返ると、もちろん、ほぼ何もしていないに等しいことに改めて気付かされる。

「かおるくんは、明日から、本業の走り幅跳びに専念?」

 僕は、うん、と返事をする。そして、付け加える。

「本業は、実は、学生で勉強なんだけどね」

 さつきちゃんは、僕に何だか言いたいことがあるような口ぶりで更に話を続けた。

「かおるくんって、数学は得意?」

「いや、すごい苦手」

 そっか、と、さつきちゃんは電車の床を見つめている。

 どうして?と僕が聞くと、更に続けた。

「わたし、結構、数学で苦戦してて。夏休みの課題もなんとか終わらせはしたけど、分からないところがかなりあって。もちろん、100%分かれば一番いいんだろうけど、せめて、もうちょっと理解が深められないかな、って、思って」

 ちょっと、意外だった。実は、数学で困っている、っていうのは、自分の専売特許のような気がしていたので、さつきちゃんも似たような感覚を持っていることが少し嬉しい気もする。

「塾でも行った方がいいのかな」

「そっか。かおるくんにはそういう選択肢もあるんだね。でも、わたしはちょっと塾は無理かな」

 家事をこなすために部活に入っていないわけだから、部活が塾に置き換わるというのは、事実、無理だろうと思う。

「ごめん」

 と僕がすぐに言うと、ううん、かおるくんが謝ることないよ、と、首と手を、少しオーバーアクション気味に振ってくれた。

 僕は、何かいい知恵がないかと、必死で頭を振り絞る。

「家事や部活の時間も確保できて、普段の勉強時間の他に、数学をなんとかする時間も確保して・・・」

 僕は、右のこめかみを、親指でマッサージした。意味もなく目をつぶり、こうすれば思考が深くなるかのように、または、思考が深まらない分、気分的に一生懸命考えているような雰囲気を醸し出せるように、ぎゅーっと目をつぶる。

「日曜日か・・・」

「え?日曜日?」

 僕のつぶやきに、さつきちゃんは素直に反復で反応してくれる。多分、さつきちゃんにとっても、数学問題は切実なのだろう。

「さつきちゃん、園田先生とは話したことある?」

「2年生の担任の数学の先生だよね?ううん、話したことないけど」

「バレーボール部の顧問の先生なんだけど。太一に聞いたんだけど、バレー部は、バスケ部との体育館使用の兼ね合いで、月2回、日曜日に練習するんだって。その時に園田先生も学校に出てくるんだけど、キャプテン中心にどんどん練習を進めるから、先生は特に練習を見てる必要もないんだって」

 うん、うん、とさつきちゃんは、目が結構真剣だ。

「だから園田先生は、職員室で、普段たまってる事務仕事をしてるらしい」

 うん、と、さつきちゃんは先を急ぎたそうだ。

「それで、バレー部の部員は、練習が終わった後、職員室に行って、結構数学の質問をしたりしてるらしい」

 ふーむ、と、なんだかさつきちゃんの反応が、段々コミカルになってきたような気がする。

「太一のつてを頼って、バレー部の練習時間中に、園田先生に数学の質問、してみようか」

 さつきちゃんは、ちょっと考えているようだ。

「そうすると、園田先生のせっかくの事務処理時間にお邪魔するから、できるだけ、簡潔に、効率よく質問しないといけないね」

 僕は、そうだね、とうなづく。

「もちろん、結局は自分で勉強するしかないんだけど、僕はそもそも、数学の先生に対しても何か変なコンプレックスを持っているようなところがあって。数学の先生から見たら、生徒は二種類しかいないんじゃないか、っていう。数学のできる生徒とできない生徒、っていう。しかも、数学の先生は、その生徒の顔を見ただけでそれを見抜く力があって、ああ、こいつは駄目だ、みたいな失望を見せる、っていう感じで。」

 さつきちゃんは、くすくす笑い、分かるよ、と同意してくれた。

「だから、とにかく、数学の先生と仲良くなる、っていうだけで、相当な進歩のような気がする」

 さつきちゃんの顔が、ぱっ、と明るくなっているのが分かる。実は、数学を敵だ、と思っている生徒は、想像以上に大勢いて、陰の一大勢力をなしているのではないか、という、淡い期待さえ持ってしまう。

「自分の都合ばかり言ってしまうけれど、日曜日ならば、家事のやりくりも付きやすいからすごく助かる」

 それを聞いて、さつきちゃんは、自分の都合ばかり言ってないよ、むしろ、その逆だよ、と言ってあげたくなる。

 とにかく、僕は、さつきちゃんとの関係は、惚れた腫れたの浮いた関係とは正反対のものに、意識的に持っていかないと、自分でも心配なのだ。さつきちゃんのお母さんは、優しくて柔らかい人だけれども、ちょっとでも、僕たちが浮ついた関係になれば、「もう、小田くんとは話しちゃだめ」と、本気で言うような、そんな厳しさも持っている。

「太一に一度、話してみるよ」

 そうこう言っている内に、電車は駅に着いた。ホームの階段を上がり、僕は南口、さつきちゃんは北口へと向かう。別れ際、

「今日は、本当にありがとう」

とさつきちゃんが言ってくれた。僕は、じゃあ、また明日ね、と返事して、南口の改札に向かって歩き出した。


その9


 秋季大会まで、あと一週間。僕たちは本業である勉強が終わった後、暗くなる手前まで、グラウンドの砂場で跳躍を繰り返した。

 ここ数カ月間、白井市のマラソン大会のために走り込んだことが、跳躍の役に立っていることを感じる。各段に跳躍の距離が伸びた訳ではないけれども、今までよりも、楽に一連の動きができるようになったと感じる。先輩方も僕の助走から踏切、着地までの様子を見て、

「バタバタしなくなった」と言ってくれた。

 先輩方の跳躍を見ても、マラソン大会の効果が僕の目からでも分かる。

 もちろん、カールルイスのような美しいフォームになった訳ではないけれども、そのフォームを見ていると、心がカールルイスに近づいたのではないか、とそんな風に想像できるような姿だ。

 ちなみに、マラソン大会の公式記録一覧が後日届いていた。事前に、個人名を公表する旨同意していたので、僕の名前も掲載されていた。

 10kmランナー1,250人中、353位。当日確認したタイムにも自分では驚いていたけれども、成人男性も参加したこの大会で、僕としては出来過ぎの結果だと思った。正直、陸上部のくせに、走ることそのものとは正面切って取り組んでこなかった自分としては、びっくりしている。

 しかし、5kmの記録一覧を見て、僕は更に驚愕した。

 5kmランナー885人中、さつきちゃんが、22位だったのだ。

 僕は、さすがに、えっ!と、自分の部屋で思わず声を出してしまった。

 確かに、5kmは、比較的低年齢層や女子が多い傾向にはあるけれども、例えば、都道府県対抗駅伝の短い距離を任される女子中学生選手のような現役バリバリのランナーも混じっているはずなのだ。そんな中で、現在特に運動部に所属している訳でもないさつきちゃんが22位というのは、凄いを通り越して、異常だと思う。

 僕は次の日、さつきちゃんに、凄いね、と言ってあげたら、さつきちゃんは本当に顔を真っ赤にして、何度も、ううん、ううん、と首を振り、消えるような小さな声で、

「たまたま、あの日は調子がよかったから」と言うだけだった。

 陸上部長距離チームの女子1年生からも、

「小田くん、やっぱりあの子、陸上部に勧誘できないの?」と何度も訊かれた。

  

 練習が終わり、帰ろうとしていると、ちょうどバレー部も部室から何人か出てくるところだった。太一が一年生部員何人かと話しながら出てきた。太一は僕を見つけると、バレー部員に、じゃあ、と声をかけて、僕の方に走ってきた。2人で並んで帰り道を歩き始める。

 毎日顔を合わせているけれども、2人で話をする時には、無限に話題が出てくるような、そんな感じがする。学校の授業の話、部活の話、昨日のテレビの話、本の話、音楽の話。

 これは、小学校の時から変わらないことだ。

 2人のどちらかが一方的に話題を振る、という訳でもなく、何となく均等に話題が行き来する。僕はこれまでに何度太一に助けられたか分からない。僕が、小学校の頃から、休まずに学校というものに通えたのは、かなりの部分が太一のお蔭だと思う。これに関しては、一方的に僕が太一に助けられてきた、という自覚がある。太一は決してそんな風に思っていないし、僕に対し、本当に自然にニュートラルに接してくれる。多分、太一は誰に対してもそうなんだろうとは思うけれども、僕にしてみれば、これは小学校の、いじめが吹き荒れていたあの最中においては、世界が変わるほどの感覚だった。

 僕をかばうことで、太一も攻撃に晒されそうになったことは何度もあった。しかし、太一は、そういうことを本気でまったく意に介さなかった。そういう、本当の意味で堂々とした人間を目の前にすると、姑息で卑怯な人間は、所在が無くなってしまったのではないだろうか。僕は、もう、7、8年太一と付き合っているが、なぜか、今日のこの瞬間に、つい、太一に訊きたくなった。そして、本当に訊いてしまった。

 太一は、本当に淡々と僕の質問に答えてくれた。

「僕は、別にかおるちゃんへの思いやりや友情だけで庇った訳じゃないよ。変な感覚かもしれないけれど、‘どうなっても、構わない’っていう気持ちが常にあったなあ、って思う」

「どうなっても、構わない・・・?」

 太一は少し、ほほ笑んでから、口調はあくまでも真面目に続けた。

「おかしいかも知れないけれど、‘どうせ、こいつらも年取って死ぬんだ’、って思ったら、じゃあ、別に自分も、かおるちゃんを庇うことで困ったことになっても、別に構わないかな、って」

「やけくそ、ってこと?」

 太一はちょっと困った顔になり、更に続けた。

「やけくそとも言えるのかな。でもできれば、上手く解決するに越したことはないと思ってたから、やけくそ、っていうのもちょっと違うかな」

 太一はそこから、うーんうーん、と考えて、ようやく言葉が出てきた。

「かおるちゃんと、運命共同体で構わない、ってことだったかも。どうせ、かおるちゃんに一度助けられた命だしね」

「え、何か助けたっけ?」

 太一は、え、忘れたの?、と言ってから再び話し出した。

「僕が小学校4年生の途中で転校してきてから2、3日経った日、久木田たちが僕を取り囲んで、僕を新たな‘生贄’にする、みたいなことを言い出したんだよね。

 その時、なぜか、その場にかおるちゃんがひょっ、とやって来て、すぐに久木田たちの関心がかおるちゃんをいたぶることに移ったんだ」

「そんなこと、あったっけ・・・でも、多分、本当に偶然僕がその場にやって来ただけで、太一を助けようとかして行った訳じゃなかったと思うよ」

「それでもよかったんだ」

 太一の言葉に、僕は不可解な顔で太一を見つめていたのだろう。太一は真面目な顔をして、続けた。

「何にせよ、かおるちゃんのお蔭で、僕は助かったから。じゃあ、別に、いいかな、って感じ。どうせ生贄になるかもしれないところだったんだから、たてついて、また取り囲まれて、生贄になるならなるで、別にどうなっても、構わないな、って、そんな感じ」

「・・・ありがとね」

 僕は、一言そう言った。やはり、僕が太一にありがとうなんだと思ったので。

「それと、久木田、バイクで事故ったんだね」

「え、そうなの?」

 太一の言葉に不意打ちを喰らった。

「夏休みに、あすこの山の下り坂で自損。足首を骨折だって」

「誰から聞いたの?」

「うちの母親から。幸恵(太一の妹。中学1年生)のPTAの集まりの時に、お母さん方で話題になったんだって。暴走族、って訳じゃないらしいけど、先輩から色々強制されて、久木田も大変みたいだよ」

「それも、何か嫌だな」

 僕は、別に久木田が可哀想とかは全く思わないけれども、その‘先輩’には嫌悪感を抱く。きっと、僕の陸上部の先輩方とは全く違う人間たちなのだろう。

 僕たちはその後、しばらく口数少なく、もう暗くなった道を歩いて行った。


その10


 秋季大会では、遂に武田さんが市のチャンピオンになった。そして、僕は、自分でも信じられなかったけれども、市で3位だった。他の先輩方からは、はっきりと複雑な気分だと言われた。その上で、頑張ったな、と僕に言って下さった。僕は、真摯に受け止めた。

 秋季大会は市レベルの大会だ。県内には他にもライバルが大勢いる。けれども、差がそんなにある、とは僕は全く感じていない。逆を言うと、自分達も精進を怠れば、あっという間に後戻りしてしまう、ということでもある。恐ろしい。

 先輩方も、上位入賞者が何人もいるし、入賞しなかった者も全員、日々の精進が実りつつある。単に、記録が伸びる、ということではなく、練習の時から試合本番までの一回一回の跳躍がすべてかけがえのない、二度と戻らない愛おしいものと感じながら跳べるようになってきている、そんな感じがする。それは、今現在の先輩方や僕たちだけでそうなることができたのではなく、引退した松本さんたちや、更に上の先輩方が何年も、何十年もかけて、‘鷹井高校陸上部走り幅跳びチーム’の伝統として、作り上げてきてくれたものなのだろうと思う。僕たちチームの誰かが、松本さんがあとわずかのところでなし得なかった、インターハイ出場を果たしたい、そういう気持ちが、みんなの跳躍一つ一つに滲み出ているような気がする。

 10月も半ばに差し掛かっていた。


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