第3話 8月へ

その1

 

 親水公園から家に着いて、着替えて台所に入ると、お父さんが朝ごはんを食べているところだった。お母さんは目玉焼きを焼いた後のフライパンを洗っている。

 僕は、お父さんとお母さんに、おはようございます、と言って、ご飯をよそい味噌汁をつけてテーブルのお父さんの席の斜め左の定位置についた。

 いただきます、と言って、小松菜のお浸しから食べ始める。

 うつ病になる前、お父さんは、毎朝とても早い時間に会社に行っていた。実際、仕事が忙しいというのは僕にはよくわからない別の世界のことのような気がしていた。

 今思い出すと、亡くなったおばあちゃんは、僕が幼稚園の頃は、「幼稚園はどう?」と毎朝必ず聞いた。そして、幼稚園に出かける前に、「仏さんにお参りして」と、ほんのちょっとの短い時間でもいいからと、必ず仏壇に僕を向かわせ、手を合わせさせた。

 小学校になると、「小学校はどう?」となり、仏壇に向かわせた。

 中学校でも同じだった。中学2年の時に亡くなるまで毎日そうだった。

 おばあちゃんは、僕が中学2年の冬に、肺炎で亡くなった。今でも覚えているのだが、お母さんが風邪をひいていた。そのお母さんの風邪がうつったのか、おばあちゃんが珍しく熱を出して寝込んだ。熱を出した時、お母さんがおばあちゃんを病院に連れて行こうとしたのだが、「寒いから、外に出るのは嫌だ」と、行かなかった。

 そのまま家にあった配置薬の風邪薬を飲んでいたのだが、熱を出した翌日に咳がひどくなり、夜近くなると呼吸がぜいぜい言う感じだったので、いつものかかりつけのお医者さんに電話して往診にきてもらった。お医者さんは、

「多分、肺炎を起こしている。すぐに市民病院に連れて行かないとだめだ」

と、救急車を呼んで、市民病院に行き、入院した。

 そして、次の日の朝に、それこそあっという間に亡くなった。

 お母さんは、自分が風邪をうつしたのではないかと一瞬落ち込んでいたが、お通夜、お葬式の準備と、落ち込んでいる暇もなかった。割と近いところに住んでいる小姑も臨終の席から常に一緒にいたので、気も張らざるを得なかったと思う。

 でも、実は、おばあちゃんが亡くなる少し前から、僕はおばあちゃんやお母さんよりも、なんだかお父さんがおかしいな、と、漠然と気になっていた。

 もともとそんなに明るい朗らかな人柄ではないのだけれども、その頃は特に寡黙で俯いているような気がした。時折、便所の中から、お父さんの唸り声が聞こえることもあった。

 便秘か何かで唸っているのかな、と最初は思っていたが、よく聞くと、むせび泣いているようにも聞こえた。多分、泣いていたのだ。

 お父さんが、精神科を受診したのは、おばあちゃんが亡くなり、お葬式が終わってしばらくしてからだった。お葬式の後、お父さんは、参列してくださったり、忌引で休暇をとっている間に仕事で負担をかけた、会社の職場の人たちへの挨拶に、お饅頭を持って行った。

 そして、忌引休暇明け、仕事に戻って二週間ほどした頃の月曜日の朝、お父さんはいつものように早くに職場に出て仕事の段取りなんかをしていたのだが、始業の時間の少し前、お母さんの携帯に電話をかけてきた。

「ちょっと、もう、だめだ。医者に行く」とお母さんに言った。お父さんは部長さんが出勤してくると、頭痛がひどくて我慢できないので病院に行きます、と許可をもらい、そのまま、家に歩いて帰ってきた。

 きっと、お父さんとお母さんの間では、何らかのやり取りがそこまでにあったのだろう。

 もし、便所でお父さんが唸っていたようなことが、お父さんとお母さんの寝室で、毎朝早朝に繰り返されていたとしたら、お母さんが気付かないはずがない。また、お母さんもどうすればよいのかと、悩んだだろう。

 はっきりと断言はできないが、おばあちゃんが亡くなったことと、お父さんがうつ病になったことは関係ないと今でも僕は思っている。

 おばあちゃんは僕には「学校、どう?」と聞いたりしていたが、お父さんにそんなことを聞くことはなかった。お母さんは、姑であるおばあちゃんに気を遣ってなのか、僕のことも、お父さんのことも、自分からは、おばあちゃんも揃った家族の中では、話題にあげなかった。

 だから、僕は、お父さんが会社で何をしていたのか知らないし、会社にどんな人たちがいるのかも知らなかった。ただ、会社や大人の世界は、無秩序な、もっと極端に言えば無法な僕たちの学校の世界や、学校の外での更に危険な生活とは違うものだと思っていた。

 それこそ、‘大人’な人たちが、相手のことを表面上だとしても配慮し、一応は気遣い、私企業としての利益や、うまくいけば公としての国の利益、さらには、世の中のためになるようなことをするといった世界だと思っていた。小学校の時の道徳の教科書に載っていたようなことが、心からではなく、打算からだったとしても、少しは実現されている世界だと思っていた。

 もちろん、そういったことをしている人たちもいるだろう。ただ、そういったことをしないでいる人たちの方が圧倒的に多いのではないかということを、漠然と感じたのだ。これは、僕は早い段階で薄々悟ってはいたように思う。小学校の時、道徳の授業は担任の先生ではなく、教頭先生が僕たちのクラスに教えに来ていた。僕たちのクラスだけだったのか、他のクラスもそうだったのかは、忘れた。道徳の教科書は、とても優しく、僕はその世界に憧れすら抱いた。そこでは、登場人物たちの様々な葛藤は描かれてはいるが、最終的には誰も傷つかない。少なくとも、合理的でない理由では傷つかない。登場人物たちは、秤にかけて合理的な方を必ず選択する。たとえば、意味もなく小動物をいたぶるのは、ちょっと分別があれば合理的な行為ではないのは分かるはずだ。それは自分の心をやせ細らせる行為であるとともに、もっと現実的な話をすれば、周囲から批判されるという結果だけとっても、合理的な行為ではない。

 けれども、僕や僕たちがたどってきた幼稚園から小学校、中学校を振り返ってみて、合理的な行為以外の、不合理な行為を取る人間がやたらと多かったという記憶が強烈に残っている。

 ‘面白い’から鉄パイプで人を殴る。‘楽しい’から給食の汁物の残飯をいじめられている人間の机の中に流し込む。‘むかつく’から、あの連峰の、神様が祭られている頂上から人を突き落そうとする。ひょっとしたら‘’の中は、‘辛い’とか、‘寂しい’とか、‘怖い’という言葉に置き換えられるのかもしれない。不合理な行為には、それをする本人には何か合理的な理由があったのかもしれない。けれども、道徳の教科書に憧れるような、現実逃避タイプの僕にとっては決して合理的な行為ではなかった。

 でも、大人の社会人の世界は、打算でも世間体でもあるいは本当に心からでも、他人をいたぶったりするような不合理な行為をする世界ではないと考えていたし、そうあって欲しいと思い、それだけを頼りに、小学4年、5年、6年、中学1年、2年と、少しずつ社会に近づくごとに、不合理な世界は面積を狭めていくのだろうと思っていた。それが例えば、人間の激情や熱い想いやガッツなどといった感情を犠牲にした覚めた、温度のないお愛想の世界であったとしても、自分がいたぶられたり、自分の同類がいたぶられているのを見て嫌な感情になるのよりは、ましだと思っていた。

 だから、お父さんが精神科に行った時は、ショックだった。いや、お父さんもお母さんも、‘うつ病’という病名を口にはしていないし、精神科へ行ったとも言っていない。ただ単に、病院へ行った、と言っただけだった。

 病気になった原因も、一言も僕には話していない。

 ただ、僕が聞いたのは、お父さんが病院に行った翌日も休まずに会社に出勤した時、お母さんがこう言ったことだ。

「お父さんの会社に規則ができて。病気で休んだ人は、会社を辞めさせられても仕方がないんだって。かおるの学校に、病気で休んだら、学校をやめなきゃいけないっていう校則ができるのと同じかな」

 僕は、最初は意味がよく分からなかった。義務教育とはいえ、出席日数が足りなければ進級できなかったり、卒業できなかったりということはあるだろう。会社は義務教育ではないから、辞めなきゃいけないことがあるのは仕方ないのかな、くらいにしか思わなかった。

 お父さん、お母さんは、その後も一言も僕に何がどうなったのかは言わなかった。

 お父さんはその後も、会社を休んでいない。月に一度、病院に行くときに、午前か午後、半日の休暇を取るだけで、病院に行く日も出勤してきた。

 それから1年ちょっと経っている。その間、お父さんがどのように会社で仕事をし、上司や同僚の人たちと接し、また、お客さんとどのように接してきたのかは分からない。

 ただ、僕は、時折、ベランダに折り畳み椅子を置いて腰かけ、月を見ているのか、雲を見ているのか分からないが、30分も1時間も夜空を見上げて動かないお父さんを何度も見かけた。声をかけて一緒に座ってあげればよかったのかもしれないけれど、僕とお父さんの間にはやはり距離が昔からあったし、自分自身、お父さんのことをそれほど心配していなかった。はっきりと、僕自身、面倒くさかったのだ。僕は、薄情な家族だ。

 だから、お父さんがうつ病になったのは、おばあちゃんが亡くなったこととは多分、関係がない。

 お父さんは、お父さんなりの何かの事情があったのだろう、と思っている。

 そして、僕が小学校の頃から、心の中では否定しながらも、漠然と抱いていた不安が、お父さんのうつ病によって、急に現実として目の前に晒されたような気がした。僕は、お父さんではなく、自分自身の不安を膨らませ、心配をしていた。その不安とは、大人の世界も、不合理なんだろう、ということだった。

 小学校の頃、薄々感じていた。道徳の授業を受け持っていた教頭先生は、先生方の間で、‘無能’と軽蔑されていた僕たちのクラスの、若い男の担任の先生のことを、その教え子である僕たちの前で、侮蔑した。その侮蔑の仕方も、「この間、~先生がトロいので、そのまま置いて帰ってきました」と、先生方の職員旅行の時の、‘いたぶり’の話を軽い笑いでするというものだった。

 既に、その教頭先生自身が、そして、置き去りにしたという場に居合わせたであろう先生方自身が、大人のくせに‘不合理’な人間たちだったのだ。


その2


 お父さんは、ご飯を食べ終えると、ごちそうさま、と食器をお母さんのいる洗い場に持っていき、その後歯を磨き、洗顔をして、会社に出かけた。

 僕は、しばらく台所でお母さんと2人になった。

「今日は、部活、ある日?」

 お母さんは、昨日切って冷蔵庫に入れてあった西瓜をテーブルに出して、僕と向かい合って座った。

「うん、あるよ」

「何時から?」

「10時から、午前中いっぱい」

「お昼には帰ってくる?それとも、弁当、要る?」

 僕は、うーん、と数秒考えてから、答えた。

「今日は、コンビニで買って食べるよ。その後、図書館に行くよ」

 僕は、夏休みに家で過ごそうとすることのリスクを中学校までで嫌というほど知っていた。実際は、家にいて何もしない、ということはないのだけれども、24時間の内、1時間ぼーっとする、ということを、家でやってしまった場合、夏休みが終わった時に、‘勉強も、読書も、何もしなかった’という罪悪感が、より大きいのだ。その点、図書館に行ってさえしまえば、周囲は皆勉強や読書をしているので、なんとなく雰囲気でなにがしかしてしまうし、仮に、小休止するにしても、そんなときに書架から何気なく引っ張り出して読む本が、結構、いい本だったりすることがあるのだ。そうしておけば、夜、家に帰ってからも、比較的自分を責めずに、夜、眠れる気がする。だから、僕は、夏休みに入ってから、家を出掛ける時に、部活道具と勉強道具を持って出て、部活半日、図書館半日、という生活パターンを築きつつあった。

 お母さんは、そう、と言って、アイロンかける、と、立ち上がろうとした。

「あ、お母さん、」

「はい?」

 僕は、ちょっと、言い出しにくかったが、後延ばしにはできない内容のことなので、切り出した。

「来週の・・・8月の頭の、花火大会だけど」

 さっき、さつきちゃんが言っていた花火大会のことだ。今朝走ったコースで、僕が連峰を目の前にした橋が架かった、一級河川の河原で、毎年、花火大会が開かれるのだ。その日は、第二次大戦の終わる年に、僕たちの市がアメリカの空襲を受けた日で、その時亡くなった方々の霊を慰めるために、毎年ずっと、開かれているのだ。その河原は、ちょうど、僕が通学途中に遠回りしてお参りする神社の背後にあり、神社では、夕方から花火に先立って、慰霊のための式典も開催される。ベビーカステラやかき氷などの香具師もたくさん出て、参拝の人々も、花火が終わった後も夜遅くまで続く。


 中学2年の8月までは、毎年、お父さんが、僕と、市内に住んでいる年の近い親戚の子を、一応、引率する、みたいな恰好で、自転車で行っていた。親戚の子も僕も中学生なので、別に自分達だけで行ってもよかったのだろうが、なんとなく、そうなっていた。きっと、お父さんが行ってみたいと思ったのだろう。

「友達と一緒に行っていいかな」

「誰と?」

 お母さんは、ちょっと警戒するような顔になっている。

「太一、と、あと、3人」

「誰?」

 お母さんは、曖昧にする気はないようだ。僕は、それでも、嘘ではないが、確信に触れないような言い方を試みてみる。

「遠藤さん、脇坂さん、日向さん」

 僕は、わざと、さつきちゃんの名前を一番最後に言った。

「‘さん’ということは女の子だね。陸上部の先輩でもないね」

 僕は、うん、と言わざるを得なかった。

「日向さん、って、前、うちに電話かけてきて、かおるが晩御飯の後に出かけて行った、あの子だね」

 お母さんは、完全に覚えていた。

「それから、夕べ、かおるが直接電話を取っていたけれど、あれも日向さんだね」

 状況からしてそう考えて当たり前なのだろうけれども、僕は、まるでお母さんが、青春ミステリ小説に出てくる、探偵のような役回りをする主人公か、と思った。

「かおる、朝早く家を出てったけど、どこ行ってた?」

 僕は、‘自主トレ系マラソン部’という単語は使わないけれども、その概要を説明し、日向さんとはトレーニングを一緒にする間柄だと、説明した。白井市のマラソン大会に陸上部のかなりの人が参加するということは話してあったので、その関係もあって、日向さんと一緒にトレーニングすることになったと、怪しさ満点とは思いながらも、とにかく説明した。

「それで、その日向さんが、日向さんの友達と3人で花火に行く予定にしてたんだけど、僕と太一も一緒にどう?と、誘ってくれた」

 実は、太一にはまだ了解をとっていない。さつきちゃんが、かおるくんが男子一人で女子に混じるのがなんだったら、友達と一緒に来て、と言ってくれたのだ。太一には万難を排して参加するよう、これから頼むつもりだ。

「それで、本当は、花火大会じゃなくて、女子3人のお泊り会がメインなんだって」

 お母さんの顔が、さらに不審さを増した。僕は、お母さんが色々な反応をする前に、畳みかけるように続けた。

「その日、お昼から、女子3人で晩御飯の準備をするんだって。日向さんのお母さんが女子3人に料理を教えながら準備するんだって」

 お母さんは、西瓜を食べながら、一応、僕の話を聞いてくれている。

「日向家で夕食を食べた後に、花火を観に行って、それでその晩、女子はお泊り会」

「どうして、太一くんとかおるが出てくる?」

 僕は、不自然な気もするが、事実そのとおりの説明をするしかなかった。

「日向さんのお父さんは、仕事が毎日遅くて、晩御飯を一緒に食べることはないんだって。だから、日向さんのお母さんが、女ばかりで味見をしても緊張感がないだろうから、誰か男子を呼びなさいって言ったんだって」

「だから、そこでどうして、かおるが出てくるの」

「・・・多分、他に男子の知り合いがいないから?」

 僕は、そう言うと、この間、土砂降りの次の日にさつきちゃんの家に言ったことのかなりの部分を説明せざるを得なかった。日向さんのお母さんは、学生の分際で好き・嫌いの交際みたいなものは許さない人であること、目の届かない所で会ったりするより、家とか目の前の公園とか、目の届く範囲できちんとクラスメートとしてのやり取りをして貰いたいということ、日向さんが、部活に入らずに、家事全般を手伝っていること(やはり、‘帰宅系家庭科部’という単語は、恥ずかしいので使わずに説明した)、を、言わざるを得なかった。僕がさつきちゃんに、「日向さんが、好きだ」と言ったこと以外は。

 お母さんは、到底納得しているようには見えなかった。当然だと、思う。

 僕自身も、さつきちゃんのお母さんはとても思い切ったことをする人のような気がする。もしかしたら、さつきちゃんも、その見かけよりも、いざという時には、ぱっ、と跳べる子なのかもしれない。僕が今した説明で、納得する方がおかしい。

「かおると太一くんも、泊まるの?」

 僕は、お母さんも、日向家の感覚に巻き込まれて、突拍子もないことを言う、と思い、焦った。

「いや、まさか。僕たちは花火が終わったら帰ってくるよ」

 お母さんは、1秒ちょっとの間をおいて、

「分かった。お父さんにも、かおるから言っておいて」


その3


 お父さんは、僕が、さつきちゃんたちと花火大会に行くことを、許してくれた。もしかしたら、僕と一緒に花火大会に行くことを、数少ない、父親の役割を果たす機会ととらえているかもしれないと思ったが、僕の話を一度聞いて、数秒で、いいよ、と答えてくれた。

 ひょっとしたら、自分よりも友達と出かけた方が、息子のためには余程良い思い出になると思ったのかもしれない。病気の自分と行くよりは。

 それからの毎日は、人生の夏休みの中でも、おそらくは一番充実した夏休みだったと思う。

 朝走る。あるいは夕方や晩に走る。部活へ行く。図書館へ行く。時折、朝、さつきちゃんと親水公園でトレーニングをする。また、図書館でさつきちゃんと顔を合わせることもあった。図書館で顔を合わせるときは、近くの席には座らないようにしたし、示し合せて行くこともなかった。なぜなら、僕は図書館に勉強しに行くのであって、さつきちゃんの顔を見に行くわけではない。これは、さつきちゃんのお母さんが、「学生なんだから」という言葉が僕の心に深く残っているからだ。それに、僕はさつきちゃんの彼でも恋人でもない。

 そして、それ以外の時間に、僕は、本を読んだ。それも、今まであまり読まなかったような本だ。

 僕は、‘猫もけ’や‘犬ちり’をきっかけに、本屋での本の見方が変わった。

 それまで僕は、同じ時代を生きているはずの作家の作品をあまり読まなかった。

 これまでの僕が主に読んだのは、歴史小説の中でも、既に亡くなっている作家の本だった。

 それらの作家の歴史小説は、素晴らしかった。最初、歴史小説について、僕は否定的だった。なぜなら、既にある事実を語るのだから、物語を考えるわけではないのにそれが小説と言えるのか、と思ったのだ。

 だが、お父さんから、中学校1年の時に渡された、山岡荘八さんの‘織田信長’は、僕の心を殴りつけた。冒頭の少し、恥ずかしいような感じがするが、スピード感と圧倒的な迫力を持った書き出しから引きずり込まれ、斎藤道三とのやり取り、弟を殺さざるを得なかったこと、母親との葛藤、そして、数々の知略、といった、テレビや学校の授業でも何度となく観てきた「歴史」が、この本では全く違う輝きを持っていた。信長の冷徹さに目を向ける別の小説家もいようが、この本では、信長の人間としての暖かさと、‘人生五十年’ということを切実に自覚していた人々の、瞬間瞬間に賭けるような行動がすべて、そのラストシーンめがけて疾走する、作者の意思が貫かれていた。本当に、僕自身の人生の一瞬をこの本に捧げたことが本望と思えるような、素晴らしい出会いだった。僕は、文庫本で5巻あるこの本の、各巻の「解説」も感動すら覚えて読んだ。山岡荘八という人がどんな人だったかも窺えた。

 僕は、歴史が過去の単なる事実ではないことを教わった。この本は、すでに死んだ信長という人の人生だけを描いたのではない。山岡荘八という人の人生をも、ロックバンドが、ギターを、音が歪むほどに弦に指を叩きつけるように、ベースの弦を、指先から血が出るくらいに、弾くように、ドラムが、音が出にくいと分かっていても、スネアドラムやバスドラムが破けんばかりに腕を足を渾身の力で振り下ろすように、ボーカルが、声がこれ以上は出ないと分かっていても、それでも目をぎゅっとつぶって怒鳴り上げようとするように、そんな風に書かれた本だと、そう感じた。そして、この本を読む、僕たち自身の人生も、怒涛のごとくに描かれている、と、知った。信じたのではない、事実、知ったのだ。

 そして、僕は、吉川英治さんの‘宮本武蔵’もお父さんから渡され、この、‘殺人者’の話が、吉川英治という人の人生と重なった瞬間、爽やかで、どこまでも澄み切った世界を、自分の人生に、嘘偽りなく、引き込み、こう生きたいと、切望している。僕の陸上に対する思いと現実の行動は、この武蔵から間違いなく引き出されている。

 これらの歴史小説との出会いと、村松悠作さんや、その他の、‘今、生きている’作家の小説との出会いは、僕の中では矛盾なく、繋がっている。

 信長が‘人生五十年’を生きたように、僕も、僕自身の人生五十年を生きたい。もし、そんな時に、今、僕がこうして走っている瞬間に、図書館で勉強している瞬間に、他人と自分を比較して落ち込んでいる瞬間にも、生きて、一緒に伴走してくれるような、そんな作家がいてくれたら。僕の中では山岡荘八さんも吉川英治さんも今も生きて伴走してくれているけれども、残念ながら、次の小説をもはや、書いてはくれない。

 次の小説を待てるような、そして、それも生きる上での日々のささやかな楽しみとできるような、そんな作家と出会いたい。言い方は変だが、好きなテレビ番組の放送が一週間のささやかな楽しみとなるような、そんな感覚の。それこそが、大げさな‘生きる希望’よりもよほど人間の心にとって楽しみとなるような。

 そんな中で僕が出会った本は、どれも、素晴らしかった。中には、自分には合わない、と思うような本もあったが、どれも、世界のどこかの誰かにとっては必要な本のはずだ。

 そして、それらの本は、その作者は、美しい歴史小説と、本当に矛盾なく連続する。

 僕は、旭屋の本棚の、書店員さんの推薦のPOPを見たり、平積みになっている本も見て回った。今までだったら、ちらっと見て通り過ぎていた。でも、僕は、それらの本を一つ一つ、手に取って、吟味した。そんなに無制限に買うことはできない。僕は、解説を読んだり、この作家に影響を受けた、というコメントを読んだり、最初の数ページを読んでみたりして、本当に僕が必要としている本を選んだつもりだ。その数冊の本は、織田信長や宮本武蔵と同じように、僕の人生の一瞬を捧げて悔いの無いような本だった。青春ミステリの本も読んだが、推理の楽しさの中に、人間の悲しさ・寂しさ・でも、温かさが散りばめられており、心の容量が少し増えたような、そんな気分になった。

 僕は、そんな風にして、この夏休みを過ごし始めていた。



その4

 

 8月頭、花火大会の当日の朝。前夜、さつきちゃんから、早朝自主トレの連絡があった。

 自主トレ系マラソン部の数回目の活動日となった。僕は、今夜、花火大会が行われる川の上にかかる大橋から、連峰の逆光の稜線を見ながら、さつきちゃんが待つ親水公園へと走っていた。正確なタイムは計っていないが、お日様の位置が、このコースを走った初日の日と比べると、微妙に低く、逆光の稜線の部分がより黒々としている。と、いうことは、お日様がまだより低い位置にある分、僕がこれまでより、ほんのちょっとは早く、この橋を通過できるようになったということだろう。

 チェックポイントをくぐり、親水公園に入っていく。今日は、僕が到着したのと、ほぼ同じタイミングで、さつきちゃんが、運河沿いのランニングコースから芝生の区域に入ってくるところだった。

「おはよう」

 さつきちゃんは、今日もにこにこして挨拶してくれる。僕も、おはよう、と声をかけ、ストレッチを終えると、さつきちゃんが、今日の予定について確認を始めた。

「かおるくん、今日は5時くらいに家に来てくれる?」

 あれ、と思った。僕は、夕食の支度を手伝うつもりでいたので、

「5時でいいの?もっと早い時間から手伝おうか?」

 さつきちゃんは、ううん、と、軽く首を横に振った。

「今日は、男子は完全にお客様だから、ご飯だけ食べるつもりでいて。女子側にも色々都合があるから、気にしないで」

 そういうものかな、と僕はとりあえず納得した。

「それと、自転車で来てね。市電だとものすごく込むから、花火には自転車で行った方がいいと思うから」

「自転車だと・・・浴衣とか着るわけじゃないんだ」

 僕が何気なく言うと、さつきちゃんは、意外と真面目な感じで答えた。

「わたしの家は、あんまり着るものにお金をかける方じゃなくて。遠藤さんも脇坂さんも着るものには特にこだわりがないし」

 そう言われてみたら、さつきちゃん、遠藤さん、脇坂さんの3人組は、クラスの中ではとりわけ地味な印象を与えるグループのような気がする。類は友を呼ぶ、というか、服装とかおしゃれとかいったことにあまり気を遣わなくて済む者同士が寄り集まっているということなのだろうか。

「でも、浴衣っていう発想は、漫画とかドラマみたいで、なんだかおかしい」

 と、さつきちゃんは、ふふっ、と笑った。確かに、自分でも、花火大会で浴衣を着る、というのが、いかにも学園もののテレビや漫画みたいで、つい、言ってしまってから、なんだか恥ずかしく感じる。

「それと、お願いがひとつだけ」

 なんだろう、と、あまり人にものを頼みそうな感じのしないさつきちゃんのお願いがどんなものかとわずかの瞬間にあれこれと想像してしまった。

「もし、何かお土産を持ってきてくれるなら、おばあちゃんが好きそうなものにして」

 ん?、と僕はちょっと思案した。あ、そうか、と次の瞬間には、さつきちゃんらしいな、と感心した。さつきちゃんはさらに続けた。

「なんだか、お土産を持って来て欲しいみたいで、ごめんね」

 分かった、じゃあ、夕方にね、と言って僕たちは分かれた。


 今日は部活がない日だったので、午前中は図書館で課題をやり、家に戻っておひるごはんを食べてから、太一の携帯に電話した。僕はまだ携帯を持たない貴重種だが、太一は一応、人並みに携帯は持っている。太一の方も部活が午前中で終わり、午後は空いていることを確認すると、さつきちゃんの家の集合時間には大分早いが、3時にデパート前のイベント広場に来てほしいと伝えた。

 

 3時、僕と太一はデパート前のイベント広場で顔を合わせた。デパートと立体駐車場の間に、ガラスの天井を渡したこのスペースでは、地場の商店街が中心となって作る街づくり会社の努力もあり、イベント稼働率は全国の同様のイベントスペースの中でも屈指の数値を出しており、時折他県の街づくり法人の視察もやってくる。霧吹き状のミストをジェット機のエンジンのような形のファンで吹き付け、通行人を涼ませるようになっており、若い母親たちに連れられた幼稚園より下くらいの子供たちが、喜んでミストの前で手をかざしたりしている。また、ガラスの天井から吊るされた大画面プロジェクターの下に、氷で作ったトリケラトプスの大きな彫刻が飾られていた。この氷の彫刻は、触ることはできないが、やはり小さな子供たちは、色んな角度からトリケラトプスを眺め、あれやこれやと様々な感想を口にしている。

 僕と太一は、自転車用のエレベーターに乗り込み、デパートの地下にある駐輪場に降りた。自転車を止め、駐輪場から直接つながっている、‘デパ地下’へと向かった。

「日向さんが、‘お土産持ってこい’って言ったの?」

「・・・そうじゃなくて・・・」

 僕は、さつきちゃんが言った意味を次のように2点、説明してやった。

① 食事に招待されたら、手土産を持っていくのがマナーである

これは、小中学生ではなく、‘高校生’である僕たちが、恥をかかないように、念のためにと、さつきちゃんがさりげなく教えてくれたのだ。

② 手土産は、‘ホスト’に合わせたものを選ぶべき

これは、やや上級編だ。手土産はその相手の家で、気を遣うべき相手の好みに合わせるべき。おばあちゃんという年長者のいる、さつきちゃんの家では、おばあちゃんが家で一番大切にされるべき存在であり、おばあちゃんに配慮したお土産を用意するのが一番自然な形であることを、さつきちゃんはこれも念のためにと教えてくれたのだ。

あまり慣れていない人だと、ここで間違えて、小さい子がいる家だったりすると、子供が喜びそうな、場違いのお菓子なんかを用意してしまう危険がある。


「かおるちゃんは、日向さんがそう言っただけで、そこまで分かったの?」

「うちにも、おばあちゃんがいたから」

 確かに、この辺の感覚は、微妙なもので、特に最近の時代では分かりにくいものだ。僕の場合は、嫁という立場であるお母さんの立居振舞や話しぶりからなんとなく心に留めて大きくなった部分があるので、さつきちゃんの言葉に素直に反応できたのだろう。

 だから、僕は太一との待ち合わせ場所をデパ地下にした。おばあちゃんが好きそうなお土産のお菓子を選ぶとなると、ここしか思いつかなかったからだ。

 和菓子の店をいくつか見て回る。しかし、僕や太一ではどんなものを選べばいいのか、見当がつかなかっただろう。デパートに入っているので、どの店も評判のいい老舗ではあるのだが、お菓子の種類も、名前も、ほとんど分からない。お母さんからは、自分たちで選んでみてもいいけど、海月堂の、卵白と和三盆だけを使った、シンプルだが上品な‘月の里’ならば、まずどんな方に出しても間違いはない、と教わっていた。そして、お金もそれを買えるくらいの金額を貰って出て来た。

 店をぐるっと一周回っただけで、自分達で選ぶことをあきらめ、今夜、日向家に集うはずの人数+αの数が入った、‘月の里’を買った。3千円と、個数に対し、かなり値の張る品だが、なんだか、自分の気持ちが少しおおらかになるような感じがした。

 5時まで時間が少しあるので、とりあえず親水公園まで移動して、親水公園の中にある体育館のロビーで、しばらくクーラーで涼んでから、日向家へ向かうことにした。

 体育館のロビーは夏休みらしく、友達と連れ立ってバドミントンや卓球、バスケットボールをしに来た小中学生でそれなりに混雑していた。

 僕と太一は、アリーナのすぐ前にある横椅子にならんで腰かけ、ぼんやりと雑談を始めた。

「かおるちゃんは、日向さんと、結局、付き合ってるの?」

「・・・ううん、そういうんじゃないんだけど・・・・」

 僕は、何と言ったらよいものか、答えるのも骨が折れるので、そこで言葉を切ってしまった。

「横から見てると、すごく雰囲気がいいから」

 太一の顔がだんだんとにこにこ、というよりは、にやにや、という感じに変わっていく。

 僕は、さつきちゃんのお母さんが、学生の分際で好きとか嫌いとかいうのはとんでもない、という考え方であることや、とはいえ、物の考え方を広めるには男と色々なことについて話したり議論したりすることも必要だという考え方であること、外でこそこそするよりは、家や家族の眼や手が届く範囲内での‘交流’とした方がかえって健全だというのも、さつきちゃんのお母さんの考え方であることを、かなり省略して伝えた。もちろん、「日向さんが、好きだ」と僕が言ったことや、その次の日に、直接日向家で‘面通し’させられ、害をなすような人物でないかどうか確かめられた、という部分は‘省略’ではなく、‘削除’した。

「んー・・・なんだか、日向さんのお母さんと付き合ってるみたいだ」

 太一の率直な感想だ。確かに、僕とさつきちゃんの関係は、いまどきの感覚からすれば、まどろっこしい、だから何なんだ、というような関係に見えるだろう。

「でも、日向さんから、‘かおるくん’って呼んでもらってるのは、何だかうらやましいような気もする。僕はかおるちゃんのことを‘ちゃん’づけで呼ぶから、日向さんよりももっと凄いのかもしれないけど」

 僕は、だんだんと答えるのが面倒臭くなってきた。早く太一が別のことに気が向いてくれないかな、と心の中で僕は思っていた。

「でも、ありがとうね。遠藤さん、脇坂さんも、いい感じだから、今日は結構楽しみ」

 太一の言う意味がよく分からなかったので、僕はストレートに聞いてみた。

「太一は、遠藤さんと脇坂さんが気になってたってこと?」

 太一はにこにこしながら答えた。

「だって、あの女子3人組は、クラスの地味な男子の間では人気だよ。なんだか、女の子に相手にされないような男子でも、もしかしたらあの子たちなら優しくしてくれるんじゃないかって、期待してる人が結構いるよ」

「それって、3人を褒めてるのか、それとも失礼な事を言っているのか、よく分かんない」

 確かにさつきちゃんたち3人組は、地味というだけでなく、絶対に人に意地悪をしないタイプだな、という印象は受ける。もしかしたら、僕もそれをさつきちゃんに感じ取っていたのかもしれない。それは、ずばっと誰かに指摘されたら素直にそう認めるしかなさそうだ。

 5時10分前になったので、そろそろ行こうか、と立ち上がった。今から向かえば、16:55にはさつきちゃんの家の玄関前に立つことができる。5分前行動もマナーのひとつだろう。


その5


 僕と太一は、かなり緊張していた。女子3人組プラスさつきちゃんのおばあちゃんとお母さん、計5人の女性の中に男2人で招待されたという緊張ばかりではない。みんなでこれから夕食を囲もうというそのテーブルに、僕たち2人の他に、もう1人、男が座っているのが、緊張の上に更に緊張を上乗せしている理由だ。

 最初、玄関で出迎えてくれたさつきちゃんに「これ、つまらないものだけど」と、決まり文句を言ってお土産を渡し、「わあ、ありがとう」という、これまた決まり文句のやり取りをしてから、さ、どうぞどうぞ、とさつきちゃんに、奥の台所へと招き入れられた。

 さあ、これから、さつきちゃんのおばあちゃんとお母さん、それと遠藤さん脇坂さんに、挨拶をしなきゃ、とやや気合いを入れた僕と太一の視界に、Tシャツとジャージ姿の男子が1人、その中に混じっているのを見て、一瞬体がこわばるのが自分でもはっきりと分かった。

 誰だろう誰だろうとは思うが、とにかく、おばあちゃんとお母さんに、まずは、「今日はありがとうございます、お邪魔します」と挨拶し、次に、遠藤さん脇坂さんに、こんちは、と笑顔で会釈した。その時に、さつきちゃんが、これ、お土産にいただいたよ、と、海月堂の月の里の箱を披露すると、お母さんのお礼の言葉をいただき、おばあちゃんもありがとう、という感じで笑いかけてくれ、2人の女子も、わーすごい、という感じで反応してくれた。

 さて、残った1人の男子。顔は若く見えるが、身長は僕や太一よりほんの少し低い程度、髪の毛は短めではあるが、さらりと自然な感じ、とにかくそこに、ただ黙って立っていた。ちなみに、太一も僕も、身長はクラスの男子の中ではど真ん中の位置だ。太一はもとの身長のまま、僕は、入学以降、3cm身長が伸びてのど真ん中になった。

 どうするもないので、とにかく、僕はその男子に向かって、こんにちは、と声をかけた。

 相手もようやく口を開き、こんにちは、と返してくれた。よく見ると、相手も緊張しているようだ。

「あ、ごめんね。弟の耕太郎(こうたろう)。小学校5年生」と、さつきちゃん。

「え、5年生なの?」と太一。

 たしかに、身長は高校生並で、小柄なさつきちゃんをはるかに越しているので、なんだか姉弟という印象を与えないが、さっき、‘こんにちは’と返してくれた時の声は、まだ声変わりしていない、小学生の可愛らしい声ではあった。

「大きいでしょう。背ばかり伸びたけど、お姉ちゃん子で、いつもさつきに甘えてるのよ」

 お母さんの解説が入る。

 いや、そんなことないんだけど、と独り言っぽい感じぼそぼそ言って、耕太郎は恥ずかしそうに俯いていた。あ、やっぱり小学生だな、と、僕はちょっとは緊張が緩んだが、70%ほどに緩んだだけで、やはり、どのように接すればよいのか、測りかねている。

 夕食会のメニューは、非常にオーソドックスな、というよりは、家庭の食卓の王道、といった品ばかりだった。胡瓜とワカメと白魚の酢の物、茄子とそうめんの味噌汁、それに、鰹のたたき等。鰹のたたきは、皆が遠慮しないよう、一人ひとりの皿に分けて出された。にんにくの薄切りに大葉の細切りと細かく刻んだ葱が振りかけられ、好みに応じてポン酢・レモン汁・醤油をかけて食べる、という形になっている。テーブルの真ん中にはよく冷えたトマトとレタスとグリーンアスパラが盛られている。脇坂さんによると、それにかけるドレッシングも女子3人で作ったのだそうだ。

「ひなちゃん(日向さんなので、‘ひなちゃん’と、3人の間では呼ばれている。これはこれで可愛い呼び方だな、と自分のことのように嬉しい)のお母さんが、全部指導してくれたんだよ」と、脇坂さんはお母さんに敬意を払った。

 お母さんは、ちょっと恥ずかしそうに、にこにこしながら、次のように答えた。

「指導だなんて。恥ずかしくて。でも、この鰹のたたきの作り方は、おばあちゃんに教えてもらったのよ。わたしがお嫁に来たばっかりの時のことだけど」

 みんな、へー、と、今度はおばあちゃんの方を見て、感心する。

「おばあちゃんは、今でも料理を作られてるんですか?」

 僕は何気なくおばあちゃんに聞いてみた。

「もう随分前から、さなえさん(さつきちゃんのお母さんの名前)に任せてますよ。今風の若い人向けの料理は作れないし」

 おばあちゃんの後に、今度はさつきちゃんが補足する。

「うちのおばあちゃんは、大学の家政学科を卒業した、本格派だよ」

 えー、すごい、とみんな本気で感歎の声をあげた。

「わたしの実家は料理屋だったからね。まだ、女が大学へ行くような時代でもなかったんだけれど。少しは家に余裕があったから親は大学に行かせておこうか、と思ったのかね」

 と、おばあちゃんは語ってくれた。

「じゃあ、お母さんは、おばあちゃんに料理で鍛えられたんですね」

 遠藤さんが、聞くと、お母さんは、

「料理だけじゃなくて、家のこと全部ね」

 と、にこっとして答えてくれた。

 後片付けは僕と太一も手伝った。食器洗いだ。太一が洗剤・僕が水洗いの分担で作業を進めた。さつきちゃんが、耕太郎に食器拭きをするように言いつけ、耕太郎は僕と太一の隣に来て、洗った食器を、ふきんで拭き始めた。

 耕太郎は僕に、これ、もう拭いてもいいですか、と聞いてくる。僕は、うん、いいよ、と答える。背丈は大きいけれども、弟というのは可愛いもんかもしれないな、となんだか安心してきた。

 女子3人は‘月の里’を開けたり、西瓜を切ったり、と、食後のお茶うけの準備をしている。女子3人と僕たちは、おばあちゃんとお母さんは座っててください、と無理にお願いしてテーブルで待っていて貰った。おばあちゃんとお母さんは、何だかかえって申し訳ないね、という感じだったが、今日の夕食会の趣旨からは自然な流れだろう。

 後片付けとお茶うけの準備ができると、もう一度みんなでテーブルを囲み、月の里と西瓜を頂いた。

 脇坂さんが、何とはなしに、さつきちゃんのおばあちゃんとお母さんに聞き始めた。

「今日は、男子2人がいますけど、男の子が夕食会に混じったり、花火を一緒に見に行ったりって、女の子を持つ家庭として、抵抗なかったですか?もちろん、日野くんも小田くんも真面目だし、わたしたちそんな変な目でお互いを見たりすることもないんですけど」

 脇坂さんの話を聞いて、さつきちゃんのお母さんはちょっと真面目な顔をして、それに答えた。

「もちろん、女の子が家にいると、心配よ。でも、男の人と全く接しないのも変でしょ。だったら、自然に、ごく普通に、我が家はこんな感じですよ、あなたの家はどんな感じですか、あなたはどんな人なんですか、っていうのをちゃんと節度をもってやり取りした方が、かえって、さつきや脇坂さんたちくらいの年の女の子にはいいことなんじゃないかな、って思って」

「男と女がおらんと跡継ぎは生まれんしね」

 おばあちゃんの言葉にちょっとびっくりしたが、さつきちゃんのお母さんがその後の話を続けてくれた。

「わたしは嫁に来て、お父さん(さつきちゃんのお父さんのこと)とこの家を継いだけれど、最初はやっぱり、嫌だったね。自分が生まれ育ったのとは全然違う家だし、おばあちゃんとの関係も最初からこんな感じじゃなかったし。嫁姑っていうのは、やっぱり色々あるし」

 僕は、自分の小田家で、おばあちゃんがまだ生きていた時のことを思い出し、そういえばそうだったかも、と納得していた。さつきちゃんのお母さんの話はまだ続いた。

「家を継ぐっていうことがどんなことなのか、よく分からなかったけど、日向の家の親戚は結構いっぱいいたし、大変かな、って感じだったね」

 みんな、さつきちゃんのお母さんの話をじっと聞いている。特に遠藤さんと脇坂さんは、真剣に聞いているようだ。

「でも、日向の家の先祖さんたちが、‘家を継ぐ’ってバトンタッチしながら続けてきてくれたから、なんだかんだ言って、さつきも耕太郎もこうして生まれてるんだし。やっぱり、不思議ね」

 僕は、あの土砂降りの日に、「日向さんが、好きだ」と、咄嗟の言葉だったかもしれないが、すごく真剣な気持ちで言ったつもりでいた。でも、今のさつきちゃんのお母さんの話を聞くと、何だかそれをたしなめられているようで、僕には、まだまだ人間としての‘重厚さ’が無いんだと認めざるを得なかった。次に続いた、おばあちゃんの話は、難しい言葉は一つも使ってないけれども、世界の見方すら変わるような話だったのではないかな、と思う。

「惚れた腫れただけでは結婚は難しいですよ。大体、さなえさんにしたって、旦那というよりはまるで姑と結婚したみたいだ、騙された、くらいに思ったろうから。わたしと一緒の時間の方が、一生の内で旦那よりも子供よりも一番長いんだから。子供だって、‘惚れたあの人の子供だから’なんてもんじゃとても育てきれないですよ。さつきも耕太郎も‘日向家’の大事な子孫で、次にわたしの孫で、そのまた次になってようやく父親と母親の子供なんだから。‘わが子’なんていうけれど、‘可愛い自分の子だから’なんていう気持ちだけでやってると、いい子には育たんですよ」

 今日の夕食会は、さつきちゃんのお母さんの提案で、男である僕と太一も招かれた、と、さつきちゃんからは聞いていた。

 ああ、なるほど、と僕はさつきちゃんのおばあちゃんとお母さん、いや、日向家の女の人が、代々どういう生き方をしてきたのか、そして、これからしていくのかというのが理解できたような気がした。

 おそらく、さつきちゃんのお母さんは、日向の家はこういう家ですよ、さつきはこういう風に育ててますよ、さて、さつきも含め、高校生の男女のあなた方はどういう人間ですか?どういう生き方してますか?男と女というものを真面目に真剣に考えていますか?自分の家の先祖のことを考えたことがありますか?そもそも、自分が誰のおかげでこの世に出てきたか分かってますか?自分の好きなお父さんお母さんが惚れあったからだという程度に思ってたら大間違いだと思いませんか?、と問いかけ、あるいは、宣言するためにこの夕食会を企画したのではないだろうか。そんな風に思わせるくらい、おばあちゃんもお母さんも、女の中の女、という凄さを、たった2時間弱の会食の間に、高校生、そして、1人の小学生も混じった僕たち全員に見せつけた。そんな風に感じるしかなかったくらい、衝撃だった。



その6


 僕は、花火大会の会場へ向けて自転車のペダルを踏みながら、さつきちゃんのおばあちゃんとお母さんの話を思い出し、それを、ある経営者の話と結び付けていた。

 その経営者は明治生まれで坊主頭の、‘荒法師’と呼ばれた経営者だった。昭和初期に船舶や後には航空機分野にも進出するエンジンメーカーの技術者としてサラリーマン人生をスタートさせ、現場たたき上げで、‘政治的な’裏工作が大嫌い、陰日向なく、どこまでも‘正門’突破のスタンス。しかし、情に厚く、部下をとことんまで鍛える時も、愛情を持って怒鳴りつける。第二次大戦の前後に社長となり、その後、経団連会長になり、更に、時の首相から懇請されて日本で初めて成功した、国民が一丸となった‘行政改革’のトップとして、その一生を‘無私’で生きた人だ。そして、おそらくはこの人が、日本の経営者としていち早く‘ドラッカー’の経営学に着目したのだが、それほどの膨大な、本当に‘この世の暮らし’のために必要な膨大な勉強を、仕事をしながら、いや、本当の意味での仕事をするために続けた人だ。

 僕は、その人のことを、お父さんが持っている本で知った。お父さんは、仕事の関係上、経営者のことを勉強するために、その人についての本を何冊も買っていた。その人のことが全国的に話題となったのは、昭和後期、行政改革のトップだった時のこと。その人の特集がテレビで組まれた時のことだ。その人と奥さんの家での生活の様子もテレビが取材に来て、魚の干物を焼いた質素な朝食や、仏壇の前で一心に読経する姿が放送されたのだ。非常に庶民的、というよりは、‘庶民’よりも更に数段質素で清貧な暮らしぶりが放送され、国民から親しみを持たれ、行政改革も国民の好意的な協力で、日本で唯一成功した、と言われるものだったらしい。

 この経営者の生きた時代は、お父さんにとっても何十年も前のこと。最近、また注目され始めたが、お父さんがこの人のことを仕事上必要となって勉強し始めた頃には、ほとんどの本が、簡単には入手できない状態だったらしい。図書館でも開架には置いてなく、しかも、その人は極端に自分のことを自分で語るのを嫌った人なので、他人がその人のことを書いた本しかほとんどなかったらしい。仕方ないので、図書館で、その人の名前をキーワード検索して引っかかった、もう閉架書庫にしかない本を内容も見ずに片っ端から借りたとお父さんから聞いた。

 そんな中で、お父さんは、古本屋で文庫化されたこれらの本を見つけては少しずつ買ったり、年に何回か東京に出張に行った時、東京駅のすぐ近くにある大きな本屋の企業経営のコーナーを見て回ったりして、集めたそうだ。

 お父さんは僕にこの経営者に関する本を読むよう勧めたわけではないけれども、お父さんから、話を聞いていたので、本棚のお父さんの本が入っているスペースにあった何冊かをぱらぱらと読んでみたのだ。

 内容そのものが特別難しいわけではない。それどころか、‘政治工作’が大嫌いで、‘正門から白昼堂々’を、理想ではなく、本当に事実そのままやって生きた人なので、最近のニュースでよく見る、‘偽物の正義の味方’のような政治家や企業トップよりも、とても分かりやすい。ただ、僕がまだ、社会に出て働くということをしていないので、本当の意味では実感できない部分も少なからずあるという印象だ。

 ただ、その時は中学生だった僕が、「勉強というものの本当の意味」の一つの考え方を示すような、とても心に残る話が本の中に出てきた。

 その経営者のお母さんの話だ。

 その経営者のお母さんは、自分が嫁いだ家の信仰を守り深めて子供たちに伝えるため、その経営者が子供の頃から仏壇の前に座らせ、一緒に読経し、お経を覚えさせた。それだけではなく、教育が人間にとって非常に重要なものであるということを痛感し、子供に対しても、大人と同様に一人前に扱い、その子供たちの年齢なりに真剣に議論をした。

 そのお母さんは晩年、女学校を作りたい、と、長男であるその経営者や、他の息子たちの反対を押し切り、建設のための土地も何人もの地主と交渉して格安で手に入れ、出資を募り、そして、遂に女学校を立ち上げたのである。その時、そのお母さんの年齢は、‘老婆’の年齢であった。おばあちゃんが、子供たちの反対を押し切り、孫達とのやり取りの時間も削り、女学校を立ち上げたのである。そこだけでも並大抵の話ではないのだが、女学校を設立した理由が、また並大抵の話ではなかった。

 僕は途中までページを進め、てっきり、社会で現代でいうところのキャリアウーマンとして活躍する教養ある女子を育てるために学校を設立したのかと思ったが、そうではなかった。

‘賢母’を育てるために女子教育が極めて重要だと考えて設立した、と書かれていた。

 意訳すると、こういうことが書かれていた。

 世界中の、独裁者と言われる人間であろうと殺戮者であろうと、どんな人間でも赤ちゃんの頃は、みんな、母親の胸に抱かれていたはずだ。だとすると、母親がその子をどのように育てるかということは、歴史すら変える。国が良く、平和であるためには、母親が愚かではいけない。よって、女子教育は国の喫緊の課題だ。

 しかし、その学校で教えるのは、座学や講師陣の薫陶だけではない。皆で料理したり、学校の掃除をしたり、畑で野菜を作ったり、‘この世の暮らし’のための‘勉強’を、その老婆自らが、一緒に体を動かして行うのだ。

 最後、そのお母さんは、学校での文字通り命を賭した、女子教育という‘最後の奉公’で体を酷使した無理がたたり、亡くなる。

 そして、その経営者は、生前反対したものの、お母さんの遺志を継いで、超多忙の身でありながら、その女学校の経営を続けたのだ。既にその当時、企業の社長となっていたが、役員報酬をほとんど、学校の運営費に投じ、自分は奥さんと二人、清貧のつつましい生活をしていたのだ。そのお母さんが常日頃からその経営者に言っていたのは、

‘個人は質素に、社会は豊かに’だったという。


 僕は、さつきちゃんのおばあちゃん・お母さんの話が、この経営者のお母さんの話となんだかつながるような気がして、ならなかった。すべてが、という訳ではないけれども、気持ちがつながっているような、そんな気がした。

 そして、この話を僕が知ることができたのは、お父さんがこの経営者のことを勉強していたからなのだ。でも、そのお父さんは、病気になった。ちゃんと仕事にも行っているけれども、でも、なんだか、心がここに無いような、そんな感じが未だにする。本当は、以前ならばこの花火も、お父さんと一緒に来ていたのに。


その7

 

 ここまでの道もかなり混んでいたので、自転車はまるで先生に引率される小学生のように、太一を先頭にして縦一列で進んだ。実際、1人小学生が混じってはいる。そして、僕は、その小学生である耕太郎の後ろを走る最後尾で、列からはみ出て迷子になるメンバーが出ないように、見張る役目だ。それに、‘小学生のように’と言ったが、実は、子供のようにきちんとお行儀よく周囲に配慮して歩くのが、本当の意味での‘大人’かもしれないな、と僕は考えることもある。

 それにしても、耕太郎も一緒に連れて行って欲しい、と、さつきちゃんのお母さんから頼まれたが、実は、色んな意味があったと今にして気が付く。5年生なのに、僕たちみたいな高校生が連れてってもいいんですか?と聞いたが、お母さんは、耕太郎の社会勉強にもなるから、お願いしますと頭を下げられた。でも、僕は、耕太郎が混じっていることで、縦一列での走行もすぐに皆で決めたし、耕太郎が小学生であることを考えて、できるだけ人通りが少ない危なそうな道も通らないことにした。もっとも、周囲から耕太郎の背格好を見ると、高校生が6人いる、と思うだろうが。こういった、年下の者への配慮は、兄ちゃんしかいない僕にしてみれば、非常に新鮮な発想・感覚で、僕自身勉強になった。それに、僕たち高校生5人が耕太郎のお目付け役みたいな気でいたけれども、耕太郎の眼を通じて、逆に僕たちが自制し、物事をわきまえた判断ができるよう、さつきちゃんのお母さんは耕太郎を同行させたのではないか。もっと言えば、僕たち高校生が花火大会の雰囲気にのまれて、歯目を外さないように。もっとも、耕太郎にはそんな意識は全くないだろうし、お母さんの深謀遠慮を思うと、本当に‘賢母’だと感心させられる。

 僕たちは、川の土手の手前にある公園に自転車を止めた。自転車で見に来る中・高生や親子連れは、大体この公園に駐輪するのが、毎年の様子だ。

 僕たちは土手を上り始める。実は、この土手は花火が上げられる一級河川の手前に流れる小さな川の土手だ。一級河川の手前で途中からカーブして、沿うように流れている川で、上流をたどっていくと、僕が朝のランニングコースのチェックポイントにしている観音様・お不動様がおられるところに行きつく、その川だ。その川にある土手の桜並木を少し歩き、一級河川の河川敷の土手の側へつながる小さな橋を6人で渡る。

 一級河川の土手の手前の道は、もう、かなりの混雑だ。いくつもの香具師が出ている。かち割った氷を入れた水槽に入れてペットボトルのお茶やビールを売っている店、焼きそば、お好み焼き、かき氷、チョコバナナ、ベビーカステラ。普段は営業している様子の無い、土手のすぐ横にあるレストランも、今日はテラスに何組もの予約客がいて、そのガレージの横で、普段は寝てばかりいる猫も、うろうろと歩き回っている。

「そろそろ8時過ぎだね」

 太一が携帯の時計を見て、一同に伝える。

 この花火大会は、毎年、開始時刻が正確に決まっているわけではないし、8時過ぎにならないと始まらないのだ。8時過ぎにスタートする、というのは、真夏の8月といっても、やはり遅い時間だろう。理由は、これだ。

 上空を、ゴーっという音が通り過ぎていく。空を見上げると、一機のジェット機が東京方面を目指し、高く舞い上がっていくところだ。

 僕たちの県にある唯一の空港は、海にでも広大な平地にでもなく、なんと、この河川敷のもう少し上流に作られているのだ。そして、ちょうどこの川がまるで滑走路の延長であるかのように、飛行機の離発着の、進入路であり、航路なのだ。全国でもおそらく、こんなロケーションの空港は、この県だけらしい。そして、離着陸の目標に、河川に架かるいくつもの橋が視界に飛び込んでくる、パイロットにも非常に高度な技術が求められる、そんな特別な空港なのだ。

 したがって、その日の最終の離発着が終了した後でないと、花火の打ち上げが開始できない。もし、ちょうど上空に飛行機が差し掛かった瞬間なら、まるで飛行機めがけて花火を打ち上げるようなことになってしまう。もちろん、いくら離着陸の態勢だったとしても、花火が届くほどに低い高度を飛んでいる、ということはないのだろうけれども、地上すぐ上の橋が視界に入ってさえ、操縦が難しくなるような、飛行機の操縦とはそれほど緻密で神経を使うものであるのに、眼下に10尺玉の花火が描く光線と、その大音量が作る空気の波動とをパイロットと乗客が体験したとしたら、とんでもないことになるだろう。



その8


 その最終便の飛行機を東京方面に見送った僕らと、この河川敷に集まった、おそらく万単位の人たち、それから、まだ河川敷に向けて市電で・自転車で・歩いて移動中の人たち、それから、この市内のちょっと小高いホテルの窓から・まだ残業中の会社のビルの屋上から・自宅のベランダから・夕涼みの椅子を置いた街角から、この市内に住んでいたり、市の外からやってきた人たちみんなが、花火が上がるのを待っていた。

小さい子供もいれば、おじいちゃんもおばあちゃんもいる。同じおじいちゃん・おばあちゃんでも、自宅の前から孫と一緒に見る人もいれば、介護施設の窓からお年寄りだけでみる人たちもいる。僕は、一瞬だけ、あの古い木造の家に住む、おばあちゃんのことを思い出した。夏休みに入り、ランニングコースの都合で、あの家の前は通っていない。それに、通ったとしても、通学途中の小さな子たちを見るのが楽しみで窓から外を見ていたのだろうから、夏休みで幼稚園も小学校も休みならば、あのおばあちゃんの窓越しの顔も見られないだろうと思った。でも、近い内に、寄ってみようかな、と考えていた一瞬に、開会のナレーションが流れた。

 女性のナレーターの静かな、でも、耳に心地よい優しい声がスピーカーから聞こえてくる。毎年のことだが、まず、この花火の趣旨が語られる。昭和二十年、間もなく終戦の日を迎える8月の頭、それはこの市の大空襲の日なのだ。後、もう少しで戦争が終わるという、その二週間程前のタイミング、ほんの二週間のそのタイミングで、大勢の人たちが、身を焦がし、火の手から逃れてこの川に飛び込み、亡くなったのだ。この花火の主催者である地元新聞社が冠された大会の名前と、この花火は、空襲で犠牲となった人たちの鎮魂の花火です、という趣旨が顔の見えない女性ナレーターの声で淡々と語られる。来賓のパイプ椅子に座った人たちの区域の前に置かれたスピーカーからそのナレーションが聞こえる間も、集まった人たちの話声は聞こえるが、この人数からは想像できない静寂さと言えるだろう。僕は、なんだか、ちょっとだけ、優しい気分になる。僕たちは既に人で埋まった土手の一番上の、草の上に腰を下ろした。僕と太一は胡坐をかき、女子3人は体育座り。男の中では耕太郎だけが体育座りをしているのが、何だか可愛らしく感じた。

 

その8


「五尺玉です」

 という女性のナレーションに続いて、地上に近いところでは光の細い筋と、ヒョー・・・っという、花火の玉が重力に抗い、真夏の空気を切り裂く音が聞こえた。そして、ある程度の高さまで上ったであろうところからは、光の筋が見えなくなり、空気を切りさく、高い、揺れるような微かなその音が聞こえるか聞こえないかと言ったその瞬間に

 カッ!

 と閃光が走り、次の瞬間、

 カカカッ!

 と月や星の光の上に、もう一つの天体が現れたような、でも、もっと彩鮮やかな

「花」

 が現れた。そして、間合いを待つ僕たちの期待どおりのタイミングで、

「ゴーン!」

 というやや乾いた印象を与える音と衝撃が、僕たちの胸骨に、ズゴーン、と突き刺さってきた。

 僕は、‘胸骨’に感じたが、‘頭蓋骨’に感じる人もいただろうし、‘足の指’に、‘ズゴーン’ではなく、‘スカーン!’と感じる人もいただろう。十人十色、だろうと僕はなぜか文学的に分析した。

 だが、会場の雰囲気は、まだ、‘鎮魂’の意思が強いと見え、やや静かだ。

「七尺、連射です」 

 ナレーターはあくまでも冷静に、淡々と伝えるが、その分、余計に緊張感が高まる。

 地上から放たれた七尺もの玉が、どうやってあれほどの高さまで上がるのだろうか、凄い力だ、と、思っているうちに、ゴーン!というさっきよりも音量・波動の大きさが比べ物にならない衝撃が伝わってきた。

 隣で見ていた3、4歳の男の子が、はしゃいで、横のお父さんに何か言おうとしていた瞬間、二射目が上がるヒュー・・・という音がし、その男の子はまた、首をいっぱいに空に向け、動きを固めていた。僕は、空ではなく、その男の子が、真剣に空を見上げる表情を見つめていた。

 二発目の衝撃が会場全員に伝わってから、ようやくその男の子は、はしゃぐ動作を再開し、

「すごい、すごい!」と、お父さんのポロシャツを力いっぱい引っ張っている。お父さんは息子と一緒に空を見上げ、やはり嬉しそうにその男の子の頭を撫でていた。

「十尺、大玉です」

 多分、ナレーターは、意図して、五尺玉、七尺玉よりも冷静に発声したのだと思う。

 上空で、単色だが、美しい大きな「花」が開き、その後、柳のようにその火でできた花びらが、筋を描いて地上に落下していく。

 十尺玉が上がる高度が七尺玉よりもはるかに高いという遠近感・音の遠さと、波動の周波数の関係だろう。正直言って、花の大きさは、七尺玉と同じぐらいにしか見えないし、音も、七尺玉の方が、近くて周波数がやや高めのせいか、自分達が感じる量・音質としては、より迫力があるように感じられた。

 けれども、さっきの男の子が、

「お父さん、じゅっしゃくだまだよ!」

 と喜んでいるのを聞いて、

「そうだ、さすが、十尺の大玉だ!」

 と、僕も心の中で妙に納得してしまった。

 ようやく、みんなの鎮魂の心が、過去も未来も市民たちで楽しもう、というモードに切り替わったようだ。

 やはり、十尺の大玉には、それに相応しい役割があるのだ。


 低い位置での打ち上げなので、河川敷ではない場所からは分からないのだが、最近は常識となった、コンピューター制御の、‘スターマイン’にも、小さな子供たちは、拍手喝采を送っていた。

 ふっと、一緒に来た残り5人に目を遣ると、ちょうど太一と眼が合った。太一はにこっと笑って、口に両手をかざし、本当に声は出さないが、「玉屋~」と、叫ぶ真似をしてみせた。 僕もにこっと笑い返して、空中に右手を伸ばし、花火を掴もうとするジェスチャーをして見せた。

 思えば、太一とは小学校の時からの付き合いだ。小学校四年生の途中で、太一は首都圏の小学校から、お父さんの転勤の関係で、この市に転校してきた。以来、小・中・高と、同じクラスになったり、離れたりしながらだが、ずっと一緒に育ってきた。特に、小学校の頃の僕の情けない姿・学校生活を太一は全部見て、僕を助けて太一自身に火の粉が降りかかりそうになった時もあったが、それでも、僕とずっと友達でい続けてくれた一人だ。

 こんな雰囲気の時だと、なぜかそういうことを、しみじみと感じてしまう。

 



その9


 スターマインの連射も含めて、合計3,000発の花火が上がる。いつまでも続くかと思われたこの時間も、終わりが近づいた。

「鎮魂の花火も、間もなく、グランドフィナーレです。最後はスターマインの高速連射です」

 ナレーターがそう言うと、最後は音楽無しでのスターマインが、これでもかという超高速で連射された。幼稚園くらいの小さな子たちは、いつもは眠くなる時間だろうが、最後まで元気に見ている。スターマインの連射の背後に、‘ナイアガラ’の、滝のような花火がカーテンのようにまばゆい光を川に落とし、川面にはその光が、水の流れの分、少し光のエコーがかかったような、不思議な模様を描いて映っている。‘滝’をイメージした花火なのだけれども、僕の頭の中にはなぜか、‘天の川’という言葉が浮かんだ。

 スターマインの連射が終わり、‘ナイアガラ’の光もしぼんだタイミングで、来賓席の前に設置された、地元新聞社の名前を冠した花火大会の文字を模った花火が光り、それに合わせて、皆さま、お気をつけてお帰りください、というアナウンスが流れてきた。

 

 長い時間に感じたが、実際は40分程度だった。今は、9時少し前だ。

 周囲の人たちが立ち上がるのに合わせて僕たちも立ち上がり、自転車を止めてある公園に向かって歩き始めた。公園の手前の、小さな川の橋を渡ったところで、さつきちゃんが、みんなに話しかけた。

「あの、神社にお参りしに行きたいんだけど、いい?」

 

 僕たちは、そうだね、今日は空襲で亡くなった人たちの慰霊の日だもんね、と、駐輪してある公園ではなく、まず、歩いて神社に向かった。この橋を渡れば2~3分で着く。

 慰霊のためのたくさんの提灯が境内に吊るされている。さすがに、花火が終わったタイミングで参拝する人も多く、かなり混雑している。僕たちはまずお社に向かい、皆で並んでお参りした。何十年前、家族を空襲で亡くした人たちは、その時のことを今、どういう気持ちで思い起こすのだろうか。つい昨日のことのように思うのか、それとも、その後何十年も続いた現実の生活の中で、自身の人生を積み重ね、はるか昔のことのように思うのか。遺族が参列しての慰霊式は、花火の始まる前、夕方に開かれていた。

 お参りした後、僕たちは、せっかくだからと、一人ひとりかき氷を買った。境内の隅の方にまだ人が座っていないスペースがあったので、そこに腰かけてみんなで食べた。たまたま、飛び石でしか空いていなかったので、僕とさつきちゃんだけ、みんなとは少し離れた場所に座った。向こうの方では、太一が耕太郎と仲良くなった、というよりは、耕太郎を一方的に構って話をしているようだ。遠藤さん・脇坂さんも、耕太郎が可愛いのか、3人で取り囲んで楽しそうに話しかけている。

 さつきちゃんは、僕に、今日はありがとう、と話しかけてきた。

「かおるくんは、この神社をランニングコースのチェックポイントにしてるんだよね」

「うん」

 チェックポイントにしていることは、さつきちゃんに話してあったが、朝の通学の時にも立ち寄ってお参りしていることはまだ話していない。

「わたしも、時々、ここにお参りに来るんだよ」

「えっ?」

 僕は、続けて思わず、なんで?という聞き方をしてしまった。

 自分のことを言うのもなんだが、僕のように、受験の合格祈願でもないのに、ふらふらと神社にお参りに来るような高校生は、今時の感覚では一般的ではないだろう。ランニングコースのチェックポイントといいうのならば、まだノーマルな範囲と人は見てくれるかもしれないが、通学途中、毎朝、というのは、「変わってる」と、どちらかというとマイナスに見られるというのが、今の感覚のような気がする。だから、僕は、さつきちゃんが自分と同じようにお参りに来ることに対する親近感よりは、自分のことを完全に棚に上げてだけれども、訝しい目で、どうしても見てしまう。「なんで?」という、聞き方をして、しまった、と思った。でも、さつきちゃんは、一瞬、びくっ、としたような素振りを見せただけで、後は、にこっ、と笑って話を続けてくれた。

「かおるくん、歴史は詳しい?」

「あまり得意じゃないけど、歴史小説は結構読んだよ」

「戊辰戦争のことって、よく知ってる?」

「んー、戊辰戦争は授業で聞いたことくらいしか分からないかな・・・」

 さつきちゃんは、なぞなぞの答えを言うような感覚でいるようだ。

「わたしの家のご先祖さまにね、戊辰戦争に行った人がいるの」

「ふー・ん?」

 なんだか、話がちゃんとつながるのかな?と、僕は想像ができなかった。

「それでね、そのご先祖さまは、戦争の時に亡くなられたのね」

「うん」

「そのご先祖さまを悼んで、掛け軸を作ってもらったらしくて。その掛け軸をわたしの家では、お盆とか、お正月に、お仏壇の横に掛けて、ご供養するのね」

「そうなんだ」 

 さっき、さつきちゃんの家で、さつきちゃんのおばあちゃんやお母さんから聞いた話が思い出された。

「お父さんから聞いた話なんだけど、この神社は戦死した方々の慰霊のために、その亡くなった方たちをお祀りしてる。それが、戊辰戦争で亡くなった方々から、お祀りするようになったんだって」

 さつきちゃんは、こういう話をする自分自身がなんだか恥ずかしいのか、伏し目がちで、でも、目には笑みを浮かべて静かに話してくれた。

「だから、お父さんは、せっかく神社に近い高校に通うようになったんだから、時間のある時にはお参りして、そのご先祖さまに、ありがとう、って言ってきなさいって」

 確かに、さつきちゃんは自転車通学だから、徒歩通学の僕よりも時間的には神社に立ち寄りやすいだろう。それに、さつきちゃんは、夕飯の用意をするために部活には入っていないから、学校の帰りに、立ち寄る時間もそれなりにあるだろう。さつきちゃんが、なんで僕にその話をするのか、だんだん、分かりかけてきた。次第に、僕は、顔がかあっ、と火照ってくるのを隠せない。

「かおるくん・・・もし、嫌だったら話してくれなくてもいいんだけど・・・」

 そこで、さつきちゃんは、しばらく考える間を取った。

「かおるくん、聞いても、いい?」

 僕は、顔の火照りを止められなかったが、うん、とうなずいた。

「かおるくん、ランニングの時以外も、お参りしてたよね?」

 今度は、僕が、しばらく間合いを取って、うん、ともう一度うなずいた。

「わたし、最初にかおるくんを見かけた時は、特に何とも思わなかった。まだ、高校に入ってすぐの時で話したことも無かったし、ああ、受験の時のお礼参りなのかな、って思った」

 僕は、黙って話の続きを聞いていた。

「それに、わたしも、悪いことをしてる訳じゃないんだけど、女子高生が神社に一人でお参りに来るなんて、人に言えないような、後ろめたいような気がして」

 僕も、なんとなく分かる感覚だ。

「でも、かおるくんを見たのは一度や二度じゃなかったから。それに、お参りしてる時のかおるくん、なんだかとても苦しそうな顔をしてたから。声をかけられなかった」

 もはや、さつきちゃんの独白に近いような感じになってきたが、それでも僕は、一言もしゃべることができなかった。

「図書館で会った日、わたしが声をかけたのは、何度かかおるくんを神社で見かけてたから、っていうのもあったんだよ」

 夜だけれども、境内の灯りで昼と勘違いした蝉がまだたくさん鳴いている。

「だから、あの時、かおるくんが言ったこと、ちょっとびっくりした」

 さつきちゃんは、そこで、ようやく顔を上げて、僕に笑いかけてくれた。僕は、辛かったけれども、無理に笑顔を作って、笑い返してみた。

「気持ち悪い奴だと思ったでしょ?」

 僕の逆の問いかけに、それでも、さつきちゃんは笑顔で答えてくれた。



その10


「ううん、そんなことないけど。ただ、本当にびっくりした」

 さつきちゃんは、紙コップに入ったかき氷を先がスプーンの形になったストローでつついて溶かしながら僕の顔を見るのが恥ずかしそうな感じでまた話し始めた。

「かおるくんは、何か、辛いことがあるの?」

 僕は、何を、どこまで話せばいいのか、自分でも分からなくなる。

 僕は、一瞬、目を閉じて、自分が一体どうして毎朝、遠回りをし、神社にお参りし、あのおばあちゃんの住む木造の家の前を通っているのか、自分自身の心の奥底を覗いてみようと考えた。

 さつきちゃんは僕が話しやすいように、繰り返し聞いてくれた。

「もし、話したくないなら、いいんだけど・・・わたし、かおるくんとは、そういう話もできるようになりたい」

「僕のお父さん、病気なんだ」

 僕の顔を見ながら、さつきちゃんは真剣に聞いてくれている。ただ、ぼくには、どこまでを話そうかという迷いがまだ、正直ある。

「お父さん、何の病気なの?」

 僕は、どうしようか、ぎりぎりまで迷った。そして、言った。

「ごめん、何の病気かは、言えない」

「・・・うん、分かった」

 さつきちゃんは、頷いた後、しばらくかき氷の紙コップに目を落としていた。それから、そのままの姿勢で僕に訊いた。

「じゃあ、かおるくんは、お父さんの病気がよくなるように祈っているの?」

「ううん、そうじゃないよ」

 僕は、自分で自分のことを嫌な奴だと思いながら、思い切って話すことにした。

「お父さんを見てると、何だか、自分のことが不安になって。大人になっても、結局、同じなのかなって」

「・・・?」

「僕は、なんとなくだけど、大人になるにつれて、段々と色んなことが‘まし’になるような気がしてた」

「・・・それは、色んな悩みが減ってくる、っていうこと?」

「うん」

 僕は、絞り出すようにして、それでもできるだけ普通にしゃべろうと思った。

 多分、周りから見れば、全く普通には見えないだろうけれども。

 僕は、どうしても分からないことがあった。そもそも自分が言いたいのか、言いたくないのか。だが、分からない状態で、反射で言うしかないと思った。

「たとえば、会社に勤めるサラリーマンのような人たちは、小学生や中学生のように訳の分からないことはしないんじゃないかな、って何となく思ってた」

「うん・・」

「でも、お父さんが病気になったきっかけは、会社で何か訳のわからない、まるで子供が暴れているようなことをする人たちがいたからじゃないか、って感じる」

「うん・・・」

「だから、学生から社会人になっても、あまり物事が変わらないんじゃないかな、って不安になった」

「そうなんだ・・・」

 さつきちゃんは、‘でも、どうして行く場所が神社なの’、という問いかけはしないでくれた。僕が、何だか苦しい、辻褄の合わない、言い訳のような言葉を発している、ということを察してくれているんだろうと思う。

 そろそろ行こうよ、という感じで、向こうにいる4人が立ち上がってこっちを見た。

 ごめん、行こうか、という感じで僕も立ち上がり、さつきちゃんを見下ろした。さつきちゃんは腰を下ろしたままで、僕を見上げ、こう言った。

「わたしは、社会人じゃないけど、かおるくんの話してくれることとか、してくれることとか、いつも真面目に考えてるよ」

 


その11


 わたしたちは、かおるくんと日野くんに送ってもらって家に帰ってきた。神社でお参りしたので、花火が終わってすぐに帰る人たちの混雑とは少し時間差があり、自転車で走っていても、何度も停止したりということはなく、比較的スムーズに家に着いた。

 耕太郎は一応小学生なので早く寝かせないといけないから、先にシャワーだけ浴びさせ、その後、えんちゃん(遠藤さんのこと)、わきさん(脇坂さんのこと)、わたしの順でお風呂に入った。私が最後なので、お風呂のお湯を抜いて、上がる前に浴槽をスポンジで洗った。

 磨りガラスになっている窓の向こうが、まだぼんやりと明るい。きっと、神社の境内にはまだ人が結構いて、お参りしたり、さっきのわたしたちみたいに、少し話をしたりしているのだろう。

 わたしの部屋では狭くて女子3人は寝るスペースがないので、仏間の隣にある座敷に布団を運び、川の字になった。みんな、できるだけさっさと風呂を切り上げたつもりだったけれども、それでも23:30を回っていた。まだ、みんな、眠れないようだ。

 わきさんが話し始めた。

「ひなちゃん」

「はい?」

「ひなちゃんと、小田くんって、どうなの?」

 わたしは、とぼけた訳でもなく、わきさんの疑問文の意味が分からず、ストレートに更に疑問文をかぶせた。

「どうなのって?」

 わきさんは、わたしの性格もよくわきまえた上で、質問の形式を変えてくれた。

「‘カレ’ではないんだよね?」

 わたしは、うろたえるつもりはなかったけれども、それでも、今まで、自分の人生の中で、自分に直接関わる単語としては縁の無かった、‘カレ’という言葉に緊張した。わきさんは、私がまだ喋りにくいだろうと思ってか、質問をもう一つ付け加えてくれた。

「‘友達’っていうのもなんか、違うんだよね?」

 私は、無言のまま、‘考えているよ、’という雰囲気だけ伝えた。

 今度は、助け船のつもりか、えんちゃんが代わって話しかけてきてくれた。

「ひなちゃんのお母さんが、‘学生は付き合っちゃだめ’って言うから付き合わないんだよね?」

 助け船のつもりだったのだろうけれども、よけいに言葉を発しにくくなってしまった。わたしは、ゆっくり、できるだけ声が震えたり、極端に高くなったりしないように、答え始めた。

「少し、真面目なことを話し合う男の子」

 えんちゃんも、わきさんも、おー、という、何に感動したのかは分からないけれども、感歎の声を上げた。

「‘少し、真面目なこと’っていうのは、‘真面目に付き合う’っていうこと?」

「んー、そうじゃなくて」

 わたしは、二人のことを親友だと思っているけれども、どこまで深く話していいのか分からなかった。分からないなりに、真剣に話してみようと思った。

「たとえば、今日の夕食の時、わたしのおばあちゃんやお母さんが色々話したよね」

 2人は、うん、と返事してくれた。

「ああいうことって、えんちゃんとわきさんは女だから、何となくわかってくれる部分もあるよね」

「ちょっと難しくて大変な部分もあったけどね」

 わきさんは率直な意見を言ってくれた。

「多分、えんちゃんもわきさんも、家の後を継ぐっていう話、分かる所もあるけれど、それはちょっと違う、みたいな部分もあったと思う」

 うん、全部は分からなかった、とえんちゃんも正直に言ってくれる。

「えんちゃんもわきさんも、女だから、わたしはこうやって一緒の部屋でじっくりと話して、色々やり取りできたり、分からないことは率直に聞けるよね」

 うん、そうだね、という声が、片方の布団の中から聞こえる。

「でも、男の人とは、普通、そういうことってないと思って」

 わたしが、ゆっくり区切るように言うと、わきさんが、んー、としばらく考えてからこう言った。

「ひなちゃんは、男子ともそういう話をしたいと思ったから?」

 うん、とわたしは答える。

「それが、小田くんだったのはどうして?」

 今度は、わたしが、んー、と声を出して考えた。まだ続けて、んー、と10秒くらい考えた。

「そうじゃないかもしれないけど、‘縁’があった、ってことだと思う」

 えんちゃんが、縁?と不思議そうにつぶやいた。

 わたしは、もう一度、声に出して言ってみた。

「‘縁’・・・のような気がする」

 わきさんは、ちょっとだけ嬉しそうな顔をして、

「まるで、結婚するみたい」

 えっ、と、わたしは一瞬固まりかけたが、すぐに、苦しい説明をした。

「‘好き’とか‘嫌い’とか言う話じゃないとしたら、‘縁’っていう言葉しか思いつかなくて」

 えんちゃんも嬉しそうに解説してくれる。

「よく分からないけど、ひなちゃんは、小田くんに、何か特別な気持ちを持ってるってことだよね」


その12


 その後、とりとめのない話や、それこそ、女同士の‘少し、真面目な話’なんかをしているうちに、2人は眠ってしまった。

 ‘縁’という言葉は、咄嗟に出たものではあったけれども、大体、当たっているとは思う。

 わたしは、土砂降りの土曜日に、図書館で、かおるくんから「日向さんが、好きだ」と言われたあの言葉と、あの時のかおるくんの表情を、今でも覚えている。

 かおるくんには、さっき、神社の境内で、「びっくりした」と言ったけれども、決してそれだけじゃなかった。

 はっきりと、嬉しかった。それまでにも何回か神社で見かけて、何となく気になっていたかおるくんだったから、というだけじゃなくて、「好き」と言われたことが単純に嬉しかった。今まで生きてきた中で、男の人からそんなことを言われたことがなかったから。もしかしたら、口には出さないけれども、心の中で、わたしのことをそんな風に思ってくれていた人は、いたのかもしれない。これは、うぬぼれとかではなく、人の思いや好みは本当に十人十色だと思うので、私に対して、そんな風に思う人がいても、不思議ではないだろう。もし、人の思いが十人十色でなかったら、テレビや漫画や小説の中に出てくるような、イメージするような異性に対象は限定され、十人五色くらいの範囲に収まる人たちしか、恋愛したり、結婚したりすることはできないような気がする。

 でも、あの時、わたしはその‘嬉しい’という気持ちだけで色々なことを考えるのは、ちょっとどうかな、と感じた。本当は、かおるくんに、何かの返事をする義務とか、それの制限時間も別に無かったはず。でも、わたしは、かおるくんには、早く何か反応を示してあげたいと思った。

 わたしが、朝、何度もかおるくんを神社で見かけて、その表情を見ていると、ああ、この人は、何だかとても辛いことがあるんだなあ、と漠然と感じた。それは決して、ああ、この人いいなあ、とかいう、恋愛感情というようなものではなかった。

 私が、図書館で雨宿りをしているかおるくんに声をかけたのは、神社でその様子を見ていたからというのがきっかけだったことは間違いない。単に、旭屋で会っただけだったら、それまでの学校でと同じ、にこっと会釈するだけだったと思う。

 だから、何か辛いことがあるんだろうな、とわたしが思っていたかおるくんから、「好きだ」と言われたその言葉と文脈の間に、ものすごく飛躍があるような気がして、‘びっくり’した。でも、‘縁’っていうのは、まさしく、こんな気持ちとか思いの‘飛躍’みたいなものなのかな、と、思う。だから、わたしはまだ16歳だけれども、おばあちゃんが言った、「惚れた腫れたでは難しいですよ」というのが、なんとなく、分かる。よく、恋愛は理屈じゃない、みたいなことが雰囲気としてあるけれども、わたしはそれが恋愛の段階にとどまっている限りは、‘理屈’のような気がする。それがより進んで、ああ、これが実は‘縁’だったんだな、ってなった時に、それは理屈を超えたものになるんじゃないかな、って思う。

 わたしが中学生のときに、ちょっといいなあ、って思ったテレビドラマの主題歌にこんな歌詞があった。正確な歌詞はもう思い出せないけれども、歌い出しすぐに「くだらないと吐き捨てる」というようなことを言い、次の瞬間、「溢れる熱い涙が、いつかきっと輝く」というように続いた。

 その曲は、あまり有名じゃないバンドの曲だったけれど、ドラマの話題性もあり、初めてのヒット曲と言えるものになった。わたしは、‘くだらない’というような内容の言葉のあとに、‘きっと輝く’というような言葉が、本当にごく自然につながるこの曲が、とても好きだった。そのドラマのことが取り上げられた雑誌を当時立ち読みしたけれど、その曲のこの歌詞のことも取り上げられていて、「矛盾する言葉をつなげるこの感覚は、哲学的ですらある」というような解説がされていた。そして、事実、このバンドのボーカリストは、大変な読書家で、永井荷風や太宰治を愛し、森鴎外のことを曲にしたりしているとも解説されていた。

 その頃は、わたしは、なんとなく、その時にわたしが持った感覚をうまく言葉で言い表せなかったけれども、その、矛盾する物事をつなげ、飛躍を生み出すものこそが、‘縁’なのだと、ようやく整理できた。もっと、ロマンチックな人ならば、‘運命’という言い方をすることもあるのだろうけれども、わたしにとっては、なんとなく、‘縁’という言葉の方がぴったりする。

 どんなに好きあっている人たちでも、全員結婚して子供を産むわけではない。そこまで熱烈な恋愛をしなくても、自然に結婚して子供を産んで、図らずもまたその子供たちが結婚して・・・ということを繋いでいる家もある。理屈ではなく、人間ではなかなか手出しできない部分、‘縁’というのがなんとなくわたしの言葉としては合っている。

 だから、かおるくんがわたしに対して持ってくれたのが仮に恋愛感情だったとしたら、なんだか、かえって、もったいないような気がした。多分、わたしのおばあちゃんやお母さんが「学生は好きとか嫌いとかいうのはもっと後」というのは、「惚れた腫れた」に気を取られていると、それが本当に‘縁’かどうか、見分けがつかなくなるという意味もあるのだと思う。少なくとも、わたしが、かおるくんのことが気になったのは、「恋愛感情」ではなかったのだから。わたしのなんだかよく分からない、気にかかる、というその感情の結果、かおるくんの、「好きだ」という言葉を引っ張り出してしまったのだとしたら、そこにだけとらわれるのもかえって申し訳ない気がする。

 かおるくんが男だからというだけで、えんちゃんやわきさんとするような話ができなかったり、おばあちゃんやお母さんがしてくれるような話について、男の子の意見を聞く機会がないというのは、もったいないような気がする。

 だから、わたしは、「好きだ」と言われたことを素直にお母さんに報告し、でも、わたしは、何か縁があるような気がするから、彼とか彼女とかじゃなく、かおるくんと、色々な話をすることを認めてほしい、と、お母さんに自分から頼んだのだ。

 お母さんは、さすがに自分の娘のこととなると、簡単には信じられないようだったけれども、「分かった。でも、その子の顔を一回見させて」、と言ってくれた。

 それで、次の日の日曜日、電話してかおるくんに、来てもらった。

 わたしが、かおるくんのことを‘かおるくん’と呼んで、かおるくんにわたしのことを‘さつき・・・ちゃん’って呼んでもらうようにお願いしたのは、かおるくんの‘気持ち’に、ほんの少しだけ答えてあげたいと思ったから。でも、かおるくんの本当の気持ちを考えたら、いつか、やっぱりちゃんと言ってあげたい。

「好きって言ってくれて、すごく、嬉しかった」

 でも、そんなことを言うことがあるとしたら、それこそ、わきさんが言った、

「まるで、結婚するみたい」

というような状況のときだけなのかもしれないけれども。



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